当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

大村海軍航空基地 (大村海軍航空隊・第三五二海軍航空隊)

長崎県大村市に霞ヶ浦とともに多くの荒鷲を育てた大村海軍航空基地がありました。
大村海軍航空基地・航空隊  E 廃潤滑油再生米置場 ・D 潤滑油庫 南東から(長崎)
▲陸上自衛隊・竹松駐屯地に遺る廃潤滑油再生米置場(左)・潤滑油庫(右)

【探索日時】
平成24年11月27日・平成27年9月26日





大村海軍航空基地周辺の海軍施設
第二十一海軍航空廠 大村(昭和19年)(長崎)
▲昭和19(1944)年末の大村海軍航空基地周辺空撮

大村海軍航空基地・航空隊『大村海軍航空基地施設一般圖』(長崎)
▲『大村海軍航空基地施設一般圖』(停戦時)
  ※上が東

第二大村海軍航空基地・航空隊 大村全図(現在)A(長崎)
▲大村海軍航空基地の範囲、及び施設配置
⑪ 大村海軍航空基地
⑫ 大村海軍航空隊
⑬ 第三五二海軍航空隊
⑭ 臨時兵舎地区
⑮ 竹松送信所

⑯ 第二大村海軍航空基地滑走路
⑰ 燃料庫 ・ 爆弾庫
⑱ 福重防空砲台
⑲ 皆同防空砲台
⑳ 佐世保海軍施設部大村地方事務所
橙線:誘導路(黄:推定)緑線:掩体壕桃:有蓋水:推定
誘導路・掩体壕は昭和19年の空撮と引渡目録の配置図が若干異なる様です。
名称は昭和20(1944)年頃
※緑文字が当記事の紹介施設

遺構について ※青字は地図にリンクしています
(数字、アルファベット等の遺構配置は上掲地図参照)
⑪ 大村海軍航空基地
⑫ 大村海軍航空隊

大正9(1921)年8月1日、海軍省は第一次世界大戦の戦訓から従前の「飛行隊八隊充實計畫」を「飛行隊十七隊充實計畫」に拡張します。
11月、佐世保鎭守府は佐世保海軍航空隊の陸上飛行場として新たに佐世保近郊で敵地を調査した結果、平坦な土地が広がり気象条件の良い東彼杵(ひがしそのぎ)郡竹松村今津、その南側の西大村(ともに現、大村市)を候補地として選出し、民家が少なく移転買収費用の圧縮が見込める前者を選定します。
大正10(1922)年2月19日、佐世保海軍建築部長・神谷技師は東彼杵・一瀬勝三郎郡長立会のもと、航空基地用地341,602坪の地権者134名に対し買収価格を発表(田1反歩:890~740円、畑:700~340円、家屋移転:1坪20円、墓地移転:1個3円)しますが、地価高騰により代替地の購入が困難として地権者側が売却に難色を示したため、佐世保鎭守府は農商務省所管の官有地を廉価で払い下げる事を約し、4月までに買収契約を締結し、住民の移転が開始されます。
9月、航空基地設営が開始され、大正11(1923)年11月1日、大村海軍航空隊が開隊します。
大村海軍航空基地・航空隊  航空隊建設工事(長崎)
▲大村海軍航空隊の設営工事

大村海軍航空基地・航空隊  甲庁舎(長崎)
▲大村海軍航空隊本部庁舎と隊門
  昭和3年、鉄筋コンクリート造の乙庁舎建設に伴い甲庁舎に改称

大村海軍航空基地・航空隊 大正13年2月(長崎)
▲大正13(1925)年2月の航空隊

昭和3(1928)年11月5日、竹松村の2,618坪、西大村の15,336坪を飛行機甲板発着訓練場用地として買収、昭和8(1933)年3月17日、西大村の1,027,858坪を買収し基地を拡張します。
昭和4(1929)年11月1日 航空母艦「加賀」の就役に伴い艦載機隊を編成します。
昭和12(1937)年7月11日、第十三海軍航空隊を編成、8月7日、木更津海軍航空隊が大村に進出し、15日、渡洋爆撃を実施し済州島に移駐します。
昭和13(1938)年6月25日、第十五海軍航空隊を編成し中支に派遣、11月27日、大村に帰還し、12月1日、復帰します。
昭和14(1939)年4月1日、空母「飛龍」の就役に伴い、艦載機隊を編成します。
昭和15(1940)年10月31日、第十三航空隊が大村に帰還し、11月15日、復帰します。
昭和18(1943)年10月1日、第二五四海軍航空隊が編成され、海南島に進出します。
昭和19(1944)年3月10日、第六五二海軍航空隊が編成され、第二航空戰隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)に搭載されマリアナ沖海戦に挑みます。
8月1日、隣接地に第三五二海軍航空隊が開隊し、航空基地を共用します。
昭和20(1945)年3月21日、爆装零戦による神風特別攻撃隊 神劔隊を編成し、4月1日、鹿屋海軍航空基地に前進します。
5月3日、第三四三海軍航空隊が大村に進出、5日、大村海軍航空隊は復帰、基地管理は西海海軍航空隊に移管され、決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

17日、米第2海兵団第3大隊800名が大村市に進駐を開始、19日、スミス大佐以下100名が輸送機20機で大村海軍航空基地に到着し、隣接する第二十一海軍航空廠とともに接収され兵器、軍需品の引渡しを実施、基地桟橋が第二十一海軍航空廠の賠償指定物件の積出し場に指定され、昭和21(1946)年3月下旬、積出しが完了します。
昭和22(1947)年6月6日、大村海軍航空基地の転圧滑走面全域、三五二空兵舎が内務省に返還され大蔵省に移管、元地権者、入植者に払い下げられ農耕地として開墾されます。
昭和23(1948)年、米軍の退去に伴い大村空跡地は大蔵省に移管され、4月1日、長崎青年師範学校が諫早市より移転、昭和24(1949)年5月31日、長崎大学の発足に伴い長崎大学長崎青年師範学校に改称し、同大水産学部も大村空跡地に開設、昭和25(1950)年3月、崎辺へ移転します。
昭和27(1952)年7月1日、鹿屋駐屯地より警察予備隊・第4施設大隊が移駐し竹松駐屯地が開設、10月15日、警察予備隊は保安隊、昭和29(1954)年7月1日、自衛隊に改組され、現在は第7高射特科群等が駐屯し最前線の防空任務にあたり、我が国の平和を護っています。

某ネット百科事典には戦後、「大村海軍航空基地が海上自衛隊の大村航空基地となり民間共用の滑走路があった」(旧長崎空港の事と思われる)旨書かれていますが、当航空基地が海自航空基地になった事実は無く、旧長崎空港があったのは南側の第二十一海軍航空廠跡地であり明確な誤りです。

大村海軍航空基地は南西端に大村海軍航空隊施設、南東端に増設航空隊施設、北西端に射撃場がありました。
戦後、大村空以外は農耕地として払下げられ、開墾・開発により遺構はほぼ破壊されてしまいましたが、大村空跡地は大学を経て陸上自衛隊・竹松駐屯地として転用されたため現在も駐屯地内に以下の遺構が遺されています。
大村海軍航空基地・航空隊  大村全図(現在) 航空隊①(長崎)
▲遺構部分の拡大

A 第二指揮所 ・・・撮影及び掲載禁止
昭和10(1935)年に建設され、鉄筋コンクリート2階建(一部3階建)で128㎡あります。
竹松駐屯地内の地対空誘導弾改良ホーク演習場に遺ります。


B 第二格納庫 ・・・撮影及び掲載禁止
大正12(1923)年に建設され、本体は煉瓦造、屋根は鋼板張りで1,353㎡あります。
同じく改良ホーク演習場に遺ります。
ご案内頂いた隊員の方の話では機銃掃射の痕が遺っているそうです。


C 第一格納庫 ・・・撮影及び掲載禁止
大正14(1925)年に建設され、第二格納庫と同じ造りで1,322㎡あります。
同じく改良ホーク演習場に遺ります。

以上の3つの遺構は改良ホークに関して『日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定』に基づき(秘密保護法)、演習場内の立入りを始め、付近でうろつく事、撮影も厳禁されています。
遺構の撮影及び、当然ながらネット上での公開は竹松駐屯地、ひいては陸上自衛隊に多大な迷惑を掛ける可能性があるため行わないで下さい。

ただし、数年後には改良ホークが03式中距離地対空誘導弾に改編される予定のため、その後であれば撮影も可能になるそうです。
その時はこの記事も大幅改訂し、上記の遺構も掲載します!


