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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

美保海軍航空基地

鳥取県境港市、米子市にまたがる航空自衛隊・美保基地は美保海軍航空基地の跡地にあります。
美保海軍航空基地 ツ爆弾庫 北西から(鳥取)
▲民有地に遺る爆弾庫

【探索日時】
平成25年12月2・3・4日、平成26年6月8日





美保海軍航空基地 概要
昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、我が国の和平努力にもかかわらず支那国民党政府(蒋介石)による度重なる違法、挑発行為により事変が拡大・長期化するなか、昭和13(1938)年7月12日、ソ連軍が滿ソ国境を越境し侵攻、張鼓峰事件が発生します。
当時、海軍は日本海側に航空基地を持たず、裏日本では唯一の米子飛行場(民間)を間借りしていた事から海軍航空本部はソ連軍の策動、特に日本海側からの侵攻に備え裏日本に陸上航空基地の設営を決定、島根県簸川(ひかわ)郡出西村を選定しますが用地交渉が折り合わず、新たに西伯(さいはく)郡中濱村、大篠津村、崎津村一帯の農地、原野を選定し基本計画を立案、海軍省建築局により詳細計画が作成され、舞鶴鎭守府に下達されます。

昭和14(1939)年10月、舞鶴海軍経理部は郡長、各村長の協力を得て用地800町歩の買収を実施、昭和15(1940)年1月、該当用地の住民が移転します。
3月、舞鶴海軍建築部美保事務所の指揮、監督のもと中國土木(合)が施工を担当し、労務者200名、囚人50名を中心に青年団、勤労奉仕隊、学校報国隊の協力を得て航空基地設営を開始、工事の遅れから呉海兵團の応援を得て、昭和18(1943)年6月、美保海軍航空基地が竣工します。

10月1日、航空基地南側に美保海軍航空隊(豫科練教育)が開隊、12月31日、舞鶴海軍施設部 山陰地方施設事務所(8月1日、建築部から改称)は新たに航空基地北側の中濱村、渡村、余子村の一部103町歩を海軍用地に指定、経理部により該当用地を買収、昭和19(1944)年1月、該当用地内の住民が移転し、第三十二海軍航空廠 美保分工場及び誘導路(30間道路)の設営を開始(3月30日、開場)します。

昭和19(1944)年1月15日、「改⑤計畫」(昭和17年9月から実施)に則り航空基地内に第二美保海軍航空隊(中練教程)が開隊しますが、急迫する戦局に伴い次第に実施部隊の経由地としての利用が増加、さらに戦線が本土周辺に及ぶにあたり作戦航空基地としての強化(滑走路増設、耐弾施設、掩体壕の設営)が開始され、昭和20(1945)年2月11日、第二美保空は設営の進む大和海軍航空基地(奈良)に移駐し、大和海軍航空隊に改称します。
美保海軍航空基地 美保海軍航空基地(昭和19年)(鳥取)
▲昭和19(1944)年頃の美保海軍航空基地(南側上空から)

4月1日、第八〇一海軍航空隊 美保派遣隊(人員のみ)、18日、第七六二海軍航空隊 攻撃四〇六飛行隊(銀河/6月9日、復帰)、5月1日、山陰海軍航空隊(乙空、5日、美保海軍航空基地を管下に)、12日、第七〇一海軍航空隊 攻撃一〇三飛行隊(彗星)、15日、飛行第九十八戰隊(飛龍/五航艦指揮下)、6月19日、第五百三十四海軍設營隊が進出、6月1日、豫科練教育の停止に伴い、30日、美保空は復帰します。
7月24日~28日、連日に渡り敵艦載機による空襲を受けます。
爾後、決號作戰(本土決戦)に向け基地強化を図るなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により海軍施設は内務省を通じ大蔵省に移管されます。
10月21日、米第6軍第10軍団第24歩兵師団が香川県三津浜港に入港、26日、愛媛県立図書館を接収し司令部を開設、11月2日、米陸軍航空軍コート代将以下が美保海軍航空基地を接収、12日、第24歩兵師団第3連隊(バーン大佐)が進駐し軍需品の処理を実施します。
昭和21(1946)年3月30日、英連邦空軍先遣隊、5月20日、同軍本隊(クリスティ大佐)が美保に進駐、5月31日、米陸軍航空軍は熊本に移駐、昭和24(1948)年4月、英軍撤退に伴い豪第34歩兵旅団管理下に、5月7日、再び米軍に移管されます。

昭和30(1955)年)6月12日、航空自衛隊・立川基地から臨時美保派遣隊が移駐、昭和31(1956)年2月、米子空港ターミナル施設が完成、昭和33(1958)年9月15日、航空基地は米軍より大蔵省に返還され防衛庁に移管、10月1日、空自・美保基地が発足、臨時美保派遣隊は輸送航空団に改称します。
昭和44(1969)年6月、航空自衛隊、民間共用飛行場に指定され、昭和48(1973)年3月、新滑走路が完成、現在は空自・第3輸送航空隊が所在し我が国の平和を護っています。
美保海軍航空基地 C-1輸送機 駐機中(鳥取)
▲現在の空自・美保基地


遺構について
美保海軍航空基地(施設番号のみ)(鳥取)
▲美保海軍航空基地周辺の海軍施設
① 美保海軍航空基地
② 第二美保海軍航空隊
③ 美保海軍航空基地 爆弾庫
④ 美保海軍航空隊
⑤ 第三十二海軍航空廠 美保分工場
⑥ 第二美保海軍航空基地(大篠津牧場)
※緑文字が当記事紹介施設

① 美保海軍航空基地
美保は上記の様に広範囲に施設が分布しており、遺構も同じく点在していますが、今回は航空基地(滑走路地区)、及びその周辺に遺る防護施設(掩体壕、耐弾施設)を中心に紹介します。
なお航空隊(美保、第二美保、居住施設)内に遺る遺構は、次記事以降で順次紹介します。
美保海軍航空基地 現在(鳥取)
▲美保海軍航空基地の遺構配置

a 第一滑走路
昭和18(1943)年6月、竣工します。
空撮で見ると西端円形部分のコンクリート敷の一部が遺っている(紫部分)様ですが、現用のため確認できません。

b 第二滑走路
昭和20(1945)年、実施部隊の進出に伴い設営されました。
東西端のコンクリート敷の一部が遺っている様ですが、同じく確認できません。

d 第三滑走路
昭和20(1945)年、美保特有の「魔の夕凪」(夕方に吹く南風)に対応すべく設営されました。
南側半分のコンクリート敷が遺っている様ですが、同じく確認できません。
美保海軍航空基地 第三滑走路方向(鳥取)
▲管制塔から第三滑走路方向

e 駐機場
南側西端のコンクリート敷が遺っている(濃緑部分)様ですが、同じく確認できません。

f 誘導路
自衛隊官舎地区に道路として転用された部分、及び美保基地内(滑走路地区)に一部が遺っている様です。
後者は立入りできないため、確認できません。
美保海軍航空基地 f誘導路跡(官舎入口付近) 北から(鳥取)
▲官舎地区入口から基地方向(誘導路跡)

g 三十間道路
昭和19年3月、航空基地と第三十二海軍航空廠 美保分工場を結ぶ誘導路として設営されます。
停戦後、大蔵省に移管され一部は道路として転用されますが、幅50mあったため不要部分は農地として払い下げられ、現在は県道、住宅地になっています。
美保海軍航空基地 g 三十間道路(鳥取)
▲県道に転用された三十間道路

h 側線
省線から分岐、航空基地内に引き込まれていました。
側線は昭和19(1944)年、美保海軍航空基地の竣工とともに敷設、昭和52(1977)年6月まで使用され現在、道路として痕跡が遺ります。

j 線路
平成21(2009)年12月、美保空港の拡張に伴い、現在の様に迂回する様に敷設されました。


以下、ようやく本題に入り有蓋掩体壕、耐弾施設の紹介ですが、カタカナを適当に振っているため順不同、欠字があります。
解かり易いように北から紹介します。
なお、有蓋、木製掩体壕については昭和19(1944)年7月13日、施本機密第八七三〇號の有蓋掩体の急速設備示達に基づき設営されたと思われます。

シ 木製掩体壕基礎
産廃業者の敷地内に遺ります。
木製掩体壕の基礎で、大きさからして彗星用と思われます。
なお、この基礎周辺は泥沼化しており、元々養豚場だった事もあり凄まじい悪臭なので見学するには長靴が必須です。
美保海軍航空基地 シ無蓋掩体壕 東から(鳥取)
▲全景
  右側が入口側

美保海軍航空基地 シ無蓋掩体壕 西側 北東から(鳥取)
▲西側基礎

美保海軍航空基地 シ無蓋掩体壕 西側 北東から (2)(鳥取)
▲西側基礎近影
入口側は上端に縁が付いており、入口側のみ木材固定用のアンカーボルトがあります

美保海軍航空基地 シ無蓋掩体壕 東側 北西から(鳥取)
▲東側基礎
  かなりの大きさがあります

※業者の許可を得て見学しています。


サ 木製掩体壕基礎
廃養鶏場の中にあり、瓦業者の廃材捨て場になっており瓦で足が滑り非常に見辛いです。
上記シと同規格です。
美保海軍航空基地 サ無蓋掩体壕 西側 北東から(鳥取)
▲西側基礎
入口側から見ていますが、上端の縁は削れています

