当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

第三特攻戰隊司令部 ・ 川棚突撃隊本部 (旧臨時魚雷艇訓練所)

美しい自然を活かした観光開発で知られる長崎県川棚町白石郷に第三特攻戰隊司令部、及び川棚突撃隊本部がありました。

当地は先に臨時魚雷艇訓練所が開設され、次いで川棚海軍警備隊が併設、後に第三特攻戰隊司令部、川棚突撃隊本部に改編されます。
第三特攻戰隊・川棚突撃隊 イ 烹炊所壕 壕口(長崎川棚)
▲畑に遺る横穴式格納壕

【探索日時】
平成28年1月28日





臨時魚雷艇訓練所 概要
昭和18(1943)年1月、南方戦域における米軍魚雷艇の奇襲に苦慮した海軍は対抗策として魚雷艇の戦力化を策定、海軍水雷學校(横須賀、以下「水校」))に魚雷艇部を設置し魚雷艇乗員の訓練を開始します。
11月、海軍省は魚雷艇訓練所の拡張新設を決定、当初は霞ヶ浦湖畔を予定しますが、海面が広大かつ静かで、故障艇流出の不安が無く、佐世保・川棚両海軍工廠が近く修理に利便性があり、且つ佐世保軍港の在泊艦艇に対し襲撃訓練が可能な小串湾に面した旧塩田跡を新たに選定します。
12月1日、臨時魚雷艇訓練所設置委員(長:安倍大佐、委員:羽仁謙三主大尉)が川棚水交社に事務所を開設、佐世保海軍経理部は川棚郷・八木原郷長の協力を得て、八木原郷長からの広大な用地寄進も含め用地買収を実施、星野組により整地、及び兵舎建設が開始されます。
昭和19(1944)年3月、本部庁舎、學生舎が竣工、4月末、水校に入校した第一期魚雷艇學生300名のうち80名が魚雷艇・内火艇10隻とともに川棚に転属、5月1日、海軍水雷學校川棚分校として臨時魚雷艇訓練所(原為一大佐)が開所、横須賀鎭守府麾下に編入され乗員教育を開始します。
以降、魚雷艇に加え戦局の急迫に伴い制式採用された震洋の乗員講習、及び震洋隊の編成にあたります。
第三特攻戰隊・川棚突撃隊 震洋 (1)(長崎川棚)
▲編隊航走する震洋一型

昭和20(1945)年3月1日、急迫する戦局に臨時魚雷艇訓練所、川棚海軍警備隊本部は第三特攻戰隊司令部川棚突撃隊本部に改編され、引き続き震洋艇講習、震洋隊編成、及び麾下特攻基地設営に加え伏龍の錬成にあたり、決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

戦後の詳細な経緯は不明ですが、28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により、大蔵省に移管され、9月22日、佐世保に上陸した米第5海兵師団の1個大隊により、10月、隣接する川棚海軍工廠とともに接収、軍需品処理ののち大蔵省に返還、熊本財務局川棚管理事務所の管理下に置かれ、12月28日、佐世保地方復員局運行部補充課(昭和22年3月19日、佐世保管船部に移管)に貸与されますが、昭和21(1946)年12月29日、失火により本部庁舎が消失、復員業務終了に伴い川棚町、民間に払い下げられた様です。


遺構について
臨時魚雷艇訓練所・川棚海軍警備隊
第三特攻戰隊司令部・川棚突撃隊本部

現在、跡地は全域が住宅地になっており有名な起重機基礎の他、数箇所の遺構が遺されています。
また、特攻殉国の碑に隣接し資料館が建設されていますが、見学は新谷郷自治会に事前連絡が必要です(詳細は川棚町教育委員会0956-82-2064まで)。
なお、探索にあたり『第百二十一震洋隊会報 第3号』所収の配置図(出回ってる配置図とほぼ同様)を参考にしました。

