呉海軍工廠 (砲熕部 ・ 砲熕實驗部)
広島県呉市に伊藤博文公をして「帝國海軍第一の製造所」と位置付けられ、ドイツのクルップ社と並び世界の「二大兵器工場」と称された呉海軍工廠がありました。
淀川製鋼所㈱付近は呉海軍工廠の砲熕部が所在しました。

▲㈱ダイクレ呉第二工場に遺る呉海軍工廠 砲熕部 精密兵器工場
【探索日時】
平成17年10月26日、平成19年11月25日、平成29年4月4日、10月8日、平成30年11月11日
【改訂情報】
平成30年11月18日・・・遺構写真追加
令和元年6月28日・・・遺構(汽罐場、砲塔動力室)追加

<呉海軍工廠 概要>
海軍工廠は艦船、兵器の造修、購買、実験を管掌しました。
明治19(1886)年5月4日、第二海軍區鎭守府を安芸国安芸郡呉港(現、広島県呉市)への設置が決定、10月30日、鎭守府建設が開始され、明治22(1889)年7月1日、呉鎭守府開庁とともに造船部、兵器部(明治33年5月20日、廃止)が発足します。
明治28(1895)年6月18日、假設呉兵器製造所が開設、明治30(1897)年5月25日、呉海軍造兵廠に改称、10月8日、造船部は呉海軍造船廠に改編されます。
明治36(1903)年11月10日、呉海軍造船廠と呉海軍造兵廠は統合され呉海軍工廠に改編され、造兵部が発足します。
明治43(1910)年1月15日、造兵部は砲熕部と水雷部に分かれ、吉浦の造兵部火薬庫は砲熕部第六工場管下に置かれます。
大正5(1916)年、砲熕部第六工場附属火薬庫は秋付に移設(大正3年から移設作業)され、跡地に第六工場(装填)を全て移設、大正8(1919)年以降さらに池浜山を掘削し敷地を拡張、昭和6(1931)年、三石山西側を掘削し第二十二工場(機械)を開設します。
大正12(1923)年4月1日、吉浦に砲熕實驗部が新設されます。
昭和10(1935)年8月1日、吉浦の第六、第二十二工場が分離独立し火薬全般を扱う火工部が新設され、昭和13(1938)年、光學工場が吉浦に移転します。
昭和20(1945)年6月22日0930、B29爆撃機162機が呉海軍工廠に来襲、砲熕部は製鋼部とともに空襲目標にされ爆弾1,289発、796tが投弾され325名散華、1,200名負傷、207棟が破壊され生産設備は甚大な被害を受け、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
8月28日、呉鎭守府の全施設は内務省を通じ大蔵省に移管、昭和21(1946)年4月1日、GHQにより旧呉廠の生産設備は賠償指定を受け、大蔵省中国財務局の管理下に置かれます(昭和23年3月13日から生産設備の海外搬送開始)。
昭和25(1950)年6月28日、『旧軍港市転換法』が成立、呉市の企業誘致により昭和29(1954)年12月18日、旧砲熕部に㈱淀川製鋼所呉工場が開設され、現在に至ります。
※呉海軍工廠については前記事『呉海軍工廠 (總務部・會計部・醫務部)』を参考の事
<遺構について>
呉海軍工廠の第六回目、今回は呉海軍工廠の砲熕部および砲熕實驗部の遺構を紹介させて頂きます。
砲熕部は砲熕兵器及び光学兵器の造修に関する事項、砲熕實験部は砲熕兵器及び材料、弾道に関する事項を所掌しました。
砲熕部は呉にのみ設置され、呉で製造した砲熕兵器(20㎜以上の艦載砲)を他の海軍工廠、民間造船場に供給していました。
特に戦艦用の大口径砲、砲弾の製造設備は呉のみが保有していました。

▲今回紹介の遺構配置
施設名、位置は昭和20(1945)年頃
砲熕部・砲熕實驗部の事務所はこの辺りにありましたが、空襲で破壊され現在は痕跡もありません。
70 砲塔組立工場
昭和13(1938)年に建設され、現在は三菱日立パワーシステムズになっています。

▲全景(ノコギリ屋根と海上のガントリークレーン)

▲砲塔積み込み用の門型起重機(ガントリークレーン)

▲背後から

▲屋根の構造材
71 砲塔組立工場
2連の建屋ですが、建設年は不明です。

▲全景
手前に見えるのは下記92砲塔動力室

▲海上から
上記ガントリークレーンの奥に見えるのが71砲塔組立工場
79 汽罐場
建設年は不明、㈱淀川製鋼所内に遺ります。
こちらの遺構に関しては妖怪酒隠し様に御教示頂きました。

92 砲塔動力室
上記79汽罐場の手前にあり、公道から見えます。
当初は切妻屋根がありましたが、現在手前の2階部分は撤去され形状がやや変わっています。

72 砲塔組立工場
建設年は不明で、現在は㈱淀川製鋼所 呉工場になっています。
元々は東側の道路付近までの長さがありましたが空襲で破壊され減築、戦後撤去された部分に増築された様です。

▲正面から
手前に見える門柱は戦後の物の様です

▲鉄塔の陰になっている細長い建屋が該当工場
73・74 砲塔組立工場
東側の外壁は空襲で吹き飛ばされましたが、構造材は無事だったため戦後、外壁を改修し再利用している様です。
元々は上記71に連結していましたが戦後、切断され別棟にされています。
内部には大和型の四六糎砲用3基を含む艦載砲の陸上試験を行うピット11基があり、現在は原子力発電機の原子炉の水圧実験に使われているとか。

▲切断された西側

▲後端から
後端の丸屋根部分は戦後の増築の様です
75 砲塔組立工場
物理的に見えません。

▲奥から3ッ目の丸屋根に続いているはずですが・・・
76 第二倉庫
外壁は空襲で吹き飛ばされましたが、構造材は無事だったため戦後、外壁を改修し再利用しており、内部は背が高過ぎるため2階建てになっているそうです。
㈱神戸製鋼所 呉工場を経て、現在は㈱ダイクレ呉第二工場になっています。

▲小屋根の乗った建屋が第二倉庫
前の増築が邪魔で見通せません

▲別角度から

▲近影

▲窓から見える当時の鉄骨
77 砲架工場
上記76第二倉庫の後ろに接続したノコギリ屋根の建屋です。
内部の鉄骨には機銃掃射の痕跡が遺るそうです。

▲外周から

▲近影

▲窓から見える当時の鉄骨
かなりゴッツい物です

▲基礎は鉱滓煉瓦にモルタル仕上げの様です
78 精密兵器工場
非常に有名な遺構です。
明治35(1902)年に起工、明治36(1903)年に竣工します。
呉海軍造兵廠 第九工場として建設され、停戦時は呉海軍工廠 砲熕部 精密兵器工場でした。
屋根は空襲で吹き飛ばされましたが戦後、改修され再利用されています。

▲西側から
3連の建物ですが右端は色々と邪魔で見通せません

▲西側近影

▲西側正面

▲北側壁面

▲北側の雨樋受け

▲南側壁面

▲東側正面

▲東側正面入口

▲東側正面入口左側にある「明治三十五年起工、明治三十六年竣工」
銘板周辺の傷は機銃掃射の跡です

▲東側正面入口右側にある「第九工場」
上記銘板は西側にもありましたが、間口を広げた際に撤去、「歴史の見える丘」に移設されました。

▲窓に設置されたコンクリート製の庇

▲鉄骨にある「CARNEGIE」(米国の鉄鋼会社)の刻字

▲78精密兵器工場と76第二倉庫の間にある軌条と旋回盤の跡(埋められています)

▲軌条の近影

▲78精密兵器工場と77砲架工場の間にある軌条
上記遺構は全て外周からの見学になりますが、㈱ダイクレ呉第二工場(76、77、78)は毎年10月下旬の「近代遺産ウィーク」の際に特別見学会が行われ、その際に敷地内の立ち入りと外観の撮影が許可されます。
<主要参考文献>
『呉の歴史』 (平成14年10月 呉市史編纂委員会 呉市役所)
『呉市史 第3、5、6、7、8巻』 (昭和39年~平成5年 呉市史編纂委員会 呉市役所)
『呉湾周辺における旧呉海軍工廠関連施設の調査研究事業』
『国土地理院空撮』 呉鎮守府 艦隊これくしょん 艦これ この世界の片隅に
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淀川製鋼所㈱付近は呉海軍工廠の砲熕部が所在しました。

