当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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歩兵第四十聯隊

鳥取県鳥取市に敬愛する漫画家・水木しげる先生が入営した事で知られる歩兵第四十聯隊がありました。

兵営では後に歩兵第百四十聯隊、歩兵第百二十一聯隊、歩兵第二百聯隊、歩兵第四百四十六聯隊、歩兵第四百六十四聯隊、歩兵第五百八聯隊、歩兵第三百四十一聯隊が編成されます。

因みに先生は歩兵第四十聯隊が満洲移駐後に編成された歩兵第百二十一聯隊補充隊に応召、歩兵第二百二十九聯隊に配属されました。
歩兵第四十聯隊 A 聯隊/大隊本部/経理室庁舎 南東から(鳥取)
▲三洋テクノソリューションズ鳥取㈱に遺る聯隊本部庁舎

【探索日時】
平成25年7月15・16日





歩兵第四十聯隊兵営 概略
明治28(1895)年4月17日、日清間に講和条約が締結され、明治二十七八年戰役(日清戦争)が終結します。
講和条約により我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月14日、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、我が政府はこれらの外圧、特にロシアの侵攻に備え安全保障のため、明治29(1896)年1月、軍備増強を決定し、3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し第七から第十二師團の編成を決定します。
4月22日、第四師團司令部副官・田中正知中尉から「鳥取市と岡山市が新設聯隊の候補地として内査中」との情報を得た尾崎武久・鳥取市長代理は、兵営設置に伴う農工商業の需要増大により廃藩以降、沈滞した市勢の興隆を図り、尚武の民風回復の好機として宮崎貞蔵を上京委員に任命し、上阪中の田中政春・市長、上京中の深野一三・県知事の同意を得て陸相・大山巌大将に兵営設置の請願書を提出します。
5月1日、陸軍省は『陸軍常備團體配備表』を改正し、地理形勢、交通の便、物資供給の利便から新設兵営用地として鳥取市郊外の岩美郡國府村の耕地を選定し歩兵第四十聯隊の設置を決定、28日、軍備増強により財政が逼迫していた陸軍省は、用地の献納を兵営設置の条件としたため、財政に余力の無かった鳥取市は池田輝知侯爵(旧藩主家)に必要用地の約半分にあたる40,000坪分の献金を請願、7月5日、池田侯爵より了解を得ます。

6月26日、臨時陸軍建築部大阪支部・武井瀧次郎大尉は佐藤啓行・岩美郡長ほか県市関係者同道のうえ測量を実施、28日、同支部は鳥取県より献納用地の引渡証を受領、8月5日、用地の登記が完了、8月下旬、立川町に臨建大阪支部の建築事務所が開設され、聯隊施設を起工します。
明治30(1897)年4月25日、凡そ竣工した営舎に大阪から歩兵第四十聯隊本部、第一大隊が転営、明治31(1898)年12月1日、編成完結します。
歩兵第四十聯隊兵営全景(鳥取)
▲北東から見た兵営・衛戍病院全景

明治37(1904)年5月17日から明治39(1906)年2月21日、明治三十七八年戰役(日露戦争)において補充大隊、明治40(1907)年10月6日から明治41(1908)年9月24日、滿洲駐箚、大正4(1915)年3月25日から大正5(1916)年9月16日、青島守備、昭和6(1931)年4月11日から昭和8(1933)年5月5日、満洲事変、昭和12(1937)年8月9日から昭和14(1939)年8月15日、支那事変において留守隊が編成されます。
歩兵第四十聯隊営門(鳥取)
▲歩兵第四十聯隊 営門(撮影時期不明)
  聯隊設置当初の門柱は煉瓦だった様です

歩兵第四十聯隊 営門跡(鳥取)
▲現在の営門跡

昭和13(1938)年6月16日、留守隊において歩兵第百四十聯隊を編成(7月10日、北支に出征)、昭和15(1940)年8月7日、歩兵第四十聯隊の満洲移駐に伴い、歩兵第百二十一聯隊が編成されます。
昭和18(1943)年4月6日、歩兵第百二十一聯隊のビルマ出征に伴い同聯隊補充隊が編成され、昭和19(1944)年7月10日、補充隊において歩兵第二百聯隊、昭和20(1945)年2月28日、歩兵第四百四十六聯隊歩兵第四百六十四を編成、4月1日、歩兵第百二十一聯隊 補充隊は廣島軍管區 歩兵第四補充隊に改称、2日、歩兵第五百八聯隊を編成、5月23日、歩兵第三百四十一聯隊を編成中に、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により陸軍施設は内務省を通じ大蔵省に移管されます。
10月21日、米第6軍第10軍団第24歩兵師団が香川県三津浜港に入港、26日、愛媛県立図書館を接収し司令部を開設、29日、第20歩兵連隊のオスボン少佐以下197名が鳥取市に進駐し聯隊兵営を接収、昭和21(1946)年5月15日、米軍は英印軍第1パンジャブ連隊と交替、昭和22(1947)年10月、パンジャブ連隊は撤退し兵営は大蔵省に移管されます。

昭和24(1949)年5月31日、『国立学校設置法』が制定され兵営において鳥取大学が発足、昭和41(1966)年4月、大学は湖山町に移転したため、跡地は高田勇・鳥取市長の誘致を受けた三洋電機㈱が買収し、7月1日、鳥取三洋電機㈱として発足します。
現在は三洋テクノソリューションズ鳥取㈱として三洋の名称を継承しています。


遺構について
歩兵第四十聯隊 施設(鳥取)
▲歩兵第四十聯隊周辺の陸軍施設
① 歩兵第四十聯隊
② 鳥取陸軍病院
③ 〃 拡張部

④ 鳥取陸軍練兵場
⑤ 鳥取陸軍射撃場
⑥ 鳥取陸軍墓地
※緑文字が当記事の紹介施設

① 歩兵第四十聯隊
現在、歩兵第四十聯隊の兵営は大半が三洋テクノソリューションズ鳥取㈱、東側の一部が市立岩倉小学校(昭和56年4月2日、開校)になっています。
兵営は民間企業に移管されたにも関わらず、聯隊本部庁舎、兵舎、将校集会所、覆練兵場等の歩兵聯隊の主要建物がそのままの姿で遺り、全国的に見ても唯一の非常に珍しい場所といえます。
以下に紹介の遺構は一部が外周から見えますが、大半は三洋テクノソリューションズ鳥取内にあるため、見学には事前連絡が要ります。
歩兵第四十聯隊 現在(鳥取)
▲遺構の配置

A 聯隊本部・大隊本部庁舎
明治30(1897)年4月19日に竣工します。
玄関や窓、内部は改装されていますが、外観はほぼ当時のままです。
驚異的なくらい状態が良いですが、現在は使用されておらず税金の問題も有り取り壊したいとの事です。
歩兵第四十聯隊 A 聯隊/大隊本部/経理室庁舎 南東から(鳥取)
▲正面側

歩兵第四十聯隊 A 聯隊/大隊本部/経理室庁舎 西から(鳥取)
▲別角度から

歩兵第四十聯隊 A 聯隊/大隊本部/経理室庁舎 菊の御紋の場所(鳥取)
▲当時は正面の破風部分にに菊の御紋を頂いていました

当時の写真を見ると窓枠は屋根から地面まで白く塗られていました。
歩兵第四十聯隊聯隊本部庁舎(鳥取)
▲昭和14年10月26日、歩兵第四十聯隊留守隊長・落合松二郎大佐と将校・下士官

歩兵第四十聯隊 A 聯隊/大隊本部/経理室庁舎 北西から(鳥取)
▲側面

歩兵第四十聯隊 A 聯隊/大隊本部/経理室庁舎 北東から(鳥取)
▲裏側


イ 防火水槽
兵営内のあちこちに防火水槽がありますが、当時の物か不明です。
後ろに見える建物は昭和22年の空撮に写っていない様なので、戦後の物と思われます。
歩兵第四十聯隊 イ 防火水槽 南西から(鳥取)


ウ 防火水槽
コンクリート製水槽ですが、詳細は不明です。
歩兵第四十聯隊 ウ 防火水槽 北から(鳥取)


B 将校集会所
明治31(1898)年3月26日に竣工します。
現在は事務所として使用されています。
かなり改装されていますが、辛うじて当時の面影が遺ります。
歩兵第四十聯隊 B 将校集会所 西から(鳥取)
▲正面側

歩兵第四十聯隊将校集会所(鳥取)
▲当時の将校集会所

歩兵第四十聯隊 B 将校集会所 南東から(鳥取)
▲古写真と同じ角度から

歩兵第四十聯隊 B 将校集会所 入口 南西から(鳥取)
▲正面入口
  石段や両側の飾り石に当時の雰囲気が遺ります

歩兵第四十聯隊 B 将校集会所 東側の入口(鳥取)
▲東側の入口
  当時のままでしょうか?

歩兵第四十聯隊 B 将校集会所 北東から(鳥取)
▲裏側

歩兵第四十聯隊 B 将校集会所北側の付属屋 北東から(鳥取)
▲将校集会所の裏には剣術道場が附属しています。
  昭和9(1934)年11月30日に竣工します。

歩兵第四十聯隊 B 将校集会所 入口 南東から(鳥取)
▲将校集会所区画の入口に門柱が遺ります


ア 庭園
樹木が繁り分かり難いですが池は“心”の型をしているそうです。
歩兵第四十聯隊 ア 将校集会所庭園(“心”型の池)(鳥取)


C 聯隊砲中隊兵舎
玄関に車寄せが増築、西側に建物が連結されている以外は驚異的な状態の良さです。
歩兵第四十聯隊 C 聯隊砲中隊兵舎 南西から(鳥取)
▲正面側

歩兵第四十聯隊 C 聯隊砲中隊兵舎 北西側の入口(鳥取)
▲西側の入口は閉鎖されています

歩兵第四十聯隊 C 聯隊砲中隊兵舎~E 第一兵器庫 渡廊下 兵舎から(鳥取)
▲裏側の下記附属屋に延びる渡り廊下も当時のままの様です

歩兵第四十聯隊 C 聯隊砲中隊兵舎 北東から(鳥取)
▲裏側


D 聯隊砲中隊兵舎 付属屋
上記C兵舎の裏にある事から洗面所・便所かも知れません。
歩兵第四十聯隊 D 聯隊砲中隊兵舎 付属屋 北から(鳥取)


エ 防火水槽
コンクリート製水槽ですが、詳細は不明です。
歩兵第四十聯隊 エ 防火水槽 西から(鳥取)


E 第一兵器庫
南側は建物が密着しており見えませんが、北側を見る限り状態は良好です。
歩兵第四十聯隊 E 第一兵器庫 南西から(鳥取)
▲南側

歩兵第四十聯隊 E 第一兵器庫 北から(鳥取)
▲北側
  窓枠も当時のままの様です


F 営倉
営倉とは兵営内で起こった軽犯罪に対する懲罰房です。
歩兵第四十聯隊 F 営倉 南西から(鳥取)


G 面会所
昭和10(1935)年7月1日、竣工します。
こちらも驚異的なくらい良い状態です。
歩兵第四十聯隊 G 面会所 南西から(鳥取)
▲全景
  植木が邪魔で見通せません

歩兵第四十聯隊 G 面会所 西から(鳥取)
▲近影
  面会所のみ白色の塗装ですが、元々この色だったのか不明です


J 第三覆練兵場
大正2(1913)年2月20日起工、9月30日竣工、10月15日から第三大隊の練兵に使用されます。
現在は社員食堂として使用されています。
かなり改装されており、入口周辺に当時の雰囲気が遺る程度です。
大戦末期には決號作戰(本土決戦)に向け新設聯隊の編成が増加、3棟あった覆練兵場も全て兵舎に転用されます。
歩兵第四十聯隊 J 第三覆練兵場 南東から(鳥取)
▲入口回り
壁面の控壁基礎は煉瓦躯体にモルタル仕上です

歩兵第四十聯隊 J 第三覆練兵場 南西から(鳥取)
▲側面はかなり改装されています


H 第十・十一中隊兵舎
明治31(1898)年11月に竣工します。
竣工当初はモルタル仕上でしたが、昭和2(1927)年9月、板張りに改修工事を開始、11月完工します。
当時の写真と比べると窓が増やされ、窓枠も交換されています。
歩兵第四十聯隊 H 第十・十一中隊兵舎 南から(鳥取)
▲正面側
当時の写真に壁の支柱が写っていない事から、戦後に付けられた様です

歩兵第四十聯隊 H 第十・十一中隊兵舎 北側入口(鳥取)
▲玄関周りもほぼ当時のままです

歩兵第四十聯隊 H 第十・十一中隊兵舎 北側入口の当時のガラス(鳥取)
▲ガラスが波打っています

歩兵第四十聯隊 H 第十・十一中隊兵舎 南から (2)(鳥取)
▲側面

歩兵第四十聯隊 H 第十・十一中隊兵舎 北から(鳥取)
▲裏側

歩兵第四十聯隊 H 第十・十一中隊兵舎 裏の渡廊下 南西から(鳥取)
▲渡り廊下も遺ります


I 機關銃中隊兵舎
上記Hと連結されていますが、連結部は当然戦後の改造です。
こちらも状態は良好ですが、玄関周りは若干改装されています。
歩兵第四十聯隊 I 機關銃中隊兵舎 南から(鳥取)
▲正面側
  樹木が邪魔で見通せません

歩兵第四十聯隊 I 機關銃中隊兵舎 東から(鳥取)
▲正面側近影

歩兵第四十聯隊 I 機關銃中隊兵舎 北側入口(鳥取)
▲玄関周り

歩兵第四十聯隊 I 機關銃中隊兵舎 北から(鳥取)
▲側面と裏側

歩兵第四十聯隊兵営(鳥取)
▲昭和9年5月6日、満洲事変の凱旋祝賀行事の写真
  左からH兵舎、I 兵舎、A聯隊・大隊本部庁舎


オ 防火水槽
昭和22年の空撮に写っており、陸軍時代の物の様です。
歩兵第四十聯隊 オ 防火水槽 北西から(鳥取)


カ コンクリート基礎
地面にコンクリート基礎が埋まっていますが、詳細は不明です。
歩兵第四十聯隊 カ 便所跡?基礎(鳥取)


キ 防火水槽
コンクリート製水槽ですが、詳細は不明です。
歩兵第四十聯隊 キ 防火水槽(鳥取)


ク 酒保庭園
この区画の西側に酒保がありましたが、現在は庭園の痕跡が遺る程度です。
歩兵第四十聯隊 ク 酒保庭園(鳥取)
▲全景

歩兵第四十聯隊酒保(鳥取)
▲当時の庭園


ケ 凱旋記念
酒保庭園にあります。
日露戦役の凱旋記念碑です。
裏面に「明治三十八年十二月 寄贈 中川時太」の刻字があります。
歩兵第四十聯隊 ケ 凱旋記念(鳥取)

歩兵第四十聯隊 ク 酒保庭園 池?(鳥取)
▲庭園跡にある池の跡
  上掲古写真にも池が写っていますが、形状が違います


サ 鳥取聯隊之跡
昭和38(1963)年4月、第5回四〇会(昭和47年4月、鳥取聯隊会に改称)により建立が決定、昭和40(1965)年12月5日、被服倉庫付近に建立されます。
昭和47(1973)年4月末、道路拡幅に伴い、南側の現在地に移設されます。
歩兵第四十聯隊 サ 鳥取聯隊之跡(鳥取)


② 鳥取陸軍病院
③ 〃 拡張部

明治30(1897)年4月25日、大阪から歩兵第四十聯隊本部、第一大隊が鳥取の新兵営に転営、5月1日、鳥取衛戍病院が開院します。
昭和11(1936)年11月10日 勅令第三百八十七號により『衛戍病院令』は『陸軍病院令』に改題、鳥取陸軍病院に改称します。
昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、8月9日、歩兵第四十聯隊が出征、還送患者急増に伴い用地を拡張し病棟、娯楽室、酒保、手術室等を増設、日本赤十字社鳥取病院を管下に編入、鳥取陸軍病院 鳥取赤十字病院とします。
昭和16(1941)年7月16日、特臨編第三號(第百二次動員)により鳥取陸軍病院に臨時動員下令(關東軍特種演習第二次動員)、第十師團第三野戰病院、同防疫給水部の基幹要員を抽出します。

昭和18(1943)年9月10日、鳥取地震が発災、11日、応急救護班を編成し修立国民学校に救護所を開設するとともに軽症入院患者を姫路陸軍病院に転送し、被災民300名及び家族を付添として無料で収容、陸軍省より多量の衛生材料、薬品、食糧が補給されます。
8月6日、米軍により広島に原子爆弾が投下され、60名の患者を収容、治療にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時の医院長は河端廣医少佐、分類は三等甲病院、病床数は300床でした。

12月1日、鳥取陸軍病院は厚生省に移管され、国立鳥取病院に改組、昭和28(1953)年4月1日、国立結核療養所に移管され国立療養所鳥取病院に改組、平成17(2005)年7月1日、国立療養所西鳥取病院と統合し鳥取市三津字輪田に移転、跡地は更地になり何も遺されていません
歩兵第四十聯隊 ②③鳥取陸軍病院跡(鳥取)
▲鳥取陸軍病院跡の現況


衛戍・編成部隊
歩兵第四十聯隊(國四九〇四、満洲第九六〇部隊)
明治28(1895)年4月17日、日清間に講和条約が締結され、明治二十七八年戰役(日清戦争)が終結します。
講和条約により我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月14日、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、我が政府はこれらの外圧、特にロシアの侵攻に備え安全保障のため、明治29(1896)年1月、軍備増強を決定し、3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し第七から第十二師團の編成を決定します。

明治29(1896)年5月1日、陸軍省は『陸軍常備團體配備表』を改正し歩兵第四十聯隊の鳥取への設置を決定、第六師團(熊本)より聯隊長・梅澤道治中佐、歩兵第十聯隊(姫路)より第一大隊長・冨田質彌少佐以下将校、歩兵第二十聯隊(大阪)より下士官、定期入営の新兵を加え歩兵第二十聯隊において聯隊本部、第一大隊の編成完結、歩兵第八旅團(沖原光孚少将)に配属され事務を開始します。
歩兵第八旅團は新設第十師團隷下に定められますが未だ編成中のため、一時的に第四師團隷下に配属されます。

明治30(1897)年4月20日、歩兵第四十聯隊本部、第一大隊は大阪を出発、25日、凡そ竣工した鳥取の新兵営に転営、12月1日、歩兵第十聯隊より将校・下士官を抽出、第二大隊を編成、明治31(1898)年3月24日、宮中において軍旗を拝受します。
歩兵第四十聯隊軍旗(鳥取)
▲歩兵第四十聯隊 軍旗

11月13日、第十師團司令部(伏見宮貞愛親王中将)が姫路に開庁、歩兵第八旅團は第四師團から隷属転移し、12月1日、歩兵第十聯隊より将校・下士官を抽出、第三大隊を編成、聯隊の編成が完結します。

明治30(1897)年9月20日、安間中尉以下146名は台湾守備に派遣、以降、明治31(1898)年9月29日、94名、明治32年6月23日、228名、明治33年6月20日、228名、明治34年7月1日、224名、明治35年8月28日、169名、明治36年8月19日、171名が聯隊から台湾守備部隊として派遣されます。

明治34(1901)年6月12日、聯隊は清國駐屯軍歩兵第五大隊第二中隊(田村乙吉中尉以下165名)を編成し姫路に派遣、歩十、歩二十、歩三十九より抽出の中隊と合流、26日、姫路を出発します(明治34年11月15日、帰還)。

明治36(1903)年12月12~15日、師團は兵庫県下において行われた特別大演習に東軍として参加、16日、姫路城北陸軍練兵場において挙行された観兵式に参加します。

明治37(1904)年2月10日、ロシアの強硬な南下政策に端を発し明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、4月16日、師團に動員下令、28日、聯隊の動員完結、5月17日、鳥取を出発、20日、姫路、23・24日、宇品に集結、29日、師團第二梯団として宇品を出航、6月3~8日、南尖澳に上陸、師團は獨立第十師團として第一・第二軍の中間に作戦し、両軍に策応体制を採ります。

23日、聯隊は師團左側援護の東條支隊(歩兵第八旅團長・東條英機少将)として仙家峪南方高地を攻略し露軍騎兵を撃破、6月27日、遼陽に向かう要所・分水嶺の右翼に進撃し、弟兄山を攻略し敵軍を撃破します。

7月9日、接官听南方で敵歩砲兵、10日、仙家峪南方で敵軍を撃破し秀才溝を攻略します。
16日、師團は滿洲軍(大山巌大将)隷下の第四軍(野津道貫大将)戦闘序列に編入、30日、聯隊は師團左翼隊として太平嶺に進撃、激戦ののち太平嶺一帯を攻略、8月25日、遼陽會戰では師團左翼隊として進撃、27日、換甲峪西方-窪子峪西方高地を攻略、9月1日、聯隊は師團中央隊として進撃、激戦ののち第二軍が首山堡を突破し敵が退却したのに乗じ早飯屯西南一八八高地を攻略、同日、歩二十が遼陽城を攻略します。
10月7日、沙河會戰に参加し、1日、北大山に布陣し敵と交戦、11日、小堡北端に集結し、師團の三塊石山(我が中央軍の左翼前面に突出した敵の半永久陣地)の夜襲戦を敢行し第五・第六中隊が山頂一番乗りを果たし攻略(野津大将より感状授与)、第四軍の作戦を進捗させ、虎盤山に布陣します。

明治38(1905)年3月1日、師團は奉天會戰に第四軍右翼隊として部署され、5日、聯隊は師團左翼隊として歩十とともに柳樹屯西部に攻撃を開始、8日、激戦ののち柳匠屯の堅陣を攻略、さらに聯隊は師團前衛として潰走する露軍を追撃し、9日、渾河を渡河し狼煙台北方高地で露軍2個大隊を撃破し下馬家湾下に進撃、滿洲軍命令により奉天西方に向け進撃中、一家勾付近で師團先頭の歩十が露軍の逆襲を受けたため第二大隊を急派し敵を撃破、11日、奉天城陥落を受け、18日、敗走する露軍を追撃しつつ柴家北に進撃します。
6月21日、聯隊は茶棚庵付近に侵攻してきた敵歩騎砲兵を撃破、9月1日、講和条約が締結され、明治39(1906)年1月26日、聯隊は茶棚庵を出発、2月5日、柳樹屯を出航、2月15~18日、鳥取に凱旋、21日、復員完結します。

明治40(1907)年10月、第十師團は第十六師團(山中信儀中将、京都)に代わり滿洲駐箚が決定、10月6日、聯隊は2個中隊を留守隊として残置し鳥取を出発、広島に集結後、12日、師團司令部とともに宇品港を出航、15日、大連に到着、16日、第三大隊は奉天に向かい、17日、聯隊主力は鉄道により大連を出発、18日、鉄嶺に到着、歩五十六と交替し警備にあたり、明治42(1909)年9月13日、鉄嶺を出発、9月24日、鳥取に帰還します。

明治43(1910)年11月13~16日、師團は岡山県下において行われた特別大演習に東軍として参加、17日、岡山陸軍練兵場において挙行された観兵式に参加します。

大正元(1912)年9月23日、鳥取市内の水害に際し600名を派遣し、被災民の救援にあたります。

大正3(1914)年11月15~18日、師團は大阪府下において行われた特別大演習に北軍として参加します。

大正4(1915)年3月9日、青島守備交代のため、師團に歩兵第八旅團を基幹として混成第八旅團(宇宿行輔少将)の編成下令、10日、聯隊は2個中隊を留守隊として残置し、12日、編成完結します。

25・26日、聯隊は鳥取を出発し列車にて神戸に移動、27日、豊富丸、御吉野丸に分乗し神戸を出航、30・31日、青島に上陸し防子から済南にかけた沿線沿いの守備にあたります。
11月1日、第一大隊は守備軍の軍備整理に伴い、鳥取に帰還します。
大正5(1916)年9月6~10日、青島大港に集結、10日、第五眞盛丸、玄海丸に乗船し出航、13・14日、宇品に上陸、15・16日、鳥取に帰還します。

大正7(1918)年2月6日、聯隊は混成大隊を編成(松浦鐵彌少佐)、雪中行軍として大山を登頂、船上山、倉吉、俵、鹿野を経由し195kmを踏破、15日、無事に帰営します。

大正12(1923)年9月7日、第十中隊(羽佐田良吉大尉)は北京駐屯歩兵隊として鳥取を出発、大正13(1924)年9月25日、12月4日、鳥取に帰還します。

大正14(1925)年4月10日、聯隊は南満洲駐箚のため第三大隊を留守隊として編成、15日、鳥取を出発、16日、広島に到着、17日、歩兵第八旅團司令部(柴山重一少将)とともに万世丸に乗船し宇品を出航、21日、大連に上陸、23日、鉄嶺に到着、歩六十四から任務を引き継ぎます。
11月下旬、奉郭戦乱(奉天軍閥の郭松齢が首領の張作霖に対し起こした謀反)が勃発、12月6日、居留民保護のため聯隊は第三・第七中隊を残置し歩八旅團司令部とともに奉天の警備にあたり、24日、郭軍の惨敗、郭の処刑により戦乱は収束したため、29日、鉄嶺に帰還します。

昭和2(1927)年4月15日、第十師團は駐箚任務終了のところ、蒋介石の北伐により中支方面の情勢が悪化したため帰還は中止され、20日、聯隊は歩二に任務を移譲し鉄嶺を出発し周子に移駐、7月8日、師團に居留民保護のため青島派遣が下令され、山東臨時派遣第十師團を編成、10日、大連を出航、12日、青島大港に上陸、青島、四方、滄口に分駐し警備にあたります。
8月30日、蒋介石軍の撤退に伴い、9月8日、聯隊は神瑞丸に乗船し青島を出航、12日、広島似島に碇泊、13日、検疫ののち、15日、鳥取に帰還します。

5月23日、北但大震災が発災、聯隊留守隊は救援隊(小島少佐以下116名)を編成し城崎において被災民の救援にあたります。

昭和6(1931)年9月18日、張学良による反日侮日政策、及び南滿洲鐡道㈱の権益収奪政策が実施されるなか柳条湖事件(滿洲事變)が勃発、12月17日、臨時派遣部隊として混成第八旅團(村井清規少将)の編成下令、18日、第一大隊(宮崎富雄少佐)が混成旅團に編入され、20日、旅團の編成完結、22日、鳥取を出発し宇品を出航、25日、安東に到着し、第二十師團の指揮下に入り鳳凰城付近の警備にあたり、昭和7(1932)年1月2日、奉天に移駐、4日、新民付近で来襲した匪賊500を撃退、23日、哈爾濱に移駐し警備にあたります。

昭和7(1932)年4月7日、關東軍増強のため第十師團の滿洲派遣が決定し臨時編成下令、11日、聯隊は鳥取を出発、12日、あむうる丸に乗船し宇品を出航、16日、大連に上陸、19日、哈爾浜に到着し、20日、第一大隊を掌握、周辺の警備にあたり、22日、第一中隊長・三枝延壽大尉を装甲列車長として一面坡方面の匪賊を討伐します。

4月24日、關東軍は丁超、李杜(反吉林軍:反日反滿の張学良系兵匪)討伐のため松花江作戰を発動、聯隊は特別山砲小隊を村井支隊(歩八旅團長・村井清規少将)に編入、5月8日、支隊は哈爾浜を出発し、9日、南天門に到着、15日、松花江を舟艇機動により下り、二道河子付近で匪賊500を撃破、16日、三姓に上陸し敵を追撃、再び舟艇機動により湯原城を攻略、23日、松花江を遡江し哈爾濱北方の井辺に上陸し、24日、呼蘭の匪賊を殲滅し同地を攻略、26日、支隊は哈爾濱に帰還します。

29日、聯隊は一面坡に移駐、烏吉密河駅付近の匪賊を討伐します。

11月、第二大隊は拉賓線警備隊として鉄道建設の警備にあたります。

昭和8(1933)年2月20日、聯隊は張学良に寝返った湯玉麟を討伐し、熱河地方の治安を回復するため關東軍の熱河作戰に参加、混成歩三十三旅團(中村馨少将)指揮下に編入され一面坡を出発、熱河省内乾溝鎮、長城界嶺口付近に集結した湯軍15,000を殲滅すべく第六、第八師團に策応し南下します。
3月10日、聯隊先遣隊の第一大隊は界嶺口に進撃、12日、聯隊主力が加わりて敵情を偵察、16日、聯隊は旅團右翼隊として左翼隊の歩十ともに界嶺口西方1,500mの長城最高望楼付近に対し第一回攻撃を開始し長城を攻略、24日、聯隊は旅團左翼隊となり第二回、4月10~13日、第三回総攻撃を実施、繆微流軍4,500を撃破し抬頭営に入城し作戦を終了、同地の守備にあたり一面坡に帰還、さらに周辺の匪賊討伐を行い、吉林省内の治安を推進します。

昭和9(1934)年1月26日、吉林省東北に蟠踞する高玉山軍討伐のため聯隊は一面坡を車両で出発、2月3日、虎林に到着、5日、煙匪地区に進撃したところ、匪賊はソ連領に遁走したため、22日、一面坡に帰還、4月30日、吉林省の治安は回復したため任務を完了、一面坡を出発、5月5日、鳥取に帰還します。

昭和11(1936)年5月1日、支那駐屯歩兵第一聯隊第五中隊(6日、山崎雅良大尉以下160名にて編成完結)、第二機關銃中隊(2日、野田千代松特務曹長以下26名にて完結)、聯隊要員(他大隊本部要員3名)を抽出、3日、機關銃中隊、6日、第五中隊は鳥取を出発します。

