福山歩兵作業場 (福山陸軍練兵場)
西国大名の抑えとして築城されt福山城が所在する広島県福山市には福山歩兵作業場がありました。
後に福山歩兵作業場は福山陸軍練兵場の移設に伴い同練兵場に包含されます。

▲路地沿いに遺る境界石標
【探索日時】
平成24年5月14日

<歩兵第四十一聯隊 関連諸施設配置>

▲『大日本帝國陸地測量部地形圖 50福山近傍』(明治43年測図・大正14年修正)

▲現在の地図に範囲を転写
① 歩兵第四十一聯隊 兵営
② 福山陸軍病院
③ 福山陸軍練兵場
④ 福山聯隊區司令部
⑤ 福山憲兵分隊
⑥ 福山陸軍射撃場
⑦ 福山歩兵作業場 (福山陸軍練兵場)
⑧ 福山陸軍墓地
※緑文字が当記事の紹介施設
<遺構について> ※青字は地図にリンクしています
(数字、アルファベット等の遺構配置は上掲地図参照)
⑦ 福山歩兵作業場
福山陸軍練兵場
明治39(1906)年、陸軍省は安全保障の観点から2個師團(第十七、第十八師團)の増設を決定、新設師團設置の情報を得た廣島縣深安郡福山町(現、福山市)は聯隊の誘致を開始するとともに、用地買収資金の寄付を募ります。
明治40(1907)年9月17日、陸軍省は『陸軍管區表』・『陸軍常備團隊配備表』を改正、第五師團(広島)隷下の歩兵第四十一聯隊は新設第十七師團へ隷属転移、福山町への移駐が決定します。
福山町は野上村に兵営用地を選定、買収を実施し陸軍省に献納、臨時陸軍建築部廣島支部の指揮・監督のもと施設建設が開始されます。
明治41(1908)年7月、福山町の新兵営が竣工したのに伴い、20日、歩兵第四十一聯隊は広島から福山に転営し、福山歩兵作業場の使用を開始します。
昭和7(1932)年1月28日、上海事變、昭和12(1937)年7月7日、支那事變、昭和14(1939)年5月11日、ノモンハン事件が勃発、陸軍省は大陸での戦闘の戦訓から従来の平面練兵場での演習に加え、陸軍演習場を利用し山岳戦を想定した、より実践的な演習を実施していきます。
福山においては演習場が遠方(最寄りは原村陸軍演習場)だったため歩兵作業場にて演習を計画しますが、作業場が狭隘だった事から福山市に対し諸費用として70,000円の提供、及び歩兵作業場周辺用地(歩兵作業場拡張用地)と既存練兵場の交換を提案します。
当時財政難にあった福山市は陸軍省の提案を市議会全会一致で快諾し、昭和16(1941)年、市は買収予定地40町歩(120,000坪)の地権者に対し説明ののち買収を実施、陸軍省は市が取得した用地の提供を受け既存練兵場を市に移管、新たに福山歩兵作業場を包含した福山陸軍練兵場を開設します。
用地買収時期について隣接地在住の方の話では昭和14(1939)年との事です。
停戦後の経緯は不明ですが他の軍施設同様「接収→大蔵省→市・民間売却」の経緯を辿ったと思われ、現在練兵場跡地は全域が住宅地、学校施設になっています。

▲昭和22(1947)年10月1日の福山陸軍練兵場(国土地理院 NI-53-27-10)

▲遺構の配置
福山陸軍練兵場の範囲については参考資料『平和を求めて』掲載の大雑把な範囲図、上掲『大日本帝国陸地測量部地形図』、同『国土地理院 国土変遷アーカイブ空撮』、現地取材から推定しています。
遺構としては練兵場のため目立った構築物はありませんが、境界石標が数本遺されています。
カ 陸軍 二一
民家の車庫脇に遺ります。

▲斜面が崩落し地中部分が剥き出しになっており、倒れそうな雰囲気です。

▲頂部には方向表示の矢印があります。
キ 境界石標 二〇四
民家の裏に遺り、「陸軍」の刻字がありません。

▲数字の刻字は「二口四」に見えるのですが、上記の二一との連続性が無く良く分からない刻字です。

▲側面に「陸軍」、頂部に方向表示は無く、頂部に陸軍を示す波型の地図記号が刻字されています。
上記略史にも記述しましたがこの場所は元々「歩兵作業場」だったのを「練兵場」に拡張したため、境界石標も付け加えたのかも知れません。
ク 防空壕
民家の裏に遺り、埋まっています。
場所からして軍用では無く、周辺住民の民間用防空壕と思われます。

※上記3点の遺構は同一住宅敷地内にあり、住民の方の許可を得て見学、草刈り、撮影させて頂きました。

▲この住宅内通路の左側斜面にあります。
左側の雑草の影に見えるのがカ、奥に薄っすら見えるのがキ
ヌ 陸軍 三七
福山暁の星女子高校沿いの路地突き当り付近にあります。

▲この路地沿いに3本の境界石標(ヌ・ニ・ナ)があります。
右側の壁内に埋まっているのがナの境界石標

▲ヌの境界石標

▲裏面には「三七」の通し番号、頂部には方向表示の矢印があります。
路地突き当りの住民の方によると、この三七と次の三九の間にも境界石標が1本(三八?)あったそうですが、女子校造成時に斜面上にあった池が決壊、濁流が流れ出し斜面が崩落し倒壊してしまったそうです。
以下の石標の位置及び経緯、上記の練兵場拡張用地買収時期、用地範囲等は全てこの方に御教示頂きました。
この場をお借りしてお礼申し上げます。ありがとうございました。
ニ 陸軍 三九
路地沿いの民家敷地付近にあります。
頂部には方向表示の矢印があります。

▲路地から見るとこの様に倒れている様に見えます。

▲民家敷地側に回り込むと「陸軍」の刻字があります。
※住民の方の許可を得て見学、草刈り、撮影させて頂きました。
ナ 陸(軍?)
路地沿いにありますが、女子校の塀に埋まっています。

▲かろうじて「陸」の刻字が見えます。
ト 陸軍?
地神(土地の鎮守)の向かって左側にありますが、欠損しています。

▲地神の左右に境界石標ト(左)・テ(右)があります。

▲トは車の通行の邪魔になるので折ってしまったそうです。
テ 陸軍 四七
地神の向かって右側にあります。


▲埋まっているので掘り返してみると「四七」の刻字がありました。
また頂部には方向表示の矢印があります。
ツ 陸軍?
墓地沿いの小道にありますが、欠損しています。

チ 陸軍 一二四
惣戸(そうどう)神社の裏に遺ります。
頂部には方向表示の矢印があります。

▲影になって分かり難いですが正面には「陸軍」の刻字があります。

▲裏面には「一二四」の刻字があります。
<主要参考文献>
『平和を求めて』 (平成26年3月 福山市人権平和資料館出版)
最後までお読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
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後に福山歩兵作業場は福山陸軍練兵場の移設に伴い同練兵場に包含されます。

▲路地沿いに遺る境界石標
【探索日時】
平成24年5月14日


<歩兵第四十一聯隊 関連諸施設配置>

▲『大日本帝國陸地測量部地形圖 50福山近傍』(明治43年測図・大正14年修正)

▲現在の地図に範囲を転写
① 歩兵第四十一聯隊 兵営
② 福山陸軍病院
③ 福山陸軍練兵場
④ 福山聯隊區司令部
⑤ 福山憲兵分隊
⑥ 福山陸軍射撃場
⑦ 福山歩兵作業場 (福山陸軍練兵場)
⑧ 福山陸軍墓地
※緑文字が当記事の紹介施設
<遺構について> ※青字は地図にリンクしています
(数字、アルファベット等の遺構配置は上掲地図参照)
⑦ 福山歩兵作業場
福山陸軍練兵場
明治39(1906)年、陸軍省は安全保障の観点から2個師團(第十七、第十八師團)の増設を決定、新設師團設置の情報を得た廣島縣深安郡福山町(現、福山市)は聯隊の誘致を開始するとともに、用地買収資金の寄付を募ります。
明治40(1907)年9月17日、陸軍省は『陸軍管區表』・『陸軍常備團隊配備表』を改正、第五師團(広島)隷下の歩兵第四十一聯隊は新設第十七師團へ隷属転移、福山町への移駐が決定します。
福山町は野上村に兵営用地を選定、買収を実施し陸軍省に献納、臨時陸軍建築部廣島支部の指揮・監督のもと施設建設が開始されます。
明治41(1908)年7月、福山町の新兵営が竣工したのに伴い、20日、歩兵第四十一聯隊は広島から福山に転営し、福山歩兵作業場の使用を開始します。
昭和7(1932)年1月28日、上海事變、昭和12(1937)年7月7日、支那事變、昭和14(1939)年5月11日、ノモンハン事件が勃発、陸軍省は大陸での戦闘の戦訓から従来の平面練兵場での演習に加え、陸軍演習場を利用し山岳戦を想定した、より実践的な演習を実施していきます。
福山においては演習場が遠方(最寄りは原村陸軍演習場)だったため歩兵作業場にて演習を計画しますが、作業場が狭隘だった事から福山市に対し諸費用として70,000円の提供、及び歩兵作業場周辺用地(歩兵作業場拡張用地)と既存練兵場の交換を提案します。
当時財政難にあった福山市は陸軍省の提案を市議会全会一致で快諾し、昭和16(1941)年、市は買収予定地40町歩(120,000坪)の地権者に対し説明ののち買収を実施、陸軍省は市が取得した用地の提供を受け既存練兵場を市に移管、新たに福山歩兵作業場を包含した福山陸軍練兵場を開設します。
用地買収時期について隣接地在住の方の話では昭和14(1939)年との事です。
停戦後の経緯は不明ですが他の軍施設同様「接収→大蔵省→市・民間売却」の経緯を辿ったと思われ、現在練兵場跡地は全域が住宅地、学校施設になっています。

▲昭和22(1947)年10月1日の福山陸軍練兵場(国土地理院 NI-53-27-10)

▲遺構の配置
福山陸軍練兵場の範囲については参考資料『平和を求めて』掲載の大雑把な範囲図、上掲『大日本帝国陸地測量部地形図』、同『国土地理院 国土変遷アーカイブ空撮』、現地取材から推定しています。
南側・・・元の歩兵作業場の線から西側に伸びる畦道まで
西側・・・交番のある交差点から道路に添って病院まで
北側・・・道路に添って200m程の場所から北に進み山の裾野に沿って農業研究センターまで
東側・・・山の裾野に沿って南側境界まで
遺構としては練兵場のため目立った構築物はありませんが、境界石標が数本遺されています。
カ 陸軍 二一
民家の車庫脇に遺ります。

▲斜面が崩落し地中部分が剥き出しになっており、倒れそうな雰囲気です。

▲頂部には方向表示の矢印があります。
キ 境界石標 二〇四
民家の裏に遺り、「陸軍」の刻字がありません。

▲数字の刻字は「二口四」に見えるのですが、上記の二一との連続性が無く良く分からない刻字です。

▲側面に「陸軍」、頂部に方向表示は無く、頂部に陸軍を示す波型の地図記号が刻字されています。
上記略史にも記述しましたがこの場所は元々「歩兵作業場」だったのを「練兵場」に拡張したため、境界石標も付け加えたのかも知れません。
ク 防空壕
民家の裏に遺り、埋まっています。
場所からして軍用では無く、周辺住民の民間用防空壕と思われます。

※上記3点の遺構は同一住宅敷地内にあり、住民の方の許可を得て見学、草刈り、撮影させて頂きました。

▲この住宅内通路の左側斜面にあります。
左側の雑草の影に見えるのがカ、奥に薄っすら見えるのがキ
ヌ 陸軍 三七
福山暁の星女子高校沿いの路地突き当り付近にあります。

▲この路地沿いに3本の境界石標(ヌ・ニ・ナ)があります。
右側の壁内に埋まっているのがナの境界石標

▲ヌの境界石標

▲裏面には「三七」の通し番号、頂部には方向表示の矢印があります。
路地突き当りの住民の方によると、この三七と次の三九の間にも境界石標が1本(三八?)あったそうですが、女子校造成時に斜面上にあった池が決壊、濁流が流れ出し斜面が崩落し倒壊してしまったそうです。
以下の石標の位置及び経緯、上記の練兵場拡張用地買収時期、用地範囲等は全てこの方に御教示頂きました。
この場をお借りしてお礼申し上げます。ありがとうございました。
ニ 陸軍 三九
路地沿いの民家敷地付近にあります。
頂部には方向表示の矢印があります。

▲路地から見るとこの様に倒れている様に見えます。

▲民家敷地側に回り込むと「陸軍」の刻字があります。
※住民の方の許可を得て見学、草刈り、撮影させて頂きました。
ナ 陸(軍?)
路地沿いにありますが、女子校の塀に埋まっています。

▲かろうじて「陸」の刻字が見えます。
ト 陸軍?
地神(土地の鎮守)の向かって左側にありますが、欠損しています。

▲地神の左右に境界石標ト(左)・テ(右)があります。

▲トは車の通行の邪魔になるので折ってしまったそうです。
テ 陸軍 四七
地神の向かって右側にあります。


▲埋まっているので掘り返してみると「四七」の刻字がありました。
また頂部には方向表示の矢印があります。
ツ 陸軍?
墓地沿いの小道にありますが、欠損しています。

チ 陸軍 一二四
惣戸(そうどう)神社の裏に遺ります。
頂部には方向表示の矢印があります。

▲影になって分かり難いですが正面には「陸軍」の刻字があります。

▲裏面には「一二四」の刻字があります。
<主要参考文献>
『平和を求めて』 (平成26年3月 福山市人権平和資料館出版)
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