美保海軍航空基地 サ無蓋掩体壕 東側 南西から(鳥取)
▲東側基礎
  光の加減で非常に見難いですが、後端側にアンカーボルトはありません

※上記、産廃業者の方に御教示頂きました。


オ 木製掩体壕基礎
自衛隊官舎地区(濃緑部分)にあります。
比較的有名な遺構ですが、部外者立入禁止のため普段は見れません。
通常の基地見学でもコースに無いため、官舎地区が駐車場になる航空祭の際だけ見学可能です。
美保海軍航空基地 オ無蓋掩体壕 東から(鳥取)
▲基地内から何とか遠目に見えます

美保海軍航空基地 オ 西から(鳥取)
▲全景
  艦爆と同じ向きで車が並んでいますが、大きさが良く分かります

美保海軍航空基地 オ南側 北から(鳥取)
▲南側
  入口側から

美保海軍航空基地 オ北側 南西から(鳥取)
▲北側
  入口側から

美保海軍航空基地 オ北側 南から(鳥取)
▲北側後部にあるコンクリート構造物
  全く関係無い物なので別の場所から持ち込まれた様です

美保海軍航空基地 オ西側堰堤 北西から(鳥取)
▲オの西側にある土堤
  “一式陸攻の掩体壕”としているサイトもありますが、位置的に誘導路の外縁になる事から違うと思います


ヒ 木製掩体壕基礎
同じく官舎地区に遺ります。
市有地に隣接していますが水道施設のため近寄れず、また航空祭の際も立入禁止地区のため見学不可能です。


カ 有蓋掩体壕
空自・美保基地内に遺ります。
外周から辛うじて見えます。
航空祭の際、このあたり一帯が臨時駐車場になるため近くで見学可能です。
美保海軍航空基地 カ掩体壕 南から(鳥取)
▲外周から見るとコノ様な感じです

美保海軍航空基地 カ掩体壕 西から(鳥取)
▲全景

美保海軍航空基地 カ掩体壕 北から(鳥取)
▲周辺は雑草が繁茂しており、自衛隊ファンがカメラを構える横を草の海を泳いで行きます

美保海軍航空基地 カ掩体壕入口 南西から(鳥取)
▲正面入口

美保海軍航空基地 カ掩体壕内部 北東から(鳥取)
▲内部は場所柄かして非常に綺麗です

美保海軍航空基地 カ掩体壕内部 南西側の段 北から(鳥取)
▲内部両側にある高まり
  海軍系の掩体壕で良く見る構造です

美保海軍航空基地 カ掩体壕内部 北西から(鳥取)
▲後端部の小部屋
  海軍系掩体壕の特徴です

美保海軍航空基地 カ掩体壕内部 南東から(鳥取)
▲内部から入口


キ 有蓋掩体壕
空自・美保基地内に遺ります。
外周から見えます。
同じく航空祭の際、臨時駐車場になるため、近くで見学可能です。
美保海軍航空基地 キ掩体壕 南東から(鳥取)
▲外周から

美保海軍航空基地 キ掩体壕 西から(鳥取)
▲正面側
 直前 3m程までは草が刈り込まれていますが・・・草の海を泳ぎます

美保海軍航空基地 キ掩体壕 北東から(鳥取)
▲後ろ側
  この位置は厳密には開放区域では無いので、警務隊の許可を得て入っています

美保海軍航空基地 キ掩体壕内部 北東から(鳥取)
▲内部から
  上記カと異なり、内部はゴミだらけです

美保海軍航空基地 キ掩体壕内部北側の段 南東から(鳥取)
▲こちらも両側に高まりがあります

美保海軍航空基地 キ掩体壕内部 西から(鳥取)
▲後端の小部屋

この掩体壕西側(点線枠部分)には臨時兵舎がありましたが、現在は跡形もありません。


ク 耐弾施設
空自・美保基地内に遺ります。
航空祭の際も駐車場から離れており近付けず、西側の堤防上からしか見えません。
本来は古墳状に土に覆われていたと思われますが、完全に露出しています。
コンクリート製の細長い退避壕の様で、入口は1箇所、入口・奥側の片方に煉瓦造の換気塔があります。
美保海軍航空基地 ク耐弾壕 西から(鳥取)
▲西から
  雑草が邪魔で余り見通せません

美保海軍航空基地 ク耐弾壕 南から(鳥取)
▲南から
  煉瓦製の換気塔が見えます


ケ 耐弾施設
上記クと同規格の物です。
美保海軍航空基地 ケ耐弾壕 南から(鳥取)
▲南から

美保海軍航空基地 ケ耐弾壕 南から (2)(鳥取)
▲入口と思われる部分の拡大


ソ 有蓋掩体壕
荒地(果樹園跡?)の中にあり、道路脇にありながらも殆ど見えません。
周囲は雑草、灌木が繁茂しており、冬場でも近付くのが困難で、僕は後端に何とか取り付き、上に登って正面側に出ました。
大きさから彗星用の様ですが全体的に埋まっており、かなり低くなっています。
美保海軍航空基地 ソ掩体壕 西から(鳥取)
▲正面側
  埋まっています

美保海軍航空基地 ソ掩体壕 北西から(鳥取)
▲入口には美保の有蓋掩体壕で唯一切込みがあります

美保海軍航空基地 ソ掩体壕 内部から(鳥取)
▲内部から

美保海軍航空基地 ソ掩体壕 内部(鳥取)
▲内部はゴミだらけです

美保海軍航空基地 ソ掩体壕 内部 (2)(鳥取)
▲後端の小部屋

美保海軍航空基地 ソ掩体壕 後方部 南東から(鳥取)
▲後側


タ 有蓋掩体壕
産廃業者の敷地に遺ります。
コンテナが壁になっており近付けず「裏からどうぞ」との事で、裏の荒地に周り、後端部の開口部から入りました。
上記ソと比べ埋まっておらず、状態は良好です。
美保海軍航空基地 タ掩体壕 西から(鳥取)
▲全景
  灌木が繁り後ろに引けず、この角度が限界です

美保海軍航空基地 タ掩体壕 北から(鳥取)
▲正面側

美保海軍航空基地 タ掩体壕 開口部(鳥取)
▲開口部
  ヒビが入っています

美保海軍航空基地 タ掩体壕 内部(鳥取)
▲内部

美保海軍航空基地 タ掩体壕 内部 北西から(鳥取)
▲内部の高まり

美保海軍航空基地 タ掩体壕 後部 南から(鳥取)
▲後側
  この開口部から入ります


チ 有蓋掩体壕
道路際に遺ります。
非常に有名な掩体壕で、美保と言えばまずこの掩体壕が出てきます。
見学はし易いですが、農機具庫に転用されており上記の2基に比べて内部の見通しは悪いです。
美保海軍航空基地 チ掩体壕 北西から(鳥取)
▲全景

美保海軍航空基地 チ掩体壕 北東から(鳥取)
▲側面から

美保海軍航空基地 チ掩体壕 内部(鳥取)
▲内部

美保海軍航空基地 チ掩体壕 正面の厚み(鳥取)
▲正面の厚みは30cmあります

美保海軍航空基地 チ掩体壕 後部 東から(鳥取)
▲後側


ツ 爆弾庫
道路の際、畑の中に遺り、比較的有名な遺構です。
所有者の許可を得て正面側の蔦をむしり、内部見学させて頂きました。
所有者の話では弾庫の前(道路になっている部分)に爆風避けのコンクリート製衝立が開口部の高さまであり、その前(家のある場所)に坂状に土堤があったそうです。
美保海軍航空基地 ツ爆弾庫 南から(鳥取)
▲全景

美保海軍航空基地 ツ爆弾庫 東から(鳥取)
▲側面
  弾庫の後ろは現在は植木畑になっていますが、元々は小山で平成(2013)年、5月の天皇陛下の米子行幸に合わせた水鳥公園の整備用土として搬出されたそうです

美保海軍航空基地 ツ爆弾庫 開口部上部のチェーンブロック跡(鳥取)
▲開口部上部の切込み
  爆弾は自動貨車で搬入出し、開口部上部の切込み部分にチェーンブロックあり、積み降ろしいていたそうです。

美保海軍航空基地 ツ爆弾庫 正面厚み(鳥取)
▲正面の厚みは流石に爆弾庫だけあり80cmもあります

美保海軍航空基地 ツ爆弾庫 内部(鳥取)
▲内部

美保海軍航空基地 ツ爆弾庫 天井(鳥取)
▲天井には軌条の取付アンカーボルトが遺ります

美保海軍航空基地 ツ爆弾庫 内部から(鳥取)
▲内部から


テ 爆弾庫
墓地に上がる斜面の脇にあります。
未成で地面から150cm程度で放棄されています。
美保海軍航空基地 ツ爆弾庫 北西から (2)(鳥取)
▲上記ツの奥に見える繁みにあります