昭和12(1937)年7月7日、北京郊外の盧溝橋北演習場において演習中の支那駐屯歩兵第一聯隊第三大隊に対し、支那第二九軍(宋哲元)が発砲し北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、10日、停戦協定が成立しますが、25日、郎坊事件、26日、広安門事件など度重なる支那第二九軍の違法不法行為により、28日、支那駐屯軍(田代皖一郎中将)は自衛、及び抗日勢力を一掃し事件解決を促進すべく攻撃を開始、北京・天津を平定しますが、蒋介石の北上・介入により事変は拡大します。

7月27日、第十師團に第五動員一號が下令、29日、動員一日目、8月7日、聯隊の動員完結(長野義雄大佐)、8月9・10日、鳥取を出発し、12・13日、神戸を出航、18日、大沽に上陸後、豪雨の中を行軍し、22日、天津に集結、31日、師團は北支那方面軍(寺内壽一大将)隷下の第二軍(西尾壽造中将)戦闘序列に編入されます。

8月13日、蒋軍の違法行為、挑発により第二次上海事変が勃発、我が軍と蒋軍の全面戦闘に発展します。

25日、聯隊は天津を出発、静県、9月7日、大超家窪に集結、10日、第一大隊が流河鎮(馬廠)前方要地・小王荘を夜襲にて攻略、続いて流河鎮を攻略、11日、第二大隊は敗敵を追撃し青県城を攻略、21日、人合荘を攻撃、特火点に苦戦しつつ敵陣を攻略、24日、滄県城を攻略し、師團第一梯団右縦隊として運河東側堤防道に沿って敗敵を追撃し、10月3日、第二・第三大隊が徳県城を攻略します。

11月7日、徳県城を出発、12日、臨邑付近で敵の退路を遮断し清涼店で殲滅、12月24日、聯隊は師團主力として曲阜で黄河を渡河、28日、歩十が攻略した済南城に入城し警備にあたります。

昭和13(1938)年1月5日、泰安に移駐し警備にあたり、2月12日、済寧城北門に山東軍(第五五軍・曹福林)の一部が侵攻、聯隊は長野支隊として克州に集結、第三大隊を先遣隊として二十里舗に進撃し、16日、二十里舗、白果樹において山東軍を撃破、17日、支隊が歩八旅團の守備する済寧に増援したため、山東軍は撤退を開始、20日、支隊は山東軍を追撃し周辺の敵二九・七四・八一・二二師20,000を逐次撃破、25日、嘉祥城に入城します。

18日、聯隊は3月上旬に蒋介石が済寧奪還を企図し、李家屯に侵攻させた1個旅を同地、26日、同地西方土山橋で撃破します。
4月上旬、李宗仁軍10個師が南山東に侵攻、18日、聯隊は長瀬支隊(歩八旅團張・長瀬武平少将)右翼隊として王山及び同南方高地の敵を撃破、19日、第二大隊は鵞山を攻略、20日、第三大隊は前山頭を攻略します。
聯隊は右追撃隊として敗敵を追撃、22日、敵の逆襲を撃破、23日、辛荘付近で敗敵を殲滅、26日、第一大隊は鍋山、第三大隊は同山西方火石埠南方高地の敵陣を攻略、27日、敵拠点・禹王山を攻略、敵1個師の激烈な逆襲を大損害を受けながらも撃退し堅守、5月5日、付近の掃討を終えます。

4月7日、集結した蒋軍50個師(李宗仁)を包囲殲滅すべく大本營は徐州會戰を下令(大陸命第八十四號)、5月7日、北支那方面軍、中支那派遣軍(畑俊六大将)は作戦を発動します。
12日、師團は徐州西北に進撃を開始、聯隊は第五師團指揮下に編入され南下、18日、支援射撃のもと敵防御陣地第一線の大運河の敵前渡河を開始、対岸の敵を撃破し追撃に移行しますが、蒋軍は徐州を放棄し我軍の間隙をついて撤退、20日、徐州東南・褚蘭に進撃し敗敵を殲滅、28日、第十師團復帰を下令されたため徐州を経由し、6月3日、択城西南に集結し土匪の討伐にあたり、7月14日、毫県、8月17日、盧州(合肥)に移駐します。

7月4日、中支那派遣軍、北支那方面軍、第一軍、第二軍の戦闘序列が更改され、第二軍(東久邇宮稔彦王中将)は中支那派遣軍(畑俊六大将)戦闘序列に編入されます。
8月22日、大本營は漢口作戰(6月15日、御前会議において決定)を下令、24日、聯隊は盧州を出発し西進、9月7日、陽関舗において歩八旅團司令部(岡田資少将)と合流、旅團先遣隊として、17日、光州城を攻略、20日、旅團の急進に敵は潰走したため羅山城を攻略します。
26日、要所・羅山奪還を企図し胡宗南軍(第一・第一〇九師・第一二四師等4,500)が羅山城に侵攻、27日、旅團追求中の聯隊は羅山東方地区に急進し南下、29日、苦戦しつつ張湾、小羅山を攻略し敵を撃退、追撃に移りますが師團命令により歩六十三と交代し羅山に帰還します。
10月12日、聯隊は信陽城を攻略、20日、第一大隊を旅團直轄とし、師團左側背に侵攻して来た胡宗南軍を歩六十三第二大隊、野砲十第八中隊等とともに柳林市付近で撃破、24日、第二大隊は第三師團指揮下に編入され、京漢線に沿って南下、聯隊は大隊西方を進撃し大別山系において敗敵を撃破、第一大隊は旅團とともに大別山系を踏破し、14日、応山北方、26日、徳安に進出、28日、同心店で敵を撃破し、28日、徳安を攻略、29日、応城を攻略、11月2日、聯隊主力は徳安に入城、9日、徳安南方を掃討、長江埠の警備にあたります。

10月29日、第十師團は北支那方面軍の戦闘序列に編入され北支移駐が決定、11月30日、聯隊は漢口を出発、南京より徐州、済南、北京を経由し、12月15日、順徳に移駐し同地、及び邯鄲の警備にあたり戦力を回復します。

昭和13(1938)年1月9日、聯隊本部を邯鄲、10日、第二大隊を武安、11日、第一大隊を平郷、鶏澤、第三大隊を永年に配置、師團の北支粛正作戦において雅台、沙河、南和、任県、平郷、鶏澤、威県、広宗、清河、永年、曲周、武安、邯鄲の匪賊討伐を実施します。

昭和14(1939)年8月11日、大陸命第三百二十九號により師團に復員下令、9月下旬、邯鄲に集結、10月2日、邯鄲を出発し、8日、青島を出航、15日、鳥取に凱旋します。

昭和15(1940)年4月16日、第十師團に軍備改変に関する指示が下達(3単位師團への改変、及び満洲移駐)され、7月10日、『軍備改編要領 其二』により、8月1日、第十師團は關東軍(梅津美治郎大将)直轄として滿洲移駐が発令、同日、聯隊に編成下令、7日、歩兵第四十聯隊、及び新設歩兵第百二十一聯隊の編成が完結します。
13・14日、聯隊は鳥取を出発し宇品に集結、16日、徳島丸に乗船し宇品を出航、20日、大連に上陸し第十師團隷下を離れ、7月29日に新設された第二十五師團(桑原四郎中将、東寧)に隷属転移、歩兵第十四聯隊(外立岩治大佐、小倉)、歩兵第七十聯隊(岩部重雄大佐、篠山)とともに第二十五歩兵團(池田廉二少将)に配属され、21日、錦州に到着します。

11月10日、第二十五師團は關東軍より第五軍(波田重一中将、東安)に隷属転移、12月7日、聯隊は錦州を出発、13日、東安省密山県平陽に移駐、国境警備及び訓練にあたります。

昭和16(1941)年7月16日、特臨編第三號(第百二次動員)により第二十五師團に臨時動員下令(關東軍特種演習第二次動員)、24日、『關東軍特別演習令』に基づく臨時編成令第二編成二號が下令され、28日、編成着手、企図を秘匿しつつ逐次応急派兵の態勢に移行するとともに、国境付近の要所確保の準備を開始、8月3日、準備を完了、5・6日、編成完結、独ソ戦の推移から対ソ連戦を見越した準備を開始しますが、9日、ソ連軍の西部移駐は予測以下なことから対ソ開戦は中止され、『帝國陸軍作戰訓令』別冊第二章に基づき情勢の推移を見つつ、引き続き国境防衛の強化・訓練にあたります。

10月2日、師團は第二十軍(關龜治中将)に隷属転移、東面中央部隊に部署され、引き続き対ソ戦を念頭に国境防衛の強化・訓練にあたります。

11月1日、我が国は大本營政府聯絡會議において『帝國國策遂行要領』を策定し開戦の準備に入るとともに、最大限の譲歩案を提示し外交交渉による対米戦争回避を図りますが、26日、米国側から『アメリカ合衆國と日本國の間の協定で提案された基礎の概要(ハル・ノート)』が提示され、米国に戦争回避の意思が無い事を認識、12月1日、御前会議において米・英国との開戦を決定、8日、第二十五軍の泰國、英領馬来上陸、海軍のハワイ作戦により大東亜戦争が開戦します。

昭和17(1942)年5月27日、第二大隊長・山本重一少佐指揮のもと国境陣地増強のため勝山峠一帯に築城を実施します(7月10日、完成)。

6月27日、軍令陸甲第四十三號により第一、第二方面軍が編成され、7月4日、大陸命第六百五十五號により關東軍隷下に編入されます。
第二十軍は第一方面軍(山下奉文中将、牡丹江)に編入され、対ソ開戦に際し左助攻部隊として航空撃滅戦に続き国境を突破、マンゾフカへの進撃が策定されます。

昭和19(1944)年2月19日、陸亞機密第四十九號により「イ號演習」(戦力の抽出)を実施、第十一野戰補充隊に兵460名を転属、2月21日、陸亞機密第四十號により「第二次イ號演習」を実施、第十一野戰補充隊に兵467名を転属させます。

