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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

呉水交社

広島県呉市に所在する入船山(呉鎭守府司令長官官舎のある丘)北側に呉水交社がありました。
呉水交社 45 水交社軍装品部 (2)(広島呉)
▲呉YWCAとして利用されている呉水交社の軍装品部


【探索日時】
平成19年11月25日、平成29年4月4日、平成30年11月10日

【改訂情報】
平成30年11月17日・・・写真、遺構追加





呉水交社 概要
水交社は海軍高等武官、候補生、海軍高等文官、試補により組織され、学術の研究、社員相互の親睦を図る団体で『荘子』にある「君子之交淡若水」から命名され、海軍武官の皇族を総裁とし、海軍大臣を社長としました。

明治9(1876)年3月21日、海軍省の外郭団体として東京府(現、東京都)築地に水交社が創設されます。

明治19(1886)年5月4日、第二海軍區鎭守府が安芸国安芸郡呉港(現、広島県呉市)への設置が決定、10月30日、鎭守府建設が開始され、海軍用地北端の入船山に大宝3(703)年より鎮座と伝わる宮原、和庄、荘山田村の総氏神・龜山神社を遷座給い、呉鎭守府 軍政會議所兼呉水交支社を建設、明治22(1889)年7月1日、呉鎭守府の開庁とともに発足します。

明治24(1991)年12月14日、第二回帝國議會において広島一区選出(荘山田村出身)の豐田實頴、高木正年代議士が海相・樺山資紀大将に巨費を投じて建設した軍政會議所の無駄な用途について追及したため、明治25(1992)年、軍政會議所兼呉水交支社は司令長官官舎として転用され、呉水交支社は西丸通(場所不明)入口に移転、その後(時期不明、大正2年には現在地に既設)入船山北側に新築され再移転します。
呉水交社 (1)(広島呉)
▲呉水交社(大正末年)

昭和3(1928)年5月1日、呉水交社と改称します。

昭和18(1943)年1月12日、下山手に第二別館が竣工、昭和20(1945)年7月1日夜半から2日未明、B29爆撃機152機が呉市街地に来襲、焼夷攻撃により呉水交社は焼失してしまいます。
呉水交社第二別館(広島呉)
▲呉水交社第二別館

昭和20(1945)年8月16日、大東亜戦争停戦に伴い、28日、呉水交社敷地は大蔵省に移管されますが、9月26日、米軍に接収され、10月2日、呉鎭守府が第二別館へ移転し、残務整理にあたります。
昭和21(1946)年2月20日、呉水交社敷地は英連邦軍に引き継がれ、将校クラブが建設されます。

昭和31(1956)年5月4日、英連邦軍撤退に伴う軍用地配分が決定、11月22日、英連邦軍の撤退に伴い呉水交社敷地は大蔵省に返還、南側は防衛庁(現、防衛省)に移管され官舎に、北側はキリスト教女子青年会(YWCA:昭和23年4月21日設立)に払い下げられ、また第二別館は『旧軍港市転換法』に基づき県立呉三津田高校に無償譲渡され、昭和32(1957)年9月22日、体育館兼講堂が建設され現在に至ります。

※呉鎭守府については前記事『呉鎭守府』を参考の事

呉水交社 水交社・長官舎 現在地図(広島呉)
▲遺構の位置
⑯ 呉鎭守府司令長官 官舎
⑰ 呉水交社
⑱ (財)海仁會 呉集會所
施設名、位置は昭和20(1945)年頃の開戦時
※緑文字が当記事で紹介の施設


遺構について
⑰ 呉水交社
呉水交社本館は空撮を見ると全ての建物が空襲で焼失した訳では無い様ですが、現在は全て取り壊され自衛隊官舎になっています。

45 呉水交社 軍装品部
水交社は軍装品や日用品も販売していました。
延床面積558.66㎡、昭和17(1942)年築と言われ、現在も(財)呉YWCAが使用、平成28(2016)年6月19日、「なかなか遺産」第三号に認定されます。
非常に変わった形状の建物なので、分かりやすいようにまずは同建物の雛形を掲載します。
呉水交社 45 模型(広島呉)

呉水交社 45 水交社軍装品部(広島呉)
▲全景(短い方)
  上から見ると「逆レ」型をしています

呉水交社 45 水交社軍装品部 南西から(広島呉)
▲全景(長い方)

呉水交社 45 南東から(広島呉)
▲入口

呉水交社 45 南東壁面(広島呉)
▲長い方の壁面

呉水交社 45 南から(広島呉)
▲内側全景

呉水交社 45 水交社軍装品部 レンガ基礎(広島呉)
▲煉瓦基礎の木造建築です

-内部-
呉水交社 45 一階(広島呉)
▲一階

呉水交社 45 階段(広島呉)
▲階段

呉水交社 45 二階 (4)(広島呉)
▲階段の天井は「綾張」と呼ばれる細工

呉水交社 45 二階(広島呉)
▲二階

呉水交社 45 二階 (2)(広島呉)
▲二階部屋

呉水交社 45 二階廊下(広島呉)
▲二階廊下


き 境界石標
水交社西側の小川沿いに遺ります。
表面に海軍を表す二重波線、頂部に方向表示が刻字されています。
呉水交社 き 境界石標(広島呉)


く 境界石標
上記と同様の線にありますが表面に刻字が無く、頂部に方向表示のみ刻字、大きさは上記より一回り大きいです。
呉水交社 く 境界石標?(方向表示あり、刻字なし)(広島呉)


け 煉瓦構造物
水交社西側の斜面にあり、詳細不明です。
近所の方の話では「水交社時代からあった」そうです。
呉水交社 け レンガ構造物(広島呉)

呉水交社 水交社の石積み(広島呉)
▲水交社西側を流れる小川も海軍の仕事


以下の水交社関連の遺構は入船山北麓に遺りますが、フェンスが張ってあるため見学は入船山記念館からしかできません

ユ 水交神社
昭和18(1943)年、建立され天照大神を祭祀し、呉鎭守府所属艦艇に配属された水交社員が乗艦前に参拝、国家安泰、武運長久を祈念しました。
大東亜戦争停戦後、焼失した亀山神社の仮社殿として遷座、昭和30(1955)年、亀山神社社殿復興に際し撤去され、個人が保存しますが、昭和43(1968)年4月、素性が判明し水交会呉市部により元の位置に遷座されました。
呉水交社 ユ 水交神社 本殿(広島呉)


ヨ 洗心鏡 ・ 鳥居基礎
自衛隊官舎との境のフェンス沿いにあります。
水交神社の手水と、鳥居の基礎です。
呉水交社 ヨ 洗心鏡(広島呉)
▲洗心鏡

呉水交社 ヨ 鳥居礎石 西側(広島呉)
▲鳥居基礎 西側

呉水交社 ヨ 鳥居礎石 東側(広島呉)
▲鳥居基礎 東側

呉水交社 水交神社鳥居(復元)(広島呉)
▲現在の鳥居は復元です


ラ 灯籠
倒壊していますが、水交神社のものと思われます。
呉水交社 ラ 灯籠(広島呉)


リ 萬古清風
揮毫は第30代 呉鎭守府司令長官・野村直邦大将です。
野村大将が大将に任官するのは司令長官時代の昭和19(1944)年3月1日なので、それ以降、離任する7月18日までの間に建立された様です。
呉水交社 リ 萬古清風(広島呉)


ム 至誠
元々は第二門の衛兵所付近にありました。
昭和19(1944)年6月8日、衛兵により建立された事から、厳密には呉海兵團の遺構になります。
呉水交社 ム 至誠(広島呉)


ル 應召記念碑
昭和47(1972)年4月29日に建立されました。
昭和19(1944)年8月1日、呉海軍病院に第九期二等衛生兵として応召した45名の名前が刻字されています。
呉水交社 ル 昭和19年8月1日海軍病院応召記念碑(広島呉)


主要参考文献
『呉の歴史』 (平成14年10月 呉市史編纂委員会 呉市役所)

『呉市史 第3、8巻』 (昭和39年~平成5年  呉市史編纂委員会 呉市役所)

『明治の呉及呉海軍 続篇』 (昭和33年11月 八木彬男 呉造船所)

『呉YWCA』 (一般財団法人呉YWCA) 呉鎮守府 艦隊これくしょん 艦これ この世界の片隅に
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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