D 潤滑油庫
昭和11(1936)年に建設され、鉄骨コンクリート造の平屋建で80㎡あります。
大村海軍航空基地・航空隊  D 潤滑油庫 南東から(長崎)
▲現在も倉庫として使用されている様です。

大村海軍航空基地・航空隊  D 潤滑油庫 東側入口(長崎)
▲入口の近影


E 廃潤滑油再生米置場 (廃油再製装置場)
昭和17(1942)年に建設され、白色で塗装されていますが煉瓦造の平屋建で70㎡あります。
『大村 5航空隊 1,000分の1図』では「廃潤滑油再生米置場」と記載されているのですが、廃油と再生米って何の関係?
『大村海軍航空基地施設一般圖』には「廃油再製装置場」と記載されています。
大村海軍航空基地・航空隊  E 廃潤滑油再生米置場 南東から(長崎)
▲正面側

大村海軍航空基地・航空隊  E 廃潤滑油再生米置場 南から(長崎)
▲側面から


F 貯水池
昭和14(1939)年に建設され、貯水池兼遊泳池(プール)として使用されていました。
最近までプールとして使われていたそうですが、屋内プールができたので現在は貯水池として使用されています。
大村海軍航空基地・航空隊  F 貯水池 北から (3)(長崎)
▲貯水池は地面より高い位置にあります。

大村海軍航空基地・航空隊  F 貯水池 北から (2)(長崎)
▲貯水池内部

大村海軍航空基地・航空隊  F 貯水池 北から(長崎)
▲遊泳池の設備が遺ります。

大村海軍航空基地・航空隊  F 貯水池 西から(長崎)
▲貯水池外周にある階段


G 繋船設備
遺構は防波堤繋船柱(ともに昭和7年造)、桟橋(大正13年造)、短艇曳揚場(昭和7年造)、短艇揚場鐡道(〃)、護岸石垣(〃)で構成され、その全てが遺されています。
大村海軍航空基地・航空隊  G 防波堤(長崎)


ア 本部庁舎退避壕
設営年は不明です。
入口は閉鎖され改良ホークのタイル画が貼られているため一見、退避壕には見えません。
大村海軍航空基地・航空隊  ア 退避壕 南西から (2)(長崎)
▲単なる看板にしか見えません。

大村海軍航空基地・航空隊  ア 退避壕 南西から(長崎)
▲横から見ると僅かに退避壕の入口コンクリートが見えます。

大村海軍航空基地・航空隊  ア 退避壕 東から(長崎)
▲裏側から見ると不自然に盛り上がっています。

ご案内頂いた隊員の方の話では、内部は地下通路でバックネット付近まで伸びているそうです。
バックネット付近にあった耐弾式戦闘指揮所に繋がっていたと思われます。
大村海軍航空基地・航空隊  ア 退避壕が伸びるバックネット(長崎)
▲右側のバックネット付近まで伸びているそうです。


イ 土留
当時この辺に門らしい物は無かった様なので、遺構かどうか不明です。
大村海軍航空基地・航空隊  イ 隊門土留(長崎)


ウ 防空監視哨
乙庁舎の屋上にあった物ですが、解体に伴い資料館前に移設されました。
大村海軍航空基地・航空隊  ウ 防空監視哨(本部庁舎上にあった) 移設 (2)(長崎)
▲大きさはこれくらいです(僕=180cm)。

大村海軍航空基地・航空隊  ウ 防空監視哨(本部庁舎上にあった) 移設(長崎)
▲入口


エ コンクリート基礎
鉄塔の脇にコンクリート基礎が2基遺ります。
この辺にあった水素瓦斯格納庫の基礎でしょうか?
大村海軍航空基地・航空隊  エ 水素瓦斯格納庫基礎?(長崎)


石標
場所はうる覚えです・・・。
大村海軍航空基地・航空隊  空消火栓(関係無い?)(長崎)
▲コンクリート製で「空消火栓」と刻字されています。

以上の遺構は全て陸上自衛隊・竹松駐屯地に遺ります。
見学に付いては毎年9月末の創立記念行事、及び通常見学で可能です。
通常見学については観光地では無いので事前申し込みのうえ調整して頂き、撮影禁止等の広報の方の指示に従って下さい。

最後にお忙しいなか長時間に渡り御案内頂いた広報の方、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。


H 有蓋掩体壕 A
下原口公園に遺されています。
大村海軍航空隊の遺構として有名な遺構です。と言うより大村海軍航空隊の遺構としてはコレしか出てきません・・・。
誘導路・掩体壕設営時期については、他の航空基地同様、昭和19(1944)年7月13日、海軍施設本部からの「有蓋掩体の急速設備示達」(施本機密第八七三〇號)に則り開始されたと思われますが、詳細は不明です。
大村海軍航空基地 A 掩体壕 北から(長崎軍跡)
▲正面側
  入口が閉鎖され埋まっていますが、典型的な海軍型のコンクリート製有蓋掩体壕です。

大村海軍航空基地・航空隊  H 掩体壕 北西から(長崎)
▲斜め前から
  よく見ると正面側の面が二段構造になっています。
  この構造は初めて見る形状です。

大村海軍航空基地・航空隊  H 掩体壕 東から(長崎)
▲側面から
  遊具に改造されているため曜日、時間帯によっては子供がいて撮影できません。

大村海軍航空基地・航空隊  H 掩体壕 内部(長崎)
▲内部(中央)
  倉庫に転用されていますが、状態は非常に良いです。

大村海軍航空基地・航空隊  H 掩体壕 内部 (2)(長崎)
▲内部(端)

当航空基地には有蓋掩体壕Aが13基、有蓋掩体壕Bが23基、無蓋掩体壕が51基あった様ですが、現在遺されているのはこの1基のみ(基礎のみ1基が遺っているとの情報もあります)です。
『大村海軍航空基地施設一般圖』には有蓋掩体壕の区分としてAとBが記載され、記号も異なる事、それそれの数量からAが総コンクリート製、Bが木製(基礎のみコンクリート製)では無いでしょうか?

※コメントを頂いた大村太郎様に「掩体壕B」と思われる動画の情報を頂きました。
動画は滑走面西側から海側(西側)を撮影している様で、西端に4基並んでいた掩体壕B(現、太陽光機大村工場付近)が映っています(1:06頃)。



⑬ 第三五二海軍航空隊
昭和18(1943)年8月18日、海軍航空本部は大村海軍航空基地東側の竹松村知寄97,000坪を買収し居住区を増設、昭和19(1944)年8月1日、第三五二海軍航空隊が開隊し、九州地区の防空に当たるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
19日、大村海軍航空基地とともに接収され、昭和22(1947)年6月6日、大村海軍航空基地の転圧滑走面全域とともに内務省に返還され大蔵省に移管、元地権者、入植者に払い下げられ農耕地として開墾、昭和25(1950)年、遺されていた兵舎に郡中学校が移転して来ます。
現在、全域が住宅地、学校、農地になり、遺構は遺されていない様です。


⑭ 臨時兵舎地区
⑮ 竹松送信所

設置の経緯、時期、停戦後の経緯など詳細不明です。
現在、臨時兵舎地区は一般住宅地、竹松送信所は市営住宅になっており、遺構は遺されていない様です。


大村海軍航空隊開設に至る経緯
明治36(1903)年12月17日、米国ノース・カロライナ州キティーホーク海岸においてライト兄弟が発動機付き複葉機による人類初の有人動力飛行に成功します。
軍用飛行機の将来性に着目した陸軍は明治42(1909)7月30日、陸軍省内に陸海官合同の臨時軍用氣球研究會(長岡外史陸軍中将)を設置、遊動気球と飛行機に関する設計試験、操縦法、諸設備、通信法の研究を開始します。

明治42(1909)年5月25日、相原四郎大尉、小濱方彦大尉は航空に関する研究にあたるため海軍大學校選科學生に発令され、明治43(1910)年2月19日、相原大尉はドイツ駐在を下命され操縦術の習得、及び飛行機の研究にあたっていましたが、明治44(1911)年1月4日、ベルリン郊外において飛行練習中に墜落、8日、殉職してしまいます。
明治43(1910)年5月23日、相原大尉に代わり選科學生に発令された金子養三大尉は明治44(1911)年3月1日、フランス駐在を下命され、操縦術の取得にあたり、大正元(1912)年10月24日、モーリス・ファルマン1912年型水上機、カーチス1912年型水上機とともに帰国します。

明治44(1911)年6月16日、航空技術研究委員會(山路一善大佐)が発足、7名の委員は兵科は操縦、機関科は整備の技術習得にあたり、海軍における航空技術習得が体系化されます。

大正元(1912)年10月、海軍省は追濱地区に飛行場を設営し、24日、第一期練習将校(操縦)4名を採用、操縦術の取得を開始します。
大正3(1915)年6月23日、軍令部は軍備充実の商議において飛行機4群(16機)の設置等を要求しますが実現されませんでした。

大正4(1916)年7月8日、防備計畫改正の将棋において飛行機を横須賀4隊、呉2隊、佐世保2隊の配備を要求、海軍省は大正5年度予算編成に際し「飛行隊三隊充實計畫」(横須賀・呉・佐世保。大正9年まで継続)を成立させます。

