第二大村海軍航空基地(竹松牧場) 地下兵舎・隧道式爆彈庫・同燃料庫
長崎県大村市に所在した大村海軍航空基地の東側、今富町一帯に第二大村海軍航空基地、及び地下兵舎・隧道式燃料庫・同爆彈庫がありました。

▲今富町に遺る隧道式爆弾庫
【探索日時】
平成24年11月27日、平成26年1月29日、平成31年3月9日
【改訂情報】
平成31年4月6日・・・遺構追加

<大村海軍航空基地周辺の海軍施設>

▲『大村海軍航空基地施設一般圖』(停戦時)
※上が東

▲大村海軍航空基地の範囲、及び施設配置
⑪ 大村海軍航空基地
⑫ 大村海軍航空隊
⑬ 第三五二海軍航空隊
⑭ 臨時兵舎地区
⑮ 竹松送信所
⑯ 第二大村海軍航空基地滑走路
⑰ 燃料庫 ・ 爆弾庫
⑱ 福重防空砲台
⑲ 皆同防空砲台
⑳ 佐世保海軍施設部大村地方事務所
橙線:誘導路(黄:推定)、緑線:掩体壕(桃:有蓋、水:推定)
誘導路・掩体壕は昭和19年の空撮と引渡目録の配置図が若干異なる様です。
名称は昭和20(1944)年頃
※緑文字が当記事の紹介施設
<遺構について> ※青字は地図にリンクしています
(数字、アルファベット等の遺構配置は上掲地図参照)
⑯ 第二大村海軍航空基地(竹松牧場)
昭和17(1942)年6月5日~7日、ミッドウェイ海戦において海軍は空母「赤城」、「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」及び搭乗員、艦載機多数を喪失してしまいます。
軍令部は従来の軍備計画、及び策定されていた『第五次海軍軍備充實計畫』(通称「マル五計畫」)を大幅に改訂、航空戦力の緊急増備を盛り込んだ「改マル五計畫」を策定し、6月30日、軍令部總長より海軍大臣に商議します(軍令部機密第百九十一號)。
第七十八回(臨時)及び第七十九回帝國議會において「水陸諸施設急速整備ニ要スル経費」(臨軍乙號)が可決され、第二大村海軍航空基地設営が決定します。
同航空基地は「航空母艦艦載機補充基地」として位置付けられ、「艦攻1.0隊(1隊=常用4・補用2)」の配備(目標4隊)を予定されます。
海軍航空本部は大村海軍航空基地の北東3kmの郡川東岸一帯に用地を選定し、滑走路用地の買収を実施、昭和20(1945)年2月、第三百六十一海軍設營隊(織田文雄技大尉)が大村に進出し、第二大村海軍航空基地(秘匿名:竹松牧場まきば)の設営を開始します。
用地買収は海軍航空本部が佐世保海軍経理部を通じ行ったと思われますが資料が無く不明、また付帯施設は用地借用と思われます。
昭和20(1945)年4月、転圧滑走路1本(950×30m)を備えた航空基地施設が大凡完成し、運用が開始されます。
第二大村の滑走路、付帯施設は誘導路により大村海軍航空基地と連結され密接な関係だったため、付帯施設に明確な区分は無く副滑走路的な扱い(同様の形態として福知山海軍航空基地と綾部牧場、美保と大篠津等があります)だった様です。
8月16日、大東亜戦争停戦に伴い、19日、他の海軍施設とともに米軍により接収、兵器、軍需品等の処理を経て、元の地権者に払い下げられ農地として開墾が開始、現在に至ります(払下げ時期は大村海軍航空基地の転圧滑走面全域と同様に昭和22(1947)年と思われます)。
現在、第二大村海軍航空基地(竹松牧場)は地元では福重飛行場と呼ばれている様です。
滑走路は戦後の開墾により遺構は何も遺されていませんが、区画が現在もそのまま使われています。

▲農道右側の田圃、及び正面に見える山までが滑走路跡
オ 誘導路 橋台
第二大村海軍航空基地は郡川東岸にあり、大村海軍航空基地、及び掩体壕等主要施設は郡川西岸にあったため、郡川には航空機を渡すための誘導路と同じ幅の橋が掛けられていました。
現在、橋は失われていますが、川の中央にコンクリート製の橋台基礎が2ヶ所遺っています。

