FC2ブログ

当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第三十八聯隊 (旧歩兵第五十三聯隊 )

奈良県奈良市高畑町に所在する奈良教育大学は歩兵第三十八聯隊の跡地にあります。

兵営は先に歩兵第五十三聯隊が衛戍、後に歩兵第百三十八聯隊、第六十四獨立歩兵團司令部・歩兵第百五十三聯隊、岐阜陸軍航空整備學校 奈良教育隊が編成されます。

また兵営西側に奈良陸軍練兵場、北側に奈良聯隊區司令部、東側に奈良歩兵作業場、南2.2kmに奈良陸軍射撃場がありました。
歩兵三十八・五十三 A糧秣倉庫 南西から (3)(奈良)
▲奈良教育大学に遺る糧秣庫

【探索日時】
平成23年1月29日

【改訂情報】
平成23年2月15日・・・記事分割





奈良市高畑町の陸軍施設配置
歩兵三十八・五十三聯隊 全体(奈良)
▲陸軍施設を現在の地図に転写
① 歩兵第三十八聯隊兵
② 奈良陸軍病院
③ 奈良陸軍練兵場
④ 聯隊道路
⑤ 奈良聯隊區司令部
⑥ 奈良軍人會館(帝國在郷軍人會 奈良支部)
⑦ 歩兵作業場
⑧ 水源地
⑨ 奈良陸軍射撃場

⑩ 奈良陸軍墓地
⑪ 奈良憲兵分隊
⑫ 奈良縣護國神社(昭和17年10月22日、創建)
※緑文字が当記事の紹介施設
※名称は一般的な昭和12(1937)年頃

遺構について
① 歩兵第三十八聯隊
明治三十七八年戰役(日露戦争)後、ロシアが着々と極東の兵備強化を推進するなか、我が陸軍は安全保障の観点から、第十七、第十八師團の増設を決定、明治40(1907)年9月17日、『陸軍管區表』・『陸軍常備團隊配備表』を改正します。
歩兵聯隊増設の情報を得た実業家の木本源吉氏(明治41年4月2日から奈良市長)を中心に誘致運動をはかり、奈良市及び木本氏など有志は高畑町に歩兵営用地45,068坪を買収し陸軍省に献納、明治41(1908)年10月23日、陸軍省は歩兵第五十四聯隊の奈良設置を決定、臨時陸軍建築部大阪支部により歩兵営、練兵場、射撃場、埋葬地の建設が開始されます。
明治42(1909)年3月、歩兵営が竣工、3月9日、聯隊先遣隊が歩兵第十聯隊(姫路)を出発、26日、全将兵の移駐が完了します。
大正8(1919)年4月8日、シベリア出兵に際し留守隊が編成されます。

大正14(1925)年3月27日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)により歩兵第五十三聯隊に復帰が交付され、4月26日、官民合同による軍旗告別式を挙行、5月1日、第十六師團司令部に軍旗奉還、復帰します。
4日、京都より歩兵第三十八聯隊が転営してきます。

昭和12(1937)年9月5日、支那事変に際し留守隊、昭和13(1938)年5月24日、留守隊において歩兵第百三十八聯隊が編成され中支に出征、昭和15(1940)年7月10日、兵営において第六十四獨立歩兵團司令部歩兵第百五十三聯隊が編成、歩兵第三十八聯隊の補充は歩三十四(静岡)に、昭和18(1943)年4月1日、第百三十八聯隊の補充は歩十九(敦賀)に変更されます。

昭和19(1944)年1月30日、歩兵第百五十三聯隊は旧歩兵第七十九聯隊兵営(朝鮮龍山)に移駐のため奈良を出発、4月1日、空いた兵営において岐阜陸軍航空整備學校 奈良教育隊が開隊、昭和20(1945)年2月13日、第一教育隊に第四航空教育團 奈良航空教育隊に改編、引き続き整備教育を実施するなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれます(8月31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達、不要用地は接収のまま転用、もしくは随時大蔵省に返還)。

9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、隷下の第98歩兵師団が奈良に進駐(昭和21年1月18日、第25歩兵師団に交代)し、歩兵営、練兵場、奈良聯隊區司令部・奈良軍人會館を接収し夫々キャンプ ナラ C地区(歩兵営)、同B地区(練兵場)、同A地区(聯隊區司令部・奈良軍人會館)に改称されます。

昭和27(1952)年7月26日、接収地区は米軍基地化、昭和31(1956)年、接収地区の返還が具体化し、9月7日、D地区(奈良RRセンター(朝鮮からの帰休兵保養施設))、12月18日、A地区とB地区東側の建物が接収解除されます。
昭和32(1957)年5月31日、B地区の一部、昭和33(1958)年2月20日、A、B、C地区の全面が接収解除され大蔵省に返還されます。
昭和32(1957)12月3日、返還予定の歩兵営跡地は近畿地区国有財産審議会において奈良学芸大学(現、奈良教育大学)への移管が内定、昭和33(1958)年10月10日、大学が移転、練兵場に大学内から奈良女子大附属中学校が移転し現在に至ります。

現在、全域が奈良教育大学、同付属小学校、同付属幼稚園になっています。
歩兵三十八・五十三聯隊(奈良)
▲遺構の配置

A 糧秣庫
明治41(1908)年に建設されました。
最も有名な遺構で、改修され教育資料館として使用されています。
平日13:00~17:00は開館しているので、内部の見学も可能です。
歩兵三十八・五十三 A糧秣倉庫 南西から (2)(奈良)
▲正面側
  正面中央に大きな入口が付けられています

歩兵三十八・五十三 A糧秣倉庫 北東から(奈良)
▲当時の窓、入口も遺ります

歩兵三十八・五十三 A糧秣倉庫 西側入り口(奈良)
▲入口には庇の跡が遺ります

歩兵三十八・五十三 A糧秣倉庫 東から(奈良)
▲側面

歩兵三十八・五十三 A糧秣倉庫 北側入口?(奈良)
▲内部の壁も開口されています

玄関内(開館時のみ見学可)に境界石標が置いてありますが、どこにあった物かは不明です。
歩兵三十八・五十三 A糧秣倉庫内の「陸軍用地9」(奈良)
▲陸軍用地 9


B 汽罐室付属建物
木造の建物で昭和22年の空撮にも映っています。
糧秣倉庫の東側には汽罐室がありましたが、兵営は米軍に接収後、大幅に改編されており、戦後の建物かも知れません。
歩兵三十八・五十三 B汽罐室付属建物 南から(奈良)


C 弾薬庫
弾薬庫は煉瓦躯体にモルタル塗り、扉と窓は全て鉄製で、鬼瓦には星章が輝くなど、ほぼ完存していますが、放置されておりボロボロです。
歩兵三十八・五十三 C火薬庫 北から(奈良)
▲正面側
  庇が付けられています

歩兵三十八・五十三 C火薬庫 北側入り口(奈良)
▲出入口

歩兵三十八・五十三 C火薬庫  西側の窓(奈良)
▲西側の鉄窓?入口?

