FC2ブログ

当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

呉海軍病院

広島県呉市に所在する国立病院機構 呉医療センターは呉海軍病院の後身になります。
呉海軍病院 ヌ 正面階段 北から(広島呉)
▲呉医療センターに遺る呉海軍病院の石段

【探索日時】
平成19年11月25日、平成29年4月4日、7月29日、平成30年11月10日ほか

【更新情報】
平成30年11月17日・・・遺構追加





呉海軍病院 概要
海軍病院は各軍港、一部の要港に設置され患者の診療、諸般の衛生的検査、伝染病消毒、治療品の準備、保管、供給を管掌しました。
部内に第一部(外科、整形外科、眼科、耳鼻咽喉科、皮膚泌尿器科、理学的治療科、歯科)、第二部(内科、伝染病科、呼吸器病科、肺瘻科、脳神経病科、病的検査科)、第三部(防疫科、保険科、選兵(身体検査の意)科、診療科)、薬剤部(療品科、試験科、調剤科)、消毒部を置き、海軍大臣は必要に応じ分院を設置しました。

明治22(1889)年7月1日、呉鎭守府とともに呉海軍病院(収容力147名)が開院し、呉鎭守府衛生會議に付属します。
明治26(1893)年5月20日、呉鎭守府衛生會議は廃止され、呉鎭守府司令長官に直属、呉鎭守府病院に改称、9月3日、呉海軍病院(以下「呉病」)に復称します。
呉海軍病院(広島呉)
▲呉海軍病院

明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が開戦、還送患者の急増から、9月18日、軍法會議庁舎、20日、呉水交支社を仮病室として転用します。

明治33(1900)年5月25日、看護術練習所を併設(大正10年6月7日、練習部に改称)します。

明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が開戦、明治38(1905)年6月3日、2日に発災した芸予地震により病室が損壊したため軍法會議庁舎、豫備艦倉庫、水雷團を仮病舎として転用します。

明治43(1910)年6月9日、似島検疫所の一部を陸軍省から移管され呉病に付属、似島海軍隔離所を開設します。

大正7(1918)年8月、海軍看護婦の採用を開始します。

大正14(1925)年12月、三ツ子島消毒所が開所します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、8月13日、特務艦「室戸」に室戸病院を開院、28日、日本赤十字社第七十救護班24名が配属(爾後、停戦までに22班482名が配属)されます。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争が開戦します。

昭和17(1942)年10月1日、岩国市黒磯に岩國海軍病院が開庁(昭和16年9月30日、呉海軍第二病院として着工)、12月18日、還送患者の激増に伴い日本赤十字社香川、愛媛支部病院を呉病 香川、愛媛赤十字病院として転用します。

昭和19(1944)年初旬、空襲に備え退避壕、防火用池等の設営を開始します。

5月1日、広島県賀茂郡に賀茂海軍病院(昭和17年7月16日、呉海軍第三病院として着工)が開院、練習部を移転、6月15日、休業した甲子園ホテルを転用し大阪分院を開院、12月5日、日赤兵庫支部病院を呉病 大阪分院 須磨赤十字病院として転用します。

昭和19年1月31日、『國民徴用令』に基づき172名、3月20日、44名、7月15日、125名が入庁(防疫班として南洋に出征)、また6月5日、學校報國隊として県立呉第一高等女學校生徒48名、11月1日、宮原高女生徒43名が入庁し勤務に就きます。

昭和20(1945)年1月1日、患者疎開として道後温泉の旅館を借上げ呉病 道後病舎を開院、3月1日、日赤高知、松江赤十字病院を呉病 高知、松江赤十字病院として転用、大阪分院は独立して大阪海軍病院、15日、三朝温泉の旅館を借上げ三朝病舎が開院します。
7月1日夜半から2日未明、B29爆撃機152機が呉市街地に来襲、第十一、十二、十三病舎が焼失、患者10名が焼死、院外の明法寺宿舎で日赤第五百八十七救護班22名が殉職してしまいます。

8月6日、米軍により広島市に原子爆弾が投下され、呉病は患者を収容するとともに救護隊を編成し派遣、小屋浦海岸に臨時治療所を開設し負傷者の治療にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