▲基礎が2本遺ります(奥は水没しており見えにくい)
L 地下兵舎
所有者の意向により場所は伏せさせて頂きます。
長さ50m程の地下壕が4本、奥で連結されていたそうですが、高速道路建設の際に奥は埋められてしまい、奥行き20m程になってしまっている様です。
特別に1本だけ見せて頂きました。
コンテナが収められており奥は見えませんが、写真を見ると10m程でブルーシートで塞がれています。

▲壕口
倉庫に転用されています

▲内部

▲奥
M 地下壕
用途は不明で、私有地内に遺ります。
長さ50m程で中央付近の左側に3m程の横坑があります。

▲壕口
一見全く分かりません

▲廃材を超えると壕口が見えます

▲入っていきます

▲横坑

▲さらに奥へ

▲内部の状態は悪いです
※以上2点の地下壕は地元の猛者・大村太郎様に御案内頂きました。
それにしてもこの壕を見つける眼力に感服です!
⑰ 隧道式燃料庫
隧道式爆彈庫
設営時期については、他の航空基地同様、昭和19(1944)年7月13日、海軍施設本部からの「有蓋掩体の急速設備示達」(施本機密第八七三〇號)に則り開始されたと思われますが、詳細は不明です。

▲燃料庫・爆弾庫周辺の配置図(赤:滅失、青:現存)
燃料庫は今富地区の南端にある斜面に6ヶ所( i ・A・B・C・D・E)設営され、中央に金工場( j )、東端に燃弾庫(k)があり、谷(道路)・地下居住区(老人ホーム造成により滅失)を挟んだ東側の野田町に爆彈庫(F~H)がありました。

▲隧道式燃料庫の見取図(数字は長さm)
i 燃料庫
最西端にあった燃料庫は長崎自動車道の建設に伴い、跡形もなく破壊されてしまっています。
A 燃料庫
今富地区の南端にある斜面、道路沿いにあります。

▲a 壕口
状態は非常に良いです。

▲b 壕口は丸太で柵がしてあります。
a 壕口からすぐ左側に c 横坑(崩落)があり、7m程度で左側に屈曲、ア縦坑は20m程で左側に曲がり、横坑は22m程でイ縦坑に繋がります。
燃料庫はほぼ同一の規格で掘削されています。

▲内部の様子

▲c横坑
崩落しています。

▲d横坑
崩落していますが、殆ど奥行きは無い様です。
燃料庫は全て爆風除けの屈曲がありますが、Aは他の壕と異なり唯一左側に屈曲しています。
j 金工場
隧道式だった様ですが、斜面が削られ完全に滅失しています。
また、この壕上に第一仮兵舎があった様ですが、痕跡はありませんでした。
B 燃料庫
古紙再生工場の建設に伴い斜面が削られ半壊しています。
辛うじて縦坑、横坑が遺りますが、内部は崩落している様です。

▲e 壕口

▲e 壕口から見た内部

▲ f 壕口は丸太で柵がしてあり、入ってすぐ崩落している様です。
※許可を得て見学しています。
C 燃料庫

▲g 壕口は丸太で柵がしてあります。

▲h 壕口は殆ど崩落しており、斜面上に僅かに開口しています。
竹の茂みの裏に壕口があります。
内部は全体的に崩れていますが、特に大きな崩落はありません。

▲壕口付近の屈曲部(右手前から入り左奥に抜けます)
C・D・Eは『大村海軍航空基地施設一般圖』記載の形状と異なり右側に屈曲します。
D 燃料庫

▲ i 壕口

▲ j 壕口は丸太で柵がしてあります。
内部はゴミの投棄がありますが、大きな崩落も無く安定しています。


▲内部に支保工やカスガイが遺っています。
E 燃料庫

▲k 壕口は丸太で柵がしてあります。

▲ l 壕口は殆ど崩落しており、斜面上に僅かに開口しています。
壕口付近は竹の廃材とゴミで通行が困難ですが、内部は大きな崩落も無く安定しています。

k 燃弾庫
『大村海軍航空基地施設一般圖』には南東に抜ける道路側にあった様ですが、道路建設に伴い破壊された様で痕跡すらありませんでした。
ただ、E燃料庫のすぐ東側の茂みに地下壕の崩落跡のような溝があります。



▲隧道式爆彈庫の見取図(数字は長さm)
F 爆弾庫
農道から一段上がったミカン畑の奥にあり、崩落して巨大な谷になっています。

▲西側壕口
完全に崩落しています。

▲壕本体

▲東側壕口
農道から一段上がったミカン畑の奥から、さらに一段上がる農道脇にあります。
G 爆弾庫
農道から一段上がったミカン畑の奥にあります。
内部は大きな岩がゴロゴロしており、状態は余り良くありません。
m壕口は崩落しており痕跡すら無かったと思います。

