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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

呉海軍工廠 (總務部・會計部・醫務部)

広島県呉市に伊藤博文公をして「帝國海軍第一の製造所」と位置付けられ、ドイツのクルップ社と並び世界の「二大兵器工場」と称された呉海軍工廠がありました。

海上自衛隊 潜水艦教育訓練隊一帯は呉海軍工廠の中枢部である總務部・會計部・醫務部が所在しました。
呉海軍工廠 1 会計部事務所 西から(広島呉)
▲海上自衛隊 潜水艦教育訓練隊本部庁舎に転用されている呉海軍工廠 會計部事務所

【探索日時】
平成17年10月26日、平成19年11月25日、平成29年4月4日、10月8日ほか





呉海軍工廠 概要
海軍工廠は艦船、兵器の造修、購買、実験を管掌しました。
呉海軍工廠は戦艦、一等巡洋艦、潜水艦の建造及びこれらの艦種の各期軍備計画における一番艦を担当、また四海軍工廠の一般的共通事項も所掌しました。

明治16(1883)年2月10日、海軍省は第二海軍區鎭守府を呉湾に選定、明治18(1885)年3月17日、海軍省内に呉鎭守府建築委員會が開設され、呉湾の実地、地質調査を実施し用地買収を進めます。

明治19(1886)年5月4日、第二海軍區鎭守府を安芸国安芸郡呉港(現、広島県呉市)への設置が決定、10月30日、鎭守府建設が開始され、明治22(1889)年7月1日、呉鎭守府開庁とともに造船部兵器部(明治33年5月20日、廃止)が発足します。

明治28(1895)年6月18日、假設呉兵器製造所が開設、明治30(1897)年5月25日、呉海軍造兵廠に改称、10月8日、造船部は呉海軍造船廠に改編されます。

明治36(1903)年11月10日、呉海軍造船廠と呉海軍造兵廠は統合され呉海軍工廠が発足します。
呉海軍工廠 本部庁舎(広島呉)
▲呉海軍工廠 本部庁舎

昭和20(1945)年3月19日、6月22日、7月1日、24日、28日、米軍による空襲により呉海軍工廠は甚大な被害を受け、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

8月28日、呉鎭守府の全施設は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達、9月26日、米第6軍第10軍団先遣隊が呉海軍水上機基地に到着、呉に進駐し呉海軍工廠の一部を接収します。

10月2日、呉鎭守府は呉水交社第二別館へ移転し、15日、呉海軍工廠は閉廠、11月30日、『海軍官制』が廃止され、呉鎭守府は閉庁、12月1日、呉地方復員局に改編され、残務整理、米軍への艦艇、兵器、軍需品引き渡し、復員業務にあたります。
※詳細は後述

※呉鎭守府については前記事『呉鎭守府』を参考の事


遺構について
呉海軍工廠は広大な敷地に遺構が分布しているので、今回から複数回に分け紹介させて頂きます。
呉海軍工廠 呉 現在地図(広島呉)
▲呉海軍工廠 敷地

呉海軍工廠 呉廠本部(広島呉)
▲今回紹介の遺構配置
施設名、位置は昭和20(1945)年頃

総務部は各部所所掌事務の統一、公文書の接受、発送、機密書類の保管、整理、工廠内(設備、機械含む)の保安、整備、新築、改装の計画、人事、教育(雇員、傭人、職工)、労務、職工の募集、設備の保守、出師準備計画、購買物品の検査、一般の分析を所掌しました。

会計部は会計、給与、契約、材料・物品の貯蔵、供給を所掌しました。

医務部は従業員の衛生、診療、身体検査を所掌しました。

呉海軍工廠本部はこの場所にありましたが、昭和20(1945)年7月2日の空襲において壁を遺して焼失、戦後復興される事無く破壊されてしまいました。

1 會計部事務所
會計部は明治36(1903)年11月10日、呉海軍工廠の発足とともに開設されます。
事務所は鉄筋コンクリート造ですが何時頃建設されたのか不明(雰囲気から昭和期?)です。
現在は海自 潜水艦教育訓練隊本部庁舎として使用されています。
呉海軍工廠 1 会計部事務所 北から(広島呉)
▲正面
  隣接IHIの駐車場(普段は立入禁止)から

呉海軍工廠 1 会計部事務所 東から(広島呉)
▲側面
  隣接IHIの駐車場から


呉海軍工廠 1 会計部本部 南東から(広島呉)
▲裏側
  外周道路から


2 醫務部 第一治療所
醫務部は大正12(1923)年4月1日に開設されます。
鉄筋コンクリート造ですが何時頃建設されたのか不明(雰囲気から昭和期?)です。
現在は海自 第一潜水隊群司令部庁舎として使用されています。
呉海軍工廠 2 第一治療所 北から(広島呉)
▲正面
  隣接IHIの駐車場から