9月25日、連合軍進駐を前に呉病は安浦海兵團に移転を開始(10月3日、完了)、10月28日、フィリピンからの引揚者の治療を円滑にすべく厚生省宇品引揚援護局大竹出張所(旧大竹海兵團)に移転、12月1日、呉病は厚生省に移管され、国立大竹病院に改組されます。

9月26日、米軍先遣隊が呉に進駐し、30日、呉病の接収を示達、10月7日、米第10軍第361病院となり、昭和21(1946)年2月20日、英連邦軍に引き継がれ、3月5日、第92インド総合病院など英連邦軍病院となります。
昭和31(1956)年10月1日、国立呉病院が発足、11月22日、英連邦軍の撤退に伴い病院施設は厚生省に返還され、大竹から移転し開院、平成13(2001)年4月1日、国立病院呉医療センター、平成16(2004)年4月1日、独立行政法人国立病院機構呉医療センターとなります。
昭和32(1957)年12月、空襲により焼失した病舎跡地9,000坪が、学校法人清水ヶ丘学園に売却され現在に至ります。

※呉鎭守府については前記事『呉鎭守府』を参考の事

呉海軍病院 現在地図(広島呉)
▲遺構の位置
③ 呉鎭守府 軍法會議
⑮ 呉海軍病院
⑯ 呉鎭守府司令長官 官舎
⑰ 呉水交社
⑱ (財)海仁會 呉集會所
㊺ 海軍構内浄水場

施設名、位置は昭和16(1941)年頃の開戦時
※緑文字が当記事で紹介の施設


遺構について
⑮ 呉海軍病院
呉医療センターは近代的な病院に改修され、建物など遺構は皆無です。

ヌ 正面階段
有名な遺構で保存されています。
海軍時代はこの階段を登った場所に正門、及び庁舎がありました。
呉海軍病院 ヌ 正面階段 北西から(広島呉)


ネ 底栗車(チリシャ)之塔
医療センターの敷地東端、駐車場の奥に隠されるように建てられています。
「チリシャ」はサンスクリット語で畜生、動物の意味です。
昭和9(1934)年9月25日、霊安所西側に32坪を確保、自然石を集積し試験動物の慰霊塔として建立されます。
停戦後、埋もれてしまいますが、昭和50(1975)年、清水ケ丘高校の体育館建設工事中に発見され呉病院内に移設、平成7(1995)年、現在地に移設されました。
呉海軍病院 ネ 底栗車(チリシャ)之塔 (1)(広島呉)


ネ 呉海軍病院跡
平成元(1989)年3月11日、同愛会(呉鎭守府所属看護、衛生科員ほか有志)により建立されました。
呉海軍病院 ネ 呉海軍病院跡 (1)(広島呉)

呉海軍病院 ネ付近にある灯籠 (2)(広島呉)
▲付近に灯籠がありますが、詳細不明


か 門柱
清水ヶ丘高等学校の駐車場入口に遺り、位置的に呉海軍病院時代の物と思われます。
この同校の位置には第十一、第十二、第十三病舎、練習部東、同西講堂、第三治療品庫などがありましたが、昭和20(1945)年7月1日夜半から2日未明の空襲により焼失してしまいます。
呉海軍病院 か 門柱(広島呉)
▲門柱

呉海軍病院 か 左側(広島呉)
▲左側は袖門が付属しますが、塀に埋まっています

呉海軍病院 か 右側(広島呉)
▲右側
  門札を吊る金具が遺ります

呉海軍病院 か周辺の控柱(広島呉)
▲ブロック塀の裏に遺る控柱も当時の物と思われます

※この門柱は『kanレポート』様に御教示頂きました。


ワ 退避壕
職員駐車場裏の斜面に掘削されています。
昭和19(1944)年初旬より空襲に備え退避壕、防火用池等の設営を開始し、3月20日、有蓋退避壕12(完成度80%)、無蓋半地下・地上式退避壕34個、コンクリート製隧道式退避壕2個中1個着工中(1個は未着手)、6月1日、第一隧道(148㎡)が完工、第二隧道着工、11月11日、第五隧道(危険物品用)が完工、12月31日、第二隧道(240㎡)完工、昭和20(1945)年1月5日、第三隧道(840㎡)を着工します(3月9日以降は記録が無く不明)。
現存の壕口がどの隧道にあたるかは不明です。
呉海軍病院 ワ 退避壕壕口と爆風避け(広島呉)
▲全景
  壕前に爆風避けのコンクリート製衝立があります

