当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

明野陸軍飛行學校 北伊勢分教所(北伊勢陸軍飛行場)

三重県亀山市と鈴鹿市にまたがる地域に北伊勢陸軍飛行場があり、明野陸軍飛行學校 北伊勢分教所が所在しました。
北伊勢陸軍飛行場A(左)・B(右) 油脂庫 南東から(亀山三重)
▲畑に遺る油脂庫2棟

【探索日時】
平成25年4月19日





北伊勢陸軍飛行場 概要
科学資源、財政ともに乏しかった我が国は建軍依頼、「速戦即決」・「以寡撃衆」を用兵計画の根本とし陸軍航空もまた同様に質的教育を重視します。
昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事変)、昭和12(1937)年7月7日、北支事變(支那事変)が勃発しますが、東亜大陸において我が国の航空優位は変わらず従前の教育方針を修正するには及びませんでしたが、昭和13(1938)年5月11日、ノモンハン事件が勃発、優勢なソ連軍と交戦するに至り、量的充実の必要性を認識します。

陸軍航空本部は戦訓に則り空中勤務者養成を拡大すべく、各飛行學校分教所の増設を計画、昭和13(1938)年、水田が無く畑地・山林のため平坦な土地が拡がり、年間を通し西北西の風が卓越し積雪がほとんど無く、港湾・幹線道路・鉄道が近接し、且つ肥沃な穀倉地帯が広がり食糧の確保が容易な三重県鈴鹿郡川崎村一帯を飛行場及び戦闘機操縦者教育の分教所用地として選定し、留守第十六師團経理部に下達します。
同経理部は郡長、村長の協力を得て用地を買収、9月、飛行場設定を開始します。

昭和16(1941)年5月26日、陸密第一四一八號により岐阜陸軍飛行學校 北伊勢分教所が定められ、8月、北伊勢陸軍飛行場の開設に伴い、下士官學生及び予備役操縦将校の教育を開始します。
昭和18(1943)年4月1日、岐阜陸軍飛行學校の廃校に伴い、明野陸軍飛行學校に移管され明野陸軍飛行學校 北伊勢分教所に改称、昭和19(1944)年5月15日、北伊勢陸軍飛行場において飛行第七十一(8月下旬、八日市に移駐)、第七十二(9月1日、伊丹に移駐)、第七十三戰隊(8月、大正に移駐)が編成されます。

6月20日、急迫する戦局に飛行學校は軍隊化され明野陸軍飛行學校、及び北伊勢分教所は一時閉鎖(昭和20年4月18日、正式に廃校)されます。

8月25日、北伊勢において飛行第百三戰隊が編成(12月11日、伊丹に移駐)され、10月10日、第百飛行團司令部が高松より移駐(昭和20年3月10日、都城東に移駐)、11月10日、飛行第百一戰隊(12月中旬、大正に移駐)、飛行第百二戰隊(昭和20年3月10日、都城西に移駐)が編成されます。

昭和20(1945)年4月24日、明野教導飛行師團で編成された特別攻撃隊「振武隊」6隊、5月、第五十一航空師團(岐阜)で編成された振武隊17隊、7月18日、第一教導飛行隊(旧明野教導飛行師團の教育部隊)の一部が進出し錬成にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により北伊勢陸軍飛行場は内務省を通じ大蔵省に移管されます。

9月28日、米第6軍第1軍団第98師団が和歌山に上陸、29日により三重県、大阪府、奈良県、和歌山県、淡路島に進駐を開始、北伊勢陸軍飛行場も接収され、飛行機、兵器、軍需品の処理ののち、大蔵省に返還されます。
北伊勢は他の9個飛行場とともに重点農耕開発地域に指定され、11月9日、『緊急開拓事業実施要領』の閣議決定、昭和21(1946)年10月21日、『自作農特別措置法』(法律第四十三号)により海外引揚者、復員軍人、戦災者より結成された能褒野開拓団が入植し開拓が開始されます(後に払下げ)。
昭和21(1946)年2月、居住区に川崎村國民学校が長善村から移転、昭和32(1957)年、滑走面に王子製紙亀山育苗場が進出、昭和44(1969)年、亀山市の誘致により育苗場跡地に古河電機工業㈱が進出し現在に至ります。