ア 戦闘指揮所
竹林の中に遺り奥行30mで突き当たり、直角に曲がりますが直ぐに崩落しています。
『配置図』にある「士官防空壕(戦闘司令部)」と思われます。
山上にあった「防空指揮所」(機銃砲台)を探しに行き防空指揮所は空振りでしたが、後述の貯水槽とともに発見しました。
山上西側から行くとかなり荒れた竹林を通らなくてはならないので、南側の住宅地を抜け鉄塔保守道からが行きやすいと思います。
第三特攻戰隊・川棚突撃隊 ア 戦闘指揮所 壕口(長崎川棚)
▲壕口遠景

第三特攻戰隊・川棚突撃隊 ア 戦闘指揮所 壕口 (2)(長崎川棚)
▲壕口はやや崩れていますが開口しています

第三特攻戰隊・川棚突撃隊 ア 戦闘指揮所 奥方向(長崎川棚)
▲内部は余り状態が良くありません

第三特攻戰隊・川棚突撃隊 ア 戦闘指揮所 最深部(長崎川棚)
▲突き当り

第三特攻戰隊・川棚突撃隊 ア 戦闘指揮所 最深部から左(崩落)(長崎川棚)
▲曲がって直ぐに崩落しています


イ 烹炊所壕
比較的有名な遺構で、畑の奥に遺ります。
北側にあった烹炊所関連の壕と言われています。
全面コンクリート巻立が施工され、奥行10m程です。
第三特攻戰隊・川棚突撃隊 イ 烹炊所壕 壕口(長崎川棚)
▲壕口

第三特攻戰隊・川棚突撃隊 イ 烹炊所壕 内部(長崎川棚)
▲内部


ウ 烹炊所壕
20m程の素掘の直線壕で浸水しています。
第三特攻戰隊・川棚突撃隊 ウ 烹炊所壕 壕口(長崎川棚)
▲壕口

第三特攻戰隊・川棚突撃隊 ウ 烹炊所壕 内部(水没)(長崎川棚)
▲内部は長靴では通過できません


エ 地下壕
同じく素掘の地下壕ですが、15m程で崩落しています。
『配置図』にはこの辺りから上記の戦闘指揮所まで地下壕が記載されているので、この壕が本来は貫通していたのかも知れません。
第三特攻戰隊・川棚突撃隊 エ 烹炊所壕 壕口(長崎川棚)
▲壕口

第三特攻戰隊・川棚突撃隊 エ 烹炊所壕 奥方向(長崎川棚)
▲内部

第三特攻戰隊・川棚突撃隊 エ 烹炊所壕 奥方向崩落(長崎川棚)
▲崩落しています


オ 地下壕跡
崩落しています。
第三特攻戰隊・川棚突撃隊 オ 烹炊所壕 崩落(長崎川棚)
▲完全に埋まっています


カ 方形掘り込み
山上にあった防空指揮所に向かう途中で発見しましたが用途不明です。
第三特攻戰隊・川棚突撃隊 カ 方形掘り込み 北から(長崎川棚)
▲軍関係の遺構か不明です


キ 貯水槽
山上から荒れた竹林を抜けた尾根線上にあります。
東側は倒壊しています。
躯体を煉瓦で造り、コンクリート仕上げがされています。
第三特攻戰隊・川棚突撃隊 キ 貯水槽 南西から(長崎川棚)
▲荒れた竹林にあり全く見通せません

第三特攻戰隊・川棚突撃隊 キ 貯水槽 内部 (2)(長崎川棚)
▲上から内部

第三特攻戰隊・川棚突撃隊 キ 貯水槽 内部(長崎川棚)
▲内部

第三特攻戰隊・川棚突撃隊 キ 貯水槽 東側崩壊部分(長崎川棚)
▲倒壊した東側の壁


ク 起重機基礎
最も有名な遺構で、小串湾内に遺ります。
川棚史談会の測量によりと410×360cm、頂部にボルト12本が円形に配置されている様です。
第三特攻戰隊・川棚突撃隊 ク 起重機基礎 北から (2)(長崎川棚)
▲震洋や魚雷艇が疾駆していた小串湾と起重機基礎