歩兵三十八・五十三 C火薬庫 東側の窓(奈良)
▲東側の鉄窓

歩兵三十八・五十三 C火薬庫 星章入り鬼瓦(奈良)
▲落ちそうな鬼瓦

弾薬庫とともに外周の土堤が遺ります。
歩兵三十八・五十三 C火薬庫土塁 西側(奈良)


D 土堤
兵営西側の土堤、石積み側溝が遺ります。
歩兵三十八・五十三 D西側(正面)側溝(営門南側) 南から(奈良)


E 北門
北門は業者等の通用口として使用された様です。
歩兵三十八・五十三 E北門(通用)北から(奈良)

北門周辺には当時の土堤、側溝、さらに土堤上には柵の基礎も遺ります。
歩兵三十八・五十三 E北側の側溝と土堤 東から(奈良)
▲土堤と側溝

歩兵三十八・五十三 E北側土堤 柵跡(奈良)
▲柵の基礎


F 煉瓦基礎
土堤に埋まるように建てられており、巾920×奥行320×高290(石段部分80㎝)の煉瓦造りで、西から240㎝の所に巾140×高20㎝12段の階段があり、上部は巾20㎝程で囲まれ内部は土と雑草で覆われています。
「高射砲台」とも言われますが、あまぁ無いでしょう。
何かの建物の基礎の様です。
歩兵三十八・五十三 F煉瓦構造物 南東から(奈良)
▲全景

歩兵三十八・五十三 F煉瓦構造物基礎付近拡大 南西から(奈良)
▲基礎は装飾のある石材で組まれています

歩兵三十八・五十三 F煉瓦構造物 上部(南東付近)(奈良)
▲上面は雑草で覆われています


G 将校集会所 庭園
将校集会所は15m程の高台にありました。
敷地北側に池泉式庭園の池が、庭園に使用されていた庭石が遺ります。
歩兵三十八・五十三 G将校集会所池泉式庭園跡 南から(奈良)


H 中営庭の桜
兵舎は通常の「営庭を囲む配置」では無く東側に並んで建てられ、中央に中営庭があり、その周辺には桜が植樹されていました。
歩兵三十八・五十三 H桜広場(奈良)


I 酒保前の階段
将校集会所同様、酒保(営内の売店)も東側の高台にありました。
現在、建物は遺っていませんが、酒保に続く階段が遺ります。
歩兵三十八・五十三 I酒保前の階段 南から(奈良)


J 煉瓦構造物
東側高台の斜面に煉瓦構造物が遺りますが、詳細不明です。
歩兵三十八・五十三 J煉瓦基礎 南から(奈良)


K 南門土留
南側にあった奈良陸軍病院に通じる門で、門柱は滅失していますが両側の土留が遺ります。
歩兵三十八・五十三 K南門(内側から) 東から(奈良)
▲埋もれており分かりにくいです

歩兵三十八・五十三 K南側土堤 東から(奈良)
▲周辺に遺る土堤と側溝


③ 奈良陸軍練兵場
昭和19(1944)年4月1日、歩兵営において岐阜陸軍航空整備學校 奈良教育隊が開隊、練兵場は整備訓練場となり格納庫、整備工場、駐機場、高射砲等が設置されました。
そのため、教育隊は北側一帯の春日野を練兵場の代用として利用します(戦後の経緯は上記「兵営」の項参照)。

現在は奈良女子大附属中学校、市立奈良病院(旧奈良陸軍病院)、県営住宅になっています。
遺構は何も遺されていない様です。
駐機場の跡が道路になっています。
歩兵三十八・五十三 ③南東端付近から西を(滑走路跡) (3)(奈良)
▲駐機場跡を転用した道路


④ 聯隊道路
明治41(1908)年10月23日、歩兵第五十三聯隊の奈良設置が決定、明治42(1909)年、内務省により民有地が買収され、臨時陸軍建築部大阪支部により造成されます。
現在も営門前にも道幅が広くなっています。

O スズカケの木
当時、聯隊道路にはスズカケの並木道になっていました。
戦後の開発で次第に切り倒されてしまし、現在は1本だけが残ります。
歩兵三十八・五十三 ④O聯隊道路 北から(スズカケの街路樹)(奈良)
▲落葉して分かりにくいですが写真中央にスズカケの大木があります


⑤ 奈良聯隊區司令部
明治40(1907)年9月17日、『陸軍管區表』改正に伴い明治40(1907)年10月1日、奈良聯隊區が創設(第十六師管第十九旅管)、3日、奈良聯隊區司令部が開庁します。
昭和15(1940)年8月1日、中部軍管區京都師管に移管、昭和16(1941)年4月1日、中部軍管區大阪師管に移管、昭和20(1945)年3月24日、奈良聯隊區司令部は復帰、同日、奈良聯隊區司令部が動員され、地區司令部が併設、聯隊區内の警備を担当、4月1日、大阪師管は大阪師管區に改称され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

停戦後、司令部は大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれ、奈良市に払い下げられた様で、現在は奈良第二地方合同庁舎になっています。
遺構は何も遺されていない様です。

N 奈良聯隊記念碑
歩兵三十八・五十三 N奈良聯隊跡記念碑(奈良)
▲合同庁舎前に建立された記念碑は旗の状態から歩兵第三十八聯隊の軍旗の様です


⑥ 奈良軍人會館(帝國在郷軍人會 奈良支部)
帝國在郷軍人會は明治43(1910)年11月3日、予備役、後備役軍人の軍人精神向上、傷痍軍人、軍人遺族の救護等を目的に発足、昭和11(1936)年9月25日、勅令第三百六十五號『帝國在郷軍人會令』により、11月11日、陸軍大臣、海軍大臣共同の監督下に置かれ、昭和20(1945)年8月31日、大東亜戦争停戦に伴い解散が宣言され、11月5日、『帝國在郷軍人會令』も廃止されます。

奈良支部は帝國在郷軍人會の創設と同日に発足します。

奈良軍人會館は「大阪師團 奈良軍人會館新築工事」として㈱奥村組に発注、支給された資材が施工に沿った物では無かったり、労賃の暴騰により遅延、昭和18(1943)年12月、竣工(木造2階建、延べ床面積2,930㎡)します。
奈良軍人會館(奈良)

戦後、一般社団法人 奈良県至誠会に移管され、同至誠会館として使用されますが、現在は建て替えられてしまいました。

P 石積
駐車場に側から見ると当時の物と思われる石積みが遺ります。
歩兵三十八・五十三 ⑥敷地南側(内部)の石組(奈良)


