当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

福山陸軍墓地

琴の一大産地として知られる広島県福山市に福山陸軍墓地がありました。
福山陸軍墓地 ス 墓地側から (2)(福山)
▲墓地周辺に遺るコンクリート製の境界石標

【探索日時】
平成24年5月13日





歩兵第四十一聯隊 関連諸施設配置
陸地測量部(明治43測図・大正14修正)(福山)
▲『大日本帝國陸地測量部地形圖 50福山近傍』(明治43年測図・大正14年修正)

歩兵第四十一聯隊(現在)全体(福山)
▲現在の地図に範囲を転写

① 歩兵第四十一聯隊 兵営
② 福山陸軍病院
③ 福山陸軍練兵場
④ 福山聯隊區司令部
⑤ 福山憲兵分隊
⑥ 福山陸軍射撃場
⑦ 福山歩兵作業場 (福山陸軍練兵場)
⑧ 福山陸軍墓地
※緑文字が当記事の紹介施設


遺構について ※青字は地図にリンクしています
(数字、アルファベット等の遺構配置は上掲地図参照)
⑧ 福山陸軍墓地
明治39(1906)年、陸軍省は安全保障の観点から2個師團(第十七、第十八師團)の増設を決定、新設師團設置の情報を得た廣島縣深安郡福山町(現、福山市)は聯隊の誘致を開始するとともに、用地買収資金の寄付を募ります。
明治40(1907)年9月17日、陸軍省は『陸軍管區表』・『陸軍常備團隊配備表』を改正、第五師團(広島)隷下の歩兵第四十一聯隊は新設第十七師團へ隷属転移、福山町への移駐が決定します。

福山町は野上村周辺に兵営及び関連施設用地を選定、買収を実施し陸軍省に献納、明治41(1908)年4月、臨時陸軍建築部廣島支部の指揮・監督のもと埋葬地の造成が開始されます。
7月、福山町野上村に新兵営が竣工したのに伴い、20日、歩兵第四十一聯隊は広島から福山に転営し、第十七師團経理部により福山陸軍埋葬地の管理が開始されます。

昭和13(1938)年5月5日、陸軍省令第十六號『陸軍墓地規則』が制定され福山陸軍埋葬地は福山陸軍墓地に改称します。

昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』の渙発を受け、16日、停戦を迎えました。
停戦後の経緯は不明ですが、他の陸軍墓地同様「師團経理部→大蔵省→県・市に譲渡、または無償貸与」の経緯を辿ったと思われ、現在は民間墓地(市に譲渡か?)になっています。

福山陸軍墓地は上下二段に造成されていますが、墓標どころか合葬墓や忠霊塔も無く、外周に僅かに境界石標が遺るのみです。
福山陸軍墓地 陸軍用地跡(現、一般墓)上段 南西から(福山)
▲福山陸軍墓地の上段
  民間墓地に転用されています。

福山陸軍墓地 陸軍用地跡(現、一般墓)下段 南西から(福山)
▲下段
  草むらになっています。

福山陸軍墓地 福山~歩兵第四十一聯隊(現在)(福山)
▲遺構の配置

ケ 陸軍用地
下段の参道付近に倒れています。
裏面には他の境界石標と同じく通し番号が刻字されていると思われ、起こそうと思いましたが埋まり込んでいて動きませんでした(´・ω・`)
福山陸軍墓地 ケ 陸軍用地(福山)

コ 境界石標
上段の東側にあり、コンクリート製で頂部に陸軍を示す波型の記号が刻印されているだけです。
福山陸軍墓地 コ 墓地側から(福山)

サ 陸軍用地 第七号
上段の東側にあり、石製です。
福山陸軍墓地 サ 陸軍用地(第七号) 外側から(福山)
▲見難いですが「陸軍」の刻字があります。
  裏面(墓地側)には「第七号」の刻字があります。

シ 境界石標
上段の東側にあり、コンクリート製です。
福山陸軍墓地 シ 墓地側から(福山)

ス 境界石標
上段の東側にあり、コンクリート製です。
福山陸軍墓地 ス 墓地側から(福山)

セ 境界石標
上段の東側にあり、コンクリート製です。
福山陸軍墓地 セ 墓地側から(福山)


ソ 陸軍用地 第八号
上段の北東隅にあり、石製です。
福山陸軍墓地 ソ 陸軍用地(第八号) 外側から(福山)
▲表面は「陸軍」の刻字があります。

福山陸軍墓地 ソ 陸軍用地(第八号) 墓地側から(福山)
▲裏面には「第八号」の刻字があります。

タ 陸軍用地 第九号
上段の北西隅にあり、石製です。
福山陸軍墓地 タ 陸軍用地(第九号) 外側から(福山)
▲表面は「陸軍」の刻字があります。

福山陸軍墓地 タ 陸軍用地(第九号) 墓地側から(福山)
▲裏面には「第九号」の刻字があります。


基壇 ①
墓地参道の西側にあり、形状から合葬墓等の基壇の様に思いますが、詳細不明です。
福山陸軍墓地 参道にある基壇①南側(福山)

基壇 ②
墓地参道の西側にあり、形状から合葬墓等の基壇の様に思いますが、詳細不明です。
福山陸軍墓地 参道にある基壇②北側(福山)

以上の様に福山陸軍墓地には墓標類は全く無く、境界石標しか遺されていません。
墓標類が遺されていない理由は不明で考えられるのは忠霊塔への合葬、もしくは戦後のGHQの命令に従い撤去ですが史資料、古写真等も残っていない様で定かではありません。

昭和14(1939)年7月7日、陸軍、(財)仏教聯合會、財界の支援協力を受け(財)大日本忠靈顕彰會が発足し、身近に英霊の顕彰ができる様に全国市町村に忠霊塔の建立を推進します。
昭和16(1941)年7月19日、陸軍省は『陸軍墓地規則』を改正、各陸軍墓地に一戦役または一事変ごとに1基の忠霊塔を建立する事、並びに陸軍部隊所持地の市町村が忠霊塔を建立する場合は、陸軍墓地の忠霊塔を市町村忠霊塔に併合する事を許可します。

事後、各陸軍墓地に忠霊塔が建立されますが、
①忠霊塔を規定通り「支那事変の英霊の御遺骨を合葬するための物」として、支那事変以前の墓標、合葬墓はそのまま埋葬している陸軍墓地(鯖江、和歌山、金澤、眞田山、篠山)

②規定を拡大解釈し「建軍以来の英霊全てを合葬するための物」とし墓地内の墓標全てを撤去し忠霊塔に合葬している陸軍墓地(徳島)

③同じく拡大解釈するも忠霊塔には個人のみを改葬し、支那事変以前の合葬墓はそのまま埋葬している陸軍墓地(敦賀)
 ※『陸軍墓地規則』に骨壷の規定があり、合葬墓は個人が特定できないためか?

④自治体建立の忠霊塔に支那事変以降の英霊を合葬、以前の英霊はそのまま埋葬している陸軍墓地(長崎)

⑤自治体建立の忠霊塔に個人の英霊を合葬、以前の合葬墓はそのまま埋葬している陸軍墓地(弘前)

⑥忠霊塔は建立せず現状維持の陸軍墓地(鹿児島、高知、丸亀、善通寺、高槻、大津、津、奈良、岡山、鳥取、山口、京都、濱田、福知山)

に別れる様です。
しかし、⑥一部の陸軍墓地はこの改葬作業中に停戦となり、そのまま放置されてしまいます(眞田山、弘前、広島)。
また戦後、⑦有志、自治体により改装された陸軍墓地(松江、姫路)、⑧自治体により埋葬者を陸軍墓地から別の場所に改葬された陸軍墓地(名古屋)もありますが、理由は不明です。


それにしても墓標どころか、合葬墓、忠霊塔すらない陸軍墓地を見ると残念でなりません。
特に歩兵第四十一聯隊は北清事変を始め日露戦役、支那事変においては北支・中支・南支で戦い、次いで北部仏印進駐、大東亜戦争においては初戦のマレー、シンガポール攻略、次いでバターン半島、ミンダナオ島攻略に参加の後、ポートモレスビー攻略で大損害を受け、遂にレイテ島で玉砕を迎えるなど大東亜戦争の殆どの戦域で戦った輝かしい戦歴を誇りますが、その偉大な先人達を偲ぶ物が殆ど無いのは残念です。
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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