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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

呉鎭守府司令長官 官舎

広島県呉市幸町に所在する入船山記念館呉鎭守府司令長官 官舎でした。

この呉鎭守府司令長官 官舎こそ自分が軍跡探索を始める切っ掛けとなった記念すべき第一号の遺構です。
呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 南東から(広島呉)
▲呉鎭守府司令長官 官舎 正面

【探索日時】
平成17年10月26日、平成29年4月4日





呉鎭守府司令長官 官舎 概要
明治16(1883)年2月10日、海軍省は第二海軍區鎭守府を呉湾に選定、明治18(1885)年3月17日、海軍省内に呉鎭守府建築委員會が開設され、呉湾の実地、地質調査を実施し用地買収を進めます。

明治19(1886)年5月3日、鎭守府建築委員會が発足、4日、第二海軍區鎭守府が安芸国安芸郡呉港(現、広島県呉市)への設置が決定、10月30日、鎭守府建設が開始され、海軍用地北端の入船山に大宝3(703)年より鎮座と伝わる宮原、和庄、荘山田村の総氏神・龜山神社を遷座給い、呉鎭守府 軍政會議所兼呉水交支社を建設、明治22(1889)年7月1日、呉鎭守府の開庁とともに発足します。
明治22年6月22、初代司令長官・中牟田倉之助中将が呉に到着、29日、荘山田村の澤原邸を官舎として居住(6月9日、交渉開始、13日、賃貸契約、29日、明け渡し)します。

明治24(1991)年12月14日、第二回帝國議會において広島一区選出(荘山田村出身)の豐田實頴、高木正年代議士が海相・樺山資紀大将に巨費を投じて建設した軍政會議所の無駄な用途について追及したため、明治25(1992)年、軍政會議所は司令長官官舎として転用され、中牟田中将が澤原邸から転居します。
これにより入船山は通称「長官山」とも称されます。

明治38(1905)年6月2日、藝豫地震が発災、司令長官官舎は大破してしまったため、呉鎭守府経理部建築科長・櫻井小太郎技師の設計により新築、12月、和洋併設型の司令長官官舎が竣工、明治39(1906)年2月2日、第17代司令長官・山内萬壽治中将が入居、爾後、最後の司令長官・金澤正夫中将まで入居します。

昭和20(1945)年8月16日、大東亜戦争停戦に伴い、28日、司令長官官舎は大蔵省に移管されますが、9月26日、米第6軍第10軍団先遣隊が呉に進駐し呉潜水艦基地隊に入り、27日、司令長官官舎に移転、海軍施設17ヶ所を接収、10月7日、本隊到着とともに司令長官官舎は米第10軍司令官宿舎に転用、昭和21(1946)年2月20日、英連邦軍に引き継がれ総司令官呉宿舎に転用、建物内外壁は白ペンキが塗りたくられ、また大幅な改築が行われます。

昭和31(1956)年2月16日、呉市に英連邦軍の年内全面撤退が告知され、4月5日、中国財務局呉出張所において国有財産利用協議会が開かれ海軍用地の配分が決定、5月4日、呉市議会において承認され、11月22日、英連邦軍は撤退、接収されていた海軍施設は大蔵省に返還されます。
昭和41(1966)年、『旧軍港市転換法』に基づき文化施設として司令長官官舎は呉市に無償譲渡、昭和42(1967)年4月1日、司令長官官舎一帯に入船山記念館が開館、平成8(1996)年4月27日、建設当初の形状に復元され開館し現在に至ります。

※呉鎭守府については前記事『呉鎭守府』を参考の事

呉鎭守府司令長官官舎 地図呉 現在地図 ⑯ ⑰(広島呉)
▲遺構の位置
⑯ 呉鎭守府司令長官 官舎
⑰ 呉水交社
施設名、位置は昭和20(1945)年頃の開戦時
※緑文字が当記事で紹介の施設


遺構について
⑯ 呉鎭守府司令長官 官舎
24 官舎

-外観-
呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 南東から(広島呉)
▲正面

呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 洋館部 北から(広島呉)
▲正面洋館の北側

呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 和館部勝手口(広島呉)
▲奥の和館部分 勝手口(現在の入口)

呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 和館部 北から パノラマ写真(広島呉)
▲和館部分 北側全景

呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 和館部 東から(広島呉)
▲和館部分 北側縁側

呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 和館部 西から(広島呉)
▲和館部分 南側

-内部-
呉鎭守府司令長官官舎 司令長官官舎(広島呉)
▲司令長官官舎 見取図
-和館部分-
① 炊事場 ここが見学の際の入口です。
呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 内部①(広島呉)

② 前室
呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 内部②(広島呉)

③ 使用人室
呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 内部③(広島呉)

④ 内玄関
呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 内部④(広島呉)

⑤ 畳廊下
呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 内部⑤(広島呉)

⑥ 縁側
呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 内部⑥(広島呉)

⑦ 表八畳 ⑧ 表十二畳
呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 内部⑧⑦(広島呉)

⑨ 奥南八畳 ⑩ 奥十畳
呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 内部⑩⑨(広島呉)

⑪ 上便所
呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 内部⑪ (1)(広島呉)

⑫ 奥十畳にある棟札?の解説
呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 内部⑫ (広島呉)

⑬ 裏縁側
呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 内部⑬ (1)(広島呉)

-洋館部分-
⑮ 広間にある唯一略奪を逃れた椅子
呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 内部⑮ (1)(広島呉)

⑯ 玄関ロビー
呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 内部⑯(広島呉)

⑰ 応接室
呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 内部⑰(広島呉)

⑱ 客室
呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 内部⑱ (1)(広島呉)

⑲ 食堂
呉鎭守府司令長官官舎 24 長官官舎 内部⑲(広島呉)
▲壁面は全面「金唐紙」で装飾されています

続いて官舎外周に遺る遺構です。
貯水槽・天然スレート瓦展示
並んで官舎北側にあります。
呉鎭守府司令長官官舎 24 北西側の貯水槽(広島呉)
▲貯水槽

呉鎭守府司令長官官舎 24 スレート瓦展示(広島呉)
▲官舎屋根に葺かれた天然スレート瓦展示


ハ 庭園
池の水は入っていません。
往時はこの池の水が斜面下の(財)海仁會 呉集會所の池に繋がっていました。
呉鎭守府司令長官官舎 ハ 庭園 (3)(広島呉)


ヒ コンクリート構造物 ・ 灯籠
用途不明の構造物です。
個人退避壕か?
呉鎭守府司令長官官舎 ヒ コンクリート構造物 南東から(広島呉)
▲斜面側から

呉鎭守府司令長官官舎 ヒ コンクリート構造物 北東から(広島呉)
▲内部

呉鎭守府司令長官官舎 ヒ コンクリート構造物 南西から(広島呉)
▲並んで建てられている灯籠も詳細不明

また、この構造物の射面下に地下壕の崩落跡の様な窪地があります。
呉鎭守府司令長官官舎 ハ 庭園(広島呉)


フ・ヘ・ホ 退避壕
司令長官用の退避壕と思われますが、全ての壕口が閉鎖されています。
呉鎭守府司令長官官舎 フ 壕口跡(広島呉)
▲フ 壕口
  官舎北側にある歴史民俗資料館の1階に降りる階段脇にあります

呉鎭守府司令長官官舎 フ 壕口跡 (2)(広島呉)
▲内部に遺る木材

呉鎭守府司令長官官舎 ヘ 壕口跡(広島呉)
▲ヘ 壕口

呉鎭守府司令長官官舎 ホ 壕口跡(広島呉)
▲ホ 壕口


番兵塔
歴史民俗資料館の1階部分の路地に放置されています。
当時の物か復元か不明です。
呉鎭守府司令長官官舎 放置されている歩兵哨(広島呉)


ノ 正門
官舎の門で現在も使用されています。
官舎に続く石畳は路面電車の敷石で官舎の物ではありません。
呉鎭守府司令長官官舎 ノ 正門 南西から(広島呉)


この他、司令長官官舎にはその他様々な遺物が移設されています。
メ 海軍水道防火栓の蓋
元々どこにあった物か不明で、官舎南側に移設されています。
呉鎭守府司令長官官舎 メ 防火栓蓋(移設)1(広島呉)


モ 土中式井筒型重油槽の蓋
廣村(現、呉市広)に所在した呉海軍軍需部 廣燃料置場の土中式井筒型重油槽の蓋が2枚移設されています。
本来は1基に対し四角2、丸2の蓋が付いていました。
呉鎭守府司令長官官舎 モ 水蓄式油槽鉄蓋(移設)1(広島呉)

呉鎭守府司令長官官舎 モ 水蓄式油槽鉄蓋(移設)2(広島呉)


24 煉瓦小屋
初代呉鎭守府庁舎の廃材を利用して造られた小屋です。
同庁舎は呉鎭守府軍港司令部庁舎として計画されますが、呉鎭守府庁舎に転用、芸予地震で損壊し呉海軍経理部、呉海軍人事部、呉海軍通信隊本隊の各庁舎として利用、戦後は海自 呉地方総監部第二庁舎として使用されますが、昭和56(1981) 年9月、破壊されてしまいます。
呉鎭守府司令長官官舎 27 初代鎮守府煉瓦で造られた小屋(広島呉)


25 東郷邸 (離座敷)
明治23(1990)年5月13日、呉鎭守府第2代参謀長として東郷平八郎大佐(のち元帥大将)が着任します。
当初は山中紀三郎邸に寓居、その後、宮原通5丁目の平屋(現存せず)に転居します。
昭和55(1980)年、呉東ロータリークラブ創立20周年記念事業として現在地に移築され、平成9(1997)年5月7日、国登録有形文化財に指定されます。
入船山記念館の休憩所になっており、自由に入れます。
呉鎭守府司令長官官舎 25 東郷邸(移築)旧居離れ(広島呉)
▲外観

呉鎭守府司令長官官舎 25 東郷邸(移築) (2)(広島呉)
▲縁側

呉鎭守府司令長官官舎 25 東郷邸(移築)(広島呉)
▲内部


マ 番兵塔
元々どこにあった物か不明で、東郷邸北側に移設されています。
呉鎭守府司令長官官舎 マ 番兵塔(移設)(広島呉)


ミ 呉海軍工廠造機部 塔時計
大正10(1921)年6月、呉海軍工廠造機部庁舎北端に設置されますが戦後放置され荒廃、昭和46(1971)年、現在地に移設され、昭和56(1981)年、修復され、10月1日、呉市有形文化財に指定されます。
呉鎭守府司令長官官舎 ミ 工廠造機部時計塔(移設)(広島呉)


26 高烏堡塁火薬庫
明治35(1902)年6月、廣島湾要塞の高烏堡塁附属火薬庫として陸軍省により建設、昭和42(1967)年、現在地に移設され、平成23(2011)年10月28日、国登録有形文化財に指定されます。
呉鎭守府司令長官官舎 26 高烏砲台火薬庫(移設)・石標・看板 (3)(広島呉)
▲火薬庫なので高床式になっています

呉鎭守府司令長官官舎 26 高烏砲台火薬庫(移設) 内部(広島呉)
▲内部
  屋根は復元です

火薬庫前には要塞地帯標4本、石造看板が移設されています。
呉鎭守府司令長官官舎 26 高烏砲台火薬庫(移設)・石標・看板(広島呉)
▲要塞地帯標

呉鎭守府司令長官官舎 26 高烏砲台火薬庫(移設)・石標・看板 (2)(広島呉)
▲石造看板「第■喞筒室」


ヤ 四十五口径十年式十二糎高角砲砲身
   パロット砲砲身?

高角砲砲身は昭和20(1945)年製で、昭和56(1981)年5月、呉海軍工廠砲火工場跡(現、ダイクレ呉第二工場)の土中1.5mから出土します。
全長515cm、2,910kgあります。
呉鎭守府司令長官官舎 ヤ 十年式十二糎高角砲砲身 昭和56年5月に砲架工場跡(現神戸製鋼呉事業所機械工場)の土中1.5mで発見。全長515cm、口径12cm、質量2910kg。 (1)(広島呉)

パロット砲砲身は1864年、アメリカで製造された様ですが、詳細は不明です。
呉鎭守府司令長官官舎 ヤ 先込め式大砲(広島呉)

※上記以外にも北側斜面下に数点の遺構(ム・ユ・ヨ・ラ・リ・ル)が遺りますが、次記事の『呉水交社』の記事で紹介します。

なお、入船山記念館の正門前の道路幅が約20m、正門から国道487号線までが263m、道路幅を2倍すると・・・。
呉鎭守府司令長官官舎 大和と同じ長さ・幅1/2の⑯前道路(広島呉)


主要参考文献
『呉の歴史』 (平成14年10月 呉市史編纂委員会 呉市役所)

『呉市史 第3、5、6、7、8巻』 (昭和39年~平成5年  呉市史編纂委員会 呉市役所)

入船山記念館 解説シート 呉鎮守府 艦隊これくしょん 艦これ この世界の片隅に
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プロフィール

盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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