当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

岐阜陸軍航空整備學校 ・ 岐阜第一航空教育隊

岐阜県各務原市鵜沼に岐阜陸軍航空整備學校がありました。

同校は岐阜陸軍飛行學校の跡地に開校、後に第四航空教育團 岐阜第一航空教育隊に改編され、第四十教育飛行隊が移駐して来ます。
岐阜第一航空教育隊 カ 格納庫基礎 南から(岐阜各務原)
▲畑の中に遺る格納庫基礎

【探索日時】
平成22年7月23日、平成28年12月5日





各務原陸軍飛行場周辺の施設配置
各務原陸軍飛行場 97F16-C1-13(岐阜)
▲昭和20(1945)年4月5日、空撮(国土地理院 97F16-C1-13)

昭和20(岐阜各務原)
▲現在の地図に転写 配置は昭和20(1945)年の停戦時
① 各務原陸軍飛行場(西飛行場)
②   〃  (東飛行場)
③ 第十教育飛行隊(北側)・第四航空教育團岐阜第二航空教育隊(南側)
④ 第四航空教育團司令部・同岐阜第一航空教育隊・第四十教育飛行隊
⑤ 各務原陸軍航空廠
⑥ 各務原陸軍病院
⑦ 各務原憲兵分隊
⑧ 各務原陸軍航空廠 技能者養成所
⑨ 川崎航空機工業㈱岐阜工場
⑩ 三菱重工業㈱名古屋航空機製作所各務原格納庫
⑪ 川崎航空機工業㈱岐阜工場 柿澤寮
⑫     〃             雄飛寮
※緑文字が当記事の紹介遺構

遺構について ※青字は地図にリンクしています
④ 第四航空教育團司令部・同岐阜第一航空教育隊(旧 岐阜陸軍航空整備學校)
大正6(1917)年6月16日、各務原陸軍飛行場(1,175,576坪)が開場(開場の経緯は各務原陸軍飛行場の記事を参照)、大正7(1918)年11月10日、航空第二大隊は所沢を出発、稲葉郡鵜沼村の新築中の兵営に転営、11日、事務を開始します。
大正11(1922)年8月9日、飛行第二大隊、大正14(1925)年5月1日、飛行第二聯隊、昭和13(1938)年7月31日、飛行第二戰隊に改編します。
11月11日、陸軍航空本部は飛行第二戰隊兵営・東飛行場が狭隘な事から拡張を決定、昭和14(1939)年3月29日、第三師團経理部は鵜沼村の東側隣接地を買収、拡張整備を開始します。

昭和15(1940)年4月1日、買収した兵営東側隣接地に熊谷陸軍飛行學校 各務原分教場が開校、8月1日、飛行第二戰隊は那加村の旧飛行第一戰隊兵営に転営し、同日、熊谷陸軍飛行學校 各務原分教所は岐阜陸軍飛行學校に改称し旧飛行第二戰隊を包含します。

昭和18(1943)年4月1日、岐阜陸軍飛行學校は廃校、跡地に岐阜陸軍航空整備學校が開校、27日、那加村の第一航空教育隊が平壌に移駐し、跡地に岐阜陸軍航空整備學校 分校(第二教育隊)が開校(鵜沼村の本校は第一教育隊に)します。

昭和20(1945)年、第五十一教育飛行師團経理部は第一教育隊の東側隣接地20町歩(60,000坪)を買収、用地を拡張し格納庫の建設を開始します。
2月13日、岐阜陸軍航空整備學校に第四航空教育團司令部が新編、21日、岐阜陸軍航空整備學校(第一教育隊)は第四航空教育團 岐阜第一航空教育隊、第二教育隊は同岐阜第二航空教育隊に改称します。

4月10日、岐阜第一航空教育隊内に菊池(熊本)から第四十教育飛行隊が移駐、決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

28日、停戦に伴い『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により陸軍施設は大蔵省に移管されます。

10月8日、米軍先遣隊が各務原に進駐、那加村の第十教育飛行隊が、26日、各務原陸軍飛行場が接収され、兵器、軍需品の処理が開始されます。
西飛行場全域はCamp Gihuに改称され米軍接収が続きますが、東飛行場は軍需品の処理が終了ののち内務省を通じ大蔵省に返還されます(時期不明)。

昭和21(1946)年2月、農耕隊(旧岐阜第一教育隊の沖縄、朝鮮、台湾出身者)、県入植者(県斡旋、引揚者)が仮入植、4月、各務原開拓団が創設、10月21日、『自作農特別措置法』が公布され、東飛行場の北半分は元地権者、南半分と航空廠技能者養成所は各務原開拓団に払い下げられ開墾が開始され、現在は工業地、住宅地になっています(西飛行場の停戦後の経緯は各務原陸軍飛行場の記事を参照)。

岐阜第一航空教育隊(岐阜各務原)
▲遺構の配置

ウ 航空神社
岐阜陸軍航空整備學校の隊内神社で創建時期は不明ですが、現在、朝日稲荷神社となっています。
岐阜第一航空教育隊  ウ 航空神社(現朝日稲荷) 拝殿(岐阜各務原)
▲航空神社 拝殿

岐阜陸軍航空整備學校跡 記念塔
昭和42(1967)年11月3日、関係者により境内に建立されました。
揮毫は岐阜陸軍航空整備學校校長・田中誠三大佐です。
岐阜第一航空教育隊  ウ 岐阜陸軍航空整備學校跡 記念塔(岐阜各務原)


オ・カ格納庫基礎
畑の中に遺り、道路で南北に寸断されてしまっています。
北側は6m、南側8.4m、高さ1mで北端から南端まで25mあります。
木造格納庫を予定していた様ですが、空襲の激化に伴い工事は遅延、未完成のまま停戦を迎えた様です。
岐阜第一航空教育隊 オ 格納庫基礎 北西から(岐阜各務原)
▲南側(オ)の基礎

岐阜第一航空教育隊 オ 格納庫基礎 南西から(岐阜各務原)
▲南側(オ)の基礎
ボルトが遺ります

岐阜第一航空教育隊 カ 格納庫基礎 南西から(岐阜各務原)
▲当ページ最初の写真と同じ北側(カ)の基礎

岐阜第一航空教育隊 オ 格納庫基礎 南東から(岐阜各務原)
▲分かり難いですが、基礎全景

以前は西側にも同じ様な基礎があった様ですが、畑地化する際に破壊されてしまったそうです。


所在部隊
熊谷陸軍飛行學校各務原分教所
岐阜陸軍飛行學校

※『飛行第二戰隊 ・ 岐阜陸軍飛行學校』の記事参照


岐阜陸軍航空整備學校
      〃        第一教育隊
      〃        第二教育隊

第四航空教育團司令部(空五一四)
第四航空教育團 岐阜第一航空教育隊(空五六三)
     〃     岐阜第二航空教育隊(空五六四)
     〃     奈良航空教育隊(空五六五)
陸軍は今時大戦の帰趨を決する航空戦力を急速建設すべく、陸軍航空兵養成学校の整備・拡張を決定します。
昭和18(1943)年3月27日、勅令第二百二十四號『岐阜陸軍航空整備學校令』が公布され、4月1日、岐阜陸軍航空整備學校(田中誠三大佐)が岐阜陸軍飛行學校の跡地に開校します。
岐阜陸軍飛行學校は陸軍航空總監部隷下に編入され、陸軍航空整備學校(所沢)が管掌した操縦、通信、整備教育のうち、整備教育の要員を各務原に転属させ教育を開始します。
また、東京陸軍航空學校に入学予定の少年飛行兵第十四期生500余名が組織改編(東京陸軍少年飛行兵學校に改編)により岐阜に入学、6ヶ月の初歩教育、1年間の専門教育受講を開始します。

昭和18(1943)年4月27日、那加村の第一航空教育隊が平壌に移駐したため、跡地に分校(第二教育隊)を増設、本校は岐阜陸軍航空整備學校 第一教育隊に改称、第一教育隊は戦闘整備、第二教育隊は後方整備教育を担当します。

昭和19(1944)年4月1日、歩兵第百五十三聯隊兵営跡に奈良教育隊が開隊、戦闘整備教育を開始します。

昭和20(1945)年2月13日、第一教育隊に第四航空教育團司令部(谷内誠一大佐)が開設(25日、第五十一航空師團(松岡勝臧中将、岐阜)隷下に編入)され、岐阜陸軍航空整備學校は閉校、第一教育隊、第二教育隊、奈良教育隊は第四航空教育團 岐阜第一航空教育隊(加藤秀三中佐)、岐阜第二航空教育隊(児島義徳中佐)、奈良航空教育隊(島田仁市郎大佐)に改編、引き続き整備教育を実施するなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第四十教育飛行隊(空五三八、西部第百二十三部隊)
昭和19(1944)年4月8日、第百三教育飛行團(弘中孫六大佐、朝鮮咸興)隷下の第十一教育飛行隊(則安壽雄少佐)を基幹として連浦において編成(宮永築少佐)されます。
7月20日、知覧(鹿児島)に移駐、第五十一飛行師團隷下に編入され、31日、特別操縦見習士官第二期136名の戦闘機操縦基本戦技教育を実施(11月25日まで)、教育修了後80名は第十一錬成飛行隊(山口榮少佐、目達原)に配属、56名は知覧に残留します。
12月10日、空襲激化のため、菊池(熊本)に移駐、15日、台湾佳冬からの特操第二期50名、操縦候補生第七期4名、同第九期1名計111名の錬成にあたります(昭和20年3月10日まで)。

昭和20(1945)年3月16日、志願者から隊長・吉田節郎、樺島資彦、河野博、坪谷邦彦、瀬尾努、勝又勝雄、内藤寛次郎、土谷恭三、佐藤利男、田宮治隆、湯澤三壽、種田實各少尉を選抜、第七十八振武隊(「櫻花隊」九七戦)を編成します。
岐阜第一航空教育隊 第七十八振武隊(岐阜各務原)
▲左から内藤、勝又、佐藤、河野、種田各少尉

隊は各務原陸軍航空廠においてト號改造(特攻機への改造)を受け、知覧において整備、特攻訓練を実施、4月3日、隊は第六航空軍に編入されます。
5月2日、坪谷邦彦少尉が訓練中に殉職してしまいます。
4日、第六次航空総攻撃が下令され、隊長・吉田節郎、河野博、瀬尾努、勝又勝雄、佐藤利男、種田實各少尉は25番1発を懸吊し知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華します。
11日、第七次航空総攻撃が下令され、湯澤三壽少尉は25番1発を懸吊し知覧を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華します。
24日、第八次航空総攻撃が下令され、25日、樺島資彦、内藤寛次郎、土谷恭三、田宮治隆各少尉は25番1発を懸吊し知覧を発進、0842、田宮少尉機は喜界島に不時着、他の3名は沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂します。
田宮少尉は翌日の出撃を企図しますが、乗機を失った第二十一振武隊・水川禎輔中尉に乗機を譲る様に命ぜられますが拒否、検討の結果、水川中尉の操縦する機内に同乗する事になり、26日0354、悪天候の中、喜界島を発進、沖縄西方海上の敵艦隊に突入散華、任務を完遂します(両名の最期には異説あり)。

4月10日、第四十教育飛行隊は第四航空教育團 岐阜第一航空教育隊(岐阜)内に移駐、5月6日、第二百十六、17日、第三百六十七~三百七十、三百八十一~三百八十四、6月10日、第二百十九、第二百二十、三百九十三~三百九十六振武隊を編成(全て待命中に停戦)します。
16日、航空士官學校第五十八期の錬成を開始、訓練機として二式戦を装備します。
22日、B29爆撃機44機が来襲、航士第五十八期・丸山重喜少尉が散華してしまいます。

隊は岐阜第一航空教育隊とともに校舎を解体疎開、校舎を周辺山中に建設し近隣の寺院、國民學校を宿舎として間借りしつつ教練を続行、各地から訓練機、及び特攻機の収集空輸を実施、決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時、約330名が就学中、114名が特攻待機中でした。
16日、第二百二十一振武隊隊員・川西督郎少尉が琵琶湖に突入し散華、17日、就学中の航士第五十八期・東浩三少尉が東飛行場の東南丘上において割腹自決してしまいます。


主要参考文献
『各務原市民の戦時記録』 (平成11年3月 各務原市戦時記録編集委員会 各務原市教育委員会)

『陸軍航空の鎮魂 総集編』 (平成5年4月 航空碑奉賛会)
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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