当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

飛行第二戰隊 ・ 岐阜陸軍飛行學校

岐阜県各務原市鵜沼に飛行第二戰隊がありました。

兵営には一時、熊谷陸軍飛行學校桶川分教場が所在し、飛行第二戰隊の転営後は熊谷陸軍飛行學校各務原分教場岐阜陸軍飛行學校岐阜陸軍航空整備學校(第一教育隊)が開校、後に第四航空教育團司令部が設置され、同團岐阜第一航空教育隊に改称、第四十教育飛行隊が移駐して来ます。
飛行第二戦隊 ア(手前)・イ(奥)薬品庫 北西から(岐阜各務原)
▲畑に遺る薬品庫

【探索日時】
平成22年7月23日、平成28年12月5日

【改訂情報】
平成29年5月18日・・・記事分離・遺構追加





各務原陸軍飛行場周辺の施設配置
各務原陸軍飛行場 陸地測量部測図 各務原(大正9年測図、昭和7年修正)(岐阜)
▲『大日本帝国陸地測量部地形図35岐阜近傍』(大正9年測図、昭和7年修正)

昭和14(岐阜各務原)
▲昭和14(1939)年頃の各務原陸軍飛行場
① 各務原陸軍飛行場(西飛行場)
②   〃  (東飛行場)
③ 飛行第一戰隊(北側)・第一航空教育隊(南側)
④ 飛行第二戰隊
⑤ 各務原陸軍航空支廠
⑥ 岐阜陸軍病院各務原分院
⑦ 各務原憲兵分遣隊
⑧ 第一飛行團司令部
⑨ 川崎航空機工業㈱各務原工場
⑩ 三菱重工業㈱名古屋航空機製作所各務原格納庫
⑪ 川崎航空機工業㈱岐阜工場 柿澤寮
⑫     〃             雄飛寮
※緑文字が当記事の紹介施設


遺構について ※青字は地図にリンクしています
④ 飛行第二戰隊
大正6(1917)年6月16日、各務原陸軍飛行場(1,175,576坪)が開場(開場の経緯は各務原陸軍飛行場の記事を参照)、大正7(1918)年11月10日、航空第二大隊は所沢を出発、稲葉郡鵜沼村の新築中の兵営に転営、11日、事務を開始します。
飛行第二戦隊 飛行第二聯隊営門 昭和12(岐阜各務原)
▲飛行第二戰隊営門(写真は聯隊時代)

飛行第二戦隊 飛行第二 営門(岐阜各務原)
▲現在の営門付近

飛行第二戦隊 飛行第ニ大隊 大正11(岐阜各務原)
▲大正11年頃の兵営(南側上空から)

大正10(1922)年12月13日、兵営内で航空第五大隊が編成されます。

大正11(1922)年8月9日、航空第二、第五大隊は飛行第二、第五大隊(11月10日、立川に転営)に、大正14(1925)年5月1日、飛行第二大隊は飛行第二聯隊に改称します。
昭和12(1937)年7月7日、支那事変勃発に伴い、11日、飛行第二聯隊は飛行第三大隊を編成し北支に派遣します。

昭和13(1938)年6月27日、熊谷陸軍飛行學校 桶川分教場が兵営内に移転、7月31日、飛行第二聯隊は飛行第二戰隊に改編します。
11月11日、陸軍航空本部は飛行第二戰隊兵営・東飛行場が狭隘な事から拡張を決定、昭和14(1939)年3月29日、第三師團経理部は鵜沼村の東側隣接地を買収、拡張整備を開始します。
5月11日、ノモンハン事件が勃発、6月2日、那加村の飛行第一戰隊は滿洲・孫家に移駐、6月1日、熊谷陸軍飛行學校 桶川分教場は甲府に移転、昭和15(1940)年4月1日、買収した兵営東側隣接地に熊谷陸軍飛行學校 各務原分教場が開校します。

8月1日、飛行第二戰隊は那加村の旧飛行第一戰隊兵営に転営、同日、熊谷陸軍飛行學校 各務原分教所は岐阜陸軍飛行學校に改称し旧飛行第二戰隊を包含します。

昭和18(1943)年4月1日、岐阜陸軍飛行學校は廃校、跡地に岐阜陸軍航空整備學校が開校、27日、那加村の第一航空教育隊は平壌に移駐し、跡地に岐阜陸軍航空整備學校 分校(第二教育隊)が開校(鵜沼村の本校は第一教育隊に)します。

昭和20(1945)年、第五十一教育飛行師團司令部経理部は第一教育隊の東側隣接地20町歩(60,000坪)を買収、用地を拡張し格納庫の建設を開始します。
2月13日、岐阜陸軍航空整備學校に第四航空教育團司令部が新編、21日、岐阜陸軍航空整備學校(第一教育隊)は第四航空教育團 岐阜第一航空教育隊、第二教育隊は同岐阜第二航空教育隊に改称します。

4月10日、岐阜第一航空教育隊内に第四十教育飛行隊が移駐、決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

28日、停戦に伴い『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により陸軍施設は大蔵省に移管されます。

10月8日、米軍先遣隊が各務原に進駐、那加村の第十教育飛行隊が、26日、各務原陸軍飛行場が接収され、兵器、軍需品の処理が開始されます。
西飛行場全域はCamp Gihuに改称され米軍接収が続きますが、東飛行場は軍需品の処理が終了ののち内務省を通じ大蔵省に返還されます(時期不明)。

昭和21(1946)年2月、農耕隊(旧岐阜第一教育隊の沖縄、朝鮮、台湾出身者)、県入植者(県斡旋、引揚者)が仮入植、4月、各務原開拓団が創設、10月21日、『自作農特別措置法』が公布され、東飛行場の北半分は元地権者、南半分と航空廠技能者養成所は各務原開拓団に払い下げられ開墾が開始され、現在は工業地、住宅地になっています(西飛行場の停戦後の経緯は各務原陸軍飛行場の記事を参照)。

飛行第二戰隊は我が国の航空発祥とともに創設された歴史のある部隊ですが、残念ながら遺構は殆ど遺されていません。
また、兵営は後に用途変更されており、現存遺構が何時の時代の物か不明です。

飛行第二戦隊 飛行第二戰隊(岐阜各務原)
▲遺構の配置

ア 藥品庫
畑の中に下記「イ」と並んで遺り、現在は農機具庫として使用されています。
飛行第二戦隊 ア(手前)・イ(奥)薬品庫 南西から(岐阜各務原)
▲左側がア、右側がイ(後ろ側から)

飛行第二戦隊 ア 薬品庫 北から(岐阜各務原)
▲正面側


イ 藥品庫
畑の中に上記「ア」と並んで遺り、現在は農機具庫として使用されています。
飛行第二戦隊 イ 薬品庫 北面(岐阜各務原)
▲正面側

飛行第二戦隊 イ 薬品庫 入口(岐阜各務原)
▲入口には鉄枠が遺ります

飛行第二戦隊 イ 内部右側(岐阜各務原)
▲内部


エ 下士官集会所 基礎
民家の敷地内に遺り、現在は基礎を利用して離れが建てられています。
飛行第二戦隊 エ 将校集会所基礎 北西から(岐阜各務原)
▲基礎全景
  建物は戦後のもので、基礎の下に水路が通されています。

飛行第二戦隊 エ 将校集会所基礎 北西から (2)(岐阜各務原)
▲基礎近影

近年まで近くに戦闘指揮所兼御真影奉安所、発動機試験場の基礎等が遺っていた様ですが、残念ながら破壊されてしまいました。


衛戍部隊
航空第二大隊
飛行第二大隊
飛行第二聯隊
飛行第二戰隊
(靖一一六一四、中部第九十九→百九)
第十二獨立飛行隊(靖→威一一六一四)
大正6(1917)年8月30、各務原陸軍飛行場に航空第二大隊の新設が決定、所澤陸軍飛行場に所在する航空大隊内(有川鷹一工大佐)で編成が開始、12月1日、航空第二大隊(徳川好敏工中佐)が編成され交通兵團隷下に編入、航空第一大隊(航空大隊より改称)において事務を開始します。
大正7(1918)年11月10日、航空第二大隊は各務原陸軍飛行場(稲葉郡鵜沼村)の工事が進む新兵営に転営、11日、事務を開始します。

大正8(1819)年4月15日、交通兵團は復帰、航空第一大隊は近衞師團長・、第二大隊は第三師團長(大庭二郎中将、名古屋)隷下に編入されます。

大正9(1920)年、第一期基本操縦術練習生の教育を開始します。

大正10(1921)年12月、航空第二大隊内で航空第五大隊の編成が開始されます。

大正11(1922)年8月9日、勅令第三百七十號『陸軍野戰砲兵射撃學校、陸軍重砲兵射撃學校、航空隊等ノ名稱改正ニ關スル件』により、15日、航空第二大隊は飛行第二大隊(細木研大佐)に改称します。

大正12(1923)年9月1日、関東大震災発災に際し、第三師團長・井上幾太郎中将は飛行第一大隊、第二大隊に東京、横浜の火災状況の空中偵察を下令します。

大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)により4個師團の削減に代わり航空兵力は増強され、航空兵科が新設(従前は兵科混合)、飛行第二大隊は飛行第二聯隊(小野艸太郎中佐)に改編します。

昭和2(1927)年8月、飛行第二聯隊に無線電信機が配給され、乙式一型偵察機に装備されます。
11月15~18日、濃尾平野において挙行された陸軍特別大演習に参加します。

昭和8(1933)年、關東軍飛行隊編成のため戦力を抽出した内地・朝鮮航空部隊の欠数を補填すべく、「昭和八年航空軍備改變」が行われ、飛行第二聯隊は偵察2個中隊から九二式偵察機による3個中隊編制化を開始します。
8月、整備中隊が開隊します。

昭和9(1934)年1月19日、「昭和九年航空軍備改變」により關東軍飛行隊増強のため、聯隊主力は滿洲に進出し關東軍飛行隊(佐野光信少将)の指揮下に編入されますが、間もなく各務原に復帰します。

昭和10(1935)年8月1日、蘇原村に第一飛行團(儀峨徹二少将)が新設され、飛行第二聯隊は同團隷下に編入されます。

昭和11(1930)年8月1日、内地・朝鮮・台湾の飛行部隊を統率する航空兵團司令部(徳川好敏中将)編成が発令され、第一飛行團は第三師團から隷属転移します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、支那国府軍の度重なる違法行為により事態が悪化、我が政府は事変収拾のため「北支派兵二關スル政府聲明」を発表、7月15日、軍令陸甲第六號『支那駐屯軍、航空兵團司令部、留守航空兵團司令部臨時動員要領及ビ細則』により、動員令を用いることなく支那駐屯軍、航空兵團司令部は、現態勢のままで動員が完結します。

15日、飛行第二聯隊は留守飛行第二聯隊として動員完結(留守航空兵團隷下)、飛行第三大隊(栗山新太郎大佐、偵察2個中隊)を編成し北支に派遣、26日、大隊は北京に移駐した第一飛行團司令部隷下に編入され南滿州に展開、北支那方面で直協任務にあたります。

昭和13年5月23日、軍令陸甲第二十七號『航空部隊編成要領』により陸軍飛行隊は空地分離(飛行部隊と整備部隊を別々に運用する)が行われ、7月31日、飛行第二聯隊は飛行第二戰隊(沼田英治中佐)に、材料廠は整備班に改称されます。

昭和13(1938)年6月10日、留守航空兵團司令部は第一飛行集團(牧野正迪中将)司令部に改編されます。

8月31日、広東作戦(第二十一軍(古荘幹郎中将)による援将ルート遮断作戦)に参加のため飛行第二戰隊は第一直協飛行隊(岡田武夫大尉)を編成、9月30日、隊は第四飛行團(藤田朋少将)に配属され大阪港を出航、白耶士(バイアス)湾に向かいます(昭和14年5月30日、復帰)。

昭和14年6月7日、軍令陸甲第十九號『陸軍航空部隊編制』により航空兵團の編合が発令、7月15日、飛行第二十九戰隊編成のため、司偵、直協各1個中隊を抽出、朝鮮宣徳に派遣します。

昭和15(1940)年8月1日、飛行第二戰隊は那加村の旧飛行第一戰隊兵営に転営、飛行第二戰隊兵営に岐阜陸軍飛行學校が開校します。

昭和16(1941)年3月30日、第一中隊から飛行第八戰隊の臨時編成要員が抽出し台湾に移駐、7月18日、第二十九飛行場中隊(松村榮一大尉)が編成され、第三飛行集團(菅原道大中将、プノンペン)に移駐、同日、第六直協飛行隊(河原崎少尉)、第七直協飛行隊(高橋一茂大尉)が編成され、東満・八面通に移駐、同日、獨立氣象第一中隊が編成され航空兵團(鈴木率道中将、新京)に編入され海狼に移駐します。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争が開戦します。

昭和18(1943)年3月21日、滿洲移駐のため地上勤務者先発隊(押切中尉以下4名)が各務原を出発、釜山を経由し、25日、斉斉哈爾に到着、4月15日、戰隊主力は各務原を出発、福岡第一を経由、17日、新京を経由、18日、斉斉哈爾に到着し第四飛行師團(下山琢磨中将、斉斉哈爾)に隷属転移、9月20日、佳木斯に移駐、獨立飛行第五十三中隊(鈴木剛一大尉、司偵)を編入し第二中隊を改編します。

昭和19(1944)年5月12日、戰隊は第二飛行師團(山瀬昌雄中将、クラーク)隷下に編入、15日、佳木斯を出発、22日、台湾・嘉義を経由、24日、比島・クラーク飛行場に前進、29日、同地において聯合艦隊司令長官指揮下に編入され、一部をクラークに残置しダバオに移駐、6月20日、パラオ諸島ペリリュー島に前進、海上哨戒にあたります。

7月7日、ダバオに移駐、8日、クラークに帰還、第二飛行師團隷下に復帰、第十飛行團(光成省三少将)に配属されます。
15日、一部をアパリに派遣、8月15日、戰隊に復帰、29日、一部(木村中尉以下15名)をセレベス島に派遣、海上哨戒にあたり、9月中旬、戰隊に復帰します。

9月13日、第二飛行師團は第四航空軍(冨永恭次中将、マニラ)戦闘序列に編入され、米軍の侵攻に備えます。

10月20日1000、米軍がレイテ島に上陸を開始、第四航空軍、第二飛行師團はネグロス島シライに戦闘指揮所を前進させます。
24・25日、飛行第二戰隊は獨立飛行第三十一中隊とともに偵察部隊の軍隊区分(飛二戰隊長・澤井光二中佐)になり航空総攻撃(レイテ湾内の敵艦隊・輸送船団攻撃)に参加、敵情報告にあたりますが、攻撃部隊は連日の空襲・邀撃戦で可動率が低下、加えて洋上航法・艦船攻撃の錬度不足等から大きな戦果は得られず、戦力を損耗してしまいます。
11月21日、戰隊は第四航空軍司令官・冨永恭次中将より感状を授与されます。

昭和20(1945)年1月13日、戰隊は戦力回復のため、戰隊長・澤井中佐以下10名は台湾・屏東へ転進(空中勤務者30名、地上勤務者40名は輸送機搭乗のためエチアゲ、次いでツゲガラオに移駐しますが、空中・斎藤少尉以下30名、地上・木戸少尉以下30名は輸送機払底のため残置され臨時歩兵第十五大隊に編入され木戸小隊を編成、地上戦に移行します)、2月上旬、後続の空中・柏木中尉以下10名が屏東に到着します。
2月16日、戰隊は第六航空軍(菅原道大中将、福岡)に隷属転移、2月24日、逐次台湾・小港を出航、3月16日、八街に集結、24日、蓆田に移駐、次いで鹿屋海軍航空基地に前進し天號作戰(沖縄方面航空戦)に参加、海上哨戒にあたります。
4月20日、獨立飛行第十九中隊を指揮下に編入するとともに、同日復帰した飛行第百六戰隊、5月2日復帰した第四獨立飛行隊の人員、機材を編入し戦力を回復します。

7月10日、軍令陸甲第百三號『第二十戰鬭飛行集團司令部、教導飛行師團等臨時編成(編制改正)、第三五二次復帰要領』により、15日、飛行第二戰隊(鈴木剛一少佐)は復帰、戰隊の人員・機材により第十二獨立飛行隊が編成されます。
隊は大刀洗陸軍航空廠福岡分廠(志免炭鉱内)を指揮下に編入、沖縄方面、九州南方洋上の海上哨戒にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

-使用機種-
九二式偵察機→九七式司令部偵察機→九八式直接協同偵察機→百式司令部偵察機


航空第五大隊
飛行第五大隊
飛行第五聯隊
飛行第五戰隊
(天鷲一五三一〇)
大正10(1921)年12月、航空第二大隊内において航空第五大隊の編成が下令され、13日、事務を開始します。

大正11(1922)年8月9日、勅令第三百七十號『陸軍野戰砲兵射撃學校、陸軍重砲兵射撃學校、航空隊等ノ名稱改正ニ關スル件』により、15日、航空第五大隊は飛行第五大隊(櫻田養秀大佐)に改称します。

大正11(1922)年11月10日、立川陸軍飛行場(東京)にに移駐します。

大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)により4個師團の削減に代わり航空兵力は増強され、航空兵科が新設(従前は兵科混合)、8月15日、飛行第五大隊は飛行第五聯隊(佐野光信中佐、偵察4個中隊)に改編されます。

昭和7(1932)年、支那における排外思想は先鋭化、特に南支地域では国民党の扇動もあり排日・侮日行為は日々深刻化していきました。
1月18日、上海郊外において支那人により日本人僧侶が殺害され、28日、共同租界の警備にあたっていた我が上海海軍特別陸戰隊に支那国府十九路軍が発砲した事から上海事変が勃発します。

2月5日、臨参命第十四號により飛行第五聯隊は飛行第二大隊(偵察2個中隊)を編成し、上海派遣軍の指揮下に編入(5月27日、事変解決に伴い原隊に復帰)、4月5日、臨参命第二十號により關東軍飛行隊編成のため、飛行第五大隊第二中隊(6月6日、飛行第十大隊に改編)を派遣します。

昭和8(1933)年、關東軍飛行隊編成のため戦力を抽出した内地・朝鮮航空部隊の欠数を補填すべく、「昭和八年航空軍備改變」が行われ、飛行第五聯隊は偵察4個中隊から2個戦闘中隊・2個偵察中隊編制化を開始します。

昭和9(1934)年11月9日、關東軍飛行隊増強のため第一大隊(戦闘機2個中隊)が抽出され、飛行第十二聯隊に転出、聯隊は偵察2個中隊編制になります。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、支那国府軍の度重なる違法行為により事態が悪化、我が政府は事変収拾のため「北支派兵二關スル政府聲明」を発表、7月15日、軍令陸甲第六號『支那駐屯軍、航空兵團司令部、留守航空兵團司令部臨時動員要領及ビ細則』により、動員令を用いることなく支那駐屯軍、航空兵團司令部は、現態勢のままで動員が完結します。
15日、飛行第五聯隊は留守飛行第五聯隊(佐藤一郎大尉、1個戦闘中隊)として動員完結(留守航空兵團隷下)、飛行第二大隊(95戦2個中隊)を編成(臨時航空兵團隷下)します。
大隊は第一飛行團(嵯峨徹二少将)隷下に編入され、北支において直協にあたります(昭和13年8月1日、飛行第六十四戰隊に改編)。

昭和13(1938)年6月10日、留守航空兵團司令部は第一飛行集團(牧野正迪中将)司令部に改編されます。

5月23日、軍令陸甲第二十七號『航空部隊編成要領』により陸軍飛行隊は空地分離(飛行部隊と整備部隊を別々に運用する)が行われ、8月31日、飛行第五聯隊は飛行第五戰隊(近藤兼利大佐)に改編されますが、航空部隊の急激な拡大に伴い人材・機材が不足、戰隊は2個練習部(偵察、戦闘各1)編制となり、教育部隊としてし各務原に転営し基本操縦を取得した下士官、少年飛行兵に対し戦闘機戦技教育を実施(九五式戦闘機)します。

昭和14(1939)年6月、柏(千葉)に転営、昭和15(1940)年9月、九五戦から九七戦に機種改変し3個中隊編制(戦闘1、練習2個)となり第一中隊(12機)は作戦任務中隊として帝都防空にあたります。

