当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

飛行第一戰隊 ・ 第百十教育飛行聯隊

岐阜県各務原市に所在する航空自衛隊・岐阜基地は飛行第一戰隊の跡地にあります。

兵営は後に飛行第二戰隊第百十教育飛行聯隊第十教育飛行隊)が使用します。
飛行第一戦隊 ア 南から(岐阜各務原)
▲岐阜基地内に遺る将校集会所

【探索日時】
平成22年7月23日、平成28年12月5日

【改訂情報】
平成29年6月15日・・・遺構大幅追加





各務原陸軍飛行場周辺の施設配置
各務原陸軍飛行場 陸地測量部測図 各務原(大正9年測図、昭和7年修正)(岐阜)
▲『大日本帝国陸地測量部地形図35岐阜近傍』(大正9年測図、昭和7年修正)

昭和14(岐阜各務原)
▲昭和14(1939)年頃の各務原陸軍飛行場
① 各務原陸軍飛行場(西飛行場)
②   〃  (東飛行場)
③ 飛行第一戰隊(北側)・第一航空教育隊(南側)
④ 飛行第二戰隊
⑤ 各務原陸軍航空支廠
⑥ 岐阜陸軍病院各務原分院
⑦ 各務原憲兵分遣隊
⑧ 第一飛行團司令部
⑨ 川崎航空機工業㈱各務原工場
⑩ 三菱重工業㈱名古屋航空機製作所各務原格納庫
⑪ 川崎航空機工業㈱岐阜工場 柿澤寮
⑫     〃             雄飛寮
※緑文字が当記事の紹介施設


遺構について ※青字は地図にリンクしています
③ 飛行第一戰隊
大正6(1917)年6月16日、各務原陸軍飛行場(1,175,576坪)が開場(開場の経緯は各務原陸軍飛行場の記事を参照)、大正7(1918)年11月10日、航空第二大隊が所沢から稲葉郡鵜沼村に移駐して来ます。

12月、所澤陸軍飛行場に陸軍飛行學校の設置が計画され、既設の航空第一大隊は駒澤陸軍練兵場への移転が内定しますが、同練兵場は急速に発展する飛行機に対し将来的に拡張の余地が無かったため、各務原への移駐に変更されます。

第三師團は鵜沼村長に大隊の兵営用地確保を打診しますが適当な土地が無かったため、陸軍航空部長・井上幾多郎少将と陸軍省建築課長・渡邉一等主計正は現地調査の結果、西飛行場北端の蘇原村野村付近に用地を選定するも耕作地を買収する事になり且つ狭隘だったため、飛行場西端の三井山北麓が選定され、兵営建設が開始されます。

大正9(1920)年5月5日、航空第一大隊が所沢を出発、6日、那加村の大凡竣工した新兵営に転営して来ます。
飛行第一戦隊 飛行第一聯隊 昭和4 北から(岐阜各務原)
▲昭和4(1929)年の兵営(北側上空から)

12月1日、大隊において航空第三大隊が編成され、大正10(1922)年11月7日、航空第三大隊は八日市に転営します。
飛行第一戦隊 航空第一・第三大隊営門(岐阜各務原)
▲航空第一・第三大隊営門
  営門はココにありました。

大正11(1922)年8月9日、航空第一大隊は飛行第一大隊に、大正14(1925)年5月1日、飛行第一大隊は飛行第一聯隊に改称します。
昭和13(1938)年2月11日、兵営南側に第一飛行教育隊が新設、7月5日、飛行第一聯隊は飛行第一戰隊飛行第五十九戰隊第二十一飛行場大隊に分離改編、7月5日、第一飛行教育隊は第一航空教育隊に改称します。

昭和14(1939)年5月11日、ノモンハン事件が勃発、27日、第二十一飛行場大隊は海拉爾飛行場、6月2日、飛行第一戰隊は孫家飛行場に移駐したため、8月1日、飛行第二戰隊が鵜沼村(東飛行場)から旧飛行第一戰隊兵営に転営してきます。

昭和17(1942)年8月31日、兵営において第百十教育飛行聯隊が開隊、昭和18(1943)年4月15日、飛行第二戰隊は斉斉哈爾に、27日、第一航空教育隊は平壌に移駐し、兵営は第百十教育飛行聯隊兵営に転用、旧第一航空教育隊兵営に岐阜陸軍航空整備學校分校(第二教育隊)が開校します。

昭和19(1944)年2月25日、第百十教育飛行聯隊は第十教育飛行隊に、昭和20(1945)年2月21日、岐阜陸軍航空整備學校第二教育隊は第四航空教育團岐阜第二航空教育隊に改称し、決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

10月8日、米軍により兵営は接収、昭和33(1958)年6月、全面返還され、航空自衛隊・岐阜基地として発足、現在は第2補給処、飛行開発実験団、第4高射群等が所在し我が国の平和を護っています(停戦後の経緯も各務原陸軍飛行場の記事を参照)。

飛行第一戰隊兵営は現在、岐阜基地になっており敷地内に格納庫、将校集会所をはじめ当時の建物数棟が遺されています。
見学については毎年11月の航空祭(周辺一帯が南会場として開放)及び通常見学で一部を見る事が可能ですが、詳細については岐阜基地広報係にお問い合わせ下さい。

飛行第一戦隊 第二教育隊(岐阜各務原)
▲遺構の配置
現在航空自衛隊南地区は上述のように北側を飛行第一戰隊、飛行第二戰隊、第百十教育飛行聯隊(第十教育飛行隊)、南側を第一飛行教育隊(第一航空教育隊)、岐阜陸軍航空整備學校分校(第二教育隊、第四航空教育團岐阜第二航空教育隊)が使用しますが、現存建物の経緯は殆ど不明のため、名称は「飛行第一聯隊配置図(昭和6年)」を元に記載します。
なお、中央に流れていた小川(水色線)が南北兵舎の大凡の境界だった様ですが、格納庫など一部の建物は共用されていました。
※全遺構を紹介したいところですが黄色建物は通常の見学コースに無く、残念ながら紹介できません。

ア 将校集会所
大正9(1920)年、航空第一大隊(後の飛行第一戰隊)の移駐に合わせ建設されます。
現在は広報室(資料館)等に使用されています。
飛行第一戦隊 ア 南西から(岐阜各務原)
▲非常に素晴らしい状態が維持されています

飛行第一戦隊 ア 東側の出っ張り(岐阜各務原)
▲東側の張出し部分

飛行第一戦隊 ア 南西から (2)(岐阜各務原)
▲西側の張出し部分

飛行第一戦隊 ア 南側外廊下(岐阜各務原)
▲南側外廊下

飛行第一戦隊 ア 南側外階段(岐阜各務原)
▲南側外廊下にある階段
  階段両側には門柱の笠石が置いてありますが、由来は不明だそうです

飛行第一戦隊 ア 南側外階段両脇の笠石(岐阜各務原)
▲笠石の近影
  現存しない営門の物でしょうか?

