FC2ブログ

当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

大阪陸軍造兵廠 播磨製造所

アナゴの豊漁場で知られる兵庫県高砂市に大阪陸軍造兵廠 播磨製造所がありました。
大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 A・B・C 北西から(兵庫高砂)
▲㈱神戸製鋼所 高砂製作所に遺る播磨製造所の建屋

【探索日時】
平成25年3月5日、平成28年11月23日、平成31年4月12日

【改定情報】
平成31年4月17日・・・遺構追加





大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 概略
昭和12(1937)年7月7日、支那事変が発生、陸軍における火砲の需要が増大した事により、火砲生産を管掌していた陸軍造兵廠 大阪工廠の分工場として兵庫県加古郡荒井村(現、高砂市)に昭和14(1939)年12月、陸軍造兵廠 大阪工廠 播磨製造所(機能分散:火砲の一貫生産)を開設します。
昭和15(1940)年4月1日、大阪陸軍造兵廠 播磨製造所に改称し、火砲、高射砲、戦車砲各砲身、櫻彈(モンロー効果を利用した特攻機用の特殊爆弾)等の製造・試作にあたります。
陸軍省は将来的には沖合3kmを埋立て工場を拡張、大中口径砲の製鋼から仕上げまで一貫生産し、播磨陸軍造兵廠として独立させる計画で生産設備の建設を急ぐなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、空襲を受ける事無く無傷で停戦を迎えました。

11月30日、播磨製造所は米軍により接収され、弾薬の処理の後、生産設備は賠償指定を受け大蔵省の管理下に置かれ、鉄道車両修理工場、製鉄所に分割され、現在に至ります。

※大阪陸軍造兵廠 播磨製造所の詳細は後述


遺構について
播磨製造所の遺構は西側の払下げを受けた㈱神戸製鋼所高砂製作所内に殆どそのまま遺りますが、残念ながら株主以外の見学を受け付けておらず、また構内は撮影不可のため外周からしか見学できず、撮影箇所も限られます。
大阪陸軍造兵廠 播磨製造所(兵庫高砂)
▲遺構の配置
① 大阪陸軍造兵廠 播磨製造所
② 官舎・工員宿舎・寮
③ 臨海寮
④ 浄水場
紫線 側線

大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 A・B・C 北西から(兵庫高砂)番号
▲対岸から見たA鍛造(汽鎚)・B同(水圧)・C製鋼各工場

A 鍛造工場 (汽鎚)
高さ17.3m、9,150㎡あり、内部に10t汽鎚の他十数基の汽鎚がありました。
大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 A 鍛造工場(汽鎚) 南東から(兵庫高砂)
▲唯一近くで見る事ができる建屋です


B 鍛造工場 (水圧)
高さ28.3m、19,136㎡あり、内部に当時国内に4基しか無かった5,000tプレス2基、3,000tプレス1基、1,500tプレス1基がありました。
大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 A 鍛造工場(汽鎚)(左)・ B同(水圧)(右)(兵庫高砂)
▲分かり辛いですが右側の大きい建屋がB、手前の薄緑の壁がA


C 製鋼工場
高さ22m、8,604㎡あり、内部に10t、15tの酸性、塩基性電気炉、25t平炉がありました。
大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 A・B・C 北西から (2)(兵庫高砂)
▲小屋根の付いた大きい建屋がC


D 製品引渡場
大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 D 北西から(兵庫高砂)


E 変電所
現在、MHIプラント㈱になっています。
大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 E 変電所 南西から(兵庫高砂)
▲正面側
  左側は特徴的な形状をしています

大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 E 変電所 南東から(兵庫高砂)
▲反対側から

大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 E 変電所 北西から(兵庫高砂)
▲裏側


ウ 三屯起重機 基礎
㈱神戸製鋼所 高砂製作所の北側岸壁に遺ります。
近くで見れないため「と思われる」程度です。
大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 ウ 3tクレーン基礎(兵庫高砂)
▲よく見ると上面にボルトが突き出しています


エ 三屯起重機 基礎
大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 カ 船着き場・エ 3tクレーン基礎(兵庫高砂)


カ 船着場
エ三屯起重機のある位置が一段下がっています。
大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 カ 船着き場・エ 3tクレーン基礎 (2)(兵庫高砂)


繋船柱
船着場の付近にあります。
大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 繋船柱(兵庫高砂)


オ 三屯起重機 基礎
大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 オ 3tクレーン基礎(兵庫高砂)

西側の岸壁には五屯起重機2、二十屯起重機1、六十屯起重機1がありましたが、いずれも何も遺されていない様です。


キ 護岸
現在、㈱神戸製鋼所 高砂製作南側は大幅に埋め立てられ当時の海岸線は遺されていませんが、南西端付近に僅かに播磨製造所時代の物と思しき石組の護岸が遺ります。
大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 キ 南西角の護岸(兵庫高砂)
▲右端が回り込んでおり、ここが製造所南西端と思われます


a 倉庫
川西倉庫㈱内に鉄筋コンクリート製倉庫が3棟遺されています。
大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 a 倉庫 南西から(兵庫高砂)
▲右側がa倉庫

b 倉庫
大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 a(左)・b(奥) 西から(兵庫高砂)
▲分かり辛いですが丸い屋根の奥の建屋がb

大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 b 倉庫 南東から(兵庫高砂)
▲西側から
  建物が建て込んでおり見通せません

d 倉庫
大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 d 倉庫 北東から(兵庫高砂)
▲外周道路から見えます

大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 d 倉庫 南東から(兵庫高砂)
▲反対側


ア マンホール蓋(南側)
荒井駅の南北に大阪陸軍造兵廠の大砲を交差させた廠章入りのマンホールが2枚遺されています。
大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 ア マンホール(兵庫高砂)
▲周りの石組も当時のままと思われます

大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 ア マンホール (2)(兵庫高砂)
▲大砲を交差させた大造の廠章

大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 ア南側マンホール近くの蓋(兵庫高砂)
▲近くにある蓋
  廠章等はありませんが周囲の石組から当時の物?

ア マンホール蓋(北側)
横断歩道にあり、南側の物と同型です。
大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 ア北側 マンホール(兵庫高砂)

なお、大阪陸軍造兵廠 播磨製造所の本部事務所はこのマンホールの西側にありました。


イ 側線跨道橋
構内に高砂線(廃線)から側線が引き込まれていました。
側線跡は殆ど痕跡もありませんが、コンクリート製の跨道橋が遺されています。
大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 イ 側線高架 南から(兵庫高砂)



大阪陸軍造兵廠 播磨製造所 略史
昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、陸軍における火砲の需要が増大した事により、昭和13(1938)年、陸軍造兵廠(小須田勝造中将)は火砲生産を管掌していた陸軍造兵廠 大阪工廠の分工場新設(機能分散:火砲の一貫生産)を決定します。

8月2日、陸軍造兵廠銃砲課は陸相・板垣征四郎大将に対し分工場用地として、乾田が広がり高額な移転費用が必要な民家が無く、大阪工廠と連絡が良く、また舟運が利用でき、作業用水の懸念が無く、将来の拡張の余地が充分に確保でき、従業員の交通の便が良い兵庫県加古郡荒井村(現、高砂市)を候補に推薦、金額面で厳しい場合は山口県都邊郡末武南村を候補に挙げます。

10月15日、陸軍省は荒井村の用地買収を認可、昭和14(1939)年3月17日、町有地を国有地に移管するとともに、留守第十師團経理部は地権者、小作人と2日に渡り用地買収契約を締結、5月30日、新設製造所用地480,000坪の登記を済ませます。
買収価格は宅地5円、田畑3円、小作人離作料50銭(坪あたり)でした。

6月20日、地鎮祭が挙行され委託業者により地上・埋立作業を開始、12月、陸軍造兵廠 大阪工廠 播磨製造所が開所、竣工した一部の工場から順次操業を開始します。

昭和15(1940)年4月1日、大阪陸軍造兵廠 播磨製造所に改称し、火砲、高射砲、戦車砲各砲身、櫻彈(モンロー効果を利用した特攻機用の特殊爆弾)等の製造・試作にあたります。

当製造所は当時国内に他に2台(呉海軍工廠、日本製鉄輪西製鐵所)しかなかった5,000tプレス機2台を有しており、陸軍省は将来的には沖合3kmを埋立て工場を拡張、大中口径砲の製鋼から仕上げまで一貫生産し、播磨陸軍造兵廠として独立させる計画で生産設備の建設(停戦時、製鋼・鍛造・旋造・調質・圧延工場まで完成)を急ぐなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、空襲を受ける事無く無傷で停戦を迎えました。
停戦時の職員・工員は佐藤正大佐以下4,694名でした。

停戦に伴い播磨製造所は操業、建設を停止、応徴士、女子挺身隊、学校報國隊に賃金、退職金を支給し勤務解除します。

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により播磨製造所の全設備・敷地は内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれます。
11月10日、『臨時陸軍殘務整理部令』(勅令第六百三十一號)により大阪陸軍造兵廠 播磨製造所は復帰、第一復員省大阪陸軍造兵廠殘務整理部が新編され、播磨製造所は同部播磨出張所に改編、復員官・佐藤正大佐以下が残務処理に当たります。

昭和20(1945)年9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、同日、隷下の第33歩兵師団が三宮駅に到着し神戸市内の神港ビルに司令部を設置、10月1日から兵庫県各地に進駐を開始、11月30日、播磨製造所は第123砲兵大隊J.C.ジャミソン中尉以下により接収され、弾薬の処分が開始されます。

昭和21(1946)年1月20日、GHQにより播磨製造所の生産設備は賠償指定を受け、大蔵省大阪財務局の管理下に置かれます。
同日、鷹取工機部が空襲により大損害を受けた国有鉄道 大阪鉄道局が大阪陸軍造兵廠殘務整理部、運輸省、大阪財務局、米第1軍団司令部、兵庫軍政部と交渉を重ね、播磨製造所を大阪鉄道局鷹取工機部高砂分工場として転用します。
昭和22(1947)年2月10日、旧播磨製造所の敷地、建屋、賠償指定以外の設備が内務省を通じ大蔵省に返還され、運輸省(国鉄)に移管され、3月1日、高砂分工場は高砂工機部として独立します。

昭和24(1949)年、高砂工機部は敷地が広大過ぎて作業効率が悪い事から、設備の集約工事を開始します。

昭和26(1951)年2月、高砂工機部の西側遊休地に残る旧播磨製造所の生産設備に着目した鉄鋼7社が一時使用許可を申請、昭和27(1952)年2月、通産省賠償施設転用諮問委員会は㈱神戸製鋼所を最適とします。

昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効により賠償指定が全面解除されたのに伴い、昭和28(1953)年9月、西側200,000坪が㈱神戸製鋼所払下げられ、11月20日、㈱神戸製鋼所 高砂工場(現、高砂製作所)が開所します。

昭和37(1962)年10月、高砂工機部の集約工事に伴う東側遊休地120,000坪は兵庫県開発公社に払下げられ、三菱重工業㈱神戸造船所(現、三菱重工業㈱高砂製作所)が誘致されます。
昭和60(1985)年3月31日、日本国有鉄道 関西支社 高砂工場(旧高砂工機部)は鷹取工場(旧鷹取工機部)に移転し廃止され、平成9(1997)年12月8日、鷹取工場跡地にサントリーの進出が決定、平成11(1999)年6月、新社屋が建設され現在に至ります。


主要参考文献
『高砂市史 第3巻(通史編 近現代)』 (平成26年3月 高砂市史編さん専門委員会)

『神鋼五十年史』 (昭和29年 神鋼50年史編さん委員会)

『二十年史』 (昭和40年 日本国有鉄道高砂工場二十年史編さん委員会)
関連記事



最後までお読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
↓↓↓
宜しかったらクリックお願いします


人気ブログランキングへ

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ
検索フォーム
正定事件の真実
戦史検定を受けよう!
当ブログは
「戦史検定」を応援します
戦史検定
カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ
御英霊の鎮まる処
殉国の御英霊に
感謝の誠を捧げましょう
靖國神社
兵庫縣神戸護國神社
大阪護国神社
プロフィール

盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

拙ブログを参照した際はリンクを張って頂けたら嬉しいです
(^o^)
--------------
※掲載写真・資料の
無断転載は禁止します。

リンク
最新コメント
埼玉西武ライオンズ
埼玉西武ライオンズ
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる