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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

呉鎭守府

遺構紹介に入る前にまずは先日の大雨により被災された呉の皆様にお見舞い申し上げます。
呉を愛する者として一刻も早い復興を願って止みません。

広島県呉市は言わずと知れた海軍の一大根拠地であり、四海軍區のうち第二海軍區を管轄した呉鎭守府が所在しました。
呉鎭守府 1 庁舎 南東から(広島呉)
▲海上自衛隊呉地方総監部庁舎として使用されている呉鎭守府庁舎

【探索日時】
平成19年11月25日、平成29年4月4日、7月29日ほか

なお、今週末の7月15日(日)21:00から戦時中の呉を舞台にした漫画原作のドラマ『この世界の片隅に』(こうの史代原作)が放送されるそうです。





呉鎭守府 概要
鎮守府は各軍港に設置され、所管警備区の防禦、警備、出師準備を管掌、麾下各部、部隊を監督しました。
鎮守府司令長官(親補職)は天皇に直隷し所属艦船部隊を統率、海軍大臣の命を承け軍政を、軍令部總長の指示を承け作戦計画を立案、実行しました。

また、海軍艦船(帝國軍艦、驅逐艦、潜水艦、砲艦、海防艦、水雷艇、掃海艇、敷設艇、驅潜艇、哨戒艇、輸送艦、特務艦、特務艇各籍にある艦船)は『艦船令』に基づき、各鎭守府に所属(鎭守府籍)、『艦隊令』により各艦隊に編成されました。
艦隊に編入され役務に服す艦船は在役艦船、その他は豫備艦船として各鎭守府司令長官が管理しました。

呉鎭守府所管の第二海軍區は大阪府、奈良、和歌山、兵庫(美方郡、城崎郡を除)、岡山、広島、山口、香川、徳島、高知、愛媛、宮崎(有明湾を除)、大分および福岡(宗像郡、遠賀郡界以東)各県でした。

明治16(1883)年2月10日、海軍省は第二海軍區鎭守府を呉湾に選定、明治18(1885)年3月17日、海軍省内に呉鎭守府建築委員會が開設され、呉湾の実地、地質調査を実施し用地買収を進めます。

明治19(1886)年5月3日、鎭守府建築委員會が発足、4日、第二海軍區鎭守府が安芸国安芸郡呉港(現、広島県呉市)への設置が決定、10月30日、鎭守府建設が開始され、明治22(1889)年7月1日、呉鎭守府が開庁、明治23(1890)年4月21日、明治天皇に行幸賜い開庁式が挙行されます。

昭和20(1945)年3月19日、6月22日、7月1日、24日、28日、米軍による空襲により呉鎭守府は甚大な被害を受けながらも決號作戰(本土決戦)の準備中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

8月28日、呉鎭守府の全施設は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達、9月26日、米第6軍第10軍団先遣隊が呉海軍水上機基地に到着、呉に進駐し海軍施設14ヶ所(のち3ヶ所追加)を接収、10月7日、本隊が上陸し呉に3,000名が進駐、呉鎭守府軍法會議に第10軍団司令部を設置します。

10月2日、呉鎭守府は呉水交社第二別館へ移転し、11月30日、『海軍官制』が廃止され、呉鎭守府は閉庁、12月1日、呉地方復員局に改編され、残務整理、米軍への艦艇、兵器、軍需品引き渡し、復員業務にあたります。
詳細は後述します。


呉鎭守府周辺の海軍施設
呉鎭守府 呉 現在地図 簡易(広島呉)
① 呉鎭守府構内庁舎、呉鎭守府文庫・呉海軍艦船部・呉海軍通信隊・呉海軍人事部)
② 呉海軍経理部
③ 呉鎭守府 軍法會議

④ 呉海軍軍需部 第一區
⑤ 呉海軍軍需部庁舎(昭和18年6月18日、呉海軍運輸部併設)
⑥ 呉海軍軍需部 第三區
⑦ 呉海軍軍需部 新宮燃料置場
⑧ 呉海軍港務部
⑨ 呉海軍建築部
⑩ 呉鎭守府 宮原官舎
⑪ 呉海兵團・呉海軍警備隊
⑫ 呉海兵團團外練兵場
⑬ 呉潜水艦基地隊 城山分隊(呉防備隊跡)
⑭ 呉潜水艦基地隊・海軍潜水學校
⑮ 呉海軍病院
⑯ 呉鎭守府司令長官 官舎
⑰ 呉水交社
⑱ (財)海仁會 呉集會所
⑲ 呉海友社
⑳ (財)海仁會 呉海仁會病院
㉑ 呉海軍工廠
㉒    〃    火工部
㉓ 呉海軍軍需部 大麗女島燃料置場
㉔ 呉海軍工廠 川原石魚雷調整場
㉛ 第十一海軍航空廠 補給部呉地区倉庫
㉜ 第十一海軍航空廠 兵器部新宮工場
㉟ 呉海軍共済組合病院
㊱ 呉海軍共済組合 二河購買所
㊲ 呉海軍共済組合 呉會館配給所(旧廠友館)
㊳ 呉海軍共済組合 呉會館
㊴ 呉海工會館
㊺ 海軍構内浄水場
㊿ 呉憲兵分隊
施設名、位置は昭和16(1941)年頃の開戦時
※緑文字が当記事で紹介の施設


遺構について
① 呉鎭守府 構内
1 呉鎭守府 庁舎

明治19(1886)年10月30日、土木工事が起工され、藤田組により第二工區(宮原村塔ノ岡)に呉鎭守府造成が開始されます。
しかし、呉鎭守府建築委員の杜撰な工程管理、資金運用により工事は遅延、呉鎭守府庁舎は建設が中止され、呉鎭守府軍港司令部庁舎(明治20年2月6日起工、明治22年3月31日、竣工)を呉鎭守府庁舎として転用し、明治22(1889)年7月1日、呉鎭守府が開庁します。
呉鎭守府 初代、呉鎭守府庁舎(広島呉)
▲初代、呉鎭守府庁舎

明治38(1905)年6月2日、藝豫地震が発災、庁舎は損壊したため、明治39(1906)年5月12日、隣接して新庁舎を起工、明治40(1907)年5月31日、竣工します。
呉鎭守府 大正期の新庁舎(広島呉)
▲大正期の新庁舎

昭和20(1945)年7月1日、米軍の空襲により、2日、庁舎は壁を残し焼失したため、隣接の呉海軍施設部及び地下作戦室に移転します。

9月26日、呉鎭守府庁舎は米軍に接収され、昭和21(1946)年2月20日、英連邦軍に引き継がれ、昭和23(1948)年6月1日、庁舎は修理され英連邦軍総司令部が設置されます。

昭和31(1956)年11月22日、英連邦軍の撤退に伴い大蔵省に返還され、12月17日、庁舎に海上自衛隊・呉地方総監部が移転、平成11(1999)年8月、防衛庁(現、防衛省)は庁舎の改修工事を開始、11月、庁舎中央の丸屋根が復元され、現在も威厳のある佇まいをたたえています。

呉鎭守府 呉 現在地図①のみ(広島呉)
▲遺構の位置

呉鎭守府 1 庁舎 南東から (2)(広島呉)
▲現在の呉鎭守府庁舎 全景(陸側)

呉鎭守府 1 正面左側(広島呉)
▲陸側の壁面近影

呉鎭守府 1 庁舎 正面側の面格子(広島呉)
▲精緻な造形の面格子

呉鎭守府 1 庁舎 車寄せ装飾(広島呉)
▲車寄せの装飾

呉鎭守府 1 庁舎 正面 馬車固定金具(広島呉)
▲車寄せにある馬車止め

呉鎭守府 1 庁舎 中央入口から(広島呉)
▲陸側入口

呉鎭守府 1 庁舎 中央入口床面(広島呉)
▲入口の敷石

呉鎭守府 1 復元された屋根(広島呉)
▲平成11(1999)年に修復された丸屋根
  屋根の上は現在は避雷針の様ですが、往時は旗竿で鎭守府司令長官の将旗が翻っていました

呉鎭守府 1 庁舎 南側入口(広島呉)
▲側面の入口

呉鎭守府 1 北側地下入口(広島呉)
▲側面にある地階入口

呉鎭守府 1 庁舎 北西から(広島呉)
▲海側全景
  海軍なので海側も正面になります

呉鎭守府 1 庁舎 西側入口 (2)(広島呉)
▲海側入口

呉鎭守府 1 庁舎 南西から(広島呉)
▲海側 別角度から
  両側の張り出しは竣工後に増築されました

呉鎭守府 1 庁舎前の英国製大砲(広島呉)
陸側にある英国製の大砲
  由来は不明です


オ 大階段
明治天皇が行幸給う(明治23(1890)年の開庁式?)際に建設されましたが、御利用されませんでした。
呉鎭守府 オ 階段 西から(広島呉)


10 第二上陸場 待合室?
この辺り一帯にあった第二上陸場の待合室と思われます。
呉鎭守府 10 建物(広島呉)
▲鎭守府のある高台から

呉鎭守府 10 北から(広島呉)
▲近影

呉鎭守府 10 煉瓦基礎(広島呉)
▲煉瓦でできた基礎

呉鎭守府 10 第二上陸桟橋跡北側護岸(広島呉)
▲第二上陸場周辺に遺る護岸

因みに第一上陸場はここにありました。


ス 辷(すべり)
石造の辷で、元々城山南側(現、城山広場)にあった呉海軍港務部の短艇用辷りです。
大正10年頃、港務部は二河川河口に移転しますが、辷はそのまま遺されます。
呉鎭守府 ス 辷り 西から(広島呉)


ア 正門
呉鎭守府 ア 正門 東から(広島呉)

なお、映画『聯合艦隊司令長官山本五十六』で海自・呉地方総監部庁舎(呉鎭守府庁舎)が海軍省として登場しますが、その際の門柱は正門と庁舎の間に模造された物です。


イ 煉瓦構造物
呉鎭守府構内に同型の構造物が4ッありましたが、いずれも用途不明です。
退避所でしょうか?
呉鎭守府 イ 煉瓦構造物(広島呉)


エ 皇太子殿下御手植松
庁舎海側の庭園にありますが、どの時代の皇太子殿下か不明です。
呉鎭守府 エ 庭園(広島呉)
▲庭園全景

呉鎭守府 エ 皇太子殿下御手植松(広島呉)
▲御手植え松

呉鎭守府 エ 皇太子殿下御手植松 (1)(広島呉)
▲根元にある標柱


カ 築山
車回しを兼ねています。
呉鎭守府 カ 築山(広島呉)


キ 貯水槽
呉鎭守府 キ 貯水槽(広島呉)


ク 貯水槽
歪な形をしています。
呉鎭守府 ク 貯水槽(広島呉)


ケ 水路
庁舎から広場に降りる坂の途中にありますが、用途不明です。
呉鎭守府 ケ 水路(広島呉)
▲石造の水路?

呉鎭守府 ケから見上げたウにあるコンクリート壁(広島呉)
▲水路上にあるコンクリート壁


シ 煉瓦構造物
鎭守府構内から少し離れた駐車場?にあります。
上記イとやや形状が異なります。
呉鎭守府 シ 煉瓦構造物(広島呉)


煉瓦造の排水溝
鎭守府庁舎のある高台から城山広場に向かって降りて来ています。
呉鎭守府 城山広場 入口付近の煉瓦排水溝(広島呉)


また、海軍時代の遺構か判然としませんが、地下作戦室の横にコンクリート製の小屋と基礎が遺ります。
空襲前の空撮に写っている様ないない様な・・・?
呉鎭守府 A 南側にある小屋(関係無い)?(広島呉)

呉地方総監部の見学については毎週日曜に行われていますが、10日前までに事前申請が必要です。
詳しくは公式サイトでご確認下さい。


呉鎭守府構内には鎭守府庁舎の他、呉鎭守府文庫、呉海軍艦船部、呉海軍通信隊 本隊、呉海軍人事部が所在し地下作戦室が設営されましたが、次記事以降で紹介します。


② 呉海軍経理部
海軍経理部は鎭守府、警備府、一部の要港部に設置され、会計経理、物件の購買、供給を管掌しました。
また各海軍區に設営される施設関連の支払いも経理部が実施しました。

明治22(1889)年5月29日、鎭守府に會計部の設置が決定、明治23(1890)年4月21日、呉鎭守府とともに呉鎭守府會計部が発足します。
明治24(1891)年7月18日、呉會計監督部に、明治26(1893)年5月20日、呉鎭守府監督部、明治30(1897)年9月24日、呉鎭守府経理部、明治36(1903)年11月10日、呉海軍経理部に改称します。