2月20日、師團よりロ號演習参加部隊(サイパン島への増派転用)の編成派遣準備の要旨が下令され、第三大隊(河村勇二郎大尉以下618名)が抽出、23日、第一派遣隊の編成着手、25日、編成完結、關東軍總司令官隷下に編入され、27日、第一派遣隊は第三十一軍に隷属転移、大隊は平陽を出発します。
歩兵第四十聯隊 昭和19年、出陣記念に撮影(鳥取)
▲昭和19年、出陣記念に撮影された聯隊長・愛甲立身大佐(2列目左から6人目)と第三大隊長・河村勇二郎大尉(その右)及び第三大隊全将校

第一派遣隊(訓二五五一)
第二十五歩兵團 (岡芳郎大佐)
歩兵第十四聯隊 第三大隊 (江藤進大尉)
歩兵第四十聯隊 第三大隊 (河村勇二郎大尉)
歩兵第十聯隊 第三大隊 (永島朝好少佐)
歩兵第八十九聯隊 第三大隊 (佐々木己代太大尉)
獨立山砲兵第三聯隊(第二大隊欠) (中島庸中佐)
野砲兵第十聯隊 第三大隊 (山根庄三大尉)
工兵第二十五聯隊 第三中隊 (米谷尚信中尉)

2月25日、第三十一軍(小畑英良中将、サイパン)戦闘序列が発令されます(3月10日、統帥発動)。

3月1日、派遣隊は同じく關東軍で編成された第三・第五・第六・第八派遣隊とともに但馬丸、第一真盛丸、高岡丸、玉鉾丸、対馬丸、日美丸に分乗し釜山港を出航、8日、横浜に入港します。
12日、第一派遣隊は第三十一軍司令部とともに東松二號船團(輸送船12隻)として第十一水雷戰隊(高間完少将、旗艦・軽巡「龍田」、駆逐艦「野分」、「朝風」、「夕凪」、「卯月」、海防艦「平戸」、敷設艇「測天」、「巨濟」、第二十號掃海艇の護衛を受け木更津を出航、13日1300頃、八丈島西南西付近で敵潜サンドランスの雷撃を受け龍田(26名散華)、國陽丸(722名散華)が沈没してしまいますが、19日、第一派遣隊は無傷でサイパン島に入港、大隊はガラパン付近に露営します。

20日、チャランカノア製糖所に派遣隊本部が開設され、22日、守備隊部署が発令され、大隊は予備隊(東小地區)としてラウラウ北方のチャチャ小学校に大隊本部を開設し、築城及びアスリート飛行場の防護作業を開始します。

5月19日、サイパン島防衛の主力として第四十三師團(齊藤義次中将)がサイパン島に上陸します。

22日、軍令陸甲第五十八號により第一派遣隊は獨立混成第四十七旅團に改編され(6月6日、改編完結)、大隊はパガン島に移駐し獨立混成第九聯隊第三大隊に改編を予定し、6月8日、東小地區の守備を獨立歩兵第三百十五大隊(山門精二大尉、旧歩十四第三大隊)に移譲し、11日の出航を期して準備しますが、米軍艦載機による空襲が開始され大隊の出航が不可能となったため、旧陣地に向かいます。

13日、戦艦7、駆逐艦11隻による艦砲射撃が開始され、14日、さらに戦艦8、巡洋艦5隻が加わります。
15日0542、米戦艦、巡洋艦24隻による激烈な艦砲射撃とともに米第2海兵師団がオレアイ、第4海兵師団がチャランカノアに上陸を開始、0744、第一波上陸部隊が海岸に侵攻して来ます。

オレアイの水際陣地第一線の歩百三十六第二大隊(安藤正博大尉)、戰車九第四中隊(吉村成夫大尉)、後方に布陣した獨立山砲兵第三聯隊(中島庸中佐)、ヒナシス丘陵の野戰重砲兵第九聯隊第二大隊(黒木弘景少佐、十五糎榴弾砲15)は全火力を集中し砲撃を開始、続いて白兵突撃により戦車8、水陸両用戦車30両以上を撃破し米軍の上陸を拒止しますが、圧倒的な物量を誇る米軍は4波に渡り上陸を強行、我が第一線は次第に圧迫され、安藤大尉が散華するなど大損害を受けオレアイからチャランカノア南方にかけて数百mに及ぶ橋頭保を構築されてしまいます。

歩四十第三大隊はチャチャに集結中でしたが、第九派遣隊(有馬純彦大佐)、獨歩三百十八大隊(宮下龜治大尉)とともに師團命令により第一線陣地増援のため急進、13日午後、河村大尉は第十中隊(辻清中尉)を率い戰車九第四中隊とともにオレアイ、第十二中隊(小林章中尉)はナフタン岬の米軍に逆襲を敢行、米軍を水際に押し切る寸前まで進撃しますが、艦砲射撃の支援を受け体勢を立て直した米軍の反撃を受け、戰車中隊長・吉村大尉、小林中尉が散華するなど大損害を受けてしまいます。
また、ヒナシス丘陵にあった獨混四十七旅團司令部も艦砲射撃により旅團長・岡大佐が散華してしまいます。

同日、第三十一軍参謀長・井桁敬治少将(司令官・小畑英良中将不在のため)は軍全力の逆襲により敵を一気に撃砕すべく夜襲を下令しますが、連絡線の寸断、昼間の激戦から集結が遅れ第一線配備部隊による局地逆襲になってしまいます。
2100、歩百三十六はオレアイの敵橋頭堡に夜襲を敢行、16日0200、横須賀海軍第一陸戰隊も加わりオレアイ三叉路付近の敵連隊本部まで迫りますが、艦砲射撃の支援を受けた戦車、機関銃の銃砲撃に歩百三十六第一大隊長・福島勝秀大尉が散華、またチャランカノア方面でも0230、0330、夜襲を敢行しますが獨歩三百十六大隊長・江藤進大尉が散華する等、守備隊は700名を失い大損害を受け攻撃は頓挫してしまいます。

16日、齋藤中将は軍全力による夜襲を下令、17日0215、大隊は右翼に第九中隊(村上巍中尉)・速射砲・大隊砲・各小隊、右翼後方に機關銃中隊(坂手真澄中尉)、左翼に第十一中隊(高橋清中尉)を部署、ススペ湖東側に前進、オレアイ(無線局)の米第2海兵師団橋頭堡に戰車第九聯隊第一波に続き、戦車第二波、歩百三十六聯隊、歩十八第一大隊等とともに夜襲を敢行します。
戰車第九聯隊は敵第一線を突破し敵指揮所、砲兵陣地まで進撃、続いてガラパン南方から歩百三十六第一大隊、横須賀海軍第一陸戰隊がオレアイ飛行場に突撃しますが、照明弾で白昼化されたうえ、当日揚陸された多数の戦車、対戦車砲、火砲に阻まれ攻撃は頓挫、戰車九聯隊長・五島正大佐、歩百三十六第三大隊長・野々村春雄大尉、歩十八第一大隊長・久保正男大尉を始め歩兵多数が散華、戦車29両が撃破され軍戦力は急速に低下、大隊は村上中尉、坂手中尉が散華する大損害を受けてしまいます。
重傷を負った河村大尉は生存者とともにコーヒー山に転進、民家の水槽に負傷した5名程の部下と退避しますが、侵攻してきた米軍に包囲され、斬り込みを敢行し散華してしまいます。
歩兵第四十聯隊 河村勇二郎大尉(鳥取)
▲第三大隊長・河村勇二郎大尉
  敵上陸初日、逆襲により敵を水際に押し切る寸前まで敢闘します

同日、高射砲第二十五聯隊第六中隊(遠藤直一少尉)、獨立工兵第七聯隊(小金澤福次郎大佐)が相次いで玉砕しヒナシス丘陵一帯の陣地を失陥、火砲を全損した野重九第二大隊長・黒木少佐は部下とともに斬り込みを敢行し散華、18日、アスリート飛行場を失陥、米第4海兵師団が島東岸ラウラウ湾に侵攻したため、島南東端のナフタン山(獨歩三百十七大隊:佐々木巳代太大尉)は孤立してしまいます。

18日、急迫する戦局に井桁少将は残存部隊(歩兵5個大隊、砲兵1個大隊、野砲12、高射砲6、戦車10)に防御に適したタポチョ山嶺の新防御線への転進を下令、20日、前衛陣地の一六三高地に米第24・25海兵連隊が侵攻、大隊は歩百三十六、歩十八第一大隊、戰車九とともに抗戦しつつ新防御線に転進します。
大隊(100名)は予備隊としてチャチャに布陣、新防御線は西からガラパンに海軍部隊、タポチョ山西麓五根高地に西山集成大隊(西山敬九郎中佐、獨立臼砲第十七大隊、船舶工兵等)、タポチョ西側稜線から二八六高地-三四三高地に歩百三十五、タポチョ東側ラウラウ湾岸に歩百十八、歩十八第一大隊、ハグマン半島の北岸に獨混四十七旅團、チャチャ西方に戰車九が布陣し築城を開始します。

21日、一六三高地を失陥、22日、米軍は戦車150両を伴い我が新防御線に総攻撃を開始、斬り込み、肉迫攻撃により敵の侵攻を拒止しますが、23日、三四三高地-二八六高地、24日、三四三高地、チャチャ、26日、遂にタポチョ山頂を失陥してしまいます。

27日、敵は全線に渡り攻撃を開始、28日、ガラパンに侵攻、29日、陸海軍合同司令部は戦闘指揮所を地獄谷へ移動、7月2日を期して兵力を再編成すべく、タナパグ-二二一高地-タロホホの線を最終防衛線として転進を下令、7月2日、守備隊の転進に追尾して米軍は急速に浸透、ガラパン-二二三高地(タポチョ山北3km)-二二一・五高地-タロホホの線に侵攻を許してしまいます。

4日、タナパグ港、ガラパン東側高地、ポンタムチョー岬を失陥、米軍は地獄谷南側に侵攻、5日、合同司令部は全般の状況に鑑みガラパン方面への総攻撃を決定、参謀次長に訣別電を打電後、無線機を破壊し重要書類を焼却、6日2100、最高司令官の中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一中将、第四十三師團長・齋藤義次中将、第三十一軍参謀長・井桁敬二少将、第五根拠地隊司令官・辻村武久少将が司令部内において古式に則り自決、第六艦隊司令長官・高木武雄中将、南洋庁支庁長(北部支庁長)・辻正保大佐、第四十三師團野戰病院長・深山一孝医中佐以下重傷患者600名等も相次いで自決します。