大正5(1917)年3月17日、軍令海第四號『海軍航空隊令』が制定され、4月1日、横須賀海軍航空隊が開隊(山内四郎大佐)します。

大正7(1919)年、海軍省は欧州における航空機の兵器としての著しい増強に対応すべく、「飛行隊三隊充實計畫」を「飛行隊八隊充實計畫」(横須賀4・呉2・佐世保2隊(1隊6機)。大正11年まで継続)に拡充、大正9(1921)年8月1日、さらに第一次世界大戦の戦訓から「飛行隊十七隊充實計畫」(横須賀5・呉4・佐世保5隊・舞鶴1隊)に拡張します。
12月1日、佐世保海軍航空隊が開隊(金子養三大佐)します。

大正11(1923)年8月5日、海軍軍備制限ニ關スル条約(ワシントン軍縮条約)が批准された事により艦艇の保有数を削減された海軍は条約制限外の艦艇、及び航空戦力の充実が急務となりますが、大正12(1923)年9月1日、関東大震災が発災した事により復興を優先すべく財政は窮迫、航空戦力の充実は大幅に遅れ、大正11(1923)年11月1日、霞ヶ浦、大村、大正14(1926)年4月1日、佐世保空廣分遣隊(のち呉空)、昭和5(1930)年6月1日、館山各海軍航空隊が開隊、昭和6(1931)年11月1日、廣分遣隊を呉海軍航空隊として拡張し予定から遅れること7年、漸く完了します。


大村海軍航空基地に展開及び編成された部隊
大村海軍航空隊
大正11(1923)年11月1日、海軍省内令第三百六十七號『定員令』別表により大村海軍航空隊の定員195名が定められ、12月1日、長崎県東彼杵郡竹松村に新設された大村海軍航空基地において大村海軍航空隊(艦上戦闘機隊1隊)が開隊(秋山乕六中佐)し、佐世保鎭守府に所属します。

大正13(1925)年11月1日、海軍省内令第二百四十五號『航空隊編制表』により隊は艦戦1隊編制になります。
大正15(1927)年6月1日、海軍省内令第百十五號『航空隊編制表』により隊は艦戦1隊、艦上攻撃機半隊編制になります。
昭和3(1928)年10月1日、海軍省内令第二百七十七號『航空隊編制表』により隊は艦戦1隊、艦攻1隊編制になります。
昭和8(1933)年4月1日、海軍省内令第百號『航空隊編制表』により隊は艦戦1隊、艦攻1隊半編制になります。
昭和9(1934)年2月7日、海軍省内令第五十二號『航空隊編制表』により隊は艦戦1隊、艦攻1隊編制になります。
10月1日、海軍省内令第三百八十九號『航空隊編制表』により隊は艦戦1隊、艦攻1隊半編制になります。
昭和10(1935)年4月1日、海軍省内令第百十八號『航空隊編制表』により隊は艦戦1隊半、艦攻1隊半編制になります。
昭和11(1936)年4月1日、海軍省内令第百九十三號『航空隊編制表』により隊は艦戦半隊、艦上爆撃機半隊、艦攻1隊編制になります。
11月16日、海軍省内令第四百三十八號『航空隊編制表』により隊は艦戦1半隊、艦上爆撃機1隊、艦攻半隊編制になります。
昭和12(1937)年4月1日、海軍省内令第百二十六號『航空隊編制表』により隊は艦戦1隊、艦上爆撃機1隊、中型攻撃機1隊半編制になります。
7月1日、海軍省内令第三百三十二號『航空隊編制表』により隊は艦戦1隊編制になります。

7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、11日、大村において第十三海軍航空隊(千田貞敏大佐)が編成されます。

31日、海軍省内令第三百九十八號『航空隊編制表』により隊は艦戦1隊、艦上爆撃機1隊編制になります。

昭和13(1938)年6月15日、大村において第十五海軍航空隊(三浦鑑三中佐)が編成されます。

昭和15(1940)年11月15日、隊は練習航空隊に指定され、呉鎭守府麾下の第十二聯合航空隊(吉良俊一大佐、大分)に編入、飛行練習生の艦攻の操縦、偵察術の実用機教育課程を担当します。
12月1日、第九期海軍乙種飛行豫科練習生が霞空を卒業、昭和16(1941)年3月31日、甲飛五期が、5月31日、乙飛十期が土浦空を卒業、操縦専修者が大村空に入隊します。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争が開戦、隊(艦戦36、艦攻42)は呉鎭守府第十二聯合航空隊に区分され、十二聯空司令官指揮下に教育、警戒、攻撃を任務とします。
開戦に伴い隊は九州西岸から対馬海峡の対戦哨戒を開始します。

昭和17(1942)年3月26日、隊は佐世保鎭守府司令長官の作戦指揮下に編入され、九州西方海域の対潜掃討にあたります(4月3日まで)が、会敵はありませんでした。

7月25日、丙飛十一期の一部が、9月24日、丙飛十一期、同十二期が、11月20日、丙飛十三期が、昭和18(1943)年1月24日、丙飛十四期が岩國空を卒業、操縦専修者の一部が大村空に入隊します。

昭和18(1943)年2月1日、練習聯合航空總隊(海軍大臣麾下)が新編され、十二聯空は同總隊指揮下に編入されます。

3月24日、丙特十四期が岩國空を卒業、操縦専修者の一部が大村空に入隊します。

5月22日、大本營海軍部は各練習航空隊に1日1回日施哨戒において対潜哨戒、船団護衛は1直1機以内での実施を下命します。
6月7日、佐世保鎭守府司令長官より大村空司令・森田千里大佐に対し、佐鎭命令第二百三號により大村海軍航空基地の防備強化が下令されます。

7月23日、丙飛十七期が岩國空を卒業、操縦専修者の一部が大村空に入隊します。

8月12日、大海指大二百六十五號により隊は佐世保鎭守府司令長官の指揮下に編入され、訓練任務に加え九州北西海面の対潜作戦を下令されます。

9月1日、乙特一期が岩國空を卒業、操縦専修者の一部が大村空に入隊します。

10月1日、第二五四海軍航空隊を編成します。

11月12日、乙特二期が岩國空を卒業、操縦専修者の一部が第三十五期飛行練習生として、昭和19(1944)年1月12日、甲飛十一期後期が土浦空を卒業、第三十六期飛練生として大村空に入隊します。

2月1日、海上護衛總司令部は対潜強化のため九〇一空に陸攻3、大艇6を大村に派遣する様に下令します。
3月10日、第六五二海軍航空隊が編成されます。

15日、朝鮮咸鏡南道に元山分遣隊(周防元成大尉)、諫早市に諫早分遣隊(藤瀬勝大佐)、5月15日、済州島に済州島分遣隊(坂本正大佐)が設置されます。

8月1日、第三五二海軍航空隊(大村空司令兼・寺崎武治大佐)が編成されます。

15日、元山分遣隊は復帰し元山海軍航空隊に改編されます。

20日、成都を発進した米軍B29爆撃機60機が八幡地区に来襲、隊は大村上空を哨戒しますが会敵しませんでした。

9月1日、第四十期飛練生425名が土浦空より転隊して来ます。

10月25日0955、成都を発進したB29爆撃機59機が5派に別れ第二十一海軍航空廠に来襲、隊は三五二空と零戦37、雷電8、月光6機で邀撃、零戦33機がB29梯団を捕捉、1機撃墜、17機撃破を報じるも高度8,000mの空戦のため27機が機銃凍結、3機が被弾不時着してしまいます。

11月6日、B29爆撃機3機が大村湾・有明湾に来襲、隊は零戦5、雷電2機で邀撃しますが、会敵できませんでした。

11日、B29爆撃機80機が九州西部に来襲、隊は零戦23機で邀撃しますが、悪天候による視界不良のため会敵できず、大村海軍航空基地に爆弾24発が投弾されますが、被害は軽微でした。

21日1000、B29爆撃機61機が来襲、隊は零戦21機で邀撃し3機を撃墜を報じます。

昭和20(1945)年2月11日、済州島分遣隊は復帰、釜山海軍航空隊に改編されます。

16日、第十二聯合航空隊司令官・原忠一少将は機密第一六二二三〇番電により練習聯合航空總隊司令官・松永貞市中将より、18日以降、隊に特攻訓練60名、戦闘機訓練50名、諫早分遣隊に特攻訓練40名の要員選抜と錬成の実施を下令されます。

3月1日、練習聯合航空總隊は復帰、第十航空艦隊に改編され、第十二聯合航空隊は同航空艦隊麾下に編入され、第八基地航空部隊(第十航空艦隊)第十二聯合航空隊に部署、練度の高い者は対機動作戦に、低い者は特攻作戦の錬成を実施、3月末までに完了する様に下達され急速な戦力化を図ります。

同日、諫早分遣隊は復帰、諫早海軍航空隊に改編されます。

3月20日、天一號作戰要領により、第十二聯合航空隊の作戦可能全機は第一機動基地航空部隊指揮官(五航艦司令長官・宇垣纏中将)の作戦指揮下に編入されます。

21日、隊は第一機動基地航空部隊大村部隊に区分、電令作第百四十四號により零戦特攻を下令され、実用機教程の戦闘機専修飛行学生の志願者から51名を選考、爆装零戦による神風特別攻撃隊「神劔隊」を編成し待命、錬成を実施します。

26日、天一號作戰が発動されます。

27日、成都を発進したB29爆撃機161機のうち10機が大村海軍航空基地、第二十一海軍航空廠に来襲、隊は三五二空と計42機で邀撃しますが、戦果はありませんでした。

31日、成都を発進したB29爆撃機130機のうち一部が大村に来襲、隊は他隊とともに45機で邀撃、若干の損害を与えますが、隊の損害も大きく可動機は減少してしまいます。

4月1日、米軍が沖縄に上陸を開始、隊の機動作戦部隊は笠之原海軍航空基地に、神風特別攻撃隊「神劔隊」は鹿屋海軍航空基地に前進します。
6日、菊水一號作戰が発動され、隊の零戦隊に援護され、第一神劔隊16名は25番1発を懸吊し鹿屋を発進、沖縄東方海上の敵輸送船団に突入散華します。

7日、隊の零戦隊は沖縄に向かう第二艦隊(伊藤整一中将、「大和」以下10隻)の出撃を直掩します。

14日、第二神劔隊10名、16日、第三神劔隊3名、第四神劔隊1名、5月4日、第五神劔隊15名は25番1発を懸吊し鹿屋を発進、沖縄東方海上の敵機動部隊に突入散華します。
また零戦隊は4月14日、制空、21日、B29邀撃、22日、B29邀撃、及び制空、23日、鹿屋上空哨戒、27日、B29邀撃、28日、B29邀撃、及び制空、29日、B29邀撃にあたります。

5月5日、大村海軍航空隊は復帰、司令(三五二空司令兼務)・柴田文三大佐は三五二空司令専任に、在隊者はそれぞれ他隊に転出します。
※司令以下の人事、分遣隊事績は省略しています。


第十三海軍航空隊
昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生します。
11日、佐世保鎭守府所管の特設航空隊(定数は艦爆1隊半20機(実際は九六艦爆18)、艦戦1隊17機(同九〇艦戦6)、輸送機1(ロッキード輸送機1))として大村において第十三海軍航空隊が開隊(千田貞敏大佐)、第二聯合航空隊に編入され、15日、編成完結します。
19日、進出予定の大連・周水子航空基地の設営が完了します。

28日、隊は北支部隊(第二艦隊司令長官指揮)第一航空部隊(第二聯空司令官指揮)に部署され、第二艦隊は陸軍と協力し居留民の保護、隊は聯空とともに周水子に進出を下令されます。
8月7日、隊は大村を出発、11日、朝鮮を経由し周水子に進出し、21日、第十一師團天谷支隊(歩十旅團長・天谷直次郎少将)のA作戰(青島攻略)協力を下命されますが、24日、作戦の中止を受け、31日、大村に帰還し、艦戦は九六艦戦12機に機種変更します。

9月5日、第二聯空は第三艦隊に編入、中支部隊航空部隊(第三艦隊司令長官指揮)第五空襲部隊(第二聯空司令官指揮)に部署され、上海・公大飛行場への進出、及び敵飛行場偵察を下命されます。

10日、公大に到着しますが滑走路の状態が悪く艦戦は着陸時の事故が多発するなか、上海派遣軍(松井石根大将)の作戦支援を開始します。
12日、隊は海門、通州、蘇州、嘉興、虹橋、13日、杭州方面の翁家阜、寛橋、喬司各敵飛行場を偵察します。
14日、隊の艦戦の一部、艦爆18機は第一空中攻撃隊(制空隊)、残りの艦戦は第二空中攻撃隊に部署され南京攻撃にあたります。
19日、艦戦6、艦爆17で南京・大校飛行場他を攻撃し、敵機40と空戦し26を撃墜、数機を地上撃破し格納庫を破壊しますが、4機が未帰還(3名散華)になってしまいます。
20日、艦戦2、艦爆15は他隊の艦攻11、水偵13と大校飛行場を攻撃、敵機5と空戦し4を撃墜しますが、艦爆1(2名散華)が未帰還になってしまいます。
22日、艦戦4、艦爆14は南京市政府、党部を攻撃、敵機5と空戦し4を撃墜しますが、艦爆1(2名散華)が未帰還になってしまいます。
23日、艦爆14は江陰にあった敵巡洋艦「寧海」・「平回」を攻撃し撃破します。
25日、艦戦8、艦爆12は他隊と南京電灯廠、市政府を攻撃しますが、対空砲火により艦戦2が未帰還になってしまいます。
28日、艦戦5、は蕪湖飛行場を、艦爆・艦攻計17は南京・句容飛行場を攻撃します。
10月1日、隊は陸軍の大場鎮攻略作戦を支援、特に第九師團正面の攻撃を担当、2日、第九師團支援中に艦爆1が撃墜(2名散華)されてしまいます。
3・4・5日、引き続き陸戦を支援、6日、隊は全力で南京攻撃を実施、艦戦5は他隊の中攻11と安慶飛行場、艦戦8は南京飛行場、艦戦・艦爆計8は蕪湖飛行場を攻撃します。

11日、7日以降天候悪化により中断していた攻撃を再開、12日、艦戦・艦爆計9は廣徳、蕪湖両飛行場、浦東付近の敵砲兵陣地を、艦戦11は他隊の中攻を援護し南京を攻撃します。
13日、艦戦・艦爆計12、14日、同22機はは第九師團を支援し南京を攻撃、15日、陸軍は大場鎮攻撃を開始、艦戦・艦爆計16で徐県飛行場を攻撃します。
17日、第九師團は陳家行を攻略、18日、隊は15機で南京飛行場を攻撃、19日、第九師團を支援し艦戦6は他隊の中攻8と、また艦戦9は他隊の中攻を援護し南京を攻撃します。

10月20日、第三艦隊は新編の支那方面艦隊に編入されたため、第二聯空は支那方面艦隊に付属され、隊は艦攻半隊8機を加えられ支那方面艦隊航空部隊(支那方面艦隊司令長官指揮)第五空襲部隊(第二聯空司令官指揮)に部署、引き続き第九師團の支援にあたります。
同日、艦戦9は他隊の中攻17を援護し大校を攻撃、艦戦3は虹橋を偵察攻撃します。
21日、艦戦7は他隊の中攻274を援護し南京造兵廠、火薬廠を攻撃、第九師團は談家頭、丁家橋を攻略、22日、艦戦・艦爆計6機は南京飛行場を攻撃、師團は朱宅を攻略、23日、艦戦6は他隊の中攻6を援護し安慶飛行場を攻撃、支那軍は撤退を開始したため、師團は追撃に移ります。

24日、隊は潰走する敵、及び艦戦6は他隊の中攻9を援護し大校を攻撃、第二聯空はH作戰部隊援護艦隊(第四艦隊司令長官指揮)第二航空部隊に部署され、杭州湾上陸作戰の支援を下令されます。
25日、第九師團は朱宅-南張村の線に進撃し、26日、陸軍は大場鎮を攻略、隊の艦戦・艦爆計6は他隊の艦偵2とともに蘇州河南岸の杭州、廣徳、句容各飛行場を偵察攻撃します。
27日、蘇州河南岸を攻撃します。
29日、艦戦・艦爆計7は建徳飛行場を偵察攻撃します。
11月6日、陸軍部隊は杭州湾に上陸、隊は艦攻・艦爆計15で第六師團の前面・側面を偵察制圧、艦攻・艦爆計7は楓経鎮を攻撃します。
8日、隊は延べ44機で退却する敵を銃爆撃します。

9日、第二聯空は支那方面艦隊に復帰します。
10日、隊は他隊と延べ26機で第十一軍の作戰を、11日、同26機で第六・第十八師團を、12日、他隊と計13機で第十八師團を、13日、延べ42機で第十四・第十八師團を、14日、同46機で第六師團、15日、艦爆・艦攻計16機で第六師團を支援します。
同日、第五空襲部隊は京滬線以南の陸戦支援を下令され、22日、隊は他隊と延べ52機で第十軍を支援し、湖州東方地区の敵陣、を攻撃(別に艦戦・艦攻計8で南京飛行場を攻撃)、23日、隊は他隊と廣徳付近、常州-丹陽間の敵部隊を偵察攻撃、24日、隊は他隊と計44機で湖州付近の敵部隊を攻撃、25日、艦戦9・艦爆5で南京飛行場を攻撃し13機を地上撃破し、さらに長興に撤退する敵部隊を爆撃、26日、隊は他隊と艦戦15、艦爆15、艦攻20、艦偵1で廣徳付近の敵部隊を攻撃、27日、隊の艦戦3は中攻2、大攻2とともに宥国付近で車両・自動貨車を攻撃、他隊とともに計57機で丹陽、金壇の敵部隊を攻撃、28日、隊は他隊と計31機で鎮江、丹陽、金壇の敵部隊を攻撃、29日、隊の艦戦3、艦爆6は繰水、30日、隊の艦爆6、艦攻6は中攻2、大攻2とともに蕭山を攻撃します。