呉鎭守府開庁時、會計部は庁舎内にありましたが所掌事務の増加に伴い、藝豫地震により損壊した鎭守府庁舎の2階部分を撤去、明治40(1907)年5月31日、経理部庁舎として転用します。

明治42(1909)年12月1日、呉海軍人事部の新編に伴い経理部庁舎を転用、経理部は鎭守府北側の新庁舎に移転します。

昭和20(1945)年7月2日、米軍の空襲により庁舎は焼失、鎭守府とともに施設部及び地下作戦室に移転、8月16日、停戦を迎えました。
停戦時、別府市に別府支部がありました。

庁舎全焼のため現在は道路、駐車場になり遺構は何も遺されていない様です。


③ 呉鎭守府 軍法會議
鎭守府軍法會議は「鎭守府三會議」(他は衛生會議、軍政會議)の一つで司令長官の部下に属する佐官以下の軍人及び鎭守府が運用する船舶の乗員に対し、艦隊司令長官、司令官、艦船長より審判を委託された者の重軽犯罪を審判しました。

明治19(1886)年10月30日、藤田組により第二工區(宮原村塔ノ岡)に呉鎭守府軍法會議の造成が開始されます。
当初、威厳を要請される建物として煉瓦造が計画されますが、工期の遅延から木造に変更され、明治23(1890)年4月21日、呉鎭守府とともに呉鎭守府軍法會議が発足します。
呉鎮守府会議所 呉鎭守府 軍法會議(広島呉)
▲呉鎭守府 軍法會議

昭和20(1945)年8月16日、大東亜戦争停戦に伴い、9月26日、米軍に接収され、鎭守府庁舎が焼損していたため、軍法會議に米軍司令部が設置されます。
昭和21(1946)年2月20日、英連邦軍に引き継がれ総司令部が設置、5月16日、総司令部の江田島移転に伴い将校食堂に転用されます。
昭和31(1956)年11月22日、英連邦軍の撤退に伴い大蔵省に返還され防衛庁に移管、建物は昭和30年代後半に破壊され現在は海上自衛隊官舎になり、遺構は何も遺されていない様です。


呉鎭守府 略歴
慶応3(1868)年12月9日、王政復古の大号令が発せられ、明治政府が発足、總裁、議定、参與が設置されます。
明治元(1869)年1月17日、『三職分課職制』が制定され海陸軍務課、閏4月21日、軍務官が新設され、11月2日、東京築地に海軍局が開設、明治2(1869)年7月8日、軍務官は兵部省(京都に設置、12月7日、東京に移転)に改編され近代兵制が整備されて行きます。
明治3(1870)年閏10月10日、兵部省内に海軍掛、陸軍掛が発足、明治4(1871)年7月28日、海軍提督府が開設され、保全港司(設置されず)、艦隊の管轄を定められます。
明治5(1872)年2月27日、兵部省は廃止され、28日、陸軍省と海軍省に改編、11月14日、提督府職員が発令、海軍省内で事務を開始します。

明治9(1876)年6月26日、東海、西海両鎭守府の開設が決定、9月1日、『鎭守府事務章程』が制定され、14日、東海鎭守府を横浜の旧ドイツ大使館跡に、明治11(1878)年3月30日、西海鎭守府を広島の三原城に夫々仮設します。

明治16(1883)年2月2日、鎭守府候補地選定のため海軍省量地課長・肝付兼行少佐は「第二丁卯」(東郷平八郎少佐)に乗艦し東京を出航、7~9日、尾道湾(湾内が狭いうえ浅く艦船の入出に不向き、且つ平坦地が少ない)、10~15日、呉湾、7月30日まで、長崎、8月中、佐世保を測量、第二海軍區鎭守府を呉湾、第三海軍區鎭守府を佐世保に選定します。

明治17(1884)年7月14日、樺山資紀海軍大輔、仁礼景範少将が安芸郡呉港を実地測量、8月1日、有栖川宮威仁親王大尉、川村純義海軍卿が視察、8月1日、千田貞暁広島県令他に買収用地として39町4反1畝19歩(坪3円10銭)を提示します。

12月15日、『鎭守府條例』が制定され東海鎭守府は横須賀鎭守府に改称します。

明治18(1885)年3月17日、呉鎭守府建築委員會(眞木長義少将)が開設され、眞木少将一行12名は呉湾の実地、地質調査を実施、塔ノ岡に鎭守府、室瀬に兵舎、沖新開に練兵場、湯垣に水雷局、中川に造船所、坪内に船渠、洗足に倉庫、八幡社東方高地に病院、山田に監獄、二河古新田に射撃場建設を企画、また渡邉忻三大匠司は江田島に渡り造船所候補地を調査します。

18日、川村海軍卿は太政大臣・三條實美卿に対し呉湾が深さ、入口が適当で周囲が山、島に囲まれている事から風波が穏やか、3箇所の湾口のうち音戸瀬戸、早瀬瀬戸は狭隘、大屋瀬戸付近の島に砲台を設置する事で敵艦の侵入を防ぐ事ができ、且つ背後の丘陵とともに防御に適し、地上施設建設に必要な平坦な土地が充分あり、また交通の便も可な事から鎭守府用地として呉湾を最適とし、造船所候補地として江田島を推挙、用地買収費102,000~3000円、鎭守府等建築費248,000円、造船所建設費3,000,000円(五ヶ年で支出)を上申します。
4月6日、三條卿は海軍省に造船所候補地の検討を指示、9日、樺山海軍次官は仏人の海軍省顧問ルイ=エミール・ベルタンを伴い呉、江田島を調査、離島のため交通に難がある江田島に対し、呉が造船所適地と結論づけます。

明治19(1886)年3月10日、海軍省將官會議において5海軍區に5鎭守府の設置、まず呉、佐世保に鎭守府開設を決定、4月22日、『海軍條例』(勅令第二十四號)、『鎭守府官制』(同二十五)が制定され、4月26日、公布されます。

5月3日、鎭守府建築委員會(樺山中将)が発足、両鎭守府の建設計画が立案、4日、第二海軍區鎭守府を安芸国安芸郡呉港、第三海軍區鎭守府を肥前国東彼杵郡佐世保港に設置(勅令三十九)が決定します。

