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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

大阪陸軍兵器補給廠 祝園填藥所

京都府精華町に所在する陸上自衛隊・祝園(ほうその)分屯地は大阪陸軍兵器補給廠 祝園填藥所の跡地にあります。
祝園填藥所 煤谷川鉄橋(転載不可)(京都)
▲側線が跨ぐ煤谷(すすたに)川に懸かっていた鉄橋(平成19(2007)年9月破壊)

【探索日時】
平成22年1月2日





祝園填藥所の場所、概要
祝園填藥所は京都市相樂郡川西村北稲、南稲、山田荘東畑、普賢寺村打田(現、京都府精華町北稲八間、京田辺市打田)の丘陵地855,900坪に設定され、砲弾の組立て(火薬熔填・信管取付、調整)・解体(信管取外し)作業及び、それら弾丸、弾薬、信管の貯蔵、補給を行いました。
祝園填薬所(京都)
▲祝園填藥所配置圖

祝園填藥所 国土地理院 NI-53-14-4)230327(京都)
▲昭和23年3月27日の祝園填藥所跡(国土地理院 NI-53-14-4
 ※白抜き部分が祝園填藥所跡

祝園填藥所 祝園分屯地(祝園填薬所) 現在空撮(京都)
▲現在の祝園填藥所跡空撮(陸上自衛隊 祝園分屯地)


遺構について※青字は地図にリンクしています。
大阪陸軍兵器補給廠 祝園填藥所
昭和14(1939)年3月1日、大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫において爆発事故が発生、施設及び近隣住宅が大損害を受けてしまいます。

陸軍省は安全対策の見地から急遽代替用地を模索、弾体を製造していた陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所、火藥を製造していた陸軍火工廠宇治火藥製造所香里工場と鐵道省線で連接でき、かつ人家が少なく、入り組んだ浸食台地が天然の防爆土堤を形成し、万が一の事故の際も被害が最小限に抑えられる京都市相楽郡川西村の丘陵地を選定します。

11月2日、分廠(填薬所)用地を買収、昭和15(1940)年3月7日、側線・軍用道路用地を買収し、填薬所用地の測量を開始、昭和16(1941)年9月1日、大阪陸軍兵器補給廠祝園分廠が開所(千田静飛虎中佐)します。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争が開戦、砲弾薬の需要増代に伴い、逐次施設は増設されていきます。

昭和17(1942)年10月9日、勅令第六百七十七號『陸軍兵器補給廠令』施行に伴い10月15日、「祝園填藥所」(通称:祝園部隊)に改称します。

昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

停戦に伴い祝園填藥所は操業を停止、応徴士、報国隊・女子挺身隊に賃金、退職金を支給し勤務解除、11月10日、『臨時陸軍殘務整理部令』(勅令第六百三十一號)により陸軍兵器行政本部は復帰、第一復員省陸軍兵器行政本部殘務整理部が新編され、祝園填藥所は同部祝園出張所となり復員官の士官2名、警備員15名が残務処理に当たります。

10月、祝園填藥所は米軍により接収され、洞窟式火薬庫の爆破破壊、爆弾、爆薬類の廃棄が開始されます。

洞窟式火薬庫は数棟が爆破破壊されますが、昭和25(1950)年6月25日、朝鮮戦争が勃発したため中止され米軍の弾薬庫として再利用されます。
昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効、旧祝園填藥所が返還され、大蔵省(現、財務省)近畿財務局の管理下を経て、昭和35(1960)年12月、陸上自衛隊・祝園分屯地(関西補給処祝園弾薬支処)が発足、現在も我が関西の防衛を支える重要な施設として現在に至ります。


祝園填藥所は陸上自衛隊祝園分屯地に引き継がれていますが、見学は受付けておらず、また毎年12月初旬の創立記念行事も招待者のみの為、現在のところ見学の手段はありません。
過去に2度程見学を申し込みましたが、惜しいところで却下されてしまいました。
まだ諦めへんぞ~!!

Web上の航空写真や広報の方の話では当時の物と思しき建物がかなり遺っている様ですが、近年老朽化に伴い建て替えられているそうです。
因みに洞窟式火薬庫は現在も弾薬庫として使用されている様で、自衛官の方でもなかなか入れないそうです。
祝園填藥所 祝園 現在(京都)
▲赤線:祝園填藥所境界/ピンク線:側線
 オレンジ塗:残存建物/オレンジ線:残存半地下、洞窟式火薬庫(何れも推定)


軍用側線
省線三山木信号所(現、JR下狛駅の北側)から分岐して南下、煤谷川を渡り南西に向い、祝園填藥所構内に引き込まれ、長さは4,332mありました。
祝園填藥所の開所に伴い敷設され、朝鮮戦争時には米軍により弾薬運搬に運用されていましたが、返還に伴い撤去されました。

また側線に沿って陸軍省の境界石標も数本あった様ですが、現在は全て撤去されてしまった様です。
祝園填藥所 側線①(川西側線)分岐部(JR下狛 北側)(京都)
▲中央の農道が側線跡(JRとの分岐部付近から)

線路撤去後も煤谷川に架かる鉄橋が遺されていましたが、平成19(2007)年9月、残念ながら橋脚ごと撤去されてしまいました。
祝園填藥所 煤谷川鉄橋跡 北東から(京都)
▲煤谷川に遺る橋台(両岸のコンクリート部分)

祝園填藥所 説明板(京都)
▲鉄橋跡南側にある鉄橋の残骸(下)と説明板

以下は知人から提供して頂いた遺っていた鉄橋の写真です。

祝園填藥所 煤谷川鉄橋(転載不可)(京都)

祝園填藥所 煤谷川鉄橋(転載不可) (3)(京都)
▲枕木もそのまま遺っていた様です。

祝園填藥所 煤谷川鉄橋(転載不可) (2)(京都)
▲橋脚



祝園填藥所 側線② 鉄橋から 北から(京都)
▲側線は鉄橋を渡り南下
 中央の平坦部が側線跡(鉄橋南側)

祝園填藥所 側線③ 填薬所へ向かう 西から(京都)
▲数百メートルで西に向かいます。
 側線跡の道路

祝園填藥所 側線④ 填薬所へ向かう 西から(京都)
▲祝園填薬所跡にある祝園分屯地に到着
 この先は進入禁止です。


大阪陸軍兵器補給廠祝園填薬所 略歴
昭和14(1939)年3月1日、砲弾の組立・解体作業及び、それら弾丸、弾薬、信管の貯蔵、補給を管掌していた大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫において砲弾解体作業中に爆発事故が発生、施設及び近隣住宅が大損害を受けてしまいます。

陸軍は大阪府、大阪市と共同で罹災者の救護、支援を続けつつ、禁野倉庫の復旧、整備、及び業務を再開しますが、禁野倉庫が段丘上にあり、また陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所が隣接しており安全対策の用地が制約され、さらに近隣に集落が多く安全性にも問題があり、支那事変が長期化するなか急遽代替用地を模索します。

陸軍省は弾体を製造していた陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所、火藥を製造していた陸軍火工廠宇治火藥製造所香里工場と鐵道省線で連接でき、かつ人家が少なく、入り組んだ浸食台地が天然の防爆土堤を形成し、万が一の事故の際も被害が最小限に抑えられる京都市相楽郡川西村の丘陵地を選定します。

10月30日、第十六師團経理部は川西村、山田荘、普賢寺村の3村に対し、用地買収を打診、31日、3村では買収・保証金額について協議、同日、打田地区の地主、11月1日、東畑地区の地主、2日、南稲八妻地区、北稲八間地区の地主が買収承諾書に調印、100,200坪を買収します。
買収価格は田圃1反:500円、谷地の下田:150円、畑:150円、山林:100円、小作補償:20円でした。

11月8日、大阪陸軍陸軍兵器支廠々員・佐藤重雄主計大尉は、急遽の用地買収に応じてくれた各地主に対し謝意を伝えるとともに側線、軍用道路敷設の測量に関する通達を行い、27日、大阪陸軍陸軍兵器支廠々員・千田静飛虎砲兵少佐、同・佐藤重雄主計大尉等4名により実地調査が行われ、12月12日、填薬所用地の縄張り、側線・軍用道路の杭打ち作業を開始、昭和15(1940)年3月7日、側線・軍用道路用地を買収し、分廠(填薬所)用地の測量を開始します。

分廠の施設建設は㈱大林組によって施工され、昭和16(1941)年9月1日、大阪陸軍兵器補給廠祝園分廠が開所(千田静飛虎中佐)、通称「祝園部隊」と呼称され、大阪陸軍兵器補給廠枚方分廠(昭和15年4月1日、大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫から改称)の管掌した砲弾の組立て・解体作業、弾丸、弾薬、信管の貯蔵を移管されます。

開設時期については昭和16(1941)年4月、大阪陸軍兵器補給廠祝園分廠として開所、8月、大阪陸軍兵器補給廠祝園填藥所に改称されたとの資料もあり詳細は不明です。
業務開始日時との差では無いでしょうか?

祝園分廠は敷地北側に正門、その他西門、南門が設置され、建物は本部、事務所、診療所、消防所、庖厨所、官舎、工員宿舎、材料倉庫、半地下式倉庫、洞窟式火薬庫、汽罐所、填薬所(3ヶ所)、積卸場(200mプラットホーム)、自動貨車庫などが配置されました。
所員は部隊長(少・中佐)1名、兵技将校5~6名、同下士官7~8名、以下職長・班長、職工、応徴士、学校報国隊、女子挺身隊で構成され、最盛期で約3,000名が業務に従事していました。

祝園填藥所は元工員の方の回想によると、初代廠長・千田中佐の人柄もあり、危険な作業が続くなかでも家庭的な雰囲気があふれ、活気に満ちていた様です。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争が開戦、砲弾薬の需要増代に伴い、逐次施設は増設されていきます。

昭和17(1942)年10月9日、勅令第六百七十七號『陸軍兵器補給廠令』施行に伴い10月15日、「祝園填藥所」(通称:祝園部隊)に改称します。

昭和20(1945)年、戦局の悪化、相次ぐ工員の出征から工員不足、資材欠乏により空倉庫が続出、作業内容も陶器製地雷の製造に移管していきます。

8月15日1100、全工員集合の命令により集合、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


主要参考文献
『精華町の史跡と民族 -祝園部隊回顧- 岩里稔 』(昭和63年3月 精華町史編さん委員会)

『精華町史 本文篇』(平成8年3月 精華町)

『精華町史 史料篇Ⅱ』(平成4年3月 精華町)

国土地理院 NI-53-14-4

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非公開コメント

こんにちは

私の母がここで地雷を作ってたそうです。
冬は湯たんぽにして寝てたとか。
夏はシラミと闘ってたと、、、
セクハラも多々ありだったとか

Re: こんにちは

ひでsan 様

貴重な体験談、ありがとうございます!
地雷を湯たんぽとはなかあか剛毅ですね(^_^;)

駐屯地内には弾薬庫や建物など当時の遺構が遺っている様なのですが、過去に何度か交渉するもだめでした。
記念行事も内輪だけの様で今のところルートがありません・・・

米軍駐留時代にHozono Ammunition Depot 消防隊の通訳として勤務した思い出

米軍消防司令のもと構成された消防隊員は日本人、消防隊長は米軍伍長で京都市内の司令部から古参の軍曹が時々見回りにやってきた。
消防隊は24時間交代勤務の2シフト制で私はBクルーの内勤通訳。いま一人の通訳は外勤で非常の際は消防車で出動した。が、主たる任務は火薬庫の事故対応より兵舎や食堂、事務所などの消火消防が仕事だった。
ファイヤードリルと呼ぶ消火訓練を除けば至って気楽なもので、気さくなアメリカ兵たちと冷暖房完備の部屋で本場のアメリカン英語の洗礼を受けながらの勤務は当時大学生の私にはまるで語学留学(?)みたいであった。
それから60年、たまたまスマホの検索中に祝園弾薬庫の現在を読み懐旧の情に耐えず駄文を呈しました。

Re: 米軍駐留時代にHozono Ammunition Depot 消防隊の通訳として勤務した思い出

>大河内様

はじめまして。
この度は拙ブログをお読み頂き、ありがとうございます。

貴重な体験談、ありがとうございます!
当地の戦中の体験談は町史し収録されており、一端を垣間見る事ができるのですが、戦後の話は殆ど掲載が無かったので興味深く拝読させて頂きました。

現在も駐屯地内に当時の建物数棟、弾薬庫多数が遺されていると思われますが、一般非公開のため見ることが出来ないのが残念です。
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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