当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

第二十一海軍航空廠

切支丹大名・大村芳忠の領国だった長崎県大村市に、東洋一の規模を誇った海軍工作庁、第二十一海軍航空廠がありました。
第二十一海軍航空廠 A 第十八倉庫 東から(長崎)
▲海上自衛隊・大村航空基地に遺る補給部第十八倉庫

【探索日時】
平成24年11月27日





第二十一海軍航空廠周辺の施設配置
第二十一海軍航空廠は昭和16(1941)年10月1日、195,454坪、建物62棟で開庁しますが、引き続き整備・拡張を続け、昭和19(1944)年6月、657,000坪、建物130棟(ほか廠外直轄113,000坪、官舎・住宅含まず)に拡張します。
第二十一海軍航空廠 大村(昭和19年)(長崎)
▲昭和19(1944)年末の第二十一海軍航空廠周辺空撮
  10月25日の空襲により甚大な被害が出ています。

第二十一海軍航空廠(長崎)
▲第二十一海軍航空廠の範囲、及び施設配置
紫:二十一空廠 橙:官舎・住宅 緑:他海軍施設 赤:陸軍施設
㉑ 第二十一海軍航空廠
㉒        〃     兵器部倉庫?
㉓        〃     倉庫?

㉔ 第二十一海軍航空廠 工員養成所
㉕ 葛城工員寄宿舎
㉖ 官舎(丙號)
㉗ 官舎(甲・乙・丙・丁號)
㉘ 郡川工員寄宿舎
㉙ 竹松女子寄宿舎 ・ 小路口 〃
㉚ 植松工員寄宿舎(二~十二區 偶数区)
㉛ 植松工員寄宿舎(一~十五區 奇数区)
㉜ 高等官住宅
㉝ 鳥原工員住宅
㉞ 池田工員住宅(九・十・十一區)
㉟ 諏訪工員住宅(七・八區)
㊱ 住宅營團 諏訪工員住宅
㊲ 古町女子寄宿舎(第一~第三)・第二十一海軍航空廠職工共済會病院(廠内から移転)
㊳ 古町工員住宅(五・六區)
㊴ 杭出津工員寄宿舎
㊵ 大佐古工員住宅(一區)
㊶ 水田工員住宅(二區)
㊷ 杭出津工員住宅(三・四區)
名称は昭和20(1944)年頃
ブラウザによっては数字が表示されない様ですが、上から21~43です。
※緑文字が当記事の紹介施設
※参考図書では存在しない施設部や材料部と言った部署が記載されていますが、会計部材料課の誤りかと思われます。
また周辺に佐世保海軍施設部大村地方事務所の施設が点在していましたが、省略しています。



遺構について ※青字は地図にリンクしています
(数字、アルファベット等の遺構配置は上掲地図参照)
㉑ 第二十一海軍航空廠
大正5(1916)年、佐世保海軍工廠造兵部水雷工場において発動機を試作、大正7(1918)年5月9日、航空機の製造を開始します。
大正8(1919)年6月、造兵部水雷工場から分離独立し飛行機工場が開設され、昭和9(1934)年6月8日、佐世保海軍工廠に航空機部が新設され、造兵部飛行機工場は航空機部に包含されます。
昭和10(1935)年2月、航空機部の敷地が狭隘な事から移転を計画、日宇川河口右岸地区を選定し設備設営を開始しますが、造成工事を急いだため地盤が安定せず精密部品の製造が不可能な事から、昭和14(1939)年3月、埋立ての必要の無い長崎県東彼杵郡大村町に移転先を変更し、設備の設営を開始します。
昭和16(1941)年10月1日、航空機部は佐世保海軍工廠より分離改編され、第二十一海軍航空廠が開廠します。
第二十一海軍航空廠 開廠式(昭和16年10月1日)(長崎)
▲開廠式の様子