第三特攻戰隊・川棚突撃隊 ク 起重機基礎 北から(長崎川棚)
▲基礎拡大

呉の魚雷積卸起重機と同じ様な物があった様です。
呉海軍工廠 67 魚雷積込起重機(広島呉棚)
▲呉海軍工廠の魚雷積卸起重機


ケ 特攻殉国の碑
昭和42(1967)年5月27日、海軍記念日に元隊員、有志により建立されました。
第三特攻戰隊・川棚突撃隊 ケ 特攻殉国の碑(長崎川棚)

第三特攻戰隊・川棚突撃隊 ケ 川棚魚雷艇訓練所跡(長崎川棚)
▲近くにある「川棚魚雷艇訓練所跡」の石碑

第三特攻戰隊・川棚突撃隊 ケ 案内板(長崎川棚)
▲配置図案内板


コ 通信所壕
山の中に遺ります。
奥行は60mあり、30m地点で軽く右側に曲がります。
『配置図』にある“地下壕らしい記載”(殉国の碑の配置図では「海軍通信隊地下司令部」)を頼りに、ダメ元で探しに行って見付けました。
配置図の“左側に折れる”形状とは異る事から別の用途の物かも知れません。
第三特攻戰隊・川棚突撃隊 コ 通信所?壕 壕口(長崎川棚)
▲かなり巨大な壕口が遺ります

第三特攻戰隊・川棚突撃隊 コ 通信所?壕 奥方向(長崎川棚)
▲壕口付近から内部

第三特攻戰隊・川棚突撃隊 コ 通信所?壕 奥方向 (2)(長崎川棚)
▲最深部


サ 川棚第二水交社
畑の外周に煉瓦塀が遺りますが、ネットを見ると以前は倍ほどの高さがあった様です。
建物はありませんが当時は1階に水交社、2階に突撃隊司令・原為一大佐の宿舎があった様です。
第三特攻戰隊・川棚突撃隊 サ 第二水交社(司令宿舎)跡全景 中央の丘上に何かコンクリート製の物がある?(長崎川棚)
▲敷地全景

第三特攻戰隊・川棚突撃隊 サ 第二水交社(司令宿舎)塀 南西から(長崎川棚)
▲正面側

第三特攻戰隊・川棚突撃隊 サ 第二水交社(司令宿舎)塀 南西から (2)(長崎川棚)
▲煉瓦塀近影

上記以外にも兵員退避壕第一機銃砲台(兵舎基礎?)が遺っている様ですが前者は何時もの忘れ、後者は悪天候による士気低下により行けませんでした。


所在部隊
臨時魚雷艇訓練所
川棚突撃隊
(川棚嵐部隊)
昭和18(1943)年1月、南方戦域における米軍魚雷艇の奇襲に苦慮した海軍は対抗策として魚雷艇の戦力化を策定、海軍水雷學校(横須賀、以下「水校」))に魚雷艇部を設置し魚雷艇乗員の訓練を開始、6月17日、『魚雷艇訓練規則』が制定され訓練が体系化されますが、発動機の性能不足により戦力化は厳しい状況でした。
昭和19(1944)年2月8日、2月8日、第一期魚雷艇學生300名(第三期兵科豫備學生150、横須賀第二海兵團卒業者150)が水校に入校、3月、本部庁舎、學生舎が竣工、4月末、そのうち80名が魚雷艇・内火艇10隻とともに川棚に転属して来ます。

5月1日、海軍水雷學校川棚分校として臨時魚雷艇訓練所(原為一大佐)が開所、横須賀鎭守府麾下に編入され、乗員教育を開始します。
27日、仮称④(正確には漢数字)金物(舷外機付衝撃艇)の試作艇が完成し試運転の結果、艇首を改造し量産が決定(8月28日、内令兵第七一號により④は「震洋」として制式採用)します。
第三特攻戰隊・川棚突撃隊 震洋 (3)(長崎川棚)
▲1人様の震洋一型(右)、2人様の震洋五型(左)

31日、學生は少尉に任官し水校特修學生に改称、5月下旬、學生より甲標的艇長要員が募集、50名が選抜されP基地(倉橋島)に転属して行きます。

7月5日、内令員第一六二四號により第一期魚雷艇學生(水校特修學生)の志願者から④艇の要員50名が選抜され、15日、水校に配備された50隻の訓練艇により1ヶ月の第一次④艇講習を開始します(8月15日、終業)。