呉海軍工廠 2 第一治療所 北西から(広島呉)
▲道路から


3 本部 自動車庫
鉄筋コンクリート造ですが何時頃建設されたのか不明(雰囲気から昭和期?)です。
建物が建て込んでおり、殆ど見通せません。
呉海軍工廠 3 自動車庫 西から(広島呉)
▲道路から


4 第一倉庫
背後の會計部の倉庫の様です。
『kanレポート』様によると、惜しくも平成28(2016)年6月頃、破壊されてしまいました。
呉海軍工廠 4 第一倉庫 北西から(広島呉)
▲道路から


チ 地下壕口
1會計部事務所の裏の斜面にあります。
角度的に爆風避けしか見えません。
呉海軍工廠 チ 壕口(広島呉)

以上は海自 潜水艦教育訓練隊、第一潜水隊群司令部に遺り、敷地内には入れませんが、外周からの見学、撮影は可能です。
念のため警衛隊の許可を取り撮影しています。
また隣接IHIの駐車場は通常立入禁止ですが、毎年10月初旬の事業所祭の際に一般駐車場になります。


5 各部總合外業作業場甲・乙
各部總合外業作業場は昭和15(1940)年8月8日に進水した戦艦「大和」の艤装を行うために建設されました。
海自 呉造修補給所の陸側に遺ります。
それぞれ3連屋根の巨大な建物で下記の丙・丁と連結されています。
呉海軍工廠 5 各部総合外業作業場甲 西から(広島呉)
▲全景甲(右)・乙(左)

呉海軍工廠 5 各部総合外業作業場乙 南から(広島呉)
▲乙の側面

呉海軍工廠 5 各部総合外業作業場乙 基礎(広島呉)
▲煉瓦積みの基礎

呉海軍工廠 5 各部総合外業作業場乙 南から (2)(広島呉)
▲正面側の重厚な階段

呉海軍工廠 5 各部総合外業作業場乙 南西側張り出し(広島呉)
▲西側にあるクレーン?


6 各部總合外業作業場丙・丁
海自 呉造修補給所の海側に遺ります。
呉海軍工廠 6 各部総合外業作業場丁 西から(広島呉)
▲丁の側面

呉海軍工廠 6 各部総合外業作業場丙(左)・丁(右)・5(奥)・7(手前)(広島呉)
▲丙(左)・丁(右)


7 建物
用途不明の小型建物です。
呉海軍工廠 7 西から(広島呉)

呉海軍工廠 7 扉(広島呉)
▲扉枠も当時のままの様です

以上は海自 呉造修補給所に遺り、毎週日曜の艦艇公開で見学、撮影可能です。
ただ、かなり大きな建物なので外周、海上からでも充分見えます。


呉海軍工廠 略歴
明治5(1872)年2月28日、海軍省が発足し、明治9(1876)年6月26日、東海、西海両鎭守府の開設が決定、9月14日、東海鎭守府が横浜の旧ドイツ大使館跡、明治11(1878)年3月30日、西海鎭守府が広島の三原城に夫々仮設されます。

明治16(1883)年2月2日~8月31日、肝付兼行少佐一行による港湾測量により第二海軍區鎭守府を呉湾、第三海軍區鎭守府を佐世保に選定、明治17(1884)年7月14日、実地調査を実施します。

12月15日、『鎭守府條例』が制定され東海鎭守府(第一海軍區鎭守府)は横須賀鎭守府に改称します。

明治18(1885)年3月17日、呉鎭守府建築委員會(眞木長義少将)が開設、鎭守府予定地の呉湾の実地、地質調査、造船所候補地として江田島を調査します。

18日、川村純義海軍卿は太政大臣・三條實美卿に対し呉湾が深さ、入口が適当で周囲が山、島に囲まれている事から風波が穏やか、3箇所の湾口のうち音戸瀬戸、早瀬瀬戸は狭隘、大屋瀬戸付近の島に砲台を設置する事で敵艦の侵入を防ぐ事ができ、且つ背後の丘陵とともに防御に適し、地上施設建設に必要な平坦な土地が充分あり、また交通の便も可な事から鎭守府用地として呉湾を最適とし、江田島を造船所候補地として推挙、用地買収費102,000~3000円、鎭守府等建築費248,000円、造船所建設費3,000,000円(五ヶ年で支出)を上申します。
4月6日、三條卿は海軍省に造船所候補地の検討を指示、9日、樺山資紀海軍次官は仏人の海軍省顧問ルイ=エミール・ベルタンを伴い呉、江田島を調査、離島のため交通に難がある江田島に対し、呉が造船所だけではなく防御に優れ兵器製造にも適地と結論づけます。

明治19(1886)年5月3日、鎭守府建築委員會(樺山中将)が発足、呉、佐世保両鎭守府の建設計画が立案され、4日、第二海軍區鎭守府を安芸国安芸郡呉港、第三海軍區鎭守府を肥前国東彼杵郡佐世保港に設置(勅令三十九)が決定します。