昭和19(1944)年10月25日、B29爆撃機59機が来襲、全建物の半分が全半焼・壊、275名爆死、重軽傷者320名、零観10機、流星5機破壊の大損害を受けてしまいます。
以降、11日、B29爆撃機80機、11月21日、同61機、昭和20年1月6日、同49機、3月27日、同161機が来襲、他艦載機が15回程が来襲し第二十一海軍航空廠は甚大な被害を蒙ります。
11月18日、飛行機部機械工場が波佐見金山坑道へ疎開を開始したのを始め、昭和20(1945)年2月、全生産工場が周辺林間、公園、さらに諫早町、佐賀県に分散疎開を開始、各疎開先工場で生産、造修を続けるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

17日、第二十一海軍航空廠は操業を停止、同日、米第2海兵団第3大隊800名が大村市に進駐を開始、19日、スミス大佐以下100名が輸送機20機で大村海軍航空基地に到着し、航空基地・二十一空廠は接収され、被爆を逃れた空廠本部庁舎ほか再利用可能な建物の修理を実施し兵舎に充当、空廠正門が接収地域全体の正門に指定されます。
28日、技能者養成所、官舎、工員宿舎、寄宿舎等国有物件が大蔵省に移管され、一部は学校に転用、大半は大蔵省より大村市に管理委託され引揚者等の住宅に転用されます。
11月10日、米軍に賠償指定物件(工作機械、兵器類)を引渡し、30日、第二十一海軍航空廠は閉廠、昭和21(1946)年3月下旬、残務整理が完了しました。
昭和21(1946)年8月23日、第二十一海軍航空廠跡地のうち米軍未使用区画が内務省に返還され大蔵省に移管、長崎県海外引揚者聯合會大村支部は土建工業會の協力を得て希望者に払下げられ農耕地として開墾されます。
昭和23(1948)年、米軍の退去に伴い跡地は全面返還され、大蔵省より長崎県、大村市に払い下げられ準工業地域に指定、商工業・住宅地として開発、また昭和25(1950)年12月28日、空廠本部庁舎に大村入国者収容所が開所します。
昭和31(1956)年3月、補給部跡に海上自衛隊・大村航空基地の設営が開始され、昭和32(1957)年5月18日、第91航空隊が開隊式を挙行、4月、全施設が竣工します。
昭和31(1956)年7月、海自・大村航空基地に隣接し長崎空港の設置が決定、昭和32(1957)年2月1日、陸自・第4施設大隊(竹松=旧大村海軍航空基地)により滑走路建設工事が開始、5月10日、竣工し建設省に引き渡され、昭和34(1959)年5月17日、開港式が挙行されます。
昭和50(1975)年5月1日、長崎空港は現在の海上空港に移転、旧空港は防衛庁に移管され主に海上自衛隊が運用し現在に至ります。

停戦時、657,000坪の敷地を有し、東洋一の規模を誇った第二十一海軍航空廠でしたが、残念ながら遺構は殆ど遺されていません。

A 第十八倉庫
海上自衛隊・大村航空基地内に遺り、格納庫として使用されています。
補給部の飛行機倉庫として使用されており、海岸沿いに配置されていた補給部施設はほぼ無傷で停戦を迎えました。
3棟が並んでいる様に見えますが、全て繋がっています。
第二十一海軍航空廠 A 第十八倉庫 東から (2)(長崎)
▲よく見ると入口が3棟とも微妙に異なります。

第二十一海軍航空廠 A 第十八倉庫1 東から(長崎)
▲北側の棟

第二十一海軍航空廠 A 第十八倉庫2 東から(長崎)
▲中央の棟

第二十一海軍航空廠 A 第十八倉庫3 東から(長崎)
▲南側の棟


B 繋船地
海上自衛隊・大村航空基地内に遺りますが、箕島大橋の上から見えます。
第二十一海軍航空廠 B 係船地 南から(長崎)


C 第二號 防空壕
国有地に遺り、大村市教育委員会により説明板が建てられ保存?されている様ですが、残念ながら入口はブロックで閉鎖されています。
コンクリート製地下式で空廠本部員用でした。
当時は東側に第一號防空壕もあった様ですが、滅失しています。
第二十一海軍航空廠 C 退避壕 南西から(長崎)
▲全景