8月、海軍省は用地買収を開始、明治24年にかけ宮原、和庄、荘山田、吉浦各村の該当用地を買収及び移転料を支払い、立退きを告示します。
9月22日、東京において呉鎭守府建築委員(眞木長義中将)が発足、建設工事は3期、5工区に分けて実施を計画(合わせて呉市街化計画を立案)、艦政局建築課、及び藤田組(鎭守府、倉庫、病院、監獄等)、大倉組商會(船渠)に発注され、10月30日、土木工事、11月7日、建築工事が起工、26日、大倉組商會、12月17日、藤田組の起工式が夫々挙行され、連日18,000名の人夫が建設にあたります(明治20年3月17日、大倉組商會、藤田組は諍いが絶えない事から海軍省により合併され日本土木會社に)。

明治20(1887)年6月11日、現地に第二海軍區鎭守府建築事務所(佐藤鎭雄大佐)が開設され(9月29日、呉鎭守府建築事務所に改称、12月2日、閉鎖)工事を監督、当初、予測以上に工事は進捗しますが、杜撰な工程管理、予算運用から資金が不足、第一期予定工事を繰越し、一部の土木工事を中止、煉瓦建を木造に変更するなど計画を変更し対応するも工事は遅延してしまいます。

明治22(1889)年3月8日、呉鎭守府司令長官に中牟田倉之助中将が発令、4月1日、呉鎭守府建築委員は解任、10日、海軍省内に呉鎭守府事務所が開設、5月28日、風帆練習艦「石川」、一等巡航艦「嚴島」、砲艦「鳳翔」以下13隻が呉に配属、同日、『鎭守府條例』(勅令七十二)が制定され、鎭守府司令長官麾下に幕僚のほか呉鎭守府軍港司令官(鎭守府艦船、呉海兵團、呉水雷隊、呉鎭守府豫備艦部、呉鎭守府知港事を指揮)、造船部、兵器部、主計部、建築部、呉鎭守府衛生會議(病院管轄)、同軍法會議(監獄所管轄)、同軍政會議(臨時に設置)、同會計監督部が設置されます。

6月22日、中牟田中将が呉に着任、24日、呉海兵團に横須賀から360名が配属され、7月1日(4月1日の予定日から工事遅延により延期)、第二期工事を進めつつ呉鎭守府が開庁、明治23(1890)年4月21日(19日の予定日から悪天候により延期)、明治天皇に行幸賜い開庁式が挙行されます。

明治23年2月8日、兵器部隣接地に海軍造兵廠の新設が決定、20日、呉鎭守府は用地買収を開始します。

また2月10日、海軍省艦政局小野濱造船所(旧神戸鐵工所)を呉鎭守府造船部小野濱分工場とします(明治26年5月19日、呉鎭守府造船支部に改称、明治28年6月10日、閉鎖)。

4月、鎭守府水道の給水を開始、6月23日、呉軍港境域が制定(勅令九十七)、6月29日、和庄村に廣島憲兵隊第三分隊が開設(明治31年12月1日、呉憲兵分隊、昭和17年5月27日、呉憲兵隊に改称)、7月9日、造兵廠の工事を起工します。
8月20日、呉水雷隊が開隊(明治29年4月1日、呉水雷團、大正2年4月1日、呉防備隊開隊に伴い解隊)し、麾下に編入します。

明治25(1892)年3月3日、造船部の主要施設(第一船渠、第一船台、造船工場)が竣工します。

明治26(1893)年5月19日、『鎭守府條例』が改訂され、軍港司令官は廃止され所掌事務は司令長官に移管、司令長官麾下は幕僚、豫備艦部、造船部、測器庫、病院、監獄、及び廃止された兵器部から武庫、水雷庫、兵器工場が移管されます。

明治27(1894)年7月25日、豊島沖海戦が発生、8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が勃発、9月17日、造船部において黄海海戦にで損傷した松島、比叡、西京丸を修理します。
海軍省は戦役による兵器の需要増大に鑑み、造兵廠を急造仮設工場として早期竣工すべく計画を変更、明治28(1895)年6月18日、假設呉兵器製造所(山内萬壽治少技官)として開設、12月、設備がおおよそ竣工し十二糎砲用薬莢の製造を開始、明治29(1896)年4月1日、假呉兵器製造所に改称します。
明治27年7月2日『鎭守府條例』改正時の呉鎭守府編制
幕僚、海岸望楼監督官(参謀長麾下)、監督部、豫備艦部、知港事、造船部、艤装委員、測器庫、武庫、水雷庫、兵器工場、病院、監獄、水雷隊、艦船(呉鎭守府を冠す)

明治30(1897)年5月25日、假呉兵器製造所は呉海軍造兵廠に改称、10月8日、呉鎭守府造船部は呉海軍造船廠に改編され、明治36(1903)年11月10日、『海軍工廠條例』(勅令百七十一)により呉海軍造兵廠と呉海軍造船廠統合され呉海軍工廠(以下「呉廠」と略)が発足します。
明治30年10月8日の同編制
幕僚、海岸望楼監督官(参謀長麾下)、軍港部(明治33年5月20日、廃止)、機關部、醫務部、経理部、司法部、艦隊(明治32年6月12日、新設。鎭守府警備區の警備、海面防御)、測器庫(以上、呉鎭守府を冠す)、呉海軍造船廠(海軍大臣直隷、以下同じ)、呉海軍病院、呉鎭守府軍法會議、呉海軍監獄、呉海兵團、呉水雷團、呉鎭守府艦船

明治36年5月6日、呉水雷團跡地に呉海軍下士卒集會所が開所(明治38年5月28日、櫻松館付設、大正10年6月22日、呉下士官兵集會所に改称)します。
明治36年11月10日の同編制
幕僚、海岸望楼監督官(参謀長麾下)、兵事官、経理部、司法部、鎭守府艦隊、呉海軍港務部(海軍大臣直隷、以下同じ)、呉海軍病院、呉鎭守府軍法會議、呉海軍監獄、呉海兵團、呉水雷團、呉鎭守府艦船、呉海軍工廠

明治37(1904)年1月、日露開戦を直前に呉廠は船舶の改装、修理、民間収用船の入港が相次ぎ、出師準備、戦時作業を開始、2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発します。
11月3日、呉廠職工共済病院(明治45年5月1日、呉同済會病院、大正元年9月1日、呉職工同済會病院、大正8年3月、呉海軍共済組合呉病院に改組)が開院します。

明治38(1905)年6月2日、藝豫地震が発災、鎭守府庁舎が損壊してしまったため、明治39(1906)年5月12日、隣接して新庁舎を起工、明治40(1907)年5月31日、新庁舎が竣工、旧庁舎の2階部分を撤去改装し経理部庁舎に転用します。
また同じく損傷した鎭守府司令長官官舎(旧軍政會議所)も新築されます。

明治42(1909)年4月29日、吉浦に呉廠兵器庫、火藥試験場が設置されます(大正5年、砲熕部第六工場が開設)。

12月1日、呉海軍人事部が編成され経理部庁舎(旧鎭守府庁舎)に入り、経理部は鎭守府北側に移転します。

明治42年12月1日の同編制
幕僚、海岸望楼監督官(参謀長麾下)、呉海軍人事部、同経理部、同司法部、同港務部(海軍大臣直隷、以下同じ)、同病院、同監獄、呉鎭守府軍法會議、呉海兵團、呉水雷團、呉鎭守府艦船、呉海軍工廠

明治43(1910)年1月15日、呉廠造兵部は廃止され砲熕部、水雷部が新設されます。

明治45(1912)年6月28日、呉海軍城山信號所が開設し通信を開始します(大正2年3月29日、呉海軍無線電信所に、昭和12年6月1日、呉海軍通信隊に改編)。

大正3(1914)年8月21日、大正三四年戰役(第一次世界大戦)が勃発、呉廠における艦船修理が増大したため、労働時間の延長、公休日出業で対応します。

大正4(1915)年5月18日、小銃射的場を川原石に移転、跡地は呉市に払下げられ御大典記念の二河公園が造成(大正5年11月、竣工)されます。

大正6(1917)年8月20日、堺川右岸河口に第一上陸場を開設します。

大正7(1918)年4月28日、本庄水源地の竣工式を挙行(大正元年9月起工、大正7年2月竣工)、大正9(1920)年8月1日、賀茂郡廣村に呉海軍工廠廣支廠の設置が決定、大正10(1921)年3月30日、開庁式が挙行され、大正12(1923)年3月24日、廣海軍工廠として独立し航空機の機体、発動機の試作、製造を管掌する航空機部を移管します。

大正9年9月15日、軍艦嚴島を校舎として海軍潜水學校が開校(20日、開校式)、大正13(1924)年7月31日、吉浦町新宮鼻に校舎が新築竣工し移転(昭和17年11月23日、佐伯郡小方村に移転、呉は分校になりますが、昭和19年6月、閉鎖)、9月30日、呉海軍建築部が開設(昭和18年8月18日、呉海軍施設部に改称)、麾下に編入します。

大正10(1921)年4月1日、海軍燃料廠を麾下に編入、12月、呉廠拡張のため烏小島の埋め立てを開始します。

大正12(1923)年3月23日、呉海軍監獄は呉海軍刑務所に改称、4月1日、呉海軍軍需部が開設し、麾下に編入します。
大正12年8月22日の同編制
幕僚、文庫、呉海軍人事部、同経理部、同軍需部、同司法部、同建築部、同防備隊、同工廠、呉鎭守府艦船、海軍燃料廠、呉海軍港務部(海軍大臣直隷、以下同じ)、同病院、同刑務所、呉鎭守府軍法會議、呉海兵團、海軍潜水學校

大正14(1925)年4月1日、廣村多賀谷新開に佐世保海軍航空隊廣分遣隊が開隊(昭和6年5月30日、呉海軍航空隊に改編)、呉鎭守府麾下に編入します。

昭和3(1928)年4月19日、大陸において国民党革命軍(国府軍:蒋介石)による奉天軍閥(張作霖)の北伐が開始されたため、居留民と我が国の権益保護のため第六師團が山東省に派遣(第二次山東出兵)された事に伴い、呉鎭守府は呉鎭守府司令部に部署され戦務にあたります(7月10日、解除)。

昭和6(1931)年5月、呉海軍軍需部 廣燃料置場(第三課重油班管下)の地下式水蓄式油槽12基が竣工、停戦までに95基建設します。

昭和8(1933)年2月17日、満洲國において關東軍が張学良に寝返った湯玉麟を討伐し熱河地方の治安回復のため熱河作戰を発動、2月22日、呉鎭守府司令部に部署され戦務にあたります(4月17日、解除)。

12月11日、鎭守府警備區の防御、警備を行うべく警備艦、第一豫備艦により呉警備戰隊(旗艦「那智」、「妙高」、「阿武隈」、「神通」、「加古」、第十四、第十六、第十九、第二十驅逐艦)が編成(非常時には麾下艦隊を常備艦隊に編入できるように訓練、整備を実施)され、麾下に編入します。

昭和9(1934)年12月15日、鎭守府警備區の海面防御、防御海面の警衛を行うべく警備艦、第一豫備艦により呉防備戰隊(旗艦「白鷹」、「勝力」、「朝日」、第十一掃海隊)が編成され、麾下に編入します(昭和20年7月20日、解隊)。

昭和11(1936)年10月5日、呉鎭守府第一特別陸戰隊を編成します(爾後、第二~第八、第十一、第十二、第百一特別陸戰隊を編成)。

昭和12年(1937)年5月1日、大阪、金澤両地方海軍人事部が編成され、麾下に編入します。
7月7日、支那事變が勃発、呉鎭守府司令部に部署され戦務にあたります(昭和14年3月31日、解除)。
同年、吉浦町に呉海軍軍需部(第三課軽質班) 乙廻燃料置場が竣工します。

昭和14(1939)年11月1日、呉防備隊は解隊(昭和20年6月10日、再編成)、佐伯防備隊、下關防備隊が編成され、夫々麾下に編入します。

昭和15(1940)年3月15日、大阪に阪神海軍部が編成され、麾下に編入します(昭和16年11月20日、大阪警備府として独立)。

昭和16(1941)年4月1日、徳山港に徳山海軍港務部が設置、10月1日、呉潜水艦基地隊が海軍潜水學校に隣接して開隊、麾下に編入します。

10月1日、廣海軍工廠航空機部は第十一海軍航空廠に改編、11月20日、海兵團入団者の増加に伴い、呉第二海兵團(昭和19年1月4日、大竹海兵團に改称)が開設、同日、海兵團員を戦力化すべく呉海兵團内に呉海軍警備隊が開隊、麾下に編入します。
11月30日、第三十二特別根拠地隊を編成します。