7月10日、魚雷艇教程終業に伴い特修學生は再び水校に転属し、教官または④艇乗員に志願、19日、第二期魚雷艇學生385名が川棚に入校(12月29日、終業)してきます。

8月1日、川棚海軍警備隊(原為一大佐)が編成され、臨時魚雷艇訓練所職員、學生、講習員は兼務となり、佐世保鎭守府非常警備隊川棚方面部隊に部署され、作戦に関しては佐世保鎭守府司令長官の指揮を受けます。

2日、水校は第二次④艇講習員の講習を開始(9月2日、終業)、15日、海軍工機學校第二期豫備學生出身の豫備少尉45名が魚雷艇機關學生として入校、教育を開始します(8月15日、終業)。

④艇講習員は水校にて一括講習を行っていましたが、講習員の増加に伴い東京湾は狭隘かつ船舶量が多く編隊訓練に支障をきたしたため、16日、訓練艇30隻が川棚に配備(9月中旬、80隻配備)され、第三次④艇講習員の一部517名は川棚に移駐し講習を開始します(川棚:9月15日、水校:10月12日、終業)。

8月下旬、第二期魚雷艇學生より甲標的・特殊兵器(回天)要員100名が選抜されます。

9月1日、水校において第一震洋隊(大蝶浩志大尉)が編成され、父島特別根拠地隊麾下に編入、13日、父島に進出します(以降、第九震洋隊まで水校で編成、第十震洋隊から第三十震洋隊までは水校、川棚、第三十一震洋隊以降は川棚で編成)。

13日、第八回魚雷艇講習員759名(11月7日、修了)、16日、第四次震洋講習員628名(水校:10月15日、川棚:22日、終業)、10月15日、第五次震洋講習員530名(後、全790名)が入校し、講習を開始(12月25日、修了)、27日、第一次回天搭乗員680名の仮教育を開始します(11月25日、終業し、第一特別基地隊に転出)。
第五次以降、震洋艇取扱講習は全員が川棚で講習を受講します。

9月19日、新臨時魚雷艇訓練所所長兼川棚警備隊司令に松原博少将が着任し将旗を掲揚、原大佐は訓練部長、内務部長、研究部長、警備隊副長を兼務します。

25日、臨時魚雷艇訓練所において第十震洋隊(石川誠三大尉)、第十一震洋隊(中島良次郎中尉)が編成、11月1日、比島コレヒドール島に進出、第三南遣艦隊(三川軍一中将)麾下に編入されます。

13日、第九回魚雷艇講習員640名(昭和20年1月25日、修了)、25日、第六次震洋講習員652名(〃、修了)、12月25日、第二次回天搭乗員80名(〃、修了)、26日、第七次震洋講習員653名(2月24日、修了)の講習を開始します。

昭和20(1945)年1月13日、第十回魚雷艇講習員616名(3月7日、修了)、25日、第八次震洋講習員640名(3月22日、3個部隊は繰上げ終業、25日、修了)、2月27日、第九次震洋講習員520名(4月25日、修了)の講習を開始します。

3月1日、臨時魚雷艇訓練所、川棚海軍警備隊本部は第三特攻戰隊司令部川棚突撃隊本部に改編(松原博少将兼任)され、第三特攻戰隊司令部は佐世保鎭守府麾下に、川棚突撃隊は第三特攻戰隊司令部麾下に夫々配属され、川棚突撃隊は佐世保鎭守府部隊第三特攻戰隊に部署され、引き続き震洋艇講習、震洋隊編成にあたります。
3月1日、鹿児島市江の浦において準備中(既に夜間高速機動訓練が行われていたとも)の臨時魚雷艇訓練所派遣隊は第三十二突撃隊(和智恒藏大佐)に改編されます。

15日、第十次震洋講習員10名(5月15日、終業)、25日、第十一次震洋講習員2,212名(5月25日、終業)、4月25日、第十三次震洋講習員(6月25日、終業)、5月25日、第十五次震洋講習員600名(7月25日、終業)の講習を開始します。

5月10日、松原少将は戰隊司令と突撃隊長の兼職を解かれ、突撃隊長は原為一大佐が矢矧艦長から転任してきます。

26日、簡易潜水衣による水中特攻兵器「伏龍」が制式採用され、7月18日、軍令部は佐世保鎭守府に『伏龍隊急速整備展開要領』(機密第五二五号)により、8月10日から9月9日に1個大隊、9月1日から30日に1個大隊の整備・展開を示達、川棚突撃隊において錬成が開始されます。
第三特攻戰隊・川棚突撃隊 伏龍(長崎川棚)
▲急迫する戦局、戦火の中編み出された究極の兵器「伏龍」
  敵上陸地点海面下に潜伏し頭上を通過する敵上陸舟艇を五式撃雷で突き自身もろとも撃砕する特攻兵器でした

7月31日時点で川棚には震洋285隻、魚雷艇30隻が配備されていました。

8月15日、隊は決號作戰(本土決戦)に備え特攻基地整備、震洋隊の編成、伏龍の錬成にあたるなか、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

臨時魚雷艇訓練所、川棚突撃隊で編成された震洋隊
第十、第十一、第十三、第十四、第十五、第十七~第二十七、第三十二~第百四十六震洋隊(六十九~百欠番)

※魚雷艇學生、魚雷艇講習員、震洋講習員数は期間中の変動が激しく、入校時と終業時の員数が大幅に異なります。


第三特攻戰隊司令部(第三楠部隊)
昭和20(1945)年1月9日、米軍がルソン島に上陸を開始、20日、大本營は『帝國陸海軍作戰計畫大綱』を策定、主戦場が本土周辺に至るに及び全軍特攻化を決定します。
大本營海軍部は水上戦力が払底していたため、来るべき決號作戰(本土決戦)に向け航空特攻部隊とともに、次々に考案、制式採用される特殊兵器を用いた水上・水中特攻部隊の整備に着手、従前のその都度部隊の部署による特攻部隊の編成では無く、建制としての特攻隊、即ち34個突撃隊、及びそれを統率する9個特攻戰隊を逐次編成します。

3月1日、臨時魚雷艇訓練所、川棚海軍警備隊本部は第三特攻戰隊司令部川棚突撃隊本部に改編(松原博少将兼任)され、第三特攻戰隊司令部は佐世保鎭守府麾下に編入され、第三特攻戰隊司令部麾下に川棚突撃隊(震洋)、第三十二突撃隊(和智恒藏大佐、鹿児島)が配属されます。

4月1日、第三十三突撃隊(大石研一大佐、油津)、第三十四突撃隊(古賀彌周次大佐、唐津)が新編され、麾下に配属されます。
5月10日、第三十二突撃隊、第三十三突撃隊は新編された第五特攻戰隊に転属します。
7月1日、第三十一突撃隊(川棚突兼務原為一大佐、矢岳)が新編され、麾下に配属され、決號作戰(本土決戦)に備え、特攻基地設営にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

突撃隊は敵上陸の可能性が最も高い九州方面を中心に太平洋沿岸部に管下の特攻基地を集中配置し、「蛟龍」、「海龍」、「回天」、「震洋」、「魚雷艇」、「伏龍」を主な装備とし、敵水上部隊の接近とともに「蛟龍」、「海龍」、「魚雷艇」は反復、「回天」、「震洋」、「伏龍」は体当りを実施、敵部隊が着上陸するまでの沿岸において敵兵力の斬減を主任務としました。
攻撃成功率は蛟龍が2/3、海龍・回天が1/3、震洋が1/10、特攻基地の10%が敵の事前攻撃により戦闘前に無力化されると算定されていました

停戦時、川棚突撃隊管下にあった突撃隊と特攻基地
○川棚突撃隊(原為一大佐、川棚)・・・川棚(震洋)
○第三十四突撃隊(古賀彌周次大佐、唐津)・・・唐津(蛟龍・回天・震洋)・壱岐印通寺(蛟龍・魚雷艇)・残島(蛟龍・震洋・魚雷艇)・外津(回天)・名護屋(蛟龍)・仮屋(蛟龍・海龍)
○第三十一突撃隊(飛田健二郎大佐、矢岳)・・・矢岳(蛟龍:第十蛟龍隊)・松島(震洋:第百九震洋隊)・鯛ノ浦(震洋:第六十二震洋隊)・樺島(蛟龍)・京泊(震洋:第六十五震洋隊)・太田尾(震洋)・富岡(震洋:第百四十四震洋隊)・大濱・牛深(震洋:第百四十三震洋隊)・牛深茂串(震洋:第百十震洋隊)・牧島(震洋:第四十二震洋隊)・奥浦浦頭(海龍)・奥浦戸岐(魚雷艇)

※各突撃隊管下の特攻基地は資料により諸説あり、参考までに下記に記しておきます
○川棚突撃隊(川棚)・・・川棚・牧島・京泊・富岡・茂串・牛深(予定)(全て震洋)
○第三十四突撃隊(唐津)・・・鯛ノ浦(震洋)・松島(震洋)・唐津(蛟龍・回天・震洋)・印通寺(予定)(蛟龍)・能古島(予)(蛟龍)
○第三十一突撃隊(矢岳)・・・矢岳(蛟龍)
『特殊潜航艇』(平成10年 特潜会)より

○川棚突撃隊(川棚)・・・川棚(震洋)
○第三十四突撃隊(唐津)・・・唐津(回天・震洋)・印通寺(震洋)・能古島(震洋)
○第三十一突撃隊(佐世保)・・・佐世保(蛟龍・震洋)・矢岳(蛟龍)・鯛ノ浦(以下、震洋)・松島(震洋)・牧島・京泊・富岡・茂串・牛深
『日本海軍潜水艦部隊の記録 鉄の棺(資料編4)』(平成17年5月 渡辺博史)より

○川棚突撃隊(川棚)・・・・鯛ノ浦・京泊・富岡・茂串・牛深(全て震洋)
『陸海軍水上特攻部隊全史 マルレと震洋、開発と戦いの記録』(平成25年 奥本剛)より


主要参考文献
『写真集 人間兵器 震洋特別攻撃隊 上巻』 (平成2年5月 震洋会 国書刊行会)

『日本海軍潜水艦部隊の記録 鉄の棺 資料編4』 (平成17年5月 渡辺博史 ニュータイプ)

『日本特攻艇戦史』 (平成10年8月 木俣滋郎 光人社)

アジ歴各種史料

川棚町郷土資料館展示資料
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私がこれまでに行っていた新谷の魚雷艇訓練所(のち、特攻艇震洋訓練)にまつわる遺構の確認は、烹炊所壕と海上の起重機基礎と水交社跡地ぐらいでした。山中にもまだまだ探せばあったんですね。もっと資料を元に自分の足で探さなければと痛感しました。「伏龍」については光人社NF文庫「海軍伏龍特攻隊」(門奈鷹一郎著)を読みました。この中に攻撃に使われようとされていた五式撃雷の図面(寸法入り)が載っていたので、模造紙に原寸大で書いてみたりしました。

Re: タイトルなし

古川様
度々のコメント、ありがとうございます。
励みになります。

この趣味はいかに事前に多くの情報を収集できるかで結果が大きく変わってきます。
ただ、資料が全てでは無いので現地での情報収集も必要な地道な作業の積み重ねになってきます。
あとは空振り覚悟で行動あるのみです!
偉そうな事を言いましたが、私はそれでも度々見落とし(今回もですが・・・)があり、何度も行く羽目になってしまいます(汗)

お名前からして女性とお見受け(間違っていたら申し訳ありません)しますが、色々な危険を伴うので山中の単独行動は余りお勧めできません。新谷はそうでも無いですが、行かれる際は気を付けて下さい。

五式撃雷の実寸大作図はどの様な兵器だったかを理解する試みとして素晴らしいと思います。

ブログに掲載した模型は数十年前に入手した食玩ですがかなり躍動感ある造りになっており、実際の写真を見ると靖國神社の遊就館にある模型の方が実物に近いですね。
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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