第二十一海軍航空廠 C 第二號防空壕(長崎)
▲平面図

第二十一海軍航空廠 C 退避壕 西側入口(長崎)
▲西側の入口
  巨大な爆風除けが付いています。

第二十一海軍航空廠 C 退避壕 西側入口 (3)(長崎)
▲ブロックで閉鎖されています。

第二十一海軍航空廠 C 退避壕 北側入口(長崎)
▲東側の入口
  こちらには配電盤の跡の様な箱が付いています。

第二十一海軍航空廠 C 退避壕 北側入口 (2)(長崎)
▲こちらもブロック・・・

第二十一海軍航空廠 C 退避壕 頂部の空気穴(長崎)
▲頂部には換気塔が2本出ています。

第二十一海軍航空廠 第二十一空廠 本部(長崎)
▲この防空壕の北側にあった本部庁舎
  戦後も進駐軍、大村入国者収容所として使用されましたが、
  昭和40年代後半に破壊されてしまいました。


D 第十五號防空壕
昭和38(1963)年10月25日、二十一空廠における空襲犠牲者を慰霊すべく有志により防空壕の上に慰霊塔が建立され、慰霊塔公園として整備されていますが、こちらも4ヶ所全ての入口が鉄格子で閉鎖されています。
コンクリート製地下式で構内道路を挟んで南側にあった材料課事務所、荷捌場、中央機在庫用と思われます。
当時、廠内には24基のコンクリート製防空壕があった様ですが、現存しているのは2基だけです。
第二十一海軍航空廠 D 退避壕 西から(長崎)
▲防空壕全景

第二十一海軍航空廠 D 退避壕 西側入口(長崎)
▲上掲写真の手前に見えている入口(西側手前)から内部
  他の3ヶ所は入口に爆風除けのコンクリート衝立が
  立っていますが、この入口にだけありません。

第二十一海軍航空廠 D 退避壕 北から(長崎)
▲東側手前側の入口

第二十一海軍航空廠 D 退避壕 北側入口(長崎)
▲東側奥の入口

第二十一海軍航空廠 D 退避壕 北西側入口(長崎)
▲西側奥の入口


E 側線
鐡道省線(現、JR)竹松駅南側から分岐し西進し補給部(海上自衛隊大村航空基地)まで、中間程で南側に分岐し飛行機部組立工場(放虎原殉教地付近)まで敷設(26,200坪)されていました。
いつ頃撤去されたか資料が無く不明ですが、現在は殆どが道路となり区画のみ遺されています。
第二十一海軍航空廠 E 側線西端から(長崎)
海上自衛隊付近から東側

第二十一海軍航空廠 E 側線跡(長崎)
分岐部付近


㉒ 第二十一海軍航空廠 兵器部倉庫
兵器部は航空兵器、光学兵器の他、艦船への射出機取り付けも実施、海軍工廠と密接な関係にあった事から停戦まで崎邊地区で操業にあたりました。
『放虎原は語る』の付図(軍用地色分図)によると、この辺に「兵器部」の記載があるのですが、昭和19年、昭和22年、昭和23年のいずれの空撮にも畑しか写っておらず詳細は不明です。


㉓ 第二十一海軍航空廠 倉庫
同じく『放虎原は語る』の付図(軍用地色分図)によると、この辺に「施設部」の記載があり、空撮にも倉庫か宿舎の様な建物が写っていますが空廠に「施設部」と言う部署は無く、また「施設部」と言う名前が付く佐世保海軍施設部に関する施設もこの辺りには無く詳細は不明です。


第二十一海軍航空廠 略歴
明治36(1903)年12月17日、米国ノース・カロライナ州キティーホーク海岸においてライト兄弟が発動機付き複葉機による人類初の有人動力飛行に成功します。
軍用飛行機の将来性に着目した陸軍は明治42(1909)7月30日、陸軍省内に陸海官合同の臨時軍用気球研究會(長岡外史陸軍中将)を設置、遊動気球と飛行機に関する設計試験、操縦法、諸設備、通信法の研究を開始します。

明治42(1909)年5月25日、相原四郎大尉、小濱方彦大尉は航空に関する研究にあたるため海軍大學校選科學生に発令され、明治43(1910)年2月19日、相原大尉はドイツ駐在を下命され操縦術の習得、及び飛行機の研究にあたっていましたが、明治44(1911)年1月4日、ベルリン郊外において飛行練習中に墜落、8日、殉職してしまいます。

明治43(1910)年5月23日、相原大尉に代わり選科學生に発令された金子養三大尉は明治44(1911)年3月1日、フランス駐在を下命され、操縦術の取得にあたり、大正元(1912)年10月24日、モーリス・ファルマン1912年型水上機、カーチス1912年型水上機とともに帰国します。
明治44(1911)年6月16日、航空技術研究委員會(山路一善大佐)が発足、7名の委員は兵科は操縦、機関科は整備の技術習得にあたり、海軍における航空技術習得が体系化されます。

大正2(1913)年2月4日、横須賀海軍工廠(以下、横工廠)造機部部員・小濱方彦大尉は空冷、水冷発動機の製造を計画、4月、航空技術研究委員會は横須賀水雷團の兵舎を移築し本部とします。
なお、航空機に関しては兵器の製造、購買、修理、整備、供給を管掌する艦政本部第一部(兵器を管掌する部署は大正4年9月21日、艦政部、大正5年3月30日、艦政局第一課、大正9年9月30日、艦政本部第六部に変遷)が担当します。

5月19日、航空技術研究委員だった横工廠造兵部部員・中島知久平大尉はファルマン機、カーチス機を元に水上機の製造に着手、7月、造兵部において試作機(日本海軍式水上機)が完成、 大正3(1914)年1月24日、造兵部に飛行機工場(長・中島知久平大尉)が設置され、横工廠において航空機・発動機の研究・製造が開始されます。

大正5(1916)年、横須賀での期待製造は順調に推移しますが、発動機製造は修理に妨げられ低調な事から呉、佐世保、舞鶴各海軍工廠造兵部において、ルノー70馬力の試作に着手します。
佐世保海軍工廠(以下、佐工廠)では造兵部水雷工場において発動機試作、大正7(1918)年5月9日、横廠式ロ號甲型水上偵察機2機の製造を開始します。

大正8(1919)年、海軍省は企業間競争による高水準の機体開発を図り、且つ修理による民間企業の作業負担を無くすべく、機体生産は民間企業、修理は海軍が実施する事を決定します。

大正8年6月(資料により1月、4月1日)、佐工廠造兵部水雷工場から飛行機工場が分離、立神岸壁南端に開設されます。

昭和2(1927)年4月2日、進化の著しい航空技術に対応すべく、海軍部内に分散していた航空行政の一元化を図るため勅令第六十一號『海軍航空本部令』が公布され、5日、海軍航空本部(山本英輔中将)が発足、航空兵器に関する事項を艦政本部から移管(補給に関する事項は軍需局第一課、昭和11年7月1日、海軍航空本部に移管)されます。

昭和7(1932)年3月22日、勅令第二十八號『海軍航空廠令』が公布、4月1日、海軍技術研究所航空研究部、横工廠飛行機工場、同航空機実験部、同航空発動機実験部を改編し海軍航空廠(枝原百合一少将)が開廠します(昭和14年4月1日、海軍省内令第六百九十九號により航空技術廠に改編)。

昭和9(1934)年6月8日、勅令第百六十號『海軍工廠令』改正により佐工廠に航空機部(小屋壽技師)が新設され、造兵部飛行機工場は航空機部に包含されます。
海軍航空本部は海軍航空廠は実験、研究、審査及び試作の他一般修理、廣海軍工廠は原価調査に必要な製造及び一般修理、佐工廠は主として一般修理及び技術維持向上に必要な最小限度の製造を実施する工作庁に指定します。

佐工廠では飛行機・発動機の修理が増大するなか、航空機部の敷地が狭隘かつ拡張の余地が無い事から移転を計画、日宇川河口右岸、及び尼潟を選定し、昭和10(1935)年2月、佐世保海軍建築部は海面1,850坪の埋立て、佐世保海軍経理部は隣接した畑地110,000坪の買収を開始し、また遊休地になっていた造兵部崎邊大砲試射場跡に兵器工場、調質工場等を移転します。

昭和11(1936)年6月26日、勅令第百二十九號『海軍航空本部令』改正により、7月1日、海軍航空本部總務部に第三課が新設され、海軍省達第八十九號により航空兵器の準備、保管、供給が軍需局から移管、昭和13(1938)年4月1日、同達第四十七號により第三課は廃止され新設された海軍航空本部補給部に移管されます。

昭和12(1937)年6月、鹿屋海軍航空基地北側に航空機部鹿屋分工場、及び台湾高雄に同高雄分工場を設置し機体造修を開始します。

7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、航空機造修の需要増大が見込まれるなか、海軍大臣・米内光政大将は佐鎭司令長官・塩沢幸一中将に対し新設飛行機部工事の促進を下達、埋立工法の変更による工期短縮が図られます。

9月、埋立て地の表面が乾燥した事から組立工場、整備工場、修理機体作業場、発動機工場の建設を開始、昭和13(1938)年9月、発動機工場が竣工しますが、地盤沈下により床面が傾斜、さらに工作機械を据付けたところ自重により床面が安定せず精密さが求められる部品の製造は不可能となります。

昭和14(1939)年3月、「埋立地の地盤安定には長大な時間を要する」と言う佐世保海軍建築部の見解を受けた海軍省は、早急に新設造修工場を建設すべく、佐世保海軍軍需部大村支庫(大村海軍航空基地に隣接)が所在し、埋立ての必要の無い長崎県東彼杵郡大村町を選定、移転先は日宇地区から大村町に変更されます。

6月、佐世保海軍建築部、佐世保海軍経理部は大村町の新設航空機部用地の測量、及び大村町と折衝し用地買収を開始、9月、佐世保海軍建築部の指揮のもと㈱間組、㈱梅村組、㈱金子組(現、㈱未来図建設)、㈱巴組等により敷地造成、第一期計画の施設建設が開始されます。
12月、第二十一海軍航空廠設立準備委員(航空機部部長・中村止少将)が発足します。

昭和15(1940)年、海軍省は「航空兵器造修施設整備費」を成立させ横須賀、霞ヶ浦、大湊、大村、鎭海、高雄、舞鶴所在の各造修庁の整備を開始(~17年まで)します。

昭和16(1941)年5月、中村少将は今後の航空廠拡張、及び付帯施設を設置するうえで交渉を円滑に進めるべく長崎県、大村町に対し都市計画を提案します。

9月、原口に甲1・乙7・丙7・丁號官舎14棟が竣工します。

10月1日、勅令第八百七十五號『海軍航空廠令』が公布され、航空機部は佐工廠より分離改編され第二十一海軍航空廠(中村止少将)が未完成ながら開廠(195,454坪、建物62棟)、1100、開廠式が挙行されます。
同日、鹿屋分工場は第二十一海軍航空廠 鹿屋支廠、高雄分工場は第六十一海軍航空廠(石黒慶助少将)に改編され、朝鮮に鎭海支廠が開設されます。
海軍航空廠は鎭守府・要港部に属し(各鎭守府・要港部司令長官に隷属)、航空兵器・同材料の造修、購買、準備、保管、供給を管掌する事を定められます。
第二十一海軍航空廠 昭和16年10月1日(長崎)
▲開廠当時の第二十一海軍航空廠
  中央の二棟連結の建物が空廠本部庁舎

第二十一海軍航空廠発足時の組織
第二十一海軍航空廠 (中村止機少将、大村)
總務部 (向野一機大佐、大村)
會計部 (相浦次郎主大佐、大村)
醫務部 (川島秀志医大佐、大村)
飛行機部 (佐伯甚七機大佐、立神・日宇)
發動機部 (芽野任四郎造大佐、大村)
兵器部 (加藤尚雄大佐、崎邊)・・・廣畑・牛ノ浦に弾薬庫
器材部 (釜田勇機大佐、大村)
鎭海支廠 (原重政大佐、朝鮮)
 鎭海補給工場
 元山補給工場
鹿屋支廠 (近藤龍機中佐、鹿児島)
 鹿屋補給工場
日宇補給工場
大村補給工場
博多補給工場
※以下の文章で部長・支廠の人事は割愛

11月20日、廠長・櫻井忠武機中将が着任します。

11月、竹松第一會議所が、大佐古に一區工員住宅45棟(90戸)が、昭和17(1942)年3月、二區75棟(150戸)が竣工します。

4月1日、鎭海支廠は第五十一海軍航空廠に改編されます。

6月、杭出津に三・四區工員住宅130棟(260戸)が、8月、郡川に工員寄宿舎13棟(2,000名分)が、9月、古町に五・六區150棟(300戸)が竣工します。

12月1日、廠長・荒川信主少将が着任します。

昭和18(1943)年2月、第一期計画(657,000坪)、及び第二期計画の造成が完了します。
同月、工員養成所及び同官舎34棟、初級技術士官舎(20名分)、竹松に丁號官舎28棟が竣工、4月1日、工員養成所(總務部長・山田彪男大佐兼務)が開所、佐世保海軍工廠工員養成所航空機部が移転、器材部は補給部(昭和18年3月31日、海軍省内令第五百三十二號)に改称します。

4月、大曲に工員寄宿舎2棟(500名分)、古町に女子第一~第三寄宿舎9棟が、小路口に工員寄宿舎11棟(2,000名分)が、5月、杭出津に女子工員寄宿舎4棟(1,000名分)が、6月、葛城に工員寄宿舎8棟(1,500名分)、9月、竹松に女子工員寄宿舎7棟(1,000名分)が、11月、諏訪に七・八區工員住宅70棟(380戸)が竣工します。

7月1日、廠長・中村悟郎機少将が着任します。

昭和19(1944)年1月8日、『緊急學徒勤勞動員方策要項』が、3月7日、『決戰非常措置要項ニ基ク學徒動員實施要項』が閣議決定され、中等学校3年生以上の軍需工場などへの通年動員が開始されます。
1月、植松に工員寄宿舎31棟(6,500名分)が、2月、池田に九・十・十一區工員住宅130棟(520戸)が竣工します。
4月1日、鹿屋支廠は第二十二海軍航空廠(長島久之輔機大佐)に改編されます。
4月、九州各県の女子挺身隊(長崎6隊、福岡2隊、熊本6隊、大分7隊、宮崎9隊も計1,500名)が入廠します。
5月、福岡の九州帝大工學部學生ほか長崎県男子6校、女子7校、佐賀県男子6校、女子5校、熊本県男子4校、大分県男子2校の計7,000名が入廠します。

6月5日、廠長・中村止機中将が着任します。
6日、大村中學校4・5年生が第二十一海軍航空廠(以下、二十一空廠)に入廠します。
15日、初の警戒警報が発令、16日夜半、空襲警報が発令され北九州が空襲を受けたため、總務部は防衛研究會を開催し今後の空襲対策が協議されます。

6月、二十一空廠の第二期計画の657,000坪、建物130棟が竣工、さらに廠外直轄113,000坪(官舎・住宅含まず)に拡張します。
7月、大村海軍共済病院が竣工、10月24日、佐世保海軍施設部(昭和18年8月17日、建築部から改称)から引き渡されます。
9月1日、市内國民學校高等科生徒、大村中學3年生が二十一空廠に入廠、島原に島原に工員住宅(未入居)が竣工します。

10月10日、廠長命令として各部工場付近に退避壕の製造を開始します。

25日0930、空襲警報発令、0955、成都を発進した米第20爆撃兵団第58爆撃航空団のB29爆撃機59機が二十一空廠に来襲、2派2時間に渡る空襲により焼夷弾64t、爆弾91tが投下され建物64,000坪が全半焼・壊(全建物の半分)、275名爆死、重軽傷者320名、零観10機、流星5機破壊の大損害を受けてしまいます(29日、合同葬儀)。
第二十一海軍航空廠 空襲(昭和19年10月25)日(長崎)
▲空襲に晒される第二十一海軍航空廠

27日、生産続行のため工場疎開、及び空襲で全焼した海軍共済病院を古町の女子第二・第三寄宿舎への移転(女子工員は小路口寄宿舎に転居)を決定します。

11日、成都を発進したB29爆撃機80機が九州西部に来襲しますが、二十一空廠の被害は軽微でした。

11月13日、飛行機部機械工場は鈴田地区に地下工場設営が検討されますが、設営に長期間かかるため、16日、波佐見金山廃坑道への疎開が決定、18日、移転を開始します(12月21日、操業開始)。

21日1000、成都を発進したB29爆撃機61機が来襲、隣接する大村海軍航空基地とともに空襲を受け、發動機部及び補給部が被害を受けてしまいます。

昭和20(1945)年1月6日、成都を発進したB29爆撃機49機が来襲、飛行機部、發動機部が被害を受けてしまいます。

2月、二十一空廠は各部の工場・生産設備の疎開に着手、會計部は大村公園に、飛行機部は総組立・整備工場を廠内に置き、組立・部品工場は郡川、池田、水計、小路口に、發動機部は諫早町(現、諫早市)原口、永昌、公園(諫早城)、小栗(隧道含む)に、同素地工場は佐賀県藤津郡鹿島町(現、鹿嶋市)の酒蔵に、補給部は臼島、福重、萱瀬林間道路に、會計部は大村高女に夫々、疎開工場を建設し逐次移転を開始し生産・造修を続行します。

3月27日、成都を発進したB29爆撃機161機が来襲、太刀洗陸軍飛行場、大分・大村両海軍航空基地とともに空襲を受け、發動機部第一機械工場の大破により「流星」の生産が困難になった事から、飛行機部は全生産設備を「紫電改」生産、及び「と號改装」(特攻機改装)に転換します。
その他、15回程の艦載機により空襲を受けます。

3月、空廠本部、會計部、補給部事務所移転のため佐世保海軍施設部指揮のもと㈱間組により鈴田に隧道設営を開始(未成)します。

4月1日、自動車部(池上喜次機大佐)が新設されます。

二十一空廠は空襲に曝されながら廠内、各疎開先工場で生産、造修を続けるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時、二十一空廠の管下には沖縄分工場(玉砕)、大村、日宇、崎邊、博多、上海、廣畑、袋、沖縄(玉砕)、青島各補給工場があり、停戦までに本廠では零式観測機359機、流星20機、紫電改7機、零式練習用戦闘機238(改造)機、発動機・天風2,132台(譽も予定されましたが空襲により中止)、停戦時の従業員は約50,000名でした。

17日、二十一空廠は航空機の製造・造修を停止、疎開・疎開工場建設を中止し学校報国隊、朝鮮・五島方面の応徴士、18日、女子工員、同挺身隊の隊廠式ののち賃金、退職金、旅費、配給物資を支給し即日勤務解除します。
また、空廠兵器處理委員會(廠長・中村中将)を編成し廠内、疎開工場の製造中、及び損傷機から兵器類を取り外し、また仕掛り品、部品類を補給部倉庫に集積し分類整理、機体の集積、目録作成等の残務整理を開始、11月10日、賠償指定物件(工作機械、兵器類)を引渡し、30日、第二十一海軍航空廠は閉廠、昭和21(1946)年3月下旬、残務整理が完了します。
賠償指定物件に指定された工作機械、兵器類、物資類は大村海軍航空基地係船池に集積され主に東南アジア方面に発送され、昭和23(1948)年3月に完了しました。


主要参考文献
『放虎原は語る』 (平成11年3月 大村市)

『大村市史』 (昭和36年1月 大村市史編纂委員会 大村市役所)

『楠のある道から 第21海軍航空廠の記録』 (平成15年10月 児島明世 活き活きおおむら推進会議)

『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧(一)』 (平成21年3月 渡辺博史 楽學庵)

『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧(八)』 (平成24年7月 渡辺博史 楽學庵)

『日本海軍航空史(2)軍備篇』 (昭和44年9月 土子猛 ㈱時事通信社)
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 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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