⑦ 歩兵作業場
明治41(1908)年10月23日、歩兵第五十三聯隊の奈良設置が決定、陸軍臨時建築部大阪支部により用地買収が行われ、明治42(1909)年3月26日、聯隊の移駐により供用が開始されます。

停戦後、大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれますが、その後の経緯は不明で現在は民有地、山林になっています。
コンクリート基礎や大きな掘り込みが遺りますが、詳細不明です。
歩兵三十八・五十三 ⑦コンクリート建物①(奈良)
▲コンクリート製の建物基礎

歩兵三十八・五十三 ⑦コンクリート建物②(奈良)
▲コンクリート製の建物基礎

歩兵三十八・五十三 ⑦塹壕?(奈良)
▲掘り込み


⑧ 水源地
歩兵営は佐保川から用水を引いていましたが、詳細は不明です。


⑨ 奈良陸軍射撃場
明治41(1908)年10月23日、歩兵第五十三聯隊の奈良設置が決定、陸軍臨時建築部大阪支部により用地買収が行われ、明治42(1909)年3月26日、聯隊の移駐により供用が開始されます。

停戦後、大蔵省に移管、その後(時期不明)、大半は奈良市に払い下げられ藤原台第2号街区として住宅開発、射垜付近は防衛庁に移管され自衛隊官舎になっています。

遺構は何も遺されていない様です。
歩兵三十八・五十三 ⑨北側斜面、北西端から東を (2)(奈良)
▲左側が土堤、右側が射撃場

歩兵三十八・五十三 ⑨北東端から東の的場を(奈良)
▲射垜跡


衛戍・編成部隊
歩兵第五十三聯隊(月七三八四)
明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、戦局の進展に伴い戦力増強の必要性から明治38(1905)年4月17日、第十三、第十四師團の編成下令、4月21日、歩兵第三十七聯隊補充大隊(大阪)により聯隊本部、第一大隊(本部、第一~第四中隊)、歩三十八補充大隊(京都)により第二大隊、歩十補充大隊により第三大隊、歩四十補充大隊(鳥取)により第十一・十二中隊が編成され、歩兵第五十三聯隊が動員完結(岩田正吉中佐)、6月13日、宮中において軍旗を拝受、15日、大阪城東練兵場において軍旗奉戴式が挙行され、天下茶屋の仮兵営に入ります。
歩五三軍旗
▲歩兵第五十三聯隊 軍旗

聯隊は歩兵第五十四(善通寺)、五十五(廣島)、五十六(熊本)聯隊とともに第十四師團(鮫島重雄中将、小倉)隷下に編入されます。
7月24日、天下茶屋の仮兵営を出発、30日、大阪港を出航、8月13日、師團は第三軍(乃木希典大将)戦闘序列に編入され、大興屯付近に宿営するも、9月5日、休戦協定が成立します。
11月1日、聯隊は關東總軍の指揮下に編入され、鳳凰城の警備にあたり、1月18日、第十四師團に復帰、11月7日、姫路の仮兵営(歩兵第十聯隊)に帰還します。

明治41(1908)年10月23日、第十四師團から第十六師團(山中信儀中将、京都)隷下の歩兵第十九旅團(馬場命英少将)に隷属転移、明治42(1909)年3月9日、聯隊先遣隊が歩兵第十聯隊(姫路)を出発、26日、全将兵が竣工した奈良市字高畑の新兵営に移駐します。

明治43(1910)年6月11日、第十二中隊が北京に派遣(明治43年6月29日、帰還)、明治44(1911)年4月1日、第九中隊が朝鮮に派遣(明治45年4月29日、帰還)されます。

大正8(1919)年4月7日、聯隊に滿洲派遣が下令、13日、奈良を出発、29日、哈爾濱に到着し警備にあたり、6月15日、シベリア出兵に伴いスラウランカで共産匪賊と、19日、寛城子で支那軍と交戦します。

大正10(1921)年4月5日、歩兵第十七旅團に守備を移譲、16日、奈良に凱旋します。

大正14(1925)年3月27日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)により歩兵第五十三聯隊に復帰が交付(軍令陸甲第一號)され、4月26日、官民合同による軍旗告別式を挙行、5月1日、第十六師團司令部に軍旗奉還、復帰します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(8月15日、支那事變と改称)が発生、10日、停戦協定が成立しますが、郎坊事件、広安門事件、通州事件など度重なる支那第二九軍の違法不法行為により、7月28日、支那駐屯軍(田代皖一郎中将)は支那軍に攻撃を開始、北京・天津を平定します。
8月13日、蒋介石軍の違法行為、挑発により第二次上海事變が勃発、我が軍と蒋軍の全面戦闘に発展します。

昭和13(1938)年4月18日、事変の拡大により軍令陸甲第二十一號『新設師團編成派遣要領』により、留守第四師團(大阪)に歩兵第五十三聯隊の編成が下令せられ、聯隊本部・歩兵砲隊・通信隊を歩兵第八聯隊留守隊(大阪)、第一大隊を歩七十留守隊(篠山)、第二大隊を歩三十七留守隊(大阪)、第三大隊を歩六十一留守隊(和歌山)において編成、4月24日、編成完結(6月26日、聯隊長・坂本末雄大佐着任)、7月14日、軍旗が再親授され、第十七師團(広野太吉中将、姫路)に編入されます。

7月24日、第十七師團に動員下令、30日、各大隊は夫々の兵営を出発、31日、大阪港を出港、8月4日、上海郊外呉淞に上陸、6日、江蘇省無錫、常州、宜興の警備にあたります。
9月14日、宜興南方地区の戦闘に参加、10月4日、第三大隊が第十七歩兵旅團(鈴木春松少将)の指揮下に武漢攻略戦に参加します。

昭和14(1939)年3月26日、5月2日、宜興の付近の戦闘、29日、湟里鎮付近の戦闘、6月17日、高瑞鎮作戰、9月9日、安家橋の戦闘、18日、東戴鎮付近の戦闘、10月1日、(シ夏)渓鎮・嘉澤鎮付近の戦闘、7日、成章鎮付近の戦闘、20日、第二次湟里鎮作戰に参加します。

昭和15(1940)年2月8日、片倉支隊(聯隊長・片倉哀中佐、第一・第二大隊、歩五十四第二大隊、野砲二十三第三大隊、輜重兵十七第二中隊)が錢塘江南作戰に、4月14日、森岡集成中隊が春季皖南作戰に、10月1日、江南作戰(第十一號作戰)に、12月25日、宜興南方作戰(太平薹の戦闘)参加します。

昭和16(1941)年1月、宜興南方作戰に、2月、第二大隊が准南作戰に、3月、太湖西方作戰(第十四號作戰)に、4月、警備を獨立混成第十一旅團に移譲、北支に移駐し徐州付近の警備にあたり、9月19日、第一大隊が長沙作戰に、10月9日、浙南作戰に、11月、第二大隊が第二魯南作戰に参加します。