美保海軍航空基地 テ爆弾庫(未完) 南西から(鳥取)
▲正面側(左側の壁)
  間伐材が投棄され、見難いです

美保海軍航空基地 テ爆弾庫(未完) 南から(鳥取)
▲斜面上から見た左側の側壁

美保海軍航空基地 テ爆弾庫(未完)南側壁 東から(鳥取)
▲上部から見ると設営途中なのが分かります

美保海軍航空基地 テ爆弾庫(未完)内部 東から(鳥取)
▲内部

※上記ツの所有者に御教示頂きました。


上記の様に美保海軍航空基地の掩体壕、耐弾施設の殆どは放置されており、一部は見学にかなりの苦労が伴います。
ある遺構の所有者の話では「土地は戦後に購入したが、上の遺構は防衛省の所有物のため勝手に壊せない」との事でした。
米子市、境港市ともに遺構の保存には無関心のため、探索前で既に3基、探索時で見当たらない(破壊された)物が3基あり、せめて調査だけでもできないものかと思います。


所在部隊
第二美保海軍航空隊
『美保海軍航空基地 (第二美保海軍航空隊)』の記事参照


第八〇一海軍航空隊 美保派遣隊(本部は鹿屋)
※『横濱海軍航空基地』の記事で紹介予定


第七六二海軍航空隊 攻撃四〇六飛行隊
昭和19(1944)年6月15日、横須賀鎭守府所管の特設航空隊として、木更津において復帰した第五二二海軍航空隊を基幹として編成(銀河、定数48、内補用11)され、新編された第七六二海軍航空隊(第二航空艦隊・聯合艦隊所属)に編入されます。
七六二空は第六基地航空部隊(三航艦)長官直率部隊七六二空部隊に部署され、木更津において錬成にあたりますが、機種に指定された銀河は供給が遅れ保有は約半数、可動機も低く錬成が遅れます(9月1日時点で保有46、可動33)。
7月10日、飛行隊長・江藤恒丸少佐が着任、逐次定員充足されます。

9月10日、「比島ダバオ湾口に米軍上陸」の報に接し(ダバオ誤報事件)、捷一號作戦警戒が発令、沖縄、台湾へ夫々銀河16、艦偵8の急速出撃準備が下令され、11日、銀河11が沖縄本島北陸軍飛行場に進出(13日、銀河3が追求)、第六基地航空部隊西二空襲部隊に部署され、南西諸島航空隊司令の指揮下に入り、20日、索敵哨戒を開始しますが、20日、22日、夫々1機が未帰還になってしまいます。
10月1日時点で出水に銀河31(可動16)、搭乗員41組(実働39)、沖縄北に銀河14(12)、搭乗員13(12)が所在していました。

10日、攻四〇五とともに新編された七六三空(二航艦所属)に転属、0610、侵攻して来た米機動部隊撃滅のため出撃を開始しますが、直後に沖縄北に米艦載機が来襲、出撃した4機中3機が未帰還、10機が地上撃破されてしまいます。

12日、米艦載機が台湾に来襲、聯合艦隊司令部は基地航空部隊に捷一號・捷二號作戦を発令、在九州の第六基地航空部隊可動全力を14日に台湾への集結を下令します。
13日、攻四〇五とともに第五十一航空戰隊司令官の指揮下に編入され、第一攻撃集團第一雷撃隊(両隊全24機)に部署、敵機動部隊の攻撃後に高雄への進出を下令され、14日、攻四〇五とともに出水を出撃しますが、23機が未帰還になってしまいます。

15日、攻四〇五とともに台南に集結、第六基地航空部隊麾下の銀河8、天山18、九九艦爆37、零戦40は台南を出撃、敵機動部隊を攻撃しますが、銀河7、天山14、零戦9が未帰還に、17日、再度の出撃で銀河1が未帰還になってしまいます。

18日、捷一號作戦が発動、21日、七六三空の銀河6は第六基地航空部隊捷一號攻撃部署の哨戒隊、銀河4は同薄暮触接隊に部署され、22日、比島クラーク飛行場群に前進、24日、七六三空の銀河8は敵機動部隊への夜間攻撃に出撃しますが、サンベルナルジノ海峡西方付近において敵艦載機と遭遇、7機が撃墜されてしまいます。
25日、銀河3は索敵哨戒に出撃しますが、全機未帰還になってしまいます。
南西方面部隊(南西方面艦隊司令長官)は比島の第五基地航空部隊(一航艦)、第六基地航空部隊(三航艦)により第一聯合基地航空部隊の編成(一航艦司令長官指揮)を下令します。
26日、索敵哨戒に出撃した七六三空の彗星1、27日、銀河2が未帰還に、29日、クラーク地区に米艦載機が来襲、銀河1を含む6機が地上撃破されてしまいます。

11月1日、第二次多號作戦(レイテ島オルモックへの強行輸送)に呼応、第一聯合基地航空部隊は銀河8を含む80機で突入支援にあたります。
5日、13日、14日、クラーク地区に米艦載機が来襲、在地機多数が被害を受けてしまいます。
11日、索敵哨戒に出撃した銀河1が未帰還になってしまいます。

15日、七五二空(三航艦所属)に転属し木更津に復帰、七五二空は第七基地航空部隊東一空襲部隊(三航艦司令長官直率)に部署され戦力回復にあたります。

昭和20(1945)年1月20日、大本營は『次期作戰計畫大綱』を策定東シナ海に来寇して来る米軍機動部隊を撃破すべく、3月末までに『天號作戦』の準備命令(戦力の温存、薄暮・黎明期の特攻)を下令します。
攻四〇六は可動機全機を以て神風特別攻撃隊 菊水部隊 銀河隊(通常・特攻併用)を編成し錬成にあたります。

25日、七〇一空(第二十五航空戰隊・三航艦所属)に転属、七〇一空は第七基地航空部隊西一空襲部隊に部署され鹿屋に前進、2月10日、さらに七六二空(五航艦・聯合艦隊所属)に転属、七六二空は第一機動基地航空部隊(五航艦司令長官直率)に部署され、出水に前進します。
当時の保有機は銀河28(可動5)、九六陸攻1(0)でしたが、10日、訓練中に1機が墜落、作戦可動兵力は4機になってしまいます。

3月17日、天一號作戦要領が発令、18日、菊水部隊 銀河隊2機は敵機動部隊の黎明索敵攻撃(通常攻撃)にあたります。
19日0625、菊水部隊 銀河隊4機は80番1発を懸吊し出水を発進、0708、土佐沖を航行中の敵機動部隊を発見、敵空母フランクリンに爆弾2を命中させ撃破しますが、全機未帰還になってしまいます。
神風特別攻撃隊 菊水部隊 銀河隊
分隊長:金指勲 大尉(操縦)/河野通 上飛曹(偵察)/馬渕哲男 上飛曹(電信)
泉常良 飛長/川口實 上飛曹/廣澤文夫 二飛曹
宮本三龍 二飛曹/鎌倉甚茂 少尉/高橋要 飛長
平田寛 飛長/尾形春雄 一飛曹/柏崎次男 二飛曹
美保海軍航空基地 空母フランクリン(昭和20年3月19日)(鳥取)
▲3月19日、菊水部隊 銀河隊の投弾した80番が命中したフランクリン
同艦には2発の命中弾を与え誘爆を引き起こしますが、惜しくも沈没には至りませんでした

美保海軍航空基地 金指勲大尉(鳥取)
▲菊水部隊 銀河隊隊長 金指勲 大尉(海兵七十一)

21日0625、菊水部隊 銀河隊8機は80番1発を懸吊し出水を発進、土佐沖の敵機動部隊を攻撃し、5機が敵艦に突入、未帰還になってしまいます。
神風特別攻撃隊 菊水部隊 銀河隊
河野清二 中尉/山崎祐則 一飛曹/中尾勝太郎 一飛曹
有村正視 一飛曹/吉岡勝 少尉/岩崎聴 二飛曹
石田武雄 飛長/中原末美 一飛曹/岡本行雄 飛長
木原武雄 飛長/朝日奈登 一飛曹/角田利男 二飛曹
大野三郎 一飛曹/神田為雄 一飛曹/横井伸 一飛曹

26日、天一號作戦が発動、第七基地航空部隊は第一機動基地航空部隊指揮官(五航艦司令長官)の作戦指揮下に編入され、七六二空の銀河は全機(4月1日時点での攻四〇六可動機は銀河10機)特攻機として指定、志願者より神風特別攻撃隊 銀河隊を編成します。

5月11日0521、神風特別攻撃隊 第九銀河隊(攻四〇六・攻五〇一)8機は80番1発を懸吊して宮崎を発進、2機が引き返すなか6機が沖縄周辺の敵艦隊に突入、散華します。
神風特別攻撃隊 第九銀河隊(攻四〇六)
谷岡力 一飛曹/山川芳男 少尉/杉野三次 一飛曹
松本學 一飛曹/山根三男 一飛曹/伊東勲 一飛曹
長谷部六郎 飛長/吉田雄 一飛曹/信本廣夫 二飛曹