8月、海軍省は用地買収を開始、明治24年にかけ宮原、和庄、荘山田、吉浦各村の該当用地を買収及び移転料を支払い、立退きを告示します。
9月22日、東京において呉鎭守府建築委員(眞木長義中将)が発足、建設工事は3期、5工区に分けて実施を計画(合わせて呉市街化計画を立案)、艦政局建築課、及び藤田組(鎭守府、倉庫、病院、監獄等)、大倉組商會(船渠)に発注され、10月30日、土木工事、11月7日、建築工事が起工、26日、大倉組商會、12月17日、藤田組の起工式が夫々挙行され、連日18,000名の人夫が建設にあたります(明治20年3月17日、大倉組商會、藤田組は諍いが絶えない事から海軍省により合併され日本土木會社に)。

明治20(1887)年6月11日、現地に第二海軍區鎭守府建築事務所(佐藤鎭雄大佐)が開設され(9月29日、呉鎭守府建築事務所に改称、12月2日、閉鎖)工事を監督、当初、鎭守府建設工事は予測以上に進捗しますが、藤田組が担当する第三区(造船所)は堅固な岩盤に阻まれ船渠工事を始め大幅に遅れます。
工事の進捗に伴い杜撰な工程管理、予算運用から次第に資金が不足、第一期予定工事を繰越し、一部の土木工事を中止、煉瓦建を木造に変更するなど計画を変更し対応するも工事は遅延してしまいます。

明治22(1889)年3月8日、呉鎭守府司令長官に中牟田倉之助中将が発令、4月1日、呉鎭守府建築委員は解任、10日、海軍省内に呉鎭守府事務所が開設されます。
5月28日、『鎭守府條例』(勅令七十二)が制定され、鎭守府司令長官麾下に呉鎭守府造船部兵器部が設置(9月、造船、機械両工場が開設)され、7月1日、第二期工事(明治22年4月1日、開始)を進めつつ呉鎭守府が開庁、明治23(1890)年4月21日、明治天皇に行幸賜い開庁式が挙行されます。

明治22年4月20日、東京赤羽に海軍造兵廠が開設されますが小規模だったため、11月25日、造兵廠設立取調委員が発足、明治23年2月8日、兵器部隣接地に海軍造兵廠の新設が決定し、20日、呉鎭守府は宮原、警固屋村の用地買収を開始、7月9日、造兵廠の工事を起工します。
新設造兵廠では二十四糎砲、及びそれ以下の口径砲、機関砲、砲架、弾丸、付属品、朱式魚雷ほかの製造を予定します。

また明治23年2月10日、海軍省艦政局 小野濱造船所(明治6年設立の旧神戸鐵工所)を呉鎭守府造船部 小野濱分工場(明治26年5月19日、呉鎭守府造船支部に改称、明治28年6月10日、閉鎖)とします。

明治24(1891)年4月11日、第一船渠、9月、製圖工場、明治25(1892)年3月3日、第一船台、造船工場が竣工するなど、造船部の主要工場がおおよそ竣工し、小型艦の建造、修理が可能になり、15日、初の艦船として二等水雷艇「第二十二號」が進水します。

明治26(1893)年5月19日、『鎭守府條例』が改訂され兵器部は廃止、武庫、水雷庫、兵器工場は司令長官に移管されます。

9月21日、船具工場が竣工、12月22日、英アームストロング社から購入した旋回式百噸起重機が造船部南境の突堤に据え付けられます。

明治27(1894)年7月25日、豊島沖海戦が発生、8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が勃発、9月17日、造船部において黄海海戦にで損傷した松島、比叡、西京丸を修理します。

海軍省は戦役による兵器の需要増大に鑑み、造兵廠を早期竣工すべく急造仮設工場として計画を変更、明治28(1895)年6月18日、假設呉兵器製造所(山内萬壽治少技官)として開設、12月、設備がおおよそ竣工し十二糎砲用薬莢の製造を開始、同年、製鋼工場が設置されます。
呉海軍工廠 仮設呉兵器製造所(広島呉)
▲假設呉兵器製造所

明治28年1月、見習職工の採用を開始、9月、造船工場仕上場、明治29(1896)年3月7日、船渠工場が竣工します。

4月1日、假設呉兵器製造所は假呉兵器製造所に改称し、明治29年中に工作機械248台を据え付け砲身、砲架、藥莢、彈丸、鍛錬、製鋼、火工品、水雷各工場が稼働します。

明治30(1897)年5月25日、假呉兵器製造所は呉海軍造兵廠に改称、10月8日、呉鎭守府造船部は呉海軍造船廠(赤峰伍作造船大監)に改編され、再び呉鎭守府 兵器部が設置(管下に砲銃庫、水雷庫、工場)されます。
10月8日、呉における最初の軍艦(通報艦)「宮古」が進水(明治32年3月31日、竣工)します。
呉海軍工廠 呉海軍造兵廠(広島呉)
▲呉海軍造兵廠