▲㈱ダイクレ呉第二工場に遺る呉海軍工廠 砲熕部 精密兵器工場
【探索日時】
平成17年10月26日、平成19年11月25日、平成29年4月4日、10月8日、平成30年11月11日
【改訂情報】
平成30年11月18日・・・遺構写真追加
令和元年6月28日・・・遺構(汽罐場、砲塔動力室)追加


<呉海軍工廠 概要>
海軍工廠は艦船、兵器の造修、購買、実験を管掌しました。
明治19(1886)年5月4日、第二海軍區鎭守府を安芸国安芸郡呉港(現、広島県呉市)への設置が決定、10月30日、鎭守府建設が開始され、明治22(1889)年7月1日、呉鎭守府開庁とともに造船部、兵器部(明治33年5月20日、廃止)が発足します。
明治28(1895)年6月18日、假設呉兵器製造所が開設、明治30(1897)年5月25日、呉海軍造兵廠に改称、10月8日、造船部は呉海軍造船廠に改編されます。
明治36(1903)年11月10日、呉海軍造船廠と呉海軍造兵廠は統合され呉海軍工廠に改編され、造兵部が発足します。
明治43(1910)年1月15日、造兵部は砲熕部と水雷部に分かれ、吉浦の造兵部火薬庫は砲熕部第六工場管下に置かれます。
大正5(1916)年、砲熕部第六工場附属火薬庫は秋付に移設(大正3年から移設作業)され、跡地に第六工場(装填)を全て移設、大正8(1919)年以降さらに池浜山を掘削し敷地を拡張、昭和6(1931)年、三石山西側を掘削し第二十二工場(機械)を開設します。
大正12(1923)年4月1日、吉浦に砲熕實驗部が新設されます。
昭和10(1935)年8月1日、吉浦の第六、第二十二工場が分離独立し火薬全般を扱う火工部が新設され、昭和13(1938)年、光學工場が吉浦に移転します。
昭和20(1945)年6月22日0930、B29爆撃機162機が呉海軍工廠に来襲、砲熕部は製鋼部とともに空襲目標にされ爆弾1,289発、796tが投弾され325名散華、1,200名負傷、207棟が破壊され生産設備は甚大な被害を受け、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
8月28日、呉鎭守府の全施設は内務省を通じ大蔵省に移管、昭和21(1946)年4月1日、GHQにより旧呉廠の生産設備は賠償指定を受け、大蔵省中国財務局の管理下に置かれます(昭和23年3月13日から生産設備の海外搬送開始)。
昭和25(1950)年6月28日、『旧軍港市転換法』が成立、呉市の企業誘致により昭和29(1954)年12月18日、旧砲熕部に㈱淀川製鋼所呉工場が開設され、現在に至ります。
※呉海軍工廠については前記事『呉海軍工廠 (總務部・會計部・醫務部)』を参考の事
<遺構について>
呉海軍工廠の第六回目、今回は呉海軍工廠の砲熕部および砲熕實驗部の遺構を紹介させて頂きます。
砲熕部は砲熕兵器及び光学兵器の造修に関する事項、砲熕實験部は砲熕兵器及び材料、弾道に関する事項を所掌しました。
砲熕部は呉にのみ設置され、呉で製造した砲熕兵器(20㎜以上の艦載砲)を他の海軍工廠、民間造船場に供給していました。
特に戦艦用の大口径砲、砲弾の製造設備は呉のみが保有していました。

▲今回紹介の遺構配置
施設名、位置は昭和20(1945)年頃
砲熕部・砲熕實驗部の事務所はこの辺りにありましたが、空襲で破壊され現在は痕跡もありません。
70 砲塔組立工場
昭和13(1938)年に建設され、現在は三菱日立パワーシステムズになっています。

▲全景(ノコギリ屋根と海上のガントリークレーン)

▲砲塔積み込み用の門型起重機(ガントリークレーン)

▲背後から

▲屋根の構造材
71 砲塔組立工場
2連の建屋ですが、建設年は不明です。

▲全景
手前に見えるのは下記92砲塔動力室

▲海上から
上記ガントリークレーンの奥に見えるのが71砲塔組立工場
79 汽罐場
建設年は不明、㈱淀川製鋼所内に遺ります。
こちらの遺構に関しては妖怪酒隠し様に御教示頂きました。

92 砲塔動力室
上記79汽罐場の手前にあり、公道から見えます。
当初は切妻屋根がありましたが、現在手前の2階部分は撤去され形状がやや変わっています。

72 砲塔組立工場
建設年は不明で、現在は㈱淀川製鋼所 呉工場になっています。
元々は東側の道路付近までの長さがありましたが空襲で破壊され減築、戦後撤去された部分に増築された様です。

▲正面から
手前に見える門柱は戦後の物の様です

▲鉄塔の陰になっている細長い建屋が該当工場
73・74 砲塔組立工場
東側の外壁は空襲で吹き飛ばされましたが、構造材は無事だったため戦後、外壁を改修し再利用している様です。
元々は上記71に連結していましたが戦後、切断され別棟にされています。
内部には大和型の四六糎砲用3基を含む艦載砲の陸上試験を行うピット11基があり、現在は原子力発電機の原子炉の水圧実験に使われているとか。

▲切断された西側

▲後端から
後端の丸屋根部分は戦後の増築の様です
75 砲塔組立工場
物理的に見えません。

▲奥から3ッ目の丸屋根に続いているはずですが・・・
76 第二倉庫
外壁は空襲で吹き飛ばされましたが、構造材は無事だったため戦後、外壁を改修し再利用しており、内部は背が高過ぎるため2階建てになっているそうです。
㈱神戸製鋼所 呉工場を経て、現在は㈱ダイクレ呉第二工場になっています。

▲小屋根の乗った建屋が第二倉庫
前の増築が邪魔で見通せません

▲別角度から

▲近影

▲窓から見える当時の鉄骨
77 砲架工場
上記76第二倉庫の後ろに接続したノコギリ屋根の建屋です。
内部の鉄骨には機銃掃射の痕跡が遺るそうです。

▲外周から

▲近影

▲窓から見える当時の鉄骨
かなりゴッツい物です

▲基礎は鉱滓煉瓦にモルタル仕上げの様です
78 精密兵器工場
非常に有名な遺構です。
明治35(1902)年に起工、明治36(1903)年に竣工します。
呉海軍造兵廠 第九工場として建設され、停戦時は呉海軍工廠 砲熕部 精密兵器工場でした。
屋根は空襲で吹き飛ばされましたが戦後、改修され再利用されています。

▲西側から
3連の建物ですが右端は色々と邪魔で見通せません

▲西側近影

▲西側正面

▲北側壁面

▲北側の雨樋受け

▲南側壁面

▲東側正面

▲東側正面入口

▲東側正面入口左側にある「明治三十五年起工、明治三十六年竣工」
銘板周辺の傷は機銃掃射の跡です

▲東側正面入口右側にある「第九工場」
上記銘板は西側にもありましたが、間口を広げた際に撤去、「歴史の見える丘」に移設されました。

▲窓に設置されたコンクリート製の庇

▲鉄骨にある「CARNEGIE」(米国の鉄鋼会社)の刻字

▲78精密兵器工場と76第二倉庫の間にある軌条と旋回盤の跡(埋められています)

▲軌条の近影

▲78精密兵器工場と77砲架工場の間にある軌条
上記遺構は全て外周からの見学になりますが、㈱ダイクレ呉第二工場(76、77、78)は毎年10月下旬の「近代遺産ウィーク」の際に特別見学会が行われ、その際に敷地内の立ち入りと外観の撮影が許可されます。
<主要参考文献>
『呉の歴史』 (平成14年10月 呉市史編纂委員会 呉市役所)
『呉市史 第3、5、6、7、8巻』 (昭和39年~平成5年 呉市史編纂委員会 呉市役所)
『呉湾周辺における旧呉海軍工廠関連施設の調査研究事業』
『国土地理院空撮』 呉鎮守府 艦隊これくしょん 艦これ この世界の片隅に
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