12月8日、大東亜戦争が開戦、呉鎭守府司令部に部署され戦務にあたります。
昭和16年11月1日の編制
幕僚、文庫(昭和17年5月1日、軍需部移管)、呉海軍人事部、同経理部、同軍需部、同司法部、同艦船部、同港務部、同建築部、同病院、同工廠、廣海軍工廠、呉鎭守府軍法會議、呉海軍刑務所、呉海兵團、呉海軍警備戰隊、同警備隊、同防備戰隊、同防備隊、呉聯合航空隊、呉海軍航空隊、同通信隊、呉鎭守府艦船、第三、第四、第五海軍燃料廠、海軍潜水學校、阪神海軍部

昭和17(1942)年4月18日、米陸軍機B-25による本土初空襲(ドゥリットル空襲)を受け、5月、廣海軍工廠、呉海軍航空隊、飛渡瀬、鍋峠、新宮に防空機銃砲台を仮設します。

8月31日、就役した潜水艦の訓練を担当する呉潜水戰隊(旗艦「さんとす丸」)が編成(昭和18年4月1日、解隊)され、麾下に編入します。

12月29日、第二十五特別根拠地隊を編成します。

昭和18(1943)年6月8日1210、鎭守府警備區内の柱島泊地において戦艦「陸奥」が爆沈、直ちに紀伊水道、豊後水道の防潜網を閉鎖、敵潜捕捉にあたりますが、敵潜の離脱は認められず、原因究明のため海軍省に「M査問委員會」(塩澤幸一大将)が設置されますが真相究明には至らず、現在でも「謎の爆沈」と言われます。

25日、呉海軍軍需部内に呉海軍運輸部、12月1日、艦船乗員の錬成及び警備にあたる呉練習戰隊(旗艦「鹿島」、「磐手」、「八雲」、「香椎」、昭和20年7月10日、解隊)、潜水艦の乗員養成及び警備にあたる呉潜水戰隊(旗艦「迅鯨」)が編成され、夫々麾下に編入します。

昭和19(1944)年7月10日、倉橋島大浦崎のP基地において甲標的、回天の研究訓練、要員養成を行う第一特別基地隊(昭和20年3月1日、第二特攻戰隊に改編)、20日、防府警備隊、9月1日、安浦海兵團(昭和20年4月1日、安浦警備隊編成)が開設、10月20日、呉海軍警備隊 徳山分遣隊は徳山警備隊に改編され、夫々麾下に編入します。

11月6日、B29爆撃機1機が呉地区に侵入、被害は無かったものの、呉鎭守府司令長官・金澤正夫中将は敵の本格的な空襲を予見し防空態勢を強化すべく、海軍省軍務局長、軍令部第一部長に対し十糎高角砲36門の供給を要求します。
18日、金澤中将は呉海軍工廠長、呉海軍軍需部長に対し急を要しない高角砲、機銃を呉海軍警備隊長への貸与を下令、城山、新宮、鍋山、冠崎、南高烏、海兵團練兵場、工廠西海岸、亀ヶ首を選定し、防空砲台の設営を開始します。
24日、さらに秋月、吉松山、音戸、情島、新開、飛渡瀬、三高、毘沙門、小仁方に探照灯臺の設置を下令します。

昭和20(1945)年2月時点の砲台は防空高角砲台20ヶ所82門(応急6ヶ所、26門含む)、機銃砲台12ヶ所103門、探照灯台30ヶ所でした。

昭和20年3月1日、第二特攻戰隊が編成され、麾下に編入します。

19日0710、米艦上機350機が呉湾に停泊中の艦船を目標に、呉鎭守府、廣海軍工廠、第十一海軍航空廠に来襲、防空砲台、在泊艦艇は対空戦闘を実施、管下の戦艦「伊勢」は直撃弾2、至近弾3により中破、同「日向」は直撃弾1、至近弾多数により小破、同「榛名」は直撃弾2により小破、空母「天城」はロケット弾1、至近弾多数により飛行甲板損傷、浸水、同「葛城」は直撃弾1により小破、同「龍鳳」は直撃弾5により飛行甲板が中破、重巡「利根」は直撃弾1、至近弾若干により小破、軽巡「大淀」は直撃弾5、至近弾多数により大破してしまいます。
また、呉鎭守府、廣海軍工廠、第十一海軍航空廠、呉市街地も若干の被害を受けてしまいます。
呉鎭守府 昭和20年3月19日(広島呉)
▲対空戦闘中の呉鎭守府と在泊艦艇

27日から沖縄上陸を前に米B29爆撃機により呉港外に機雷敷設が開始され、呉港は封鎖されてしまいます。

5月5日1031、B29爆撃機148機が廣海軍工廠、第十一海軍航空廠に来襲、各防空砲台は対空戦闘を実施し1,140発を発砲しますが、爆煙に妨げられたうえ敵編隊の蛇行運行により有効な射撃ができず3機撃破に留まり、工廠は32棟、空廠は23棟が破壊され甚大な被害を受けてしまいます。

13日、呉鎭守府陸上輸送隊が臨時編成、6月29日、四國地方海軍部が編成され、夫々麾下に編入します。

6月10日、第八十一戰隊(司令艦「第四十八號海防艦」、下關防備隊)、徳山防備隊が編成され、麾下に編入します。

22日0930、B29爆撃機162機が呉廠に来襲、鎭守府は煙幕を展張するとともに各防空砲台は対空戦闘を実施し1,142発を発砲しますが、各梯団ごとに高度を替えて侵入する敵機に翻弄され撃墜1、撃破9に留まり、爆弾1,289発、796tが製鋼部、砲熕部を中心に投弾され325名が爆死、負傷1,200名、207棟が破壊され生産設備は甚大な被害を受けてしまいます。

7月1日夜半から2日未明、B29爆撃機152機が呉市街地に来襲、各防空砲台は悪天候により敵機を捕捉できず(音戸高角砲台のみ14発射撃)、焼夷爆撃により市街地の大半が焼失(23,589戸焼失、1,939名焼死)、呉鎭守府庁舎、呉海軍艦船部、同軍需部、同港務部、同経理部、同施設部、呉海兵團、呉海軍病院、呉海軍工廠、呉海仁會、呉水交社、呉海軍共済組合呉病院、海仁會病院、第十一海軍航空廠、宿舎などが被災、呉鎭守府は隣接の呉海軍施設部及び地下作戦室に移転します。

10日、呉鎭守府報道部、15日、仙崎港湾警備隊が編成され、20日、呉防備戰隊は第八特攻戰隊(佐伯)に改編され、夫々麾下に編入します。
20日、呉海兵團において呉聯合特別陸戰隊司令部を編成、麾下に編入します。