北伊勢陸軍飛行場北伊勢陸軍飛行場 現状(亀山三重)
▲現在の地図に範囲、遺構位置を図示
① 北伊勢陸軍飛行場 滑走面
② 居住区
③ 誘導路
④ 掩体壕


遺構について
先述の様に北伊勢陸軍飛行場は全域が開拓され、現在は飛行場滑走面の大半が農地、及び古河電機工業㈱、南側は農地、工業地、住宅地になっています。

① 北伊勢陸軍飛行場 滑走面
当飛行場に滑走路は無く、全面が転圧滑走面でした。
停戦に伴い全域が開拓団により開拓されたため、遺構は遺されていない様です。
北伊勢陸軍飛行場①滑走路 北東隅から(亀山三重)
▲滑走面の現況


② 居住区
停戦に伴い昭和21(1946)年2月、川崎村國民学校(現、市立川崎小学校)が長善村から移転し分教所本部を転用、格納庫、兵舎は随時解体され戦災復興資材、中学校体育館等に転用されますが、基礎を中心に若干の遺構が遺ります。

A 燃料庫
路地を入った畑の中に遺り、幅5.22×奥行2.26×高3m、入口は幅0.9×高1.9m、壁厚23cmあります。
北伊勢陸軍飛行場の建物として遺る数少ない遺構です。
北伊勢陸軍飛行場A 油脂庫 南東から(亀山三重)
▲天井は抜けています

北伊勢陸軍飛行場A 油脂庫 東側入口上部(亀山三重)
▲入口上部には庇が付いています

北伊勢陸軍飛行場A 油脂庫 内部 南側(亀山三重)
▲内部

北伊勢陸軍飛行場A 油脂庫 南西から(亀山三重)
▲側面、裏側
  天井際、床下に換気口があります


B 燃料庫
上記Aと並んで遺ります。
幅2.94×奥行3×高3m、入口は幅1.8×高2m、壁厚25cmあります。
北伊勢陸軍飛行場B 油脂庫 南東から(亀山三重)

北伊勢陸軍飛行場B 油脂庫 内部 南側(亀山三重)
▲内部

北伊勢陸軍飛行場B 油脂庫 北側の換気孔(亀山三重)
▲北側の壁面に開口部が1ヶ所あります

近所の方の話では嘗ては10棟程あったらしいですが、現在はこの2棟だけとなってしまったそうです。


ア 門柱
川崎小学校に遺り、分教所正門と言われています。
北伊勢陸軍飛行場ア 門柱 南から(亀山三重)
▲道路から

北伊勢陸軍飛行場ア 門柱 北東から(亀山三重)
▲小学校から

北伊勢陸軍飛行場ア 門柱と付近の桜(当時の物) 北西から(亀山三重)
▲校庭の桜も当時のものだそうです


イ 第二期下士官候補者卒業記念
川崎小学校の校内に遺り、昭和16(1941)年7月16日に建立されました。
北伊勢陸軍飛行場イ 第二期下士官候補者卒業記念 碑(亀山三重)
▲土中に埋まっていたそうですが、掘り起こして建て直されています

北伊勢陸軍飛行場イ 貯水槽 南西から(亀山三重)
▲貯水池
  元々はもっと深かった様ですが、現在は観察池として浅くなっています。

※上記3点は川崎小学校に事前連絡のうえ、教頭先生に御案内頂き見学させて頂きました。


ウ コンクリート基礎
空地に遺りますが、詳細不明です。
西側はゴミで埋まり、全体は不明です。
北伊勢陸軍飛行場ウ 基礎 北東から(亀山三重)
▲東端

北伊勢陸軍飛行場ウ 基礎 北西から(亀山三重)
▲北側


エ コンクリート基礎
民家の塀に転用されていますが、詳細不明です。
北伊勢陸軍飛行場エ 基礎(手前のコンクリート) 南東から(亀山三重)
▲手前の黒っぽいコンクリート塀が当時の物と思われます


オ 第一格納庫 支壁
㈱日商倉庫の敷地内に格納庫東側の前端部2/3程が遺ります。
北伊勢には9棟の格納庫があり、うち西端の第九格納庫のみが鉄骨、他は木造でした。
北伊勢陸軍飛行場オ 格納庫支壁 南から(亀山三重)
▲南側道路からも見えます

北伊勢陸軍飛行場オ 格納庫支壁 北西から (2)(亀山三重)
▲近影

北伊勢陸軍飛行場オ 格納庫支壁 北西から(亀山三重)
▲北側から

※許可を得て立入っています。


カ 第二格納庫 駐機場
第二格納庫の北側に貼られたコンクリート駐機場が完存しています。
北伊勢陸軍飛行場カ 駐機場 南西から(亀山三重)
▲各地に見られるる2畳程に区切られた施工です

北伊勢陸軍飛行場カ 駐機場 北東から(亀山三重)
▲近影


キ 格納庫 排水暗渠
滑走面の南端にあった暗渠のコンクリート製蓋が西側2/3程遺ります。
民間企業が密集しており確認できませんでしたが、現在も使用されています。
北伊勢陸軍飛行場キ 暗渠 西端付近 西から(亀山三重)


ク コンクリート基礎
畑の際に遺りますが、詳細不明です。
北伊勢陸軍飛行場ク 基礎 北東から(亀山三重)
▲コンクリート布基礎の上に束石が並んでいます


兵舎(移設)
兵舎の一部が一色公民館として移設されています。
北伊勢陸軍飛行場兵舎(移設) 南東から(亀山三重)
▲かなり改築されています


③ 誘導路
誘導路は借地だったため、停戦に伴い早期に農地に戻され痕跡は皆無です。
北伊勢陸軍飛行場③誘導路 滑走路北東端からC方向(亀山三重)
▲飛行場側から見た誘導路跡(右側の道路)


④ 掩体壕
北伊勢陸軍飛行場の滑走面周辺にE型、コ型、北側の誘導路沿いに馬蹄形の土製無蓋掩体壕数基、コンクリート製有蓋掩体壕が1基ありました。
C 掩体壕
北伊勢にあった唯一のコンクリート製掩体壕で、停戦時は内部の土取段階で完成直前だった様です。
非常に有名な遺構で幅29.6×奥23.1mあり、民家の物置として使用されており、登録有形文化財に指定されています。
北伊勢陸軍飛行場C 掩体壕 北西から(亀山三重)
▲正面から
状態は非常に良好です

北伊勢陸軍飛行場C 掩体壕 北から(亀山三重)
▲北から

北伊勢陸軍飛行場C 掩体壕 北から (2)(亀山三重)
▲南から

北伊勢陸軍飛行場C 掩体壕 南東から(亀山三重)
▲後端部

北伊勢陸軍飛行場C 掩体壕 文化財銘板(亀山三重)
▲登録有形文化財の銘板

北伊勢陸軍飛行場C 掩体壕 内部 西から(亀山三重)
▲内部

北伊勢陸軍飛行場C 掩体壕 内部 中央の梁 正面側から(亀山三重)
▲陸軍型の大型掩体壕に良く見られる梁があります

※当たり前ですが許可を得て立ち入っています。


D 掩体壕
土製無蓋掩体壕で上記C掩体壕の北西の森林に遺りますが、かなり削土されており不鮮明です。
北伊勢陸軍飛行場D 掩体壕内部 西から?(亀山三重)
▲写真右下から左上にかけて薄っすら土堤が見えます

北伊勢陸軍飛行場D 掩体壕南側土堤 内部北東から(亀山三重)
▲左側土堤

北伊勢陸軍飛行場D 掩体壕南側土堤 外側南から(亀山三重)
▲左側土堤の先端部


所在部隊
明野陸軍飛行學校
第一教導飛行隊
(一部)

※「明野陸軍飛行場 (明野陸軍飛行學校)」の記事参照


飛行第七十一戰隊(誠一八四二九)
昭和19(1944)年3月23日、『軍令陸甲第三十四號』により陸軍航空本部の管理で、5月16日、北伊勢陸軍飛行場において編成着手、8月下旬、八日市陸軍飛行場に移駐、9月17日、編成完結(綾部逸雄少佐)し、第二十一飛行團(吉岡洋中佐)に編入され、四式戦を受領し未修教育を実施します。
戰隊の空中勤務者は航空士官學校第五十六期生6名、少年飛行兵第十期生6名が中心で、学生過程を修了した航士、特別操縦見習士官、少飛の未熟者が多く、同時に編成された飛七十二、飛七十三と比べ最も技量が劣っていました。

9月21日、小月陸軍飛行場に移駐、24日、福岡第一飛行場に移駐し、錬成とともに北九州防空にあたりつつ、B29邀撃の戦闘法を習得します。
10月25日0955、成都を発進した米第20爆撃兵団第58爆撃航空団のB29爆撃機59機が第二十一海軍空廠に来襲、戰隊は邀撃にあたりますが、戦果は挙がりませんでした。

11月11日、戰隊のフィリピン派遣が決定、練度不足ながら戰隊長・綾部少佐以下28機、及び整備隊長・元欣治大尉以下56名は九七重爆に分乗し福岡第一を出発し上海に向かいますが、済州島沖で本土に侵攻中のB29爆撃機2機を発見、第二中隊(空哲雄大尉)12機の攻撃に敵機は爆弾を海上投棄し遁走するも第二中隊は済州島に着陸し、後に本隊を追求します。
戰隊主力は11日、上海、12日、台湾屏東に到着、14日、比島に前進しますが、故障の続出によりデルカメロン飛行場に到着できたのは18機でした。
一方、福岡第一に残置の未熟者17名は留守隊長・山井照男少尉の指揮下、防府に移駐し一式戦で引き続き錬成にあたります。

19日、クラーク飛行場群に米艦載機が来襲、24日の第二次レイテ総攻撃に備え集結していた第四航空軍指揮下の飛行戰隊は大損害を受け、デルカメロンにあった飛七十四の百式重爆は全機地上撃破、戰隊の四式戦も9機地上撃破、5機が大中破されてしまいます(人員損失無し)。
20日、戰隊はポーラックに移駐し数機を補充、24日、可動全力6機でネグロス島マナブラに前進します。

24日、第二次レイテ総攻撃に向かう友軍機の出撃、帰還時の飛行場上空の制空にあたり、来襲したP38戦闘機1機を撃墜します。
11月初旬、デルカメロンに移駐、機材の補充を受け、12月上旬、マナブラに進出します。
6日、テ號作戰(高千穂空挺部隊(挺進第三・第四聯隊)によるレイテ島ブラウエン飛行場群への降下作戦)の直掩、12月中旬まで特攻機の援護、第七・八・九次多號作戰(レイテ島への輸送作戦)の直掩にあたりますが、12月11日、第九次多號作戰ではパロンボン上空において優勢な敵艦載機の襲撃を受け石坂健郎中尉以下4名が散華してしまいます。

15日、米軍がミンドロ島に上陸を開始、ネグロス島は孤立、戰隊可動機も払底してしまったため、24日、飛行隊長・山本實三郎大尉等はデルカメロンにて機材を受領、12月下旬から昭和20(1945)年1月1日、マナブラに復帰します。
3日、少数機によりタクロバン攻撃を開始、7日、福田瑞則軍曹がマナブラ上空でP38搭乗のT.マクガイア少佐(米軍第2位の撃墜王)を撃墜します。

15日、戰隊は内地帰還を下令され、2月2日、戰隊長・綾部少佐は飛行隊長・山本大尉機に同乗しマナブラを出発しますが、パゴロド上空においてP38の襲撃を受け不時着、山本大尉が散華、綾部少佐は重傷を負ってしまいます。
戰隊の空中勤務者は逐次、重爆等に分乗しボルネオ島サンダカン、次いでクチン、2月下旬、昭南島(シンガポール)、3月10日、サイゴン、29日、ツーラン、30日、台湾を経由し福岡第一、31日、小月、4月1日、防府に移駐し第十二飛行師團(土生秀治少将)隷下に編入され戦力回復、北九州の防空にあたりますが、可動機は4~9機でした。
ネグロス島残置の地上勤務者は地上戦に移行し、殆どが散華してしまいます。

5月中旬、隈庄陸軍飛行場に移駐、義號作戰(義烈空挺部隊による沖縄突入)の出発援護にあたり、24日、防府に復帰します。

13日、15日夕刻に知覧への移駐を下令され、準備にあたるなか8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時の保有機は四式戦65機、空中勤務者70名で五式戦への機種改変を予定していました。


飛行第七十二戰隊(威一八四三〇)
※「伊丹飛行場」の記事参照


飛行第七十三戰隊(威一八四三一)
昭和19(1944)年3月23日、『軍令陸甲第三十四號』により明野陸軍飛行學校に編成下令、5月16日、北伊勢分教所において編成に着手、空中勤務者は特別操縦見習士官が主体で実戦経験は殆どおらず練度は低調でした。
当初は機材の不足から一式戦で錬成を開始、7月頃から四式戦が充足します。
8月、大正陸軍飛行場(大阪)に移駐、9月17日、編成完結(三隅輝男少佐)、飛行第七十二戰隊とともに第二十一飛行團司令部(吉岡洋中佐)隷下に編入されます。
10月18日、大陸指第二二三四號により第十二飛行團(川原八郎中佐)のフィリピン転用の後を受け、関東防空のため第二十一飛行團司令部とともに所澤に移駐します。

11月1日、偵察に来襲したB29爆撃機1機を邀撃しますが、四式戦の上昇力不足から不成功、24日、東京に来襲したB29爆撃機111機を12機で要撃しますが、戦果は挙がりませんでした。

21日、大陸命第一一八九號により第三次転用部隊として第二十一飛行團の比島派遣が決定、12月4日、寺山中尉以下142名を留守隊として所澤を出発しますが、故障機続出により、16日、マバラカット東飛行場に戰隊長・三隅少佐以下9機が到着、17日、落伍した11機が到着します。
14日、整備隊長・粟田治郎大尉以下の地上勤務者は九七重爆5機に分乗し台中を出発しますが、クラーク飛行場に着陸寸前に敵艦載機の奇襲を受け3機が撃墜、粟田大尉以下整備隊幹部を失ってしまいます。

15日、米軍がミンドロ島に上陸を開始、17日、9機で飛七十二とともにミンドロ島攻撃に向かう友軍機の直掩にあたるも会敵せず帰還しますが、篠田悌治軍曹機に搭乗し出撃した飛行團長・吉岡中佐が未帰還になってしまいます。

18日、特攻機を援護しミンドロ島サンホセに出撃しますが、白井太喜男少尉、太田代安見伍長が散華してしまいます。

20日、第三十戰鬪飛行集團司令官・青木武三少将は戰隊に特別攻撃隊「精華隊」編成を下令、志願者から久光博軍曹、村山光一軍曹が選抜されミンドロ島沖の敵船団に突入し散華、任務を完遂します。

22日、特攻機を12機で援護しミンドロ島サンホセに出撃しP38、P47戦闘機と交戦、戰隊長・三隅少佐、飛行隊長・梶原廣滿大尉が各2機を撃墜します。

24・25日、レイテ島から敵戦爆連合がクラーク飛行場群に来襲、戰隊は邀撃にあたりますが、神吉吉弘大尉、松本茂夫少尉、富岡喜久雄少尉、中島透少尉が散華してしまいます。

28日、戰隊は戦力低下から昼間はサンフェルナンド泊地の上空哨戒、夜間は少数機によりサンホセ飛行場へのタ弾攻撃にあたります。

昭和20(1945)年1月5日、ルソン島西方海域において発見された、リンガエン湾に向かう敵船団攻撃に向かう特攻機を戰隊長・三隅少佐以下4機で援護しますが、F6F艦戦と交戦し飛行隊長・梶原大尉など3名が散華、三隅少佐のみが帰還します。

7日、2機でリンガエン湾の敵船団攻撃に向かう特攻機を援護、川原安民少尉が散華、8日、戰隊長・三隅少佐以下4機で特攻機を援護しますが、三隅少佐はF6F艦戦1機を撃墜後、未帰還となってしまいます(当日、帰還したのは矢野寛曹長のみ)。

10日、戦力低下のため岡田中尉以下の生存空中勤務者6名、可動機2機はバンバンに移駐、飛七十二(津崎榮介少佐)の指揮下に入ります。

1月5日、第三十戰鬪飛行集團司令官・青木少将は戦力の低下から隷下・指揮下飛行戦隊に全機特攻待機を下令、飛行第一・十一・七十一・七十二・七十三・二百戰隊(全戰隊は四式戦装備)の志願者から2機編隊づつ34名を選抜(精華隊)、 長機が特攻機、僚機が援護機として出撃、次回は僚機が長機となり出撃する戦法を採ります。
11日、吉田修少尉、12日、遠藤正七伍長がそれぞれ25番1発を懸吊しリンガエン湾の敵船団に突入、散華し任務を完遂します。

夕刻、戰隊は戦力払底のため藤井中尉以下の戰隊は徒歩と車両によりエチャゲに転進を開始、12・13日、矢野寛曹長は飛十一に臨時編入され精華隊の援護にあたります。

2月下旬、戰隊はレイナメルセデス、3月、オロラに到着、23日、戰隊は井上中尉以下41名を残置し、藤井中尉以下47名はアパリに向かい、飛行機、潜水艦で台湾潮州に移駐、3月上旬、基隆を出航、所澤の留守隊に合流、5月30日、軍令陸甲第七十七號により戰隊は復帰します。

オロラ残置の井上中尉以下41名は臨時歩兵第二十五大隊に編入され地上戦に移行、9月10日、停戦を迎えます。


第百飛行團司令部(靖一八九一九)
※「高松陸軍飛行場」の記事参照


飛行第百一戰隊(靖一八九二〇)
※「大正陸軍飛行場」の記事参照


飛行第百二戰隊(靖一八九二一)
昭和19(1944)年7月25日、『軍令陸甲第九十三號「第百飛行團司令部等航空部隊一部の臨時編成(編制改正)、第二百九十三次復歸要領」』により陸軍航空總監部(菅原道大中将)に臨時編成下令、11月10日、北伊勢陸軍飛行場において編成完結(垣見馨少佐)します。

戰隊は昭和20(1945)年初旬の比島進出を目標に錬成、及び中部地区の防空にあたりりますが、幹部は他機種からの転科者が多く、また主力は特別操縦見習士官第一期生、少年飛行兵第十三・十四期生の未熟者が大半で、技量甲(昼夜間戦闘可能者)は5名程度で、また供給された四式戦も故障が多く可動機は低調でした。
12月26日、戦力化に時間を要する事から飛行團の比島進出は中止され、第六航空軍(菅原道大中将、東京(昭和20年3月10日から福岡に前進)に編入、沖縄作戦に出動する事に決定します。

昭和20(1945)年2月6日、『大陸命第千二百四十四號』により、飛行團は第六航空軍戦闘序列に編入されます。

3月10日、戰隊(四式戦40機)は飛行團司令部とともに都城西に前進、14、15日、第六航空軍司令部(福岡(福岡高等女學校))において行われた兵棋演習において、特攻機援護のための戦闘機隊を各飛行場に分散し配備する事が決定、戰隊は徳之島に第三中隊を配置、主力は飛百一とともに第二攻撃集團を編成します。

4月1日、米軍が沖縄本島に上陸を開始、6日、第一次航空總攻撃に第二攻撃集團は全力48機(援護機総数146機)で特攻機237機を援護、奄美大島付近まで進出し制空にあたりますが、敵艦載機の来襲に金澤武要少尉が散華、飛百二第三中隊、飛百三は出撃できず、また帰途、不慣れな洋上飛行に進路を失い九州、四国に不時着する機が続出してしまいます。

12日、第二次航空總攻撃に第二攻撃集團は15機(援護機総数98機)で特攻機192機を援護、沖永良部島付近まで進出し制空にあたります。

15日夜、翌日の第三次航空總攻撃を控え集團選抜機11機により、敵制圧下の沖縄本島北・中陸軍飛行場にタ弾攻撃を実施しますが、敵対空砲火により8機が未帰還になってしまいます。

17日、海軍による敵機動部隊攻撃に四式戰11・三式戰11機で協力しましたが、奄美大島付近でF6F戦闘機約20機と交戦、飛百一戦隊長・末永正夫大尉を含む8機が未帰還となり、集團の可動機は10機に減じてしまいます。
17日夜、タ弾攻撃を実施しますが、永倉寛二中尉、太田政義少尉、野口裕文少尉、本多正一曹長ほか1名が散華してしまいます。

22日、第二攻撃集團・飛百三は第四次航空總攻撃(特攻機164機、援護機62機に)、5月4日、第五次航空總攻撃(特攻機149機、援護機84機)に30機で特攻機を援護、、11日夜、タ弾攻撃を実施しますが清水保中尉、石井清少尉、森山衛少尉、山崎正男少尉、山地進少尉、田中義一少尉、東山岩男曹長が散華してしまいます。

14日、特攻機援護にあたり、25日、義號作戰(義烈空挺部隊の沖縄突入)に呼応した第八次航空總攻撃に11機で出撃しますが10機が未帰還となり、28・29日、B29爆撃機が都城西に来襲、死傷者50名、5機地上撃破の大損害を受けてしまい戦力が払底、6月下旬、沖縄戦の終結に伴い、飛行團とともに隈庄陸軍飛行場(熊本)を経由し成増陸軍飛行場(東京)に移駐、戦力回復にあたります。

7月10日、軍令陸甲第百三號により戰隊は復帰、人員、機材は飛百一、飛百三に転属します。


飛行第百三戰隊(靖一八九二二)
※「伊丹飛行場」の記事参照


待機特別攻撃隊
昭和20(1945)年4月24日、明野教導飛行師團で編成された第百九十五~第二百振武隊、及び5月、第五十一航空師團(岐阜)で編成された第三百四十六~第三百四十八、三百七十一~三百八十四振武隊が北伊勢に進出、錬成にあたりますが、いずれも待命中に8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


地上部隊
第六十二飛行場大隊(一部)
※「明野陸軍飛行場 (明野陸軍飛行學校)」の記事参照


第百六獨立整備隊(一部)
※「明野陸軍飛行場 (明野陸軍飛行學校)」の記事参照


主要参考文献
『三重の戦争遺跡 増補改訂版』(平成18年8月 つむぎ出版)

『鈴鹿市史 第3巻』 (平成元年 鈴鹿市教育委員会 鈴鹿市役所)

『陸軍航空の鎮魂 総集編』 (平成5年4月 陸軍航空碑奉賛会)

『本土航空作戦記録』 (昭和21年12月 第一復員局)

『日本陸軍戦闘機隊』 (昭和52年3月 伊澤保穂著 酣燈社)
関連記事



最後までお読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
↓↓↓
宜しかったらクリックお願いします


人気ブログランキングへ

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ
正定事件の真実
戦史検定を受けよう!
当ブログは
「戦史検定」を応援します
戦史検定
カウンター
最新コメント
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ
御英霊の鎮まる処
殉国の御英霊に
感謝の誠を捧げましょう
靖國神社
兵庫縣神戸護國神社
大阪護国神社
プロフィール

盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

拙ブログを参照した際はリンクを張って頂けたら嬉しいです
(^o^)
--------------
※掲載写真・資料の
無断転載は禁止します。


●ほぼ放置ですがこっそりTwitterも始めました。
@yuukyuunotaigi

●Facebookやってますので本名ご存知の方はぜひ。
目印は水木しげる先生風の自画像です(笑)

検索フォーム
リンク
地図・史資料
埼玉西武ライオンズ
埼玉西武ライオンズ
ライオンズニュース
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる