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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

峯山海軍航空基地 (峯山海軍航空隊)

高級絹織物「丹後ちりめん」の産地で知られる京都府京丹後市峰山町に峯山海軍航空基地があり、峯山海軍航空隊が所在しました。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) C 格納庫 西から(京都京丹後)
▲織物会社の倉庫に転用されている格納庫

【探索日時】
平成25年4月5日、11月19日





峯山海軍航空基地 概要
昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、我が国の和平努力にもかかわらず支那国民党政府(蒋介石)による度重なる違法、挑発行為により事変が拡大・長期化するなか、昭和13(1938)年7月12日、ソ連軍が滿ソ国境を越境し侵攻、張鼓峰事件が発生します。
海軍航空本部はソ連軍の策動に備え、舞鶴軍港防空のため若狭湾から山陰海岸付近に陸上航空基地の設営を決定、京都府竹野郡の彌榮盆地を選定しますが、周辺の地形、風向が悪かった事から、隣接する峰山盆地の中郡新山村、同河邉村(現、京丹後市)の農地一帯を新たに選定し基本計画を立案、海軍省建築局により詳細計画が作成され、舞鶴鎭守府に下達します。

昭和13(1938)年秋頃、舞鶴海軍経理部は収穫期が終わるのを待ち郡長、村長の協力を得て用地50町歩の買収を開始(昭和14年春頃、完了)、舞鶴海軍建築部が測量、地質調査を開始します。

昭和14(1939)年9月22日、舞鶴海軍建築部の指揮、監督のもと㈱間組(元請)、菊地組(米子市、下請)、井野建設(河邉村、同)が施工を担当し、労務者を中心に青年団、勤労奉仕隊の協力を得て第一期工事(航空基地造成、大谷川改修)を開始、昭和16(1941)年秋頃、南北1,000m、東西500mの峯山海軍航空基地が竣工します。

引き続き第二期工事(滑走路、格納庫、誘導路設営)に着工、昭和17(1942)年3月25日、第七十八回臨時(昭和16年12月16・17日)、第七十九回(昭和16年12月26日~昭和17年3月25日)両帝國議會において「二、水陸諸施設急速整備ニ要スル経費(臨軍甲號)、(二)航空基地施設、(ロ)防空飛行場整備費用(峯山)」が可決され、峯山海軍航空基地の整備予算が成立し、120(80mに変更)×1,000m(昭和19年、1,500に延長)のアスファルト滑走路、格納庫4棟(900㎡木造2、鉄骨2)等を建設するとともに、居住施設として丹後織物工業組合の口大野精練工場(本部、兵舎)、同平又工場(兵舎)、同中郡支部(酒保)を買収、借用します。

昭和19(1944)年、急迫する戦局に鑑み、戦力温存を図るべく誘導路、掩体壕、地下施設設営を開始します。
3月15日、搭乗員大量急速養成のため設営の進む峯山において第二美保海軍航空隊 峯山分遣隊が開隊、昭和20(1945)年2月11日、峯山分遣隊は姫路海軍航空隊に転属、2月20日、神風特別攻撃隊「飛神隊」を編成、3月1日、峯山海軍航空隊として独立します。
7月30日0720、0945、1249、F6F艦戦55機が来襲、3名散華、6名負傷、九三中練2機地上撃破、基地施設に若干の被害を受けてしまいます。
峯山海軍航空隊は中練特別攻撃隊の編成、及び錬成を実施、決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

停戦に伴い峯山海軍航空隊は復員、及び残務整理を開始するとともに、保安隊を編成し航空基地管理を実施します。
28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』により、航空基地は大蔵省に移管されます。

9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、同日、隷下の第33歩兵師団が三宮駅に到着し神戸市内の神港ビルに司令部を設置、10月1日より京都府、兵庫県、滋賀県、福井県、石川県、富山県の陸海軍施設を接収します。
26日、京都府与謝郡岩瀧村にノックス大尉以下150名が進駐し峯山海軍航空基地を接収、施設調査の後、27日より兵器、軍需品の処理を実施、11月17日、航空機が焼却され、19日、航空基地は内務省を通じ大蔵省に返還されます。

11月9日、『緊急開拓事業実施要領』の閣議決定、昭和21(1946)年10月21日、『自作農特別措置法』(法律第四十三号)により航空基地跡は河邉村、新山村に払下げられ開拓が開始されます。
現在、峯山海軍航空基地は農地、商業地、及び丹後織物工業組合加工場になっています。