12月1日、第二聯空は支那方面艦隊航空部隊(支那方面艦隊司令長官指揮)第一空襲部隊(第二聯空司令官指揮)に部署され、2日、艦戦6、艦爆6で南京攻撃に出撃、艦爆隊は引き返すも艦戦は南京に到達し敵機30と空戦、13機を撃墜し、支那方面艦隊司令長官・杉山六蔵少将より感状が授与されます。

3日、艦戦12、艦爆6は他隊15機と南京、4日、艦戦9は他隊6機と南京・明故宮飛行場(2機撃墜)、5日、艦戦9、艦爆6は徐県、六合飛行場、艦戦3は他隊の中攻3機と明故宮飛行場、7日、艦戦8、艦爆4は他隊の中攻3機と蕪湖飛行場を攻撃、8日、艦爆、艦攻は靖江を爆撃後、常州に前進し陸戦を支援、9日、他隊とともに艦戦7で中攻3機を援護し南昌飛行場を攻撃します。

10日、隊の艦爆は南京城中山門、光華門等の敵陣を爆撃、11日、艦攻・艦爆は常州を経由し富貴山陣地、明故宮飛行場、12日、南京城内の敵陣と浦口を爆撃し、13日、陸戦を支援、同日、南京が陥落、15日、艦爆2は大攻3とともに杭州-紹興間の列車・貨車を攻撃します。

17日、艦戦隊は第三空襲部隊(鹿屋空司令指揮)C部隊に部署され、艦戦3は南京入城式の分列飛行に参加します。
22日、艦戦12は中攻12と南昌飛行場を攻撃、敵機20機と空戦し17機を撃墜します。

25日、艦戦隊は第一空襲部隊に復帰、漢口、南昌、襄陽、長沙、衡陽、宜昌、吉安等の敵航空戦力の撃滅、長江流域の偵察、機材整備を下命され、南京飛行場に前進します。

昭和13(1938)年1月5日、第二聯空は支那方面艦隊聯合空襲部隊(第二聯空司令官指揮)第一空襲部隊(〃)に部署されます。
1月2日、艦戦隊は他隊とともに中攻を援護し南昌、漢口両飛行場、6日、漢口、7日、南昌、9日、南昌、11日、漢口、12日、南昌、15日、南昌、27日、漢口、2月8日、漢口飛行場、11日、武昌軍官学校、18日、漢口、25日、南昌、3月17日、南昌、27日、漢口・武昌飛行場を攻撃、2月25日の攻撃では第一空襲部隊の艦戦18機で敵機50と空戦、39機を撃墜(2機未帰還)します。

3月22日、隊の定数は艦戦1隊12、中攻2隊24に改編され、艦攻1隊12機、艦戦1隊12機を第十二海軍航空隊に移管、鹿屋空の陸攻半隊6機、木更津空の陸攻1隊半18機を編入します。
30日、改編完了、南京に中攻の大半、上海に一部と艦戦を配備し、機材整備と錬成にあたります。

4月4日、中攻隊は固始、駐馬店両飛行場を攻撃し陸軍の徐州作戦支援を開始、津浦・隴海両沿線上の軍事目標攻撃を担当します。
5日、中攻隊は固始飛行場、27日、隴海線蘭封、錫山付近で軍用列車、28日、徐州に向かう自動貨車400台、涛離鎮等の敵陣、29日、漢口飛行場、兵器工場(敵80機と空戦、51機撃墜、中攻2機未帰還)、30日、帰徳に集結した自動貨車200台を爆撃します。

5月1日、隴海線新安鎮西方で自動貨車30台、2日、同線駝峯駅付近の列車・敵陣、3日、徐州駅、4日、徐州・錫県、帰徳の中間駅、5日、宿県、蒙城、固鎮の敵部隊、軍需品、6日、敵部隊、7日、津浦線の砲車、龍池駅で軍用貨車、8日、宿県駅の貨車、同駅西方敵陣、阜寧のジャンク、9日、宿県の自動貨車、新安鎮の敵陣、運河車帖の敵部隊、10日、徐州駅の貨車、集積軍需品、12日、宿県駅の貨車、軍需品、開封駅、13日、徐州、運河車帖、徐家集等一帯の敵司令部、自動貨車、軍需品等、14日、宿県、15日、碣山城内、飛行場、徐州付近で敗走する敵部隊、16日、徐州東方、大廟の敵部隊、17日、徐州の敵部隊、19日、徐州駅と城外の軍倉庫を爆撃、同日、陸軍部隊が徐州を攻略します。
20日、帰徳、洪澤湖西方の敵部隊、21日、京漢線の要所・駐馬店駅と飛行場、軍需品、徐州南東方を敗走中の敵部隊、22日、駐馬店飛行場、燃料・弾薬庫、23日、洪澤湖、大運河をジャンクで敗走する敵部隊、過碣陽、南城南方の敵部隊、及び敵陣、24日、頴州、淮陰、淮安の敵部隊、25日、海州、大河鎮、沙河鎮付近、及び頴州、鳳台北方の敵部隊、29・30日、海州西方の敵部隊を爆撃します。
6月26・27日、南昌飛行場を爆撃(2名散華)、8月3日、漢口飛行場(3名散華)、19日、衡陽飛行場、9月6日、南昌飛行場(14名散華)、11月8日、芷江飛行場(15名散華)を爆撃します。

12月15日、隊の編制から艦戦が除かれます。

昭和14(1939)年5月3日、重慶に撤退した蒋介石軍を制圧するため重慶を爆撃、24日、重慶を爆撃(1機未帰還)、11月4日、隊の中攻36機は他隊の36機とともに成都飛行場を爆撃しますが、司令・奥田喜久治大佐、飛行隊長・細川直次郎少佐以下17名が散華(6日、後任司令・市丸利之助大佐)してしまいます。

昭和15(1940)年5月9日、天候悪化により隊は上海に移駐し錬成と休養にあたり、12日、再び漢口に前進しますが、悪天候により1機が不時着、3名が散華してしまいます。
5月17日、百一號作戰が発動され、成都・重慶方面の敵航空戦力撃滅にあたります。隊の戦力は陸攻27、補用15、陸偵4でした。
19日、宜賓飛行場、22日・26日・28日・6月10日・11日・17日・8月11日・30日、重慶飛行場を爆撃しますが、6月10日、飛行隊長・小谷雄二少佐が散華してしまいます。

9月5日、百一號作戰は終了しますが、隊は引き続き四川方面の爆撃にあたり、13日、重慶飛行場、10月4日・5日・6日、成都飛行場、21日、重慶飛行場を爆撃します。
10月31日、第十三航空隊は漢口を出発、大村に帰還し、11月15日、復帰します。


第十五海軍航空隊
昭和13(1938)年4月25日、大村において蒼龍(空母)派遣隊(三浦鑑三中佐、艦戦9、艦爆18、艦攻9、補用含)が編成され第二聯合航空隊司令官の指揮下に編入され、中支方面の作戦にあたります。
6月18日、派遣隊は安慶攻略を企図する陸軍に協力、揚子江遡江作戦に加わり南京飛行場から出撃、19日、安慶攻略に伴い同地に進出し引き続き遡江作戦にあたります。

25日、派遣隊を基幹として佐世保鎭守府所管の特設航空隊として第十五海軍航空隊(蒲瀬和足大佐)が大村において編成(本部及び基地員。定数:艦戦12、艦爆12、艦攻6)され、第一空襲部隊(第二聯空司令官指揮)に部署され、安慶所在戦力(派遣隊)は引き続き作戦にあたりますが、安慶は居住設備が悪く病人が続出します。

26日、艦戦隊は遡江襲部隊を攻撃に来襲した支那軍機を邀撃します。
28日、艦戦隊は第一空襲部隊とともに南昌飛行場を攻撃、次いで安慶に来襲した支那軍機を邀撃し3機撃墜するも、加藤榮航空兵曹長が散華してしまいます。

7月1日、隊は∨作戰部隊(支那方面艦隊司令長官指揮)第一空襲部隊(第二聯空司令官指揮)に部署され、陸軍の九江攻略作戦を支援する事となり、2日、艦戦隊は遡江襲部隊を攻撃に来襲した支那軍機を邀撃、3日、8日、安慶に来襲した支那軍機を邀撃します。
10日、航空隊本部、基地員が大村より安慶に到着、同日、11日、遡江襲部隊を攻撃に来襲した支那軍機を邀撃、12日、安慶に来襲した支那軍機を邀撃します。
14日、艦戦隊は九江上空において支那軍爆撃機9機を邀撃し3機を撃墜、16・17日、遡江襲部隊を攻撃に来襲した支那軍機を邀撃します。
18日、隊は艦戦6、艦爆14、艦攻5により南昌飛行場を攻撃、空戦により敵機9を撃墜、艦爆は爆撃に続き銃撃により敵機13を地上撃破後、さらに3機は敵飛行場に着陸し敵機に放火する大戦果を挙げますが、飛行隊長・南郷成章大尉は撃墜した敵機に衝突し散華してしまいます。
22日、新港南方の敵野砲陣地を爆撃、28日、九江作戰は終了します。

8月3日、隊の艦戦隊は他隊、中攻18機とともに漢口飛行場を攻撃、艦戦隊は敵機50と交戦、32機を撃墜しますが、新庄直久中尉以下3機が未帰還になってしまいます。
以降、敵機は四川方面に撤退し、反撃は微弱になっていきます。
5日、隊は陸軍の星子攻略作戦の支援にあたる事となり、15日、隊は第一空襲部隊とともにM作戰(大子磯、洋山磯方面掃討作戦)に協力します。
21日、星子攻略作戦は終了、引き続き漢口攻略戦の支援を下命されます。
22日、漢口攻略戦が開始され、27日、廬山西方より進撃する第百一師團、31日、第六師團それぞれの前面の支那軍を攻撃、9月10日、艦戦隊が九江に前進、15日、M作戰が終了します。
30日、隊は半壁山、馬鞍山の敵野砲陣地を攻撃(10月5日まで)、10日、支那軍に包囲され苦戦している第百一師團を支援し、11日、42機で師團に空中補給を実施、12日、師團は敵包囲を突破します。
17日、黄石港、呉王廟砲台を攻撃、19日、黄石港付近の支那軍を制圧し陸軍部隊の前進を支援、26日、漢口が陥落します。
29日、隊は引き続き岳州攻略作戦の支援を行い、11日、岳州が陥落、15日、揚子江遡江作戰は終了します。
20日、隊は九江を出発、27日、大村に帰還し、12月1日、復帰します。


第二五四海軍航空隊
昭和18(1943)年10月1日、佐世保鎭守府所管の特設航空隊として大村において編成(堀九郎大佐)、海南警備府に編入され、支那方面艦隊海南部隊(海南警備府司令長官指揮)に部署、海南島三亜に位置し、対潜・対空警戒及び敵艦・敵機の撃破、索敵哨戒、上空警戒、陸戦協力、担当海面の封鎖、敵補給路遮断、海上交通保護を任務とし、艦戦隊は三亜、艦攻隊は海口に移駐し船団直掩にあたります。
隊の定数は甲戦1隊24(うち補用6)、艦攻半隊12(うち補用3)。

15日、戦闘機半隊の上海派遣を下令され、17日、零戦12機は上海に移駐、上海部隊指揮官(上海方面根拠地隊司令官)・畠山耕一郎中将、揚子江部隊指揮官(揚子江方面特別根拠地隊司令官)・大野一郎中将の指揮下に編入され、長江流域の航行船舶の護衛にあたります。
10月26日、米B25爆撃機4機が海口に来襲、零戦6機で邀撃し2機を撃墜するも、我が方も2機撃墜(2名散華)されてしまいます。

昭和19(1944)年1月1日、隊の定数は甲戦24(補6)、艦攻4(補1)、陸上輸送機1に改編され、艦攻8機は支那方面艦隊に転属します。
14日、零戦6は南支第二飛行機隊に部署され香港に移駐し警戒、船団護衛にあたりますが、2月1日、中支方面を担当する二五六空(内田市太郎大佐)が新編されたのに伴い、原隊復帰を下令されます(5月19日、復帰)。
11日、B25爆撃機12機、P40戦闘機多数が香港に来襲、派遣の零戦6機が邀撃しB25爆撃機2、P40戦闘機3を撃墜するも、2機喪失してしまいます。
4月5日、隊の零戦は他隊と計32機で海口を出撃、南寧飛行場を強襲しB25爆2、P40戦3機を地上撃破、空戦でP40戦9を撃墜しますが、零戦9が未帰還になってしまいます。

6月20・22日、艦戦3、艦攻1は北海付近の白虎島周辺の米潜を索敵攻撃します。

7月29日、B25爆25、B24爆6、P38戦10が三亜に来襲、隊の零戦18機が邀撃、P38戦4を撃墜、B24爆5を撃破するも、3機が撃墜されてしまいます。

10月10日、米機動部隊が南西諸島に来襲、基地航空部隊は捷一號・同二號作戰警戒を発令、隊の零戦16機は台湾移駐の準備を開始します。
12日、支那方面艦隊司令長官・宇垣完爾少将は麾下の戦闘機全力を台湾に集中し、作戦に関しては第六基地航空部隊指揮官(第二航空艦隊司令長官・福留繁中将)の指揮下に入る様に下令、隊の派遣隊は第十四聯合航空隊司令官の指揮下に編入され、臺南空司令・市村茂松大佐が併せて指揮します。
13日、隊の零戦16機は海口から台南に進出し上空警戒にあたります。
14日、台湾に来襲した敵艦載機20、次いで40を邀撃し、F6F戦4を撃墜するも3機が損傷してしまいます。
15日、零戦3、16日、零戦1が追求し、臺南に進出、16日、零戦隊は他隊と計30機で索敵攻撃に出撃、ガランピ南東方においてF6F戦群と空戦、3機を撃墜しますが、1機が未帰還になってしまいます。
17日、台南にB29爆撃機23機が来襲、他隊と計18機で邀撃しますが、戦果、被害ともにありませんでした。
18日・19日、上空哨戒にあたります。
20日、他隊と計9機で臺南から馬公に進出し、捷一號作戰参加の第五艦隊(志摩清英中将、「那智」)の直掩にあたります。
21~26日、台南、高雄、馬公の上空哨戒にあたります。

26日、第六基地航空部隊指揮官・福留中将は派遣隊にフィリピン・ルソン島ニコルス基地進出を下命、27日、零戦9機、28日、3機は臺南を出発しニコルス基地に前進、29日、マニラ・クラーク地区に米艦載機群が来襲、他隊とともに邀撃しますが、5機が撃墜(5名散華)されてしまいます。
11月2日、オルモック湾の陸軍船団、3日、マニラ湾の陸軍船団の直掩にあたります。
5日、零戦5機は臺南を出発、ニコルス基地に向かいますが、クラーク地区上空において米艦載機と交戦、4機が撃墜(4名散華)されてしまいます。
11日、オルモック湾の陸軍船団の直掩にあたりますが、1機が未帰還となってしまいます。
12月12~17日、派遣隊9名は逐次原隊に復帰します。
昭和20(1945)年1月1日、第二五四海軍航空隊は復帰、隊員は九〇一空に転属します。


第六五二海軍航空隊
昭和19(1944)年3月10日、佐世保鎭守府所管の特設航空隊として第二航空戰隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)の艦載機隊を基幹として、大村において編成(城島高次少将:兼二航戦司令官)され、母艦航空隊として二航戦に編入されます。
開隊時の定数は艦戦81、艦爆30、艦攻27機。
隊は機動部隊(第一機動艦隊司令長官・小澤治三郎中将)機動部隊飛行機隊(二航戦司令官指揮)第六五二部隊(司令指揮)に部署され、3月末から岩國、佐伯、大分各海軍航空基地において2ヶ月の予定で急速錬成に入ります。

3月29日、城島高次少将は兼務を解かれ、司令に鈴木正一中佐(4月1日、隼鷹飛行長兼務)が就任します。
隊の保有機は零戦二一型(爆撃戦闘機)30(うち4修理中)、零戦五二型13、彗星、天山の供給は遅れ搭乗員・整備員はともに横須賀空において講習を受け、着艦訓練は4月下旬、天山の訓練既成は5月下旬、彗星は5月下旬、爆戦は5月中旬に予定します。
4月11日、第一機動部隊は5月10日頃までにフィリピン中南部方面に集結する事を目標に急速錬成を下命されます。

23日、岩国沖合において着艦訓練を開始しますが、事故が多発(6月13日の出撃までに13機喪失、7名散華)、さらに空戦の訓練は不十分でした。

5月3日、あ號作戰要領が発令されます。
11日、隊は二航戦の隼鷹、飛鷹、龍鳳に搭載、乗艦し、佐伯港を出航、15日、二航戦は機動部隊本隊(第一機動部隊司令長官指揮)乙部隊(二航戦司令官指揮)に部署され、敵艦隊・敵攻略部隊撃滅を下令されます。
16日、二航戦はタウイタウイ泊地に到着し、錬成にあたります。
18日、一航戦(小澤中将、大鳳、翔鶴、瑞鶴)、二航戦は出動訓練を実施しますが、無風のため発着訓練はできませんでした。
21日、三航戦(大林末雄少将、瑞鳳、千歳、千代田)は出動訓練を実施しますが、発艦中に千歳が敵潜の雷撃を受けたため訓練を中止、駆逐艦により対潜掃討が実施されますが、6月6日、水無月、7日、早波、8日、風雲、9日、谷風が撃沈されてしまい、以降出動訓練は実施不可能になり、搭乗員の練度が低下してしまいます。

6月11日、米機動部隊がマリアナ諸島に来寇、13日0900、機動部隊はタウイタウイ泊地を出航し、14日1643、ギマラス泊地に入泊し補給を実施、15日、米軍がサイパン島に上陸を開始したため、大本營はあ號作戰を発動、機動部隊はギマラス泊地を出航し、17日、マリアナ諸島西方E点に到着し補給を実施、17日、E点を出撃します。
18日、1100発進の第二次索敵が、1425、我が東方380浬に3群の敵機動部隊を発見、翌日の決戦を期して北西に反転し間合いを保ちます。
19日0900、二航戦の第一次攻撃隊の零戦15、爆戦25、天山7が発艦しますが会敵できず反転、途中敵機と遭遇し4機を撃墜しますが、零戦2、爆戦4、天山1を喪失し、1400、母艦に帰投します。

1015、零戦20、九九艦爆27、天山2が発艦しますが、会敵できず作戦に従い大宮島(グアム)に着陸時に敵艦載機30の奇襲を受け零戦14、艦爆9、天山3が撃墜されてしまい、また着陸時に不時着、損傷により可動機は彗星1、九九艦爆9と判定されます。

1030、第二次攻撃隊の零戦6、彗星9が発艦(零戦1、彗星2が故障で引き返す)、零戦3、彗星1が落伍、零戦2、彗星6はロタ島西方に敵機動部隊を発見し攻撃しますが、零戦4、彗星5が未帰還となり、彗星2機がロタ島、大宮島に着陸します。

6月20日0700、二航戦は補給部隊と合同、早朝から索敵を開始しますが敵機動部隊が発見できなかったため、午後から西方に転進します。
1730、二航戦に敵40機が来襲、隊は六〇一空とともに零戦19、爆戦7で邀撃し、11機を撃墜しますが、零戦9、爆戦5が撃墜され、飛鷹が魚雷い、爆弾1を受け沈没、隼鷹が小破してしまいます。
前日、大宮島に帰着した彗星1、九九艦爆8はヤップ島に移駐しますが、九九艦爆1機が撃墜されてしまいます。
21日、機動部隊は沖縄・中城湾に転針、隊の戦力は零戦12、爆戦5、九九艦爆8、彗星5、天山3の計33機(17機説あり)になってしまいます。
22日、中城湾に入港し補給を受け、23日、中城湾を出航、24日、内海西部に移動し隊は各基地に移駐、7月10日、第六五二海軍航空隊は復帰し隊員は六五三空に転属、二航戦から除かれます。


第三五二海軍航空隊(草薙)
昭和19(1944)年8月1日、佐世保鎭守府所管の特設航空隊として佐世保海軍航空隊戦闘機隊を改編し、大村において編成(大村空司令兼・寺崎武治大佐)、佐世保鎭守府所属に編入されます。
定数は乙戦(雷電)48、丙戦(月光)18機でしたが、供給が遅れていたため、零戦28~30、雷電0、月光3~4機で発足します。
隊の夜間戦闘可能な戦力は月光3機だけだったので、三〇二空(小園安名中佐、厚木)より月光6(進藤幸男中尉、搭乗員8組うち3組が夜戦可能))が配属されます。
隊は佐世保鎭守府部隊(同司令官指揮)に部署され長崎、大村、佐世保の防空を主任務としますが、防空に関しては防衞總司令官・東久邇宮稔彦王大将の区処も受けます。

8月10日、成都を発進した米B29爆撃機が佐世保偵察に来襲、月光4機で邀撃しますが会敵できませんでした。
20日、成都を発進したB29爆60機が八幡地区に来襲、零戦3、月光4機で邀撃し1機撃墜1、1機撃破しますが、邀撃戦力増強のため月光5機と零戦10機に斜銃の装備を具申します。

10月25日0955、成都を発進したB29爆撃機59機が二十一空廠に来襲、大村空とともに零戦57、雷電8、月光6機で邀撃し、零戦33機がB29梯団を捕捉、1機撃墜、17機撃破しますが、我は不時着3、被弾5機、高度8,000mの空戦のため27機が機銃凍結してしまいます。
進藤大尉は佐世保鎭守府司令長官・小松輝久中将より表彰状、西部軍司令官・下村定中将より賞詞が授与されます。

11月3日、マリアナ諸島からのB29の来襲が予測されたため、三〇二空派遣の月光3機、進藤大尉以下は原隊に復帰します。

11日、成都を発進したB29爆撃機80機が九州西部に来襲、零戦33、雷電11、月光9機が発進し、大村上空で待機しますが雪のため視界が悪く会敵できませんでした。

21日1000、成都を発進したB29爆撃機61機が大村海軍航空基地・第二十一海軍航空廠に来襲、零戦31、雷電16で邀撃し、9機を撃墜しますが、塚本幹雄中尉はB29爆に体当りを敢行し1機を撃墜するも散華してしまいます。

隊は大村において対B29戦法、三號爆弾(親子爆弾)用法の錬成にあたります。

昭和20(1945)年1月6日、成都を発進したB29爆撃機49機が来襲、大村空とともに邀撃にあたります(戦果・損害不明)。
3月1日現在の保有機は零戦39(可動21)、雷電39(可動18)、月光8(可動4)、彗星夜戦6(可動3)。

3月26日、米軍が沖縄に来寇、大本營は天一號作戰を発動します。

27日、成都を発進したB29爆撃機161機が太刀洗陸軍飛行場、大分・大村両海軍航空基地、第二十一海軍航空廠に来襲、零戦32、雷電8、月光2機で邀撃、10機がB29と交戦しますが、戦果・損害ともにありませんでした。

4月1日、沖縄に米軍が上陸を開始、6日、隊の零戦隊(植松眞衞大尉)は菊水作戦参加のため第五航空艦隊司令長官・宇垣纏中将の作戦指揮下に編入され、笠之原、國分海軍航空基地(鹿児島)に前進、第一機動基地航空部隊(五航艦)制空隊に部署されます。
6日、制空隊は106機で沖縄上空の制空に向かいますが、14機が未帰還になってしまいます。
7日、制空隊は34機、8日、77機で笠之原、鹿屋両海軍航空基地を発進、哨戒にあたります。
12日、制空隊は37機で鹿屋を発進、沖縄上空の制空に向かいますが、上田清市中尉が未帰還しなってしまいます。
15日、制空隊は35機、16日、52機で敵艦載機の邀撃にあたりますが、田尻博男、森一義両中尉が未帰還しなってしまいます。

22日、制空隊は任務を解かれ、原隊に復帰します。
同日、隊の雷電隊(青木義博予中尉)は三〇二空、三三二空の雷電とともに五航艦司令長官の作戦指揮下に編入され、B29の邀撃を下令され、26日、鹿屋に前進します。
27日、B29爆150機が南九州の各航空基地に来襲、雷電隊は21機で邀撃し、1機を撃墜します。
28日、B29爆130機が南九州の各航空基地に来襲、雷電隊は21機で邀撃し、1機を撃墜します。
29日、B29爆100機が南九州の各航空基地に来襲、雷電隊は21機で邀撃し、3機を撃墜しますが、給油中に襲撃を受け7機炎上、2機大破の損害を受け可動戦力は半減してしまいます。
30日、B29爆60機が南九州の各航空基地に来襲、雷電隊は11機で邀撃します。
5月3日、B29爆80機が南九州の各航空基地に来襲、雷電隊は19機で邀撃します。
4日、B29爆60機が九州の各航空基地に来襲、雷電隊は8機で邀撃します。
5日、B29爆66機が九州の各航空基地に来襲、雷電隊は16機で邀撃します。
7日、B29爆70機が九州の各航空基地に来襲、雷電隊は13機で邀撃します。
10日、B29爆数10機が南九州の各航空基地に来襲、雷電隊は10機で邀撃します。
12日、雷電隊は任務を解かれ、各原隊に復帰します。

13日、敵艦載機600、14日、120機が九州各地に来襲、隊は邀撃にあたりますが、周防灘上空において稲生博中尉が散華してしまいます。

25日、戰鬭第九〇二飛行隊(星子富士人大尉、月光)が三八一空より三五二空に転属、隊の保有機は零戦28(可動18)、雷電25(可動5)、月光12(可動7)、彗星7(可動なし)、別に雷電7を鳴尾海軍航空基地(兵庫)に派遣(三三二空指揮下)。
三五二空は第七十二航空戰隊(第三航空艦隊麾下)に編入され、天航空部隊(五航艦司令長官指揮)第七基地航空部隊(三航艦司令長官指揮)に部署され引き続き九州の防空にあたります。

6月3日、敵艦載機120機が九州各地に来襲、隊は邀撃にあたります。
20日、敵艦載機30機が大村海軍航空基地に来襲、隊は邀撃にあたります。
7月5日、敵艦載機140機が北九州、西九州に来襲、隊は邀撃にあたります。
10日、敵戦爆連合140機が九州各地に来襲しますが、隊は決號作戰(本土決戦)に備え戦力温存のため邀撃を回避します。
28日、敵戦爆連合138機、8月1日、敵戦爆連合150機、5日、敵艦載機380機、8日、敵戦爆連合260機が九州各地に来襲します。
8月9日、長崎市に原子爆弾が投下され市街地は壊滅、隊の零戦隊は市街地偵察に向かい惨状を報じます。
10日、B29ば80機、12日、敵戦爆連合200機が九州各地に来襲します。
8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第三四三海軍航空隊
※「松山海軍航空基地」の記事に記載予定


神風特別攻撃隊 神劔隊
昭和20(1945)年2月16日、練習聯合航空總隊司令官・松永貞市中将は第十二聯合航空隊司令官・原忠一少将に対し、18日以降、大村海軍航空隊に特攻訓練60名、戦闘機訓練50名の要員選抜と錬成の実施を下令します。
3月1日、練習聯合航空總隊は復帰、第十航空艦隊に改編され、第十二聯合航空隊は同航空艦隊麾下に編入され、練度の高い者は対機動作戦に、低い者は特攻作戦の錬成を実施、3月末までに完了する様に下達され急速な戦力化を図ります。

3月20日、天一號作戰要領により、第十二聯合航空隊の作戦可能全機は第一機動基地航空部隊指揮官(五航艦司令長官・宇垣纏中将)の作戦指揮下に編入され、21日、大村空は第一機動基地航空部隊大村部隊に区分、電令作第百四十四號により零戦特攻を下令され、実用機教程の戦闘機専修飛行学生の志願者から51名を選考、爆装零戦による神風特別攻撃隊「神劔隊」を編成(零戦二一型)し待命、錬成を実施します。
大村海軍航空基地・航空隊  神剣隊(長崎)
▲大村海軍航空隊において編成された神風特別攻撃隊「神劔隊」
  前列左より2人目から飛行隊長・中島大八大尉、副長・野村勝中佐、
  司令・柴田文三大佐、飛行長・小松良民少佐です。

26日、米軍が沖縄方面に来寇、大本營は天一號作戰を発動します。

4月1日、米軍が沖縄に上陸を開始、、神劔隊は鹿屋海軍航空基地(鹿児島)に前進します。
6日1200、菊水一號作戰が発動され、第一神劔隊に出撃下令、1239、松林平吉中尉、加藤安男候補生、田端眞三上飛曹、1410、大森晴二少尉、種村名候補生、武井信夫候補生、鈴木克實二飛曹、1440、岩橋慧少尉、平田善次郎二飛曹、河村俊光二飛曹、遠藤益司少尉、西田博治候補生、1555(第一七生隊と同行)、谷尾計雄上飛曹、1610、花水昭二郎二飛曹、平出幸治二飛曹、吉竹辰夫二飛曹、計16名が夫々25番1発を懸吊し鹿屋を発進、沖縄周辺の敵輸送船団に突入し散華、任務を完遂します(機密聯合艦隊第九十九號により全軍に布告)。※候補生=少尉候補生

4月12日、菊水二號作戰が発動され、14日、第二神劍隊に出撃下令、1410~1438、合原直中尉、植村光男候補生、山本城候補生、津田徳哉少尉、高橋正一候補生、中林三郎二飛曹、赤司明三郎少尉、佐々木榮吉候補生、西本松一郎少尉、計10名(17機準備・16機発進・6機引き返す)が夫々25番1発を懸吊し鹿屋を発進、慶良間列島周辺の敵機動部隊に突入し散華、任務を完遂します(機密聯合艦隊第百號により全軍に布告)。

16日、菊水三號作戰が発動され、第三神劔隊に出撃下令、0701、林田貞一郎飛曹長、工藤嘉吉二飛曹、小金井菊次郎二飛曹、計3名が夫々25番1発を懸吊し鹿屋を発進(発進数不明・1機引き返す)、那覇湾周辺の敵艦船に突入、続いて第四神劔隊に出撃下令、1200、長谷部寅祐二飛曹が(2機発進・1機引き返す)夫々25番1発を懸吊し鹿屋を発進、喜界島南東55浬、及び南50浬の機動部隊に突入し散華、任務を完遂します(機密聯合艦隊第百六・百七號により全軍に布告)。

4月25日、神劔隊は第七二一海軍航空隊(渡邊薫雄大佐)に編入されます。

5月3日、菊水五號作戰が発動され、4日、第五神劔隊に出撃下令、0545、磯貝巖中尉、0546、藤井實候補生、0553、大田滿一飛曹、0554、林正俊候補生、高藤昭一一飛曹、0555、保科三郎一飛曹、0556、鈴木欣司少尉、茂木三郎一飛曹、0616、小堀秀雄少尉、三明正郎候補生、0617、高浪虎八二飛曹、加藤年彦少尉、0618、武二夫二飛曹、0619、足利益功少尉、0620、宮崎勝一飛曹、計15名(22機準備?・15機発進)が夫々25番1発を懸吊し鹿屋を発進、沖縄周辺を哨戒中の敵艦船に突入し散華、任務を完遂します(機密聯合艦隊第百十一號により全軍に布告)。

11日、菊水六號作戰が発動され、第六神劍隊に出撃下令、0504、牧野(缶亥)少尉、0505、齋藤幸雄一飛曹、0507、川野忠邦上飛曹、0508、淡路義二一飛曹、計4名(6機準備・6機発進・2機引き返す)が夫々25番1発を懸吊し鹿屋を発進、沖縄周辺の敵艦船に突入し散華、任務を完遂します(機密聯合艦隊第百十二號により全軍に布告)。

上掲写真●を付けた舟木少尉候補生(2列目右から4)、黒木二飛曹(3列目右から5)、原村飛長(5列目右から2)の以降の動向は資料がなく不明です。


主要参考文献
『營造物施設目録 大村基地』(アジア歴史資料センター)

『放虎原は語る』 (平成11年3月 大村市)

『大村市史』 (昭和36年1月 大村市史編纂委員会 大村市役所)

『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧(一)』 (平成21年3月 渡辺博史 楽學庵)

『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧(三)』 (平成21年5月 渡辺博史 楽學庵)

『日本海軍戦闘機隊』 (平成15年8月 本の森出版センター コアラブックス)

『神風特別攻撃隊』 (平成7年11月 ㈱モデルアート)

『神雷部隊始末記』 (平成21年11月 加藤浩 ㈱学研パブリッシング)
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Re: No title

はじめまして、こんにちは。

稚拙な内容ですが、お読み頂きましてありがとうございます。

そしてそして、貴重な情報を御教示頂きましてありがとう御座います!!!
早速拝見させて頂きましたが、鳥肌ものです!

撮影場所を見ると奥に海が見えており、破壊された練習機が散乱している事から滑走面内の西端付近から西側を撮影していると思います。
この位置(現在の太陽光機付近)には図面では有蓋Bが4基並んで記載されており、遠方に不鮮明ながら数機が並んで見える事から間違い無いと思います。

最終カットで拡大が映りますが、見た感じ予想通りコンクリートでは無く木製構造にルーフィング張りの様に見えますね。

もし宜しかったらこの情報を該当記事で紹介したいのですが、いかがでしょうか?
また、可能であればお名前(ハンドルネーム)、不可であれば「読者様」で表記させて頂けたらと思いますがいかがでしょうか?

No title

こんばんは~
地元に住んでいながら知らないことばかりで、非常に勉強になります。
木製の掩体壕が存在していたのは初めてしりました。
それと、鈴田の隧道があのような造りになっていたとは驚きです。
過去に入ろうと思って何度か向かいましたが留守だったので諦めてました。もう一度チャレンジしてきます。

情報の紹介は大丈夫です
私がUPしたものではありませんが^^;

Re: No title

大村太郎様
こんにちは。

動画の件、ありがとうございます!

コンクリート製掩体壕以外の木製、及び無蓋掩体壕は材質から基礎しか遺されておらず、写真も余りないうえ、統一した規格も無かった様で当時の状態が不明な事が多いなか、今回ご紹介頂いた動画は非常に貴重な資料です!
感謝です!


鈴田の隧道ですが私も訪問した際、すぐに出かけられたので結構、リスクが高いですね(^_^;)
裏側から何とか入れない事もなさそうですが、泥だらけになりそうなので、ご近所でしたら正攻法で行かれる方が良いですよね。


夏終わりくらいからまた長崎周辺の遺構紹介記事を上げますので、ご笑覧頂けたらと思います。
今後とも宜しくお願い致しますm(_ _)mを

No title

おはようございます。
こちらも感謝ですよ~
それと盡忠報國さんの行動力と情報収集能力に脱帽です。

長崎周辺の遺構紹介楽しみに待ってます^^
こちらこそ、今後も宜しくお願いします。

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大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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