明治31(1898)年8月22日、造船工場附属水雷艇工場、12月14日、第二船渠(大正14年2月18日拡張)が竣工します。

明治33(1900)年5月20日、呉鎭守府 兵器部は廃止され、呉鎭守府 艦政部管下に呉海軍兵器廠が置かれ事務を継承します。

明治35(1902)年3月9日、第十六回帝國議會において呉海軍造兵廠に製鋼部の設置が可決され、外国に依存していた軍艦の装甲板を自国生産可能となります。

明治36(1903)年11月10日、『海軍工廠條例』(勅令百七十一)が制定され、呉海軍兵器廠は廃止、呉海軍造船廠呉海軍造兵廠は統合され呉海軍工廠(山内萬壽治少将、以下「呉廠」と略)が発足します。
発足当初の組織は造兵部、製鋼部、造船部、造機部、會計部、需品部で、特に造兵、製鋼部は呉のみに存在しました。

明治37(1904)年1月、日露開戦を直前に呉廠は船舶の改装、修理、民間収用船の入港が相次ぎ、出師準備、戦時作業を開始、2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発します。
11月3日、呉海軍工廠 職工共済會病院が開院(明治45年5月1日、呉同済會病院、大正元年9月1日、呉職工同済病院、大正2年、(
財)呉職工同済病院、大正8年4月1日、海軍共済組合 呉病院、昭和2年7月18日、呉海軍共済組合病院、昭和17年11月1日、呉海軍共済病院に改組)、25日、第三船台が竣工します。
12月26日、我が国初の装甲艦で初の国産12インチ砲を搭載した、巡洋戦艦「筑波」が進水します。

明治39(1906)年3月20日、第二船台、明治42(1909)年4月29日、兵器庫が竣工、吉浦の内務省、農商務省用地17,163坪を移管、また民有地20,955坪を買収し海面21,734坪を埋め立て造兵部第六工場附属火薬試験場、及び火薬庫が竣工します。

明治40(1907)年4月15日、世界最大級の戦艦「安芸」、11月21日、艦体鋼材全てが国産の巡洋戦艦「伊吹」が進水します。
11月1日、呉鎭守府司令長官・山内萬壽治中将が仲介し北海道炭礦汽船㈱と英アームストロング社、ヴィッカース社合弁による兵器鉄鋼会社の㈱日本製鋼所が室蘭(元第五海軍區鎭守府予定地)に設立、爾後呉廠と密接な関係を持ち、呉廠開発の艦載兵器の製造、及び他工廠、民間造船所への供給を開始します。

明治43(1910)年1月15日、造兵部は砲熕部と水雷部に分立します。

明治44(1911)年3月30日、弩級戦艦「攝津」が進水します。

明治45(1912)年3月1日、繋船堀、11日、第三船渠、造船船渠(大正14年9月2日改装)が竣工、大正3(1914)年4月16日、造船工場を設立します。

大正3(1914)年3月28日、超弩級戦艦「扶桑」が進水します。

大正4(1915)年3月、女工の採用を開始します。

大正5(1916)年8月1日、呉職工購買組合が日用品の販売を開始します。

大正5(1916)年、砲熕部第六工場附属火薬庫は秋付に移設(大正3年から移設作業)され、跡地に砲熕部第六工場(装填)を移設、大正8(1919)年以降さらに池浜山を掘削し敷地を拡張、昭和6(1931)年、三石山西側を掘削し砲熕部第二十二工場(機械)を開設します。

大正6(1917)年7月14日、第三十九回帝國議會(6月23日~)において『八四艦隊計畫』、大正7(1917)年3月26日、第四十回帝國議會(大正6年12月27日~)において『八六艦隊計畫』、大正9(1920)年7月28日、第四十三回帝國議會(7月1日~)においてて『八八艦隊計畫』が可決され、大正8(1919)年11月9日、世界初の四十糎砲を搭載する戦艦「長門」が進水します。

大正6(1917)年末、水雷部管下に大入魚雷遠距離發射場が開設されます。

大正7(1918)年10月7日、職工教習制度が規程され、11月、呉海軍工廠職工教習所(昭和15年4月5日、工員養成所に改称)が開校します。

大正8年12月、呉海軍共済組合特別施設として呉購買所を開設、同年、吉浦に水雷部計器工場を開設します。

大正9(1920)年2月12日、造兵職工講習所を開所(昭和3年4月6日、廃止)、8月1日、賀茂郡廣村に呉海軍工廠廣支廠の設置が決定、大正10(1921)年3月30日、開庁式が挙行され、大正12(1923)年3月24日、廣海軍工廠として独立し航空機の機体、発動機の試作、製造を管掌する航空機部を移管します。

大正9年12月、烏小島を掘削し埋め立て敷地を拡張します。

大正10年7月17日、旧呉區裁判所跡に共済組合員(工廠職工)の福利施設・廠友館(大正12年4月1日、呉海軍共済組合呉會館に改称)が開館します。

大正11(1922)年2月6日、ワシントン海軍軍縮条約が締結され艦船建造が制限されたため、11月20日から段階的に職工6,417名を整理します。
呉廠は海軍休日(ネイバルホリデー)と呼ばれる軍縮期(昭和11年1月16日まで)を迎えますが、海軍省は『大正十二年度艦艇補充計畫』、次いで『昭和二年度艦艇補充計畫』を立案、海軍艦政本部は制限トン数内で量から質へ転換を計り、空母「赤城」(大正14年4月22日進水)、重巡「那智」(昭和2年6月15日進水)、同「愛宕」(昭和5年6月16日進水)、新技術の電気溶接を導入し敷設艦「八重山」(昭和6年10月15日進水)を建造、さらに既存の戦艦「扶桑」、巡洋戦艦「霧島」、「比叡」を相次いで改装(第一次)します。
またリミットゲージシステムなど科学的管理方法を導入、大量生産への先導的役割をはたします。

大正12(1923)年4月1日、砲熕、魚雷、電氣各實驗部、總務部、醫務部、大正15(1926)年4月1日、水雷部から中央發電所、電氣機械、電氣仕上工場を分離し電氣部が設立されます。

昭和2(1927)年9月、艦政本部長、海軍航空本部長の通達に基づき職夫(3ヶ月の期間工)の採用を開始します。

昭和3(1928)年4月6日、横須賀海軍工廠から海軍技手養成所(慶応3年5月設立、昭和17年4月1日、第一海軍技手養成所に改称)が移転して来ます。

昭和4(1929)年4月8日、既設の潜水艦実験調査委員会を拡張し潜水艦部が設置されます。

昭和5(1930)年4月22日、ロンドン海軍軍縮会議が締結され職工3,723名を整理します。

昭和6(1931)年5月8日、呉海軍港務部により東洋一と言われる第四船渠が竣工します。
昭和6年、海軍省は艦艇39隻の建造を含む『第一次海軍軍備補充計畫』に着手、10月27日、電気溶接を採用した所謂、条約型巡洋艦と呼ばれる巡洋艦「最上」を起工します。

9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)が勃発、12月13日、政府は金輸出再禁止による金融緩和、財政拡大を実施、呉廠は職工の採用を拡大し、昭和初期から続く不況を国内に先駆けて克服、「呉廠景気」と言われる好景気に転じ、昭和7(1932)年には7,780名の職工を採用します。

昭和7(1932)年8月、「的」(甲標的)の設計を開始(昭和15年11月15日、制式採用)します。

昭和7(1932)年末、水雷部において試作酸素魚雷の陸上低速馬力試験に成功、昭和8(1933)年、魚雷實驗部において純酸素による低速陸上馬力試験に成功、世界唯一の動力素に酸素を用いた九三式魚雷(水上艦用)の開発に成功します(昭和10年、制式採用)。

昭和9(1934)年1月、労働力不足を補うべく臨時職工の採用を開始、同年、艦艇48隻の建造を含む『第二次海軍軍備補充計畫』に着手、11月20日、空母「蒼龍」を起工します。

昭和10(1935)年8月1日、吉浦にあった砲熕部第六、第二十二工場が分離独立し火薬全般を扱う火工部が新設、昭和11(1936)年7月1日、造船實驗部、製鋼實驗部が新設されます。

昭和12(1937)年7月7日、北支事変(9月2日、支那事変と改称)が発生します。

昭和12年、追加を含め大小71隻の艦艇建造をを含む『第三次海軍軍備補充計畫』(マル三計画)に着手、11月4日、帝國海軍の技術を結集した戦艦「大和」を起工、昭和15(1940)年8月8日、進水、昭和16(1941)年12月16日、竣工します。
大和の建造にあたり造船船渠を1m掘り下げ、ガントリークレーンを能力強化、甲鐵組立工場を新設し港内の浚渫を実施します。
また艤装様浮桟橋、甲鈑罫書場、第二現圖場、船殻機械場、船殻墨掛場、船具工場、銅工場、機械場、艤装用各部総合作業場の新設、各庁舎の増築を実施します。

昭和12年、水雷部管下に九三式魚雷に対応すべく大津島發射場を開設、酸素を動力素に用いた九七式魚雷(甲標的用)の開発に成功、制式採用されます。

昭和14(1939)年、米国の第二次ヴィンソン案に対抗すべく、追加を含め大小92隻の艦艇建造を含む『第四次海軍軍備充實計畫』(マル四計画)に着手します。

昭和15(1940)年5月16日、米大統領・F.ルーズベルトは欧州戦線におけるドイツ軍の快進撃に「航空機50,000機要求声明」を発し、6月14日、『マル四計畫』に対抗し、且つ同計画を凌駕する第三次ヴィンソン案に署名します。

昭和14(1934)年11月、第三次ヴィンソン案の概要を入手した軍令部では総艦艇数157隻を予定する『第五次海軍軍備充實計畫』(マル五計畫)の案画を開始、昭和15(1940)年8月下旬、海軍省に送達されましたが予算化まで時間がかかる事、また極度に悪化した対米関係に鑑み、11月15日、出師準備作業の第一着作業を発令するとともに、昭和16(1941)年5月、『マル五計畫』の実行可能な事項を先行実施すべく『情勢ニ應ズル軍備缺陥補充ノタメノ臨時追加軍備計畫』(マル臨計畫)を策定し、艦艇77隻の建造を計画します。
8月15日、出師準備作業の第二着作業を発令するとともに、『マル急計畫』を策定し『マル四計畫』を1ヶ年繰上げ(昭和17年末まで)ます。

11月1日、我が国は大本營政府聯絡會議において帝國國策遂行要領を策定し対米開戦の準備に入るとともに、「マル五計畫」を実行、同時に外交交渉による戦争回避を図りますが、26日、『アメリカ合衆國と日本國の間の協定で提案された基礎の概要(ハル・ノート)』の提示により米国に戦争回避の意思が無い事を認識、12月1日、御前会議において米・英国との開戦を決定、8日、大東亜戦争が開戦します。

昭和17(1942)年6月7日、ミッドウェー海戦において海軍は空母4隻を喪失したため、30日、軍令部は急遽『マル五計畫』を見直し空母の急速整備を含む『改マル五計畫』を策定し海軍省と商議し、9月、着手します。

昭和17(1942)年10月、倉橋島に甲標的専用の大浦崎分工場を開設(昭和16年10月より建設開始)します。

昭和18(1943)年1月18日、潜特型潜水艦「伊號第四百潜水艦」を起工します。
4月、戦局の推移に伴い海軍省は『戰時艦船建造補充計畫』(マル戰計画)を策定しますが、急迫する戦局、資材の不足、人的資源の枯渇により海軍艦政本部は海防艦、丁型駆逐艦、潜水艦小、特攻兵器の建造を優先するとともに、航空、燃料関係工事に協力を示達します。

昭和19(1944)年2月1日、特務艦特「第三號」(一等輸送艦)を起工(以降、16隻建造)、26日、「マル六金物」(のちの回天)の試作を開始(昭和19年8月1日、制式採用)、10月、回天の基地、施設整備を行う第二水雷部が発足します(昭和20年7月、廃止)。

昭和19年5月、呉廠會計部は食糧増産を図るべく昭和村竜ノ口に昭和第一農場、増造原に同第二農場を開場します。

10月5日、海軍次官・井上成美中将より各鎭守府・警備府司令長官に生産施設の疎開、防護、偽装を促進する『工作廳・作業廳ノ防護強化方針』が示達され、呉海軍工廠は近隣の斜面等に地下工場設営を開始します。

昭和20年3月19日0710、米艦上機350機が呉湾に停泊中の艦船を目標に、呉鎭守府、廣海軍工廠、第十一海軍航空廠に来襲、防空砲台、在泊艦艇は対空戦闘を実施しますが、戦艦「伊勢」は直撃弾2、至近弾3により中破、同「日向」は直撃弾1、至近弾多数により小破、同「榛名」は直撃弾2により小破、空母「天城」はロケット弾1、至近弾多数により飛行甲板損傷、浸水、同「葛城」は直撃弾1により小破、同「龍鳳」は直撃弾5により飛行甲板が中破、重巡「利根」は直撃弾1、至近弾若干により小破、軽巡「大淀」は直撃弾5、至近弾多数により大破してしまいます。
また、呉廠、呉鎭守府、廣海軍工廠、第十一海軍航空廠、呉市街地も若干の被害を受けてしまいます。

6月22日0930、B29爆撃機162機が呉廠に来襲、呉鎭守府は煙幕を展張するとともに各防空砲台は対空戦闘を実施し1,142発を発砲しますが、各梯団ごとに高度を替えて侵入する敵機に翻弄され撃墜1、撃破9に留まり、爆弾1,289発、796tが製鋼部、砲熕部を中心に投弾され325名が散華、負傷1,200名、207棟が破壊され生産設備は甚大な被害を受けてしまいます。
呉海軍工廠 空襲に晒される呉海軍工廠200622(広島呉)
▲6月22日、空襲に晒される呉海軍工廠

7月1日夜半から2日未明、B29爆撃機152機が呉市街地に来襲、各防空砲台は悪天候により敵機を捕捉できず(音戸高角砲台のみ14発射撃)、焼夷爆撃により市街地の大半が焼失(23,589戸焼失、1,939名焼死)、呉廠は365名が散華、本部庁舎を含む207棟(431,435㎡)が焼失、呉鎭守府、呉海軍艦船部、同経理部庁舎、同軍需部、同港務部、同施設部、呉海兵團、呉海軍病院、呉海仁會、呉水交社、呉海軍共済組合呉病院、海仁會病院、廣海軍工廠、第十一海軍航空廠、宿舎などが被災してしまいます。

24日0600、米艦上機870機、28日0610、米艦上機950機が呉市街、呉港内に来襲、防空砲台、在泊艦艇は対空戦闘を実施し、撃墜51、撃破33機を報じますが、在泊艦艇が攻撃され、戦艦「伊勢」は直撃弾16、至近弾多数により28日、大破擱座(艦長・牟田口格郎大佐散華)、同「日向」は直撃弾10、至近弾30により24日、大破擱座(艦長・草川潔少将散華)、同「榛名」は直撃弾、至近弾多数により28日、擱座、空母「天城」は直撃弾3、至近弾多数によりのち横転、重巡「利根」は直撃弾4、至近弾7により24日、大破し浅瀬に座礁、同「青葉」は直撃弾5、至近弾若干により24日、浸水擱座、同「出雲」が浸水沈没、軽巡「大淀」は直撃弾1、至近弾4により24日、横転、標的艦「攝津」は直撃弾3により26日、擱座、その他駆逐艦「梨」、兵學校練習艦「大須」、特設運送船「辰和丸」(触雷)、未成空母「阿蘇」、掃海船「君が代丸」、廃艦の旧楢、旧楡、旧時津風が沈没する甚大な被害を受けるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

停戦時の組織は
總務部、臨時補給部、砲熕部、火工部、製鋼部、水雷部、電氣部、造船部、造機部、潜水艦部、砲熕實驗部、製鋼實驗部、魚雷實驗部、電氣實驗部、造船實驗部、會計部、醫務部、呉海軍共済組合呉病院、工員養成所

管下に
川原石魚雷調整場、麗女島、冠崎作業場、大入魚雷遠距離発射場、廣艦材圍場、切串装填場、秋付火藥庫、秋付射的場、飛渡瀬格納庫、大君作業場、三ツ子島材料置場、大浦崎分工場、亀ヶ首本射場、〃北射場、大津島發射場、呉崎發射場、佐伯出張所、佐伯機雷作業場、上黒島作業場、松山分工場、宇部分工場がありました。

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により呉海軍工廠は内務省を通じ大蔵省に移管(中国財務局呉出張所が管理)されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。

9月26日、米第6軍第10軍団先遣隊F・R・マスター大佐以下6名が呉海軍水上機基地に到着、呉に進駐し呉潜水艦基地隊(9月27日、司令長官官舎に移転)に入り呉廠造機部の一部、艤装工場(各部外業工場)、第四船渠を含む海軍施設14ヶ所(のち3ヶ所追加)を接収、10月6日、米輸送船団30隻が広湾に入港、7日、基地隊長J・P・ウィリー少将以下500名が呉鎭守府構内に進駐、7日、本隊19,500名が上陸し呉に3,000名が進駐、呉鎭守府軍法會議に第10軍団司令部(F・C・サイバート少将)を設置します。

10月15日、呉海軍工廠は閉廠、12月15日、GHQにより旧呉廠の一部転用に関する指針が示されます。

昭和21(1946)年2月1日、英連邦軍(豪主力、英、ニュージーランド)先遣隊j・M・マックゴアン大佐以下7名、13日、第34豪歩兵旅団1,122名が呉港に入港、中国、四国地方に進駐、2月20日、英連邦軍司令部(J・ノースコット中将)が呉鎭守府軍法會議、(財)海仁會 呉集會所に開設(5月16日、海軍兵學校に移転、昭和23年6月1日、呉鎭守府に移転)、3月7日、広島県の占領業務は米軍から英軍に移譲されます。

2月14日、政府(幣原喜重郎内閣)は連合軍の了解のもと旧呉廠の転用を許可、4月1日、造船部、造機部一帯に㈱播磨造船所呉船渠(昭和29年9月27日、㈱呉造船所に)、製鋼部の一部に尼崎製鉄㈱呉作業所(昭和40年4月1日、㈱神戸製鋼所と合併し同呉工場に、平成元年1月31日、閉鎖)が開設され前者は我が海軍艦艇の引揚げ解体、復員船、掃海艦艇、連合軍艦艇、商船の修理、後者は解体艦艇の鉄材から平炉製鋼、鍛圧作業を開始します。

4月1日、GHQにより旧呉廠の生産設備は賠償指定を受け、大蔵省中国財務局の管理下に置かれます(昭和23年3月13日から生産設備の海外搬送開始)。

昭和22(1947)年7月、英連邦軍から呉港及び海軍用地の一部返還、貿易港転換が認められ、昭和23(1948)年1月1日、呉港は返還され貿易港として開港が決定、同日、『旧海軍用地利用計画案』が立案、電氣部、水雷部の一部が呉市に貸与され市営宮原倉庫が開設(昭和25年8月、呉貿易倉庫㈱設立)されます。

昭和24(1949)年12月1日、横須賀、呉、佐世保、舞鶴各市により旧軍港市転換促進委員会が結成され、昭和25(1950)年4月7日、参議院本会議、11日、衆議院本会議において『旧軍港市転換法』が可決、6月4日、住民投票により支持を得、28日、『旧軍港市転換法』(軍転法)が公布、大蔵大臣の諮問機関として旧軍港市国有財産処理審議会(旧軍港市市長4名、大蔵、通産、運輸、建設各省、経済安定本部職員各1名、学識経験者5名)が発足、『軍転法』に基づき随時、接収区域外の海軍施設(主に工員宿舎、港湾施設、空襲空地)を学校など公共施設には無償譲渡、利用申請のあった企業には有償譲渡を開始します。

11月1日、火工部に海上保安訓練所が開設(昭和30年4月1日、舞鶴市に移転)されます。

呉市は英連邦軍に接収地域の返還を求めつつ、12月25日、『呉市転換事業計画』を策定し旧呉廠を中心に企業誘致を開始します。

昭和26(1951)年3月10日、旧製鋼部・潜水艦部に日亜製鋼㈱呉工場(現、日新製鋼㈱呉製鉄所)が進出、8月15日、㈱播磨造船所呉船渠の一部にNBC呉造船部が開所(昭和37年7月21日、㈱呉造船所に移譲、9月15日、閉鎖)します。

昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和條約の発効によりわが国は主権を回復、5月1日、東京から海上保安訓練所隣接地に海上保安大学校が移転、6日、入学式を挙行します。

昭和29(1954)年12月18日、旧砲熕部に㈱淀川製鋼所呉工場が開設されます。

昭和31(1956)年2月16日、呉市に英連邦軍の年内全面撤退が告知され、4月5日、中国財務局呉出張所において国有財産利用協議会が開かれ海軍用地の配分が決定、5月4日、呉市議会において承認され、防衛庁に呉海軍工廠の一部(本部、總務部、醫務部、潜水艦部、會計部)、鎭守府、呉海軍港務部、呉海兵團、呉防備隊、(財)海仁會 呉集會所、呉水交社の一部、呉鎭守府軍法會議、官舎の一部を、呉市に呉海軍軍需部、同廣燃料置場、鎭守府司令長官官舎、厚生省に呉海軍病院を移管する事が決定します。

11月22日、英連邦軍は撤退、接収されていた海軍施設は大蔵省に返還され、昭和34(1959)年11月、旧砲熕部に㈱日立製作所日立工場呉分工場(昭和38年10月5日、バブコック日立㈱呉工場として独立)が開設されます。

昭和37(1962)年8月1日、旧呉廠本部に海上自衛隊 第1潜水隊が開隊します。

昭和43(1968)年3月31日、㈱呉造船所は石川島播磨重工業㈱と合併し石川島播磨重工業㈱呉造船所(IHI)(平成25年1月1日、ユニバーサル造船㈱と合併しジャパンマリンユナイテッド㈱)となり、平成2(1990)年1月、旧砲熕部(㈱神戸製鋼所 呉工場跡地)に㈱ダイクレ呉第二工場が開設され、現在に至ります。


歴代呉海軍工廠長
山内萬壽治 少将  明治36(1903)年11月10日
北古賀竹一郎 少将  明治39(1906)年2月2日
伊地知季珍 少将  明治41(1908)年5月15日
村上格一 中将  大正1(1912)年12月1日
野間口兼雄 少将  大正3(1914)年4月17日
伊藤乙次郎 中将  大正4(1915)年12月13日
小栗孝三郎 中将  大正6(1917)年12月12日
中野直枝 中将  大正8(1919)年11月8日
森山慶三郎 中将  大正9(1920)年10月1日
金田秀太郎 少将  大正11(1922)年12月1日
吉川安平 少将  大正12(1923)年8月13日
伍堂卓雄 造兵少将  大正13(1924)年6月11日
杉政人 機関少将  昭和3(1928)年12月10日
長谷川清 少将  昭和6(1931)年12月1日
松下薫 少将  昭和7(1932)年10月10日
豐田貞次郎 中将  昭和11(1936)年2月15日
吉成宗雄 機関中将  昭和12(1937)年12月1日
砂川兼雄 中将  昭和14(1939)年11月15日
澁谷隆太郎 機關中将  昭和16(1941)年11月20日
三戸由彦 中将  昭和18(1943)年9月15日
妹尾知之 中将  昭和20(1945)年5月1日


主要参考文献
『呉の歴史』 (平成14年10月 呉市史編纂委員会 呉市役所)

『呉市史 第3、5、6、7、8巻』 (昭和39年~平成5年  呉市史編纂委員会 呉市役所)

『呉の歩み呉市制100周年記念版』 (平成14年3月 呉市史編さん室 呉市役所)

『呉の歩み英連邦軍の見た呉』 (平成18年10月 呉市総務部市史文書課 呉市役所)

『呉湾周辺における旧呉海軍工廠関連施設の調査研究事業』

『アジア歴史資料センター史料各種』

『国土地理院空撮』 呉鎮守府 艦隊これくしょん 艦これ この世界の片隅に
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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