24日0600、米艦上機870機、28日0610、米艦上機950機が呉市街、呉港内に来襲、防空砲台、在泊艦艇は対空戦闘を実施し、撃墜51、撃破33機を報じますが、在泊艦艇が攻撃され、戦艦「伊勢」は直撃弾16、至近弾多数により28日、大破擱座(艦長・牟田口格郎大佐散華)、同「日向」は直撃弾10、至近弾30により24日、大破擱座(艦長・草川潔少将散華)、同「榛名」は直撃弾、至近弾多数により28日、擱座、空母「天城」は直撃弾3、至近弾多数によりのち横転、重巡「利根」は直撃弾4、至近弾7により24日、大破し浅瀬に座礁、同「青葉」は直撃弾5、至近弾若干により24日、浸水擱座、同「出雲」が浸水沈没、軽巡「大淀」は直撃弾1、至近弾4により24日、横転、標的艦「攝津」は直撃弾3により26日、擱座、その他駆逐艦「梨」、兵學校練習艦「大須」、特設運送船「辰和丸」(触雷)、未成空母「阿蘇」、掃海船「君が代丸」、廃艦の旧楢、旧楡、旧時津風が沈没(擱座、沈没艦(攝津まで)は呉海軍港務部に移管)する甚大な被害を受けるなか、K一(豊後水道反攻)、K二(四国東岸反攻)、K三作戰(紀淡海峡反攻)を立案し決號作戰(本土決戦)の準備中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時の編制
幕僚、呉海軍人事部、同経理部、同軍需部、同司法部、同艦船部、同港務部、同施設部、同運輸部、同病院、同工廠、呉鎭守府軍法會議、呉海軍刑務所、呉海兵團、大竹海兵團(大竹第一・第二警備隊)、安浦海兵團(安浦警備隊)、呉海軍警備隊、同防備隊、呉潜水艦基地隊、呉海軍通信隊、第八十一戰隊、徳山海軍港務部、徳山警備隊、徳山防備隊、防府警備隊、仙崎港湾警備隊、第二特攻戰隊、第八特攻戰隊(佐伯空、呉空)、呉聯合特別陸戰隊(呉鎭守府第一・第二特別陸戰隊)、呉鎭守府第十一・第十二特別陸戰隊、呉潜水戰隊、呉鎭守府陸上輸送隊、同報道部、四國地方海軍部、倉敷海軍航空隊、第三海軍燃料廠、艦船143隻(戦艦3、空母7、巡洋艦8、駆逐艦24、海防艦20、輸送艦4など)

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により海軍施設は内務省を通じ大蔵省に移管(中国財務局呉出張所が管理)されます(31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます)。

9月26日、米第6軍第10軍団先遣隊F・R・マスター大佐以下6名が呉海軍水上機基地に到着、呉に進駐し呉潜水艦基地隊(9月27日、司令長官官舎に移転)に入り海軍施設14ヶ所(のち3ヶ所追加)を接収、10月6日、米輸送船団30隻が広湾に入港、7日、基地隊長J・P・ウィリー少将以下500名が呉鎭守府構内に進駐、7日、本隊19,500名が上陸し呉に3,000名が進駐、呉鎭守府軍法會議に第10軍団司令部(F・C・サイバート少将)を設置します。

10月2日、呉鎭守府は下山手の呉水交社第二別館へ移転し、11月30日、『海軍官制』が廃止され、呉鎭守府は閉庁、12月1日、呉地方復員局に改編、残務整理、米軍への艦艇、兵器、軍需品引き渡し、復員業務にあたります。

停戦後も呉防備隊、佐伯防備隊による掃海は続行され、11月12日、米第52機動部隊指揮下に編入され啓開作業にあたります(昭和23年1月1日、運輸省管下に編入)。

12月15日、GHQにより旧呉廠の一部転用に関する指針が示されます。

昭和21(1946)年2月1日、英連邦軍(豪主力、英、ニュージーランド)先遣隊j・M・マックゴアン大佐以下7名、13日、第34豪歩兵旅団1,122名が呉港に入港、中国、四国地方に進駐、2月20日、英連邦軍司令部(J・ノースコット中将)が呉鎭守府軍法會議、(財)海仁會 呉集會所に開設(5月16日、海軍兵學校に移転、昭和23年6月1日、呉鎭守府に移転)、3月7日、広島県の占領業務は米軍から英軍に移譲されます。

2月14日、政府(幣原喜重郎内閣)は連合軍の了解のもと呉廠の転用を許可、4月1日、呉廠造船部、造機部一帯に㈱播磨造船所呉船渠(昭和29年9月27日、㈱呉造船所に)、製鋼部の一部に尼崎製鉄㈱呉作業所(昭和40年4月1日、㈱神戸製鋼所と合併し同呉工場に、平成元年1月31日、閉鎖)が開設され前者は我が海軍艦艇の引揚げ解体、復員船、掃海艦艇、連合軍艦艇、商船の修理、後者は解体艦艇の鉄材から平炉製鋼、鍛圧作業を開始します。

4月1日、GHQにより呉廠の生産設備は賠償指定を受け、大蔵省中国財務局の管理下に置かれます(昭和23年3月13日から生産設備の海外搬送開始)。

昭和22(1947)年7月、英連邦軍から呉港及び海軍用地の一部返還、貿易港転換が認められ、昭和23(1948)年1月1日、呉港は返還され貿易港として開港が決定、同日、『旧海軍用地利用計画案』が立案されます。

5月1日、運輸省の外局として海上保安庁が発足、旧呉防備隊に広島海上保安本部呉掃海部が設立されます。

昭和24(1949)年12月1日、横須賀、呉、佐世保、舞鶴各市により旧軍港市転換促進委員会が結成され、昭和25(1950)年4月7日、参議院本会議、11日、衆議院本会議において『旧軍港市転換法』が可決、6月4日、住民投票により支持を得、28日、『旧軍港市転換法』(軍転法)が公布、大蔵大臣の諮問機関として旧軍港市国有財産処理審議会(旧軍港市市長4名、大蔵、通産、運輸、建設各省、経済安定本部職員各1名、学識経験者5名)が発足、『軍転法』に基づき随時、接収区域外の海軍施設(主に工員宿舎、港湾施設、空襲空地)を学校など公共施設には無償譲渡、利用申請のあった企業には有償譲渡を開始します。

