龜山陸軍病院
三重県鈴鹿市加佐登(かさど)町に所在する国立病院機構 鈴鹿病院は龜山陸軍病院の後身です。

▲国立病院機構 鈴鹿病院に遺る龜山陸軍病院の東門
【探索日時】
平成25年4月19日

<龜山陸軍病院 概略>
昭和16(1941)年5月26日、北伊勢陸軍飛行場に岐阜陸軍飛行學校 北伊勢分教所が、昭和17(1942)年12月3日、高津瀬村(現、鈴鹿市高塚町)に第一航空軍教育隊が開隊し陸軍航空関係者の増加に伴い、各医務室では診療困難な患者を診察・収容すべく昭和18(1943)年12月1日、加佐登町に龜山陸軍病院が開院、第一航空軍隷下に編入されます。
※用地選定は陸軍航空本部、用地買収、及び建設は第五十一教育飛行師團経理部が行ったと思われますが資料不足により詳細は不明です。
昭和19(1944)年11月、三重県多氣郡明星村(現、明和町)に明星分院が開院します。
昭和20(1945)年4月8日、航空總軍の編成完結に伴い第一航空軍から隷属転移、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時の病床数は179床、分類は三等甲病院でした。
30日、D.マッカーサー大将が厚木海軍航空基地に到着、陸海軍病院の接収が伝えられますが、11月19日、我が国は連合国軍最高司令官総司令部から『陸海軍病院の返還に関する覚書(GHQ AG632)』を受領、12月1日、龜山陸軍病院は他の陸海軍病院145ヶ所とともに厚生省に移管され、国立鈴鹿病院に改組されます。
平成16(2004)年4月1日、独立行政法人国立病院機構 鈴鹿病院となり現在に至ります。
<遺構について>
龜山陸軍病院
鈴鹿病院の近代化に伴い建物は全て建て替えられてしまいましたが、外周に門柱、境界石標が遺ります。
境界石標は御影石製で表面に「陸軍」、裏面に漢数字の通し番号、頂部に境界方向を示す矢印が刻字された標準的な物です。
A 東門
コンクリート製の門柱で、鈴鹿病院に遺ります。

▲外側から

▲内側から
ア 「陸軍」 一
駐車場との境に遺り、コンクリート柵に埋まっています。

▲龜山陸軍病院の正門に続く道路
お分かり頂けるであろうか・・・

▲表面
コンクリート柵に埋まりますが、辛うじて「陸」の文字の一部が見えます

▲裏面
位置的に通し番号は「一」と思われます
イ 「陸軍」 二?
民家前の排水溝際に埋まっています。
場所的に掘り返しははばかられたので確認できませんでしたが、位置的に「二」と思われます。

シ 土堤
陸軍病院正門跡から東門にかけて境界土堤が遺されています。

▲かなり低くなっています
ウ 「陸軍」 四
境界土堤の外側、畑の隅に遺ります。

▲表面

▲裏面
エ 境界石標?
杉の子学園の外周に遺ります。
上部が欠損している様で刻字が何もありませんが、材質、大きさから境界石標と思われます。

オ 「陸軍」 四一
病院西側の竹林にあります。

▲表面

▲裏面
カ 「陸軍」 四二
同じく竹林にあります。

▲表面

▲裏面
サ 土堤
病院北西隅にも当時の土堤が遺ります。

キ 「陸軍」 四五
病院外周の道路の外側、畑の中に遺ります。

▲表面

▲裏面
ク 「陸軍」 四六
病院正門前の電柱付近に遺ります。

▲表面

▲裏面
ケ 「陸軍」 四七?
国有地に勝手に造られた花壇の中に遺ります。

▲殆ど埋まっていますが、前後の並びから「四七」で間違い無いと思います。
コ 「陸軍」 四八
同じく上記の花壇に遺ります。

▲表面

▲裏面
<主要参考文献>
『陸軍航空の鎮魂 総集編』 (平成5年4月 陸軍航空碑奉賛会)
『帝国陸軍編成総覧』 (昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)
『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)
-WEBサイト-
加佐登小学校ホームページ
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▲国立病院機構 鈴鹿病院に遺る龜山陸軍病院の東門
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平成25年4月19日


<龜山陸軍病院 概略>
昭和16(1941)年5月26日、北伊勢陸軍飛行場に岐阜陸軍飛行學校 北伊勢分教所が、昭和17(1942)年12月3日、高津瀬村(現、鈴鹿市高塚町)に第一航空軍教育隊が開隊し陸軍航空関係者の増加に伴い、各医務室では診療困難な患者を診察・収容すべく昭和18(1943)年12月1日、加佐登町に龜山陸軍病院が開院、第一航空軍隷下に編入されます。
※用地選定は陸軍航空本部、用地買収、及び建設は第五十一教育飛行師團経理部が行ったと思われますが資料不足により詳細は不明です。
昭和19(1944)年11月、三重県多氣郡明星村(現、明和町)に明星分院が開院します。
昭和20(1945)年4月8日、航空總軍の編成完結に伴い第一航空軍から隷属転移、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時の病床数は179床、分類は三等甲病院でした。
30日、D.マッカーサー大将が厚木海軍航空基地に到着、陸海軍病院の接収が伝えられますが、11月19日、我が国は連合国軍最高司令官総司令部から『陸海軍病院の返還に関する覚書(GHQ AG632)』を受領、12月1日、龜山陸軍病院は他の陸海軍病院145ヶ所とともに厚生省に移管され、国立鈴鹿病院に改組されます。
平成16(2004)年4月1日、独立行政法人国立病院機構 鈴鹿病院となり現在に至ります。
<遺構について>
龜山陸軍病院
鈴鹿病院の近代化に伴い建物は全て建て替えられてしまいましたが、外周に門柱、境界石標が遺ります。
境界石標は御影石製で表面に「陸軍」、裏面に漢数字の通し番号、頂部に境界方向を示す矢印が刻字された標準的な物です。
A 東門
コンクリート製の門柱で、鈴鹿病院に遺ります。

▲外側から

▲内側から
ア 「陸軍」 一
駐車場との境に遺り、コンクリート柵に埋まっています。

▲龜山陸軍病院の正門に続く道路
お分かり頂けるであろうか・・・

▲表面
コンクリート柵に埋まりますが、辛うじて「陸」の文字の一部が見えます

▲裏面
位置的に通し番号は「一」と思われます
イ 「陸軍」 二?
民家前の排水溝際に埋まっています。
場所的に掘り返しははばかられたので確認できませんでしたが、位置的に「二」と思われます。

シ 土堤
陸軍病院正門跡から東門にかけて境界土堤が遺されています。

▲かなり低くなっています
ウ 「陸軍」 四
境界土堤の外側、畑の隅に遺ります。

▲表面

▲裏面
エ 境界石標?
杉の子学園の外周に遺ります。
上部が欠損している様で刻字が何もありませんが、材質、大きさから境界石標と思われます。

オ 「陸軍」 四一
病院西側の竹林にあります。

▲表面

▲裏面
カ 「陸軍」 四二
同じく竹林にあります。

▲表面

▲裏面
サ 土堤
病院北西隅にも当時の土堤が遺ります。

キ 「陸軍」 四五
病院外周の道路の外側、畑の中に遺ります。

▲表面

▲裏面
ク 「陸軍」 四六
病院正門前の電柱付近に遺ります。

▲表面

▲裏面
ケ 「陸軍」 四七?
国有地に勝手に造られた花壇の中に遺ります。

▲殆ど埋まっていますが、前後の並びから「四七」で間違い無いと思います。
コ 「陸軍」 四八
同じく上記の花壇に遺ります。

▲表面

▲裏面
<主要参考文献>
『陸軍航空の鎮魂 総集編』 (平成5年4月 陸軍航空碑奉賛会)
『帝国陸軍編成総覧』 (昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)
『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)
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