12月8日、大東亜戰争が勃発します。

昭和17(1942)年2月1日、第二大隊主力が第十七師團とともに渦河作戰に、4月30日、浙カン作戰、12月18日、魯南辺境作戰、12月31日、第二大隊が第二次皖中作戰に参加します。

昭和18(1943)年8月4日、聯隊は上海に集結、9月11日、大本營は第十七師團の南太平洋方面への派遣を発令、24日、上海出航、10月2日、トラック島を経由、5日、ニューブリテン島ラバウル港到着、聯隊主力は同島西部のツルブに前進し歩兵第六十五旅團(松田巌少将)指揮下に編入され、第三大隊はブーゲンビル島に進出します。

11月1日、ブーゲンビル島タロキナに米軍が上陸を開始、今村中将は在島の第十七軍隷下の歩二十三(浜之上俊秋大佐)の攻撃に策応すべく、11月5日、第六中隊は歩五十四第二大隊を主力とする第二機動決戰隊(第二劍部隊、三輪光広少佐、877名)編入され、ブーゲンビル島タロキナ岬に逆上陸を実施します(第一次タロキナ攻撃)。
第二劍部隊は米軍主陣地に攻撃を開始、戦闘は優位に進展しますが、8日、米軍が戦車を投入してきた事で次第に損害が増加、11日、遂に攻撃は頓挫し同日連絡のついた歩二十三と合流し、爾後持久に転じます。

12月26日、敵主力がナタモ、タワレに上陸を開始、シリマチ岬守備隊、第一中隊・蔵森小隊が玉砕、28日、エボシ岬守備の第一中隊野々村小隊と歩兵砲中隊主力が玉砕、ナタモ附近の敵攻撃の第一大隊第一機關銃中隊主力、第一歩兵砲小隊の主力が玉砕、12月29日、第三・第四中隊がタワレの敵に切込み玉砕してしまいます。

12月30日、第一大隊生存者はエボシ山付近で激戦、聯隊は戦線を整理、聯隊長・角谷弘毅大佐は残存兵力をもって玉砕を決心するも、松田少将の命令を受けツルブ飛行場での持久戦を決定します。

昭和19(1944)年1月3日、第二大隊、三角山西方で激戦、第二・第七機關銃中隊が玉砕、10日、聯隊主力は敵の攻撃を阻止しつつナタモ正面、29日、次いでカブブ、ラバウル富士見台に転進、5月、第六師團(神田正種中将、熊本)の補充を受け戦力を回復、7月25日、編成改正により歩兵第八十一聯隊第一大隊(石田誠一大尉、姫路)の残存兵力を編入、ブーゲンビル島の第三大隊は歩兵第八十一聯隊に編入され、持久戦を実施します。

一方、昭和18(1943)年10月5日、第三大隊はブーゲンビル島タリナに上陸、20日、テンブツの守備に就きます。
11月1日、米軍がタロキナに上陸を開始、第六師團歩兵第二十三聯隊(河野孝次大佐、都城)が攻撃するも頓挫してしまいます。

昭和19(1944)年3月10日、歩兵第四十五聯隊(真方勲大佐、鹿児島)の指揮下、第二次タロキナ作戰に参加するも、敵の圧倒的な火力に阻まれ兵力が半減、27日、中止命令により友軍の転進援護を実施、4月3日、ヌマヌマに転進、同地において防御戦を実施します。

昭和20(1945)年8月15日、勅語、22日、停戦奉勅命令を受領、戦闘行動を停止します。

8月31日、富士見台の聯隊本部において軍旗奉焼、昭和21(1946)年4~5月、内地帰還、復員します。


歩兵第三十八聯隊(雷三二一一)
明治28(1895)年4月17日、日清間に講和条約が締結され、明治二十七八年戰役(日清戦争)が終結します。
講和条約により我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月14日、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、我が国はこれらの外圧を排除し、特にソ連の脅威に対する自国の安全保障のため、明治29(1896)年3月14日、『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し、第七から第十二師團の編成を決定します。

明治29(1896)年9月25日、波多野毅大佐が歩兵第三十八聯隊長として補職、11月14日、歩兵第九聯隊第一大隊(大津)兵舎において聯隊本部、第一大隊本部を開設、12月1日、第一大隊が編成されます。
8日、第二大隊兵舎が失火により焼失、三井寺を仮兵舎とし、明治30(1897)年7月28日、京都府深草村の新兵営が竣工したため転営します。
12月1日、第二大隊が編成、明治31(1898)年3月24日、宮中において軍旗を拝受、12月1日、第三大隊が編成され編成完結、第四師團隷下の歩兵第十九旅團(大阪)に編入されます。
歩兵第三十八聯隊 軍旗(奈良)
▲歩兵第三十八聯隊 軍旗

明治34(1901)年6月、臺灣守備隊交代要員として220名、明治35(1902)年8月、171名、明治37(1904)年8月、171名、明治34(1901)年6月、清國派遣部隊として58名、明治35(1902)年12月、135名、明治36(1903)年5月、朝鮮駐箚隊に第三大隊、明治44(1911)年3月、第十中隊を派遣します。
明治35(1902)年11月14日、臺灣守備派遣隊第四大隊に編入されていた第一中隊が騒擾を企図した蕃族を討伐します。

明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、3月6日、聯隊に動員下令、4月14日、師團とともに大阪港を出港、5月10日、遼東半島塩大澳に上陸、15日、歩兵第十九旅團(安東貞美少将)に属し歩九とともに普蘭店を攻略、25日、金州、6月13日、得利寺、8月26日、遼陽の戦闘に参加、明治38(1905)年2月28日、奉天會戰に参加、9月5日、講和条約が締結され、12月15日、鉄嶺に集結、12月15日、京都に凱旋します。

明治40(1907)年9月17日、陸軍省は『陸軍管區表』・『陸軍常備團隊配備表』を改正、戦役中に臨時動員した第十三、十四、十五、十六師團を常設師團に改編するとともに、第十七・第十八師團の新設、及び編合を定めます。
この改編により歩兵第三十六聯隊は第十六師團(山中信儀中将、京都)に隷属転移します。

大正8(1919)年3月1日、第十六師團に滿洲駐箚が下令、4月、聯隊主力は兵営を出発し、大阪港を出航、大連、旅順の警備にあたり、大正10(1921)年4月京都に帰還します。

大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)により歩兵第五十三聯隊(奈良)は復帰、4日、歩兵第三十八聯隊は奈良市高畠の旧歩兵第五十三聯隊兵営に転営、補充地も奈良県に改編されます。

昭和4(1929)年2月21日、第十六師團に滿洲駐箚が下令、4月10日、聯隊は奈良を出発し大阪港を出航、14日、大連に上陸、18日、長春に屯営し警備にあたり、昭和6(1931)年4月、奈良に帰還します。