12日、聯合艦隊司令部は第一機動基地航空部隊(五航艦)と第七基地航空部隊(三航艦)で天航空部隊を編成(五航艦司令長官指揮)します。

15日、五航艦司令長官・宇垣纏中将は第一戦法必成上の兵力配備を変更、夜間攻撃隊の銀河は全機美保への移駐が下令されます。

17日1845、天航空部隊の銀河6機は天山3、飛龍2とともに、25日0500、同銀河22は沖縄周辺の敵艦船に対し夜間攻撃を実施します(16機引き返し、1機未帰還)。

6月5日、攻撃四〇六飛行隊は美保において復帰、人員、機材は七六二空及び麾下の攻四〇五、攻五〇一等に配属されます。


山陰海軍航空隊
昭和20(1945)年5月5日、舞鶴鎭守府所管の乙航空隊として小松海軍航空基地において開隊(櫛引誠雄大佐)、第五航空艦隊(宇垣纏中将、鹿屋)に編入されます。
隊は第一機動基地航空部隊山陰空部隊として本部を美保に設置、美保、小松、大社各海軍航空基地、米子飛行場(陸軍管理)に派遣隊を設置し、管理・運用にあたります。

12日、第一機動基地航空部隊(五航艦)と第七基地航空部隊(三航艦)で天航空部隊を編成(五航艦司令長官指揮)します。

8月1日、新司令・田中義雄大佐が着任します。

隊は各基地管理、定員充足にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第七〇一海軍航空隊 攻撃一〇三飛行隊
昭和19(1944)年4月1日、横須賀鎭守府所管の特設航空隊として第五〇二海軍航空隊(第五十一航空戰隊(第十二航空艦隊所属)麾下)の艦爆隊の一部を基幹として編成(江間保少佐、定数48)、五〇二空に配属されます。
隊の九九艦爆の一部は第二基地航空部隊(十二航艦)第三十一空襲部隊(五十一航戦)千島部隊(五五三空司令指揮)に部署され、松輪島(千島列島)に配備、残りの艦爆は同第三十一空襲部隊五〇二部隊に部署され、第一千島に配備、哨戒、索敵、敵艦攻撃にあたります。
4月8日、10日、5月15日、23日、各1機の艦爆が対潜哨戒中、未帰還になってしまいます。

6月11日、米機動部隊がマリアナ諸島に来襲、第七空襲部隊と第三十一空襲部隊は大湊、三澤方面への展開を下令されます。
15日、米軍がサイパンに上陸を開始、聯合艦隊司令部はあ號作戦を発動、第七空襲部隊が八幡部隊(聯合艦隊司令長官直率)に編入され関東方面に転出したため、第三十一空襲部隊が北千島から北海道方面の防備を担当します。

8月9日、第三十一空襲部隊はN空襲部隊に改称、九九艦爆6はN空襲部隊千島部隊第二艦爆隊に部署され松輪島、同4機はN空襲部隊五〇二部隊第三艦爆隊に部署され浅茅野(陸軍飛行場)に展開します(残りの艦爆は第四艦爆隊として五〇二空司令指揮で第一千島に)。
9月1日、艦爆24はN空襲部隊五〇二部隊攻一〇三甲部隊に部署され第一千歳に、彗星9は同七〇一部隊攻一〇二乙部隊に部署され第一美幌に配備されます。

15日時点での五〇二空保有機は九九艦爆57(可動51)が第一千歳、同6(6)が松輪島、同1が第二幌筵、同1が天寧、彗星11(8)が第一美幌に展開していました。

10月1日、五〇二空の復帰に伴い七〇一空に転属、第二基地航空部隊N一空襲部隊(五十一航戦司令官指揮)七〇一部隊に部署され、第一千歳に展開(九九艦爆31、彗星10)します。

10日、聯合艦隊司令部は五十一航戦主力に関東地区への進出を下令、11日、七〇一空とともに香取に進出し第七基地航空部隊(三航艦)指揮官の指揮下に編入されます。

12日、聯合艦隊司令部は捷一號、捷二號作戦を発動、第七基地航空部隊は担任地区正面の戦力を除き、可動戦力を五十一航戦司令官の指揮のもと九州方面への前進を下令します。

13日、攻一〇二とともに出水、第一國分に前進、五十一航戦は第七基地航空部隊西五空襲部隊に、攻一〇三は攻一〇二(九九艦爆計56)とともに第二攻撃集團第二爆撃機隊に部署され、敵機動部隊の攻撃後、高雄への前進を下令されます。

14日、援護隊(二五二空の零戦52)とともに出水、第一國分を出撃しますが会敵できず、石垣島に進出、第六基地航空部隊(二航艦)の指揮下に編入され、16日、攻一〇三は攻一〇二(九九艦爆計37)とともに敵機動部隊攻撃に出撃しますが、会敵できませんでした。

17日、聯合艦隊司令部は捷一號作戦警戒を発令、第六基地航空部隊指揮官に指揮下部隊を台湾に集結し、戦況の推移に伴い適時、比島への前進を下令します。

18日、捷一號作戦発動、攻一〇二とともに台中に集結(九九艦爆41(可動10))、21日、七〇一空は六三四空とともに(九九艦爆34機)第六基地航空部隊捷一號攻撃部署で第一攻撃集團第三攻撃隊第三爆撃隊に部署され、22日、九九艦爆29はマバラカット西に前進します。

23日、第三爆撃隊は艦爆38で敵機動部隊攻撃に出撃しますが、悪天候のため引き返します。
24日、艦爆25で出撃するも敵艦載機に妨害され3機が未帰還、25日、艦爆24機で出撃するも敵艦隊を発見できず帰還、さらに九九艦爆23、彗星4で出撃するも敵艦載機に妨害され、九九艦爆2が未帰還になってしまいます。
25日、南西方面部隊(南西方面艦隊司令長官)は戦力の低下に鑑み、比島の第五基地航空部隊(一航艦)、第六基地航空部隊(三航艦)により第一聯合基地航空部隊の編成(一航艦司令長官指揮)を下令、26日、第六基地航空部隊は志願者から1隊3機(九九艦爆)で計5個隊30名を選抜、第二神風特別攻撃隊を編成します。
28日、第二次編成により志願者から3個隊18名(艦爆)が選抜、攻一〇三から神兵隊が編成されます。

29日1500、第二神風特別攻撃隊 神兵隊3機はニコルス海岸自動車道を25番1発、6番2発を懸吊し発進、一番機(操縦:伊東立教上飛曹/偵察:橋本喬中尉)は「敵空母発見」を打電後、突入散華、二番機(加藤壮一一飛曹)は敵艦隊を発見できずレガスピーに不時着、三番機(和田展生二飛曹)は機上散華、リパに不時着します。
美保海軍航空基地 神兵隊発進(鳥取)
▲10月29日、ニコルス海岸自動車道を発進する第二神風特別攻撃隊 神兵隊

11月1日0700、第二神風特別攻撃隊 神兵隊(塚本貞雄飛長/加藤壮一一飛曹)は和田二飛曹の遺骨を抱いて、25番1発、6番2発を懸吊し第一ニコラスを発進、発動機不調のためセブに降着、整備の後、1250、セブを発進、1340、敵駆逐艦に突入し命中散華、任務を完遂します。
第二神風特別攻撃隊 神兵隊
伊東立教 上飛曹(操縦)/橋本喬 中尉(偵察)
和田展生 二飛曹
塚本貞雄 飛長/加藤壮一 一飛曹

15日、七〇二空は二十五航戦(三航艦所属)に転属、第七基地航空部隊西一空襲部隊に部署され第一國分に移駐、戦力の回復、錬成にあたります。

昭和20(1945)年1月20日、大本營は『次期作戰計畫大綱』を策定し東シナ海に来寇して来る米軍機動部隊を撃破すべく、3月末までに『天號作戦』の準備命令(戦力の温存、薄暮・黎明期の特攻)を下令します。
七〇一空は可動機全機を以て神風特別攻撃隊 菊水部隊 彗星隊、同小禄彗星隊(ともに通常・特攻併用)を編成し錬成にあたります。

2月10日、七〇一空は五航艦に転属、第一機動基地航空部隊七〇一空部隊(攻一〇三、攻一〇五、攻二五一)に部署されます。

2月中旬、攻一〇五の彗星(計6)とともに小禄(沖縄)に進出します。

3月17日、天一號作戦要領が発令、第一機動基地航空部隊指揮官は第一戰法用法を下令、18日0205、第一機動基地航空部隊第一戰法を発動します。
菊水部隊 彗星隊は単機、または小編隊による索敵攻撃(強襲爆撃)を本旨とし、七〇一空司令・木田達彦大佐も体当りを戒め、あくまで通常攻撃を訓示します。
隊員もまた生還を期すも常に体当り精神を秘め、常に体当りの覚悟で出撃します。
0613、第一次、1045、第二次、1350第三次攻撃隊として菊水部隊 彗星隊27機が50番1発を懸吊し第一、第二國分を発進、九州東方海上の敵機動部隊を攻撃、19機(攻一〇三14、攻一〇五4、戰三一一直掩4)が未帰還(偵察員1名は不時着時に生還)になってしまいます。
神風特別攻撃隊 菊水部隊 彗星隊
攻一〇三
小網十九雄 飛長(操縦)/中川茂男 飛長(偵察)
葛和善治 少尉/石井隆 上飛曹
金山一雄 二飛曹/小山康衛 少尉
岡本壽夫 飛長/古長正好 飛長
猿渡弘 上飛曹/西島忠治 上飛曹
野間茂 中尉/
木村潔 少尉/松原清 上飛曹
勝俣市太郎 二飛曹/久保田英生 少尉
小野庄治 飛長/市川末人 一飛曹
益岡政一 二飛曹/岩上一郎 中尉
市毛喜代夫 二飛曹/田中精之助 少尉
湯浅正三 上飛曹/田島一男 少尉
山下利之 二飛曹/瀧理吉 上飛曹