7日0300、陸海軍将兵、在郷軍人、警防団員、青年団員等一般在留邦人も交えた3,000名はマタンサに集結、第四十三師團参謀長・鈴木卓爾大佐、同参謀・吉田正治中佐、同・平櫛孝少佐指揮の下、3梯団に分かれ地獄谷から南側山地、及びマタンサの海岸線と山地の間を南方に向かい総攻撃を開始、俘虜尋問から攻撃に備えていた敵第105歩兵連隊第1・第2大隊陣地を突破、敵を恐慌状態に陥れタナパグ付近まで進撃しますが、態勢を建て直した米軍の砲撃を受け進撃は停止、随所で昼頃まで敢闘しますが玉砕してしまいます。

生存者は尚も各地に潜伏し遊撃戦を続行しますが、敵の掃討により次第に減少、昭和20(1945)年に入り、大隊附・田中徳祐中尉指揮の一群がハグマン半島の海岸洞窟、歩十八衛生隊長・大場榮大尉指揮の一群がタポチョ山西側のタコ山に潜伏、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

生存者は米軍と停戦協定を締結、9月2日、獨立混成第九聯隊長・天羽馬八少将から降伏命令を受領、12月1日、大場大尉以下47名が下山(その後、25名が山中で収容)、大場大尉、田中中尉は降伏式に臨みます。

一方、聯隊主力は
昭和20(1945)年1月中旬、新兵備計画、20日、決號作戰(本土決戦)に向け『帝國陸海軍作戰計畫大綱』が策定され、22日、軍令陸甲第十三號により第十六方面軍(横山勇中将、福岡)が編成、28日、軍令陸甲第三十四號により第一次兵備が下令され第二十五師團(加藤怜三中将)は第五十七師團(上村幹男中将)とともに九州への転用が決定します。

3月15日、大陸命第千二百七十四號により師團は第十六方面軍戦闘序列に編入、16日、師團に転進下令、26日、聯隊は平陽を出発、4月5日、釜山港を出発、6日、博多に上陸、列車にて宮崎県西諸県郡飯野町(現、えびの市)に到着します。
4月上旬、小林に進出した師團は機動打撃師團に位置付けられ、師團司令部を小林村(現、小林町)北方の山中に開設します。

17日、団体長会議において内地決戦における任務を指令され、敵上陸部隊破砕すべく地形偵察、陣地築城、物資保管隧道設定、挺身攻撃(挺身斬込隊)、肉迫攻撃(特別攻撃隊)訓練にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

第二十五師團は古豪3個聯隊(歩十四、歩四十、歩七十)を隷下に持ち、装備、士気、団結も高く、敵上陸部隊破砕を目指し訓練に邁進しますが、その真価を発揮する事なく停戦を迎えました。

29日、飯野町の川内川右岸山中において第二十五師團長・加藤中将、副官代行九鬼憲男少尉立会のなか、中隊長以上が参列し軍旗が奉焼されます。
奉焼に先立ち聯隊長・愛甲立身大佐により旗頭(聯隊長保管)、房が参列者に頒けられます。
19日、復員式を挙行、米軍に軍需品を引渡し、復員完結、22日、師團は復員業務を開始、10月13日、復員完結します。


歩兵第五十三聯隊(月七三八四)
『歩兵第五十三聯隊 ・ 歩兵第三十八聯隊』を参照


歩兵第百四十聯隊(鷺三九〇九)
昭和13(1938)年6月16日、歩兵第四十聯隊留守隊において動員(小林長次大佐)、23日、宮中において軍旗を拝受、25日、動員完結、第百十師團(桑木崇明中将)隷下の歩兵第百八旅團(南雲親一朗少将)に編入されます。
歩兵第百四十聯隊軍旗(鳥取)
▲歩兵第百四十聯隊 軍旗

25日、第百十師團は北支那方面軍戦闘序列に編入され、7月10日、聯隊は鳥取を出発、11日、宇品を出航、16日、塘沽に上陸し、20日、北京郊外の天津に屯営し河北省北部の警備にあたり、8月20日、唐山に移駐し唐山北方山地作戦を実施し冀東地区の共産軍を討伐します。

10月11日、第一大隊は定県を出発、北部山西作戰に参加、喜峪北方高地において激戦ののち敵を撃退、11月13日、聯隊は唐山北方(冀東)地区討伐を実施します。

昭和14(1939)年1月10日、漢口作戦を終えた第二十七師團の北支復帰により、14日、聯隊は定興に移駐、定興西方地区唐湖鎮付近の討伐を実施、第一大隊は京漢線以東地区、第二大隊は保定、第五・第七中隊は北京、第三大隊は易県の警備にあたります。
4月、高碑店、次いで涿県に移駐し警備にあたります。

5月20日、易県大龍華村に来襲した八路軍(揚成武)800を撃退、24日、西陵に侵攻して来た八路軍独第一・第六師4,000を撃退、7月14日、易県西方地区の討伐を実施します。
7月22日、第十師團の復員に伴い、師團は警備地区を継承し石門に司令部を移駐、8月20日、聯隊本部は南宮、第一大隊は威県、第二大隊は南宮周辺、第三大隊は鋸鹿周辺に移駐し警備にあたります。
9月15日、第三大隊の3個分隊(稲葉實少尉)は田庄に糧秣受領に向かう途中、西劉屯付近で共匪に襲撃され防戦に努めますが稲葉少尉以下29名散華、11名負傷の損害を受けてしまいます。

11月1日、第二・第三大隊は師團の「ら號作戰」(五台山周辺の討伐)に参加します。

昭和15(1940)年1月24日、聯隊(第一・第二大隊)は「り號作戰」を発動、敵兵器廠、被服廠を破壊、2月18日、威県北方及び南方地区の討伐を実施、19日、第一大隊が威県北方垂陽村付近で共産軍を撃退します。

北支那方面軍は昭和15年度の重点項目として作戦上必要不可欠な作戦地域内の水路啓開を策定、3月18日、聯隊は濮陽河啓開作戰を実施、6月4日、第一大隊は方面軍の冀南作戰(河北省南山東方の三省境周辺の共産軍討伐)に参加、馬頭鎮、耶澤寨、南龍堂で敵を撃破、13日、劉固、韓固を攻略します。

13日、第一中隊守備の賀劉鎮に支那第一二九師冀南遊撃隊(宗仁窮)、第四分区(李営)が来襲、第六中隊が救援に向かい、敵を撃破します。
8月20日、支那第一八集団軍(朱徳)は百団大戦と称し10個師(彭徳懐)により我が警備地区の交通線及び生産拠点(鉱山)に対し奇襲を実施、沙河・塔連鎮駅付近に来襲した共匪2,000と交戦しますが、第百十師團担当地区の被害は軽微でした。
9月1日、聯隊は警備地区内の共産軍を駆逐した地域に囚籠戦術(侵入防止の壕、望楼、特火点構築)を実施します。

昭和16(1941)年1月18日、勢力を挽回しつつある王管荘北方の支那冀南軍を討伐に決し、20日、揚李張屯、21日、東馬各庄、30日、揚村、3月30日、双廟、段芦頭付近で共産軍を撃破、4月19日、択家庄の敵被服所、宋家営の手榴弾工場を破壊し付近の共産軍を撃破します。
5月22日、第一大隊は百悦、威県擲河、6月30日、黄台付近、7月2日、義合営において共産軍を撃破します。
9月19日、聯隊は安村付近、10月24日、小馬村で共産軍を撃破しますが、敵地雷により聯隊長・小川全勝大佐が負傷してしまいます。
11月7日、南宮王府裡付近の戦闘指揮中の聯隊副官・松本二郎大尉が散華してしまいます。

12月8日、大東亜戦争が開戦します。

昭和17(1942)年2月3日、第八中隊は冀県高田庄付近で支那冀中第三区隊第三連300を撃破、15日、中隊は東鹿県百尺口で来襲した先敵300、及び冀中独立営200により包囲されますが、玉砕寸前で聯隊救援隊(大隊砲中隊長・岡利榮中尉)により救出されます。

4月6日、軍令陸甲第三十四號により第百十師團に編成改正が下令、5月7日、師團は3単位に改編され、歩兵第百三十三旅團司令部は第百十歩兵團司令部(第百十師團隷下)に、歩兵第百八旅團司令部は第七十一歩兵團司令部に改編されます。

4月18日、本土が米空母を発艦した米陸軍機により初空襲を受けたため、内地防空を図るべく大本營は浙江・江西両省付近の米軍飛行場覆滅を企図し浙贛作戦(セ號作戰)を発動、5月8日、聯隊は順徳を出発、列車にて新郷、蘭封、徐州を経て浦口より長江を遡江し南京に上陸、列車にて12日、杭州に到着、第三十二師團(第十三軍隷下)指揮下に編入され、16日、浙贛作戦に参加します。

17日、第百十六師團が富陽付近を出撃、第三十二師團は直後を続行、20日、桐芦付近で洞渓水を渡河、永津に進出し軍最左翼の武義に前進します。
24日、師團は要地・金華鎮に攻撃を開始、聯隊は敵退路を遮断すべく新安江(幅1,000m)を敵前渡河し壽昌に南進します。
25日、師團は第十三軍より衢州攻略を下令されます。
6月1日、聯隊は衢州攻略の要地・大嶺山を激戦ののち攻略、3日、第十五、第二十二、第百十六師團は衢州の攻撃を開始、第三十二師團は東鎮へ進出(聯隊は師團先遣として敵前渡河し西鎮を攻略)し敵の退路を遮断、支那第三二・四四・五一・五八師を撃破し、6日、第十五師團が衢州飛行場、7日、衢州城を攻略します。
8日、聯隊は敗敵を追撃、9日、常山県城を攻略、10日、第一大隊、第三大隊の順で常山を出発、山岳地帯を踏破し、重爆9機の直協を受け、玉山県城を攻略し浙贛線打通に成功します。
聯隊は玉山警備ののち、7月12日、常山周辺の掃討、8月19日、第三十二師團に復帰、21日、常山を出発し反転、9月8日、石門に帰還します。

浙贛作戦において第十一軍(第三、第三十四師團、竹原支隊、今井支隊、平野支隊、井出支隊、第二十九獨立飛行隊、獨立飛行第八十七、第九十中隊)、第十三軍(第十五、第二十二、第三十二、第七十、第百十六、河野混成旅團、小薗江混成旅團、原田混成旅團、奈良支隊、獨立混成旅團、戦車第十二聯隊、第一飛行團、飛行第四十四、第六十三、第九十七戰隊、第八直協飛行隊、獨立飛行第八十三中隊、鐡道第二、第四、第六聯隊)は敵30個師と交戦、5個師を壊滅・殲滅、撃破7個師、18個師に損害を与え(24,430戦死、8,564名俘虜)、衢州、玉山、広豊、広信、麗水、温州飛行場を破壊、浙贛線軌条の全線を撤去(鹵獲兵器略)、我が損害は1,284名散華、2,767名戦傷でした。

作戦中の5月30日、大陸命第六百四十號により第七十一歩兵團司令部、歩兵第百四十聯隊は新編の第七十一師團(關東軍隷下)に隷属転移が下令されます。

9月25日、聯隊は石門を出発、9月28日、間島州延吉に移駐し第七十一師團(遠山登中将)に隷属転移、訓練及び同地の警備にあたり、10月下旬、佳木斯に移駐します。

昭和19(1944)年2月11日、歩兵第百四十聯隊より1個大隊の抽出、南千島転用が内示され、15日、編成着手、28日、軍令陸甲第三十四號により第八十九師團の編成が下令、大陸命第九四八號により大隊(第三大隊基幹:大濱賢隆少佐)は佳木斯を出発、小樽市に待機ののち、12日、獨立混成第八聯隊に編入され同聯隊第三大隊に改編、4月20日、色丹島松ヶ浜に上陸、斜古丹に主力、松ヶ浜に第十二中隊、イネモシリに第十中隊を配置し陣地築城を開始します。

7月29日、聯隊は獨立混成第六十九旅團に改編、第三大隊は獨立歩兵四百二十三大隊に改編、大隊本部を穴澗に設置、松ヶ浜に旅團砲兵隊、獨立機關銃大隊が増強されます。

昭和20(1945)年2月28日、軍令陸甲第三十四號により旅團は混成第四旅團に改編され、ソ連の侵攻に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

一方、聯隊主力は
昭和20(1945)年1月19日、第七十一師團は第十方面軍(安東利吉大将、台北)戦闘序列に編入され、編成下令、25日、編成完結し佳木斯を出発(カ號演習)、2月2日、釜山に集結、19日、輸送船2隻に分乗し台湾基隆に上陸、21日、嘉義に聯隊本部を設置、主力を南北山地帯、一部を西海岸に配置し陣地築城、教育訓練にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

22日、岡山神社において軍旗決別式が挙行され、軍旗は第十方面軍隷下第九師團歩兵第七(金沢)、第十九(敦賀)、第三十五(富山)、第十二師團歩兵第二十四(福岡)、第四十六(大村)、第四十八(久留米)、第五十師團歩兵第三百一(台北)、第三百二(台南)、第三百三、第六十師團歩兵第二百四十九(台湾)、第三百四(台湾)、第三百五、第七十一師團歩兵第八十七(旭川)、第八十八(旭川)各聯隊の軍旗14旒とともに台北の軍司令部に集結、軍司令官・安藤大将、各師團長、聯隊長、聯隊旗手、軍旗衛兵の見守る中、奉焼されました。

昭和21(1946)年4月14日、復員完結します。


歩兵第百二十一聯隊(兵一〇一一三、中部→中國第四十七部隊)
昭和15(1940)年4月16日、第十師團に軍備改変に関する指示が下達(3単位師團への改変、及び満洲移駐)され、7月10日、『軍備改編要領 其二』により、8月1日、第十師團は關東軍(梅津美治郎大将)直轄として滿洲移駐が発令されます。

8月1日、歩兵第四十聯隊に編成下令、7日、歩兵第四十聯隊とともに歩兵第百二十一聯隊が編成完結(長澤貫一大佐)し、第五十四師團(秋山義兌中将、姫路)隷下の第五十四歩兵團(林義秀少将、姫路)に編入され、9月27日、宮中において軍旗を拝受します。
歩兵第百二十一聯隊軍旗(鳥取)
▲歩兵第百二十一聯隊軍旗と聯隊長・長澤貫一大佐

10月10~20日、蒜山原陸軍演習場において師團演習に参加、昭和16(1941)年5月4~6日、9月28日~10月5日、青野原陸軍演習場において諸兵連合演習に参加、11月1~11日、津山市及び日本原陸軍演習場における師團演習に参加します。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争が開戦します。

昭和18(1943)年2月17日、第五十四師團(片村四八中将、姫路)に動員下令、2月21日、青野原で演習中の聯隊は急遽、鳥取に帰還、3月25日、聯隊に動員下令、4月3日、動員完結(長澤貫一大佐)し、鳥取陸軍練兵場において出陣式を挙行、5日、地域住民に見送られ鳥取を出発、6日、蒜山原に到着します。

13日、聯隊主力は師團を離れ緬甸方面軍(河邉正三中将、ラングーン)への編入が下令され、14日、蒜山原を出発し倉吉に宿営、15日、門司に到着、17日、宏山丸、良洋丸、18日、三池山丸、宇品丸に分乗し門司を出航、23日、上海に上陸、江湾鎮の兵舎に入り、敵前上陸訓練を実施します。

6月23日、先遣隊の第一大隊(田中徹夫大尉)は第五十四歩兵團直轄となり歩兵團司令部とともに美山丸に乗船し上海を出航、7月19日、聯隊主力は筑波丸、象山丸、筑波丸に分乗、他船3隻とともに駆逐艦「榧」の護衛により上海を出航、8月21日、第一大隊はビルマ西海岸ダンカップに到着、第五十五師團(古閑健中将、善通寺)の指揮下に編入され、28日、ラムレ島、チェドバ島の守備にあたります。
9月3日、聯隊主力はラングーン上陸、緬甸方面軍直轄となり第一大隊を掌握、ビルマ西南沿岸の防衛にあたります。

9月下旬、第五十四師團は緬甸方面軍編入のためビルマのブローム付近に進出、聯隊は師團に復帰、緬甸方面軍直轄となり北部海岸地區防衛隊としてアラカン道(プローム-ダンカップ)のニューアンギョ以西、ミエボン-タマンド線の以南からケンタリ間の防衛にあたります。

昭和19(1944)年1月11日、第五十五師團(花谷正中将)は第十五軍が準備中のウ號作戰(インパール作戦)を容易にし、且つアキャブを防衛すべく英印軍牽制・誘引のため、ハ號作戦(第二次アキャブ作戦)を準備、第五十四師團は第五十五師團の防衛地域を引き継ぎ、14日、聯隊主力はラムレ島に移駐、15日、大陸命第九百五十五號により第五十四師團は第二、第五十五師團とともに第二十八軍(桜井省三中将)戦闘序列に編入されます。

2月3日、第五十五師團はシンゼイワ盆地に進撃しますが英印軍の円筒陣地に阻まれ攻撃は遅滞、26日、全般の状況に鑑み戦線の維持が困難になった事から、第五十五師團は遂にオーラビンに転進します。

7月2日、ウ號作戰の中止に伴い英軍は中部ビルマ方面に侵攻して来たため、9月下旬、軍はベンガル湾沿いで英軍を拒止すべく第五十五師團をイラワジ河下流三角州(イラワジデルタ)地帯に転用、聯隊は英軍のアラカン山脈以東への侵攻を防ぐためダンカップ地區隊としてラムレ島守備に第二大隊(猪俣力少佐)を残置、ダンカップに第三大隊(藤岡親實少佐)、テードに第一大隊、サンドウェーに第一中隊、ザビンに捜索五十四第三中隊(指揮下に配属)を配置します。

11月下旬、英印第15軍がアキャブに侵攻、昭和20(1945)年1月12日、英印第25師団がミエボン半島(捜索五十四主力守備)に上陸、21日、英印第26師団がラムレ島キャクピュー海岸に上陸を開始します。
第二大隊は艦砲射撃、航空支援を受けた戦車、火砲を伴う英軍の侵攻を数度に渡り撃退しますが次第に損害が増加、2月9日、敵に包囲されるに至り、大隊長・猪俣少佐は聯隊長・長澤大佐に決別電を打電しますが、聯隊長、師團長・片岡中将より救援船の出発と転進(「完作戰」)を打電されたため、18日、ミシガンクリークに集結するも救援船は英軍の妨害により殆ど沈没してしまいます。
そのため聯隊長はマングローブ湿地帯を渡河しての転進を下令しますが、英軍砲艦に妨害され大隊長・猪俣少佐が散華、大隊主力は渡河を断念しヤンテジー西北方高地に反転、英軍と交戦しますが遮蔽物無く大損害を受け、遊撃戦に移行、臨機大陸に転進します。
歩兵第百二十一聯隊 猪俣力少佐(鳥取)
▲第二大隊長・猪俣力少佐
  ラムレ島に侵攻して来た優勢な英軍を1月に渡り何度も撃退、師團命令により転進中に散華

2月14日、サバタに上陸してきた英印26師団をサビン守備隊が撃退、3月12日、英印軍は再度メイに上陸を開始、サビン守備隊が再度迎撃しますが敵は兵力を増加し守備隊を包囲したため、敵中を突破し遅滞戦闘を行いながらダンカップに転進、聯隊はダンカップ及び周辺の地形を利用して英印軍を拒止します。

アラカン山脈以東では3月3日、メークテーラ、20日、マンダレーを相次いで失陥し英軍が急速に南下、4月15日、第二十八軍は方面軍左側背援護の任務消失に伴い、隷下部隊をペグー山系へ集結させアラカン山脈以東の英軍南下に備えるべく「邁作戰」(第一期)を下令、28日、作戦を発動し師團はタマンド、ダンカップの主陣地を徹しアラカン山脈に東進を開始します。

21日、聯隊は第三中隊を先遣隊、26日、第二大隊(島倉慎之助大尉)を師團直轄として進発させ、29日、第三大隊を英軍拒止のため殿軍(5月8日、転進)として転進を開始します。

4月24日、方面軍はモールメンに転進、5月1日、聯隊長・馬場進大佐は自動車でオシピンに先行し聯隊の転進路の把握にあたります。
2日、ラングーンを失陥してしまいます。

8日、第一大隊はオシピンに集結しますが、英第33軍団の急速な浸透に渡河点をパドンから下流のガビゼイクに変更、10日、聯隊主力はイラワジ川右岸を南下、19日、渡河に成功、イエジンに集結、23日、背叛したビルマ愛国軍を撃破しラングーン-プローム街道を突破、ペグー山系を踏破し、26日、オレゴンに集結、第二十八軍直轄となり、27日、第二渡河点(タンビゴン東側)に移駐、英軍砲撃下自活しつつ全軍の集結を待ちます。

師團の転進援護にあたる第二大隊は4月29日、南侵中の英軍を拒止すべくパローに進出、神威部隊(第五十五師團騎五十五聯隊長・杉本泰雄大佐)と連絡し英軍に損害を与えますが、優勢な敵は包囲にかかったため、5月7日、大隊はグレー南方に集結し、師團先遣隊の歩百五十四の指揮下に編入され、師團のイラワジ川渡河援護にあたります。

5月21日、五三六高地に侵攻の英軍と交戦、6月10日、師團の転進援護のためナピュードゥの英軍を夜襲、13日、ポユウの英軍を撃破し、同地を攻略しますが、大隊長・島倉大尉が散華(後任:有光茂也大尉)、18日、ビルマ愛国軍、英軍を撃破、ペグー山系入口のシンゼを確保、聯隊復帰のためペグー山系を機動します。

6月2日、軍は「邁作戰」(第二期:第二十八軍のペグー山系集結)を下令、6日、聯隊追求中の第三大隊は師團集結地のパウカンに侵攻して来た英軍と交戦、16日、師團直轄となり、17日、師團と連絡します。

6月下旬、第二十八軍はペグー山系への集結を完了、28日、「邁作戰」(第三期・四期:ペグー山系踏破、シッタン平原突破)を下令、29日、第三中隊(黒田晃三郎少佐)、聯隊本部無線班(山本弘司中尉)が先発隊として出発、7月2日、患者輸送隊、重火器隊、5日、聯隊主力が続行し、9日、旧テーメを通過、16日、第二大隊が復帰します。
20日、聯隊は4縦隊となりマンダレー街道を突破、23日、英軍の砲撃下、濁流と化したシッタン河を渡河、27日、シャン高地西麓のシャンシャンに集結し、8月1日、師團の転進援護のためシャンヤン河上流のチャウケジーに進出、18日、第三大隊が復帰、19日、ピリンに向かい南下、23日、第一補給点に到着、26日、ウィンガンにおいて第五十四歩兵團長・木庭知時少将より停戦命令を受領します。
27日、軍旗決別式を挙行、先着していた第五十三師團司令部において軍旗を奉焼、チエジャンに集結、英軍により武装解除され、ます。
9月27日、マルタバンチェジャンに露営、11月13日、パヤジー収容所に入り、16日、労務に使役され、昭和21(1946)年1月23日、タコトン、マンダレー、メイミョウにおいて使役され、5月14日、ラングーンに移駐、6月19日、熊野丸に乗船、7月4日、宇品に上陸、5日、復員式を挙行し復員完結しました。


歩兵第二百聯隊(突一〇一三四)
昭和19(1944)年7月6日、歩兵第百二十一聯隊補充隊に臨時編成下令、10日、編成完結(川上芳雄大佐)、20日、宮中において軍旗を拝受します。
歩兵第二百聯隊軍旗(鳥取)
▲歩兵第二百聯隊 軍旗

7月6日、軍令陸甲七十七號『在内地師團臨時動員等要領』により留守第五十四師團司令部で臨時動員された第八十四師團(小倉達次中将、姫路)隷下に編入されます。

聯隊は本部を鳥取家政高等学校に設置、鳥取第一中学、鳥取商業学校、鳥取陸軍演習廠舎(鳥取砂丘)、大山陸軍演習廠舎に配置し上陸訓練を中心に錬成にあたります。

11月24日、師團は大本營直轄となり台湾への移駐を予定しますが、昭和20(1945)年1月22日、沖縄からフィリピン方面への戦力投入として台湾へ転進した第九師團(原守中将、金沢)の充当として沖縄への派遣に変更されるも、23日、本土防衛戦力の低下、制海権・制空権喪失による海上輸送の困難から沖縄派遣は中止され、師團は第十五方面軍(河邉正三中将、大阪)隷下に編入されます。

4月8日、第八十四師團は新設された第五十三軍(赤柴八重蔵中将)戦闘序列に編入され、聯隊は師團とともに作戦地である神奈川県小田原市に移動、酒匂川から東側一帯に配置され、聯隊本部を宝金剛寺に、第一大隊を国府津駅背後の八八・八高地から東海道線の山側に沿って、第一大隊北側の高山から不動山、中井村に第二、第三大隊を配置、敵上陸部隊迎撃のため陣地築城にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

19日、マニラで開催された我が全権代表団(河邉虎四郎中将)とD.マッカーサー大将との会談において、26日以降の連合軍の本土進駐が伝達され、「25日1200」(27日1800までとも)までに第一總軍に対し関東から湘南にかけた一帯の部隊の退去が下令されます。
師團担当地区は該当地域にかかる事から、聯隊は臨時憲兵として抽出された第一大隊、第六、第十一中隊を残置、鳥取に移駐します。

30日、軍旗3旒は聯隊長、旗手、旗護兵に護衛され姫路の師團司令部に集結、31日0630、各聯隊長、旗手により姫路市北方郊外の丘陵に遷移され、師團長・佐久間為人中将以下師團幕僚侍立のもと奉焼されます。

8月30日、鳥取において復員完結します。


歩兵第四百四十六聯隊(護路二二七〇四)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により、2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號變更並第三二八次復員要領』に基づき、歩兵第百二十一聯隊補充隊により臨時動員(瀬野赳中佐)、6月7日、宮中において軍旗を拝受します。

2月28日、軍令陸甲第三十四號に基づき、留守第五十四師團司令部を臨時動員した沿岸配備師團である第百五十四師團(毛利末廣中将/第五十七軍(西原貫治中将)戦闘序列)隷下に編入されます。

4月、聯隊は姫路を出発、25日、師團の作戦地である宮崎県児湯郡新田原村に進出、新田原陸軍飛行場北側の冨田村三納代に本部を設置、陣地築城中に停戦を迎え、9月20日、復員完結します。


歩兵第四百六十四(護鮮二二九〇六)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により、2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號變更並第三二八次復員要領』に基づき、歩兵第百二十一聯隊補充隊により臨時動員(内田東次中佐)、6月7日、宮中において軍旗を拝受します。

4月12日、軍令陸甲第六十五號『第百二十九、第百三十、第百六十一師団、獨立警備隊等臨時編成(編制改正)、第三三七次復歸要領』に基づき、留守第三十師團を改編した沿岸配備師團である第百六十師團(宮下文夫中将)/第十七方面軍(板垣征四郎大将)戦闘序列)隷下に編入されます。

5月初旬、鳥取を出発、伯備線で博多に移動、5月6日、博多港を出航、6日、釜山に上陸、8日、裡里に到着、現地中学校に本部を開設、朝鮮人650名を加え定員充足(2,900名)、及び兵器を受領します。

爾後、同地守備のため陣地築城中に停戦を迎え、29日、博多において復員完結します。


歩兵第五百八聯隊(安芸一五〇五六)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第二次兵備」により、4月23日、軍令陸甲第六十一號『第二百一師團等臨時動員、第三三五次復員要領』に基づき、廣島師管區歩兵第四補充隊(旧歩兵第百二十一聯隊補充隊)に臨時動員下令、5月10日、動員完結(横山忠男中佐)、6月11日、宮中において軍旗を拝受します。

4月23日、軍令陸甲第六十一號に基づき、廣島師團管區司令部により臨時動員された機動打撃師團である第二百五師團(唐川安夫中将/第五十五軍(原田熊吉中将)戦闘序列)隷下に編入されます。

5月中旬、蒜山原陸軍演習場に移駐、夜間演習を中心に錬成にあたり、20日、師團の作戦地である高知県香美郡長岡に進出、高知海軍航空基地を中心に山中に展開し陣地築城、対戦車肉迫攻撃の訓練にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
9月14日、鳥取に帰還、日進国民学校において復員完結します。


歩兵第三百四十一聯隊(赤穂二八三三一)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により、5月23日、軍令陸甲第八十四號『師團、獨立混成旅團等臨時動員(編成改正、称號變更)、第三四七次復員(復歸)要領』に基づき、6月1日、廣島師管區歩兵第四補充隊(旧歩兵第百二十一聯隊補充隊)に臨時動員が下令されます。

12日、軍令陸甲第九十五號『第五十軍、中國、四國軍管區司令部、東京防衛軍司令部臨時編成、東京師管區司編制改正、第三百五十次復員要領』により廣島師管區歩兵第四補充隊は中國軍管區歩兵第四補充隊に改称します。

聯隊は編成中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、9月6日、復員完結します。

編成完結後、第二百二十四師團(河村参郎中将/第五十四軍(小林信男中将)戦闘序列)隷下に編入され、静岡県沿岸に進出予定でした。


主要参考文献
『鳥取綜合聯隊史』 (昭和58年4月 鳥取綜合聯隊史編纂委員会)

『鳥取聯隊写真集』(昭和56年3月 鳥取聯隊写真集編集委員会)

『鳥取県史 近代第2巻(政治篇)』 (昭和44年 鳥取県)

『三洋電機五十年史』 (平成13年 三洋電機株式会社コーポレートコミュニケーション部)

『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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