昭和9(1934)年3月17日、『軍令陸甲第八號』により第十六師團に滿洲駐箚が下令され、4月6日、聯隊に動員下令、21日、聯隊主力は奈良を出発、28日、新京・吉林に到着し第十六師團とともに關東軍の指揮下に編入され、聯隊は斉斉哈爾の警備にあたり、昭和11(1936)年4月、任務を終了し奉安を出発、6月、奈良に帰還します。

昭和12(1937)年7月7日、支那事變勃発に伴い、8月24日、第十六師團(中島今朝吾中将)に動員下令、第二軍(西尾寿造中将)戦闘序列に編入、9月5日、奈良を出発、大阪港を出航し、12日、塘沽に上陸、北寧鉄道に沿って天津に集結します。
14日、津浦沿線獨流鎮より浸水した河北平野を子冴河に添い南趙扶鎮に前進、第一線の歩兵第六十三聯隊(福榮真平大佐、松江)の戦線を継承、9月20日、大城付近の敵陣を攻撃し、22日、安慶屯、24日、東馬村を攻略、26日、支那軍の水陸の要衝沙河橋鎮を激戦の末に攻略します。

29日、献県に進撃、10月10日、寧普、12日、南和を経て京漢線に達し、浸水の河北平野約400kmを縦断、11月5日、正定から列車により、10日、大連に集結、12日、師團は上海派遣軍(松井石根大将)戦闘序列に編入され、11日、大連を出航、長江を溯上し、14日、徐六経口に上陸、支那国民党政府の首都・南京に向かって進撃を開始、16日、常熱に進撃、23日、無錫周辺の敵陣を攻略、24日、停車場を占領します。

12月10日、中支那方面軍司令官・松井石根大将は首都保衛軍司令官・唐生智に降伏勧告を行いますが、期限までに回答はなく、0300、攻撃命令が下り、聯隊は、12日、南京城外郭陣地を尭化門付近にて突破、13日、南京城和平門を攻略します。
13日、中支那方面軍隷下部隊の攻囲に、南京防衛の首都保衛軍司令官・唐生智は突然撤退命令を出すとともに逸早く脱出、首都死守を厳命されていた支那兵は混乱し下関を目指し潰走、我が軍は南京城を攻略、聯隊は師團命令により下関方面に転進、残敵の掃討にあたり、17日、入城式が挙行され、聯隊は周辺の警備にあたります。

12月23日、第十六師團は北支那方面軍(寺内壽一大将)戦闘序列に編入、聯隊は北支転進のため南京を出発、上海に集結し海路にて28日、大連に上陸、高邑付近の警備に付きます。

昭和13(1938)年4月7日、大本營は支那第五戦区軍(李宗仁、60万)を包囲殲滅すべく徐州作戰を下令、5月2日、徐州作戰参加のため済南を経て済寧に集結、11日、進撃を開始、14日、金郷、19日、徐州北方高地の九里山を攻略しますが、支那軍が徐州を放棄し撤退、20日、軍は徐州を攻略します。

21日、敗走する支那軍を追撃すべく反転して隴海線沿いに西進、24日、碭山を攻略、31日、睢県に入り、6月1日、杞県を攻略、4日、尉氏に進出、挺進隊を新鄭付近に進出させ京漢線を遮断します。

9日、支那第三二軍長商震は蒋介石の命により我が軍の追撃阻止のため黄河の堤防を爆破(黄河決壊作戦)、自国民もろとも押し流し、15日には氾濫が尉氏付近に及び聯隊は孤立、第十師團(佐々木到一中将、姫路)に救出されるも追撃は遅滞してしまったため、東方に反転、7月7日、睢県付近に集結します。

八月末、漢口作戰参加のため盧州に集結、9月4日、六安を経て、17日、商城を攻略、大別山系の突破作戰を開始、山上に布陣する支那軍に苦戦しながらも約1ヶ月後突破に成功、麻城を経て孝感に進出、雲夢、安陸に進出します。

昭和14(1939)年4月、南昌作戰に呼応して漠水左岸の要衝・鐘祥を攻略、漢水渡河中の支那軍の逆襲を阻止し、5月1日、第十一軍の襄東作戰に参加、7月11日、第十六師團に復員が下令、14日、第十六師團隷下部隊は岡村寧次中将から感状を授与され、安陸、孝感に集結、8月17日、奈良に凱旋します。

昭和15(1940)年7月10日、陸軍省は『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』を発令(其ノ一は航空軍備増強)し常備部隊の編制を改編、既存師團を3単位に改編します。

昭和16(1941)年4月1日、關東軍隷下に戦略予備師團である第二十九師團(上村利道中将、名古屋)が臨時編成され、歩兵第十八(石井信大佐、豊橋)、歩兵第五十聯隊(緒方敬志大佐、松本)とともに隷属転移、16日、奈良を出発、滿洲遼陽に移駐し警備にあたります。

昭和19(1944)年2月20日、第二十九師團(高品彪中将)は南方(マリアナ諸島)派遣、第三十一軍(小畑英良中将)戦闘序列編入が下令され、聯隊(末長常太郎大佐)は歩兵3個大隊、砲兵1個大隊、工兵・補給・通信・衛生各1個中隊編制に改編されます。

20日、遼陽を出発し釜山に集結、24日、聯隊主力は師團司令部とともに安藝丸に乗船し出航、25日、宇品沖(広島)に仮泊し物資を積載、駆逐艦「岸波」、「朝霜」、「沖波」の護衛の下、マリアナ方面に向かいます。

2月29日、沖大東島南方200kmにおいて敵潜トラウトの雷撃を受け、安藝丸大破(30名散華)、東山丸小破(不発)、崎戸丸が沈没(歩兵第十八聯隊長・門間健太郎大佐以下2,358名、船員52名、船舶砲兵65名散華)してしまいます(トラウトは朝霜が撃沈)。

3月4日、聯隊は大宮島(グアム)に上陸し、第三大隊は師團予備として本田台に、聯隊本部を有羽山(アリファン)北側、聯隊主力は島南部の昭和湾(アガット)に、第二大隊は聯隊右翼の表半島に『第二十九師團陣地構築要綱』に則り、陣地築城を開始します(昭和湾地区隊)。

6月11日、米軍が大宮島に空襲を開始、飛行場、港湾施設が破壊され、15日、米軍はサイパン島に上陸を開始します。

21日、軍司令官・小畑英良中将がパラオより大宮島に来着(司令部はサイパン、米軍の来寇により帰島が不可能に)します。

7月8日、大宮島に艦砲射撃が開始され、昼間の単独兵の行動、夜間の陣地補修が次第に困難になります。

9日、サイパン島守備の中部太平洋方面艦隊(南雲忠一中将)、第三十一軍(井桁敬治少将(軍司令官代理))が総攻撃を決行し玉砕してしまいます。
7月中旬、第三大隊(第九中隊は師團予備として残置)は聯隊に復帰、聯隊左翼に陣地築城を開始します。

18日、大宮島に空母15隻による本格的な空襲が開始、戦艦6、巡洋艦9、駆逐艦57による艦砲射撃が、7月21日0500、戦艦6、巡洋艦9、駆逐艦57隻による艦砲射撃、0600、艦載機による空襲の後、0700、昭和湾、明石湾の2ヶ所から米軍が上陸を指向、師團主力は明石湾に所在していたため昭和湾は歩三十八聯隊独力での防戦となります。

0730、米第77歩兵師団、第1臨時海兵師団の上陸用舟艇300隻は第一大隊正面に侵攻、聯隊は敵舟艇を海岸近くまで引き付け山砲、速射砲、機関銃を集中し、数十隻を撃破するも米軍の艦砲、空襲により火砲の大半が破壊され、第4海兵連隊が第一大隊左翼に上陸を強行、水際の第二中隊陣地が突破され大隊本部に浸透、1000、第一大隊長・大原末蔵大尉は有羽山山裾の第二線部隊である第一中隊を指揮して逆襲、敵の機関銃により右手に貫通銃創を負うも屈せず左手に軍刀を翳して突撃しますが遂に散華、第一大隊・第一、第二中隊の生存者30名は聯隊本部に転進、第22海兵連隊により水際右翼の第三中隊陣地も突破され中隊長・竹村省吾大尉が散華、中隊生存者は昭和町の廃墟に拠りつつ第二大隊に転進します。

第二大隊(奥城強治大尉)、第三大隊(長縄弘大尉)は火力を集中し第一大隊と連携、第五中隊(田中丹維人中尉)は機関銃の全火力を集中し昭和町北側に侵攻した米軍を撃退するなど防戦に努めますが、夕刻には昭和湾~番庄崎に敵の橋頭堡構築を許してしまい、聯隊は戦力の8割を失う大損害を受けてしまいます。

これ以上の継戦は不可能と判断、聯隊長・末長大佐は敵に余裕を与える事でますます陣地強化が図られる事を危惧、1730、師團長・高品中将に決別の電話連絡を入れ、本部洞窟内で軍旗を奉焼、2230、第一大隊、砲兵大隊、補給中隊を指揮、牧山(フェンナ)付近に布陣していた戰車第九聯隊第一中隊(幸積三中尉)の軽戦車5両を先頭に第4海兵連隊正面に、第三大隊は聯隊主力に呼応し番庄崎東側の敵橋頭堡に、連絡の途絶していた第二大隊は左翼の第六中隊が総攻撃を開始します。

聯隊主力は敵警戒兵を駆逐し前進、照明弾により白昼化され陣頭で戦闘指揮中の聯隊長・末長大佐が胸部に敵弾を受け散華するも、第三大隊は敵橋頭堡の第一線、第二線陣地を突破、22日0400、第22海兵連隊本部まで進撃しますが、戦車、対戦車砲による激烈な防御放火を受け第三大隊長・長縄大尉が散華、遂に玉砕してしまいます。
歩兵第三十八聯隊長・末長常太郎大佐(奈良)
▲歩兵第三十八聯隊長・末長常太郎大佐(陸士二十六期)
  「鬼の聯隊長」と呼称された猛将で、高品中将は総攻撃の許可を求める大佐に当初は天上山の複郭陣地に転進する様に要望しますが、大佐の多数の部下が散った昭和湾を離れる事は能わず、もはや戦力の大半を失い戦術も無いなかで敵に余裕を与えまいとする決心を聞き、参謀を派遣し状況を判断、戦闘を指導する時間的な余裕も無く、遂に「貴隊ノ健闘ヲ祈ル」と返答します。

22日、聯隊生存者(砲兵大隊30名、第三大隊70名、戰車中隊50名、補給中隊180名、他300名)は砲兵大隊長・青木邦男少佐が指揮、敵の侵攻を拒止しつつ師團主力に連絡すべくマンガン山に向かい、連絡の途絶した第二大隊は海軍陸戦隊(七五五空司令・楠木幾登中佐)とともに第一飛行場を確保すべく表半島で戦闘を続行します。
同日、須磨道で敵の侵攻を拒止し、再三に渡り撃退していた第六中隊長・田邉誠中尉が敵戦車の砲撃を受け散華してしまいます。

24日、第二十九師團長・高品彪中将は戦力の極度の低下に鑑み、明石湾において総反撃を決し「25日2400、総反撃」を下令(昭和湾地区隊は折田(オルドット)への集結を下令)しますが、敵の激烈な防御砲火、艦砲射撃に阻まれ、26日0800、総反撃は頓挫してしまいます。

25日、航空機・火砲に支援され戦車を伴う米軍が本田台・マンガン山に侵攻、本田台の歩三十八第九中隊は獨歩三百二十二大隊、獨混十砲兵大隊の残存十榴1門とともに反射面陣地を利用し、また肉攻により米軍を拒止しますが第九中隊長・石井兼一中尉、獨歩三百二十二大隊長・濱田速雄少佐が散華するなど次第に損害が増加、マンガン山東側台上の獨混三百二十・三百二十一大隊も戦車を伴う敵の強襲をうけ兵力が半減してしまいます。

26日、師團司令部との連絡が途絶え、敵中に孤立していた表半島の第二大隊は夜襲を敢行しますが、第二大隊長・奥城大尉が散華するなど甚大な損害を受けてしまいます。

27日、昭和湾地区隊は牧山を経て折田に集結、表半島守備隊指揮官・七五五空司令楠木中佐は残存兵力を結集し総攻撃を敢行、玉砕してしまいます。

28日、本田台守備の獨混十聯隊長・片岡一郎中佐が散華、師團長・高品中将が陣地移動中に的野高地(マカジナ)中腹で散華、軍司令官・小畑中将が代わって指揮を継承します。

生存者は本田台南側谷地、的野高地付近から逐次、折田に集結、春田山に左翼隊集成3個中隊、平塚に右翼隊集成5個中隊を配置(軍参謀長・田村義冨少将指揮)、米軍の拒止に努め、また重傷者の後送を指示し、軍司令官は徒歩で又木山(マタグアック、大宮島北端)に向かいます。

31日、艦砲射撃と航空機に支援された米軍は北方に指向し明石市、次いで南下を開始し品川、折田西部に侵攻、8月2日、春田山に、3日、平塚に戦車を伴う米軍が侵攻、火砲全損、将兵も大損害を受け防御線が突破されてしまいます。

軍は多久井岬の線で敵を拒止すべく部隊を右翼隊(藤井少佐指揮、250名)、中央隊(佐藤少佐指揮400名)、左翼隊(大川少佐指揮250名)に再編、武器弾薬の欠乏、さらに水不足のなか敵の侵攻阻止にあたりますが、6日、中央隊守備の里井、右翼隊守備の宇久井陣地も突破され、7日、敵は高原山、又木山に浸透してきます。

9日、米軍戦車50両が軍司令部の又木山前面に侵攻、対戦車装備を持たない軍は苦戦、小畑中将は兵力の激減に鑑み11日黎明を期して総攻撃を決します。
10日1400、敵戦車の攻撃に又木山の防御線が突破されてしまい、司令部も敵の攻撃に晒されますが、敵は夜半に一旦集結地に後退します。

生存者約300名は司令部壕に集結、10日2000、小畑中将は大本營に決別電を打電、11日0000、通信機を破壊し、重要書類を焼却、0700、米軍戦車が再び侵攻を開始、戦闘指揮中に作戦参謀・橋田精中佐が散華、1435、小畑中将、軍参謀長・田村義冨少将は司令部壕内において拳銃で自決、12日、敵は又木山東側道路を突破、北島角方面に侵攻、13日、白浜海岸を見下ろす台端に達し、大宮島守備隊は玉砕してしまいました。

生存者はなおも密林に籠もって継戦するなか、昭和20(1945)年9月15日、師團参謀・武田英之中佐以下1,000名が米軍に正式投降します(守備隊総員20,810名、19,135名散華、1,305名生還)。

昭和47(1972)年2月2日、歩兵第三十八聯隊の補給中隊所属の横井庄一軍曹が現地人に発見され、帰還しました。


歩兵第百三十八聯隊(烈一〇三五三)
昭和13(1938)年5月15日、留守第十六師團(中岡弥高予備役中将)に動員下令(第六動員)、18日、歩兵第三十八聯隊留守隊に編成下令、23日、宮中において軍旗を拝受、24日、編成完結します。

聯隊は歩兵第百九(上住良吉大佐、京都)、第百二十(志摩源吉大佐、福知山)、第百三十三聯隊(石谷甚三郎大佐、久居)とともに第百十六師團隷下に編入されます。

5月20日、第百十六師團は大陸命第百七號により中支那派遣軍(畑俊六大将)戦闘序列に編入、武漢作戰への派遣が決定しており、18日、奈良を出発、19日、大阪港を出航、23日、上海に上陸、漢口と南京を結ぶ長江河畔の警備にあたります。

9月13日、安慶に移動、長江沿岸の警備にあたり、12月8日、大通南方地区作戰に参加します。

昭和14(1939)年9月23日、中支那派遣軍が復帰、師團は支那派遣軍戦闘序列の第十三軍戦闘序列(西尾寿造大将)に編入されます。
12月16日、長江岸冬期作戰に参加します。

昭和15(1940)年4月4日、春季皖南作戦、5月7日、湖東作戦、10月15日、秋季皖北作戦、11月25日、北方潯陽作戰に参加します。

昭和17(1942)年12月19日、軍令陸甲第百二十一號により第百十六師團の編合を脱し、25日、歩兵第二十六旅團(宮崎繁三郎少将)に編入され長江河畔の警備にあたります。

昭和18(1943)年2月10日、旅團の南方派遣が決定、昭南島(シンガポール)に上陸、馬来半島の警備にあたります。

3月22日、軍令陸甲第二十四號により第三十一師團(佐藤幸徳中将)の臨時編成が下令(5月10日、編成完結)、聯隊は復員のうえ編成下令、6月10日、ペグーにおいて編成完結します。

7月12日、ガザ県インドウに到着、緬甸第七防衛管區北地區の警備にあたります。

10月5日、モーライ県バンコクに移駐、チンドウィン河畔の警備にあたりつつ、ウ號作戰(インパール作戰)の準備に着手します。

昭和19(1944)年3月13日、ウ號作戰発動、聯隊はインパール北方の要衝・コヒマ攻略を下令され、15日、チンドウィン河を渡河、アラカン山脈を踏破し、3月27日、印緬国境を突破、ゼッサミ、カラワムにおいて英軍を撃破、4月3日、第一大隊がコヒマに進撃し敵倉庫群を攻略します。

しかし、先行してコヒマに進撃していた歩兵第五十八聯隊より「当地は旧コヒマであり新コヒマは別にある」旨の報告を受け、第三十一師團隷下の各部隊は新コヒマ(高地に強固な陣地がある)に向け進撃します。

4月8日、第一大隊は英軍の主陣地・イヌ高地、第二大隊はコヒマ病院陣地に攻撃を開始するも、激烈な攻撃を受け大損害を受け、10日、攻撃は頓挫してしまいます。
23日、第一大隊は再度イヌ高地を攻撃、激烈な白兵戦を展開しますが、またも大損害を受けてしまい攻撃は頓挫、さらに敵の逆襲が開始され、糧食補給が途絶え絶食が続きます。

25日、聯隊は山砲第三十一聯隊第一大隊(高嶋祐雄少佐)を配属され右地區隊(歩百三十八)として英軍の侵攻拒止にあたります。

5月4日、英軍の反攻は激化、戦車を伴う敵の侵攻に中地區の要地・五一二〇高地が陥落、中地區隊(山砲三十一基幹)が激戦ののち、高地を奪還します。

14日、英軍の激烈な砲爆撃的に三叉路高地を失陥、24日、五一二〇高地に航空機、火砲の支援を受けた英軍1個師団が侵攻してきますが、26日、地區隊は激戦ののち、敵に大損害を与え撃退します。

29日、再度英軍は高地に火砲の砲撃に続き戦車、火炎放射器を伴い侵攻、地區隊は敵の拒止にあたりますが、31日、弾薬の欠乏から第一線陣地は次第に敵に浸透されます。

6月2日、弾薬、糧食の途絶からこれ以上の継戦は不可能と判断した師團長・佐藤中将は転進を下命、逐次各地區隊は正面の敵から離脱、転進を開始します。

聯隊は戦闘による疲労、糧食の欠乏に加え雨季による河川の氾濫、泥濘化した山道に多くの落伍者が発生するなか、7月9日、インド国境を突破、(10日、ウ號作戰は中止)、9月12日、サガインに集結します。

第十五軍は英第14軍の追撃を受けつつビルマ中部のマンダレー付近のイラワジ河まで転進、10月1日、英軍の侵攻を拒止すべく緬甸方面軍(木村兵太郎中将)は侵攻してくる英軍をイラワジ河畔において拒止すべく盤作戰(イラワジ会戦)を発動、師團は作戦計画に沿ってマンダレー西方のシュエボ付近に集結、昭和20(1945)年1月初旬、シュエボ北方カンバルに歩五十八、シュエボに歩百二十四、サゲインに歩百三十八と山砲三十一が布陣、陣地を構築します。