また、呉市は英連邦軍に接収地域の返還を求めつつ、12月25日、『呉市転換事業計画』を策定し海軍施設(主に呉廠)に企業誘致を開始します。

6月1日、広島海上保安本部は第六管区海上保安本部に改称、呉掃海部は廃止され呉航路啓開部が新設されます。
11月1日、旧呉廠火工部に海上保安訓練所が開設(昭和30年4月1日、舞鶴市に移転)されます。

昭和26(1951)年3月10日、旧製鋼部・潜水艦部に日亜製鋼㈱呉工場(現、日新製鋼㈱呉製鉄所)が進出、8月15日、㈱播磨造船所呉船渠の一部にNBC呉造船部が開所(昭和37年7月21日、㈱呉造船所に移譲、9月15日、閉鎖)します。

昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和條約の発効によりわが国は主権を回復、5月1日、東京から海上保安訓練所隣接地に海上保安大学校が移転、6日、入学式を挙行します。

8月1日、海上保安庁警備隊が発足、第六管区海上保安本部 呉航路啓開部は警備隊西部航路啓開隊本部、及び呉航路啓開隊に改編され、昭和28(1953)年9月16日、呉地方基地隊に改編されます。

昭和29(1954)年7月1日、海上自衛隊が発足、呉地方基地隊は呉地方総監部に改編、10月1日、総監部の開庁式が挙行されます。
12月18日、旧呉廠砲熕部に㈱淀川製鋼所呉工場が開設されます。

昭和31(1956)年2月16日、呉市に英連邦軍の年内全面撤退が告知され、4月5日、中国財務局呉出張所において国有財産利用協議会が開かれ海軍用地の配分が決定、5月4日、呉市議会において承認され、防衛庁に鎭守府、呉海軍港務部、呉海兵團、呉防備隊、呉海軍工廠の一部(本部、總務部、醫務部、潜水艦部、會計部)、(財)海仁會 呉集會所、呉水交社の一部、呉鎭守府軍法會議、官舎の一部を、呉市に呉海軍軍需部、同廣燃料置場、鎭守府司令長官官舎、厚生省に呉海軍病院を移管する事が決定します。

11月22日、英連邦軍は撤退、接収されていた海軍施設は大蔵省に返還され、12月17日、旧呉鎭守府に呉地方総監部が移転します。
昭和32(1957)年3月18日、海上自衛隊呉練習隊が旧呉海兵團に移転(5月10日、呉教育隊に改称)、11月、旧呉海軍軍需部に呉興行㈱が進出して来ます。

昭和34(1959)年11月、旧呉廠砲熕部、旧軍需部に㈱日立製作所日立工場呉分工場(昭和38年10月5日、バブコック日立㈱呉工場として独立)が開設されます。

昭和37(1962)年8月1日、旧呉廠本部に海上自衛隊第1潜水隊が開隊します。

昭和42(1967)年4月1日、旧鎭守府司令長官官舎一帯に入船山記念館が開館(平成8年4月27日、建設当初の形状に復元開館)、昭和43(1968)年3月31日、㈱呉造船所は石川島播磨重工業㈱と合併し石川島播磨重工業㈱呉造船所(IHI)(平成25年1月1日、ユニバーサル造船㈱と合併しジャパンマリンユナイテッド㈱)となり、平成2(1990)年1月、旧呉廠砲熕部(㈱神戸製鋼所 呉工場跡地)に㈱ダイクレ呉第二工場が開設され、現在に至ります。


呉鎭守府 歴代司令長官
中牟田倉之助 中将 明治22(1889)年3月8日
有地品之允 中将 明治25(1892)年12月12日
林清康 中将 明治28(1895)年5月12日
井上良馨 中将 明治29(1896)年2月26日
柴山矢八 中将 明治33(1900)年5月20日
有馬新一 中将 明治38(1905)年2月6日
山内萬壽治 中将 明治39(1906)年2月2日
加藤友三郎 中将 明治42(1909)年12月1日
松本和 中将 大正2(1913)年12月1日
吉松茂太郎 中将 大正3(1914)年3月25日
伊地知季珍 中将 大正4(1915)年9月23日
加藤定吉 中将 大正5(1916)年12月1日
村上格一 大将 大正8(1919)年12月1日
鈴木貫太郎 中将 大正11(1922)年7月27日
竹下勇 大将 大正13(1924)年1月27日
安保清種 中将 大正14(1925)年4月15日
谷口尚真 中将 大正15(1926)年12月10日
大谷幸四郎 中将 昭和3(1928)年12月10日
谷口尚真 大将 昭和4(1929)年11月11日
野村吉三郎 中将 昭和5(1930)年6月11日
山梨勝之進 中将 昭和6(1931)年12月1日
中村良三 中将 昭和7(1932)年12月1日
藤田尚徳 中将 昭和9(1934)年5月10日
加藤隆義 中将 昭和11(1936)年12月1日
嶋田繁太郎 中将 昭和13(1938)年11月15日
日比野正治 中将 昭和15(1940)年4月15日
豐田副武 大将 昭和16(1941)年9月18日
高橋伊望 中将 昭和17(1942)年11月10日
南雲忠一 中将 昭和18(1943)年6月21日
野村直邦 中将 昭和18(1943)年10月20日
澤本頼雄 大将 昭和19(1944)年7月17日
金澤正夫 中将 昭和19(1945)年5月1日~昭和20(1945)年11月15日
代理 参謀長・岡田為次 少将 昭和20(1945)年11月15日~11月30日


主要参考文献
『呉の歴史』 (平成14年10月 呉市史編纂委員会 呉市役所)

『呉市史 第3、5、6、7、8巻』 (昭和39年~平成5年  呉市史編纂委員会 呉市役所)

『呉の歩み呉市制100周年記念版』 (平成14年3月 呉市史編さん室 呉市役所)

『呉の歩み英連邦軍の見た呉』 (平成18年10月 呉市総務部市史文書課 呉市役所)

『旧海軍恩給年加算調書(8)艦隊、戰隊司令部、陸上部隊、各廳その他』 (昭和60年3月 厚生省援護局)

『日本海軍潜水艦部隊の記録 鉄の棺 資料編4』 (平成17年5月 渡辺博史 ニュータイプ)

『アジア歴史資料センター史料各種』

『国土地理院空撮』 呉鎮守府 艦隊これくしょん 艦これ この世界の片隅に
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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