攻一〇五
平田博一 中尉/野宮仁平 少尉
三鬼照一 飛長/小野塚一江 二飛曹
畠中良成 少尉/植村平 一飛曹
藤園勝 飛長/助田義一 二飛曹

戰三一一(直掩)零戦
堀井正四 少尉
江崎志満夫 一飛曹
白川一男 飛長

19日0545、第四次、0928、第五次、1014、第六次、1050、第七次攻撃隊として菊水部隊 彗星隊23機が50番1発を懸吊し第一、第二國分を発進、九州東方海上の敵機動部隊を攻撃、3機が「我敵空母ニ突入ス」を打電、14機(攻一〇三9、攻一〇五5)が未帰還になってしまいます。
攻一〇三
川端弘保 少尉/柏井宏 大尉
川口富司 大尉/山下敏平 飛曹長
宮下萬次郎 上飛曹/坂田明治 中尉
飯塚英一 上飛曹/藤田春男 中尉
天野一史 中尉/千野五郎 上飛曹
福西一隆 少尉/出島廣良 少尉
北村良二 上飛曹/西口速雄 飛曹長
上田元太郎 飛長/長谷川次郎 一飛曹
石黒喜八 飛長/竹川福一 一飛曹

攻一〇五
関矢忠雄 上飛曹/中村恒夫 大尉
山口春一 一飛曹/木村福松 一飛曹
山路博 中尉/高梨総理 少尉
夏目康 少尉/斎藤幸雄 少尉
山元當四郎 飛長/大矢武 二飛曹

20日1250、第八次攻撃隊として菊水部隊 彗星隊23機が50番1発を懸吊し第一國分を発進、九州東方海上の敵機動部隊を攻撃、4機が「我敵空母ニ突入ス」を打電、10機(攻一〇三4、攻一〇五3、攻五1、戰三一一直掩2)が未帰還になってしまいます。
攻一〇三
原田幸 飛長/中島茂夫 飛長
寺道好美 飛長/根上義茂 飛長
佐藤甲 上飛曹/森下亮一郎 上飛曹
福下良和 一飛曹/谷本七郎 一飛曹

攻一〇五
熊澤孝 飛曹長/大谷吉雄 上飛曹
稲生康夫 飛長/栗澤栄吉 一飛曹
宮本才次郎 飛長/槇田利夫 一飛曹

戰三一一(直掩)零戦
寛応隆 中尉/佐藤清 一飛曹

24日0600、第九次攻撃隊として小禄彗星隊2機が50番1発を懸吊し小禄を発進、1機が沖縄西方海上の敵機動部隊に突入散華、25日0500、第十次攻撃隊として小禄彗星隊1機が50番1発を懸吊し小禄を発進、沖縄西方海上の敵機動部隊に突入散華、任務を完遂します。
神風特別攻撃隊 小禄彗星隊
前橋典美 二飛曹/米森義治 上飛曹
石渕利也 少尉/ 石川貫二 中尉

26日、天一號作戦が発動、27日、第十一次攻撃隊として菊水部隊 第二彗星隊12機が50番1発を懸吊し喜界島を発進、沖縄西方海上の敵機動部隊を攻撃、8機(攻一〇三6、攻一〇五2)が未帰還になってしまいます。
攻一〇三
田中巽二 飛曹/佐藤一義 少尉
細江志郎 二飛曹/高橋紫壽雄 上飛曹
内田続 二飛曹/武士精三 一飛曹
正木廣 二飛曹/船橋良三 一飛曹
横山作二 二飛曹/藤丸哲 上飛曹
谷節夫 少尉/椿昇 一飛曹

攻一〇五
菱沼一 飛長/廣田繁次郎 一飛曹
木場愛 二飛曹/青木清 一飛曹

29日、第十二次攻撃隊として菊水部隊 第二彗星隊4機が50番1発を懸吊し第一國分を発進、種子島南方30海里の敵機動部隊を攻撃、2機(攻一〇五2)が未帰還になってしまいます。
攻一〇五
伴隆 一飛曹/菊池久 中尉
山本治 少尉/川野巌 少尉

4月16日、菊水三號作戦が下令され、第十三次攻撃隊として菊水部隊 第二彗星隊10機が50番1発を懸吊し第一國分を発進、喜界島南東の敵機動部隊を攻撃、3機(攻一〇三1、攻一〇五2)が未帰還になってしまいます。
攻一〇三
石川定男 上飛曹/外山正司 中尉

攻一〇五
棚田茂見 飛長/
大田榮次郎 少尉/岩見健 少尉

12日、聯合艦隊司令部は第一機動基地航空部隊(五航艦)と第七基地航空部隊(三航艦)で天航空部隊を編成(五航艦司令長官指揮)、攻一〇三は美保に移駐し戦力回復と錬成にあたります。

8月3日、五航艦司令部は鹿屋から大分に将旗を移揚、七〇一空の1個分隊の大分への派遣を下令したため、攻一〇三より七〇一空大分派遣隊(中津留達雄大尉)が選抜され、大分に移駐します。

14日、大分派遣隊(彗星20)は15日1000を期して済州島付近を北上中の敵機動部隊に対し出撃を準備中、8月15日を迎えます。

15日1200、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、前日に部下の跡を追うべく出撃を決心していた五航艦司令長官・宇垣中将は、幕僚の制止を固辞し「七〇一空大分派遣隊ハ艦爆一機を以テ沖縄敵艦隊ヲ攻撃スベシ本職之ヲ直率ス」と起案、彗星1機の待機を下令します。
この命令に大分派遣隊隊員が不服を唱えたため、長官は11機の同行を認め、1500、搭乗割が発表、彗星は燃料を半減し爆弾を50番から80番に換装します。
1600、将校食堂において幕僚と別盃を交わし、1615、同行する隊員に訓示ののち、階級章を外し一番機の偵察席に搭乗、その際、本来の偵察員・遠藤秋章飛曹長に降りるように命じますが、遠藤飛曹長はこれを潔しとせず長官と同乗します。
美保海軍航空基地 宇垣纏中将(鳥取)
▲整列した中津留達雄大尉以下に訓示する宇垣中将

美保海軍航空基地 宇垣纏中将2(鳥取)
▲最後の記念撮影に収まった宇垣中将
  右手には山本五十六大将より遺贈された短剣を持っています

1700、司令部幕僚、戦友に見送られ大分を発進、途中3機が発動機不調により不時着するなか、1830、磯村機が「敵水上部隊見ユ」「突入」を打電し突入、1924、長官機は「過去半歳ニワタル麾下各隊ノ奮戰ニモ拘ラズ、驕敵ヲ撃破シ神洲護持ノ大任ヲ果タスコト能ワザリシハ、本職不敏ノイタストコロナリ。本職ハ皇國武人ノ本領ヲ發揮シ、驕敵米艦ニ突入、撃破ス。指揮下各部隊ハ本職ノ意味ヲ體シ、精強ナル國軍ヲ再建シ、皇國ヲ萬世無窮ナラシメヨ、天皇陛下萬歳」と決別電を打電、2025、「ワレ奇襲に成功ス」を打電し伊平屋島周辺の敵艦艇群に突入散華、責任を全うしました。
長官直率部隊は「詔書必謹のため敢えて敵艦隊を避けて突入した」とも言われますが、15日時点では陸海軍への停戦命令は出ておらず、状況から敵艦隊攻撃を目指したと思われます。
宇垣中将直率部隊
中津留達雄 大尉/遠藤秋章 飛曹長・宇垣纏 中将・・・伊平屋島海岸に突入
伊東幸彦 中尉/大木正夫 上飛曹
山川代夫 上飛曹/北見武雄 中尉
池田武徳 中尉/山田勇夫 上飛曹
渡辺操 上飛曹/内海進 中尉
後藤高男 上飛曹/磯村堅 少尉・・・伊平屋島海岸に突入
松永茂男 二飛曹/中島英雄 一飛曹
藤崎孝良 一飛曹/吉田利一 一飛曹
前田又男 一飛曹/川野良介 中尉・・・不時着
川野和一 一飛曹/日高保 一飛曹(不時着時散華)・・・不時着
二村治和 一飛曹/栗原浩一 二飛曹・・・不時着


飛行第九十八戰隊(靖二一二〇三)
昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、支那国府軍の度重なる違法行為により事態が悪化、我が政府は事変収拾のため「北支派兵二關スル政府聲明」を発表、7月15日、軍令陸甲第六號『支那駐屯軍、航空兵團司令部、留守航空兵團司令部臨時動員要領及ビ細則』により、動員令を用いることなく支那駐屯軍、航空兵團司令部は、現態勢のままで動員が完結します。

7月15日、第三師團長の管理により飛行第七聯隊(濱松)において第三中隊を改編し獨立飛行第三中隊(島谷亨大尉、九三重爆9)が編成され、航空兵團司令部隷下に編入、19日、濱松を出発、大刀洗を経由し23日、錦州に集結、26日、天津に進出、28日、支那第二九軍(宋哲元)の拠点・南開大学を爆撃します。
美保海軍航空基地 濱松を出発する獨飛三(鳥取)
▲戦友、地元の方に見送られて濱松を出撃する獨立飛行第三中隊

8月2日、連日の豪雨により天津飛行場が浸水したため、錦州に移駐ののち、31日、南苑に移駐し、第一軍、第二軍の支援(敵拠点、停車場爆撃)にあたります。

8月13日、蒋介石軍の違法行為、挑発により第二次上海事変が勃発、我が軍と蒋軍の全面戦闘に発展します。
9月11日、飛行第十四聯隊(嘉義)から第二中隊を基幹として獨立飛行第十五中隊(瀧昇中佐、九三重爆6)が編成、台中に集結後、10月16日、上海王賓に前進、17日、大場鎮を爆撃します。
美保海軍航空基地 獨飛十五(上海)九三重爆Ⅱ(鳥取)
▲上海・王賓における獨立飛行第十五中隊の九三重爆Ⅱ

9月22日、鉄道爆撃に向かった獨飛三・濱田要大尉機は列車の対空砲に被弾、河北省白東鎮に墜落し5名全員が散華してしまいます。
9月中旬、獨飛三は飛行第六大隊、戦闘2個、偵察2個、軽爆1個大隊とともに陽高に移駐、支那空軍の拠点飛行場を覆滅すべく、10月1・3日、太原飛行場を爆撃し2機撃墜、15機撃破、11月5・8日、太原攻略作戦を支援し太原西北縄文を爆撃します。
11日、済南攻略に向かう地上部隊を支援、10月下旬、九七重爆の試作機2機が配備され石家荘から支那空軍の拠点・洛陽飛行場を2回、13日、西安飛行場を3回、14日、鞏県造兵廠を2回爆撃します。

12月1日、中支那方面軍は国府軍の首都・南京城攻略を下令、9日、獨飛十五は南京中華門を爆撃、第六師團を支援し、13日、支那軍の退路を遮断すべく南京後方の橋梁を爆撃(同日、南京城攻略)しますが、蒋介石は漢口に撤退、昭和13(1938)年1月3日、獨飛十五は南京大校飛行場に前進します。

昭和13(1938)年1~2月、獨飛三は山東作戦を支援、3月中旬、南苑飛行場に移駐しイ式重爆に機種改変し、5~6月、徐州作戦支援のため鉄道を爆撃します。

昭和13年5月23日、軍令陸甲第二十七號『航空部隊編成要領』により陸軍飛行隊は空地分離(飛行部隊と整備部隊を別々に運用する)が行われ、8月1日、獨飛三、獨飛十五は復帰、両獨飛の人員、機材を基幹として彰徳において編成着手、15日、飛行第九十八戰隊が編成完結(服部武士大佐)、第四飛行團隷下に編入されます。

8月5日、運上に移駐し西安飛行場を爆撃、22日、漢口に撤退した蒋介石を捕捉し、支那事変の早期解決を図るべく大本營は漢口作戰を発動、戰隊は飛六十とともに第十一軍に協力、8月下旬、杭州へ移駐し鄱陽湖西側の廬山を2回爆撃、9月上旬、安慶へ移駐します。
9月2日、第十六師團、第百六師團を支援し大別山南の京漢沿線、9月下旬、江北、及び江南の敵拠点、10月19日、長沙飛行場を爆撃、10月26日、第六師團が漢口を攻略しますが、蒋介石は重慶に撤退してしまいます。

11月7日、衡陽飛行場を爆撃し敵戦闘機16機を地上撃破、8・9日、衡山の軍事施設、南岳の敵拠点を爆撃します。
11日、戰隊は第一飛行團に隷属転移、15日、戰隊(イ式28(可動9)、飛六十(九七式23(12))とともに漢口に進出(12月24日、飛十二(イ式19(9))が進出)、錬成の後、12月26日、重慶に向かいますが悪天候のため雲の切れ間から市街地東部を推測爆撃(飛六十は投弾せず帰投)、29日、漢口南西600kmの芷江に向かいますが悪天候のため常徳、龍陽を爆撃、昭和14(1939)年1月7・10・15日、重慶の敵軍事施設を爆撃、来襲した敵戦闘機2機を撃墜します。

2月初旬、重慶上空の天候不順が続いたため、ソ連からの補給の要地・蘭州を攻撃すべく3個戰隊は運城飛行場へ移動、作戦目的秘匿のため陽動として、6日、洛陽、8日、潼関、9日、平涼の敵軍事施設、兵営、飛行場を爆撃、12日、蘭州東飛行場を爆撃し、来襲した敵戦闘機11機を撃墜、18日、戰隊は延安の軍学校を爆撃後、蘭州東飛行場を爆撃し17機を撃墜するも2機喪失、25日、陽動のため宝鶏を爆撃し、飛九十八は奥地爆撃を終了します。

3月6日から飛十二と延安、7日、平涼、西安、12日、洛陽、13日、清豊、14日、宝鶏を、同日、飛六十と西安、15日、飛十二と西安、戰隊のみで平涼、18日、飛十二と清豊を爆撃し地上部隊を支援します。

18日、杭州に移駐し第三中隊は九七重爆に機種改変、3月下旬、彰徳に移駐、山西省の共産軍拠点を爆撃、6月10日、第三中隊は南苑に移駐し飛六十に編入され、同戰隊第三中隊に改編されます。
7月10日、第二飛行團に隷属転移、奉天に移駐し第一、第二中隊も九七重爆Ⅰに機種改変、11月中旬、敦化に移駐、反日・反滿匪賊の拠点を爆撃します。

昭和15(1940)年3月、第三中隊を新設し27機編制に改編、7月23日、大本營は戰隊の南支派遣を決定、26日、戰隊は南支那方面軍指揮下に編入され、8月下旬、海南島海口に移駐、海上航法訓練を実施します。

8月10日、北部仏印進駐の交渉牽制のため示威飛行を実施、24日、広東に移駐し飛五十八と支那空軍の前進拠点・桂林飛行場、29日、韶関を爆撃します。
9月12日、原駐地への復帰が下令されたため、10月15日、嘉義を経て敦化へ復帰します。

昭和16(1941)年6月、各務原において九七重爆Ⅱに機種改変し敦化へ復帰、6日、第七飛行團に隷属転移、關東軍特種演習参加のため平房に移駐、8月21日、南苑、26日、百二號作戦(第五次奥地進攻)参加のため運城に移駐します。

28日、宝鶏、29日、広元、保寧、30日、飛十二と重慶、31日、涼州飛行場、9月4日、潼関、渭南三原、咸陽、12日、西安の各軍事施設、飛行場を爆撃します。

13日、南苑に移駐、24日、広東省前山鎮、28日、張皮荘の匪賊拠点、10月2日、鄭州の支那軍拠点を爆撃します。

11月13日、南苑を出発、嘉義を経由し海口に移駐、飛十二と陽動のため桂林、韶関を爆撃したのち、12月4日、サイゴンに前進(九七重爆42)します。

12月7日、馬来攻略に向かう第二十五軍(山下奉文中将)乗船の船団援護にあたった飛六十四の帰還誘導のため3機で出撃しますが、会合できず1機が未帰還になってしまいます。
8日未明、戰隊は悪天候の中、サイゴンを出撃、0852、スンゲイパタニ、アロールスター両飛行場を爆撃しバッファロー、ブレニム数機を地上撃破します。

9日、馬来西岸のケダ爆撃に向かいますが悪天候のため引き返し、13日、飛十二とクァラペスト、14日、ビクトリアポイント西方35kmの無電台、シャンタンを爆撃、第二十五軍の快進撃に伴い仏印からの爆撃圏内に敵拠点が無くなったうえ、燃料も欠乏して来たため、同日、第三飛行集團長・菅原道大中将は隷下飛行團に重爆の使用制限を下令します。

22日、ビルマ攻略を担当する第十五軍(飯田祥二郎中将)を支援すべくドムアンへ前進、23日、制空権確保のため、第七、第十飛行團連合でラングーン爆撃に向かい、目標は密雲に阻まれ爆撃不能なため総督政庁を爆撃しますが敵戦闘機の邀撃を受け、16機を撃墜するも野上良平中尉機、射手矢光雄中尉機が相次いで撃墜され、さらに先頭機も被弾、搭乗していた戰隊長・白井茂樹大佐が機上散華(後任、大阪順次中佐)してしまいます。
美保海軍航空基地 ラングーンに向かう飛九十八と渥美光大尉(昭和16年12月23日)(鳥取)
▲12月23日、ラングーン爆撃に出撃する飛九十八

