備後護國神社
広島県福山市に所在する福山城の北側に備後護國神社が鎮座されています。

▲備後護國神社 拝殿
【参拝日】
平成20年7月27日、平成24年5月14日

備後護國神社は戊辰の役以降、大東亜戦争に至るまで国難に殉じた旧備後國出身の英霊31,450柱がお祀りされています。
境内には以下の石碑類が建立されています。

▲顕彰・慰霊碑 全景
義勇奉公
明治42(1909)年10月、明治37(1904)年12月12日、軍艦「高砂」にて旅順沖哨戒中に散華した大塚林八海軍大尉、明治38(1905)年5月28日、軍艦「敷島」にて散華した行廣清大海軍大尉の偉業を記念し、且つ福山地方の青年の海事思想の興起を図るべく友人一同により建立されました。

▲揮毫は元帥・東郷平八郎大将です。
萬寶山之碑
昭和37(1962)年5月、門田武雄市会議員により建立されました。
石碑裏面の碑文には「荒廃していた萬寶山之碑を門田氏が移設した」と刻字されていますが、建立当初の写真を見ると護國神社の碑とは大きさが全く異なり、形状も文字も違う事から移設では無く「縮小復興」と思われます。


▲実際の萬寳山記念碑

▲萬寶山之碑の足元にある石碑の大略は刻字から当時の物の様です。
メレヨン島戦没者慰霊碑
昭和41(1966)年4月10日、中国地区メレヨン会により建立されました。

陸軍少年飛行兵戦没者慰霊之碑
昭和47(1972)年4月、広島少飛会 備後地区会員 同遺族により建立されました。

硫黄島戦没将兵慰霊碑
昭和47(1972)年9月17日、硫黄島生還者、戦没遺族により建立されました。

拓魂碑
昭和48(1973)年3月、元滿洲開拓青年義勇隊備後地区生還者一同により建立されました。

第六十五旅団戦没者慰霊碑
昭和49(1974)年11月3日、第六十五旅団夏友会により建立されました。

マリアナ慰霊碑
昭和53(1978)年7月18日、広島県マリアナ会により建立されました。

ノモンハン戦没者慰霊碑
昭和53(1978)年9月、広島県福山地区ノモンハン會により建立されました。

シベリヤ抑留者慰霊碑
昭和55(1980)年10月19日、全抑協広島県連合会福山支部慰霊碑建立委員一同により建立されました。

東部ニューギニア方面戦没者慰霊碑
昭和56(1981)年5月、歩兵第四十一連隊東部ニューギニア戦友会により建立されました。

レイテ、ミンダナオ島戦没者慰霊碑
昭和58(1983)4月、歩兵第四十一聯隊比島戦友会により建立されました。

歩兵第二百三十二聯隊 慰霊灯篭
昭和59(1984)年5月13日、歩兵第二三二連隊戦友会により建立されました。

その他
阿倍正弘公石像
阿部家第11代、福山藩主7代目、天保14(1843)年、老中、嘉永5(1852)年、老中筆頭に就任、安政元(1854)年米英露と和親条約を締結し開国、我が国の近代化に尽力しました。

宮本武蔵腰掛石

<備後護國神社 略歴> 【地図】
明治元(1868)年、福山藩主・阿部正桓公により、戊辰の役(慶応2(1866)年の石見・益田の戦い、箱館戦争)における英霊祭祀のため、旧深津郡吉津村の野上八幡神社内に新宮が創建されます。
その後、旧福山藩士が参加した佐賀の乱、台湾征討、西南の役の英霊を合祀します。
明治26(1893)年、福山公園(福山城)本丸人質櫓跡に遷宮し、明治34(1901)年7月、官祭福山招魂社と改称し、備後地区の壮丁が参加した明治二十七八年戰役(日清戦役)、北清事変、明治三十七八年戰役(日露戦役)、大正三四年戰役(第一次世界大戦)、満洲事変、支那事変の英霊を合祀します。
昭和14(1939)年3月15日、内務省令第十三號『招魂社ハ之ヲ護國神社ト改稱ス』発令により、4月1日、福山招魂社は福山護國神社と改称、翌年の紀元2600年を記念し草戸村(現、草戸町)廃川地への遷宮が決定し、県市町村民、諸団体、崇敬者らの奉仕により造成が開始されます。
昭和20(1945)年8月8日、米軍B29爆撃機91機が福山市に来襲、市内中心は焼き払われ、完成間近だった護國神社社殿も焼失してしまいます。
8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』の渙発を受け大東亜戦争は停戦、福山護國神社は備後神社と改称、昭和27(1952)年4月28日、わが国の主権回復とともに福山護國神社に復称します。
昭和29(1954)年、福山城北側の阿部神社本殿を改装し、福山護國神社を合祀することが決定、昭和32(1957)年3月、阿部神社に福山護國神社を合祀、備後護國神社と改称し現在に至ります。
例祭日
10月23日 秋季大祭
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▲備後護國神社 拝殿
【参拝日】
平成20年7月27日、平成24年5月14日


備後護國神社は戊辰の役以降、大東亜戦争に至るまで国難に殉じた旧備後國出身の英霊31,450柱がお祀りされています。
境内には以下の石碑類が建立されています。

▲顕彰・慰霊碑 全景
義勇奉公
明治42(1909)年10月、明治37(1904)年12月12日、軍艦「高砂」にて旅順沖哨戒中に散華した大塚林八海軍大尉、明治38(1905)年5月28日、軍艦「敷島」にて散華した行廣清大海軍大尉の偉業を記念し、且つ福山地方の青年の海事思想の興起を図るべく友人一同により建立されました。

▲揮毫は元帥・東郷平八郎大将です。
萬寶山之碑
昭和37(1962)年5月、門田武雄市会議員により建立されました。
石碑裏面の碑文には「荒廃していた萬寶山之碑を門田氏が移設した」と刻字されていますが、建立当初の写真を見ると護國神社の碑とは大きさが全く異なり、形状も文字も違う事から移設では無く「縮小復興」と思われます。


▲実際の萬寳山記念碑

▲萬寶山之碑の足元にある石碑の大略は刻字から当時の物の様です。
メレヨン島戦没者慰霊碑
昭和41(1966)年4月10日、中国地区メレヨン会により建立されました。

陸軍少年飛行兵戦没者慰霊之碑
昭和47(1972)年4月、広島少飛会 備後地区会員 同遺族により建立されました。

硫黄島戦没将兵慰霊碑
昭和47(1972)年9月17日、硫黄島生還者、戦没遺族により建立されました。

拓魂碑
昭和48(1973)年3月、元滿洲開拓青年義勇隊備後地区生還者一同により建立されました。

第六十五旅団戦没者慰霊碑
昭和49(1974)年11月3日、第六十五旅団夏友会により建立されました。

マリアナ慰霊碑
昭和53(1978)年7月18日、広島県マリアナ会により建立されました。

ノモンハン戦没者慰霊碑
昭和53(1978)年9月、広島県福山地区ノモンハン會により建立されました。

シベリヤ抑留者慰霊碑
昭和55(1980)年10月19日、全抑協広島県連合会福山支部慰霊碑建立委員一同により建立されました。

東部ニューギニア方面戦没者慰霊碑
昭和56(1981)年5月、歩兵第四十一連隊東部ニューギニア戦友会により建立されました。

レイテ、ミンダナオ島戦没者慰霊碑
昭和58(1983)4月、歩兵第四十一聯隊比島戦友会により建立されました。

歩兵第二百三十二聯隊 慰霊灯篭
昭和59(1984)年5月13日、歩兵第二三二連隊戦友会により建立されました。

その他
阿倍正弘公石像
阿部家第11代、福山藩主7代目、天保14(1843)年、老中、嘉永5(1852)年、老中筆頭に就任、安政元(1854)年米英露と和親条約を締結し開国、我が国の近代化に尽力しました。

宮本武蔵腰掛石

<備後護國神社 略歴> 【地図】
明治元(1868)年、福山藩主・阿部正桓公により、戊辰の役(慶応2(1866)年の石見・益田の戦い、箱館戦争)における英霊祭祀のため、旧深津郡吉津村の野上八幡神社内に新宮が創建されます。
その後、旧福山藩士が参加した佐賀の乱、台湾征討、西南の役の英霊を合祀します。
明治26(1893)年、福山公園(福山城)本丸人質櫓跡に遷宮し、明治34(1901)年7月、官祭福山招魂社と改称し、備後地区の壮丁が参加した明治二十七八年戰役(日清戦役)、北清事変、明治三十七八年戰役(日露戦役)、大正三四年戰役(第一次世界大戦)、満洲事変、支那事変の英霊を合祀します。
昭和14(1939)年3月15日、内務省令第十三號『招魂社ハ之ヲ護國神社ト改稱ス』発令により、4月1日、福山招魂社は福山護國神社と改称、翌年の紀元2600年を記念し草戸村(現、草戸町)廃川地への遷宮が決定し、県市町村民、諸団体、崇敬者らの奉仕により造成が開始されます。
昭和20(1945)年8月8日、米軍B29爆撃機91機が福山市に来襲、市内中心は焼き払われ、完成間近だった護國神社社殿も焼失してしまいます。
8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』の渙発を受け大東亜戦争は停戦、福山護國神社は備後神社と改称、昭和27(1952)年4月28日、わが国の主権回復とともに福山護國神社に復称します。
昭和29(1954)年、福山城北側の阿部神社本殿を改装し、福山護國神社を合祀することが決定、昭和32(1957)年3月、阿部神社に福山護國神社を合祀、備後護國神社と改称し現在に至ります。
例祭日
10月23日 秋季大祭
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