昭和16(1941)年7月20日、第一飛行集團(安部定中将)隷下に新編された第十七飛行團(佐藤正一少将)に配属、26日、飛行第五十四戰隊を編成、2個中隊編制に改編、主力を柏に、1個中隊(交代制)を松戸に派遣し、引き続き帝都防空にあたります。

12月8日、大東亜戰争が開戦します。

昭和17(1942)年3月、二式複戦「屠竜」に機種改変を開始、4月18日、米B25爆撃機、16機が空母ホーネットから発艦し来襲(ドーリットル空襲)、二式複戦6機で迎撃しますが、会敵できませんでした。

8月、第三中隊を編成、定数49機に対し33機を充足します。

12月、南東方面航空戦においてB17爆撃機を撃破できる戦闘機の急派が要求され、大本營は飛行第五戰隊の三十七粍砲装備の二式複戦、百偵のラバウル派遣を決定、下旬、戰隊は獨立飛行中隊(第一中隊長・千葉吉太郎大尉以下6名、二式複戦6)を編成、明野陸軍飛行學校の6名・司偵6、地上勤務者24名を加え特殊攻撃隊が編成されます。
昭和18(1943)年2月1日、隊は横須賀を空母「大鷹」に便乗しトラックに進出、訓練と整備にあたり、2月中旬、ラバウル西飛行場に前進、第十二飛行團直属となり2機づつで夜間邀撃に出撃しますが、B17の来襲が途絶えた事もあり会敵できず、4月上旬、師團司令部とともにウエワクに移駐、5月11日、進出してきた飛行第十三戰隊に編入されます。

昭和18(1943)年6月19日、バンダ海方面の防空及び船団護衛を強化すべく戰隊の南方転用が発令され、飛行第八十七戰隊の柏進出を待ち、7月10日、未熟者を残置し柏を出発、大刀洗、上海を経由し、18~20日、二式複戦28、輸送機3機でジャワ島マランに前進、第四航空軍(寺本熊市中将)隷下の第七飛行師團(須藤榮之助中将)に隷属転移します。
7月2日、地上勤務者は宇品を出航、8月11日、マランに到着します。
事後、戰隊はマランを根拠地にアンボン、チモール島ラウテン、アル諸島トアルに分散派遣、タニンパル、ナムレア、パボ等を機動飛行場として、ニューギニアに前進した飛行第五十九戰隊に代わり防空にあたります。

9月21日、豪州よりB24爆撃機9機が来襲、海軍機とともにラングールを出撃した第二中隊の山下大尉機はB24を一撃で撃墜します。

12月15・16日、第二中隊3機はジャワからチモールに向かう船団2隻を護衛中、ボーファイター数機が来襲、1機を撃墜しますが輸送船1隻擱座、1隻は揚陸中に炎上してしまいます。

昭和19(1944)年1月17日、B24爆撃機10機がアンボンに来襲、第一中隊5機が邀撃し5機を撃墜、第七飛行師團長・須藤中将より賞詞が授与されます。

事後、敵機の来襲は途絶え、戰隊は船団護衛にあたり、1月、マルメラ輸送、3月、スンバワ輸送、4~5月、ワシレ泊地哨戒にあたりますが、電波警戒機、照空灯の不備から苦戦します。

4月22日、米軍はホランジア、5月27日、ビアク島に上陸を開始します。
同地の失陥によりパラオ、及び比島南部が敵空襲圏下に陥るため大本營は総力を挙げ敵上陸部隊の撃滅を企図します。

27日、敵上陸の情報を得た戰隊長・高田勝重少佐は独断で二式複戦4機を爆装し、ビアク島沖の敵艦隊攻撃に出撃、乱雲を利用し高度100mで泊地に接近、敵駆逐艦2隻を撃沈、2隻を大破させます。
戰隊長機は投弾時に片発を被弾し帰路に付きますが、部下の体当たりを目視し反転、再攻撃に向かうもP47戦闘機の攻撃を受け残る片発も発火したため自爆、全機未帰還になってしまいます。
高田少佐が出撃前に残した辞世
六度散り 七度咲きて醜鷲(しこわし)を われ擊ちやまむ 大君のため

6月10日、高田少佐の壮挙に南方軍総司令官・寺内壽一大将より感状が授与されます。

6月3・4日、戰隊(飛行隊長・馬場保英大尉指揮)はビアク島攻撃を反復しますが、10日、可動機が6乃至7機に低下したためアンボンに移駐、機数不足を補うべく一式戦10機を受領し、新戰隊長・松山武夫少佐から跳飛爆撃の訓練を受けつつ戦力回復にあたります。

7月1日、戰隊は比島への転進を下令されますが、引き続きチモール島、アンボンで船団護衛にあたり、B24爆撃機4~5機を撃墜しますが、火網が改善された敵編隊に対する少数機での単独攻撃では以前の様な戦果が挙がらず、また海上移動では南方の不安定な気象により損耗が出てしまいます。