28日、第二十五軍のシンガポール攻略支援のため、泰國クァラペストに移駐、昭和17(1942)年1月1日、第一中隊がシンガポール・
テンガ飛行場を爆撃、ソードフィッシュ2を地上撃破しますが、同日夜半、ブレニム1がクァラペストに来襲、防空施設が無かったため九七重爆2が地上撃破、20機が損傷してしまいます。
2・3日、3機づつでセンバワン飛行場、13日、飛六十四、飛五十九の一式戦の護衛のもと30機でシンガポールを爆撃しますが、悪天候のため雨天推測爆撃ののちケチル飛行場に移駐、14日、同じく市街推測爆撃を実施します。
15日、飛十二、飛六十と市街・セレター飛行場を爆撃、17日昼間、夜間、市街中枢、17・21日、密雲のため市街を雲上から推測爆撃します。

23日、単独で2,300kmを飛行しスマトラ島・パレンバン飛行場を爆撃、敵爆撃機2を撃破、帰投中に蘭軍ホークの攻撃を受け数機が被弾するも損失は無く、3機を撃墜し、南方軍總司令官・寺内壽一大将から賞電を授与します。

25日、シンガポール・セレター飛行場を爆撃、ジョホール水道上空でハリケーン5を撃墜(損失0)、27日、セレター飛行場、29日、センバワン飛行場、30日、ジョホールバルの敵陣地、2月1日、夜間単機でシンガポール市街を爆撃した後、パレンバン攻略支援のためプノンペンに移駐、第一挺進團、挺進飛行隊と共同訓練にあたります。

13日、クルアンに前進、14日、戰隊27機は挺進飛行隊(AT、ロッキード輸送機40)とともに飛六十四の護衛のもとパレンバンに進攻、第一挺進團の落下傘降下に続き、戰隊は物資を投下、同日夜半、パレンバン飛行場、製油所を攻略、15日、第一挺進團に武器・弾薬を輸送し、ケチルに移駐します。
美保海軍航空基地 パレンバンに向かう飛九十八(上)と輸送機(鳥取)
▲パレンバンに向かう飛九十八(上)と挺進飛行隊(下)

15日、シンガポール市街砲兵陣地、同司令部、錫工場を爆撃(同日、第二十五軍はシンガポールを攻略)、23日、ビルマ・オークランズ飛行場、25日、同メークテーラ飛行場を爆撃します。

3月8日、戰隊はシンガポール市内の見学、センバワン、セレターに対する爆撃状況を視察、12日、第二十五軍、第十六軍(今村均中将)のスマトラ島攻略支援のため示威飛行、及び伝単を散布します。

18日、戰隊35機は飛十二31機と泰國・ナコンサワン飛行場へ移駐、21日、第十五軍の北部ビルマ攻略を支援すべく、24機で飛十二27機と飛六十四の一式戦14機の護衛のもとマグウェ飛行場を爆撃します。
爾後、22日、飛十二とマグウェ、23日、単独でアキャブ飛行場、24日、飛十二とアキャブ飛行場、25日、ドザバリ飛行場、28日、へポ、ロイレム両飛行場、29日、ロイレン飛行場、31日、ラシオの英軍施設、4月1日、ラシオ、ローウィン、3日、マンダレー市街の英軍施設、4日、メークテーラの英軍施設、8日、マンダレー停車場、9日、ピンマナ停車場、倉庫、10日、タウンギー市街、12日、メークテーラ官庁街を連日爆撃します。

25日、ビルマ・ミンガラドン飛行場、次いでトングー飛行場に移駐し、ラシオへの挺進作戦に備えますが、29日、悪天候のため中止されます。
30日、ザゲイン、5月1日、タベイギン、2日、ミンダン、4・5日、援蒋ルートの拠点・保山(1機損失、ビルマ作戦中唯一の損害)、6日、ナバ停車場、8日、インド・チッタゴン飛行場、9日、チッタゴン、10・17日、第三十三師團に撃破された英印軍の退路を遮断すべくインパール、19日、バタルブールを爆撃し、カルカッタ攻撃を企図しますが雨季の到来により作戦は中止されます。

31日、トングーを出発、ドムアンを経由し、6月1日、スンゲイパタニに移駐します。
7月10日、第七飛行團は新編された第五飛行師團(小畑英良中将)に編入されます。

8月29・30日、マラッカ海峡の対潜警戒にあたります。

12月18日、小畑中将はレド、カルカッタへの夜間攻撃を企図、第一中隊はタボイ、第二中隊はレグ、第三中隊はミンガラドンへ前進、20日、カルカッタに進攻し石油槽、24日、埠頭(1機未帰還)、28日、埠頭東側の軍事施設を爆撃し、スンゲイパタニに集結します。

昭和18(1943)年1月1日、戰隊はニューギニア方面に転進する飛十四(ビルマ方面の重爆は飛九十八のみに)に補充機11機を抽出し、夜間27機、深夜9機でのカルカッタ攻撃を下令され、トングーに前進します。

15日2130、3機でカルカッタ夜間攻撃に出撃しますが、ボーファイターの襲撃を受け全機未帰還しなってしまいます。
17日、各中隊長機により夜間攻撃を実施すべく、3機はタボイ、19日、アキャブに前進、バッジバッジ油槽群を爆撃炎上させ、全機帰還します(第五飛行師團は夜間攻撃を中止)。

1月6日、ラテドン、11日、ドンペイグに侵攻してきた英印軍を撃退すべく、20日、ドンペイグ、22日、モンドウ(1機損失)、23日、チッタゴンを爆撃し、第五十五師團の三十一號作戰(第一次アキャブ作戦)を支援します。

2月上旬、スンゲイパタニ、次いでメークテーラ東飛行場へ移駐、23日、8機でオークランズ飛行場、25日、9機で飛五十、飛六十四の護衛のもとディクボイ飛行場を爆撃しますが、P40の邀撃を受け第一中隊長・原忠夫大尉機、吉野潜中尉機が撃墜されてしまいます。

3月2日、フェンニー第三飛行場へ払暁攻撃に向かう戦闘機を清水千波大尉が誘導にあたり、21日、戰隊はフェンニー飛行場、22日、ランパン、23日、バザリー飛行場、25日、ドバザリ飛行場を爆撃します。

4月1日、豪州攻撃が中止されたため飛十二(18機)がビルマ方面へ復帰する事になったため、戰隊(9機)はトングーに集結、フェンニー飛行場を爆撃しますが、ハリケーンの邀撃を受け魚返文夫中尉機が撃墜されてしまいます。
5日、アコーラ飛行場、次いで28日、へホに移駐し、飛十二と飛五十、飛六十四の護衛のもと昆明飛行場、5月15日、再度、昆明飛行場を爆撃しますが、P40の邀撃を受け伊東久衛中尉機が撃墜されてしまいます。

6月18日、スマトラ島・メダン、サバン両飛行場へ移駐、インド洋の対潜哨戒にあたります。

10月14日、チッタゴン攻撃のためスンゲイパタニに移駐、20日、飛十二とチッタゴン港、25日、コックスバザー港を爆撃後、南方軍、南西方面艦隊合同のカルカッタ攻撃に向け高高度精密爆撃、洋上航法、大編隊行動の錬成にあたりつつベンガル湾の哨戒を実施します。

12月5日、第二中隊(西尾常三郎大尉)9機は飛十二18機、飛五十、飛六十四の一式戦74機とマグゥエ上空で会合、タポール船渠を爆撃、中型船3に命中弾、2に至近弾、周辺倉庫も破壊します。

26日、戰隊16機、飛十二5機はチッタゴンの港湾施設を爆撃、5,000t級輸送船に命中弾、埠頭、倉庫を破壊しますが、スピットファイアの邀撃を受け深谷太計彦少尉機が炎上し撃墜されてしまいます。

31日、第五十四師團が守備するラムレ島に英軍上陸の報に接し、戰隊は急遽出撃しますが、直後に誤報と判明し帰投します。
爾後、アンダマン海の哨戒にあたります。

昭和19(1944)年1月17日、戰隊に内地帰還が下令され、29日、アロルスターを出発、サイゴン-海口-嘉義-沖縄北-新田原を経由し、2月6日、濱松に到着し、第一航空軍(李王垠中将)に隷属転移します。
戰隊は昭和17(1942)年3月から重爆戰隊中、唯一終始ビルマ戦線で活躍、戦闘で12機、訓練・哨戒・移動中に9機、121名(2名は飛行場において)を失います。

大本營陸海軍部は協議(陸軍は雷撃部隊を、海軍は陸攻を所望)の結果、飛九十八と飛七を海軍(聯合艦隊司令部)の指揮下へ編入、及び四式重爆(雷撃機型)への機種改変を決定します。
2月8日、戰隊は鹿屋海軍航空基地(鹿児島)に前進、第七六一海軍航空隊(松本眞實中佐)指揮下に編入、15日、七六一空のマリアナ方面転出(20日)に伴い、新編された七六二空(柴田文三大佐)指揮下に編入され、22日、軍令陸甲第二十四號により聯合艦隊司令部指揮下に編入されます。

戰隊は七六二空麾下の攻撃第七〇八飛行隊長・長井疆大尉より計器飛行、夜間離着陸、襲撃運動、雷撃訓練を習得、5月中旬、豊橋において四式重爆に機種改変、濱松において慣熟教育、整備にあたり、7月10日、鹿屋に復帰し、再び錬成にあたります。

