当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第四十一聯隊

北側の城壁が鉄板張りだった事で知られる福山城が所在する広島県福山市に歩兵第四十一聯隊がありました。
また、隣接して福山陸軍病院福山陸軍練兵場がありました。

兵営では後に歩兵第二百三十二聯隊第六十五獨立歩兵團司令部歩兵第百四十一聯隊船舶砲兵第一聯隊船舶機關砲第一聯隊が編成されます。
歩兵第四十一聯隊 ①イ 西門(移築) 西から(福山)
▲JA福山市に移設されている西門門柱

【探索日時】
平成24年5月13日

【改訂情報】
平成29年1月15日 
西門門柱の移築、陸軍病院の門柱を追加しました。





歩兵第四十一聯隊 関連諸施設配置
陸地測量部(明治43測図・大正14修正)(福山)
▲『大日本帝国陸地測量部地形図50福山近傍』(明治43測図・大正14修正)

歩兵第四十一聯隊(現在)全体(福山)
▲現在の地図に範囲を転写

① 歩兵第四十一聯隊 兵営
② 福山陸軍病院
③ 福山陸軍練兵場

④ 福山聯隊區司令部
⑤ 福山憲兵分隊
⑥ 福山陸軍射撃場
⑦ 福山歩兵作業場(福山陸軍練兵場)
⑧ 福山陸軍墓地
※緑文字が当記事の紹介施設


遺構について ※青字は地図にリンクしています
(数字、アルファベット等の遺構配置は上掲地図参照)
① 歩兵第四十一聯隊 兵営
明治三十七八年戰役(日露戦争)後、ロシアが着々と極東の兵備強化を推進するなか、明治39(1906)年、我が陸軍は安全保障の観点から、2個師團(第十七、第十八師團)の増設を決定します。
新設師團設置の情報を得た廣島縣深安郡福山町(現、福山市)では商工業の進展、町勢の隆盛を図るべく岡田吉顕・元深安郡長、青木研蔵・福山町長、福山町會・大久保末男議員、同・上野久之助議員らが中心となり聯隊誘致期成同盟會(岡田吉顕会長)を結成し聯隊の誘致を開始するとともに、用地買収資金の寄付を募ります。

明治40(1907)年9月17日、陸軍省は『陸軍管區表』・『陸軍常備團隊配備表』を改正、第十七・第十八師團の新設及び編合を定め、第五師團(広島)隷下で広島に衛戍していた歩兵第四十一聯隊の新設第十七師團への隷属転移を決定し、福山町への衛戍が決定します。
福山町は3ヶ所の候補地から地盤が安定しており水はけが良く、且つ地価の最も安価な野上村の140年前の干拓地に選定し兵営、練兵場、衛戍病院、射撃場、作業場、聯隊區司令部、憲兵分隊、埋葬地用地を買収し陸軍省に献納、臨時陸軍建築部廣島支部の指揮・監督のもと施設建設が開始されます。

明治41(1908)年7月、福山町の新兵営が竣工、16日、歩兵第四十一聯隊が移駐作業を開始、20日、広島から福山に転営が完了します。
歩兵第四十一聯隊 歩兵第四十一聯隊 営門(福山)
▲歩兵第四十一聯隊 営門

歩兵第四十一聯隊 ①営門跡付近(福山)
▲現在の営門付近(緑町公園入口)
  営門門柱は昭和47(1972)年7月、赤坂遊園(遊園地)の開園に伴い
  園内に開館した「福山聯隊記念館」に移設されましたが、平成3(1991)年4月、
  同園の閉園、分乗住宅地化に伴い破壊、記念館の史料も散逸してしまいました。

昭和12(1937)年7月28日、歩兵第四十一聯隊の支那事変出征に際し同聯隊留守隊が編成、昭和14(1939)年8月10日、留守隊において歩兵第二百三十二聯隊が編成され北支に出征、昭和15(1940)年7月1日、歩兵第四十一聯隊留守隊は同聯隊補充隊に改称、昭和16(1941)年8月5日、歩兵第四十一聯隊補充隊は歩兵第百四十一聯隊に改編され、11月13日、同聯隊は比島に出征、歩兵第百四十一聯隊補充隊が編成されます。
昭和20(1945)年2月1日?、歩兵第百四十一聯隊補充隊は復帰、3月20日、船舶砲兵第一聯隊が宇品から福山に移駐、3月25日、同聯隊において船舶機關砲第一聯隊が編成され、8月8日2225、米B29爆撃機91機が福山市に来襲し兵営の一部が焼失、両聯隊は決號作戰(本土決戦)準備中の15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

11月1日、福山海軍水上機基地に米第41師団が進駐を開始、(兵営も接収されたと思われますが資料が無く不明。他の軍施設同様「接収→大蔵省→市・民間売却」の経緯を辿ったと思われます。)兵営には空襲により焼失した市役所を始め官公庁、学校が仮移転して来、兵舎2棟、食堂が国立福山病院(旧陸軍病院)に貸与されますが、戦災復興とともに拘置所以外は随時転出、昭和24(1949)年5月31日、広島大学発足に伴い教育学部安浦分校福山教場(昭和25年5月、教育学部福山分校に改称)が開場、平成元(1989)年9月30日、教育学部は東広島へ移転、兵営西側に厚生年金健康福祉センター(平成22年3月、閉鎖され商業施設に)、東側は緑町公園と屋内プールが建設され現在に至ります。

歩兵第四十一聯隊は後述しますが北清事変を始め日露戦役、支那事変においては北支・中支・南支で戦い、次いで北部仏印進駐、大東亜戦争においては初戦のマレー、シンガポール攻略、次いでバターン半島、ミンダナオ島攻略に参加の後、ポートモレスビー攻略で大損害を受け、遂にレイテ島で玉砕を迎えるなど大東亜戦争の殆どの戦域で戦った輝かしい戦歴を誇りますが、その偉業を偲ぶ物は残念ながら殆ど遺されていません。
歩兵第四十一聯隊(現在)(福山)
▲遺構の配置

ア 将校集会所門柱
元の位置から南東に150mほど移設されていますが、兵営跡に唯一遺る聯隊の遺構です。
現在は煉瓦門柱部分だけが遺されており、資料によると笠石は個人が所蔵しているらしいですが詳細は不明です。
歩兵第四十一聯隊 ①ア 将校集会所 門柱 南東から(福山)

歩兵第四十一聯隊 ①ア 将校集会所 門柱 南西から(福山)
▲門柱に塀の跡が遺っています。

歩兵第四十一聯隊 ①ア 将校集会所 門柱(北東側)  南東から(福山)
▲蝶番が遺っています。

歩兵第四十一聯隊 ①ア 将校集会所 門柱(南西側) 頂部(福山)
▲門柱頂部に遺る芯棒


その他、兵営営門前のこの場所謎の石標が遺されています。


イ 西門門柱
隣接するJA福山市本店(福山陸軍病院跡)の敷地内に遺ります。
※コメントを頂いた地元民様に寄ると下記の歩兵第四十一聯隊跡碑移設に伴い、本来あった場所近くの緑町交差点付近に移設された様です。

蝶番の位置からして方向が間違えて建てられています。
歩兵第四十一聯隊 ①イ 西門(移築) 東から(福山)
▲生垣が邪魔で見栄えが悪いです。

歩兵第四十一聯隊 ①イ 西門(移築) 北西から(福山)
▲外周から見るのが最も綺麗に見えます。

歩兵第四十一聯隊 ①イ 西門(南西側)(移築) 南西から(福山)
▲模造の門札が付いている方向に蝶番があります。

歩兵第四十一聯隊 歩兵第四十一聯隊 西門(福山)
▲当時の西門の様子


イ 歩兵第四十一聯隊跡 碑
昭和53(1978)年3月27日に建立されました。
揮毫は支那事変時の聯隊長(第19代)・山田鐵二郎大佐です。
歩兵第四十一聯隊 ①イ 「歩兵第四十一聯隊跡」碑(福山)
▲JA福山市にあった頃の歩兵第四十一聯隊跡碑

当初は兵営跡に建立予定でしたが当時跡地を使用していた広島大学が許可しなかったため、止む無くJA福山市本店(福山陸軍病院跡)に建てられていました。
全くクソな大学です。
平成28(2016)年2月、福山市遺族会の尽力により漸く本来あるべき場所に移設され、3月27日、除幕式が挙行されました。


ツ 萬宝山記念碑 台座
台座は香川県広島村(現、丸亀市)産で元々は営庭にありましたが、なぜ兵営から離れたバラ公園に台座だけが移設されているのか不明です。
歩兵第四十一聯隊 ①ツ 萬宝山記念碑 台座(福山)
▲台座だけが遺ります。

萬宝山記念碑は昭和9(1934)年8月、時の聯隊長(第17代)・樋口季一郎大佐の発案により先輩の偉勲を顕頌すべく営庭に建立に建立着手、昭和10(1935)年3月、完成します。
萬宝山の戦いは明治37(1904)年10月16日、日露戦役において聯隊長・鵜沢總司中佐が散華するなど聯隊が大損害を受けながらも露軍の逆襲を撃退、ロシア満州軍総司令官・A.クロパトキン中将をして攻勢から守勢、進撃から退却へ戦術転換をするきっかけとなったとも言われます。
歩兵第四十一聯隊 歩兵第四十一聯隊 萬寳山記念碑(福山)
▲昭和10(1935)年2月12日、建立時の記念撮影
  左から3人目が聯隊長・樋口大佐

歩兵第四十一聯隊 樋口季一郎中将 近影(福山)
▲樋口季一郎大佐(写真は中将時代) (陸士二十一・陸大三十期)
  大佐は後にハルピン特務機關長時代にドイツから逃れてきた
  ユダヤ人の滿洲・上海入植を援助、第五方面軍司令官として
  大東亜戦争停戦後、北海道侵攻を企図したソ連軍を占守島で撃破、
  北海道分割の危機を救った事で知られます。


② 福山陸軍病院
明治40(1907)年9月17日、歩兵第四十一聯隊は第五師團(広島)から新設第十七師團への隷属転移、及び福山町への移駐が決定します。
11月25日、福山衛戍病院が廣島衛戍病院内において事務を開始、明治41(1908)年7月、福山町に庁舎・病棟が竣工、20日、広島から福山に移転します。
昭和11(1936)年11月2日、勅令第三百八十七號『衛戍病院令』中改正に伴い、10日、福山衛戍病院は福山陸軍病院と改称します。
昭和20(1945)年8月8日、福山大空襲により病院東側が焼失、15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』の渙発を受け、16日、停戦を迎えました。
停戦時の病床数は230床の三等甲病院でした。

11月19日、我が国は連合国軍最高司令官総司令部から『陸海軍病院の返還に関する覚書(GHQ AG632)』を受領、12月1日、全国の陸海軍病院は厚生省に移管され国立福山病院に改組、病棟不足から隣接する兵営の兵舎2棟、食堂を借受けます。
昭和41(1966)年7月4日、人口増加に伴い狭隘になった事から仲野上町に移転、その後敷地(昭和45~49年頃?)は福山市農協(現、JA福山市)に売却され現在に至ります。

ウ 記念碑 福山陸軍病院 国立福山病院発祥の地
昭和54(1979)年4月1日、両病院OB会により建立されました。
石碑裏面の趣意書には「明治41年4月1日に開院、昭和12年4月に陸軍病院改称」(陸軍病院を継承した国立福山病院の公式サイトも同様)となっており、官報(上記略史参照)の記述と異なります。
歩兵第四十一聯隊 ②ウ 記念碑 福山陸軍病院・国立福山病院発祥の地(福山)


門柱
参考にした『平和を求めて』によると“遺されていた門柱も病院移転に伴い撤去された”となっていましたが、コメントを頂いた地元民様の情報によると、病院移転に伴い一緒に移築され、現在も福山医療センターの駐車場入口に現存しています。
福山陸軍病院 門柱(移設)ストリートビューキャプチャ(福山)
▲ストリートビューからのキャプチャ


③ 福山陸軍練兵場
明治39(1906)年、新設師團設置の情報を得た廣島縣深安郡福山町(現、福山市)により用地買収が行われ、明治41(1908)年7月20日、広島から福山に転営して来た歩兵第四十一聯隊により供用が開始され、後に航空機の発展に伴い飛行機不時着場に指定されます。

昭和7(1932)年1月28日、上海事變、昭和12(1937)年7月7日、支那事變、昭和14(1939)年5月11日、ノモンハン事件が勃発、陸軍省は大陸での戦闘の戦訓から従来の平面練兵場での演習に加え、陸軍演習場を利用し山岳戦を想定した、より実践的な演習を実施していきます。
福山においては演習場が遠方(最寄りは原村陸軍演習場)だったため歩兵作業場にて演習を計画しますが、作業場が狭隘だった事から福山市に対し諸費用として70,000円の提供、及び歩兵作業場周辺用地(歩兵作業場拡張用地)と既存練兵場の交換を提案します。
当時財政難にあった福山市は陸軍省の提案を市議会全会一致で快諾し、昭和16(1941)年、市は買収予定地40町歩(120,000坪)の地権者に対し説明ののち買収を実施、取得した用地を陸軍省に提供し移管された既存練兵場を払下げます。
用地買収時期について隣接地在住の方の話では昭和14(1939)年との事です。

昭和20(1945)年1月、旧練兵場西側に三菱電機㈱福山第三工場が操業開始、3月、東側は陸軍省が借上げ広島から移駐して来た船舶砲兵第一聯隊の演習場に使用され、停戦を迎えます。

現在、旧練兵場跡地は大半が三菱電機㈱用地、商業施設等になっています。
歩兵第四十一聯隊 ③練兵場跡 南西側の側溝(福山)
▲旧練兵場外周に遺る石組
  雰囲気から当時の物と思われます。


衛戍・編成部隊
歩兵第四十一聯隊(豹一二〇二三、朝鮮第四十二部隊)
明治28(1895)年4月17日、明治二十七八年戰役(日清戦争)の講和条約が締結され、我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、我が国はこれらの外圧を排除し、自国の安全保障のため、明治29(1896)年7月13日、陸軍省は『陸軍平時編制』・『陸軍常備團隊配備表』を改正し、広島に歩兵第四十一聯隊の創設を決定します。

9月25日、初代聯隊長・益滿邦輔大佐が発令され、29日、着任、11月11日、歩兵第十一聯隊本部聯隊附佐官室において事務所を開設、14日、旧修業室講堂内に聯隊本部・第一大隊本部を開設します。
12月1日、尾道聯隊區より新兵593名を受領し第一大隊(馬場命英少佐)が編成、第五師團(山口素臣中将、広島)隷下の歩兵第九旅團(大島義昌少将、広島)に配属され、歩十一兵舎2棟に入ります。
明治30(1897)年6月18日、聯隊は城北の新兵営に移駐、12月1日、第一大隊の二年兵、同日入営の新兵638名を2分し第二大隊(能美成一少佐)を編成し、西練兵場内の旧帝國議事堂内に入ります。
11月17~19日、小倉・久留米において挙行された特別大演習に参加します。

明治31(1898)年3月24日、宮中において軍旗を拝受します。
歩兵第四十一聯隊 歩兵第四十一聯隊 軍旗(福山)
▲歩兵第四十一聯隊 軍旗

7月20日、浜田に転営した旧歩兵第二十一聯隊兵営(城北)に聯隊本部、第一大隊が、23日、第二大隊が移転、12月1日、第一・第二大隊から要員を抽出し、同日入営の新兵を加え第三大隊(堀江不可止少佐)を編成し、聯隊の編成が完結します。

明治33(1900)年6月21日、清國において義和団が蜂起し北清事變が勃発、26日、第五師團隷下部隊に動員下令、7月2日、聯隊は動員完結、9日、第一大隊(佐伯惟季少佐)を先頭に兵営を出発、12日までに常備艦隊(東郷平八郎中将)の護衛を受け宇品港を出航、15~18日、清國塘沽北砲台下に上陸し集結(19日、先遣した臨時派遣隊が第五師團に復帰)、22日、聯隊は4梯団に別れ鉄道により塘沽を出発、22~25日、列国軍(英・米・露・仏・独・伊国軍)とともに天津に集結します。

8月5日、聯隊主力は眞鍋支隊(歩兵第九旅團長・眞鍋斌少将)に編入され師團右翼隊として西沽北方畑地を出発(第一大隊・第二中隊は白塘口派遣隊として残置、12日、聯隊に復帰)、北倉において敵を撃破し紫樓村、6日、第二大隊は列国軍とともに湯村を攻略、7日、野戰砲五、騎五、工五とともに南蔡村の敵歩・騎・砲兵を撃破し攻略、8日、師團は列国軍先頭として、また眞鍋支隊は師團前衛に部署され、聯隊は支隊先頭として牌樓營において敵を撃破しつつ進撃、12日、天津-北京間の要所・通州に集結します。

13日、聯隊は通州を出発、14日、師團先頭として北京城朝陽門に進撃しますが頑強な城門、敵の銃砲火に阻まれ突破できず、野戰五の砲撃とともに工五第二中隊において編成された城壁爆破班3隊によって城門破壊に成功、聯隊は城内に突入し敵を撃破しつつ南進、15日、崇文門に進撃、歩第九旅團長・眞鍋少将は北京駐在日本公使館に達し公使・西徳ニ郎男爵以下在留邦人を救出します。
聯隊は城内の残敵掃討、逆襲を撃破し、10月3日、北京を出発し、通州-天津間の守備にあたり、明治34(1901)年7月3日、清國駐屯軍(秋山好古大佐)に移譲し、8~28日、7隊に別れ塘沽より乗船し、12~30日、宇品港に上陸、広島に凱旋します。

明治36(1903)年11月12~15日、加古川付近において挙行された特別大演習に第五師團とともに西軍として参加します。

明治37(1904)年2月10日、ロシアの強硬な南下政策により明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、4月19日、第五師團(上田有澤中将)に動員下令、25日、聯隊(鵜澤總司中佐)の動員完結、5月13日、師團は第二軍(奥保鞏大将)戦闘序列に編入され、15日、聯隊は福山を出発、宇品港より仁川丸、錫蘭丸に分乗し出航、19・20日、張家屯に上陸します。
22日、師團は軍の後背援護を下命され、聯隊は古山寺付近から普蘭店東方和尚屯付近の線を確保し北方の警戒にあたります。
30日、第二大隊(長谷川壮太郎少佐)は騎兵第一旅團(秋山好古少将)の支援隊として出発、龍家屯に布陣、野戰砲五とともに侵攻して来た露軍を撃退、6月5日、聯隊に復帰します。
13日、第二軍は旅順救援を企図し得利寺に集結中のシベリア第1軍団を殲滅すべく進撃を開始、聯隊は歩九旅團長・山田保永少将指揮下、師團中央隊として普蘭店を出発、撤退する露軍を追撃し、第六・第八中隊が雛家屯に急進し敵総予備隊を撤退させ、次いで歩四十二と連携し、野戰砲五の支援射撃のもと小邨西方高地に拠る敵を撃破し成山一帯を攻略、露軍南侵の企図を放棄させます。

聯隊は敗走する敵を追撃し南台付近に進撃し宿営、7月6日、軍は蓋平付近の敵を殲滅すべく北上を開始、聯隊は第一大隊を先頭に進撃し、代峪岑西方高地の敵を撃破し、11日、小紅其堡に進出し守備にあたります。

23日、軍は太平嶺・大石橋に北上を開始、24日、聯隊主力は師團予備、第三大隊は師團左翼隊(山田少将)として太平嶺に進撃しますが敵の激烈な銃砲火に攻撃は遅滞、1330、聯隊主力(第二大隊欠)は左翼隊に加わり攻撃を開始、1600、敵2個大隊の逆襲を第二大隊、師團右翼隊(歩二十一旅團長・塚本勝嘉少将)が撃退、2040、第二大隊は聯隊に復帰、2100、師團全力により敵堡塁を強襲するも頓挫、2200、聯隊は歩十一、歩二十一とともに再度の強襲により遂に敵第一堡塁を攻略、24日0115、全堡塁を攻略します。

6月20日(23日、統帥発令)、戦局の拡大に伴い滿洲軍總司令部(大山巌大将)が創設、24日、第四軍(野津道貫大将)が新設され、30日、第五師團は第十師團とともに同軍戦闘序列に隷属転移します。

25日、聯隊は棗児嶺に進撃、30日、師團左翼隊として第一大隊を第一線として英落山西方高地を攻略、敵の銃砲火に苦戦しつつ歩十八、歩三十四の牽制を受け敵コサック騎兵第2連隊を撃退し四三〇高地-無名廟高地線を攻略、軍右翼の第十師團の攻撃を支援し、敵ミシチェンコ支隊(歩兵2個、騎兵3個)を石門子方面に退却させ、8月1日、第四軍は柝木城一帯を攻略しますが、敵は既に退却しており、師團は揚樹溝北方高地に進撃します。

10日、聯隊は長嶺に集結、26日、第四軍とともに師團先頭として長嶺を出発、海上-遼陽道東方を北上し白石塞に進出、27日、師團右翼隊に部署され遼陽前進陣地に進撃しますが敵は退却、聯隊は予備隊、次いで右翼隊に部署され追撃を開始、30日、大窪高地の敵を撃破し高地一帯を攻略、31日、歩十八、歩二十一の首山堡攻撃を支援します。

9月1日、師團左翼隊として方家屯高地に集結し遼陽城に進撃、2日、第二・第三大隊を第一線として敵北方堡塁を攻撃しますが敵銃砲火、連携する歩十一、第三師團の進撃遅延に損害が増加するなか3度に及ぶ逆襲を撃退し、敵の退却に乗じ堡塁を攻略、歩四十二が城門に突入、遼陽城を攻略します。

10月7日、聯隊は遼陽城南地区を出発、8日、太子河左岸地区に移駐、来襲した敵を撃破、10日、敵の南下に備え煙台に移駐、第一大隊は師團左側背に来襲した敵を撃破します。
12日、第五師團は滿洲軍直轄となり(15日、第四軍に復帰)、第四軍の左側背援護を下命され、聯隊は紅宝山に進撃、13日、激戦ののち、紅宝山を攻略します。
15日、聯隊は山田支隊(山田少将、滿洲軍直轄)に配属され、支隊は第三師團の攻撃支援のため、同師團、第十師團の中間に進出、聯隊は支隊前衛として第二大隊が萬寳山を攻略、16日、第一大隊は後備歩二十の攻撃を支援、同聯隊が魏家樓子を攻略し、敵を沙河右岸に駆逐します。
同日1840、我が防御線より突出した萬寳山に敵歩兵8個大隊が砲兵2個大隊の支援射撃のもと侵攻、1900、山田少将は第四軍の作戦計画に基づき戦線整理(第三・第十師團との連携)のため、聯隊に支隊司令部の位置する三道崗子に転進を下命します。
しかし敵の急速な浸透により離脱は困難な状況となり、敵2個中隊が柳半屯付近より迂回し聯隊患者集合所が急襲、後方連絡線が遮断され、山頂にあった聯隊・大隊本部は側背より攻撃を受けたため、聯隊長・鵜澤中佐は軍旗を後送するとともに予備隊の第七・第九中隊を率い防戦しますが、敵弾を受け散華、山頂は陥落してしまいます。
第一線陣地の防衛にあたっていた第三大隊長・井上少佐は山頂が陥落した事を知り、第三・第十一・第十二中隊より各1個小隊を抽出、敵の銃砲火を突破し山頂に突撃し敵を撃退し奪還に成功、再び萬寳山の守備にあたりますが、2200、支隊命令により第一大隊・第十二中隊を後衛として転進を開始、17日0030、三道崗子に到着し、同地北方に陣地を構築、17日、黄花甸防衛のため范家屯に移駐し沙河左岸地区において冬営に入ります。

明治38(1905)年1月26日、滿洲軍は黒溝台付近に集結中の露軍左翼攻撃を第八師團(立見尚文中将、弘前)に、第二・第五師團に増援(臨時立見軍を編成)を下命します。
27日、聯隊は三里庄に集結、28日、柳条口を攻略し師團の側背援護にあたり、29日、第八師團の攻撃により敗走する敵を長義套村に追撃します。

3月1日、第五師團は奉天に進撃を開始し李家窩棚付近の露軍を攻撃、聯隊は師團予備として部署され、聯隊主力は苦戦する歩二十一を救援し砂山で敵を撃破、左翼隊を増援した第三大隊が李家窩棚を攻略します。
10日、第二大隊は沙陀子を攻略、同日、第四師團により奉天城が攻略され、聯隊は師團前衛として奉天城小北門外に前進します。

5月10日、聯隊は昌図に移駐、騎兵第一旅團(秋山少将)の指揮下に編入され、歩一と交代し同地の守備にあたり、6月11日、侵攻して来た露軍500を撃退します。

9月1日、講和条約が締結され、6日、大本營より全軍に休戦が布告、16日、休戦協定が締結、10月16日、平和克服が令達され、12月22日、27日、第五師團に復員下令、聯隊は鉄嶺に移駐し列車により大連にに集結、29日、大連を出航し、明治39(1908)年1月1~4日、宇品に上陸、広島に凱旋します。

明治40(1907)年9月17日、『陸軍管區表』・『陸軍常備團隊配備表』が改正され、聯隊は新設の第十七師團(一戸兵衛中将、岡山)隷下の歩兵第三十三旅團(林太郎少将、岡山)への転属、福山町への移駐が決定し、10月9日、隷属転移します。

明治41(1908)年7月、福山町の新兵営が竣工、16日、移駐作業を開始、20日、転営が完了します。

明治43(1910)年11月13~16日、岡山付近において挙行された特別大演習に第十七五師團とともに西軍として参加します。

大正4(1915)年3月11日、第十七師團に第十三師團と交替して滿洲駐箚が下令され、29日、第一大隊は福山を出発、30日、亞細亞丸に乗船し宇野港を出航、4月2日、大連に上陸、4月4日、聯隊主力は福山を出発、5日、色丹丸に乗船し宇野港を出航、9日、大連に上陸し第一大隊を掌握、5月20日、大連を出発、21日、鉄嶺に到着、第五十聯隊と交代し守備にあたります。

大正5(1916)年8月4日、支那-蒙古軍の国境紛争の流弾が我が度々守備地域に落下したため、を拒絶勧告するも両軍は無視して交戦したうえ、支那軍は騎二十一に対し敵対行動を取り支蒙事件が発生、聯隊は佐藤支隊(歩三十三旅團長・佐藤裕次少将)に編入され鉄嶺を出発、6日、楊家城子にて支蒙軍の監視にあたり、21日、支那軍が騎二十一将校斥候に発泡するに及び、撫徳に前進し支那軍の撤退を勧告、24日、支那軍が撤退したため同地の守備にあたり、10月3日、鉄嶺に帰還します。

8月13日、鄭家屯において獨立守備歩兵第二大隊第三中隊が支那第二八師の銃撃を受け包囲されたため、15日、第三大隊は四平街を経て、18日、鄭家屯に進撃、先遣された騎二十一指揮下に編入され、21日、支那軍に撤退を勧告、支那軍が撤退したため同地の守備にあたります。

大正6(1917)年5月14日、聯隊は第七師團歩二十五と交代し、同日、聯隊主力は鉄嶺を出発、16日、釜山に移動、17日、出航、20日、宇品に上陸、21日、福山に帰還します。
18日、第三大隊・第七・第八中隊は鉄嶺を出発、21日、釜山に移動、22日、出航、24日、宇品に上陸、25日、福山に帰還します。

大正7(1918)年7月11日、富山県において米騒動が発生、8月9日、三次市で住民が蜂起し暴徒化し、広島県内各地で暴徒が発生、14日、可部町の暴徒鎮圧に聯隊より第四中隊43名が出動、16日、帰還します。

12月1日、機關銃中隊(森本伸樹中尉)が編成されます。

大正14(1925)年3月27日、第三次軍備整理(所謂、宇垣軍縮)による第十七師團(大野豐四中将)の復帰が公布され、4月14日、岡山陸軍練兵場において解団式を挙行、5月1日、第十七師團司令部は復帰、聯隊は再び第五師團(岸本鹿太郎中将、広島)歩兵第九旅團(岡本進一郎少将)に隷属転移します。

昭和6(1931)年12月18日、第二大隊・機關銃中隊は第五師團臨時派遣隊として天津に出動、警備にあたります(昭和7年7月21日、帰還)。

昭和10(1935)年8月1日、聯隊附で定期移動により臺灣歩兵第一聯隊付(臺北高等商業學校配属将校)となった相澤三郎中佐が12日、軍務局長・永田鉄山を刺殺、相澤事件が発生します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、10日、停戦協定が成立しますが、郎坊事件、広安門事件、通州事件など度重なる支那第二九軍の違法不法行為により、7月28日、支那駐屯軍(田代皖一郎中将)は支那軍に攻撃を開始、北京・天津を平定します。
7月、国府軍(蒋介石)の北上に伴い、7月27日、第五師團(板垣征四郎中将)隷下部隊に第五動員一號(応急動員)下令、31日、聯隊(山田鐵二郎大佐)の動員完結、8月1日、聯隊は福山を出発、列車にて宇品に移動、2日、三笠丸に乗船し宇品を出航、釜山に上陸、4日、列車にて出発、9日、奉天、10日、山海関を通過、11日、天津に集結、13日、歩九旅團(國崎登少将)、歩十一(長野祐一郎大佐)とともに昌平に前進します。
15日、白口、16日、第一大隊は獨混十一旅團(鈴木重康中将)とともに南口鎮を攻略、16日、大行山脈に進撃し、25日、激戦ののち長城線を突破、滿洲國察哈爾省に入り敗敵を追撃しつつ、懐米に進撃し、同地付近の守備にあたります。
8月31日、第五師團は新設の北支那方面軍(寺内壽一大将)戦闘序列に編入され、9月7日、支那山西軍(閻錫山)の根拠地・太原を攻略すべく進撃、15日、聯隊は歩九旅團とともに師團左翼援護のため河北省淶源に進撃、支那軍を撃破し同城を攻略します。

9月29日、聯隊は國崎支隊(歩九旅團長・國崎少将、獨立山砲第三聯隊、工五1個中隊、師團通信隊1個小隊、師團衛生隊1/3、第四野戰病院、輜重五1個中隊)に編入され、13日、列車にて北京、19日、塘沽に移駐、21日、乗船し、22日、出航、24日、朝鮮八口浦に上陸、25~31日、敵前上陸訓練を実施、11月2日、第四艦隊の護衛を受け、輸送船7隻に分乗し出航、5日0600、聯隊は支隊及び第十軍(柳川平助中将、第六、第十八、第百十四師團)先頭として上海杭州湾の金山衛付近に敵前上陸を敢行し、同地を奇襲攻略、第三大隊を守備に残置(12日、金山で主力追求)し主力は北上、7日、金山、9・10日、松江県城において支那一〇八・一〇九師を撃破、12日、第二大隊は上海方面に進撃し、北橋鎮において上海方面から潰走してきた支那軍を捕捉殲滅(19日、主力に復帰)、21日、松江を出発、第六師團(谷壽夫中将、熊本)とともに太湖南側を西進、八里店において支那軍2個師を撃破、24日、歩百五十、歩百二十四とともに湖州を攻略します。

11月30日、広徳を攻略、12月2日、聯隊は広徳を出発、3日、建平、7日、高淳を攻略、8日、南京からの退路を遮断すべく対岸の浦口攻略を下命され、9日、獨工十一により石臼湖を渡河、太平に進撃、11日、彩石鎮において長江を渡河、12日、浦口に進撃し、13日、浦口を攻略、同日、中支那方面軍により南京が攻略されます。

昭和13(1938)年1月2日、支隊は南京を出発、5日、上海に上陸し輸送船にて、13日、青島に上陸集結、戦力回復、訓練にあたります。
4月7日、大本營は中支那派遣軍(畑俊六大将)、北支那方面軍(寺内壽一大将)に徐州に集結中の支那第五戦区軍、第二〇軍を包囲殲滅すべく徐州會戰を下令、9日、聯隊は青島を出発し南下、14日、師團左翼の國崎支隊(歩四十一、歩四十二、野砲五、獨山砲三、工五、輜重五)に編入、16日、支隊左翼隊として沂州城に進撃、敵陣地を攻撃しつつ、19日、第二大隊が城壁破壊孔より城内に突入、沂州城を攻略します。
26日、聯隊は支隊左縦隊として進撃、27日、捷庄に前進、28日、徐州の前進拠点・北労溝の敵陣を攻撃しますが、優勢な装備を有する支那第二八、一五〇師の銃砲火に損害が増加、29日、北労溝も一角を攻略するも弾薬欠乏、支那第九二師が聯隊背後に侵入したため支隊との連絡も途絶、さらに師團第四九師が来援し支隊は包囲されてしまいます。
聯隊は支隊命令により長光光起中尉以下30名を残留隊として聯隊主力は蘇曹庄に転進、5月2日、第五中隊が残留隊を救出し、支隊司令部所在の大王庄に転進、戦線を整理し支那軍包囲下、蘇曹庄の防衛にあたります。
5月10日、支隊左翼に第十六師團片桐支隊(歩九聯隊長・片桐護郎大佐、聯隊基幹)が進撃し、支那軍を包囲する態勢になり、支隊は攻勢転移、北側の大王庄付近、次いで南進し狼子湖、大阜の敵を撃破、15日、南労溝を攻略し敗走する敵を追撃し砲車に進撃します。
同日、支隊は師團右翼の坂本支隊(歩二十一旅團長・坂本順少将、歩十一、歩二十一)に連携し、18日、大運河を工五により敵前渡河し徐州に進撃、19日、第十三師團(萩州立兵中将、仙台)が徐州城を攻略しますが、支那軍は15日、徐州放棄を決し我軍の間隙をついて漢口方面に撤退、25日、聯隊は敗敵を追撃し宿県に進撃し同地の守備にあたり、9月11日、次期広東作戰に備え上陸演習が開始されます。

19日、第五師團は第十八(久納誠一中将、久留米)、第百四師團(三宅俊雄中将、大阪)とともに新設された第二十一軍(古荘幹郎中将)戦闘序列に隷属転移します。
10月13日、聯隊は師團とともに青島を出航、18日、バイアス湾に到着、22日、上陸第二陣として大西水道で舟艇に移乗、潭州水道に進出、23日、師團予備の第三大隊(片山憲四郎少佐)は虎門要塞対岸の大角頭島に上陸し掃討を実施後、聯隊に復帰、26日、聯隊は三水を攻略し守備、匪賊討伐にあたります。

12月1日、第五師團は第十二軍(尾高龜造中将)戦闘序列に隷属転移、第四十八師團に守備を移譲、12日、聯隊は三水を出発、15~17日、広東に集結、輸送船に乗船し広東を出航、23日、青島に上陸、集結します。

1月20日、軍は魯北道粛清作戰を発動、聯隊は及川支隊(歩九旅團長・及川源七少将、歩四十一、歩十一、騎五、野砲五1個大隊)に編入、支隊は第百十四師團に配属され津浦線より東進、聯隊は3縦隊となり支那軍を撃破しつつ、27日、商河に進出、1月下旬より武定、商河、徳平、利津付近に分駐し警備、匪賊討伐にあたります。

6月4日、軍は魯南作戰を発動、第五師團は高密、坊子付近から南下し、支那軍を撃破しつつ沂水、莒県、日照に進撃し警備にあたります。

5月11日、ソ連の意を受けた外蒙軍がノモンハン付近で滿洲國に越境して来た事からノモンハン事件が発生、9月4日、師團のノモンハン事件への応急派兵が決定、速雲、青島への集結が下令され、5日、第五師團は關東軍司令官指揮下に編入され、12日、歩二十一、歩四十二が聯京線で海拉爾、斉斉哈爾に出発、10日、歩四十一は獨立混成第五旅團に守備を移譲し、14日、青島に集結、15日、青島を出航、19日、大連に上陸しますが、9月15日、停戦協定が成立したため大連に屯営します。
10月16日、第五師團は臺灣混成旅團(塩澤定市少将)とともに第二十一軍(安藤利吉中将)戦闘序列に隷属転移し、南寧作戰(援蒋ルート遮断)を下令されます。
27日、聯隊は大連を出航、30日、宇品に寄港し物資を積載し出航、11月8日、海南島三亜に入港、聯隊は及川支隊の主力として部署され、13日、第五艦隊の護衛のもと三亜を出航、15日0330、欽州湾に敵前上陸を敢行、支那軍の小部隊を撃破しつつ泥濘を踏破し西北進、第二大隊(友野幾久治少佐)が坊城を攻略します。
16日、臺灣混成旅團が欽県を攻略、聯隊は師團とともに漁洪江を遡航し、欽寧公路付近に上陸、支那軍により破壊された公路を進み山岳地帯に入り険峻な地形、糧食の欠乏に苦闘しつつ、19日、大唐城付近に集結、23日、南寧河を渡河し支那軍を撃破、24日、歩二十一が支那軍4,000の守備する南寧城に突入し、同城を攻略、第二十一軍は第五師團と臺灣混成旅團により欽寧兵團(兵團長は第五師團長・今村均中将が兼務)を編成し、27日、兵團は南寧東方地区の残敵掃討を実施します。
師團は騎五、歩二十一第三大隊を八塘北側地区、歩四十二第二大隊を四塘付近、歩四十一第二大隊を城北大高峰隘正面に配置し北方の支那軍に備え、東側地区警備隊(歩二十一旅團)、西側同(歩九旅團)、海岸地区(及び欽寧公路補修)に臺灣混成旅團を配置、29日、入城式を挙行します。
30日、支那軍新編第三師が大高峰隘に侵攻してきますが第二大隊が侵攻を拒止、12月1日、歩九旅團(歩四十一、歩四十二)が左右より迂回し敵を包囲し撃退し、守備を第三大隊と交替します。

12月15日、師團は及川支隊(歩十一、歩四十一第一大隊、車両95台)を編成し、龍州-鎮南関(南寧西南190km)の要所を急襲攻略し、敵軍需物資の獲得と補給路の破壊を企図し龍州作戰を発動、18日、険峻な地形、橋梁の補修に行軍が遅滞するも、18日、綏淥を通過、20日、明江付近において今村中将より南寧東方地区に優勢な支那軍侵攻による危機的状況を受信したため、21日、歩十一第三大隊を反転させ、支隊は龍州に急進し、22・23日、敵軍需物資を処分、歩十一は南下し鎮南関付近の橋梁を破壊、24日、反転を開始します。

12月17日、南寧に支那軍29万(陳誠、第二六集団軍9個師、三八同8個師、一五同4個師、3個師)が南寧北側の崑崙関-九塘方面から侵攻、城外北側八塘北側地区、四塘付近両守備隊は敵大部隊に浸透され包囲孤立、18日、救援に出撃した歩二十一も九塘西北で包囲、21日、さらに出撃した歩二十一旅團(歩四十二基幹)も包囲され、戦闘指揮中の旅團長・中村正雄少将が重傷を負い後送ののち散華、17日・20日、臺灣混成旅團の救援も敵に阻まれ奏功しませんでした。

18日、歩四十一聯隊長・能見敏郎大佐は第三大隊守備の大高峰隘に侵攻してきた2個師を撃破すべく、師團長の了解を得て師團予備の第二大隊から2個中隊を抽出し出撃、敵背後に迂回し敵20,000を奇襲、敵は大混乱に陥り相撃ののち潰走します。

29日、及川支隊が支那軍を撃破しつつ南寧に帰着、昭和15(1940)年1月1日、九塘に出撃、3日、戦線整理・防御陣地構築のため八塘付近の山地稜線に全部隊の集結を下命、4日、各部隊は集結を完了し、聯隊は古塞西側陣地を堅守し持久態勢を採ります。
13日、第二十一軍主力(安藤中将指揮、第十八師團・近衛混成旅團)が欽州湾に上陸、25日、南寧に前進し、28日、欽寧兵團は攻勢に転移、敗走する支那軍を追撃し賓陽作戰を発動します。
29日、聯隊は歩九旅團とともに公路沿道を進撃し、2月3日、崑崙関を奪還、4日、賓陽城に入城、11日、南寧に帰還し守備にあたります。
13日、第二十一軍は南支那方面軍(安藤利吉中将)に改編され、第五師團は同方面軍戦闘序列の第二十二軍(久納誠一中将)戦闘序列に編入されます。

25日、七塘に支那軍1,000が侵攻、第八中隊が撃退します。

3月13日、軍は南寧南方に蟠踞する支那第一九・三二・四六・四六軍(10個師)を撃破すべく東路作戰(霊山作戰)を発動、第一大隊は及川支隊に編入され、16日、敵の退路遮断のため浦津を出撃、長塘墟、平明、新墟、平南墟において支那軍を撃破しつつ霊山に進撃し支那第四六・六四師を撃破、26日、南寧に帰還します。

7月23日、大本營は南支那方面軍に「情勢ノ變化ニ應ズル第三國作戰準備」(北部仏印の武力進駐準備)を下令、7月下旬、第五師團は南寧守備を近衞師團に移譲し、仏印国境付近に転進を開始、8月3日、聯隊は南寧に集結し、4日、出発、11日、明江に到着し、周辺の敗残兵を掃討します。
30日、東京において進駐に関する日仏両国の原則協定が成立、9月4日、現地の細目協定が妥結しますが、6日、歩二十一第三大隊(森本宅二少佐)が地形偵察中、国境境界石標を見落とし越境してしまい仏軍警備隊の警告を受けた事を理由(米英支の外圧を受けた仏側の進駐阻止を狙った口実)に仏は協定無効を主張するも、西原一策少将(大本營派遣援蒋禁絶監視團)の交渉により22日1600、平和進駐協定が成立します。
第五師團は大本營より「23日0000以降の進駐」を下命されていましたが、平和進駐協定成立の電報が届かなかったため、武力進駐と判断、23日0000、歩二十一旅團は北部仏印国境を突破しがドンタン、歩九旅團はシマ、次いでロックピンを攻略し、25日、師團はランソンを攻囲し仏軍を降し、26日、周辺の要地を確保、警備にあたります。

10月12日、第五師團は大本營直轄となり、31日、聯隊は香洋丸に乗船しハノイを出航し、上海に集結、12月1日、軍令陸甲第五十七號『第五師團改編要領及び細則』により第五師團は3単位師團に改編が決定、聯隊は第三十師團への隷属転移が決定(昭和18年6月編成)、26日、同軍令により軍馬が全廃され自動車100両、自転車1,000台に改編されます。

昭和16(1941)年2月中旬、第五師團は北九州地区を仮想敵地とした上陸演習(呂號特別演習)を実施、3月23日、聯隊は工五とともに浅香山丸、戸山丸に乗船し、30日、上海を出航、4月3日深夜、長崎県千々石海岸に上陸、佐世保要塞に進撃、4月4日、演習を終了し、伊万里町の民家に分宿、8日、唐津に集結し出航、11日、上海に帰還します。
16日、聯隊は我が占領地周辺の支那軍を撃滅すべく甲十五號作戰(浙東作戰)参加のため上海を出航、19日、寧波付近の領海に上陸、寧波城に進撃、退却した敵を追撃し、24日、奉化県城を攻略し、5月13日、周辺の掃討を実施します。

10月24日、第五師團(松井太久郎中将)は獨混二十に守備を移譲、上海に集結し上陸演習を実施、11月6日、南方軍(寺内壽一大将)戦闘序列が発令(11月15日、指揮転移)、E作戰(馬来作戰:マレー攻略戦)実施部隊として第五師團は第十八、近衞師團とともに第二十五軍(山下奉文中将)戦闘序列に隷属転移します。

11月24日、聯隊(岡部貫一大佐)は關西丸に乗船し上海呉淞を出航、12月1日、三亜に上陸、聯隊主力は河村部隊(歩九旅團長・河村參郎少将)に編入、第一大隊(宮本菊松少佐)は鐡道突進隊(鐡道第九聯隊と協力)として部署され、4日、第二十五軍先遣隊は三亜を出航、5日、聯隊は關西丸に乗船し三亜を出航、7日2240、泊地進入用意が下令され、8日、0035、泊地に進入、0333、師團長乗船の香椎丸から出発信号が発信され、0412、聯隊主力は河村部隊先頭として泰國シンゴラ新飛行場東側に上陸します。

上陸後、第二大隊(友野中佐)が新飛行場を攻略、第三大隊(小林朝雄少佐)はホーン山(飛行場南方)付近の泰國軍を攻撃、歩十一によりシンゴラ市街、埠頭、続いて上陸した佐伯支隊(捜索五・佐伯靜夫中佐)、シンゴラ駅より列車により南下した鐡道突進隊は泰國軍2個大隊と交戦しますが、同日1300、日泰間の停戦協定が伝達され、支隊はハジャイを攻略、突進隊は英軍により爆破された鉄橋を修理しつつアロルスターを目指します。
河村少将は部隊の集結を図るとともに、歩四十一(岡部大佐指揮、第二大隊基幹)はサダオ(8日、佐伯支隊により攻略)に急進し、国境突破、防御陣地・ジットラ線攻撃の準備をします。
9日1730、佐伯支隊はサダオを出発、夜半に国境東方500mに前進、国境を突破し英印第11師団(第6、第15旅団)、第一・第二線・第三線陣地を突破、逆襲を撃退し要所を攻略、10日2400、佐伯支隊は戦車、砲兵の配属を受け佐伯挺進隊に改編されます。

10日、歩四十一はチャンル北端十字路において夜襲により英印軍を撃破、敗敵を追撃し挺進隊が突撃、火砲を伴う敵の反撃に損害が増加するもジットラ線に進撃、12日、歩四十一は挺進隊を追求し本道東側より迂回、続いて河村部隊主力(歩十一)が本道西側に迂回、河村少将は攻撃主力を挺進隊から歩四十一に交代し夜襲を準備中、英印軍はジットラ線を放棄し撤退します。

12日、徒歩で進撃、追求してきた第一大隊(鐡道突進隊)が歩四十一に復帰します。
13日、歩十一第一大隊がアロルスターを攻略、14日、歩四十一は河村部隊先頭に部署され、第二大隊第十二中隊第一小隊(高橋正少尉)を尖兵小隊(自転車)として敗敵を追撃しグルンに進撃ますが、火砲を擁する英軍の攻撃に第十二中隊長・仁木澄次中尉、高橋少尉が相次いで散華してしまいますが、15日、聯隊主力が到着しグルンを、16日、スンゲイパタニーを攻略、19日、第三大隊がムダ河を渡河しペナン島ジョージタウンに上陸、同島を無血攻略します。
聯隊は現地マレー人の歓迎を受けつつ河村部隊とともにクリム-セラムを南下し、第五師團はタイピンに集結、26日、師團先遣隊として歩十一第一大隊、27日、歩四十一がペラク河を渡河、聯隊は師團先頭としてブランジャ、バッカジヤ、センルを南東進し、コペン、ディパン付近の英軍を河村部隊の迂回により撃退、30日、カンパルの縦深陣地(英印第2連隊第5大隊)に進撃、昭和17(1942)年1月2日、戰車第六聯隊第一中隊、野砲五の支援、渡邊支隊(歩十一聯隊長・渡邊綱彦大佐)・吉田支隊(近歩四第三大隊)の舟艇機動による敵退路遮断を受けカンパルを攻略、師團先頭を歩四十二と交替し、12日、師團主力とともにクアラルンプール(11日、歩十一が攻略)に到着し戦力回復にあたります。
1月10日、ペナン島の第三大隊は向田支隊(戰車第一聯隊長・向田宗彦大佐、野砲五・輜重五・獨工五各1個中隊:軍直轄)に編入されクアラルンプール南方を進撃しますが、14日、ゲマス西方において大隊が通過中の橋梁が爆破、豪第27旅団の奇襲を受け第三機關銃中隊長・花木進中尉、第九中隊長・白木幸彦中尉、同代理・河野光雄少尉が相次いで散華するなど苦戦、15日、後発の師團主力先頭、歩四十二第二大隊と連絡、同日、支隊はゲマスを攻略、25日、河村部隊はクルアン、26日、杉浦部隊(歩二十一旅團長・杉浦英吉少将)がアエルヒタム、27日、河村部隊がレンガム、ラヤンラヤン、杉浦部隊がシンパレンガムを攻略、31日、歩二十一第三大隊を先頭にジョホールバルに進撃し、遂に対岸にシンガポールを望みます。

2月8日2330、各砲兵部隊の支援射撃、2350、突撃支援射撃の支援のもと、ペルパ河-マラアユ河間より第一次渡航部隊(師團右翼隊(杉浦部隊:歩四十二、歩二十一の順))がシンガポールに敵前上陸、0430、師團予備隊の歩四十一は第一次渡航部隊として師團左翼(河村部隊:歩十一)に続き上陸、ナマジエスラートの英軍を撃破し、9日、師團主力を追求しテンガー飛行場、10日、アマクソン西南、11日、ブキテマ高地に進撃します。
12日、聯隊は歩第九旅團(河村部隊)に復帰し前線に進出、歩十一第三大隊と交替した第二大隊は八五高地東北400kmの閉鎖湾曲線高地を攻略、聯隊主力は高地西側に進撃し、13日、第二大隊は歩十一第二大隊とともに九五高地を攻略、英軍の激烈な砲撃に進撃は遅滞しますが、14日、師團砲兵の支援射撃のもと歩十一第三大隊が一三〇高地、15日、八五高地、同第一大隊が一二五高地、歩四十一第一大隊が一三八高地を攻略、同日、杉浦部隊が八〇高地西側を攻略、ピアース、マクリッチ両水源地を確保し、カラン飛行場、チャンギー要塞との連接を遮断したため、15日1400、杉浦部隊歩四十二第一大隊(丸谷少佐)正面に白旗を掲げたC.A.ワイルド少佐ら3名が現れ降伏して来ます。
同日1830、ブキテマ三叉路北方のフォード自動車工場において第二十五軍司令官・山下中将と英マレー軍司令官・A.パーシバル中将の会談が開催され、1950、英軍は我軍に降伏、2000、師團は戦闘行動を中止、聯隊は市内外周(山下中将は憲兵以外の入市を許可しなかった)の警備にあたります。
19日、第五師團はマレー半島の反日華僑の粛清を下命され、21日、F機關(藤原岩市少佐)所属のマレー人、現地人の協力を得て反日華僑を摘発、2月23日、選別者を第二十五軍憲兵隊(大石正幸中佐)管下の各憲兵分隊に引渡し、さらに3回の検問を経て敵性華僑を選別、該当者は補助憲兵に引き渡され軍命に基づき処断したため、治安は急速に回復します。

欧米はアジア各地で植民地政策の一貫として現地人の不満が直接英国に向かない様、準支配層として経済を支配していた華僑を利用したため、華僑は利害関係から英軍に協力、また出自から支那事変勃発以降、各地で排日援蒋運動を展開し支那重慶政府に通じ我軍の妨害・テロ工作を組織的に行います。
ことマレーにおいては陳嘉庚が華僑壽賑祖国難民総会を結成し重慶政府を金銭面で大々的に支援、大東亜戦争開戦に伴い在マレーの共産党員、及び抗日華僑各種団体を糾合し英軍協力を決定、12月15日、さらに英政府の了解を得て投獄中の共産党政治犯を釈放し、華僑抗敵総同員会を結成(本部:シンガポール)、昭和17年1月15日、英マレー軍の命で共産党員155名を4個班に編成し英軍貸与の兵器で武装、各地の華僑(非協力、中立的立場の者が多数)を指揮し我軍の後方擾乱、及び英軍作戦への協力、通敵行為を行い(民間反日組織の匪賊の他に義勇軍2個旅団がありシンガポール陥落後、市井に潜伏)、南方戦線では最も我軍の脅威となります(巷間で言われる様な、無辜の華僑を大量に殺害したとされる所謂「シンガポール華僑粛清事件」は南京事件と同種の反日プロパガンダの一種です)。

3月27日、聯隊(矢澤清美大佐)は河村支隊(歩四十一基幹、捜索十六1個小隊、野砲二十二1個中隊、獨山砲二十大隊、獨工二十三1個中隊)に編入されハアブル丸に乗船、第三南遣艦隊(杉山六蔵中将)の球磨、第二十四驅逐隊の護衛のもと、4月5日、リンガエン湾に入泊、16日、第一大隊を先陣としてパナイ島イロイロに敵前上陸を敢行し比軍を降し同地を攻略、17日、第二機關銃中隊(豐田真夏中尉)がサンホセ港に上陸しサンレミオ銅山を攻略、匪賊を掃討します。
30日、支隊はカガヤン攻略を企図しイロイロに集結、5月1日、聯隊はイロイロを出航、3日、主力は陽動として米比軍の銃砲火のもとミンダナオ島タゴロアンに敵前上陸を敢行、第二中隊(妹尾達雄中尉)が南方5kmプコーに上陸し第一線陣地を突破、聯隊主力は敵1個師団の堅牢な水際陣地を激戦の後、敵がプコー方面に移動し始めたため夜襲により突破、3日、アグサン渓谷で米比軍を撃破、カガヤンに進撃します。
第二中隊は第二線陣地に進撃、山上からの銃砲火に損害が増加しますが敵は豪雨に紛れて撤退したため、カガヤンを攻略、進撃してきた聯隊主力に復帰、6日、川口支隊(第十八師團第三十五旅團長・川口清健少将、歩百二十四基幹)がカガヤンに到着、7日、聯隊は敗残兵、匪賊を掃討しつつタンクラに到着、8日、戦車を伴う米比軍1,000を撃破、9日、激戦ののちマライバライを攻略します。
6日1030、コレヒドール要塞に籠る米極東陸軍J.ウェーンライト中将が第十四軍(本間雅晴中将)に降伏、10日、ミンダナオ島のビサヤ・ミンダナオ部隊司令官W.シャープ准将が河村參郎少将に降伏、マルコ小学校において降伏調印が交わされ、ミンダナオ島戡定作戦は終了します。
10日、聯隊はカガヤンに到着した獨立歩兵第三十二大隊(貝並甚吉大佐)、同三十五大隊(吉江協中大佐)に残敵掃討、警備を移譲、次期作戦準備に着手、6月15日、歩兵第九旅團は第五師團に復帰のためカガヤンを出発、聯隊は第十七軍(百武晴吉中将)戦闘序列に隷属転移、19日、カガヤンに集結、26日、聯隊主力はカガヤンを出航、31日、第一大隊はカガヤンを出発し陸路で山岳地帯を踏破、7月1日、主力はダバオ郊外ダリヤオンに上陸、大隊はミンタルに到着、聯隊主力は東支隊(聯隊長・矢澤大佐、第二大隊)、第一・第三大隊は川口支隊に編入され、FS作戰(米豪遮断作戦:フィジー、サモア、ニューカレドニアの攻略)に向け作戦準備を開始します。
7月11日、6月7日のミッドウェー海戦の結果を受けFS作戰は中止、各支隊編組が解かれ、歩四十一は南海支隊(第五十五師團第五十五歩兵團長・堀井富太郎少将、歩百四十四基幹)への編入が決定し、第一・第三大隊から計662名を抽出し臨時編成輜重隊、8名を抽出し高射砲要員、第二大隊から56名を抽出しパラオ在住邦人で編成された道路構築隊に編入します。
8月4日、聯隊はダリヤオンを出航、パラオを経由し、16日、ラバウルに上陸、南海支隊長・堀井少将の指揮下に入ります。

17日、支隊主力の第一次輸送(歩百四十四基幹)が輸送船3隻に分乗しラバウルを出航、18日、バサブアに、19日、聯隊主力は第二次輸送としてラバウルを出航、21日、バサブアに上陸しますが、25日に第三次輸送として出航した第一大隊、臨時輜重隊はラビ方面の戦局悪化に伴い、護衛を担当した第十一航空戰隊の意見具申によりラバウルに引き返します。

19日、支隊は各宿営地を出発、豪雨のなか、23・24日、ココダに集結(聯隊は26日到着)、24日、歩百四十四(楠瀬正雄大佐)はココダを出発、2,000m級の山が連なるオーエンスタンレー山系に入り、26日、第一大隊を掌握し右翼隊とし、第三大隊(桑田玄四郎中佐)を左翼隊に、第二大隊(堀江正少佐)を間道から敵陣右後方に迂回させるように部署、イスラバの豪軍陣地(第39・第53大隊、第14・第16大隊の各2個中隊)に攻撃を開始、30日、歩四十一主力は強行軍で歩百四十四を追求し右翼側から攻撃に参加、第二大隊は敵陣西側から迂回し退路を遮断したため敵は退却、同日、イスラバを攻略し大量の糧食を鹵獲、歩百四十四は追撃を実施します。

31日、第一大隊、臨時輜重隊はラバウルを出航し、9月2日、バサブアに上陸、聯隊主力を追求します。

9月1日、聯隊(第二大隊基幹)は歩百四十四と交代し追撃隊となり進撃、ギャップ周辺に拠る豪軍を撃破、5日、追撃隊は再び歩百四十四に交代(同日、楠瀬大佐は病気により後送、第一大隊長・塚本初雄中佐が代理)し、6日、カギを通過、7日、敵機の空襲により100名が死傷する損害が出ますが、第二大隊を左翼、第三大隊を右翼に部署しエフォギ南方高地の豪軍(第14・16・27大隊各2個中隊)を攻撃し、8日、豪軍を撃破し敵陣を突破します。
8日、第一線部隊に糧食が追送されるも、この頃から支隊内にマラリアが発生、また糧食も慢性的に不足してきます。

11日、歩百四十四はマワイ南方高地の豪軍1個中隊を撃破、12日、イオリバイワの敵陣(豪軍5個大隊)北側のナロ河に達し、13日、攻撃を開始、堀井少将はポートモレスビー攻略間近と判断し糧食の全力担送を下命、軍司令部に空中補給を要請し、歩四十一はナロ河右岸地区に前進(14日、第一大隊が到着)し、歩百四十四と並立進撃を企図します。
15日1200、陣地東側の三角山を歩百四十四第八中隊(柳瀬義衞中尉)が攻略した事により豪軍は動揺、16日1600、同第三大隊がイオリバイワを攻略、遂にポートモレスビーを眼下に望みます。

8月7日、連合軍がガダルカナル島に上陸を開始、21日、ガ島奪還を目指した一木支隊(歩二十八第一大隊基幹、一木清直大佐)の攻撃が頓挫した事を受け軍は2正面作戦は不可能と判断、ガ島奪還を優先し、且つ南海支隊の状況、特に補給、損害を考慮しオーエンスタンレー山系の頂上付近のマワイ以北(イオリバイワ北西)を確保し、事後の攻撃に備える様下命しますが、支隊は2,000m級の山脈が続く同山系を踏破するのに無線機の搬送が困難な事からココダに残置、連絡はココダから徒歩で行っていたため、受命が遅れ、9月14日、待機命令を受領、堀井少将はポートモレスビーまで80km(直線距離32km)と迫りながら、攻撃前進を停止、イオリバイワを確保しつつ糧食の確保にあたります。

豪軍はイオリバイワ南方8kmのイミタに侵出布陣、16日、堀井少将は歩百四十四第二大隊に砲・工兵1個中隊を配属(スタンレー支隊)しレフトン山に配置し豪軍の追撃に備え、歩四十一第二大隊を主力後衛とし糧食が欠乏するなか転進を開始、22日、歩四十一主力がココダに到着、25日、敵の上陸に備え支隊命令によりブナ方面に移駐、26日、第二大隊は糧食が欠乏するなか転進を開始、10月4日、支隊主力がココダに集結します。

10月3日、スタンレー支隊正面に豪第7師団第16旅団(3個大隊)が侵攻、13日、敵の攻勢激化に伴い、ス支隊は前進陣地を徹し主陣地に転進、敵は包囲にかかったため、堀井少将は歩百四十四第一大隊を増援として急派するとともにイスラバ南方20kmのイオラに転進を下命します。
25日、堀井少将はさらにス支隊をクムシ河まで転進させるべく、歩四十一第二大隊(歩百四十四指揮下に)を増派、28日、ス支隊は離脱に成功しイスラバに転進します。

11月1日、堀井少将は攻勢発起の要所・ココダ平地防衛のため臨時輜重隊を聯隊に復帰させ、ブナの聯隊主力をオイビ(クムシ河西方15km)に、歩百四十四を南側迂回路防衛のためゴラリ南側バロベ高地に配置し敵拒止にあたりますが、4日、聯隊は豪第16大隊に包囲され、5日、歩百四十四陣地にも豪第25大隊が侵攻、さらに8日、支隊司令部が敵の浸透により退路が遮断されたため、歩百四十四第一大隊(山砲1個中隊配属)は支隊司令部の後方連絡線確保のためイリモ(ゴラリとクムシ河中間)に進撃し豪軍陣地を攻撃します。

10日2000、堀井少将は支隊の全面転進を決し司令部は歩四十一第三大隊を後衛として聯隊主力とともに転進を開始、2200、歩百四十四主力は第五中隊を先頭に転進を開始、ババキ付近でクムシ河を渡河し、17日、ギルワに集結し獨工十五・横山大佐(堀井少将の消息不明のため南海支隊長代理)指揮下に入り、ギルワ南方6kmに位置し敵侵攻拒止にあたります。
また、イリモ攻撃中の歩百四十四第一大隊はイリモ西方でクムシ河を渡河し支隊主力とともに転進します。

14日、聯隊は支隊司令部とともにクムシ河に達し、後衛を第二大隊に変更し追撃して来た豪軍を遅滞戦闘により拒止しつつ、支隊主力は川沿いを北上しますが、16日、ギルワ方面からの断続的な砲声を聞き、堀井少将は戦闘指揮のため支隊主力の指揮を矢澤大佐に委任、19日、堀井少将、参謀・田中豐成中佐、各当番兵2名、筏乗り出身の伍長1名は支隊主力に先行しギルワに向かうべく筏でクムシ河を下りますが、筏が大木に引っ掛ってしまい離そうとした伍長が水没散華してしまいます。
堀井少将の当番兵で漁師出身の福岡重春兵長は筏に積載してあった無線機の配線を体に巻いて泳いで筏を離し対岸まで渡すことに成功しますが、上陸時に田中中佐の当番兵(上等兵)が水没散華してしまいます。
堀井少将、田中中佐、福岡兵長は河に沿って前進、付近にあったカヌーに乗り換え河口に達し、さらに海岸沿いに南下したところで雷雨による突風のためカヌーは転覆、田中中佐が水没散華、堀井少将は福岡兵長に司令部附・富田義信中佐への後事を託し、天皇陛下万歳を唱え拳銃で自決してしまいます。

11月16日、南太平洋方面の組織強化のため大陸命第七百十四號により第八方面軍(今村均中将)が編成(26日から統帥発令)され、第十七軍、新設の第十八軍(安達二十三中将)は第八方面軍戦闘序列に、南海支隊は第十八軍戦闘序列に編入され、支隊は獨混二十一旅團(山縣栗花生少将、歩百七十聯隊基幹)の指揮下に入ります。

16日、B25爆撃機の空襲の後、ブナに米第32師団が上陸して来ます(堀井少将が聞いた砲声はこの上陸時のもの)。
16日、山本重省大佐が歩百四十四聯隊長に補職され、歩百四十四補充兵700名、第三十八師團歩二百二十九第三大隊(監物平七少佐、1,500名)を指揮し聯隊追求、及びブナ防衛のため、17日、第一次上陸部隊(山本大佐以下1,000名)がラバウルを出航、18日、ブナに上陸、第二次上陸部隊(500名)がラバウルを出航し敵機の空襲下ブナに上陸し横須賀鎭守府第五特別陸戰隊(安田義達 大佐)陣地に合流します。
19日、米軍がブナ新飛行場に侵攻してきますが守備隊が撃退、21日、航空機の支援を受け再度飛行場、及び海岸方面の2方向に侵攻、守備隊が拒止にあたりますが、12月18日、戦車を伴う敵が侵攻、歩二百二十九第三大隊は戦車4両を炎上、2両を擱座させますが大損害を受け新飛行場を失陥してしまい、クリーク西側に転進、20日、獨工十五との連絡が途絶、23日、旧飛行場に敵が侵攻、28日、旧飛行場を失陥、守備隊、陸戦隊は夫々海岸に圧迫され包囲されてしまいます。

11月19日1600、ギルワ南方の歩百四十四第三大隊・歩四十一第三中隊(竹中秀太中尉、回復患者混成中隊)正面が豪軍2個大隊により奇襲攻撃を受け布陣間もない聯隊は混乱、前進陣地は突破され第三大隊長・桑田玄一郎中佐以下30名が散華(大隊戦力100名に)、塚本中佐の指揮により豪軍を拒止しますが、聯隊本部も大損害を受け一時軍旗奉焼が行われます(一部が焼けただけで無事)。
敵は火砲の支援に加え戦車を投入し攻勢を強化、ギルワ・ブナ方面の我が陣地に急速に浸透、21日、歩百四十四補充員800名がバサブアに上陸(歩四十一新第三大隊長・村瀬五平少佐指揮)、28日より獨混二十一旅團(山縣栗花生少将、歩百七十聯隊基幹)は4次に分かれ駆逐艦によりバサブアに上陸を開始しますが、敵機に阻まれ部隊・物資輸送は進みませんでした。

11月19日、転進中の聯隊主力及び支隊各隊はビンガ付近で濁流と化したクムシ河を渡河、濁流に加え糧食の欠乏、マラリアの蔓延により落伍者が続出するなか聯隊主力(支隊各隊)と第二大隊は2縦隊となり転進、26日、河口のゴナに集結し糧食の補給を受け、獨工十五・横山大佐指揮下に入り、さらに支隊はギルワに転進し増援部隊上陸の安全確保を下命されたため、28・29日、聯隊は舟艇によりギルワに集結、支隊はギルワ南西に歩百四十四(西南地區隊)、その後方1,500mに歩四十一、獨工十五(中央地區隊)、西南-中央地區隊の中間に村瀬大隊(西南豫備隊)、ギルワ付近に山砲五十五第一大隊を配置し、敵の侵攻を拒止します。

11月28日、豪軍第25旅団(4,000名)がバサブアに侵攻、12月1日、歩四十一第二・第三大隊(第二大隊長・小岩井少佐指揮)の先発隊(第五・第八中隊)は大発によりギルワを出発、バサブア増援に向かいますが、上陸地点を誤り敵の機関銃射撃を受けたため反転せざるを得ず、8日、バサブア地區隊(臨時道路構築隊長・山本恒一少佐以下700名)は後方混成部隊ながらも敵の重囲下勇戦、豪軍750名を死傷させますが、遂に玉砕しバサブアを失陥してしまいます。
山本少佐辞世「南の 防人どもの散り果てし 草むす野辺に われ伏して拝ろがむ」

12月14日、新南海支隊長・小田健作少将が獨混二十一旅團の第二次輸送隊とともにマンバレー河口(クムシ河北西50km)に上陸、舟艇により、19日、ギルワに到着し南海支隊長に着任、獨工十五聯隊長・横山大佐より指揮権を継承します。

31日、ブナ守備隊救援のため聯隊は歩百七十第一大隊・同第九中隊を指揮下に編入(聯隊44名、歩百七十285名)しギルワを出発(舟艇は燃料不足のため陸路)しますが、昭和18(1943)年1月2日、山本大佐は陣前にて米軍にわが国の正義を説いた後、天皇陛下万歳を唱え割腹自決、安田大佐は生存者を率い斬込み散華しブナ地區隊は玉砕、聯隊は生存者(陸軍180、海軍190名)を収容しギルワに帰還します。

9日、西南-中央地區隊間の連絡が遮断されたため、12日、歩百四十四は敵の包囲を突破し、敵中南西のソプタを急襲、敵の軍需品を鹵獲した後ブナ方面に転進、再びギルワに機動する事を企図しますが、戦力の低下から大損害を受け北西のクムシ河口に向かいます。

13日、小田少将は敵の浸透状況に鑑み最終決戦態勢を取るべく支隊司令部を海岸付近に移駐、15日、村瀬大隊、獨高第四十七大隊を後退させ陣地再編成を企図しますが、16日0900、敵は激烈な準備射撃ののち総攻撃を開始、1500、司令部と中央地區隊の連絡は遮断され、同地區隊は敵中に孤立してしまいます。
19日、病身ながら指揮を継続していた聯隊長・矢澤大佐はクムシ河口に後送(2月5日、陣没)され、聯隊(聯隊長代理・小岩井少佐)は野戰高射砲第四十七大隊(渕山貞英中佐)の指揮下に入ります。
20日、支隊は獨混二十一旅團よりクムシ河口に転進を下命され、小田少将は隷下部隊に「2000、敵中を突破し転進」、及び生存者を優先すべく行動不能患者300名の残置を下命、患者取扱いに関し自らが全責任を負う命令を下達します。
2000、中央地區隊は豪雨のなか村瀬大隊を前衛として転進を開始、多数の重傷者は転進部隊に別れを告げ相次いで自決していきます。

1月21日未明、支隊司令部15名は転進を開始しますが、小田少将は当番兵・福岡兵長に懐中時計と鯖缶を渡し先行させ「万事これで終わった。一つ煙草でもゆっくり吸おう」と言い残すと繁みに入り外套を敷くとその上で司令部附・富田中佐とともに拳銃で自決しました。

23日、支隊(歩百四十四聯隊長・吉田章雄大佐代理)各隊はバサブア-ソプタ道を突破し、25日、シカラバンボで連絡、26日、シリ、27日、ソボリ、28日、ヒリ、29日、クンバタを経由し、30日、逐次クムシ河右岸地区に到着、2月5日、支隊は集結を完了します。

29日、クムシ河口に集結した聯隊は第五十一師團(中野英光中将、宇都宮)指揮下に編入、マンバレー転進を下命され、2月2日、クムシ河口を大発にて出発、マギリを経由し、8日、マンバレーに集結し同地の守備、2月20日、南方200mのマロロに一部を派遣(3月16日、主力に復帰)し守備にあたり、5月20日、カミタム、ムボ(サラモア西方)に集結し第五十一師団の指揮下を脱し、6月中旬、敵空襲下、ツルブに移駐、陣地構築及び飛行場補修にあたり、9月2日、聯隊は大陸命第八百三十四號により第十八軍戦闘序列を解かれ復員下令、ラバウルに移駐し、摩耶山丸に移乗、16日、オ六〇二A船團としてラバウルを出航、21日、パラオに寄港、23日、フ三〇二船團としてパラオを出航、28日、博多湾に上陸、関釜連絡船にて釜山に上陸、29日、列車にて朝鮮平壌に到着、兵営(昭和17年12月25日、第五師團の編成改正により歩四十一は第三十師團に隷属転移)に帰還します。
聯隊は1,883名でポートモレスビーに向かい、途中補充員を加えますが、作戦中聯隊長・矢澤大佐以下2,021名が散華、300名が戦傷病により後送、122名が復員します。

昭和19(1944)年4月12日、第三十師團(両角業作中将)は第三十五軍(鈴木宗作中将)戦闘序列に編入され動員下令、5月7日、聯隊(炭谷鷹義大佐)は動員完結、8日、平壌を出発、列車にて、19日、釜山に到着、聯隊主力は日昌丸に、第三大隊は師團司令部とともに玉津丸に乗船し、10日、釜山を出航、門司に入港し補充要員、物資を積載、13日、門司を出航、23日、マニラに寄港し、25日、本部はミンダナオ島カガヤンに上陸し聯隊本部・第二大隊(尾崎貴和大尉)は同地に、第一大隊(西田昇少佐)はナンビットに、第三大隊(近藤泰彦少佐)はスリガオに上陸し同地の匪賊討伐にあたり、6月、第一大隊が、7月、聯隊本部・第二大隊はブツアンに移駐し引き続き匪賊討伐にあたりますが、6月18日、第九中隊長・岡本國一大尉、7月10日、第二大隊長・尾崎大尉が散華(後任第二大隊長・正岡隆大尉)してしまいます。

10月17日、米軍(D.マッカーサー大将)がレイテ湾のスルアン島に上陸、大本營は米軍の本格的侵攻と判断し、10月19日0000、「捷一號作戰」を発動します。
10月20日、米軍は艦船701隻、総兵力7個師團26万名を擁しレイテ島に上陸を開始します。

聯隊は軍予備隊に部署されレイテ島防衛にあたる第十六師團(牧野四郎中将、京都)の増援としてレイテ島上陸を下命(多號作戰)され、21日、カガヤンに集結、24日、第三大隊を残置し聯隊主力は第一輸送隊(一等輸送艦第六・第九・第十號)、第二輸送隊(二等輸送艦第百一・百二號)、第十六戰隊(左近允尚正少将、軽巡「「鬼怒」、駆逐艦「浦波」)に分乗しカガヤンを出航、26日、オルモックに上陸しカナンガに集結、24日にセブ島より上陸した天兵大隊(藤原義雄少佐、補充要員により編成)を指揮下に編入し、第十六師團指揮下に編入されます。
26日、聯隊は軍主力のタクロバン進出を容易にすべくハロ東方6kmカビテ三叉路鉄橋の確保を下命され、2梯団に別れ第一大隊を前衛としてカナンガを出発、匪賊を撃破しつつ南下、28日、カリガラに進撃、米第1騎兵師団の斥候部隊150を撃退、天兵大隊を守備に残置し、聯隊長・炭谷大佐は聯隊主力より戦力を抽出、ハロに急進中の第一大隊に追求させ、聯隊主力はトンガに前進します。

28日、既に戦車・迫撃砲を伴う米第24師団第34歩兵連隊にカビテ三叉路鉄橋を突破されてしまっていたため、聯隊は同地守備の歩三十三生存者1個中隊と連絡、ハロ西方3km付近に第一大隊を第一線、後方700mに聯隊砲中隊、聯隊本部・第二大隊の順に布陣し、29日、侵攻してきた米34連隊を迎撃、ハサントニーニョ-ギナガン河の線において速射砲、迫撃砲、機関銃を有効に配置し敵に大損害を与え侵攻を拒止、第一師團(片岡薫中将、東京)の戦闘配備を容易にしますが、敵火砲・戦車の砲撃に聯隊兵力半減の大損害を受けるに至り炭谷大佐は優勢な火力を有する敵との正面対戦は不利と判断聯隊主力をカリガラ方面に転進させるとともに第一大隊に転進を下達、31日、第一大隊は豪雨に紛れ転進、聯隊主力を追求します。
30日、米騎兵第一師団が舟艇機動によりカリガラに侵攻してきたため、聯隊はクラシアン方面に転進します。

炭谷大佐は全般の状況、敵情に鑑みカリガラ平地が見通せ、且つ爾後の攻勢転移の拠点たる同地西南、脊梁山脈の要地・五一七高地に転進し複郭陣地を築城、カリガラから侵攻して来た米騎兵第1師団(第5・第12騎兵連隊)を迎撃しますが、山地脚が突出していたため敵の支援射撃により損害が増加、15日、五一七高地を徹します。

聯隊は11月1日、オルモック湾に上陸した第一師團の指揮下に編入され、17日、パラポンに前進してきた第百二師團(福榮眞平中将、11月1日、パロンポンに上陸)指揮下に編入され、五一七高地南西方のピナ山に第一大隊、七一六高地に第二大隊、聯隊本部は両大隊中間に位置、北側の獨立歩兵第百七十一大隊(田邊侃二中佐)、南側の獨歩百六十九大隊(西村茂中佐)と連携し米騎兵第一師団を迎撃、地形を活かし火砲・戦車の運用を妨げ敵の侵攻を拒止しますが補給が途絶え次第に糧食、弾薬が欠乏、一方敵は逐次補給を受け攻勢を強化、聯隊の損害は増加していきます(20日時点で生存者600名)。

12月8日、米軍が西海岸のオルモックに上陸したことから、我軍は腹背に敵を受ける事になったため、12月21日、第三十五軍は隷下各部隊に西海岸ピリヤバ方面への転進を下命、23日、250名に減じた聯隊は第二梯団右縦隊として敵から離脱し転進を開始、昭和20(1945)年1月2日、マタコブに集結します。
8日、アケアカ(カンギポット山南方)付近の第三十五軍司令部において開催された兵団長会合において鈴木中将は第一師團長・片岡中将、歩四十一聯隊長・炭谷大佐、歩七十七聯隊長・新郷榮次大佐に対し、パロポン攻撃(セブ島転進:地號作戰)を下達、1月初旬、大発により第一師團の転進が開始されます(第三十五軍司令部は3月下旬、セブ島に移駐しますが、鈴木中将は永久抗戦指揮のため丸木舟でミンダナオ島へ移動途中の4月19日、米軍機の機銃掃射を受け散華)。

1月中旬、聯隊は歩一(揚田虎己大佐)からカタプカン守備を継承し、15日、転進待機部隊を指揮下に編入しますが、カモテス海は敵の厳重な封鎖行動により稼働舟艇はことごとく捕捉撃破されてしまい、20日、作戦は停止され、以降は伝馬船や丸木舟、筏等で小規模ながら継続されるも、2月6日、遂に作戦は無期延期となり、3月上旬、聯隊はレイテ島残留の第三十五軍隷下、第十六師團、第二十六師團(栗栖猛夫少将)、第六十八旅團(沖靜夫少将)等とともにカンギポット山に集結、聯隊は同山北側ビリヤバ谷地に布陣し補給が途絶え、疫病の蔓延する中で米軍、匪賊と交戦、自戦自活態勢に入ります。
27日、ビリヤバ谷地において軍旗祭が挙行されます。

5月1日、アピハオ、ビリヤバ方面より米軍が侵攻してきたため、1ヶ月に渡り交戦、6月5日、ピリヤバ東北のカルプゴス山方面に転進を開始しますが敵の攻撃、糧食欠乏により落伍者が続出、13日、米軍150と交戦、補給の途絶した聯隊は大損害を受け戦力は60名(30名は傷病者)に低下、7月15日、聯隊長・炭谷大佐はこれ以上の継戦と軍旗の安全な捧持は困難と判断し軍旗を奉焼、残存兵力を率い敵追撃部隊に斬込み敢行し玉砕してしまいます。

聯隊主力のレイテ島進出後、ミンダナオ島守備にあたる第三大隊は敵機の空襲下、陣地構築、訓練にあたります。
昭和20(1945)年2月27日、ミンダナオ島守備の第三大隊が敵機の空襲を受け、第一地區隊の視察中の大隊長・近藤少佐が散華(後任、師團兵器勤務隊長・高木治郎少佐)してしまいます。
3月10日、米第41師団(第162・第163歩兵連隊)がミンダナオ島サンボアンガ付近に上陸して来ます。
4月29日、大隊はブツアンに集結、師團長・両角中将よりワロエ移駐と師團糧秣収集、及び自戦自活態勢準備を下命され、5月4日、移駐を開始しますが、侵攻してきた敵の急襲により大損害を受けてしまいます。
23日、先遣隊(第十中隊、ブツアン憲兵分隊)がランガシアンに到着しますが糧食の欠乏、疫病の蔓延により落伍者が続出するなか、敵(正規兵・匪賊混成)のハラピタン地区への急速な浸透により大隊は集結する間も無く交戦、航空機、火砲の攻撃に損害が増加、大隊主力はカワヤン渡河点北方500m谷地の複郭陣地に拠り敵の侵攻拒止にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝しジョンソンの師團司令部と連絡、25日、サントトーマスにおいて師團慰霊祭を挙行、26日、師團はサグントの米軍師団司令部に軍使を派遣、停戦に関する折衝を行い、9月8日、サグントにおいて武装解除され、高木少佐以下491名が復員します(聯隊生還者は他、主力15名、カガヤン残置の132名中89名)。


歩兵第二百三十二聯隊(藤六八六五)
昭和14(1939)年8月1日、歩兵第四十一聯隊補充隊に歩兵第二百三十二聯隊の編成下令、第一(猪子少佐)・第二大隊(原研介少佐)を歩四十一補充隊、第三大隊(谷村少佐)を歩二十一補充隊により編成、10日、編成完結(中村純次大佐)し、4日に留守第五師團において編成完結した第三十九師團(村上啓作中将)第三十九歩兵團(井上芳佐少将)隷下に編入され、9月4日、宮中において軍旗を拝受します。
歩兵第四十一聯隊 歩兵第二百三十二聯隊 軍旗(福山)
▲歩兵第二百三十二聯隊 軍旗

10月8日、第三大隊が浜田より、9日、聯隊主力が福山より出発、広島で合流し、ビクトリヤ丸に乗船、師團乗船の輸送船12隻とともに宇品を出航、同日、師團は中支那派遣軍戦闘序列の第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入され、18日、漢口に到着、19日、聯隊は上陸し第三大隊を歩兵團主力として残置し北上、26日、主力は河口鎮、第二大隊は黄安城に前進し第三十四師團(關龜治中将、大阪)の警備を継承します。

昭和14年4~11月、第二次整訓を完了した支那軍(李宗仁軍50個師40万)は12月中旬、武漢三鎮の奪還を企図し冬季反攻を開始、昭和15(1940)年1月16日、河口鎮西方の夏店(第三中隊守備)に支那軍が侵攻、聯隊主力は救援に進撃、歩二百三十一第九・第十二・第三機關銃中隊、輜重三十九第二・第三中隊(軽戦車積載)が増援に派遣されますが、聯隊主力は姑山寺高地(夏店まで13km)で迫撃砲を伴う支那第一七一師の包囲を受け、聯隊長・中村大佐は脚部に被弾し後送(2月3日、後任に大澤寅一大佐)するなど損害を受けるも、21日、援軍と連絡し敵を撃退します。

23日、聯隊は歩二百三十一、野砲三十九、工三十九とともに広水から東進、25km地点で支那軍を捕捉殲滅し、30日、帰還し、孝咸、花園に移駐し警備にあたります。

昭和15(1940)年4月10日、第十一軍は増大する支那軍の反攻により我が第一線が擾乱、損害を受け、且つ敵に戦勝感を持たせるのは得策では無いため、雨季までに支那軍を撃滅する宜昌作戰を企図、13日、聯隊は1/4を抽出し留守隊として残置(8月10日、原隊を追求、復帰)し原駐地を出発、第三十九師團とともに400kmを機動し、20日、応山西方地区に集結、5月3日、聯隊師團左翼隊として歩二百三十一、歩二百三十三第一大隊とともに重点攻撃隊に部署され痕山に進撃、敵の巧妙な火網形成・地形を活かした堅陣に損害を受けながらも攻略、5日、反転し随県を攻略、2縦隊となって急進、6日、唐県、興隆集、8日、棗陽を捜索三十九(早川一郎中佐)が急進し攻略、同地北方において支那第一七二・一七四・一八九師を包囲殲滅します。
11日、棗陽に集結、支那軍は我軍の反転(速進速退)と判断し、2個集団軍、3個軍が侵攻してきますが、12日、師團は各歩兵聯隊を3縦隊(攻撃縦隊)として南進、第十三師團とともに支那第三三集団軍(張自忠上将)を撃破、13日、方家集東西の線に進撃します。
14日、師團経理部が物資収集中に支那軍の奇襲を受け包囲されたため、第二大隊は歩二百三十一第二大隊と救援に向かい、16日、軍司令部より「敵第三三集団軍総部(司令部)が交戦地付近に所在」の情報に接し、師團は聯隊主力、歩二百三十一第三大隊を増派、聯隊が敵総部を捕捉包囲、傷病兵患者収容隊の歩二百三十一第十一中隊第一小隊(松本治雄少尉)第三分隊長・堂野軍曹が銃撃、第四分隊長・藤岡卓郎一等兵が刺突し張自忠上将を討ち取ります。

17日、師團は反転攻勢に転移、聯隊は中央縦隊として北上し追撃して来た支那第三九軍を撃破しつつ瀼河を渡河、左旋西進し支那軍を殲滅、19日、白河に進撃、20日、白河を渡河し21日、支那軍を潰走させますが、21日、白河渡河中の師團左翼歩二百三十三が対岸敵陣からの敵銃砲撃を受け中洲に孤立、聯隊長・神埼哲次郎大佐が散華するなど300名以上が散華する大損害を受けてしまいます。
24日、墟家湾周辺に集結、28日、南進を再開し、29日、王家集付近に集結し、作戦第一期が終了します。
31日、野砲三十九、獨山砲二の支援射撃のもと漢水を渡河、聯隊は師團右縦隊先頭として支那軍を撃破しつつ南進、11日、宜昌東方15kmの鴉雀嶺の敵陣を攻略し師團は軍先頭として進撃しますが、軍命令により進撃を停止、12日、第十三師團が宜昌を攻略し作戦は終結します。
13日、作戦終了後、師團は原駐地に復帰する予定でしたが、一転襄西地区を確保する事となったため反転北上を開始、18日、司令部は荊門、聯隊は子稜舗付近の警備にあたります。

7月2日、第十・第十一・第三機関銃中隊は野砲三十九の一部とともに歩三十九旅團長・井上少将指揮下に、師團の脅威となっていた支那第二一師、第九二軍補充団の拠点・猴洞山に進撃、敵銃砲火を突破し山頂の敵陣を攻略します。
11月13日、第十一軍は漢水作戰を発動、陽動牽制として第二大隊は荊門北方の敵を撃破し、30日、原駐地に帰還、12月16日、第二大隊は原駐地を出発、捜索三十九の自動車で軍の糧米買付け地・沙市の、20日、第三小隊(田中武夫少尉)は十里舗の警備、昭和16(1941)年1月8日から自動車道の開設工事にあたり、2月10日、捜索三十九第二中隊(江木少佐)守備の嶺家口に支那新編二三師、四三師が侵攻、11日、第二大隊は救援し進撃し激戦ののち敵を撃退(大隊長・原少佐、負傷)します。
3月下旬、第四師團の移駐に伴い聯隊の警備地は李家付近まで拡大、第一大隊は李家第二大隊は孔家湾に移駐します。

5月8日、中支那派遣軍の中原會戰を容易にすべく第十一軍は江北殲滅作戰を発動、聯隊(第二大隊欠)は蛮河付近に進撃、支那軍を撃破し陽動にあたります。

9月1日、第十一軍は支那第九戦区軍を撃破すべく長沙作戰を発動、第三十九師團は第十三師團とともに襄西地区の支那第五・第六戦区軍を拘束すべく敵の侵攻を10月10日と判断し、機先を制し4日の攻撃を策定しますが、9月28日、蒋介石は我が配備が手薄な襄西地区(宜昌)奪還を企図し攻撃を下令、師團防衛線全線に渡り支那軍23個師が来襲、29日、聯隊も総攻撃を受け、10月2日、第十三師團が守備する宜昌が包囲されます。
6日、第十一軍(阿南惟幾中将)は第三十九師團に宜昌救援を下命、7日、歩二百三十三第三大隊に続き、8日、司令部護衛中隊の歩二百三十二第六中隊の1個小隊(福島繁少尉)が重爆に搭乗、宜昌飛行場に強行着陸し飛行場の守備に、10日、歩二百三十二第三大隊は歩二百三十三集成2個大隊とともに師團長・澄田𧶛四郎中将の指揮下荊門を出発、13日、宜昌東側の支那軍を撃破、15日、敵は急速に撤退します。

12月30日、師團は敵を牽制し妄動を封鎖すべく冬季山岳作戰を発動、第二大隊は歩二百三十一第一大隊、歩二百三十三第二大隊とともに荊北地区に進撃、左旋し遠安を経由、昭和17(1942)年1月6日、原駐地に復帰します。

9月30日、第十三師團の重慶方面転出に伴い第三十九師團は宜昌の警備も担当、10月1日から聯隊は宜昌対岸地区の穿心店に聯隊本部・第三大隊、乾湲場に聯隊砲中隊、朱家河に第一大隊、育湲河に第二大隊が移駐し、支那第六戦区軍(第六・一八・三〇軍)と対峙し警備にあたります。

12月18日、第十一軍司令官・塚田攻中将、同高級参謀・藤原武大佐は南京で開催された軍司令官会同に出席した帰途、搭乗機が大別山系で遭難したため、軍は捜索のため大別山作戰を発動、聯隊は松本智中尉、横山良人中尉指揮の2個中隊を派遣、20日、彌陀寺付近で司令官、参謀の遺体を収容、遺体略奪に来た支那軍を撃退します。
※遺体を発見したのは第三師團、第六十八師團等諸説あります。

昭和18(1943)年2月14日、第十一軍(横山勇中将)は汚陽を中心とする長江北岸、湖沼三角地帯に蟠踞する支那軍を殲滅すべく江北殲滅作戰を発動、第一大隊(磯塚健二少佐)は両角支隊(第三十九歩兵團長・両角業作少将、歩二百三十一第三大隊、歩二百三十三第一・第三大隊、野砲三十九一部)に編入され、敵牽制のため百里州の敵を回避し対岸に渡河、敵の背後に進撃し退路を遮断、百里州を急襲し包囲殲滅、3月上旬、原駐地に復帰します。

3月、歩二百三十三第二大隊守備の龍泉舗に支那第一三師が来襲、第三大隊は隣接の歩二百三十一第二大隊と連携し撃退します。

3月22日、軍は長江の輸送量低下から、船団を下航させるための航路啓開のため、その沿岸部の支那軍を掃討すべく江南進攻作戰を発動、23日、聯隊(濱田弘大佐指揮、第二大隊、第八中隊、聯隊砲中隊、第十一・第十二中隊の各1個小隊)は穿心店に集結し進撃を開始します。
24日、天宝山の支那軍陣地背後に迂回すべく谷地を進撃中、支那軍の包囲下に陥り迫撃砲、機関銃を擁する強力な銃砲火を受け聯隊は敵中に分断されてしまいます。
迫撃砲弾を被弾した駄馬60頭が聯隊砲を駄載したまま敵陣に奔ったため、中隊長・二股中尉は聯隊砲を取り返すべく敵陣に斬込み行方不明に、第六中隊長代理(各中隊は分哨の関係で全て代理)・井上史郎少尉散華、後任の第二大隊副官・佐藤靜雄中尉も散華、敵中に孤立した第七中隊は中隊長代理・堀一男中尉以下全員玉砕するなか、第六中隊は西方高地を奪取、第八中隊が増援に向かい敵重囲の突破を図り8回突撃しますが大損害を受けてしまいます。
聯隊本部も襲撃を受け濱田大佐も拳銃で応戦、軍鳩手が伝書鳩6羽に緊急電を付け放鳥、5羽が撃ち落とされるなか、肩羽に重傷を追った第二十號伝書鳩(師團長より感状授与)が穿心店に帰着、濱田大佐は援軍の要請とともに聯隊の転進を決し自ら指揮の聯隊本部を後衛として曇天を利用しつつ敵中を突破し転進を開始、24日、師團主力(歩二百三十一、歩二百三十三、歩二百三十二残存部隊)が救援に進撃してきたため、敵は撤退します。
聯隊は700名で天宝山に進撃しましたが170名が散華、680名が負傷する大損害を受けてしまいます。

4月15日、師團は次期江南進攻作戰(師團は第三期に投入予定)のため敵の反攻を封鎖すべく龍北掃討戦を発動、聯隊(第二大隊)は吉武支隊(歩二百三十三聯隊長・吉武安正大佐、同聯隊第一・第二大隊、歩二百三十一第三大隊)の北進の呼応し、東方より敵線を横断し西進、再び天宝山に進撃し獨山砲二(森戸隆三大佐)の十五糎加農砲の支援を受け吉武支隊と連絡、敵を包囲殲滅し、17日、原駐地に復帰します。

5月22日、聯隊(第三大隊)は第十一中隊を先頭に雲地付近で長江を渡河中、敵に察知されたため野砲三十九の支援射撃のもと強行渡河し運山城を攻略し聯隊は長陽に向かいますが、23日、師團命令により西流渓南方に進撃、27日、柳林子河谷付近で支那軍と交戦、同日、第二碇泊場司令官(里見金二大佐、漢口)は53隻(16,000t)の船団の下航に成功、30日、聯隊は集結、31日、反転を開始、6月2日、原駐地に復帰します。

11月9日、第十一軍は江南進攻作戰の継続として常徳作戰が発動するに及び、10月27日、軍主力(第三・第十三・第五十八・第百十六師團)の右側背援護として師團(歩二百三十一第三大隊、歩二百三十二第二大隊、歩二百三十三第一大隊、野砲三十九、工三十九)は百里州に渡河集結、29日、宛市に上陸、11月2日、西進しクリーク地帯を踏破し支那軍を撃破しつつ、5日、枝江-茶元寺の線に進撃、9日、漢洋河右岸に達し支那陳誠軍と対峙し同軍の南下(ビルマ方面侵攻)阻止、漁洋関付近の掃討と守備にあたり、28日、軍主力が常徳城を攻略したため、12月19日、転進を開始、24日、原駐地に復帰します。

昭和19(1944)年1月16日、聯隊から第一・第二中隊が、獨立歩兵第五旅團(野地嘉平少将、31日編成完結)の基幹要員として抽出され第三十九師團の指揮下に編入、また第十三師團の前線移動に伴い、第三十九師團は第十三師團の警備地沙市・荊門地区を獨立歩兵第五旅團とともに継承、師團の警備地は襄西全域に拡大し、聯隊(山田正吉大佐)は当陽、清渓河を担任、聯隊本部(通信隊、聯隊砲、乗馬騎兵、弾薬班、1個中隊程)は師團予備、第一大隊(山中孝夫大尉)を当陽、第二大隊(安藤為一少佐)を清渓河、第三大隊(志賀明大尉)を仙人砦から双蓮寺に配置し警備にあたりますが、支那第六戦区軍(44個師)と対峙する広大な警備地に師團は苦戦します。

4月29日、大本營は大陸から本土への空襲の現実化、特に将来B29の出現による大陸南西部からの本土空襲が可能になると推測、大陸南西部の敵飛行場を覆滅すべく湘桂作戰を発動、第十一軍主力は湘桂作戰参加のため湖南地区に進撃します。

6月1日、聯隊本部が清渓河の討伐に出動中、支那軍が師團司令部に侵攻、司令部警備にあたっていた第十二中隊(田中武夫中尉)は師團経理部、兵器部、軍医部、獣医部、野戦病院患者を指揮し撃退します。

6月上旬、支那第六戦区軍は湘桂作戰に乗じ宜西地区に一斉に侵攻、6日、第二大隊陣地は3個団が侵攻するも撃退します。

昭和20(1945)年1月1日、第三十九師團(佐々直之助中将)は第三十四軍(櫛淵宜一中将)戦闘序列に隷属転移します。

3月20日、第三十四軍は北支那方面軍の老河口(有力な敵飛行場が所在)攻略に呼応し、隷下各歩兵聯隊から抽出した集成4個大隊を第三十九師團に編入、支那軍の退路遮断のため襄樊作戰を発動します。
聯隊は集成1個大隊(第一大隊長・黒瀬市夫大尉)に配属1個大隊を加え左翼隊(聯隊長・山田大佐指揮)として右翼隊(歩二百三十三聯隊長・富永一大佐、4個大隊)とともに師團前衛となり子稜舗高地を出発(両隊とも数名1班の挺進斬込隊を編成配属)、夜行軍にて北進、27日、聯隊は右翼隊、歩二百三十一集成大隊(上川路大尉)とともに襄陽、続いて聯隊単独で対岸の樊城を攻略、31日、漢水右岸を北上、4月2日、穀城南方の南河の河岸に進出しますが、師團長・佐々中将は北支那方面軍が老河口を攻略(実際は8日)したものと判断し、また敵反攻の危険度が増してきたため、15日、反転を下命、下旬、沙洋鎮で漢水を渡河し、広城を経て湯地に移駐します。

4月下旬、師團は上海地区防衛の中核兵團として位置付けられ、第百三十二師團(柳川悌中将)新設のため基幹要員として1/3の将兵を抽出、同師團に襄西地区の警備を移譲し移駐を開始しますが、5月30日、師團は關東軍(山田乙三大将)戦闘序列に編入され数梯団に別れ夜間の徒歩行軍(行軍3日、休養1日)にて移駐を開始、7月上旬、黄河鉄橋を通過、新郷に集結、列車にて北上、26日、奉天を経由し西安に集結し、四平街に移駐します。
7月30日、師團は第三十軍(飯田祥二郎予中将)戦闘序列に編入されます。
8月9日、ソ連軍は日ソ中立条約を一方的に破棄し満州國に侵攻、師團はソ連軍を撃砕すべく陣地構築、訓練実施中、8月15日を迎えます。
16日、聯隊は四平街揚木材の戦車隊兵営に集結、聯隊長・山田大佐が『大東亞戰爭終結ノ詔書』を奉読、一同で宮城を遥拝後、軍旗訣別式を挙行、軍旗が奉焼されます。

第三十九師團はソ連軍により武装解除された後、新京に移駐、さらにシベリア鉄道によりペログルスクを経由、9月下旬、チタのカダラ収容所に連行され劣悪な環境・粗悪な給養下、重労働に従事、赤化教育にも感化される事無く、昭和23(1948)年6月からの帰国によりナホトカを経由し舞鶴に上陸し逐次復員します。


歩兵第百四十一聯隊(夏九八五三、西部第六十三部隊)
昭和15(1940)年7月10日、陸軍省は『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』を発令(其ノ一は航空軍備増強)し常備部隊の編制を改編、既存師團を3単位に改編するとともに獨立歩兵團の新設を決定、後に師團化を想定した占領地治安部隊として第六十一、第六十二、第六十三、第六十四、第六十六、第六十七獨立歩兵團とともに、歩兵第四十一聯隊補充隊において第六十五獨立歩兵團司令部(奈良晃中将)が編成されます。

昭和16(1941)年3月1日、第六十五獨立歩兵團司令部は第六十五旅團司令部に改編されます。

8月5日、歩兵第四十一聯隊補充隊に歩兵第百四十一聯隊の編成下令、14日、歩兵第四十一聯隊補充隊は歩兵第百四十一聯隊に改編され編成完結(今井武夫大佐)し、同日、同補充隊において編成された第六十五旅團司令部隷下に編入され、9月10日、宮中において軍旗を拝受します。
歩兵第四十一聯隊 歩兵第百四十一聯隊 軍旗(昭和17年4月9日、リマイ山において)(福山)
▲歩兵第百四十一聯隊 軍旗
 昭和17年4月9日、バターン半島リマイ山において

第六十五旅團司令部
歩兵第百二十二聯隊(松山)
歩兵第百四十一聯隊(福山)
歩兵第百四十二聯隊(松江)
第六十五旅團 工兵隊
  〃       通信隊
  〃       野戰病院

歩兵聯隊は本部及び2個大隊(3個中隊編制)、野砲中隊、通信中隊、聯隊砲小隊の変則編制で、定員は2,000名でした。

11月6日、旅團は第十四軍(本間雅晴中将)戦闘序列に隷属転移、12日、先発隊に続き、13日、聯隊主力は旅團司令部とともに福山を出発、列車にて門司に移動、14日、宇品港を出航、19日、基隆に上陸し、列車にて宜蘭に移駐し訓練にあたり、12月7日、嘉義市西方の白河陸軍演習廠舎に移駐します。

12月23日、聯隊は列車にて高雄港に集結、30日、旅團は輸送船14隻に、聯隊は昭浦丸、三興丸、はわい丸に分乗し高雄港を出航、昭和17(1942)年1月1日、リンガエン湾に上陸し旅團はサンファビアンに集結しロザレスを経由し、3日、タルラックに到着します。
5日、聯隊はタルラックを出発、7日、ポーラックに、8日、旅團はH作戰(ジャワ島攻略)に転出する第四十八師團(土橋勇逸中将、熊本。3月8日、マニラ出発)と交代、歩九(武智漸大佐、京都。1月29日、第十六師團に復帰命令、2月2日、戦線を離脱)を指揮下に編入し、バターン半島に前進、フロリダブランカに進出、同日、聯隊はデビルピアンに到着し山砲四十八第三大隊を指揮下に編入します。

9日、第十四軍は第十六師團、第六十五旅團にバターン半島の攻撃を下命、聯隊は旅團左翼隊として臺灣歩一(今井一二三大佐)と交代し第七中隊(第二大隊長・服部忠三郎少佐指揮)を前衛に、旅團右翼隊の歩九と並進しクリースよりナチブ山東麓へ進撃します。

11日、歩九が密林のため進撃が遅れたため、聯隊は単独でマバタン付近の米第57連隊陣地を攻撃、カラギナン川上流地点で右岸断崖を登坂、ムラウインに進撃、聯隊前衛の第二大隊は米第57連隊陣地に突撃、哨戒線を突破、12日、敵の迫撃砲を伴う激烈な逆襲を受け、大隊長・服部少佐が散華(後任、立川鴻一少佐)するなど大損害を受けますがマバタンの敵陣を攻略、24日、聯隊は第一大隊(戸伏長之少佐)を第一線として部署、総攻撃にてアブカイ、ハシエンダ付近の敵左翼陣地を攻略しますが、戦車を伴う敵の逆襲により損害が増加、28日、野戰重砲兵第一聯隊が進出して来たため、聯隊は旅團右翼隊に部署され西方アポアポ、タリサイ両河合流点を渡河しタリサイ河右岸に転進、30日、第一大隊を第一線としてサマット山の敵陣地に攻撃を開始しますが、敵砲撃により聯隊戦力は半分に低下する大損害を受けてしまいます。

2月8日、大本營は比島攻略の増援として古豪・第四師團(北野憲造中将、大阪)を第十一軍戦闘序列から第十四軍戦闘序列に隷属転移させます。

23日、第十四軍は戦力整理のため聯隊を4km後方のアポアポ河に転進させます。
28日、内地より補充兵が到着、聯隊は戦力を回復、3月11日、聯隊に第二次攻撃が下令され、ティアウェル河左岸崖上から進撃し転進以前の陣地を再度攻略し敵を圧迫、26日、第一砲兵隊(北島麒子雄中将)が攻撃準備射撃を実施、28日、聯隊はチクパオ、ティアウェル河左岸台端線の敵陣を攻略、4月2日、軍砲兵とともに野砲・聯隊砲を展開、3日、効力射準備射撃に続き攻撃射撃の後、聯隊は前進を開始、敵機関銃陣地を撃破しつつ、6日、一四二一高地を攻略、8日、リマイ山に進撃、9日、聯隊は第七中隊を守備に残置、マリベレス山攻撃のためサンビセン河谷に集結中、0900、バターン半島の米司令官E.キング少将は降伏してきたため、ティアウェル河付近に集結します。

4月12日、旅團はルソン島東部の治安回復を下命されますが、この頃から旅團内にマラリアが蔓延し出し、13日、聯隊は旅團とともにティアウェル河を出発、18日、サンフェルナンドに集結、列車にてタルラックに移動し旅團戦没将兵の合同慰霊祭を挙行、23日、聯隊は25日、聯隊主力はカバナツアン、第一大隊はボンガボンに移駐し敗残兵、匪賊の戡定にあたります。

4月29日、マニラ防衛隊の騎兵第四聯隊(今村安大佐)の復員(6月12日、第四師團に復員下令)に伴いマニラ地区を南北に分割、南側を歩三十三第十中隊、北側を歩百四十一第二大隊が担当する事が決定、6月13日、聯隊長・今井大佐がマニラ防衛隊長を継承します。
第一大隊は旅團直轄としてバギオに移駐、カガヤン河谷に籠る米比第14歩兵連隊(G.ナカール中佐)を討伐します。

11月20日、旅團主力は第八方面軍(今村均大将)戦闘序列に隷属転移、23日、聯隊(中嶋正司大佐)は西南太平洋への転進を下令され、27日、旅團は歩百二十二、歩百四十二を比島防衛に残置しマニラ港を出航、12月3日、ラバウルに上陸します。
聯隊は田ノ浦地区の警備にあたり、ラバウル地区飛行場の設定、補修にあたるとともに上陸戦闘訓練にあたります。

昭和18(1943)年5月4日、軍は西部ニューブリテン島の態勢を強化し、ダンピール海峡地帯の確保を企図し、旅團主力のツルブ転進を決定、5月12日、第一大隊に転進下令、6月3日、大隊はツルブに転進、7月27日、聯隊(片山憲四朗大佐)主力はツルブ転進し第一大隊を掌握し、同地の警備、飛行場設定、陣地構築にあたります。
9月5日、旅團は歩五十三(角谷弘毅大佐、鳥取。第一・第二大隊)を指揮下に編入し、松田支隊(第六十五旅團長・松田巌少将)を編成します。
米軍はニューギニア方面から逐次ダンピール海峡に浸透、空襲及び魚雷艇が侵入してきたため、聯隊は第八方面軍隷下部隊より抽出された兵力を基幹に第三大隊(辰巳少佐)が編成され、聯隊本部とともにニゴールに、第一大隊をブッシング、第二大隊をアイシガ、第十中隊をマーカスに配置し敵の上陸に備えます。

11月28日、小森支隊(歩八十一第一大隊:小森政光少佐)がラバウルを出航しイボキに上陸、陸路マーカス飛行場に進撃し、12月初旬、小森支隊はマーカス岬配備の歩百四十一第十中隊を指揮下に編入します。

12月14日、米軍1個連隊はマーカス岬に空襲を開始、15日0530、上陸を開始します。
マーカス岬守備の第五十一師團歩百十五臨時編成第一中隊(福島中尉)は寡兵を以て勇戦敢闘しますが、午後になり遂に転進します。
15日、松田少将は歩百四十一第一大隊(戸伏少佐)にマーカス岬への逆上陸を下命、17日、大隊はブッシングを出発、海上機動によりマーカス岬に進撃しますが岬付近は暗礁が多く、また点在する島とともにことごとく敵の視射程内にあり大発の機動を阻害したため、大隊はやむなく左旋し北方海岸オモイ付近に上陸したものの、湿地帯に前進は地帯、27日、湿地帯を突破し東進します。

12月20日、小森大隊は福島中隊と連絡し、25日、米軍橋頭堡に攻撃を開始しますが敵は続々と戦力を増強、28日、歩百四十一第一大隊を指揮下に入れ第一線に部署し連日夜襲を決行しますが、橋頭堡を破砕するには至らず、29日、米軍の侵攻を拒止すべく巧妙な遮蔽陣地を構築し戦略的持久に転じます。

昭和19(1944)年1月4日、小森大隊の敢闘は天聴に達し、御嘉賞を賜ります。
16日、B25を主体とする戦爆連合50機が来襲、戸伏臍帯の大隊砲全損、第一線左右両中隊は大損害を受けてしまいます。
小森大隊は米軍の戦車を伴う度重なる攻撃を拒止しますが損害は増加、補給も途絶えるにいたり、2月26日、第十七師團は支隊に転進を下命、28日、敵と離脱し東北方に転進を開始、3月5日、北海岸に達します。

昭和18(1943)年12月26日、米第一海兵師團がグロスター岬の東岸ナタモ、西岸タワレに上陸を開始したため、聯隊は松田支隊警備隊に部署されエガロップに北上集結を開始、27日、聯隊主力はエガロップに到着、28日、聯隊は敵上陸部隊と交戦中の歩五十三第二大隊、船舶工兵第一聯隊、野砲二十三第八中隊、野戰高射砲第三十九大隊、第一揚陸隊の1個中隊を指揮下に編入します。

12月30日、第二大隊が到着したため、聯隊長・中嶋大佐は戦線を整理、第二大隊を右第一線、歩五十三第二大隊を左第一線、第三大隊を予備隊として配置し敵の侵攻を拒止しますが、爆撃機、艦砲射撃、火砲に支援された米軍の攻撃に、海岸陣地、高射砲陣地が破壊されてしまいます。
支隊各隊(左・左小、右、右小、中川地区隊)は水際陣地を突破されながらも第二線陣地で頑強に抵抗しますが、次第に損害が増加、昭和19(1944)年1月3日、聯隊は敵を一気に海岸に圧迫し殲滅すべく攻勢に転移、第二大隊は要所・三角山を奪取しますが、激烈な銃砲火を受け進撃は頓挫、8日、松田少将は聯隊配属部隊を解除し、戦力低下を防ぐため全力をナタモ付近に転進させます。

15日、聯隊は玉砕を期し萬寿山の敵陣地攻撃を企図しますが、支隊命令により清水川左岸付近に転進、敵の侵攻拒止にあたります。
20日、松田支隊は方面軍命により転進を開始、糧食の欠乏、疲労から落伍者が続出するなか、アライ東方地区-タラセア-カブ-ウラモナに転進、3月3日、米軍は転進する松田支隊を捕捉すべく、タラセアに上陸を開始、転進援護の照沼支隊(歩五十四第一大隊長・照沼清松少佐、野砲二十三第九中隊)が迎撃にあたります。
照沼支隊は圧倒的な米軍戦力に苦戦、米軍が包囲にかかったためシュロイター山の陣地を放棄し後退、米軍を遅滞しつつ松田支隊を援護し、3月20日、ガブブに集結します。

29日、ウラモナにおいて第三大隊は支隊直轄となり、転進中の小森支隊収容のため同地の警備に残置し、4月17日、シナツブ、20日、トーマに到着します。

トーマ到着後、旅團は方面軍予備隊に部署され、聯隊は第一・第二大隊を小森山に派遣、11月1日、聯隊は各大隊より人員を抽出し編成した混成中隊をココボに派遣、それそれ来攻する敵を迎撃すべく連日の空襲下、陣地構築及び自活態勢確立と訓練(対戦車戦闘)にあたるなか、8月17日、戦闘行動の停止を受領、同日、トーマ付近において軍旗を奉焼します。

9月、聯隊は武装解除され、収容宿営地に入り僅少な食料を支給され道路補修、豪軍兵舎の清掃等使役され、11月、タロキナ島(将校)、ファウロ島(下士官・兵)に移駐、道路補修、橋梁架橋、豪軍兵舎清掃等使役された後、昭和21(1946)年5月27日、名古屋港に入港、上陸し解散式を挙行、復員完結します。


船舶砲兵第一聯隊(暁二九五三)
明治36(1903)年12月17日、米国ノース・カロライナ州キティーホーク海岸においてライト兄弟が発動機付き複葉機による人類初の有人動力飛行に成功します。
大正3(1914)年7月28日、大正三四年戰役(第一次世界大戦)が勃発、初めて航空機が兵器として運用され、8月23日、日英同盟に則り参戦した我が国も、10月31日、青島要塞攻略戦において航空機により偵察、要地爆撃を実施します。
昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)が勃発、我軍の大陸出征は主に民間会社からの応徴船により実施されますが、敵の航空戦力は微弱だった事もあり防空対策は殆ど行われませんでした。
昭和10(1935)年3月15日、陸軍省は進化が著しい飛行機を用いた航空攻撃に対処するため『防空四ヶ年計畫』を策定、要地防空のため防空飛行隊、高射砲部隊の充実を推進して行きます。
昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、昭和13(1938)年11月3日、近衛文麿首相は『第二次近衛声明』を発表し東亜新秩序を提唱しますが、支那での権益拡張を目論む米国は反発、重慶政府(蒋介石)への支援を公然と開始、昭和14(1939)年7月26日、日米通商航海条約廃棄を通告し反日強行政策を強めて行きます。

支那事変が長期化、大陸への部隊出征が増加するに伴い従前の、その都度部署による野砲兵聯隊による臨時防空部隊編成を改め、陸軍省は輸送船の自衛、警戒及び上陸戦闘に協力する専門部隊の編成を計画、昭和13(1938)年7月4日、軍令陸甲第四十四號により第一船舶輸送司令部(松田巻平少将)に船舶砲兵隊の臨時動員下令、同司令部隷下に増加配属されている人員、陸軍大臣配属人員、第五師管區内各留守隊の人員を充当し、7月18日、臨時動員完結、第一船舶輸送司令官隷下に編入されます。
船舶砲兵隊は隊本部、4個小隊(3個小隊+高射砲隊)の人員474名、三八式野砲72、七糎高射砲4の装備でした。

昭和16(1941)年、我が国の外交努力にも拘らず米国は対日圧力を強化、資源に乏しい我が国は米英蘭との開戦となった際は南方資源地帯の確保は絶対であり、その際に攻略部隊の輸送・進出を担う輸送船の危険度は対支に比して格段に上昇し輸送船の防空・防潜対策が急務となった事から、輸送間の防空・防潜、上陸戦闘援護、及び泊地防空を担当する常備部隊の編成を計画します。

昭和16(1941)年7月15日、軍令陸甲第四十二號により船舶砲兵隊は復帰、26日、船舶司令部(物部長鉾少将、宇品)に船舶高射砲聯隊の臨時編成下令、船舶砲兵隊の人員を基幹要員として、8月5日、宇品において編成完結(大西義明大佐)し、船舶司令部隷下に編入されます。

聯隊の編制は聯隊本部、高射砲2個大隊、高射機関砲1個大隊(各3個中隊)、材料廠で、10,000屯級船舶に中隊編制(高射砲4~6、高射機関砲4~8、野砲1)、6~7,000屯級に小隊編制(高射砲2、機関砲2~4または野砲1)で船砲隊として配備されました。

9月13日、軍令陸甲第六十二號により、10月10日、船舶高射砲聯隊は船舶高射砲第一聯隊と改称します。

昭和16(1941)年11月、聯隊は大東亜戦争開戦準備としてE作戰(第二十五軍:山下奉文中将によるマレー攻略戦)参加の第二十五軍主力の輸送船、龍驤丸(神洲丸)に聯隊本部、第一中隊主力、蓮尾隊主力、材料廠、熱田山丸に第一大隊主力、第三中隊主力、第八中隊主力、宏川丸に第二大隊本部、濱田隊主力、第九中隊の1個小隊、佐渡丸に第三大隊本部、日下隊主力、佐々木隊(以上4隻は防空船)、阿蘇山丸に伊藤小隊、香椎丸に佐藤隊主力、笹子丸に井上小隊、東山丸に加藤隊主力、那古丸に岩橋小隊、黒姫丸に宮崎小隊、ろんどん丸に原小隊、相模丸に祖田小隊、鬼怒川丸に奥田小隊、日吉丸に港小隊が配乗、M作戰(第十四軍:本間雅晴中将のフィリピン攻略戦)参加の第十四軍の輸送船、三興丸に近藤小隊、H作戰(第十六軍:今村均中将によりジャワ攻略戦)参加の第十六軍の輸送船、和蘭丸に百合小隊が配乗し、12月8日、大東亜戦争開戦に伴いE作戰、22日、M作戰に参加します。
(各船の兵装は省略、概ね防空船は高射砲6、機関砲4~8、輸送船は高射砲2)

昭和17(1942)年1月12日、軍令陸甲第九十七號により編成改正下令、18日、中隊数を増加、獨立小隊を新編し編成完結します。

3月1日、H作戰に参加、この間、昭和16(1941)年12月10日、南海支隊(第五十五歩兵團:堀井富太郎少将)のグアム島攻略戦、1月22日、ラバウル攻略戦に米船舶高射砲第二聯隊とともに参加します。

3月以降、両聯隊は船砲隊として輸送船に配乗しSR作戰(ラエ・サラモア攻略戦)、アンダマン諸島攻略戦、MO作戰(ポートモレスビー攻略戦:途中中止)、MI作戰(ミッドウェー島攻略戦:機動部隊壊滅により中止)、AL作戰(アリューシャン攻略戦)、リ號研究作戰(陸路でのポートモレスビー攻略戦研究)、第一・第二・第三・第四次ブナ輸送(陸路でのポートモレスビー攻略戦)、ガダルカナル島第一次輸送、同第二次強行輸送、南方産出原油の本土還送船団参加船舶の防護にあたります。

7月7日、軍令陸甲第五十二號により編成改正下令、31日、編成完結、同日、船舶砲兵第一聯隊に改称します。

昭和18(1943)年1月以降、十八號、八十一號作戰(ラエへの第五十一師團輸送)、7月、ヒ船團(スマトラ産出原油の本土還送船団)、ミ船団(ボルネオ産出〃)参加船舶の防護にあたりますが敵機の空襲により、8隻沈没、1隻擱座、さらに漂流者は連日の機銃掃射を受け甚大な被害を受けてしまいます。

4月、水中聴音機隊、電波探知機隊、爆雷隊、監視隊、教育隊が編成されます。

8月26日、船作命甲第四十四號により教育隊は宇品を出航、9月10日、マニラに到着、15日、イロイロに移駐し警備、教育にあたります。

昭和19(1944)年1月以降、敵は相次いで内南洋に侵攻、我が国は戦局の悪化に鑑み外南洋を中心に多数の航路を放棄せざるを得ませんでした。
3月1日より松輸送(中部太平洋方面への部隊・軍需品輸送、東松一~八號、西松一・二號船團)、竹船團(第三十二、第三十五師團の豪北方面への輸送)、続くフィリピン方面への輸送、多號作戰(レイテ島への強行輸送)、来るべき本土周辺への敵侵攻に備え沖縄及び南西諸島の住民疎開船の防護にあたりますが、敵制空権・制海権下の輸送により輸送船多数が沈没、甚大な被害を受けてしまいます。

7月15日、船作命甲第四十四號により教育隊はイロイロを出発、8月、マニラを出発、9月、宇品に帰還します。

10月30日、軍令陸甲第百四十一號により船舶砲兵團司令部(三島義一少将)が編成され、聯隊は船舶砲兵團編合に編入されます。
聯隊の編制は聯隊本部、高射砲15個大隊、野砲3個中隊、曲射砲1個中隊、高射機関砲3個中隊、機関銃1個中隊、爆雷1個中隊、水中聴音機1個中隊、対空監視隊1個中隊、監視隊2個中隊、教育隊、特別幹部候補生隊、材料廠になります。

昭和20(1945)年、戦局は愈々逼迫、南方資源地帯からの航路が寸断、さらに本土周辺が機雷封鎖されるなか、1月20日より南號作戰(原油の強行輸送、ヒ八八A~J、ヒ九〇、ヒ九二、ヒ九四、ヒ九六、ヒ九八船團、3月16日、船団壊滅により中止)、6月28日、日號作戰(滿洲産の食料を北鮮から日本海を通過し輸送、8月9日、ソ連侵攻により中止)参加船舶の防護にあたります。

3月17日、軍令陸甲第五十二號により編成改正下令、20日、聯隊は福山に移駐し編成完結します。
聯隊の編制は聯隊本部、高射砲15個大隊、野砲3個中隊、教育隊、材料廠になりますが、我が国は本土周辺の制空・制海権を喪失し船舶の運用は途絶、聯隊は本土空襲に備えた高射砲陣地への配属、決號作戰(本土決戦)に向けた準備にあたる中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
9月1日、軍令陸甲第百十六號により復員下令、9日、復員完結します。


船舶機關砲第一聯隊(暁六一七八)
昭和20(1945)年3月25日、軍令陸甲第二十五號により、船舶砲兵第一聯隊の高射機関砲3個中隊、機関銃1個中隊を抽出し編成(石見小四郎中佐)されます。
聯隊の編制は聯隊本部、2個高射機関砲大隊(各3個中隊)、1個機関銃大隊(3個中隊)で発足しますが船舶の運用は途絶、決號作戰(本土決戦)に向けた準備にあたる中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、9月1日、軍令陸甲第百十六號により復員下令、8日、復員完結します。


主要参考文献
『歩兵第四十一聯隊史』 (大正10年10月 帝國聯隊史刊行會)

『福山市史 下巻』 (昭和53年7月 福山市史編纂会)

『広島師団史』 (昭和44年12月 陸上自衛隊第13師団広島師団史研究委員会)

『福山聯隊史(支那編)』 (昭和53年11月 片岡修身 福山歩兵第41聯隊記念碑建設世話人会)

『福山聯隊史(マレー・バターン編)』 (昭和55年11月 片岡修身 福山歩兵第41聯隊記念碑建設世話人会)

『幻のポートモレスビー』 (平成5年9月 長谷川壽雄 央星社)

『永遠の四一 歩兵第四一連隊の足跡を訪ねて』 (平成26年6月 大田祐介 福山健康舎)

『船舶砲兵部隊史』 (平成4年11月 駒宮真七郎 船舶砲兵部隊慰霊碑を守る会)

『平和を求めて』 (平成26年3月 福山市人権平和資料館出版)

広大フォーラム NO276』 (平成元年11月 広島大学広報委員会)

水漬く屍 -日本海漂流五昼夜-』 (増田豊太郎 平和祈念展示資料館)

41連隊の記念碑移設 福山市遺族会 兵営跡 27日除幕」 (広島平和メディアセンター)

アジ歴 各種史料
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No title

こんにちは。
いつか地元の福山が紹介されるのではと楽しくブログを拝見していました。

歩兵四十一聯隊跡の碑は昨年無事在るべき場所に戻りました。
本当に喜ばしい限りです。

記事の中で、福山陸軍病院が戦後、福山国立病院と成り、沖野上に移転したとありますが、
その際、福山陸軍病院の門柱も一緒に移築しており、今も病院駐車場出口(現在工事中)に鎮座しています。
また、今回の記事には書いてありませんが、西門門柱も本来在った近しい場所に説明看板付きで戻りました。
http://k-yagumo.sakura.ne.jp/web4/isek.html

緑町公園入口の写真を撮られていますが、その入口に面した交差点に今も陸軍境界石らしき物も残っています。
http://ameblo.jp/ffukutoku2011/image-11892218785-12997520729.html

当時の遺構としては、軍に直接関わりないかもしれませんが、このような物も残っています。
http://blog.goo.ne.jp/tanezaka/e/fce5ec7867920016f4422425d5bc1c3c
http://blog.goo.ne.jp/tanezaka/e/74b64d28a979e1cfcaf203c605452ed1
また、リンク先に書いてある体育館と競馬場の周辺にはその昔、多くの高射砲陣地が築かれていました。
http://www17.big.or.jp/~father/aab/fukuyama/fukuyama.html

既にご承知の事柄もあるかもしれませんが、是非紹介したくコメントをさせていただきしました。

Re: No title

>>地元民 様

初めまして、こんにちは。
拙い内容ですが、お読み頂きましてありがとうございます。

数々の貴重な情報、ありがとうございます!!!
陸軍病院の門柱ですが、資料本では「病院移転に伴い行方不明」となっていただけに、移設されて現存していたとは驚きです!

また西門も本来あるべき兵営跡の緑町交差点付近に移設されたのですね。
実に素晴らしいです!
聯隊の壮絶な事績を偲ぶべく、本来あるべき場所にある事は大事だと思います。

公園入口の謎の石標は存じ上げていたのですが、それだけを見に行くのはリスクが高いのでなかなか機会がありませんでしたが、病院の門柱が遺っているとなると何とかして行く機会を見つけなくてはと思っています。

取り敢えず、頂いた情報を元に記事を改訂します。

護國神社の神橋は情報はあったのですが、位置が把握できなかったので行けていませんでした。

対空陣地も何か遺っていたら良かったのですが、何も遺されていない様で探索はしませんでした。

何かまた新たな情報がありましたら、御教示頂けたら幸いです。

No title

ご無沙汰しております
ブログ 空港探索のとりです。
情報頂いておりました当練兵場と、
岡山市内の滑走路お邪魔しまして、
昨日までに順にアップしました。
どうもありがとうございましたm(_ _)m
http://airport1111.blog.so-net.ne.jp/fukuyama-drillground
http://airport1111.blog.so-net.ne.jp/kyoubashi-emergency_landing_field
http://airport1111.blog.so-net.ne.jp/okayama_city_airstrip

なんだか宣伝っぽくなってしまったので、
このコメントはどうぞ削除なさってください。

Re: No title

とり様

こちらこそご無沙汰しております。
ブログ、拝見いたしましたが私が薄っすら覚えていた資料が完全に間違っており、お手数をおかけして申し訳ありませんでした。

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大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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