地元では地名から川辺(こうべ)飛行場と呼ばれている様です。


峯山海軍航空基地 要目
敷地 : 440,000㎡
滑走路 : 1,500×80m(アスファルト) 1
飛行機運搬路 : 4,300m
掩体壕 : 無蓋24
格納庫 : 木造2、鉄骨2
居住施設 : 3,150㎡
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) 峯山海軍航空基地 要図(京都京丹後)
▲『物資貯蔵所位置表示圖』

峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) 峯山海軍航空基地 番号(京都京丹後)
▲現在の地図に施設を転写
① 峯山海軍航空基地 ・ 滑走路
② 飛行機運搬路(誘導路)
③ 掩体壕

④ 口大野兵舎
⑤ 長善兵舎
⑥ 地下送信所
⑦ 地下燃料庫
⑧ 舟山防空砲台
⑨ 第一・第二仮弾庫
※緑文字が当記事紹介施設


遺構について
現在、峯山海軍航空基地全域は農地、商業地になっていますが、格納庫、弾薬庫、暗渠等が遺されています。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) 峯山海軍航空基地(京都京丹後)
▲遺構の配置

①  峯山海軍航空基地 ・ 滑走路
昭和14(1939)年9月22日、航空基地の設営が開始され、昭和16(1941)年秋頃、竣工します。
敷地全域に芝が貼られ、どこからでも発着できた様です。

昭和16(1941)年秋頃から第二期工事が開始され、滑走路が設営されます。
滑走路はアスファルト敷で当初は幅120m×1,000mを予定しましたが、工期短縮から幅80mに変更、さらに昭和19(1944)年から南端が500m延長され1,500mになります。
施工は最寄りにアスファルト舗装を施工できる業者がなかったため、茨城県の東亞道路工業㈱(現、東亜道路工業㈱に発注されます。
残念ながら戦後開拓された際にアスファルトは剥がされ何も遺されていません。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) ①滑走路跡 北端から南(エール前から)(京都京丹後)
▲現在の滑走路跡
 道路から右側が滑走路跡です

A 爆弾庫
有名な遺構で畑の中に遺ります。
煉瓦躯体モルタル仕上ですが、状態は非常に悪くボロボロです。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) A 爆弾庫 南西から(京都京丹後)
▲入口側

峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) A 爆弾庫 東から(京都京丹後)
▲外壁の状態は良いです

峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) A 爆弾庫 内部 北西壁面(京都京丹後)
▲内部はボロボロです


B 燃料庫
民家の敷地内に遺ります。
煉瓦躯体モルタル仕上で非常に状態が良く、物置に転用されています。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) B 燃料庫 北から (2)(京都京丹後)
▲北東から

峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) B 燃料庫 北から(京都京丹後)
▲北西から

峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) B 燃料庫 北側の壁(内部煉瓦)(京都京丹後)
▲こちらも煉瓦躯体のモルタル仕上の様です


C 第四格納庫
有名な遺構で吉村機業㈱の倉庫として使用されています。
木造で外壁は鋼板に替えられていますが、状態は良好です。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) C 第四格納庫 南西から(京都京丹後)
▲入口の扉は塞がれていますが、形状がそのまま遺ります
  右側に見える木造建物はもちろん戦後の増築です

峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) C 第四格納庫 南から(京都京丹後)
▲側面

峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) C 格納庫 南東から(京都京丹後)
▲裏側


ア 潜孔(マンホール)蓋
新町公民館に移設されています。
元々どこにあった物か不明です。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) ア 潜孔蓋(移設)(京都京丹後)
▲置いてあるだけなので、盗まれそうな気が・・・(゜Д゜;)


イ 暗渠
コンクリート製暗渠が完存しています。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) イ 暗渠 東端から西(京都京丹後)
▲東端から

峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) イ 暗渠 西側 排水口(京都京丹後)
▲西端の放水口


ウ 潜孔(マンホール)
暗渠にそのまま遺ります。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) ウ 潜孔蓋 (2)(京都京丹後)


エ 潜孔(マンホール)
暗渠にそのまま遺ります。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) エ 潜孔蓋(京都京丹後)


オ 海界
竹野川の縁に境界石標が遺ります。
探せばまだある可能性が高いです。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) オ「海界」境界石標(北西面)(京都京丹後)
▲非常に見難いですが「海界」と刻字されています
  通し番号や方向表示は無い様です


カ 貯水槽 ?
近くで農作業をされていたご婦人曰く当時の物らしいですが、樹脂製のパイプが施工されており戦後の物の様です。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) カ 貯水槽 南東から(京都京丹後)


キ コンクリート塀
当時の物と思われるコンクリート塀が遺りますが、この辺りは航空基地の敷地内の様なので何のための塀か不明です。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) キ 軍民境界のコンクリート塀 東から(京都京丹後)
▲東から


ク 境界土堤
航空基地側が低くなっています。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) ク 軍民境界土堤(京都京丹後)
▲土堤の右側か航空基地跡です


ケ コンクリート塊
土堤に埋まっていますが、詳細は不明です。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) ケ 軍民境界土堤に残るコンクリート塊(京都京丹後)
▲この辺りの土堤に点々と埋まっています


コ 潜孔(マンホール)
峯空園内に移設され、記念碑になっています。
元々イ暗渠にあった物の様です。
峯空園は峯空会が丹後織物工業組合から利用許可を得て造成、昭和52(1977)4月17日に開園します。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) コ 潜孔蓋(移設)(京都京丹後)

峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) コ 峯空園 碑(京都京丹後)
▲峯空園表示 「飛行科四十二期」により建立されました
  第四十二期飛行練習生は峯山最後の中練教程修業者です


サ 海軍橋
大谷川に懸かります。
当時の物と言われていますが、上掲『要図』にはこの位置に橋の記載が無く、詳細は不明です。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) サ 海軍橋 北から(京都京丹後)

因みに航空基地の入口はココにありました。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) 航空基地 入口付近(京都京丹後)
▲当時は橋(現在の橋は戦後のもの)を渡った右側に守衛所がありました


② 飛行機運搬路(誘導路)
③ 掩体壕
昭和19(1944)年7月13日、海軍施設本部からの「有蓋掩体の急速設備示達」(施本機密第八七三〇號)に則り誘導路、掩体壕、地下施設の設営が開始されたと思われます。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) ② 掩体壕地区(飛行場東側) 南側誘導路跡(京都京丹後)
▲誘導路を転用したあぜ道(この先に滑走路がありました)

犬の散歩をされていた御老人によると、畑の中に無蓋掩体壕があったそうです。
戦後の開墾により全て均されてしまいましたが、斜面に掘鑿された掩体壕は形跡が遺ります。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) ③ 掩体壕地区(飛行場東側)全景(京都京丹後)
▲この畑に無蓋掩体壕がありました

D 掩体壕
斜面を掘鑿し掘り込まれていますが、荒れ地になっており不鮮明です。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) D 掩体壕? 最深部 北東から(京都京丹後)
▲人為的な掘り込みの遺る斜面


E 掩体壕
杉林の中に遺り、きれいな方形をしています。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) E 掩体壕?内部 北から(京都京丹後)
▲掩体壕内部


F 掩体壕
斜面を半円形に掘り込み両側に土堤を築いています。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) Fa 掩体壕 内部 南西から(京都京丹後)
▲掩体壕Fa 土堤上から内部(樹木が生えている場所)

峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) Fa 掩体壕 南側土堤 西から(京都京丹後)
▲掩体壕Fa 右側の土堤先端

峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) Fa 掩体壕 内部 西から(京都京丹後)
▲掩体壕Fa 内部から後端斜面

峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) Fb 掩体壕 最深部凸へこみ部 南から(京都京丹後)
▲掩体壕Fb 内部


K 地下壕
用水池の奥に遺ります。
用途不明の素掘の壕で幅3.5×長15mあり、内部に支保工の残骸が遺ります。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) K 地下壕 壕口(京都京丹後)
▲壕口

峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) K 地下壕 内部(京都京丹後)
▲内部

峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) K 地下壕 奥の支保工跡(京都京丹後)
▲奥の支保工跡


L 地下壕
堰を過ぎた辺りに遺ります。
同じく素掘の壕で幅3.5×長5m程度です。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) L 地下壕 壕口(京都京丹後)
▲壕口

峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) L 地下壕 内部(京都京丹後)
▲内部

この辺りには多数の地下壕が掘鑿されていた様で、斜面に崩落跡と思われる溝が遺ります。
峯山海軍航空基地(峯山海軍航空隊) K・L間の崩落跡?上部(京都京丹後)
▲崩落した地下壕跡?


所在部隊
峯山海軍航空隊
昭和19(1944)年1月15日、呉鎭守府所管の常設航空隊として美保海軍航空基地(鳥取)において第二美保海軍航空隊が開隊、第十二聯合航空隊(聯合練習航空總隊に所属)に編入、練習航空隊に指定され陸上練習機の操縦教育(中練教程)を担当します。
第十二聯合航空隊は呉鎭守府部隊(司令長官指揮)第十二聯合航空隊(司令官指揮)に部署され教育に従事します。

3月15日、峯山海軍航空基地において第二美保海軍航空隊 峯山分遣隊が開隊(久保清少佐)、20日頃から教官を中心に定員充足、25日、三重海軍航空隊の豫科練教程を修業した乙種(特)飛行豫科練習生(特乙)第三期生141名が、第三十七期飛行練習生として入隊、中練教程を開始します。

5月29日、博多空より乙飛第十八期卒業生60名が、第三十七期飛練生として入隊して来ます。
7月25日、第一美保空より甲飛十三期(前期)卒業生120名が、第三十九期飛練生として入隊して来ます。
8月29日、第三十七期飛練生198名が退隊、実用機教程(戦闘機:元三空、艦爆:名古屋空、艦攻:宇佐空、陸攻:松島空)に進みます。
9月20日、奈良空より甲飛十三期(前期)卒業生90名が、第四十一期飛練生として入隊して来ます。

10月10日、新司令・菅原英雄中佐が着任します。

昭和20(1945)年1月2日、豪雪のため滑走路が使用不可になったため、第三十九期、続いて第四十一期飛練生は福岡海軍航空基地(福岡空)に移駐します。

2月5日、奈良空より甲飛十三期(後期)卒業生46名が第四十二期飛練生として入隊して来ますが、豪雪のため福岡に移駐します。

11日、第二美保海軍航空隊は設営の進む大和海軍航空基地に移駐、大和海軍航空隊に改称したため、峯山分遣隊(菅原英雄中佐)は姫路海軍航空隊に転属します。

16日、練習聯合航空總隊司令官・松永貞市中将は機密第一六二二三〇番電により第十二聯合航空隊司令官・原忠一中将に、18日以降、学生と練習生の教育を中止し、4月末日までに特攻要員(教官の1/2または1/3、予備学生の最上級生から隊は40名、峯山分遣隊は100名)の選考、錬成実施及び概成を下令します。

20日、峯山分遣隊は中練教程を中止、教官、第三十九期飛練生の志願者より特別攻撃隊要員126名を選抜、神風特別攻撃隊「飛神隊」と命名、忠、武、禮、義の4個部隊を編成します。
※訓練中8名が散華、停戦時118名(忠50名、武25名、禮15名、義28名)
飛神隊の編制は12個中隊(2個小隊(1個小隊4機)で1個中隊、豫備學生第十三期出身の教官が中隊長)でした。

2月末、銓衡に漏れた第三十九期生42名、及び第四十一期、第四十二期生は峯山に復帰、除雪作業にあたります。

3月1日、練習聯合航空總隊は第十航空艦隊(聯合艦隊麾下)に改編(前田稔中将、霞ヶ浦)、第十二聯合航空隊は第十航空艦隊に編入されます。
第十二聯合航空隊は第八基地航空部隊(第十航空艦隊司令長官指揮)第十二聯合航空隊に部署され、引き続き特攻要員の錬成にあたります。

3月1日、姫路海軍航空隊 峯山分遣隊は呉鎭守府所管の常設航空隊として峯山海軍航空隊(以下、峯空)として改編(菅原英雄中佐)、第十二聯合航空隊(第十航空艦隊所属)に編入、練習航空隊に指定されます。

22日、飛神隊が峯山に復帰、特攻訓練を開始します。

4月1日、新司令・小関晟大佐が着任します。

5月5日、第十二聯合航空隊は復帰、峯空は第十三航空戰隊(第三航空艦隊所属)に編入、練習航空隊の指定を解除されます。
峯空は第七基地航空部隊(三航艦)練習機特攻戰隊(第十三航戦司令官指揮)に部署され、引き続き特攻要員の錬成にあたります。