飛行第一戦隊 ア 東から(岐阜各務原)
▲東側に玄関があります

飛行第一戦隊 ア 南東から(岐阜各務原)
▲玄関近影
  大正期の建物によく見られる石造柱が並びます

飛行第一戦隊 陸相荒木貞夫大将・第三師團長・若山善太郎中将(岐阜各務原)
▲昭和10(1935)年頃の玄関
  荒木貞夫大将(左)と第三師團長・若山善太郎中将

飛行第一戦隊 ア 北東から(岐阜各務原)
▲裏側

飛行第一戦隊 ア 瓦の星章(岐阜各務原)
▲鬼瓦には星章が輝きます

将校集会所内部は陸軍航空、及び航空自衛隊に関する展示品があります。
飛行第一戦隊 陸軍の航空機材各種(岐阜各務原)
▲陸軍の無線機類

飛行第一戦隊 ホ一〇三一式十二・七粍固定機関砲二型(岐阜各務原)
▲ホ一〇三(一式十二・七粍固定機関砲二型)

飛行第一戦隊 空自の航空機材各種(岐阜各務原)
▲航空自衛隊の展示



イ 将校集会所付属屋
他地域の将校集会所同様に給湯室だったと思われます。
現在は東側が増築(基礎がブロック部分)されています。
飛行第一戦隊 イ 北西から(岐阜各務原)
▲北西から

飛行第一戦隊 イ 南東から(手前は戦後増設)(岐阜各務原)
▲中央の木の後ろに見える入口から左側が当時の建物

飛行第一戦隊 イ 南東から(岐阜各務原)
▲当時の建物部分の近影


ウ 洗面所
現在は空家になっています。
当時はこの建物の北側に第三・第四中隊兵舎がありました。
飛行第一戦隊 ウ 西から(岐阜各務原)
▲西から

飛行第一戦隊 ウ 南東から(岐阜各務原)
▲南東から
御覧の様に屋根が波打ち、抜けるのも時間の問題かと・・・


エ 炊事場
本来は3倍の長さがありましたが、減築され西端のみが遺されています。
現在は空家になっています。
飛行第一戦隊 エ 西から(岐阜各務原)
▲西から

飛行第一戦隊 エ 南西から(岐阜各務原)
▲こちらも屋根が波打ちヤバメ・・・

飛行第一戦隊 エ 北東から(岐阜各務原)
▲本来の正面側
  写真左側が減築されているため、不自然な壁です

飛行第一戦隊 エ 南側の基礎(岐阜各務原)
▲南側にあるコンクリート基礎


オ 木造建物
用途不明です。
この周辺は材料廠の建物が並んでいた事から、その関連建物と思われます。
現在は倉庫として使用されています。
飛行第一戦隊 オ 西から(岐阜各務原)
▲周辺が樹木で囲まれ見通せません

飛行第一戦隊 オ 南西から(岐阜各務原)
▲入口の近影


カ 木造建物
同じく用途不明、材料廠関連の建物と思われます。
現在は空家になっており、通称「お化け屋敷」と呼ばれているそうです。
飛行第一戦隊 カ 北西から(岐阜各務原)


キ 貯水槽
飛行第一戦隊 キ 貯水槽(岐阜各務原)


※「ク」は後日紹介


あ 零式水上偵察機
零式水偵は海軍の主力偵察機として戦艦、巡洋艦、水上機母艦他に多数搭載されていました。
こちらの残骸は昭和46(1971)年10月9日、館山沖で引き揚げられました。
引き揚げの際、内部には英霊の御遺骨が遺っていたそうです。
飛行第一戦隊 あ 零式水偵 (2)(岐阜各務原)
▲一見何だか分かりません

飛行第一戦隊 あ 零式水偵(岐阜各務原)
▲横から見ると何となく飛行機に見えます


い 少年飛行兵 岐阜陸軍航空整備學校跡 碑
平成6(1994)年10月、元岐阜陸軍航空整備学校在籍者一同により建立されました。
この場所は第十教育飛行隊(旧飛行第一戰隊兵営)本部庁舎前の築山があった場所なので、厳密には岐阜陸軍航空整備學校跡では無いと思うのですが?
飛行第一戦隊 い 少年飛行兵 岐阜陸軍整備學校跡(岐阜各務原)


う 飛行第一聯隊跡 碑
昭和37(1962)年6月、飛一会により建立されました。
飛行第一戦隊 う 飛行第一聯隊跡 碑(岐阜各務原)

以上は航空自衛隊・岐阜基地内の見学コース上にあり、通常見学で見学可能です。
以下に列挙する遺構は残念ながら見学コース上に無いため、ご紹介できません。

a 医務室
木造建物で、現在も使用されています。

b 木造建物
用途不明です。

c 木造建物
bに隣接した小型建物ですが、用途不明です。

d 木造建物
cに隣接した小型建物ですが、用途不明です。

e 材料廠豫備機格納庫
南側に片流れの建物が増築され、北東端が減築(3/4に)されています。

f 煉瓦建物

小さな煉瓦建物で、現在は廃材置場になっている様です。

g 第三中隊格納庫
岐阜基地内に遺る建物の中で最大の規模を誇ります。
非常に珍しい鉄筋コンクリート造の格納庫が完存しており、圧巻です。

h 第四中隊格納庫
上記gと同一規格の鉄筋コンクリート造の格納庫です。

i 格納庫
鉄骨造の格納庫で飛行第二戰隊が転出した後に建設された様です。

j 木造建物
用途不明です。
この建物西側にも木造建物が2棟ありますが、昭和20(1945)4月5日の空撮に写っておらず、いずれも米軍時代の建物の様です。

k 貯水槽
上掲“キ”と同等の貯水槽です。

最後に身重にもかかわらず長時間に渡り御案内頂いた航空自衛隊・岐阜基地広報係のご担当者様、ありがとうございました!
この場を借りてお礼申し上げます。


衛戍部隊
航空大隊
航空第一大隊
飛行第一大隊
飛行第一聯隊
飛行第一戰隊
(滿洲第百三十三部隊、燕八三〇一)
明治36(1903)年12月17日、米国ノース・カロライナ州キティーホーク海岸においてライト兄弟が発動機付き複葉機による人類初の有人動力飛行に成功します。
明治42(1909)7月30日、軍用飛行機の将来性に着目した陸軍は陸軍省内に陸海官合同の臨時軍用氣球研究會(長岡外史中将)を設置(明治四十二年七月三十日 勅令第二百七號)、遊動気球と飛行機に関する設計試験、操縦法、諸設備、通信法の研究を開始します。
明治43(1910)年12月19日、代々木陸軍練兵場において徳川好敏、日野熊蔵両大尉が我が国初の有人動力飛行に成功します。
明治45(1912)年7月、陸軍内の下級将校から志願者を募り、操縦術修業者を選抜、臨時軍用氣球研究會(井上幾太郎少将)の氣球隊に派遣、同会の飛行試験場(後の所澤陸軍飛行場)において体系的な教育を開始します。

大正3(1914)年8月23日、我が国は日英同盟に則り、大正三四年戰役(第一次世界大戦)に参戦、10月31日、青島要塞攻略戦に参加、有川青島派遣航空隊(有川鷹一工兵大佐、モーリス・ファルマン4、ニューポール1、気球1機)が偵察、要地爆撃を実施します。

大正4(1915)年12月14日、所澤陸軍飛行場において氣球隊を改編し航空大隊が創設(有川鷹一工大佐)され、交通兵團(井上仁郎中将)隷下に編入されます。
大隊の編制は1個飛行中隊、1個気球隊、材料廠でした。
大正6(1917)年12月1日、航空第二大隊(徳川好敏工中佐)の新設発令にともない、航空第一大隊(河田四十一工中佐)に改称、1個飛行中隊を増設します。

大正7(1918)年8月5日、シベリア出兵に際し第一航空隊は第十二師團に編入され沿海洲方面、第二航空隊と航空廠は第七師團及び第三師團に編入されザバイカル洲方面の偵察、直協にあたります。

大正8(1919)年12月、氣球中隊が独立します。

大正8(1919)年4月10日、所澤に陸軍飛行學校開校が決定、大正9(1920)年5月5日、大隊(小澤寅吉中佐)は所沢を出発、6日、大凡竣工した各務原陸軍飛行場に隣接する岐阜県稲葉郡那加村の新兵営に転営、第三師團(菊池慎之助中将、名古屋)隷下に編入されます。
同年、12月1日、大隊において航空第三大隊が編成(大正10年11月7日、八日市陸軍飛行場に転営)されます。

大正11(1922)年5月22日、航空第一大隊、航空第二大隊による聯合空中攻防演習が実施されます。

8月9日、勅令第三百七十號『陸軍野戰砲兵射撃學校、陸軍重砲兵射撃學校、航空隊等ノ名稱改正ニ關スル件』により、航空第一大隊は飛行第一大隊に改称します。

大正12(1923)年9月1日、関東大震災発災に際し、第三師團長・井上幾太郎中将は飛行第一大隊、第二大隊に東京、横浜の火災状況の空中偵察を下令します。

大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)により4個師團の削減に代わり航空兵力は増強され、航空兵科が新設(従前は兵科混合)、飛行第一大隊は驅逐隊(後の戦闘隊)1個中隊が増設(偵察2、駆逐1計3個中隊)され飛行第一聯隊(赤羽裕之大佐)に改編されます。

昭和2(1927)年5月7日、軍令陸乙第十號 『陸軍平時編制改正』に伴い、戦闘・偵察分科混成編制の飛行第一、第二、第三、第五聯隊を単一分科編制に改編、飛行第一聯隊は戦闘4個中隊に改正されます。

11月15~18日、濃尾平野において挙行された陸軍特別大演習に参加します。

昭和7(1932)年、支那における排外思想は先鋭化、特に南支地域では国民党の扇動もあり排日・侮日行為は日々深刻化していきました。
1月18日、上海郊外において支那人により日本人僧侶が殺害され、28日、共同租界の警備にあたっていた我が上海海軍特別陸戰隊に支那国府十九路軍が発砲した事から上海事變が勃発します。

2月5日、臨参命第十五號により飛行第一聯隊に応急動員が下令、獨立飛行第三中隊を編成し派遣、5月27日、原隊に復帰します。
3月1日、滿洲國建国に伴い關東軍飛行隊の編制が改正、飛行第一、第三、第四聯隊、獨立飛行第十中隊より要員を抽出し飛行第十一大隊が編成され、關東軍飛行隊に編入されます。

昭和10(1935)年8月1日、蘇原村に第一飛行團(儀峨徹二少将)が新設され、飛行第一聯隊は同團隷下に編入されます。

昭和11(1930)年8月1日、内地・朝鮮・台湾の飛行部隊を統率する航空兵團司令部(徳川好敏中将)が編成されます。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、支那国府軍の度重なる違法行為により事態が悪化、我が政府は事変収拾のため「北支派兵二關スル政府聲明」を発表、7月15日、軍令陸甲第六號『支那駐屯軍、航空兵團司令部、留守航空兵團司令部臨時動員要領及ビ細則』により、動員令を用いることなく支那駐屯軍、航空兵團司令部は、現態勢のままで動員が完結します。

留守航空兵團司令部は、近衛師團長の管理で東京で編成され、7月15日 堀丈夫中将の兵團長着任で編成が完結し、飛行第一聯隊は第一飛行團から留守航空兵團司令部に隷属転移します。

昭和13(1938)年2月23日、支那空軍第一大隊・ソ連軍機により台湾臺北飛行場が空襲されたため、3月4日、北九州防空のため第一中隊(高梨辰雄大尉)が太刀洗陸軍飛行場に進出します(6月29日復帰)。

5月23日、軍令陸甲第二十七號『航空部隊編成要領』により陸軍飛行隊は空地分離(飛行部隊と整備部隊を別々に運用する)が行われ、7月5日、飛行第一聯隊は飛行第一戰隊(加藤敏雄中佐)と飛行第五十九戰隊(今川一策中佐)、第二十一飛行場大隊(高野實大尉)に分離改編され、編制完結します。

昭和14(1914)年5月11日、ソ連影響下の外蒙軍がソ滿国境を越えて滿洲に侵攻、第一次ノモンハン事件が発生します。

5月27日、第二十一飛行場大隊はに海拉爾飛行場(第九航空地區司令部の指揮下)に進出、30日、飛行第一戰隊に動員下令、航空兵團司令部(江藤英次郎中将)軍隊区分に編入、6月2日、21機は各務原を出発し孫家飛行場(哈爾浜、第二飛行集團第七飛行團指揮下)に進出、19日、応急派兵が下令され、21日、孫家飛行場を出発、22日、トボスに進出します。

24日、第一中隊はカンジュル飛行場に前進、飛行第二十四戰隊長の指揮下に編入され、25日、哨戒飛行を実施しますが会敵できませんでした。

26日、戦隊全機は採塩所飛行場に集結、第十二飛行團(東英治少将)指揮下に編入されます。
同日夕刻、3機が哨戒飛行を実施し、ソ連機6機を撃墜します。
27日、團とともにタムスクを攻撃し敵45機を撃墜(全体戦果95機撃墜、損害0)、7月3・4・5・10日、連日の空戦で80機を撃墜(損害は負傷1名)、12日、川又上空で敵11機を撃墜しますが、2名が未帰還に、戰隊長・加藤中佐も大火傷を負ってしまいます。

7月下旬、ソ連軍の術力が向上した事から損害が増加、第二中隊長・山田計介大尉、第一中隊長代理・小泉正三中尉、第二中隊長代理・伊東俊中尉等が相次いで散華、29日、ハルハ河上空空中戦において新戰隊長・原田文男少佐が散華してしまいます。

8月上旬、地上戦闘の小康化に伴い空戦も休止状態で推移しますが、19日、ソ連軍が攻勢に転移、戰隊は九七式戦闘機20機により反撃を行い、8月20~22日、20機(不確実7機含む)、8月24~25日、9機、8月29日~9月1日、30機(不確実11機含む)を撃墜します。

9月1日、飛行第十一戰隊第四中隊が戰隊に転入、飛行第一戦隊第三中隊として改編されます。
14・15日、タムスク進攻を最後に事件は停戦、事件中確実245機、不確実95機撃墜の戦果を挙げるも、16名が散華してしまいました。
10月11日、海拉爾から哈爾浜の孫家に帰還します。

昭和15年、軍令陸甲第二十五、二十六、二十七號により在滿洲の航空部隊の新設、編合が改定され、12月1日、第十飛行團司令部、2日、第五飛行集團司令部が、昭和16(1941)年7月29日、第十三飛行團司令部が開設され、各飛行團隷下の航空教育隊は内地に移駐します。
飛行第一戰隊、第二十一飛行場大隊はともに航空兵團司令部(安藤三郎中将)隷下の第十二飛行團(青木武三大佐)に配属され、孫家に展開します。

昭和16(1941)年11月6日、大東亜戦争開戦に向け大陸命第五百五十五號により南方軍直属航空部隊戦闘序列が発令、第十二飛行團は馬来(マレー)方面攻略を担当する第三飛行集團(菅原道大中将)に隷属転移、19日、飛行第一戰隊は孫家を出発、北京、済南、南京、嘉義、広東、三亜を経由、12月2日、南部仏印コンポントラッシュ飛行場に集結(九七式戦闘機42機)します。

12月7日、第二十五軍(山下奉文中将)乗船船団の護衛にあたり、1025、窪谷敏郎中尉、佐藤治夫軍曹はパンジャン島付近で英軍飛行艇を発見、無電連絡の暇を与えず撃墜し開戦企図の秘匿に成功します。
8日、歩兵第四十一聯隊が攻略したシンゴラ飛行場に前進、コタバル飛行場を攻撃し在地英軍機を撃破します。
9日、タナメラ及びアエルタワルを攻撃、コタバルに来襲したブレニムを迎撃し5機を撃墜しますが、九七戦は航続距離が短く進攻作戦には不向きのため空戦の好機が得られませんでした。

昭和17(1942)年1月10日、クアンタンに前進、1月12日からシンガポール航空撃滅戦に参加します。
26日、エンドウ沖で船団護衛中、来襲した英軍雷爆撃機20機(不確実2機含)を撃墜します。
28日、クアンタン飛行場が空襲され、飛行第十一戰隊と合わせて9機が炎上、3機が大破してしまいます。

2月5日、第二十五軍はシンガポールを攻略、24日、戰隊は團とともにスマトラ島タンジュンカランに進出し、27日から蘭印攻略にあたる第十六軍(今村均中将)乗船船団の護衛を実施します。

3月19日、第五飛行集團(小畑英良中将)の指揮下(軍隊區分)に編入され、ラングーン近郊のレグ、及びミンガラドンに移駐、21日、トングーに前進し、緬甸(ビルマ)攻略にあたる第十五軍(飯田祥二郎中将)を支援しマグエ攻撃に参加、4月27日、メイクテーラ南飛行場に前進し北ビルマ作戦に直協、5月6日、ミンガラドンに帰還しラングーンの防空にあたり、5月16日、機種改変のためミンガラドンを出発、7月22日、明野に集結、一式戦Ⅰに改変します。

昭和17年7月10日、南方攻略作戦が完了したため大陸命第六百五十三號により、南方軍直属航空部隊は戦闘序列を解かれ、替わり南方防衛のために第三航空軍戦闘序列が発令、第十二飛行團は新設の第三航空軍(菅原道大中将)に隷属転移し、8月2日、飛行第一戰隊は再び南方に進出しスマトラ島パレンバンに集結、油田防空任務にあたります。

10月上旬、戰隊は援蒋ルートを遮断すべく仏印ハノイに移駐し、雲南省の蒙自攻撃を支援、作戦終了後はシンガポールに移駐し防空にあたります。

昭和17年8月7日、米軍が我が海軍が航空基地を設営中のガダルカナル島に上陸、反攻が本格化します。
ガダルカナル島を巡る戦闘により損害を受けた海軍の要請により、陸軍も来るべき米軍の反攻に備え、11月16日、第十二飛行團(岡本修一大佐)は 第八方面軍直属航空部隊としてソロモン方面担当の第八方面軍(今村均中将)戦闘序列に編入され、27日、新設された第六飛行師團(板花義一中将)に配属されます。