呉海軍病院 ワ 退避壕壕口(広島呉)
▲壕本体
  扁額を付けた跡があり、壕口は埋まっており入れません


ヲ 退避壕
上記ワと同様に壕前に爆風避けのコンクリート製衝立がありますが、形状が異なります。
呉海軍病院 ヲ 退避壕壕口と爆風避け (2)(広島呉)
▲全景

呉海軍病院 ヲ 退避壕壕口(広島呉)
▲壕本体はブロックで閉鎖されています


ン コンクリート柵
当時の物と思われます。
隣接する呉軍港水道 海軍構内浄水場との境界の様です。
呉海軍病院 ン コンクリート柵(広島呉)
▲ボロボロです

呉海軍病院 ン コンクリート柵 (2)(広島呉)
▲斜面に沿って並んでいます


呉海軍病院が艤装した病院船 ・・・ 笠戸丸、朝日丸、
呉海軍病院が消毒した艦船・施設 ・・・ 山城、那智、大井、綾波、球磨2、淀、伊勢2、陸奥、扶桑3、朝日、呉海兵團6、海軍潜水學校、熊野2、白雲、長鯨、霞、古鷹2、由良、三隈、愛宕、鎌倉丸(消毒順、数字は回数)


⑳ (財)海仁會 呉海仁會病院
大正8(1919)年3月26日、呉海軍病院第十一病舎において下士官兵の家族患者の治療を開始、昭和9(1934)年12月19日、病院内に下士官兵家族病舎が新築されます。
昭和13(1938)年10月3日、財団法人海仁會(旧海軍軍人軍属援護扶助調査會)が設立します。
昭和15(1940)年4月11日、同会は二河川沿いに買収した用地800坪に病院を着工、昭和16(1941)年3月1日、竣工します。
また、同時に看護婦養成所を併設し海軍看護婦の養成を開始します(呉は昭和14年から授業開始)。
呉海仁會病院(広島呉)
▲(財)海仁會 呉海仁會病院

昭和20(1945)年7月1日夜半から2日未明の空襲において建物の6割が焼失、仮病舎で治療を行うなか、8月15日、停戦を迎えます。
10月1日、建物の一部に仮称呉海軍病院分院を設置、昭和21(1946)年1月1日、呉市に払い下げられ呉市立市民病院に改組、昭和22(1947)年2月1日、広島県立医学専門学校附属病院本院、昭和31(1956)年4月、広島大学医学部附属病院に改編、昭和32(1957)年9月30日、広島市に移転、跡地は駐車場などになり、遺構は何も遺されていないようです。


主要参考文献
『呉市史 第8巻』 (昭和39年~平成5年  呉市史編纂委員会 呉市役所)

『呉海軍病院史 改訂版』 (平成26年7月 国立病院機構呉医療センター・中国がんセンター)

『国土地理院空撮』 呉鎮守府 艦隊これくしょん 艦これ この世界の片隅に
関連記事



最後までお読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
↓↓↓
宜しかったらクリックお願いします


人気ブログランキングへ

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ
検索フォーム
正定事件の真実
戦史検定を受けよう!
当ブログは
「戦史検定」を応援します
戦史検定
カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ
御英霊の鎮まる処
殉国の御英霊に
感謝の誠を捧げましょう
靖國神社
兵庫縣神戸護國神社
大阪護国神社
プロフィール

盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

拙ブログを参照した際はリンクを張って頂けたら嬉しいです
(^o^)
--------------
※掲載写真・資料の
無断転載は禁止します。

リンク
最新コメント
埼玉西武ライオンズ
埼玉西武ライオンズ
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる