当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

川棚海軍工廠 百津工場

小串トマトの産地として知られる長崎県東彼杵郡川棚町百津(ももづ)郷に川棚海軍工廠 百津工場がありました。
川棚海軍工廠 A 第一配電所 南から (2)(長崎川棚百津)
▲クアーズテック長崎㈱内に遺る第一配電所

【探索日時】
平成24年11月28日、平成28年1月27日





川棚海軍工廠 百津工場 概要
昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、我が国の和平提案を無視した蒋介石政権により事変は長期化、さらに蒋政権を公然と支援する米国との関係が次第に悪化して行きます。
我が国は米国との交戦を避けるべく外交努力を続けつつ、軍令部は開戦に備え軍戦備の増強を海軍省に要求、海軍省は麾下鎭守府に生産増強を示達します。

昭和15(1940)年12月、佐世保海軍工廠(以下、佐廠)に航空魚雷の生産増強が下達されますが、既存の水雷工場では目標に応じる事が不可能な事から新工場の開設を決定、造兵部水雷工場主任・坂本義鑑技中佐は玄界灘に面した福岡県、佐賀県の海岸、さらに17日、川棚町の海水浴場を視察した結果、川棚魚雷遠距離發射場のある川棚村百津郷塩濱に新設工場用地を選定します。

昭和16(1941)年1月、佐世保海軍建築部は城山東側に調査事務所を開設、実地調査、測量を実施し、佐世保海軍経理部は工場、共済會病院、官舎、工員宿舎、寄宿舎等用地の買収を実施します。
12月21日、農閑期を待って百津郷の農家30戸に移転を要請、昭和17(1942)年1月15日(26日?)、起工式を挙行し建築部は海岸の埋め立て、及び工場、その他施設の建設を開始、10月15日、海軍省内令第千八百九十二號により佐世保海軍工廠 川棚分工場(多くの資料が“分工廠”としていますが、“分工場”の誤りです)が開庁、生産設備建設と並行し九一式魚雷の製造を開始します。
川棚魚雷遠距離發射場 九一式魚雷(長崎川棚片島)
▲川廠の主要生産品「九一式魚雷」(航空機用)

昭和18(1943)年5月1日、勅令第三百八十號『海軍工廠令』改正(4月13日)、海軍省内令第六百九十號廃止(4月30日)により佐廠川棚分工場は川棚海軍工廠(佐廠長・相馬六郎中将兼務、昭和18年11月1日から朝熊利英技少将)に改編(佐世保鎭守府管下)され、總務部、會計部、水雷部が設置され、九一式魚雷年産2,500本を目指します。
川棚海軍工廠 朝熊利英少将と学校報国隊(長崎川棚百津)
▲「魚雷設計の天才」と称された朝熊利英少将(最前列中央の第一種軍装の方)と学校報国隊の女学生

昭和19(1944)年4月1日、水雷部は第一水雷部(航空魚雷)、第二水雷部(艦艇用魚雷)に分離、春頃より佐世保海軍経理部は石木、猪乗(いのり)の谷地一帯を買収、佐世保海軍施設部(昭和18年8月1日、建築部から改称)は勤労奉仕隊、学校報国隊等の協力を得て疎開工場を着工、川棚海軍工廠(百津工場)は逐次疎開移転を開始、昭和20(1945)年6月、第五二一〇海軍設營隊が工廠防護施設、及び工廠内に川棚牧場(秘匿航空基地)の設営を開始します。
工廠は疎開作業と並行し魚雷生産を続行、米軍がビール工場と誤認していた事も幸いし、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、無傷で停戦を迎えました。

停戦時、主要生産設備の移転は完了し、魚雷の月産300本を示達されますが、熟練工員の相次ぐ出征、疎開移転作業により月産30本程に低下、さらに末期には魚雷に加え震洋の製造も行いました。

17日、工廠は操業を停止し学校報国隊、女子挺身隊の勤労を解除・解散、28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により、大蔵省に移管されますが、10月、9月22日に佐世保に上陸した米第5海兵師団の1個大隊により接収され、軍需品の処理ののち大蔵省に返還、熊本財務局川棚管理事務所の管理下に置かれます。
昭和21年(1946)1月20日、GHQ覚書『日本航空機工場、工廠及び研究所の管理、統制、保守に關する件』により川棚海軍工廠は賠償指定工場に指定されたため石木、猪乗両工場より百津工場に生産設備を再移転させ、10月、生産設備は海外に発送されます。

10月、川棚町の誘致により東海炉材㈱ 川棚工場(現、クアーズテック長崎㈱)が設立、賠償物件の発送終了後(時期不明)、工場建屋は随時解体され学校、住宅等に転用、また敷地の一部は『自作農特別措置法』(10月21日、法律第四十三号)により農務省に移管され、元地権者で結成された百津開拓団に払い下げられ開墾が開始されます。
昭和24(1949)年4月、漁網会社が工場の払い下げを受け製網を開始(東洋組網工業㈱と合併し日本製網㈱になり、昭和32年、福山に移転)、昭和30(1955)年6月、㈱五島鉱山 川棚工場、昭和53(1978)年6月、長崎日本ハム㈱(現、㈱日本ハムファクトリー長崎工場)が進出し、現在に至ります。


遺構について
川棚海軍工廠 百津工場
現在、全域が工業地、住宅地になっており、先述の様に分割され払い下げられたうえ、建屋も戦災復興資材として解体搬出されため遺構は余り遺されていません。
川棚海軍工廠 川棚(現在) 最新(長崎川棚百津)
▲遺構の配置

A 第二配電所
クアーズテック長崎㈱の事務所として使用されています。
白色に塗装がされていますが、煉瓦造です。
川棚海軍工廠 A 第一配電所 南から(長崎川棚百津)
▲川廠の遺構中、最大の建物です

川棚海軍工廠 A 第一配電所 東側窓(長崎川棚百津)
▲窓の仕様が当時の大きさなのが分かります

川棚海軍工廠 A 第一配電所 東側壁面のセメント煉瓦(長崎川棚百津)
▲一部壁が剥がれ鉱滓煉瓦が見えていました

※事前連絡の上、見学させて頂きました。


B 薬品庫
煉瓦造で車庫・物置として使用されています。
川棚海軍工廠 B 薬品庫 南東から(長崎川棚百津)
▲全景

川棚海軍工廠 B 薬品庫 南西から(長崎川棚百津)
▲扉も当時の物?

川棚海軍工廠 B 薬品庫 内部 南西から(長崎川棚百津)
▲内部

川棚海軍工廠 B 薬品庫 天井(長崎川棚百津)
▲洋小屋組みの天井
  当時のままだそうです

※所有者の許可を得て見学させて頂きました。


C 揮発油庫
煉瓦造で屋根が抜け、壁だけが遺ります。
川棚海軍工廠 C 揮発油庫 南西から(長崎川棚百津)
▲全景

川棚海軍工廠 C 揮発油庫 南側壁面(長崎川棚百津)
▲南側壁面近影

川棚海軍工廠 C 揮発油庫 西側入口(長崎川棚百津)
▲西側壁面(入口)
  建物が建て込んでおり見通しが効きません

川棚海軍工廠 C 揮発油庫 内部 南西から(長崎川棚百津)
▲内部は畑になっています

川棚海軍工廠 C 揮発油庫 内部 北側壁面(長崎川棚百津)
▲内部壁面にある梁受け

近年まで北側に煉瓦造の酸素庫が遺されていましたが、残念ながら破壊されてしまいました。


D 第一配電所
鉱滓(こうさい:鉱物の燃えカス)煉瓦造で倉庫として使用されています。
川棚海軍工廠 D 第二配電所 南西から(長崎川棚百津)
▲南西から

川棚海軍工廠 D 第二配電所 北西から(長崎川棚百津)
▲西から

川棚海軍工廠 D 第二配電所 壁のセメント煉瓦(長崎川棚百津)
▲鉱滓煉瓦の近影


F 退避壕
コンクリート造で民家敷地内に遺ります。
東側にあった会計部の退避壕と思われます。
入口は北側に2ヶ所、南側に1ヶ所ありますが、南側は煉瓦で塞がれています。
川棚海軍工廠 F 退避壕 南から(長崎川棚百津)
▲閉鎖されている南側の入口

川棚海軍工廠 F 退避壕 北西入口 北から(長崎川棚百津)
▲北西側の入口が入りやすいです

川棚海軍工廠 F 退避壕内部から北西入口(長崎川棚百津)
▲内部から北西側入口

川棚海軍工廠 F 退避壕内部 東から(長崎川棚百津)
▲内部は浸水しています

川棚海軍工廠 F 退避壕内部から東側(長崎川棚百津)
▲東側の孔は戦後に開けられた様です

川棚海軍工廠 F 退避壕北東入口 北から(長崎川棚百津)
▲北東側の入口

※所有者の許可を得て見学、進入させて頂きました。


ケ コンクリート基礎
空地に“コ”字型の基礎が遺ります。
東側にあった会計部庁舎関連の基礎と思われますが、詳細は不明です。
川棚海軍工廠 ケ 基礎 北西から(長崎川棚百津)
▲北側から

川棚海軍工廠 ケ 基礎 南西から(長崎川棚百津)
▲南側から


E 防空監視哨
川棚川近くに遺されていました。
残念ながら破壊され太陽光発電所になってしまいました。
川棚海軍工廠 E 防空監視哨(長崎川棚百津)
▲小さい入口と覘視孔3ヶ所が南側に向いて開口していました

川棚海軍工廠 E 防空監視哨 内部(長崎川棚百津)
▲内部は非常に狭く、駆逐艦前檣頭上の見張所の様です


当時、川棚川に沿って桟橋が3ヶ所あり、以下の接岸施設が遺されています。
ア コンクリート桟橋
川棚海軍工廠 ア 桟橋(長崎川棚百津)
▲コンクリート桟橋

川棚海軍工廠 ア 桟橋 (2)(長崎川棚百津)
▲角にある何かの取付跡


イ 桟橋跡
川の中にコンクリート基礎のみが遺されています。
川棚海軍工廠 イ 桟橋跡(長崎川棚百津)


ウ 桟橋跡
川の中にコンクリート基礎のみが遺されています。
川棚海軍工廠 ウ 桟橋跡(長崎川棚百津)


エ~ク ボラード
石製のボラード(繋船柱)が5本遺ります。
川棚海軍工廠 エ ボラード(長崎川棚百津)
▲エのボラード

川棚海軍工廠 オ ボラード(長崎川棚百津)
▲オのボラード


G コンクリート構造物
川棚川を挟んだ対岸にあり、地元では砲台跡と呼ばれています。
外径4.3m、内径2.9m、厚さ0.7m、高さ1mあります。
機銃座にも見えますが・・・???
川棚海軍工廠 G コンクリート構造物(砲台と言われている)(長崎川棚百津)
▲全景

川棚海軍工廠 G コンクリート構造物(砲台と言われている) (2)(長崎川棚百津)
▲内部


H 地下壕
小音琴郷の国道205号線沿いにあります。
コ型の大型壕で幅3.5×左側の奥行22、右側の奥行15、横坑35mあります。
現地説明板では食料壕とされていますが、どこの部隊が使用していたか不明です。
昭和20(1945)年6月、第五二一〇海軍設營隊が工廠内に設営した川棚海軍航空基地(川棚牧場)関連の地下壕と思われます。
川棚海軍工廠 H 南 壕口(長崎川棚百津)
▲南側壕口

川棚海軍工廠 H 南 奥方向(長崎川棚百津)
▲南側内部

川棚海軍工廠 H 北 壕口(長崎川棚百津)
▲北側壕口

川棚海軍工廠 H 北 奥方向(長崎川棚百津)
▲北側内部

川棚海軍工廠 H 南から北方向(長崎川棚百津)
▲横坑

「川棚牧場まきば」(川棚海軍航空基地)は決號作戰(本土決戦)に向け海軍航空本部が全国70箇所に設営した秘匿航空基地の一つで構内の東-南道路?を滑走路として拡張し設営された様ですが資料が無く詳細な場所は不明です。
戦後の空撮を見ると恐らくこの道路と思われます。


上記は川棚海軍工廠(百津工場)のみの遺構ですが、次回紹介の川廠石木工場を優先したため周辺に所在した⑩官舎(建物多数)、⑫百津工員住宅(〃)、⑪白石工員住宅(〃)、⑨第一工員宿舎(遺構なし)、⑭第二工員宿舎(遺構なし)、⑮第三・第四・第五・第十一工員宿舎(遺構なし)、⑯第十二・第十三・第十四工員宿舎(貯水槽)、⑤工員養成所(宿舎数棟)、⑥川棚海軍共済病院(閉鎖地下壕)、⑧百津配水池(貯水槽改修)、⑦馬場配水池(遺構なし)、⑰川棚憲兵分隊(遺構なし)は探索できませんでした。
また、機会があれば探索したいと思います。
※( )内はgoogle空撮、ストリートビューにより擬似探索、及び川棚史談会、川棚郷土資料館の資料から。
川棚海軍工廠 全体(現在)(長崎川棚百津)

最後に川棚町の探索にあたり川棚町役場 企画財政課 N様、及び当日お話を伺う予定でしたが体調不良によりお会いできなかった川棚史談会様には貴重な御時間を割いて頂き、貴重な資料の御提供を含め大変お世話になりました。
この場を借り篤く御礼申し上げます。本当にありがとうございました。



関連部隊
第五二一〇海軍設營隊
昭和20(1945)年6月5日、佐世保鎭守府の所管で佐世保海軍施設部において編成(大屋忠技大尉)、佐世保鎭守府部隊に部署され編制整備ののち川棚に進出し、川棚海軍工廠の防護、工廠の疎開跡に川棚牧場(秘匿海軍航空基地)の設営にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


主要参考文献
『佐世保市史 軍港編 下巻』 (平成15年4月 佐世保市史編さん委員会)

『わがまちのお宝 川棚町』 (川棚町企画財政課)

『川棚町郷土史』(平成14年3月 川棚町教育委員会)

アジ歴各種史料

川棚町郷土資料館展示資料
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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