7日、増田少尉・曽根二飛曹搭乗機が夜間区隊編隊航法訓練中に発動機不調により編隊から外れ消息を絶ってしまいます。

14日、藤田一飛曹・鐘築二飛曹搭乗機が夜間区隊編隊航法訓練中に発動機不調により山腹に激突、鐘築二飛曹が散華してしまいます。

23日、重村上飛曹・西屋上飛曹搭乗機が夜間降爆訓練中宮津湾江尻付近に墜落し散華してしまいます。

6月5日、野村二飛曹・淺谷二飛曹搭乗機が宮津湾内で停泊中の駆逐艦「初霜」を目標に夜間降爆訓練中に海面に激突、散華してしまいます。

6日、海軍總隊司令部(小澤治三郎中将)は決號作戰(本土決戦)における練習機特攻隊の展開配備基準を下令、第十三航空戰隊は第一配備が関東方面、第二配備が紀伊水道または伊勢湾方面とされ、戦力温存にあたります。

6日、基地防護のため第四十一期生から20名、第四十二期から5名を隊長として選抜、滋賀空甲飛十五期生250名を加え陸上部隊(各隊10名)を編成します。

5月11日、第四十一期生44名(6月25日、神町空へ)、第三十九期生14名、14日、第四十一期生9名が霞ヶ浦空、第三十九期生26名が神町空、7月20日、第四十二期生50名が霞ヶ浦空(8月4日、第三郡山へ)、第四十一期生40名が霞ヶ浦空へ転属して行きます。

7月5日、決號作戰(本土決戦)に備え展開予定の九州方面の航空基地視察に向かった寺井中尉機が帰投中、郷村において山腹に激突、散華してしまいます。

9日、第三十九期生の中練教程が修了します。

14日、敵上陸が予測される志布志湾沿岸(鹿児島)、宮崎県沿岸、土佐湾沿岸防備のため飛神隊忠部隊40機は鹿屋海軍航空基地に、19日、禮、武両部隊、27日、義部隊計52機が岩國海軍航空基地にそれぞれ前進し、錬成にあたります。

20日、峯空において第二次神風特別攻撃隊を編成、錬成を開始します。

24日、岩國に敵艦載機が来襲したため、兵力温存を図るべく禮部隊は藤河海軍航空基地(城山牧場:岩國の西10km)へ、義部隊は可部海軍航空基地(國安牧場:岩國北東50km)へ移駐します。

28日、8月15日を期して甲・乙航空隊に分離(空地分離、甲:航空隊と乙:基地隊)すべく編成に着手します。

8月14日、飛神隊禮部隊、及び義部隊に出撃下令、全機爆装し待命中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

忠部隊は鹿屋において解散、武、禮、義部隊はそれぞれ峯山に復帰します。

停戦時、峯山には峯空964名の他、大井空295名、大和空10、鈴鹿空342、鹿島空17、第二河和空8、第三岡崎空14、神町空19名、滋賀空572名、九〇一空145名、及び山陰空10、第五三一海軍設営隊317名が所在し特攻訓練、及び補助、戦備作業(基地強化)にあたっていました。
また、峯空も決號作戰に向け鹿屋181、人吉104、福岡107、岩國78、藤河57、可部各海軍航空基地94名が展開、特攻機の出撃準備にあたっていました。

9月1日、峯空は復員を開始、11月21日、峯空は復帰します。


第五百三十一海軍設營隊
舞鶴鎭守府の所管で舞鶴海軍施設部において編成(野口光夫技大尉)され、舞鶴鎭守府に所属します。
隊は舞鶴鎭守府部隊に部署され、編制整備ののち機密舞鶴鎭守府命令第百二十一號により福井県高浜町に進出、本部、第一中隊(各中隊への資材補給)は高浜、第二中隊は京都府与謝郡伊根村に展開し舟艇襲撃隊の魚雷格納庫、第三中隊は福井県大飯郡音海、第四中隊は福井県大飯郡大島村において海岸射堡(陸上魚雷発射施設)の設営にあたります。

次いで(8月頃?)峯山海軍航空基地に移駐、基地緊急整備にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


主要参考文献
『大宮町誌』 (昭和57年 大宮町誌編纂委員会 大宮町役場)

『青春の軌跡 峯空会と峯空園』 (平成7年 峯空会)

『郷土と太平洋戦争 河辺飛行場と被爆の記録』 (昭和54年5月 中江忠宏)

『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧 (三)』 (平成21年5月 渡辺博史 楽學庵)

『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧 (四)』 (平成21年6月 渡辺博史 楽學庵)

『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧 (七)』(平成24年1月 渡辺博史)

-個人サイト-
峯山海軍飛行場跡のページ
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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