19日、戰隊は比島への移駐を開始、8月上旬、クラークに集結、二式複戦、一式戦を残置し重爆に搭乗し、8月下旬、台湾・屏東、沖縄を経由し大正(大阪)に集結、二式複戦30機を受領し、9月上旬、小牧に移駐、戦力回復にあたります。
8月11日、戰隊本部、地上勤務者の一部は東昌丸に乗船しアンボンを出航しますが、12日、ブルー島西方海上において敵機の爆撃を受け沈没、生存者はケンダリーに上陸します。

10月下旬、新設された清洲陸軍飛行場に移駐し、第十一飛行師團(北島熊男少将)隷下の第二十三飛行團(藤田隆中佐)に配属され、近畿、中部地区の防空にあたります。

12月13日、B29爆撃機90機が名古屋に来襲、情報の遅れもあり高度9,000mにしか到達できず邀撃できませんでした。
戰隊は邀撃の不備を師團司令部から叱責されたため、装備、機銃1丁を降ろし上昇力を強化します。
22日、B29爆撃機62機が名古屋に来襲、第一中隊(藤原誠中尉)が邀撃し4機を撃墜します。

昭和20(1945)年1月23日、B29爆撃機60機が名古屋に来襲、戰隊は高度10,000mで待機し邀撃、第一梯団を反復攻撃し第三中隊(栗原康敏中尉)は敵先頭を一撃で撃墜したため、敵機は空襲を行わず遁走しますが、栗原中尉機は敵弾50発を被弾、撃墜されてしまいます。

3月以降、B29は高高度精密爆撃から中高度無差別爆撃に転換、二式複戦の特性が発揮できる状況となり斜銃による下方攻撃で戦果が挙がる様になります。

3月10日、B29爆撃機325機が東京に来襲(第一次東京大空襲)、11日、戰隊主力は帝都防空のため調布に前進しますが、12日、戰隊不在の名古屋にB29爆撃機200機が来襲、病身のため残留していた保谷勇曹長は単機で出撃、4機を撃墜、1機を撃破し賞詞と武功章を授与されます。

5月14日、B29爆撃機440機が名古屋に来襲、戰隊は全力で邀撃し、4機を撃墜、6機を撃破します。

4月以降、P51戦闘機が来襲し出すと運動性能の劣る二式複戦の損害が増加、5月下旬、五式戦に機種改変を開始しますが、名古屋地区の相次ぐ空襲により生産の途絶、部品供給の遅れから可動率は低下してしまいます。

6月、戰隊は決號作戰(本土決戦)に備え防空に加え、対艦攻撃訓練を開始し、戦力温存を図るなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝しますが、戰隊は出動準備を解除する事無く、可動全力25機を爆装、18日未明を期して伊勢湾南方の敵機動部隊攻撃を立案しますが、作戦が事前に漏洩、師團長・北島中将以下師團司令部の説得を受け攻撃を中止、第三中隊長・伊藤藤太郎中尉は独断で23機を率いて離陸、名古屋上空を惜別飛行し1時間後に帰還、停戦を迎えます。

7月下旬の戰隊保有機は五式戦17を含む35機で空中勤務者は34名(技量甲15名)でした。

-使用機種-
九七式戦闘機→二式複座戦闘機(屠龍)→五式戦闘機


飛行第三大隊
獨立飛行第十六中隊
飛行第八十一戰隊
(滿洲第六五〇部隊、高二三八〇)
昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、支那国府軍の度重なる違法行為により事態が悪化、我が政府は事変収拾のため「北支派兵二關スル政府聲明」を発表、7月15日、軍令陸甲第六號『支那駐屯軍、航空兵團司令部、留守航空兵團司令部臨時動員要領及ビ細則』により、動員令を用いることなく支那駐屯軍、航空兵團司令部は、現態勢のままで動員が完結します。

15日、飛行第二聯隊は留守飛行第二聯隊として動員完結(留守航空兵團隷下)、聯隊において編成された飛行第三大隊(栗山新太郎大佐、偵察2個中隊)は北支に出発、北支方面各飛行場に展開し直協任務にあたります。

8月13日、我が軍を一挙に撃滅しようと目論む蒋介石は上海の在留一般邦人に対し度重なる不法行為を行い、邦人保護を任務とする我が上海海軍特別陸戰隊(大川内傳七 少将)に発砲した事から第二次上海事変が勃発します。

戦線が中支に拡大したことから飛行第三大隊は中支方面を担当する第三飛行團司令部(値賀忠治少将)指揮下に編入され、直協任務にあたります。

昭和13(1938)年5月23日、軍令陸甲第二十七號『航空部隊編成要領』により陸軍飛行隊は空地分離(飛行部隊と整備部隊を別々に運用する)が行われ、在支航空部隊は同年6月から実施、8月1日、天津において飛行第三大隊は獨立飛行第十六中隊(第一飛行團隷下)、同第十七中隊(第三飛行團)、第三十五飛行場大隊(第十五航空地區司令部)に分離改編されます。

8月22日、獨立飛行第十六中隊は漢口作戰に参加、第二軍の直協にあたり、航空兵團長より感状を授与されます。
昭和14(1939)年5月、南苑において航空兵團長直轄になり奥地進攻のため偵察にあたり、昭和15(1940)年4月、第三飛行集團に配属され、引き続き奥地偵察にあたり、第百一號作戰(重爆による奥地爆撃)に寄与します。

昭和16(1941)年8月、第百二號作戰において四川省方面の敵情偵察にあたります。

9月20日、中隊は彰徳において飛行第八十一戰隊(柳本榮喜中佐)に改編されます。
11月15日、プノンペンに集結、12月まで大東亜戦争開戦に備え馬来方面の隠密偵察を実施します。
12月8日、開戦後はマレーに前進、ボルネオ、スマトラ、ジャワ上陸作戦に備え上陸点偵察、及び敵情偵察を実施します。
昭和17(1942)年2月、パレンバン降下作戦直前に現地の地形・天候を調査、15日、第一挺進團挺進第二聯隊(甲村武雄少佐)の落下傘降下に際し状況偵察を実施します。

3月、ジャワ島に前進、豪北方面の敵航空状況、占領地の敵情偵察にあたります。

昭和17(1942)年7月、ビルマに前進、第三航空軍(菅原道大中将)に隷属転移、インド東部、雲南、昆明の偵察を実施、24日、第一次ビルマ地区航空撃滅戦(11月30日まで)、第二次ビルマ地区航空撃滅戦(昭和18年1月31日まで)、昭和18(1943)年2月1日、第五十五師團(古閑健中将、善通寺)の三十一號作戰(第一次アキャブ作戦)、第三次ビルマ地区航空撃滅戦(4月30日まで)に際し敵情偵察を実施します。

昭和18(1943)年4月、飛行第八戰隊の司偵中隊を編入し、増強するも損耗が出始めます。
5月1日~9月30日、ビルマ周辺の航空撃滅戦、地上作戦の敵情偵察を実施します。
10月1日~昭和19(1944)年2月29日、3月1日~6月15日、6月16日~12月15日、反攻邀撃撃砕作戦に際し、敵情偵察を実施します。

昭和20(1945)年6月、南部仏印・クラコールに移駐、戦力低下により復帰した飛行第十五戰隊の人員・機材を加え戦力を回復、ビルマ、支那南西、アンダマン諸島周辺の哨戒、敵情偵察、及び地上作戦協力を実施するなか、レグーにおいて停戦を迎えました。

-使用機種-
九七式司令部偵察機→百式司令部偵察機→キ一〇二


獨立飛行第十七中隊(第三飛行團)
上記の獨立飛行第十六中隊と同様、昭和13(1938)年8月1日、飛行第三大隊から分離改編(釘宮清重大尉)されます。

8月22日、獨立飛行第十七中隊は漢口作戰に参加、第二軍の直協にあたります。
昭和14(1939)年3月、第三飛行團(菅原道大少将)に指揮下に編入され、第十一軍の南昌作戦に協力します。
昭和15(1940)年9月3日、中隊は復帰、人員・機材は飛行第四十四戰隊の直協中隊(第二・第三・第四中隊)に編入されます。

-使用機種-
九二式偵察機→九八式直接協同偵察機


第三十五飛行場大隊(輝九八六五)
上記の獨立飛行第十六・第十七中隊と同様、昭和13(1938)年8月1日、飛行第三大隊から分離改編、4日、天津において編成完結(西岡豐二少佐)します。
15日、天津を出発、9月30日、安慶に上陸し虞州(合肥)、六安、光州、信陽各飛行場に展開し、漢口作戦に協力します。
11月、武昌、12月、南京において司偵専修教育に参加します。

昭和16(1941)年2月21日、杭州、安陸、南昌各飛行場に前進、錦江作戦、宜昌西方討伐作戦、浙東上陸作戦、、玉山、金華、長沙攻略戦に協力、南京において飛行第七十五戰隊の機種改変にあたります。
10月16日、杭州に一部を派遣、10月31日、先発隊は武昌を出発、12月8日、泰國バンドンに敵前上陸を敢行、下旬、スンゲイパタニに集結します。
昭和17(1942)年1月、タイピン、イポー、クアラルンプール各飛行場に前進し第二十五軍の馬来攻略戦に協力、2月24日、テンガーに前進、南部スマトラ、西部ジャワ作戦に参加、3月21日、ジャワ島バタビアに上陸、バンドンに前進、9月20日、マランに移駐、昭和18(1943)年2月18日、チモール島ラウテンに移駐、12月20日、セラム島アマハイに移駐、昭和19(1944)年4月12日、ラウテン西飛行場において第一次、第二次豪北作戦に協力、6月12日、ラウテン飛行場において勢第三號作戦に協力、隊主力はラウテン、デリー、クーパン、フロレス島マウメン、スンバワ島ロボツクに派遣隊を置き、飛行場防衛・管理にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第二十九飛行場中隊(司九九三七)
昭和16(1941)年7月18日、飛行第二戰隊において編成(松村榮一大尉)、7月29日、滿洲・白城子に移駐、12月9日、サイゴン、クラコルを経由し、泰國ドンムアンに移駐します。
昭和17(1942)年1月、クランバンに移駐し第十五軍のビルマ攻略戦に協力、3月21日~6月13日、ミンガラドン、トングー、マグエに展開、航空作戦を支援します。
6月14日、レグに、8月18日、バンドンに、10月6日、マデウン、昭和18(1943)年4月17日、マランに移駐、航空作戦を支援するなか、停戦を迎えました。


第六直協飛行隊(誠一七一)
獨立飛行第四十七中隊(誠九九一〇)
昭和16(1941)年7月18日、飛行第二戰隊において編成(河原崎少尉)、昭和17(1942)年4月、東満・八面通に移駐し、第二百六獨立飛行隊(安在秋男大佐)の指揮下に編入され、昭和19(1944)年2月まで北支方面の地上作戦に直協します。

昭和19(1944)年2月、浜松に移駐、九九式軍偵察機に機種改変、対潜訓練にあたります。
6月10日、第八飛行師團(山本健児中将、台北)に隷属転移、台湾・台東に移駐、海上護衛司令長官・小澤治三郎中将の行う海上交通保護作戦を支援、10月20日、隊は復帰、獨立飛行第四十七中隊に改編されます。
事後、台東において特攻隊員選抜、特攻機援護、敵艦船攻撃にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

-使用機種-
九八式直接協同偵察機→九九式軍偵察機


第七直協飛行隊(誠一七二)
獨立飛行第四十八中隊(誠九九一一)
昭和16(1941)年7月18日、飛行第二戰隊において編成(高橋一茂大尉)、昭和17(1942)年4月、東満・八面通に移駐し、第二百六獨立飛行隊(安在秋男大佐)の指揮下に編入され、昭和19(1944)年2月まで北支方面の地上作戦に直協します。

昭和19(1944)年2月、浜松に移駐、九九式軍偵察機に機種改変、対潜訓練にあたります。
6月10日、第八飛行師團(山本健児中将、台北)に隷属転移、台湾・花蓮港に移駐、海上護衛司令長官・小澤治三郎中将の行う海上交通保護作戦を支援、10月30日、隊は復帰、獨立飛行第四十八中隊に改編されます。
事後、台東において特攻隊員選抜、特攻機援護、敵艦船攻撃にあたり、8月6日、台中に移駐し師團長・山本中将より感状が授与されます。
8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

-使用機種-
九八式直接協同偵察機→九九式軍偵察機


獨立氣象第一中隊
昭和16(1941)年7月18日、飛行第二戰隊において編成、28日、海狼に移駐、野戰氣象第一大隊に編入され、同大隊氣象第一中隊に改編されます。
10月13日、サイゴンに移駐、12月8日、主力はコタバルに上陸、事後馬来各地に展開し気象観測にあたり、昭和17(1942)年7月24日、氣象第二中隊がスマトラよりジャワに移駐したのに伴い、スマトラ方面も担当します。
9月30日、大隊は復帰、第三氣象聯隊(中川昇中佐)に編入され、同聯隊第一大隊に改編されます。
聯隊は第一大隊を馬来、スマトラ、ジャワ、チモール、第二大隊をビルマ、泰國、仏印に展開、昭和19(1944)年7月、担任地域を第一大隊は泰國、馬来、ボルネオ、第二大隊はビルマに変更、昭和20(1945)年3月、戦局の急迫に伴いビルマから転進、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


熊谷陸軍飛行學校 桶川分教場
熊谷陸軍飛行學校 各務原分教所

昭和10(1935)年12月1日、熊谷陸軍飛行場に隣接して熊谷陸軍飛行學校(埼玉)が開校、将来航空兵科の現役下士官とすべく少年生徒の飛行機操縦教育を開始、随時各陸軍飛行場に分教場を開設します。
関東地区の分教場として宇都宮分教場(栃木)、金丸原分教場(栃木)に続き、昭和12(1937)年6月3日、桶川分教場(埼玉)が開校します。
昭和13(1938)年6月27日、桶川分教場が狭隘な事から名称はそのままで飛行第二戰隊内に移転、7月2日、第七十五期操縦學生50名が転属してきます。
昭和14(1939)年1月15日、第七十七期操縦學生が入校しますが、卒業間近の6月1日、甲府分教場(山梨)へ転属、各務原の桶川分教場は閉鎖されました。

昭和15(1940)年4月1日、飛行第二戰隊東側隣接地(昭和14年3月29日、用地買収)に熊谷陸軍飛行學校 各務原分教場(7月31日から分教所)が開校し、下士官學生及び予備役操縦将校の教育を開始します。
分教所は本部、第一中隊(下士官學生:伍長15名程)、材料廠編制でした。

7月31日、勅令第五百號『岐阜陸軍飛行學校令』が公布され、熊谷陸軍飛行學校 各務原分教所は岐阜陸軍飛行學校に改編、熊谷陸軍飛行學校から甲府分教所が移管、學生60名中、20名が甲府に転属します。
學生は毎年4月1日と10月1日に入学し、大半は逓信省航空機乗員養成所の修了者で、岐阜の本校は戦闘機、甲府分教所は偵察機の教育を実施します。
昭和16(1941)年8月、北伊勢分教所(三重)が開設されます。
昭和18(1943)年4月1日、第七期生の卒業を最後に閉校します。


主要参考文献
『各務原市民の戦時記録』 (平成11年3月 各務原市戦時記録編集委員会 各務原市教育委員会)

『陸軍航空の鎮魂 総集編』 (平成5年4月 航空碑奉賛会)

『日本陸軍戦闘機隊』 (昭和52年3月 伊澤保穂著 酣燈社)
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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