▲内部から見たm壕口

▲n壕口
殆ど崩落していますが、何とか入れます。

▲内部の様子
m壕口付近の斜面には用途不明のコンクリート製の擁壁があります。

H 爆弾庫
農道から一段上がったミカン畑の奥にあります。

▲o壕口
殆ど崩落していますが、何とか入れます。

▲p壕口
殆ど崩落していますが、何とか入れます。
内部は横坑の中央が不自然に屈曲しており、恐らく左右の壕口から掘り進めた際に長さがズレたためと思われます。
また、岩や石がゴロゴロしており、非常に歩きにくいです。

▲内部の様子
大村海軍航空基地(第二大村海軍航空基地を含む)の分散施設は今富町一帯に設営され、まだ地下壕を中心に多数遺されていると思われます。
砲台の遺構と選別できない物や時間の関係で行けなかった場所もありますので、再探索ができ次第、また別記事で紹介したいと思います。
それにしても朝からの豪雨の中、素掘りの地下壕戦は苦労しました。
頭から泥は被る、服はビチャビチャ、挙句に欲張って飛行機に乗り遅れるという思わぬ出費・・・。
1週間の長崎滞在で1日が豪雪、2日が雨って、どんだけついてないねんOTL
<設営部隊>
第三百六十一海軍設營隊
昭和20(1945)年2月25日、佐世保鎭守府の所管で佐世保海軍施設部において編成(織田文雄技大尉(第三百六十二設營隊長兼務))、佐世保鎭守府部隊に部署され編制整備ののち大村に進出し、大村海軍航空基地、第二大村同の防護、設営工事にあたります。
4月15日、織田文雄技大尉は第三百六十二設營隊長の兼務を解かれ、同隊は福岡県前原への進出準備にあたります。
6月、梅雨により工事の進捗に支障が出ますが、工事段取りを変更し対応、決號作戰(本土決戦)に備え防護工事を急ぐなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
<主要参考文献>
『營造物施設目録 大村基地』(アジア歴史資料センター)
『放虎原は語る』 (平成11年3月 大村市)
-webサイト-
福重ホームページ
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▲今富町に遺る隧道式爆弾庫
【探索日時】
平成24年11月27日、平成26年1月29日、平成31年3月9日
【改訂情報】
平成31年4月6日・・・遺構追加


<大村海軍航空基地周辺の海軍施設>

▲『大村海軍航空基地施設一般圖』(停戦時)
※上が東

▲大村海軍航空基地の範囲、及び施設配置
⑪ 大村海軍航空基地
⑫ 大村海軍航空隊
⑬ 第三五二海軍航空隊
⑭ 臨時兵舎地区
⑮ 竹松送信所
⑯ 第二大村海軍航空基地滑走路
⑰ 燃料庫 ・ 爆弾庫
⑱ 福重防空砲台
⑲ 皆同防空砲台
⑳ 佐世保海軍施設部大村地方事務所
橙線:誘導路(黄:推定)、緑線:掩体壕(桃:有蓋、水:推定)
誘導路・掩体壕は昭和19年の空撮と引渡目録の配置図が若干異なる様です。
名称は昭和20(1944)年頃
※緑文字が当記事の紹介施設
<遺構について> ※青字は地図にリンクしています
(数字、アルファベット等の遺構配置は上掲地図参照)
⑯ 第二大村海軍航空基地(竹松牧場)
昭和17(1942)年6月5日~7日、ミッドウェイ海戦において海軍は空母「赤城」、「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」及び搭乗員、艦載機多数を喪失してしまいます。
軍令部は従来の軍備計画、及び策定されていた『第五次海軍軍備充實計畫』(通称「マル五計畫」)を大幅に改訂、航空戦力の緊急増備を盛り込んだ「改マル五計畫」を策定し、6月30日、軍令部總長より海軍大臣に商議します(軍令部機密第百九十一號)。
第七十八回(臨時)及び第七十九回帝國議會において「水陸諸施設急速整備ニ要スル経費」(臨軍乙號)が可決され、第二大村海軍航空基地設営が決定します。
同航空基地は「航空母艦艦載機補充基地」として位置付けられ、「艦攻1.0隊(1隊=常用4・補用2)」の配備(目標4隊)を予定されます。
海軍航空本部は大村海軍航空基地の北東3kmの郡川東岸一帯に用地を選定し、滑走路用地の買収を実施、昭和20(1945)年2月、第三百六十一海軍設營隊(織田文雄技大尉)が大村に進出し、第二大村海軍航空基地(秘匿名:竹松牧場まきば)の設営を開始します。
用地買収は海軍航空本部が佐世保海軍経理部を通じ行ったと思われますが資料が無く不明、また付帯施設は用地借用と思われます。
昭和20(1945)年4月、転圧滑走路1本(950×30m)を備えた航空基地施設が大凡完成し、運用が開始されます。
第二大村の滑走路、付帯施設は誘導路により大村海軍航空基地と連結され密接な関係だったため、付帯施設に明確な区分は無く副滑走路的な扱い(同様の形態として福知山海軍航空基地と綾部牧場、美保と大篠津等があります)だった様です。
8月16日、大東亜戦争停戦に伴い、19日、他の海軍施設とともに米軍により接収、兵器、軍需品等の処理を経て、元の地権者に払い下げられ農地として開墾が開始、現在に至ります(払下げ時期は大村海軍航空基地の転圧滑走面全域と同様に昭和22(1947)年と思われます)。
現在、第二大村海軍航空基地(竹松牧場)は地元では福重飛行場と呼ばれている様です。
滑走路は戦後の開墾により遺構は何も遺されていませんが、区画が現在もそのまま使われています。

▲農道右側の田圃、及び正面に見える山までが滑走路跡
オ 誘導路 橋台
第二大村海軍航空基地は郡川東岸にあり、大村海軍航空基地、及び掩体壕等主要施設は郡川西岸にあったため、郡川には航空機を渡すための誘導路と同じ幅の橋が掛けられていました。
現在、橋は失われていますが、川の中央にコンクリート製の橋台基礎が2ヶ所遺っています。

▲基礎が2本遺ります(奥は水没しており見えにくい)
L 地下兵舎
所有者の意向により場所は伏せさせて頂きます。
長さ50m程の地下壕が4本、奥で連結されていたそうですが、高速道路建設の際に奥は埋められてしまい、奥行き20m程になってしまっている様です。
特別に1本だけ見せて頂きました。
コンテナが収められており奥は見えませんが、写真を見ると10m程でブルーシートで塞がれています。

▲壕口
倉庫に転用されています

▲内部

▲奥
M 地下壕
用途は不明で、私有地内に遺ります。
長さ50m程で中央付近の左側に3m程の横坑があります。

▲壕口
一見全く分かりません

▲廃材を超えると壕口が見えます

▲入っていきます

▲横坑

▲さらに奥へ

▲内部の状態は悪いです
※以上2点の地下壕は地元の猛者・大村太郎様に御案内頂きました。
それにしてもこの壕を見つける眼力に感服です!
⑰ 隧道式燃料庫
隧道式爆彈庫
設営時期については、他の航空基地同様、昭和19(1944)年7月13日、海軍施設本部からの「有蓋掩体の急速設備示達」(施本機密第八七三〇號)に則り開始されたと思われますが、詳細は不明です。

▲燃料庫・爆弾庫周辺の配置図(赤:滅失、青:現存)
燃料庫は今富地区の南端にある斜面に6ヶ所( i ・A・B・C・D・E)設営され、中央に金工場( j )、東端に燃弾庫(k)があり、谷(道路)・地下居住区(老人ホーム造成により滅失)を挟んだ東側の野田町に爆彈庫(F~H)がありました。

▲隧道式燃料庫の見取図(数字は長さm)
i 燃料庫
最西端にあった燃料庫は長崎自動車道の建設に伴い、跡形もなく破壊されてしまっています。
A 燃料庫
今富地区の南端にある斜面、道路沿いにあります。

▲a 壕口
状態は非常に良いです。

▲b 壕口は丸太で柵がしてあります。
a 壕口からすぐ左側に c 横坑(崩落)があり、7m程度で左側に屈曲、ア縦坑は20m程で左側に曲がり、横坑は22m程でイ縦坑に繋がります。
燃料庫はほぼ同一の規格で掘削されています。

▲内部の様子

▲c横坑
崩落しています。

▲d横坑
崩落していますが、殆ど奥行きは無い様です。
燃料庫は全て爆風除けの屈曲がありますが、Aは他の壕と異なり唯一左側に屈曲しています。
j 金工場
隧道式だった様ですが、斜面が削られ完全に滅失しています。
また、この壕上に第一仮兵舎があった様ですが、痕跡はありませんでした。
B 燃料庫
古紙再生工場の建設に伴い斜面が削られ半壊しています。
辛うじて縦坑、横坑が遺りますが、内部は崩落している様です。

▲e 壕口

▲e 壕口から見た内部

▲ f 壕口は丸太で柵がしてあり、入ってすぐ崩落している様です。
※許可を得て見学しています。
C 燃料庫

▲g 壕口は丸太で柵がしてあります。

▲h 壕口は殆ど崩落しており、斜面上に僅かに開口しています。
竹の茂みの裏に壕口があります。
内部は全体的に崩れていますが、特に大きな崩落はありません。

▲壕口付近の屈曲部(右手前から入り左奥に抜けます)
C・D・Eは『大村海軍航空基地施設一般圖』記載の形状と異なり右側に屈曲します。
D 燃料庫

▲ i 壕口

▲ j 壕口は丸太で柵がしてあります。
内部はゴミの投棄がありますが、大きな崩落も無く安定しています。


▲内部に支保工やカスガイが遺っています。
E 燃料庫

▲k 壕口は丸太で柵がしてあります。

▲ l 壕口は殆ど崩落しており、斜面上に僅かに開口しています。
壕口付近は竹の廃材とゴミで通行が困難ですが、内部は大きな崩落も無く安定しています。

k 燃弾庫
『大村海軍航空基地施設一般圖』には南東に抜ける道路側にあった様ですが、道路建設に伴い破壊された様で痕跡すらありませんでした。
ただ、E燃料庫のすぐ東側の茂みに地下壕の崩落跡のような溝があります。



▲隧道式爆彈庫の見取図(数字は長さm)
F 爆弾庫
農道から一段上がったミカン畑の奥にあり、崩落して巨大な谷になっています。

▲西側壕口
完全に崩落しています。

▲壕本体

▲東側壕口
農道から一段上がったミカン畑の奥から、さらに一段上がる農道脇にあります。
G 爆弾庫
農道から一段上がったミカン畑の奥にあります。
内部は大きな岩がゴロゴロしており、状態は余り良くありません。
m壕口は崩落しており痕跡すら無かったと思います。

▲内部から見たm壕口

▲n壕口
殆ど崩落していますが、何とか入れます。

▲内部の様子
m壕口付近の斜面には用途不明のコンクリート製の擁壁があります。

H 爆弾庫
農道から一段上がったミカン畑の奥にあります。

▲o壕口
殆ど崩落していますが、何とか入れます。

▲p壕口
殆ど崩落していますが、何とか入れます。
内部は横坑の中央が不自然に屈曲しており、恐らく左右の壕口から掘り進めた際に長さがズレたためと思われます。
また、岩や石がゴロゴロしており、非常に歩きにくいです。

▲内部の様子
大村海軍航空基地(第二大村海軍航空基地を含む)の分散施設は今富町一帯に設営され、まだ地下壕を中心に多数遺されていると思われます。
砲台の遺構と選別できない物や時間の関係で行けなかった場所もありますので、再探索ができ次第、また別記事で紹介したいと思います。
それにしても朝からの豪雨の中、素掘りの地下壕戦は苦労しました。
頭から泥は被る、服はビチャビチャ、挙句に欲張って飛行機に乗り遅れるという思わぬ出費・・・。
1週間の長崎滞在で1日が豪雪、2日が雨って、どんだけついてないねんOTL
<設営部隊>
第三百六十一海軍設營隊
昭和20(1945)年2月25日、佐世保鎭守府の所管で佐世保海軍施設部において編成(織田文雄技大尉(第三百六十二設營隊長兼務))、佐世保鎭守府部隊に部署され編制整備ののち大村に進出し、大村海軍航空基地、第二大村同の防護、設営工事にあたります。
4月15日、織田文雄技大尉は第三百六十二設營隊長の兼務を解かれ、同隊は福岡県前原への進出準備にあたります。
6月、梅雨により工事の進捗に支障が出ますが、工事段取りを変更し対応、決號作戰(本土決戦)に備え防護工事を急ぐなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
<主要参考文献>
『營造物施設目録 大村基地』(アジア歴史資料センター)
『放虎原は語る』 (平成11年3月 大村市)
-webサイト-
福重ホームページ
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