12月26日、英印第19師団がカンバルに侵攻、歩五十八はカンバル北方の縦深陣地において敵の侵攻を拒止しますが、英印軍は包囲態勢に入ったため、昭和20(1945)年1月1日、師團命令により転進南下、1月7・8日、歩五十八を追撃してきた英印軍がシュエボに侵攻、歩百二十四は敵の激烈な砲撃により損害が増加、各陣地に浸透され敵が退路遮断に入ったため敵中を突破しイラワジ湖畔に転進します。

2月中旬、師團主力を追撃してきた戦車を伴う英印軍がサゲインに侵攻、師團はマンダレー南方50kmのキャウセに転進、敵の進行拒止にあたりますが、5月1日、ラングーンが陥落したため、さらにモールメン地区に転進し海岸からの敵上陸に備えるべく、5月初旬、聯隊は南下を開始、6月下旬、マルタパンに集結、陣地構築中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


歩兵第百五十三聯隊(狼一八七〇三、中部第六十七部隊)
昭和15(1940)年7月10日、『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』により新設が決定、大阪、姫路、篠山、和歌山、奈良、鯖江、岡山、鳥取の各聯隊、補充隊より基幹要員を抽出し、8月10日、編成完結(林正直大佐)、昭和16(1941)年9月10日、宮中において軍旗を拝受します。
聯隊は1個大隊基幹の低定員編制で、同じく後に師團化を想定した第六十四獨立歩兵團(松山祐三少将、奈良)隷下に編入され、奈良において幹部現地教育、初年兵教育、不発弾処理班教育、部外団体教育、耐寒演習、実践演習に加え、南方派遣要員の特別教育等を実施します。

昭和19(1944)年1月6日、『軍令陸甲第二號』により臨時編成下令、30日、聯隊は兵営を出発、31日、博多駅に集結後、博多港を出港、同日、釜山港に上陸、2月1日、列車により龍山の旧歩兵第七十九聯隊兵営に移駐し、南方での戦闘を想定した教育訓練を実施します。

5月27日、『軍令陸甲第五十九號』により編成改正、及び歩兵第七十九聯隊補充隊の編成下令、6月13日、第一次編成完結、1月6日に留守第二十師團司令部、第六十四獨立歩兵團を基幹に編成された第四十九師團(竹原三郎中将、龍山)隷下に編入され、15日、第二次編成を完結します。

聯隊の第一大隊は近畿地方出身者を中心に編成、第二大隊は第一・第三大隊からの要員で編成、第三大隊は朝鮮衛戍部隊を中心に編成されました。
なお、『戦史叢書』を始め各種資料、ウィキペディア等に「当師團は朝鮮出身者が20%を占める」と記載されていますが、これは“朝鮮在住の日本人も含めた数字”で、実際に生粋の朝鮮人は4~5%であり誤りです。

5月31日、第四十九師團は南方軍(寺内壽一大将)戦闘序列の緬甸方面軍(木村兵太郎中将、ラングーン)戦闘序列に編入され、6月21日、聯隊主力は第二次輸送部隊として兵営を出発、26日、釜山を出航、7月3日、楽洋丸に乗船し、4日、門司港を出港、12日、第一大隊は第四次輸送部隊として兵営を出発、19日、ダーバン丸、チャイナ丸に分乗し釜山を出航、28日、聯隊主力はサイゴンに上陸し、9月2日、アランミョウに到着し、陣地構築、戦闘訓練にあたりますが、8月21日、第四次輸送部隊乗船のだあばん丸がカムラン湾沖において敵潜の雷撃を受け、10月18日、輸送船(船名不明)がマニラ沖で空襲により沈没、第一大隊を失ってしまいます。

9月3日、聯隊は山砲兵第四十九聯隊第三大隊を配属され、第二十八軍司令部(櫻井省三中将)の指揮下に編入、メイクテーラ西方のエナンジョン油田の防衛にあたります。

4月中旬、エナンジョン油田に英印第20師団が侵攻、聯隊は英印軍の拒止にあたりますが、戦車を伴う攻撃に損害が増加、17日、遂にエナンジョンを失陥、19日、軍命令によりイラワジ河畔に転進を下令され、追撃してきた英印軍を撃破、5月10日、イラワジ河を渡河、ペグー山系東側稜線に集結します。

5月3日、ラングーンが陥落、ラングーン-プローム街道に英軍が浸透したため、第二十八軍は緬甸方面軍との連絡線が遮断され敵中に孤立、軍司令官・櫻井中将は隷下・指揮下兵團にペグー山系に集結後、6月15日、シッタン河を渡河しシャン高原西麓を突破、モールメンへ転進を下命します。

7月20日、聯隊はペグー山系東端稜線を出発、マンダレー街道を突破、23日、疲労、悪疫により落伍者が続出するなかシッタン河西岸に集結、7月下旬、聯隊は濁流と化したシッタン河を渡河しますが多数の将兵を失い、シャン高原を踏破、トングー南方を転進中、8月25日、停戦命令を受領しました。


第六十四獨立歩兵團司令部(中部第六十五部隊)
第四十九師團司令部(狼一八七〇一/司令部:狼一八七〇〇)
『歩兵第百六聯隊 (のち陸軍航空通信學校 神野教育隊)』参照


岐阜陸軍航空整備學校 (空五六五)
『岐阜陸軍航空整備學校 ・ 岐阜第一航空教育隊』参照


主要参考文献
『奈良市史 通史四』 (平成7年 奈良市役所)

『歩兵第五十三聯隊史』 (昭和56年5月 歩兵第五十三聯隊戦友会)

『歩兵第三十八聯隊史』 (大正6年8月 帝國聯隊史刊行會)

『わが聯隊―陸軍郷土歩兵聯隊の記録 写真集』 (昭和53年10月 ノーベル書房)

『グアム島玉砕戦記』 (平成11年8月 佐藤和正 光人社)

『戦史叢書(6) 中部太平洋陸軍作戦 第1 マリアナ玉砕まで』 (昭和42 朝雲新聞社)

『大阪・奈良 戦争遺跡歴史ガイドマップ〈2〉』 (日本機関紙出版センター平成15年1月)

米軍撮影空中写真 (昭和21年10月 国土地理院)

googleの地図
関連記事



最後までお読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
↓↓↓
宜しかったらクリックお願いします


人気ブログランキングへ

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ
検索フォーム
正定事件の真実
戦史検定を受けよう!
当ブログは
「戦史検定」を応援します
戦史検定
カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ
御英霊の鎮まる処
殉国の御英霊に
感謝の誠を捧げましょう
靖國神社
兵庫縣神戸護國神社
大阪護国神社
プロフィール

盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

拙ブログを参照した際はリンクを張って頂けたら嬉しいです
(^o^)
--------------
※掲載写真・資料の
無断転載は禁止します。

リンク
最新コメント
埼玉西武ライオンズ
埼玉西武ライオンズ
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる