当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

福山海軍水上機基地 (福山海軍航空隊 ・ 第六三一海軍航空隊)

江戸時代、徳川家康の従兄弟・水野勝成が治めた福山藩があった事で知られる、福山市鋼管町に福山海軍水上機基地がありました。

当初、航空局福山地方航空機乗員養成所、同高等航空機乗員養成所として開設されますが、後に隣接して福山海軍航空隊第六三一海軍航空隊が開設され水上機基地として拡張整備、共用されます。
福山海軍水上機基地 A 対弾受信所 南から(福山)
▲みかん畑内に遺る対弾(原文ママ)受信所

【探索日時】
平成24年5月13日





福山海軍水上機基地 概要
昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)、昭和12(1937)年7月7日、支那事變が発生、陸海軍の空中勤務者・搭乗員の教育は繁忙化するなか、逓信省は民間航空路線の滿洲、南洋諸島方面の定期航路開拓、拡大のため航空要員の大量育成が急務となったため従前の軍委託による養成を改め、昭和13(1938)年6月11日、逓信省航空局仙臺、同米子両乗員養成所を開設します。

航空局は大津野村(谷本亭太郎村長)の誘致を受け、気候・交通の便が良い廣島縣深安郡大津野村津之下(現、福山市鋼管町)の塩田・養魚池に初の水上機乗員養成所用地を選定、昭和16(1941)年3月13日、航空局は実地調査を開始します(30日まで)。
4月3日、航空局は水上飛行場設置を公表、廣島縣、大津野村の協力を得て笠岡、手城、大津野、水呑、神島各地区の漁業権放棄交渉、及び用地買収を順調に進め、11月12日、起工式を挙行し、㈱飛島組(現、飛島建設㈱)の施工、勤労奉仕隊の協力により敷地造成、施設建設を開始、昭和18(1943)年5月18日、福山地方航空機乗員養成所福山高等航空機乗員養成所を開所します。
福山地方航空機乗員養成所(福山)
▲福山高等・地方航空機乗員養成所 空撮(南東から)

昭和19(1944)年3月10日、乗員養成所内に詫間海軍航空隊福山分遣隊が開隊、海軍航空本部は西側隣接地を買収し敷地を拡張するとともに施設の増設を実施、昭和20(1945)年3月1日、詫間海軍航空隊福山分遣隊は復帰、福山海軍航空隊に改編されます。
4月2日、第六三一海軍航空隊が屋代島(周防大島)から移駐、6月1日、六三一空主力は伊號第四百、同四百一両潜水艦とともに穴水町に移駐(6月末、穴水町から原隊に復帰)します。
5月5日、福山海軍航空隊は練習機特攻隊に部署され特別攻撃隊を編成、決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、17日、停戦を向かえます。
福山海軍水上機基地 福山海軍水上機基地(福山)
▲停戦時の福山海軍水上機基地

11月1日、福山海軍水上機基地に米第41師団先遣隊10名、2日、同師団第162歩兵連隊一個大隊(ノートン大尉以下1,000名)が進駐し基地は接収されます。
3日、連合国軍最高司令官総司令部は各軍政部に『連合国軍最高司令官総司令部・高級副官部(SCAP・AG)指令第686号』、12月11日、『SCAP指令第601号』を発令、各陸軍飛行場、海軍航空基地の全面、もしくは一部を農地、塩田として転換する方針を下達し、福山海軍水上機基地の塩田としての転用が決定しますが、昭和21(1946)年3月23日、米軍に代わり、豪第34旅団第65歩兵大隊(マーサー中佐以下400名)が進駐、乗員養成所施設を解体し兵舎を新築、海軍航空隊本部庁舎は小学校校舎用資材として解体されます。

昭和24(1949)年5月、海軍航空隊跡地に広島大学水畜産学部大津野飼畜場(後、深安実験牧場)が開設されます。
昭和25(1950)年10月12日、警察予備隊大津野キャンプが開設され、豪軍に替わり警察予備隊第7連隊第2大隊(大隊長:米軍J.S.モーリス中佐以下1,000名)が駐屯、昭和27(1952)年1月、同大隊の米子駐屯地移駐に伴い、針尾駐屯地(長崎)からり第823救急病院( 9月1日、保安隊福山地区病院に、昭和28年6月30日、陸上自衛隊福山地区病院に改称)が移駐して来ます。
昭和36(1961)年9月、広島県、福山市、深安町は日本鋼管㈱製鉄所の誘致に成功、協定書に調印し県・市・町により埋立て造成が開始されます。
昭和38(1963)年4月、広大深安実験牧場は福山市御幸町の民有地と土地交換し移転したため、跡地を日本鋼管㈱が買収、昭和40(1965)年4月、日本鋼管㈱福山製鉄所が発足、昭和41(1966)年2月20日、陸上自衛隊福山地区病院は川西駐屯地(兵庫)へ移駐(日本鋼管㈱が負担)、航空隊、乗員養成所跡地全域がJFEスチール西日本製鉄所(福山地区)(平成15年、日本鋼管㈱福山製鉄所から改称)の敷地となり現在に至ります。

遺構について※青字は地図にリンクしています。
現在、福山海軍水上機基地の跡地は全域がJFEスチール西日本製鉄所(福山地区)になっています。

建物等の遺構は遺されていませんが、以下の耐弾施設・地下施設が遺ります。
福山海軍水上機基地 福山海軍水上機基地(現在)(福山)
▲現在の地図に水上機基地・遺構配置を転写
① 逓信省(通商産業省)用地
② 海軍省用地
水色部分・・・当時の海面
緑枠・・・滑走台
黄色線・・・当時の構内道路

A 対弾受信所
『福山海軍航空隊 施設目録図』(以下“目録”と略記)では「対弾」となっていますが、「耐弾」の誤りと思われます。
みかん畑の中腹にあり、農機具小屋として使用されています。
内部は幅500×奥行1,050×高さ250cm、正面入口は幅90×高さ180cm、壁厚は48cmあります。
福山海軍水上機基地 A 対弾受信所 南から (2)(福山)
▲正面側
  1枚目の写真と同じ位置ですが、所有者の許可を得て掃除させて
  もらいました。

福山海軍水上機基地 A 対弾受信所 入口上部の鉄骨とボルト(福山)
▲正面上部に庇を取り付けていた?金具が遺ります。

内部の仕上げは前部330cmは板で型枠が造られていますが、後部720cmは土盛に直接コンクリートを打設した様です。
福山海軍水上機基地 A 対弾受信所 奥から入口(福山)
▲内部の様子

福山海軍水上機基地 A 対弾受信所 手前側壁面(福山)
▲木枠打設と直にコンクリートを流した部分の境目

福山海軍水上機基地 A 対弾受信所 奥側の天井ラス(福山)
▲内部は剥落防止のため全面にラス(金網)が入れられています。

福山海軍水上機基地 A 対弾受信所 奥天井の開口部(福山)
▲突き当りの天井にある換気口兼配線取り込み口

福山海軍水上機基地 A 対弾受信所 屋根上換気塔 南東から(福山)
▲受信所上部の換気口兼配線取り込み口
当時はこの受信所の背後に送信所がありましたが、痕跡はありません。

福山海軍水上機基地 A 対弾受信所 屋根上換気塔 西側碍子(福山)
▲換気口兼配線取り込み口にある碍子

対弾受信所の前には貯水槽がありましたが空襲で破壊されてしまい、戦後に同じ場所に貯水槽が造られています。
福山海軍水上機基地 B 貯水槽(戦後) 北から(福山)

※所有者の方の許可を得て立ち入っています。春先の農繁期に行けばいらっしゃる可能性が高いと思います。


以下の遺構は全てJFEスチール西日本製鉄所(福山地区)内にあり、見学受付もしていない(確認済み)ため、通常は立入りできません。
ただし、年に1度、5月初旬に開催される企業祭り「JFEフェスタinふくやま」の際に水上機基地跡全域が一般開放されるので、この1日だけは自由に探索できます。

が、かなりの人出の中で林の中に入ったり、斜面を登ったりするのは結構な勇気が入ります(^_^;)

あ 集水桝
JFEスチール西日本製鉄所(福山地区)(以下、“JFE”と略記)内に遺ります。
当時の物か不明です。
福山海軍水上機基地 あ 配水升(福山)


い 正門門柱
JFEグラウンドの入口に遺り、いつでも見学可能です。
JFEグラウンド造成時の盛り土でかなり低くなっており、間隔が開き過ぎている事から元々は4本ないし3本あった物の両側袖門の門柱かも知れません。
福山海軍水上機基地 い 隊門門柱 南から(福山)
▲正門全景

福山海軍水上機基地 い 隊門門柱(西側) 南東から(福山)
▲向かって右側(西側)の門柱
  石組みが一部崩れていますが、概ね状態は良好です。

福山海軍水上機基地 い 隊門門柱(東側) 南西から(福山)
▲向かって左側(東側)の門柱

福山海軍水上機基地 い 隊門門柱(東側) 門札金具(福山)
▲向かって左側の門柱に遺る門札を掛ける金具

福山海軍水上機基地 い 隊門門柱(東側) 北面の金具(国旗掲揚金具?)(福山)
▲同じく国旗を掲揚・固定する金具

福山海軍水上機基地 航空隊跡 全景(福山)
▲正門跡から見た兵舎地区跡
  この一帯は福山海軍航空隊が移駐後に海軍省により拡張され、
  航空隊本部、兵舎、病舎などが並んでいました。


地下壕 (以下、特に記述しない場合は全てJFE内に遺ります
ア 居住隧道
駐車場の奥の林の中にあり、内部は水没していて入れません。
福山海軍水上機基地 ア 壕口(福山)
▲壕口

福山海軍水上機基地 ア 内部(福山)
▲内部
  奥行きは10m程でしょうか。


イ 火工兵器庫
駐車場の脇にあり、すぐに見えます。
入口は金網で閉鎖されており入れません。
当時は火工兵器(信管類)の他、陸戦兵器(小銃弾薬包、手榴弾)、発火装置(弾頭発火装置)が格納されていた様です。
福山海軍水上機基地 イ 火工兵器庫(福山)
▲正面

福山海軍水上機基地 イ 火工兵器庫 内部(福山)
▲内部は二重扉になっており、ごっつい蝶番が遺されています。
  コンデジを忘れレンズ径の大きいイチデジで撮影したので見づらいです・・・

福山海軍水上機基地 格納庫地区 南から(福山)
▲現在駐車場になっている辺りに当時は格納庫が3棟ありましたが、
  痕跡すら遺っていません。


ウ 居住隧道
JFE内に遺ります。
駐車場の奥の茂みの中にあり、水没していて入れません。
『目録』ではコの字型をしており、位置からエに繋がっている様です。
福山海軍水上機基地 ウ 壕口 (2)(福山)
▲壕口は崩落が進み狭くなっています。

福山海軍水上機基地 ウ 内部(福山)
▲内部


エ 居住隧道
入口がやや崩落しており斜面上に壕口がありますが、金網で閉鎖されており入れません。
『目録』ではコの字型をしており、位置からウに繋がっている様です。
福山海軍水上機基地 エ 壕口(福山)


オ 居住隧道
崩落しており、斜面が溝状になっています。
福山海軍水上機基地 オ 崩落跡(福山)


カ 居住隧道
崩落しており、斜面が溝状になっています。
福山海軍水上機基地 カ 崩落跡(福山)


キ・ク 居住隧道
造成により痕跡すら遺っていません。


ケ 隧道
用途不明隧道ですが、造成により痕跡すら遺っていません。


コ 居住隧道
入口がやや崩落しており斜面上に壕口があり、入口が狭くなっていますが当地に遺る隧道で、唯一進入可能です。
福山海軍水上機基地 コ 壕口(福山)
▲壕口

福山海軍水上機基地 コ 内部(福山)
▲内部


サ 居住隧道
入口がやや崩落しており斜面上に壕口がありますが、金網で閉鎖されており入れません。
福山海軍水上機基地 サ 壕口(福山)


シ・ス 燃料庫
造成により痕跡すら遺っていません。


セ 燃料庫
当時は3本並んでいた様ですが、手前2本は造成により痕跡すら遺っておらす、奥の1本は崩落して斜面が溝状になっています。


ソ 通信隧道
造成により痕跡すら遺っていません。


タ 士官用居住隧道
グラウンド横の茂みの中にあり、コンクリート製です。
残念ながらグラウンド造成時の埋立てにより入口を遺し殆どが埋められており全く入れません。
『目録』ではコの字型をしており、チの入口があった様ですが、埋められてしまった様です。
福山海軍水上機基地 タ 壕口 (2)(福山)
▲残存部全体
  出入口と本体の一部(左側奥)が遺ります。

入口は幅250cm、天板の厚さ80cm、横の厚さ95cmあり、かなり強固だった事が分かります。
福山海軍水上機基地 タ 壕口(福山)
▲出入口の近影

福山海軍水上機基地 タ 内部(福山)
▲内部は完全に埋まっています。


ツ・テ 居住隧道
JFEの建設時、この辺りの斜面を削り海面の埋立てに使ったため、根こそぎ破壊され痕跡すら遺っていません。


ト 居住隧道

落石防止フェンスの内側に壕口の痕跡が遺ります。
殆ど崩落しており進入できません。
福山海軍水上機基地 ト 壕口(福山)


ナ・ニ 居住隧道
道路脇の茂みの中に崩落した様な痕跡が遺ります。


ヌ 器材格納隧道
造成により痕跡すら遺っていません。


所在部隊
航空局福山地方航空機乗員養成所 ・ 同高等航空機乗員養成所
大正9(1920)年8月1日、軍事を除いた航空事業の指導・奨励・保護・監督、及び航空に関する取締り、施設に関する事務を管掌する航空局(勅令第二百二十四號『航空局官制』)が陸軍省の外局として発足します。

大正9(1920)年10月15日、『航空機操縦生採用規則』が公布、次いで『第一期航空機操縦生志願心得』が発表され、大正10(1921)年1月、所澤陸軍航空學校に委託し第一期操縦生10名の養成が開始されます。
大正11(1922)年4月1日、航空局は陸軍省から逓信省の内局として移管され、12月、海軍委託生制度が発足し、霞ヶ浦海軍航空隊に委託し海軍委託第一期操縦生5名の養成が開始されます。

昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)、昭和12(1937)年7月7日、支那事變が発生、陸海軍の空中勤務者・搭乗員の教育は繁忙化するなか、逓信省は民間航空路線の滿洲、南洋諸島方面の定期航路開拓、拡大のため航空要員の大量育成が急務となったため従前の軍委託による養成を改め自前の養成所の設立を計画します。

第73回帝國議會(昭和12年12月26日~昭和13年3月26日)において『民間航空機ノ乗員養成所ヲ目的トスル逓信省航空局航空乗員養成所施設新設及教育ニ關スル豫算』が成立、昭和13(1938)年2月1日、『航空局官制』(勅令第五十六號)が公布され、6月11日、航空局仙臺、同米子両乗員養成所を開設し計20名が入所します。

昭和18(1943)年5月18日、深安郡大津野村に18ヶ所目、初の水上機乗員養成所として福山地方航空機乗員養成所(堤正夫大佐)が開設され第十三期操縦生69名が入所(昭和19年1月卒業)、2ヶ所目の高等航空機乗員養成所として福山高等航空機乗員養成所(長は同上)が開設され第四期生10名(福山普通科第一期生)が入所(昭和19年3月卒業)します。

地方航空機乗員養成所は中學校3年修了、または卒業生が受験し1年修業の「操縦生」、國民學校卒業生が受験し5年修業の「本科生」の養成(ともに卒業後は二等操縦士・航空士・滑空士の免許を取得、軍籍に入り6ヶ月軍用輸送機による訓練を経て陸軍伍長・海軍一等飛行兵曹として予備役除隊、高等乗員養成所、民間航空会社、地方航空機乗員養成所助教に進む)を、高等航空機乗員養成所は地方航空機乗員養成所卒業生が1年修業の「普通科」、2年修業の「高等科」(ともに一等免許取得、軍籍に進む際は士官候補生)の養成を行いました。

11月1日、航空局は新設された運輸通信省の内局になります。

昭和19(1944)年4月15日、本科六期生97名が入所、7月26日、福山在籍の航空局生徒は海軍豫備練習生に改称、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』の煥発を受け各航空機乗員養成所は学業を停止、10月、就学中の本科六期生は二年生で繰上げ修了します。
12月28日、運輸省令第四十六號により『地方航空機乗員養成所規則』、同第四十七號により『高等航空機乗員養成所規則』が廃止され、12月31日、勅令第七百三十四號により『航空機乗員養成所官制』が廃止され航空局航空機乗員養成所は廃止されました。


福山海軍航空隊
昭和19(1944)年3月10日、福山高等・地方航空機乗員養成所内において、詫間海軍航空隊福山分遣隊(堤正夫大佐兼務)が開隊し、7月25日、第三十九期飛行練習生(甲飛十三期前期)49名が美保空より、9月21日、第四十一飛練(甲飛十三後期)67名が土浦空より入隊、錬成を開始します。
昭和20(1945)年2月1日、飛練生の飛行訓練は停止、5日、飛練四十二期(甲飛十三期)79名が三重空奈良分遣隊から入隊して来ます。
16日、第十二聯合航空隊司令官・原忠一少将は練習聯合航空總隊司令官・松永貞市中将より、18日以降の教育訓練の中止と4月末までに特攻要員の訓練修了、及び福山分遣隊の教官要員半分、豫備學生の最上級者から50名の特攻要員の選抜・錬成を下令され、特別錬成隊、特攻機40機を編成(3月1日より錬成開始)します。

3月1日、詫間海軍航空隊福山分遣隊は福山海軍航空隊に改編、第十二聯合航空隊(第十航空艦隊麾下)に編入され練習航空隊に指定、第八基地航空部隊(第十航空艦隊)第十二聯合航空隊に部署、水上練習機、水上偵察機で操縦教育にあたります。

17日、天一號作戰要領が発令され第八基地航空部隊は錬成迎撃作戦を下令されたため、十航艦司令長官・前田稔中将は指揮下の作戦可能戦力を鈴鹿山脈以西のものは第一機動基地航空部隊指揮官(五航艦司令長官・宇垣纏中将)の作戦指揮下に編入、21日、福山空水偵隊は第一機動基地航空部隊第十二聯空部隊福山部隊に部署され、20機を1隊とした特攻部隊の編成を下令されます。

19日、福山海軍水上機基地は米第58任務部隊の艦載機による初空襲を受けます(以降、7月2日、第39任務部隊、24日、第38任務部隊、25日、同の空襲を受けます)。

29日、隊の零式水上観測機(機数不明)は索敵攻撃のため天草海軍水上機基地に前進待命します。

4月1日、司令兼副長・堤大佐は舞鶴鎭守府附に転出、軍令部第三部兼海大教官から渡名喜守定大佐が着任、飛練三十九期は飛練教程を卒業し、5月1日、二飛曹に任官します。
福山空(士官・下士官)渡名喜大佐(福山)
▲渡名喜大佐(前列中央)と士官・下士官

18日、神風特別攻撃隊「琴平水偵隊」編成(零観)、加藤重信一飛曹以下は天草海軍水上機基地に前進待命します。
琴平水偵隊(福山)
▲福山海軍航空隊において編成された
  神風特別攻撃隊「琴平水偵隊」

28日、隊の零式観測機1機は指宿海軍水上機基地を経由し敵機動部隊の索敵攻撃に発進します。
5月5日、第十二聯合航空隊は復帰、新編された第十二航空戰隊麾下に編入され、第一基地航空部隊(五航艦)練習機特攻隊に部署され特攻隊機のため、飛練四十一期生は霞空に転隊します。
20日、神風特別攻撃隊「琴平水偵隊」伊東二飛曹以下が天草に前進、先発隊と合流し待命しますが出撃命令は無く、6月3日、福山に帰隊します。

6日、海軍總隊司令部(小澤治三郎中将、神奈川)は決號作戰(本土決戦)に際し、練習機特攻隊の第一配備を九州南部、第二配備を四国沿岸に展開配備する事を定め、また作戦に向け戦力の温存を下令します。
同日、隊の零式水偵4機が九州南東の夜間索敵に出撃しますが、天候不良のため引き返し、7日、零式水偵2機、8日、同3機が本土東方海上、22日、同2機が東シナ海の索敵哨戒に出撃しますが、会敵無く帰還します。

24日、神風特別攻撃隊「琴平水偵隊」は再度、天草に移駐、次いで指宿海軍水上機基地に前進します。
琴平水偵隊壮行会(福山)
▲福山における琴平水偵隊の出陣壮行会

福山から出撃する琴平水偵隊(福山)
▲列線待機する琴平水偵隊の零式水上観測機

福山を出発する琴平水偵隊(福山)
▲戦友の見送りを受け天草に向かう琴平水偵隊

25日、第十二航空戰隊電令作第四十五號別紙により出撃下令、2010、十五号機(椎根正中尉・久次勝美一飛曹)、二十三号機(小酒悟郎二飛曹)は25番1発を懸吊し指宿を発進、0106、沖縄西方海上にて敵艦隊を発見、0110、編隊を分離、0122、突入散華します。
琴平水偵隊(隊長・椎根中尉手前出撃)指宿(福山)
▲指宿基地隊員総出の見送りを受け沖縄に出撃する琴平水偵隊
手前は二十三号機(小酒二飛曹搭乗)

2130、十二号機(宮本博二二飛曹・三好渡少尉)、二十一号機(杉田巽二飛曹)は25番1発を懸吊し指宿を発進、0030、天候不良のため十二号機は口永良部島南方において指宿に引き返しますが、二十一号機は臥蛇島付近で十二号機と分離し機位を失ってしまい2230、古仁屋海軍水上機基地に着水、当基地において燃料を補給、0115、古仁屋を発進、単機にて沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華します。

2210、十八号機(加藤重信一飛曹)、三十九号機(高口一雄二飛曹)は25番1発を懸吊し指宿を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華します。

2215、九号機(竹安末雄上飛曹・中村毅二飛曹)、三十六号機(佃辰夫二飛曹)は25番1発を懸吊し指宿を発進、九号機は臥蛇島付近において敵機の邀撃を受け回避、燃料欠乏のため0200、古仁屋に着水し燃料を補給、0300、古仁屋を発進しますが徳之島付近でまたも敵機の邀撃を受け0400、古仁屋に引き返し、三十六号機は沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華します。

27日、2210、九号機は25番1発を懸吊し古仁屋を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華します。

8月6日、米軍により広島市に原子爆弾が投下され広島市街は壊滅、通信線が寸断されたため呉鎭守府の被害状況を福山空を経由し有線により海軍省に伝達します。

10日、任務を完遂した椎根正中尉、久次勝美一飛曹、小酒悟郎二飛曹、杉田巽二飛曹、加藤重信一飛曹、高口一雄二飛曹、竹安末雄上飛曹、中村毅二飛曹、佃辰夫二飛曹は2階級特進し、聯合艦隊司令長官・小澤治三郎中将により全軍に布告(聯合艦隊告示第百九十九號)されます。

8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、17日、来隊した呉鎭守府司令長官・金澤正夫中将により停戦、残務整理を伝達されます。


第六三一海軍航空隊
第一潜水戰隊

昭和16(1941)年12月8日、聯合艦隊は布哇海戰(真珠湾攻撃)において米太平洋艦隊、10日、マレー沖海戰において英東洋艦隊を撃滅し第二段作戦構想に着手するとともに、長期的持久戦が不可能な事から、聯合艦隊司令長官・山本五十六大将は米国民の戦意喪失を企図し潜水空母による米本土攻撃を構想し、24日(~翌年1月の間)、先任参謀・黒島龜人大佐に「潜水空母構想」の検討、及び推進を命じます。
同構想は軍令部(永野修身大将)に伝達され、第二部(鈴木義尾少将)で作戦部作戦課潜水艦主務参謀・有泉龍之介中佐等が検討の後、昭和17(1942)年1月13日、艦政本部(第七部:潜水艦担当、高須三二郎中将)に送達され検討の結果、実現可能と判断され、4月27日、軍令部次長・伊東整一中将より艦政本部に母艦、海軍航空本部に攻撃機の性能要求が指示されます。

6月21・22日、ミッドウェー海戰において空母4隻、艦載機、搭乗員の多数を喪失した聯合艦隊司令部は爾後の軍備計画会議を開催し、6月30日、進行中の⑤(5は漢数字)計畫を改め改⑤計畫を策定、潜特型18隻の建造に着手します。

昭和18(1943)年5月、変転する戦局、資材・労働力の低下、戦訓より潜特型の建造は10隻(9隻説あり)に、10月、さらに建造中、及び鋼材手配中の5隻に減じられます。

8月、ラバウルの前線視察に赴いた軍令部第一課(作戦)長・山本親雄大佐、潜水艦主務参謀・藤森康男少佐は増大する航空戦力の損耗を抑止し、爾後の海上決戦戦力を確保すべく、米国の補給線を遮断すべく以前から海軍内にあったパナマ運河攻撃構想を立案し、使用戦力として建造中の潜特型(伊號第四百型2隻)、及び甲型(伊號第十三型2隻)を改造(昭和19年2月改装着手)し、開発中の攻撃機10機充当を計画します。
同計画は軍令部第一部(作戦)長・中澤佑少将、第二部(軍備)長・黒島龜人少将の承認を得て、9月、指揮官に有泉龍之介大佐が内定、10月9日、インド洋において伊八(以下同様に略記)艦長として通商破壊戦にあたっていた有泉大佐は横須賀に上陸し軍令部に出頭、藤森少佐からパナマ運河攻撃作戦構想、戦力の現状、及び研修資料を引き継ぎます。
伊四百一(昭和20年9月15日 横須賀)(福山)
▲パナマ運河攻撃に使用が決まった伊四百型潜水艦
  (写真は20年9月15日、横須賀における伊四百一)

伊十四(昭和20年8月27日 横須賀)(福山)
▲同じく伊十三型
  (写真は20年8月27日、横須賀における伊十四)

晴嵐(福山)
▲特殊攻撃機「晴嵐」

昭和19(1944)年11月1日、横須賀海軍航空隊において第六三一海軍航空隊(潜特型潜水艦搭載用特殊攻撃機の航空隊)の編成着手、晴嵐の製作遅れから零式小型水偵2機、隣接する六三四空の余剰瑞雲2機で錬成を開始します。
25日、晴嵐1、27日、同1機が空輸到着、零式小型水偵2機を返納、航空隊編成とともに瑞雲2機を借受けます。

12月15日、呉鎭守府の常設航空隊として横須賀海軍航空隊水上機班において第六三一海軍航空隊が編成、司令に有泉大佐が補職され、原駐地を呉に指定されます。
六三一空准士官以上(福山・昭和20年5月)(福山)
▲福山における六三一空の准士官以上(昭和20年5月)
  前列中央の髭の人物が有泉龍之介大佐

隊は第六艦隊(三輪茂義中将、呉)に付属し、先遣部隊(第六艦隊)第十一潜水部隊(第十一潜水戰隊)に編入され、母艦との錬成を下令されます。
20日、六三一空は鹿島海軍水上機基地に移駐します。

12月20日、軍令部は既存の潜水隊編制を改編し、第一潜水隊を新編(伊十三(大橋勝夫中佐)、伊四百(日下敏夫中佐))し、第六艦隊に編入します。
31日、第一潜水隊は先遣部隊第十一潜水部隊に編入され瀬戸内海西部において訓練を下令され、伊予灘において錬成に入ります。

昭和20(1945)年1月1日、六三一空司令・有泉大佐が第一潜水隊司令(兼務)に補職され、伊四百を司令潜水艦に指定、8日、佐世保海軍工廠において竣工した伊四百一(南部伸清少佐)が第一潜水隊に編入、司令潜水艦を伊四百一に変更するとともに、12日、有泉大佐は佐藤次男予中尉(通信)にパナマ運河の資料収集を命じます。
18日、伊十三は第二艦隊司令長官(伊藤整一中将、「大和」)の指揮下に同艦隊の対潜訓練に協力します。
23日、六三一空は鹿島を出発、呉海軍航空基地に移駐、晴嵐5、瑞雲6により錬成を開始しますが呉は山が迫り空域が狭く高速機の訓練には不向きでした。

2月16日、第六艦隊参謀長・佐々木半九少将は第十一潜水戰隊司令官・仁科宏造少将(「長鯨」)に対し、頻発する敵機の来襲による現警戒状況を鑑み訓練を中止し、伊四百一へ完成した晴嵐の搭載を指示しますが、有泉大佐は伊四百を指定し、17日、伊四百は広に入港し、晴嵐を搭載し、引き続き錬成に従事します。

3月4日、飛行長・福永正義少佐、分隊長・淺村敦大尉は訓練敵地を探索の結果、屋代島(周防大島)和佐海岸を選定、基地要員は周辺民家を間借り、5日、六三一空本部は呉から屋代島の特設水上機基地に移転(晴嵐約10機)、5日、第一潜水隊は先遣部隊第一潜水隊に編入、第六艦隊司令長官の指揮下に入り、引き続き六三一空との錬成を下令されます。

14日、伊十四(清水鶴造中佐)が川崎重工業㈱神戸造船所において竣工、15日、先遣部隊(第六艦隊)第十一潜水部隊(第十一潜水戰隊)に編入され瀬戸内海西部において錬成にあたり、18日、広沖において呉所在の稼働可能な晴嵐1機を搭載、24日、八島泊地において第十一水雷戰隊(高間完少将、「酒匂」)に対し襲撃訓練を実施、4月1日、先遣部隊第一潜水隊に編入、第六艦隊司令長官の指揮下に入り、六三一空との錬成を下令され、呉潜水艦基地隊本部において有泉大佐、第六艦隊先任参謀・井浦祥二郎大佐、軍令部第五課・實松譲大佐、第一潜水隊、六三一空両幹部が会合しパナマ運河攻撃の図上演習が行われます。
2日、六三一空は砂浜のため巻き上がる砂塵が発動機に入り訓練に支障をきたしていた和佐から、本部を福山海軍水上機基地に移転します。

11日、伊四百一は呉郊外で座礁するも離礁に成功、12日、伊予灘・姫島灯台北北西750m地点において米軍敷設の機雷に触雷し損傷、呉海軍工廠において入渠修理にあたり、15日、伊四百は天一號作戰(第二艦隊の沖縄突入)による燃料不足から門司港を経由し、20日、大連に到着、燃料を搭載し、27日、呉に帰還します。

5月16日、伊四百一は呉において彩雲3機、20日、伊四百は晴嵐3機を搭載し戦備作業にあたり、27日、伊十三・伊十四は瀬戸内海西部を出航、28日、鎮海において、燃料を搭載し、6月1日、敵機による投下機雷群により危険水域と化した瀬戸内海から七尾湾に到着、4日、伊四百一、5日、伊四百が七尾湾に到着、錬成にあたります。
伊四百一(昭和20年6月 七尾湾)(福山)
▲七尾湾において六三一空と錬成にあたる伊四百一(昭和20年6月)

5月末、六三一空は一部を福山に残置し穴水町(乙ヶ島、鵜島)の民家を間借りし特設陸上基地とし移転、晴嵐は舞鶴海軍水上機基地に移駐、6月6日、穴水湾に舞鶴海軍工廠において製造されたパナマ運河閘門の模型を浮かべ、第一潜水隊・六三一空の合同訓練を開始しますが、晴嵐の故障・事故が続出、さらに日本海側にも敵機による機雷敷設が行われ訓練に支障が出ます。

6月初旬、軍令部において行われた定例戦況報告に際し、軍令部次長・大西瀧治郎中将により第一潜水隊によるパナマ運河攻撃は時間が掛かり過ぎるとして中止されたため、有泉大佐は井浦大佐と協議の結果、サンフランシスコもしくはロサンゼルスの空襲を立案しますが、12日、軍令部は逼迫する戦局に鑑み、確実性のある第一潜水隊によるウルシー泊地攻撃を策定します。
ウルシー泊地攻撃の準備開始とともに、六三一空主力は穴水から福山に復帰します。

20日、伊十三・伊十四は七尾湾を出航、22日、舞鶴海軍工廠に到着し、出撃準備を実施、25日、海軍總隊電令作第九十五號により「光作戰」(伊十三・伊十四によるトラック島への彩雲4機の輸送)、「嵐作戰」(伊四百・伊四百一、及び晴嵐6機によるPU(ウルシー)奇襲)、及び次期作戦準備(六三一空による晴嵐10機の香港空輸、両作戦終了後の第一潜水隊により香港から昭南島(シンガポール)への晴嵐、乗員輸送)が下令されます(8月4日、次期作戦は第二次嵐作戰(ウルシー泊地の再攻撃)として下令)。

7月2日、伊十三・伊十四は舞鶴を出航、4日、大湊要港部に入港、彩雲各2機を分解搭載し出撃準備にあたりますが、9日、伊十四で油系加熱事故が発生し修理のため、11日、伊十三は第一潜望鏡に「非理法權天」の幟を掲揚し、家族らの見送りを受け単独で大湊を出撃しマリアナ諸島東方を経由しトラックに向かいますが、到着予定日の20日までにトラック島に到着せず、8月1日、中部太平洋において喪失、艦長・大橋勝夫中佐以下140名は散華と認定されます。
(米軍記録によると、16日、小笠原北東方北緯34度28分、東経150度55分地点において米護衛空母「アンツィオ」艦載機、さらに護衛駆逐艦「ローレンス・C・テイラー」の攻撃を受け撃沈されたとされていますが、伊十三の予定航路と異なる。)

13日、伊四百、伊四百一は七尾湾を出航し舞鶴に入港、出撃準備にあたります。

18日、伊十四は同じく第一潜望鏡に「非理法權天」の幟を掲揚し、家族らの見送りを受け大湊を出撃します。

19日、第六艦隊司令長官・醍醐忠重中将、先任参謀・井浦大佐、通信参謀・坂本文一中佐が出席し、舞鶴市内の旅館「白糸」において晴嵐搭乗員(飛行長・淺村敦大尉以下6名)の壮行会が挙行されます。
淺村敦大尉(六三一空)(福山)
▲神龍特別攻撃隊隊長に任命された淺村敦大尉

20日、伊四百、伊四百一、及び六三一空は「神龍特別攻撃隊」(司令・有泉龍之介大佐の名前から命名)に編入、ウルシー泊地に停泊中の敵艦隊に対し晴嵐による特攻作戦を下令され、短波無線檣に「大日本者神國也」の幟を掲揚し、家族らの見送りを受け舞鶴を出航、21日、大湊に入港、伊四百、伊四百一は生鮮食料品の搭載と主砲の実弾射撃演習を実施、六三一空は晴嵐の塗替え(機体を銀色に塗装、米軍の国籍章を記入)、23日(22・24・26日説あり)1400、伊四百、1600、伊四百一が夫々出撃します。
同日2015、伊四百一は北海道汐音の陸軍沿岸砲台より誤射を受けますが、急速潜航し被害はありませんでしたが、南下するにつれ米軍艦載機を多数探知したため、伊四百に会合点変更を発信し予定航路を変更、マーシャル諸島東側を迂回する航路を採ります。

24日、伊四百二が佐世保海軍工廠において竣工、第一潜水隊に編入(先遣部隊第十一潜水部隊)され、瀬戸内海西部において錬成を開始します。

30日、伊十四はブラウン環礁-サイパン島線上(50海里航路帯)において米艦隊と遭遇、44時間に渡る執拗な制圧攻撃を突破し、8月4日、トラックに入港、彩雲を揚陸、5日、伊四百は潜行中に配電盤から火災が発生しますが戦闘航行に支障は無く航海を続けます。
14日日没30分後、伊四百一はポナペ島南方100海里の第一会合点で浮上するも伊四百を発見できず潜航しますが、12日頃より外信傍受班(今井俊雄中尉)は敵のラジオ放送傍受中にわが国の降伏に関する文言を受信します。

14日、伊四百はウルシー南方海域に前進し伊四百一との会合点で浮上、伊四百一から発信される予定の見方識別電波の受信態勢を採りますが受信できなかったため再び潜航します。

15日、伊四百一は再び日没30分後に浮上するもまたもや会合できなかったため、単艦第二会合点のウルシー南方海域に前進するも、1200、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を断片的に受信します。

六三一空は福山海軍水上機基地、伊十四はトラック島において『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、第六艦隊司令部は第二次嵐作戰の中止を下令、伊十四に横須賀への帰投を下令します。

伊四百一、伊四百両艦は会合できないまま嵐作戰を続行、17日未明に予定された攻撃準備中、16日2100、第六艦隊司令長官・醍醐中将からの作戦の中止と呉帰投を受信、北上を開始します。

17日、伊十四はトラック島を出航します。

25日、六三一空に復員が下令されます。

26日、海軍總隊司令部より武器の投棄と檣頭に黒球・黒色三角旗(降伏旗)の掲揚が指令されたため、第一潜水隊各艦は黒色三角旗を掲揚するとともに、兵器、弾薬、重要書類を海中に投棄、伊四百一では晴嵐を塗装し直し射出機により発艦投棄、最後の1機は有泉大佐の音頭で万歳三唱のなか射出され、伊四百ではデリックで吊り上げ海中投棄、最後に魚雷を塞止弁を閉鎖したまま発射し処分します。

27日、伊十四は東京の北東227海里において米駆逐艦バンガスト、同マーレイにより補足され軍艦旗を降下、星条旗に替えられ、28日、横須賀に入港、米軍に接収されます。

29日、伊四百は東京の北東500海里において米駆逐艦ブルーに補足され軍艦旗を降下、星条旗に替えられ、30日、横須賀に入港、米軍に接収されます。

29日0000、伊四百一は三陸沖において米潜水艦セグンドに補足され横須賀に向かい、30日、米軍より31日0500に軍艦旗降下を命じられたため、31日0420、有泉大佐は第三種軍装に帯勲し、真珠湾の九軍神の写真の前に軍刀を置き、海軍、艦長、家族への遺書を左側に並べ拳銃で自決、亡骸は米軍監視を抜けて艦長・南部少佐らにより密かに水葬され、31日、伊四百一は横須賀に入港、米軍に接収されます。
有泉龍之介大佐(福山)
▲第一潜水隊・六三一空司令 有泉龍之介大佐(海兵51)
  酒豪で豪放磊落、決して弱音を吐かない剛毅な反面、
  作戦や航海計画は繊細緻密、公務には非常に厳格でしたが
  性格は温厚で面倒見が良かったと言われます。

9月2日、第一潜水隊は復帰、乗員は復員を開始、15日、呉鎭守府、横須賀鎭守府在籍の帝國潜水艦籍が除外されます。


主要参考文献
『福山海軍航空隊第三十九期飛行(水上機操縦専修)練習生』 (平成7年6月 福山空三九期会)

『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧 (二)』 (平成21年4月 渡辺博史)

『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧 (三)』 (平成21年5月 渡辺博史)

『平和を求めて』 (平成26年3月 福山市人権平和資料館出版)

『日本海軍潜水艦部隊の記録 鉄の棺(資料編3上)』 (平成17年5月 渡辺博史 ニュータイプ)

『日本海軍潜水艦部隊の記録 鉄の棺(資料編3下)』 (平成17年5月 渡辺博史 ニュータイプ)

『幻の潜水空母』 (平成13年7月 佐藤次男 光人社)
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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