12月中旬、僚隊の飛十一がラバウルに進出、飛一は他部隊から機材、空中勤務者を編入し61機、49名に増強、昭和18(1943)年1月4日、空母「雲鷹」に便乗してトラック環礁に到着、9日、33機がラバウルに、1月下旬、36機がバラレ島に進出、27日、軽爆隊を援護しガダルカナル島に初出撃します。
2月4日から團長直卒により3次に渡りケ號作戦(ガ島の地上部隊転進)を援護、2月11日までに13機を撃墜します。

20日~27日、一部がウエワクに前進、丙三號作戦(第四十一師團(清水規矩中将、宇都宮)の揚陸)援護にあたり、3月2・3日、八十一號作戦(ラエ行輸送作戦)援護にあたりますが、米戦爆連合の攻撃を受け船団は大損害を受け、戰隊長・澤田貢少佐も散華してしまいます。
4月12日、一部をラバウルに残置してウエワクに前進、船団援護、防空にあたり、5月16日、ワウ攻撃に向かう重爆隊を援護、6月、新設されたベナベナ飛行場群攻撃に参加、7月2日、レンドバ攻撃に向かう重爆隊を援護、4日、レンドバ攻撃に参加、太田剛介大尉は敵機に体当たりを敢行し散華(個人感状授与、二階級特進)するなど、3機を失ってしまいます(他2名は救助)。

連日の空戦で戦力損耗が著しい第十二飛行團は大陸命第七百六十二號(3月12日)により、第十四飛行團(寺西多美彌中佐)と交代し第四飛行師團(下山琢磨中将、斉斉哈爾)に編入される事が決定、7月14日、内地への帰還が下令されます。
同日、團長・岡本中佐はラバウルを出発、戰隊は一時的に白城子教導飛行團に編入され、第十四飛行團が慣熟するまで任務を続行、8月17日、保有機全てをラバウルに残置し輸送船に乗船し出発、パラオを経由し、9月14日、宇品に上陸、大正(大阪)に駐留し、明野において一式戦Ⅱに改変します。

11月4日、大正を出発、、7日、蒙古力飛行場(佳木斯)に進出し滿洲北部の防空にあたりますが、16日、第十二飛行團は第一航空軍(李王垠中将)に隷属転移、25日、柏(千葉)に移駐し帝都防空にあたります。

昭和19(1944)年3月8日、飛行第一戰隊は大陸命第九百六十一號により第十二飛行團を離れ第十飛行師團(吉田喜八郎少将)指揮下に編入、4月、戰隊は四式戦に機種改変します。
5月12日、大陸命第千十號により第十二飛行團(川原八郎中佐、飛十一・飛二十一)は第二飛行師團(山瀬昌雄中将、比島クラーク)に隷属転移します。

戰隊は柏に所在し帝都防空にあたり、8月30日~9月24日、30機が西部軍指揮下に編入され福岡第一に移駐、九州防空にあたります(B29の来襲無し)。

10月8日、戰隊は比島前進のため38機で柏を出発しますが、新機材の不慣れ、練度低下により福岡第一に到着できたのは23機、23日、ルソン島リパに前進した可動機は20機、24日、10機が追及してきます。

10月18日、捷一號作戦が発動され、大陸指第二千二百三十四號により飛行第一戰隊は第一次転用部隊として第十二飛行團(川原八郎中佐)に復帰、團は第四航空軍(冨永恭次中将)隷下第三十戰闘飛行集團(青木武三少将)に編入、第二飛行師團(木下勇中将)指揮下、戦闘部隊の軍隊区分に部署されます。

10月24日、第四航空軍はレイテ島在泊敵船団に対する第一次航空總攻撃を発動、0600、飛一の四式戦10機は、飛十一の四式戦6機ととも(團長・川原八郎中佐直率)にリパを発進しますが、合同予定の飛行第三戰隊(九九双軽22機)の発進が遅れたのを雲下を進撃したと誤認し先発してしまいます。
0730、第十二飛行團、第十六飛行團(新藤常右衛門中佐、デルカメロン発の飛五十一・五十二)の四式戦20機はレイテ湾に到達し予定通り制空(直掩では無く、戦闘機は先発し40分にわたり作戦空域を制空)にあたりますが敵影は無くマナブラ飛行場に帰還、遅れてレイテ湾に到達した飛行第三戰隊の九九双軽20機は、敵直掩機15機の襲撃を受け機位を失い引き返した1機を除き19機が未帰還になってしまいます。

10月24・25・26日、戰隊はマナブラよりレイテ島、28日、ネグロス島と連日出撃しますが、24日、第三中隊長・利田信造大尉、川喜田正夫准尉、辻中清太郎准尉、馬場正一准尉、佐々木光一曹長、岩下愛恒軍曹、小久保留夫伍長、25日、第一中隊長・春日井敏郎大尉、第二中隊長・井上敬一中尉、川原欣三中尉、福田数之伍長、26日、平野彦晴准尉、28日、戰隊長・松村俊輔少佐が相次いで散華、31日、保有機8機、可動機3機にまで減少してしまったため、11月1日、戦力回復が下令され、7日、空中勤務者は下館(茨城)に移駐し戦力を回復します。

12月7日、機付整備員を胴体に収容して下館を出発(戰隊長・橋本重治大尉、40機)し、17日、再びルソン島ポーラックに集結し、ルソン島防空、レイテ島攻撃に参加します。
22日、戰隊長・橋本大尉が単機出撃し散華してしまったため、飛十一から四至本広之丞大尉を戰隊長代理に迎え、サンホセ攻撃、クラーク地区防空等にあたりますが、連日の空戦により戦力を損耗してしまいます。

昭和20(1945)年1月5日、第十二飛行團の可動機は20機に減少したため、第三十戦闘飛行集團長・青木武三少将は特攻隊編成を熟慮断行、隷下の飛行第一、十一、七十一、七十二、七十三、二百戰隊(8日、飛行第三十一戰隊の残置隊を加える)の全機を特攻待機に指定し、志願者から2機編隊づつ34名を選抜、戰隊からは志田新八郎、淺井四郎、鹿兒島澄行、加藤昌一、三浦廣四郎各少尉が選考され、第三十戰鬭飛行集團特別攻撃隊「精華隊」が編成されます。

1月8・10・11日、精華隊は2機づつで編隊を組み長機が特攻機、僚機が援護機として出撃、次回は僚機が長機となり出撃する戦法を採り出撃、12日、志田新八郎少尉以下5名は25番2発を懸吊、マバラカット西飛行場を発進、リンガエン湾内の敵輸送船団に突入散華、任務を完遂します。

15日頃より空中勤務者と地上勤務者の一部は逐次、台湾潮州に移駐し戦力回復にあたります。
2月6日、第十二飛行團(鈴木五郎中佐)は第六航空軍(菅原道大中将)戦闘序列に編入され、、3月、下館に移駐し戦力回復にあたります。

4月末、高萩(埼玉)に移駐、決號作戰(本土決戦)に向け制空部隊に部署予定だった事から戦力を温存しつつ戦闘訓練を開始します。
4月8日、大陸命第千二百九十八號により第十二飛行團は第一航空軍(安田武雄中将)戦闘序列に編入され、7月1日、可動機が20機となった事から、第十飛行師團指揮下に編入され制號作戰(大型爆撃機からの本土防空)にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

比島に残留した地上勤務者は、北部ルソン、ネグロス両島で地上部隊に編入、遊激戦を行うなか9月13日、停戦を迎えた21名が復員しました。

-使用機種-
モ式四型偵察機→モ式六型偵察機→ソ式戦闘機→ニ式戦闘機→甲式三型戦闘機→甲式四型戦闘機→九一式戦闘機→九七式戦闘機→一式式戦闘機→(隼)→四式戦闘機(疾風)


航空第三大隊
※『飛行第三戰隊』の記事参照


飛行第五十九戰隊(西部第二百五十一部隊、天風二三七七、帥三五〇〇二)
昭和13(1938)年5月23日、軍令陸甲第二十七號『航空部隊編成要領』により陸軍飛行隊は空地分離が行われ、7月5日、飛行第一聯隊は飛行第一戰隊(加藤敏雄大佐)、飛行第五十九戰隊(今川一策中佐)、第二十一飛行場大隊(高野実大尉)に分離改編されます。
戰隊は2個戦闘中隊、九七戦25機でした。

8月12日、戰隊は第九飛行團(下重長四郎少将、斉斉哈爾)に編入され各務原を出発、延吉(滿洲)に移駐、張鼓峰事件(7月12日、ソ連軍が滿ソ国境を越境し侵攻)に備えますが、事件解決により、27日、延吉を出発、9月8日、第三飛行團に編入され、安慶に進出し廬山攻略戦を直協、10月末、二套口に進出、11月3日、漢口に移駐し防空にあたります。

昭和14(1939)年2月、運上に移駐し西安・蘭州攻撃に向かう重爆隊の帰路援護にあたりますが、九七戦の航続距離が短く空戦の機会は無く、作戦終了とともに漢口に復帰し防空にあたります。

昭和14(1914)年5月11日、ソ連影響下の外蒙軍がソ滿国境を越えて滿洲に侵攻、第一次ノモンハン事件が発生、8月末、戰隊は第十二飛行團指揮下に編入され、出動下令、9月1日、漢口を出発、9日、海拉爾、次いで採塩所に前進、15日、タムスク進攻に参加、第二中隊は11機を撃墜しますが、追撃中の第一中隊は奇襲を受け、山本中隊長以下5名が未帰還になってしまいます。

16日、停戦協定成立に伴い、19日、復員が下令され、24日、海拉爾を出発、10月3日、漢口に帰還し第三飛行團に復帰、以降安陸、応山を前進飛行場として防空、宜昌作戦の直協にあたります。

7月30日、戰隊は南支及び北部仏印進駐援護が下令され、8月9日、漢口を出発、11日、広東に集結します。
9月上旬、欽県に前進、南寧転進の直協にあたり、20日、広東に帰還、28日、広東を出発し、12月1日、漢口に復帰します。

昭和16(1941)年6月初旬、福生(立川)に移駐、一式戦Ⅰ甲30機を受領(一式戦を初装備した戰隊)、8月末、漢口に復帰し慣熟飛行にあたりますが、伊藤佐一郎中尉が空中分解で散華するなど主翼の強度不足が顕著になります。
10月末、主力は立川に移駐し武装を強化したⅠ乙に改変、11月下旬、南方作戦に備えコンポントラッシュに移駐を開始しますが、悪天候と改修に主力の到着が遅れ、12月7日、漸く集結を完了します。

8日、戰隊は11機で飛七十五(偵察)、飛九十(軽爆)を直掩し、馬来攻略にあたる第二十五軍(山下奉文中将)の上陸地点・コタバルに出撃、タナメラ上空においてバッファロー戦闘機6機を撃墜します。
9日、コタバルに出撃しますが天候不良で引き返します。
12日、20機でナコンに出撃、13日、戰隊長・谷村礼之助少佐は4機を直卒しペナン攻撃に出撃しますが、友軍機と空中接触し散華してしまいます。
15日、アエルタワル、18日、イポー、19日、スンゲイパタニに出撃、21日、クアラルンプール上空においてバッファロー4機撃墜、22日、クラン上空においてバッファロー4機を撃墜破、事後飛行團の軽爆隊援護、地上部隊の直協にあたり、29日、イポーに前進します。

昭和17(1942)年1月12・13・15・20日、飛六十四とともにシンガポール航空撃滅戦に出撃、18日、クアンタンにおいて4機、19日、ムアルで8機、20日、クアラルンプールで3機、2月4日、クルアンで3機を地上部隊の上空哨戒に際し撃墜します。

6日、クルアンに前進7・8日、飛六十四とともにパレンバンに出撃し23機を撃墜、14日、第一挺進團挺進第二聯隊(甲村武雄少佐)260名搭乗の挺進飛行戰隊の輸送機を護衛、15日、同聯隊は落下傘降下を敢行しパレンバンを攻略、18日、戰隊はパレンバンに前進、19~25日、飛六十四とともにジャワ島制空にあたり、33機を撃墜します。

3月2日、第二師團がカリジャティー飛行場を攻略したため、戰隊の3機(岩崎邦男中尉指揮)は同飛行場に前進、来襲した敵機を邀撃するとともに、バンドンに進攻し敵機を地上撃破します。
3日、戰隊主力はカリジャティーに集結、7日まで敵機の邀撃にあたります。

9日、第十六軍(今村均中将)は蘭印軍を降伏させ、H作戦(蘭印攻略作戦)は終結、戰隊は1個中隊を交替でパレンバン、及びチモール島デリー、クーパン、ラウテンに派遣し防空にあたります。

昭和18(1943)年2月中旬、特種船「あきつ丸」により輸送されてきた一式戦Ⅱ30機に機種改変し、従来の格闘戦法にロッテ戦法を加味した2機単位編成の新戦法を採用します。
1月頃よりチモール島付近の友軍船団に対しハドソン、A20、B24各爆撃機が散発的に来襲、2月9日、チモール島北方において船団護衛中の戰隊長・中尾次六少佐がハドソン9機と交戦し散華してしまいます。
3月20日、新戰隊長・福田武雄中佐直卒の1個中隊はバボに前進しバンダ海において船団護衛にあたります。

6月18日、戰隊はラウテンに集結、第四飛行師團(阪口芳太郎中将)指揮下に編入され、20日、22機で飛六十一の百式重爆18、飛七十五の軽爆9を援護し豪州ポートダーウィンに出撃、スピットファイアの迎撃を受け戰隊の桑田茂人中尉が散華、重爆1を失いますが、15機を撃墜します。
22日、20機(第二中隊長・南郷茂男大尉)が戦闘機のみでポートダーウィンに出撃しますが、会敵しませんでいた。

7月7~9日、戰隊は中隊ごとにマランを出発、9~11日、ブーツに集結、16日、第六飛行師團(板花義一中将)に隷属転移します。
24日、ハンサに前進し船団護衛にあたり、8月15・16日、飛二十四とともに飛二百八の軽爆隊を援護しフアブアに出撃し20機を撃墜しますが軽爆隊は大損害を受け、第二中隊長・稲葉松平中尉、藤川武義中尉、山中惠之軍曹が散華してしまいます。
16日夜半、ウエワク、ブーツ両飛行場がB24、B25爆撃機の奇襲を受け、戰隊は6機(全体で50機超)が地上撃破されてしまい、可動機は8機に低下、30日、同じく9機が地上撃破されてしまいます。
さらに熱帯地における不衛生な環境により病人が増加、戦力が急速に低下してしまいます。

9月下旬、戰隊は保有機15機を第十四飛行團に譲渡し、10月2日、空中勤務者は重爆でマニラに移駐、休養にあたるとともに機材、人員を補充、31日、23機でニューギニアに復帰しますが、移動中に戰隊長・福田中佐がヘルビンク湾に不時着、行方不明になってしまいます(散華認定、南郷大尉が代理)。
11月6日、マザブに出撃、事後マラワサ、フィッシュハーヘン進攻、ブーツ、ウエワク邀撃戦に出撃しますが、7日、マザブにおいて四十万喜久男軍曹、9日、同じく第一中隊長・福原昌造中尉、八幡壽郎中尉、市川良一准尉、財部久雄軍曹、山本行雄軍曹、15日、マラワサにおいて菅野達夫軍曹、16日、ウエワクにおいて宇野末藏准尉、23日、同じく中村秀治少尉、26日、フィッシュハーヘンにおいて西野十一軍曹が散華してしまいます。

12月15日、マーカス岬に米軍が上陸して来たため、事後は爆撃隊を援護し連日出撃しますが、22日、ウエワクにおいて加藤秋次郎軍曹が散華してしまいます。
昭和19(1944)年1月、アレキシス、マラサワに出撃後はウエワク上空の邀撃戦に移行、19日、ウエワクにおいて小林登岩曹長、23日、同じく戰隊長代理・南郷茂男大尉、2月3日、マザブにおいて野村喜久治軍曹が散華してしまいます。

2月14・15日、清水一男曹長はタ弾によりB26爆撃機、P47戦闘機計5機を撃墜し賞詞を授与されますが、14日、ブーツにおいて北原茂男中尉、真崎次郎軍曹、佐藤瑞軍曹が散華するなど戦局は急迫し、損耗も増加して行きます。

1月17日、戰隊は第一航空軍(李王垠中将)に隷属転移、2月19日、生存の空中勤務者10数名は重爆2機に分乗しホランジアを出発、26日、第一福岡に帰還します。
地上勤務者の半数は逐次輸送船にて蘆屋(福岡)に帰還しますが、半数はアイタペ付近の山中に残留し地上戦に移行、玉砕してしまいます。
戰隊は蘆屋において戦力回復にあたり、4月下旬、明野において三式戦に機種改変し伝習教育を受講、6月、保有機は25機に充足しますが、可動機7~8機程度、練度も低い状況でした。

7月18日、第十二飛行師團(三好康之少将)に隷属転移、北九州の防空任務を付与されます。
8月20日、B29爆撃機80機が八幡市に来襲、戰隊は21機で邀撃し撃墜1、不確実3、撃破5の戦果を挙げますが、小瀬川耕中尉が散華、3機大破の損害を受けてしまいます。
事後、支那大陸からのB29邀撃にあたりますが、倉幡地区への来襲は無く会敵できませんでした。

11月下旬、戰隊は一部を済州島に派遣、12月、B29へ体当たり専門の第二回天隊を編成しますが、練度不足、燃料不足により戦果は挙がりませんでした。
昭和20(1945)年1月20日、蓆田(福岡)に移駐、2月中旬、朝鮮群山に移駐、来るべき天號作戰(沖縄方面航空戦)に備え錬成にあたり、3月中旬、蓆田に復帰します。

19日、敵艦載機が西日本一帯に来襲し、戰隊は北九州上空で待機しますが、敵機の来襲はありませんでした。

3月下旬、米軍の沖縄来襲に備え、戰隊は制空隊の中核戦力として5個特攻隊とともに第一攻撃集團(川原八郎大佐)に編入されますが、進出が遅れ、4月1日、米軍の沖縄本島上陸当日に40機で知覧に前進します。
2日、戰隊前進部隊は7機で特攻機を随伴し徳之島に前進、第百飛行團とともに3日の出撃を企図しますが、敵艦載機の奇襲を受け飛行場は大破、進出した14機も7機が地上撃破されてしまいます。
3日、戰隊は5機で特攻機19機を随伴し喜界島に前進しますが、敵艦載機の妨害を受け野見山太郎少尉が散華、進出機は僅か2機にとどまります。
事後、戰隊は知覧から徳之島、喜界島への前進を企図しますが、執拗な敵艦載機の妨害により可動機が払底、特攻機は知覧から出撃せざるを得ない状況になります。
両島に進出した前進部隊の空中勤務者は喜界島に集結、輸送機等で知覧に帰還しますが、27日、井上早志大尉、淺野彌壽彦少尉、沖中健市少尉、生田憲政軍曹、今政浩軍曹搭乗の輸送機が敵機に撃墜され全員が散華してしまいます。

知覧にあった戰隊主力も4月2・3・6日の沖縄出撃で10機程度に損耗しますが、5月中旬まで特攻援護、知覧防空にあたります。
5月14日、第三中隊長・緒方尚行中尉以下6機は古江上空において敵艦載機30機を邀撃、2機の損失で3機撃墜に留まりますが、敵の鹿屋空襲を阻止、武功章を授与されます。

5月下旬、戰隊は蘆屋に移駐し戦力回復にあたり、21日、五式戦に機種改変を開始、北九州の防空に出撃しつつ、錬成にあたります。
戰隊は小規模な邀撃を除き戦力温存を下令され、7月10日の保有機は48機(可動機22機)、空中勤務者は55名に回復します。
25日、戰隊は第三十戰鬭飛行集團(三好康之少将)に隷属転移、北九州地区の防空にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

-使用機種-
九七式戦闘機→一式式戦闘機→(隼)→三式戦闘機(飛燕)→五式戦闘機


第二十一飛行場大隊(洋八三二一)
昭和13(1938)年5月23日、軍令陸甲第二十七號『航空部隊編成要領』により陸軍飛行隊は空地分離(飛行部隊と整備部隊を別々に運用する)が行われ、7月5日、飛行第一聯隊は飛行第一戰隊(加藤敏雄中佐)と飛行第五十九戰隊(今川一策中佐)、第二十一飛行場大隊(高野實大尉)に分離改編されます。
第二十一飛行場大隊は第十二航空地區司令部隷下に編入され、引き続き各務原において飛行第一戰隊、飛行第五十九戰隊の整備にあたります。

昭和14(1914)年5月11日、ソ連影響下の外蒙軍がソ滿国境を越えて滿洲に侵攻、第一次ノモンハン事件が発生します。
5月27日、第二十一飛行場大隊はに海拉爾飛行場に進出、第九航空地區司令部隷下に編入され、後続の飛行第一戰隊の整備にあたります。

昭和16(1941)年7月30日、第二十一飛行場大隊に臨時動員下令、11月7日、大隊は哈爾濱を出発、15日、南方軍戦闘序列に編入され第三飛行團に隷属転移、12月8日、泰國シンゴラに上陸、27日、一部をラバウルに、29日、一部をメダンに派遣します。

昭和17(1942)年4月24日、大隊主力はシンゴラを出発、5月1日、昭南島(シンガポール)を出航、5日、メダンに到着、7月24日、第三航空軍に隷属転移、9月30日、メダンを出発、10月8日、ラングーンに上陸、第五飛行師團に隷属転移、14日、マグウェに到着し、レグーに派遣隊を配置します。
12月25日、大隊主力はラバウルに上陸、第六飛行師團に隷属転移します。

昭和18(1943)年1月5日、ツルブに一部を派遣、2月12日、ニューギニア島ハンサに上陸、4月8日、マダンに到着、ハンサに派遣隊を配置、8月2日、大隊主力はマダンを出発、アレキシスに到着しマダン派遣隊を配置します。
昭和19(1944)年3月25日、アレキシスを出発、5月25日、ウエワクに移駐、6月10日、第五十一師團の指揮下に編入され、一部をオーム半島の警備に派遣します。
8月15日、第十八軍に隷属転移、第二十師團指揮下に編入されブーツ飛行場において邀撃戦にあたります。

昭和20(1945)年6月9日、第二十師團指揮下を解かれ、第五十一師團指揮下に編入、地上戦にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


飛行第二戰隊
※『飛行第二戰隊 ・ 岐阜陸軍飛行學校』の記事参照


第百十教育飛行聯隊(中部第百三十三部隊)
第十教育飛行隊(空五三三)
昭和17(1942)年8月31日、岐阜県稲葉郡那加村(旧飛行第一戰隊、飛行第二戰隊兵営)に第百十教育飛行聯隊(篠田菊治中佐)が開隊、第五十一教育飛行師團隷下の第百一教育飛行團に配属され九七式軽爆撃機、九九式襲撃機により直協機、偵察機基本操縦教育を開始します。
隊は本部、第一大隊、整備隊編制で、第一大隊は第一中隊(直協)、第二中隊(新司偵要員)、第三中隊(軍偵)で編成されます。
飛行第一戦隊 第百十教育飛行聯隊(岐阜各務原)
▲飛行第一、第二戦隊営門を転用した第百十教育飛行聯隊営門

昭和19(1944)年2月25日、軍偵、直協修業者を第三十教育飛行隊の編成要員として抽出移管、隊は第十教育飛行隊と改称、第百二教育飛行團(神谷正男大佐)に配属され、司偵のみの教育部隊に改編され、百式司令部偵察機、一式双発高等練習機により司偵教育を実施します。
隊は本部、操縦科、整備科編制で、操縦科は一式双練20機、百偵3機により約30名が、整備科は約1,500名が飛行機修理術、自動車運転、偵察写真術、通信術を受講しました。

昭和20(1945)年、急迫する戦局に鑑み操縦科は特攻訓練を開始、3月31日、陸亞密第千六百七十二號により第五十一航空師團司令部に特攻隊の編成下令、隊において志願者より第八十五振武隊(佐藤修一少尉以下12名、九五練)、第八十六振武隊(関根賢治少尉以下12名、九五練)を編成、6月、第三百三十一~第三百四十振武隊の編成に着手するなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

第八十五振武隊、第八十六振武隊は、4月3日、第六航空軍に編入され、長野、次いで八日市に移駐、待命中に停戦を迎えます。


岐阜陸軍航空整備學校 分校(第二教育隊)
第四航空教育團 岐阜第二航空教育隊

※『岐阜陸軍航空整備學校 ・ 岐阜第一航空教育隊』の記事参照


主要参考文献
『各務原市民の戦時記録』 (平成11年3月 各務原市戦時記録編集委員会 各務原市教育委員会)

『続 陸軍航空の鎮魂』 (昭和57年4月 航空碑奉賛会)

『陸軍航空の鎮魂 総集編』 (平成5年4月 航空碑奉賛会)

『日本陸軍戦闘機隊』 (昭和52年3月 伊澤保穂著 酣燈社)

『陸軍特別攻撃隊』 (平成7年7月 モデルアート社)
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大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
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