当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

大阪海軍病院

兵庫県西宮市に所在する武庫川女子大学の甲子園会館は、東の帝國ホテルと並び称された甲子園ホテルでした。
同ホテルは戦時中、大阪海軍病院として転用されました。
大阪海軍病院 北から (3)(大阪)
▲武庫川女子大学 甲子園会館となった大阪海軍病院(旧甲子園ホテル)

【探索日時】
平成27年2月16日





大阪海軍病院 概略
昭和3(1928)年、阪神電氣鐵道㈱は沿線開発の一環として甲子園浜に大規模ホテル建設を計画、専門家として元帝國ホテル常務・林愛作を迎えますが、林は武庫川大橋を渡り六甲山を背景に広がるモダンな空間の入口としてホテルを位置付け、鳴尾村小曽根に用地を再選定、阪神電鉄は同地の所有地東側一帯を買収し2,000坪を用意します。
続いて林は近代建築の巨人・フランク.ロイド.ライト門下の遠藤新を招聘し設計を委託、昭和4(1929)年、起工、昭和5(1930)年2月、ホテル経営会社の㈱甲子園ホテル(井上周社長、林愛作常務)が設立され、4月15日、鉄筋コンクリート4階建の甲子園ホテルが開業します。
大阪海軍病院 甲子園ホテル(大阪)
▲甲子園ホテル

昭和12(1937)年7月7日、北支事変(9月2日、支那事変と改称)が発生、事変の長期化に伴い我が国は戦時体制に移行して行きます。
昭和15(1940)年3月8日、軍令海第三號『阪神海軍部令』が公布、15日、呉鎭守府麾下に大阪・神戸両港域を警備、出師準備を管掌する阪神海軍部(奥信一少将)が海軍共済ビル内に開庁します。

昭和16(1940)年11月18日、軍令海第二十一號『商港警備府令』により、20日、阪神海軍部は大阪警備府に改編、司令部を北區玉江町(現、中之島5のリーガロイヤルホテル所在地)に開庁します。
大阪警備府の開庁に伴い麾下に大阪海軍軍需部、同経理部、大阪警備府軍法會議、大阪海軍刑務所等が随時編成されて行きます。

12月8日、大東亜戦争が開戦、昭和19(1944)年6月、開業当初より経営状態が悪く、時局柄さらに客足が遠のきホテル経営の継続が不可能になった事から㈱甲子園ホテルは株主総会で解散を決議、ホテルは閉館します。

6月、鳴尾村にあった川西航空機㈱は生産設備、倉庫等の分散疎開を開始、疎開施設として閉館した甲子園ホテルを阪神電鉄より借受けますが、還送患者の激増のため呉海軍病院の分院とすべく遊休旅館、ホテルの借用を進めていた呉鎭守府は川西航空機㈱、阪神電氣鐵道㈱に同ホテルを海軍病院としての転用を打診、6月15日、ホテルの譲渡(買収か献納か不明)を受け、11月30日、呉海軍病院 大阪分院(患者収容数400、最大580)を開院します。
12月1日、日赤第七百三十救護班、18日、同第七百三十四救護班が呉海軍病院に入庁、即日、大阪分院に派遣されます。

昭和20(1945)年3月1日、呉海軍病院大阪分院は大阪海軍病院として独立します。
同病院は軽症者の治療・入院を管掌、重症者は呉海軍病院に転送されました。

昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時、管下に田邉分院(田邉海兵團)、有馬温泉に転地療養施設の有馬分院、及び有馬治療品倉庫がありました。

9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、同日、隷下の第33歩兵師団が三宮駅に到着し神戸市内の神港ビルに司令部を設置、26日、大阪海軍病院は将校宿舎として米軍に接収されたため、近隣の川西航空機㈱付属病院の提供を受け職員、患者ともに移転(川西側は同社目神山分院に移転)、医療品は有馬分院に移送、12月1日、全国の陸海軍病院は厚生省に移管され、大阪海軍病院は国立鳴尾病院に改組します。

昭和22(1947)年6月、鳴尾病院は国立大阪病院(旧大阪第一陸軍病院。現、国立病院機構大阪医療センター)と合併し、法円坂に移転します。

昭和32(1957)年12月15日、大阪海軍病院(旧甲子園ホテル)の接収が解除され大蔵省に返還、昭和38(1963)年、(学)武庫川学院が教育施設として、次いで阪神電鉄もホテルとして払下げを申請しますが、昭和40(1965)年2月、国有財産近畿地方審議会は継続的に運営管理が行なえ、且つ往時の姿に復元を約した武庫川学院に払下げを決定、昭和47(1972)年、甲子園会館として開館し現在に至ります。


遺構について
大阪海軍病院
現在は武庫川学院により往時の姿に復元され、武庫川女子大学 甲子園会館として運用、定期的に見学会が開催されています。
見学の際、引率者の解説に加え自由に撮影できますが、残念ながらWeb上での公開は不許可(画像検索すると公開しているサイトもありますが・・・)のため、門付近から撮影した外観のみの紹介になります。

見学については公式サイトを、内部に関しては公式サイトか、こちらの㈱リネア建築企画様を参照して下さい。

同ホテルは中央に玄関、フロント、メインロビーを配置、その両翼に大きくメインダイニングとバンケットルームを張り出し、上階に客室群を集約し階段状に配し、「打出の小槌」を主題にしたオーナメントや緑釉瓦、西ホール天井の市松格子など、我が国の伝統美を随所に取り入れ、壮麗な洋風建築の空間と巧みに調和しています。
大阪海軍病院 北から (3)(大阪)

大阪海軍病院 北から (2)(大阪)
▲客室部分(海軍病院時代は将校、下士官用個室)

大阪海軍病院 北から(大阪)
▲東側の棟
 棟は東西にあり海軍時代は日の丸と軍艦旗が掲揚されていました

海軍病院化に伴い客室(将校、下士官用の個室)、ホール(2段ベッドを20台程並べ兵用)を全て病室に、酒場(バー)を手術室に転用します。
また、北側に霊安室や退避壕もあった様ですが、詳細は不明です。


海軍看護婦について
これだけでは何とも味気ない記事なので、拙ブログ初の海軍病院と言う事で海軍病院に勤務した海軍看護婦について記述しておきます。
なお、陸軍看護婦については『大阪陸軍病院 (大阪陸軍病院 大手前分院)』を参照のこと。

海軍系病院で勤務した看護婦(いわゆる従軍看護婦)は陸軍看護婦の際にも言及しましたが、大別して軍属の海軍看護婦と日本赤十字社から派遣された救護看護婦がいました。
後者は圧倒的に人数が多く検索するとかなりの資料、画像が出てきますが、前者に関しては救護看護婦が出て来るだけで、純粋の海軍看護婦は皆無・・・絶無と言っても過言ではない状態です。

日赤救護看護婦は平時は民間(必ずしも看護婦就業中では無い)にあり戦時にのみ「戦時召集状」を受け取り、日赤の各支部に応召し救護班として編成され、内地各陸海軍病院、及び戦地(外地の陸海軍病院、兵站病院、病院船)に派遣されました。

一方、海軍看護婦は絶対数が少ない事もあり、艦船部隊を除く内地の海軍諸施設(後述)の病院、医務室、医務科に勤務しました。

大正7(1918)年5月30日、『雇員傭人規則』が改正(達第八十五號)され、雇員として看護婦の採用、海軍病院への配属が開始されます。
陸軍が当初、日清・日露戦役等の経験から日赤出身者に限って採用したのに対し、海軍は免許保有者であれば民間看護婦養成所出身者も採用しました。

雇員」は補助官吏的な位置付けで各庁長官が予算内で採用を一任され、身辺調査、採用試験、身体検査を経て採用されました。
昭和18(1943)年6月15日、中等学校卒業者、または同等の学力保有者、採用職種に3年以上就業の経験が求められます(達百四十六)。

大正9(1920)年10月8日、『守衛長守衛傭人被服規則』が改正(達百九十八)され、看護婦事業服が制定されます。
海軍看護婦【解説】(イラスト)
▲海軍看護婦事業服の服制をイラストにしてみました
  ちょっとグラマラスに描きすぎました・・・(^_^;)

大正12(1923)年4月1日、区分が看護婦長と看護婦に別れ(達七十七)、看護婦長は雇員として病院、看護婦は傭人として病院、燃料廠、舞鶴要港部への配属が規程されます。
傭人」は補助雇員的な位置付けで採用試験はありませんでした。

昭和13(1938)年4月1日、看護婦長・看護婦の配属先が海軍病院、軍医学校、工廠、技術研究所、火薬廠、燃料廠、要港部に規程(達五十三)されます。

昭和18(1943)年8月1日、看護婦は雇員に統合、等級(看護婦長・看護婦)により分類、各鎭守府に看護婦養成所が開設され、傭人として養成看護婦である見習看護婦が規程されます(達百四十六)。
同規程により看護婦の配属先は水路部、気象部、燃料廠、衣糧廠、工廠、航空技術廠、航空廠、技術研究所、火薬廠、病院、軍医学校、軍需部、施設部、同出張所に規定されます。

昭和19(1944)年2月7日、看護婦用作業服が改訂されますが、当分の間は従前の作業服(事業服)着用を許可されます。
海軍看護婦②【解説】(イラスト)
▲改訂された看護婦作業服

昭和20(1945)年、戦局の悪化、空襲の頻発化、戦線の本土接近に伴い海軍看護婦の純白の作業服は目立つ事から、病院長の裁量で適宜の色調に染色、空襲対策として建物疎開、地下病院設営、退避壕の掘削、病舎の防爆土堤築造、農耕地の開墾、漁労を実施します。

昭和20(1945)年8月15日、各海軍病院は決號作戰(本土決戦)に備えるなか『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。
連合軍の進駐に伴い陸海軍病院は連合軍に接収されますが、11月19日、我が国は連合国軍最高司令官総司令部から『陸海軍病院の返還に関する覚書(GHQ AG632)』を受領、12月1日、陸海軍病院146院は従業員ともに厚生省に移管、国立病院に改編(勅令第六百九十一號『醫務局官製』)されます。

停戦時、海軍が採用していた女子軍属は看護婦以外に理事生(記録手)、技工士(倉庫手、兵器手、電話手)、裁縫士(裁縫手)、調理士(烹炊手、割烹手)、調剤助手(調剤手)、医務助手、保健婦、(洗濯手)、(給仕)がありました(※()内は傭人)。
また、軍属とは別に海軍工廠、航空廠に職工として女工が採用(明治37年9月10日(達百二十三))されていました。


主要参考文献
武庫川女子大学 甲子園会館 公式サイト

『阪神電気鉄道百年史』 (平成17年12月 阪神電気鉄道)

『甲子園ホテル物語』 (平成21年5月 三宅正弘 東方出版)

『雇員傭人規則』 (『海軍沿革史』、『海軍諸令則』)

『海軍雇員傭人被服規則』 ( 同上 )

『呉海軍病院史 改訂版』 (平成26年7月 国立病院機構呉医療センター・中国がんセンター)

『病院展望 No.3 創立十周年記念号』 (昭和31年7月 国立大阪病院)

『新明和工業株式会社 社史1』 (昭和54年10月 新明和工業株式会社社史編集委員会)
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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