8月21日、聯合艦隊司令部は、敵戦闘機が活動困難な気象状況下を突いて攻撃を集中する精鋭部隊「T攻撃部隊」を編成(七六二空司令・久野修三大佐指揮)、戰隊は第七六二海軍航空隊と攻七〇八(一式陸攻)、横須賀空の戰七〇一(紫電)、攻五〇一(銀河)、偵三〇一(瑞雲)、第三艦隊の攻一六一(彗星:9月14日、除外)、攻二六二(天山)、第三航空艦隊の偵一一(彩雲、一〇〇偵)、攻七〇三(一式陸攻)、八〇一空(二式飛行艇)とともに編入(飛七は練度不足のため予備隊)されます。

10月、米軍はフィリピン侵攻準備として我が航空戦力を減殺すべく沖縄、台湾、南西諸島に来寇、10日、米艦載機が沖縄に来襲、T攻撃部隊は出撃を準備しますが、戰隊は地上撃破を避けるべく大刀洗に退避します。
12日、米艦載機が台湾に来襲、聯合艦隊司令部は基地航空部隊に捷一號・捷二號作戦を発令、T攻撃部隊に出撃が下令されます(台湾沖航空戦)。
1030、偵察隊が鹿屋を発進、都井岬208°~220°820浬圏内を索敵触接します。
1600、戰隊は出撃のため沖縄北に前進(四式重爆は一式陸攻より航続距離が短いため)、1800、触接照明隊(細田哲生大尉)8機が出撃、1900、雷装の本隊(戰隊長・高橋太郎少佐直率)12機が出撃、2350、石垣島南方160km洋上の目標に到達しますが、触接機は別個の目標に到達したため照明弾が分散し敵機動部隊の発見ができず、本隊は単機毎に索敵するも燃料欠乏のため帰投、触接隊全機を含む11機が未帰還になってしまいます。
美保海軍航空基地 沖縄北に向かう飛九十八(T攻撃部隊)(鳥取)
▲T攻撃部隊として鹿屋から沖縄北に前進する飛九十八

14日、再度出撃命令が下令され、1547、戰隊16機は第三中隊長(富永義夫大尉)機を先頭に出撃を開始、1829、石垣島南方の敵機動部隊を発見、飛行長・宮嶋少佐は突撃を下令、敵の対空砲火、輪形陣を突破し大型艦に魚雷2本を命中させるも、14機(台湾に2機不時着)が未帰還になってしまい、戰隊の四式重爆は2機になってしまいます(当日、空母3、戦艦2、巡洋艦3撃沈を報告)。

T攻撃部隊は12~16日の攻撃で126機、搭乗員109組を失ってしまいますが、空母11、戦艦2、巡洋艦2、駆逐艦1を撃沈、空母8、戦艦2、巡洋艦4、駆逐艦1、艦種不明13撃破を報じます(所謂、幻の大戦果)。
しかし、実際は空母17は無傷、重巡キャンベラ、軽巡ヒューストン大破に留まり、夜間攻撃による戦果誤認、撃墜された友軍機を誤認した戦果を積み上げてしまった結果、誇大な戦果が計上されてしまい、爾後の作戦に大きな影響を与えてしまいます。

15日、戰隊は鹿屋に集結、11月、戦力回復にあたります。

昭和20(1945)年2月20日、七六二空は新編の第五航空艦隊(第一機動基地航空部隊、宇垣纏中将)に編入されます。

3月米軍の沖縄侵攻が予測されるなか、14日、米機動部隊のウルシー泊地出撃を察知、17日、索敵機が九州南方洋上に敵機動部隊を探知、聯合艦隊司令部は天一號作戦要領を発令、18日未明、戰隊は12機(戰隊長・宇木素道少佐直率)で鹿屋を出撃、空母1、戦艦乃至巡洋艦1撃沈を報じ(1機未帰還、1機引き返す)、19日未明、9機で出撃(3機未帰還、5機引き返す)、20日、8機で出撃、空母1撃沈を報じます(2機未帰還)。
該当機動部隊の空襲により鹿屋は損傷したため、朝鮮・群山に移駐します。

25日、沖縄に敵機動部隊が来寇、26日、米軍が慶良間列島に上陸を開始、聯合艦隊司令部は天一號作戦を発動します。

26日、戰隊は太刀洗に前進、7機(1機引き返す)、29日、9機、31日、12機で沖縄西方海上の敵機動部隊を雷撃します。
4月1日、米軍は沖縄に上陸、2日、戰隊は喜界島南方で発見された敵機動部隊攻撃に出撃しますが、目標を発見できず引き返します。
5日、沖縄西方海上の敵機動部隊を雷撃しますが、1機が未帰還になってしまいます。
6日、菊水一號作戦が発動、11日、戰隊9機、飛七7機は喜界島南方の敵機動部隊を雷撃、戦艦乃至巡洋艦1撃破を報じます(戰隊は1機未帰還)。
12日、菊水二號作戦が発動、夜半、戰隊8機、飛七8機は沖縄西方海上(同1機未帰還)、14日夜半、戰隊4機、飛七7機は奄美大島東南方海上(同1機未帰還)、16日、菊水三號作戦が発動、戰隊6機、飛七6機は沖縄西方海上(同2機未帰還)、27日、3機、28日、6機(1機未帰還)、30日、2機(1機未帰還)、5月3日、8機で連日、沖縄西方海上のそれぞれ敵機動部隊を雷撃します。

4日、赤江海軍航空基地(宮崎)に移駐、5~10日、飛七とともに2~3機で夜間、沖縄周辺の敵艦船雷撃に出撃(6日、2機未帰還)します。

12日、聯合艦隊司令部は第一機動基地航空部隊(五航艦)と第七基地航空部隊(三航艦)で天航空部隊を編成(五航艦司令長官指揮)、15日、五航艦司令長官・宇垣纏中将は第一戦法必成上の兵力配備を変更、夜間攻撃隊の雷撃隊は全機美保への移駐が下令されます。
戰隊は七六二空とともに美保に移駐、出撃時は赤江で補給、雷装し沖縄に向かいます。
13~18日、飛七とともに少数機で、24日、義號作戦に呼応し、戰隊4機、飛七5で、27日、再び少数機で沖縄周辺の敵艦船雷撃に出撃します。

7月1日、戰隊は聯合艦隊司令部の指揮下から第二十一飛行團(山県有光大佐)隷下に編入され、7日、主力は兒玉陸軍飛行場に移駐、戦力分散のため一部は美保、大刀洗に残置、決號作戰(本土決戦)に備え戦力整理中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第五百三十四海軍設營隊
昭和20(1945)年6月1日、舞鶴鎭守府の所管で舞鶴施設部において編成(山根幸雄技大尉)、舞鶴鎭守府部隊に部署され、第一教導設營班内で事務を開始、5日、舞鶴中筋國民學校講堂を仮宿舎として編成整備にあたります。
当初は彦根方面の進出を予定されますが、美保の設営強化に任務変更され、15日、第一次先発隊、18日、第二次先発隊、19日、本体が美保に移駐、美保海軍航空基地南側の美保海軍航空隊跡地に集結、20日、結成式を挙行します。

26日、美保海軍航空基地緊急戦備工事を着手、27日、業務担当協議により、28日、美保海軍航空基地強化とともに第三十二海軍航空廠 美保分工場に隣接し第二美保海軍航空基地(大篠津牧場)の設営を開始、また長野五郎技師、高木照夫技手を大社に派遣(6月19日)、美保空派遣隊(前田近義少佐)、勤労奉仕隊の技術指導にあたります。

7月1日、隊長・田原保二技中佐が着任、航空基地防護強化にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
22日、隊は復帰します。


第四十五魚雷調整班
昭和20(1945)年3月15日、軍令部機密第二三二〇一七番により佐世保鎭守府の所管で田浦海軍航空隊(横須賀)において編成着手、27日、班長・池田鐵次特務大尉着任、第五航空艦隊(宇垣纏中将、鹿屋)に配属、第一機動基地航空部隊(五航艦司令長官指揮)に部署され、29日、田浦を出発、30日、美保海軍航空基地に到着します。
4月2日、待避壕(12日まで)、13日、待機魚雷格納所の構築を開始します(5月20日まで)。
5月5日、新編された山陰海軍航空隊の指揮下に編入、19日、一部を大社海軍航空基地に派遣(第四十五魚雷調整班 大社派遣隊)し所在の海軍、陸軍雷撃部隊の雷装を担当するなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


主要参考文献
『伯耆文化研究 第13号 「美保飛行場周辺の戦争遺跡-掩体壕を中心にして-」』 (平成24年 伯耆文化研究会(篠田健三))

『鳥取県史 近代第2巻(政治篇)』 (昭和44年 鳥取県)

『米子市史』 (昭和47年 米子市)

航空自衛隊・美保基地資料館

『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧 (三)』 (平成21年5月 渡辺博史 楽學庵)

『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧 (四)』 (平成21年6月 渡辺博史 楽學庵)

『神風特別攻撃隊』(平成7年11月 モデルアート社)

『日本陸軍重爆隊』(昭和57年6月 伊澤保穂著 徳間書店)

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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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