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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

呉海軍工廠 川原石魚雷調整場

広島県呉市築地町に所在する呉市二川まちづくりセンター一帯に呉海軍工廠 川原石魚雷調整場がありました。

また、近隣の呉市街地には呉海軍共済病院、呉海軍共済組合 二河購買所、同呉會館、同呉會館配給所、呉海工會館、呉憲兵分隊がありました。
呉海軍工廠 川原石魚雷調整場 90 補給岸壁 北東から(広島呉)
▲岸壁に遺る呉海軍工廠 川原石魚雷調整場の補給岸壁

【探索日時】
平成29年4月4日





呉海軍工廠 概要
海軍工廠は艦船、兵器の造修、購買、実験を管掌しました。

明治19(1886)年5月4日、第二海軍區鎭守府を安芸国安芸郡呉港(現、広島県呉市)への設置が決定、10月30日、鎭守府建設が開始され、明治22(1889)年7月1日、呉鎭守府開庁とともに造船部兵器部(明治33年5月20日、廃止)が発足します。

明治28(1895)年6月18日、假設呉兵器製造所が開設、明治30(1897)年5月25日、呉海軍造兵廠に改称、10月8日、造船部は呉海軍造船廠に改編されます。
明治36(1903)年11月10日、呉海軍造船廠と呉海軍造兵廠は統合され呉海軍工廠に改編されます。

昭和20(1945)年6月22日、7月1日夜半から2日未明、24日、28日と呉海軍工廠は空襲を受けますが川原石魚雷調整場は無傷で、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

8月28日、呉鎭守府の全施設は内務省を通じ大蔵省に移管、昭和21(1946)年4月1日、GHQにより旧呉廠の生産設備は賠償指定を受け、大蔵省中国財務局の管理下に置かれます(昭和23年3月13日から生産設備の海外搬送開始)。

昭和25(1950)年6月28日、『旧軍港市転換法』が成立、昭和26(1951)年1月20日、川原石魚雷調整場は呉市に貸与され中央卸売市場が開場、昭和28(1953)年7月2日、呉市に払い下げられます。

昭和57(1982)年7月、青果部、昭和59(1989)年2月、水産物部が光町に移転、旧川原石魚雷調整場は造成され呉市二川まちづくりセンターが開館、平成8(1996)年12月、呉市は歴史博物館の新設を決定、同地に資料庫が置かれ現在に至ります。

呉海軍工廠については前記事『呉海軍工廠 (總務部・會計部・醫務部)』を参考の事


遺構について
㉔ 呉海軍工廠 川原石魚雷調整場
呉海軍工廠 川原石魚雷調整場の設置時期は不明ですが、最終時は魚雷調整場、空気圧縮ポンプ場、縦舵機調整場、機雷庫、汽缶場、補給岸壁上屋、守衛詰所、便所、貯水槽がありました。

呉海軍工廠 水雷部で製造された魚雷はここで調整され大入魚雷遠距離發射場、大津島發射場において新製領収発射(試射)ののち、呉海軍軍需部の水雷倉庫に収蔵、各艦艇に補給されました。

90 補給岸壁
現在、建物は全て滅失しましたが、補給岸壁が遺ります。
呉海軍工廠 川原石魚雷調整場 90 補給岸壁 北西から(広島呉)
▲全景

呉海軍工廠 川原石魚雷調整場 90 補給岸壁 北東から(広島呉)
▲反対側から

呉海軍工廠 川原石魚雷調整場 90 補給岸壁上部(階段は戦後?)(広島呉)
▲上部
  階段は戦後のもの

呉海軍工廠 川原石魚雷調整場 90 補給岸壁 東側鉄柵(広島呉)
▲東側の鉄柵
  当時のものと思われます

呉海軍工廠 川原石魚雷調整場 90 補給岸壁 西側鉄柵(広島呉)
▲西側の鉄柵は破壊されています


呉海軍工廠 川原石魚雷調整場 90 補給岸壁 南側基礎跡 (2)(広島呉)
▲先端両側にある基礎(西側)
  上屋の支柱基礎と思われます

呉海軍工廠 川原石魚雷調整場 90 補給岸壁 南側基礎跡(広島呉)
▲基礎(東側)

呉海軍工廠 川原石魚雷調整場 90 補給岸壁 南側階段(広島呉)
▲南側にある階段

この補給岸壁の少し先には大和ミュージアムの収蔵庫があり、高角砲?やどこかの煉瓦門柱が長年放置されています。
これらの貴重な遺物が日の目を見るのは何時になるやら・・・。


㉟ 呉海軍共済病院
呉共済病院は呉海軍共済病院の後身になります。

明治37(1904)年11月3日、木造2階建の呉海軍工廠 職工共済會病院が開院(院長1、医師3:内科、外科、耳鼻咽喉科、看護婦14)、工廠職工、及びその家族の診療を開始します。
明治38(1905)年から明治39(1906)年にかけ医師3名を増員し病棟を増築します。
明治38年7月1日、鍋に假診療所が開院、明治39年12月、鍋診療所に改称します。
明治45(1912)年5月1日、(財)呉職工 同濟會に移管され呉同濟病院、大正元(1912)年9月1日、呉職工同濟病院に改称します。
大正6(1917)年1月7日、阿賀診療所が開院します。

大正8(1919)年4月1日、(財)呉職工 同濟會の解散に伴い海軍共済組合(明治45年4月1日に発足した組合員たる工廠職工の相互救済福祉組織)に移管され海軍共済組合 呉病院、昭和2(1927)年7月18日、呉海軍共済組合病院に改組します。

大正12(1923)年11月1日、宮原診療所が開院します。

昭和7(1932)年7月、近代化拡張工事を着工、昭和8(1933)年7月、第一期工事(鉄筋コンクリート造4階建一般病棟)、昭和9(1934)年7月、伝染病棟、結核病棟、昭和10(1935)年8月、病菌研究所、昭和11(1936)年3月、調理室、昭和16(1941)年10月、第四期工事(外来本館)が竣工します。

昭和10(1935)年11月1日、吉浦診療所(昭和15年12月17日、分院に昇格)、昭和13(1938)年7月1日、畑診療所、昭和14(1939)年3月29日、音戸分院、昭和15(1940)年12月7日、四ツ道路診療所が開院します。

昭和17(1942)年11月1日、呉海軍共済組合病院は呉海軍共済病院に改称します。

昭和20(1945)年7月12日、米軍の空襲により宮原、及び四ツ道路診療所が焼失し、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

10月22日、財団法人共済協会に移管され(財)共済協会 呉共済病院に改称、昭和25(1950)年12月12日、特殊法人非現業共済組合連合会 呉共済病院、昭和33(1958)年7月1日、国家公務員共済組合連合会 呉共済病院に改称し現在に至ります。

病院は建て替えられ遺構は病院の経緯を記した「不顧名利」の碑しか遺されていません。

呉海軍共済病院 不顧名利 (2)(広島呉)
▲昭和54(1979)年、呉共済病院創立75周年を記念し建立た「不顧名利」

呉海軍共済病院 不顧名利 (1)(広島呉)
▲裏面には略年表が刻字されています


㊱ 呉海軍共済組合 二河購買所
大正5(1916)年2月、呉市とその周辺の呉海軍工廠職工を組合員として呉職工購買組合が設立され、8月1日、購買所(所長は呉海軍工廠會計部計算課長)を開設し生活必需品の共同購買(市価の8%安)事業を開始します。
大正7(1918)年12月、呉職工購買組合は海軍共済組合に吸収されます。
大正10(1921)年9月1日、吉浦、10月1日、廣両購買所を開設します。
昭和2(1927)年7月18日、海軍共済組合は各地名を冠し、11月、廣購買所を改築、阿賀購買所を開設します。
昭和7(1932)年11月時点での店舗は呉海軍工廠内に第一(本部裏)、第二(造船部東側)、第三(砲熕部第二十一工場南側)、第四酒保(砲熕實驗部内)、敷地外は神原、四ツ道路、東本通、神田、二河、音戸、鍋、吉浦購買所でした。

昭和20(1945)年8月16日、二河購買所は無傷で停戦を迎えますが、その後の経緯は不明です。
現在は駐車場になり遺構は何も遺されていない様です。


㊲ 呉海軍共済組合 呉會館配給所(旧廠友館)
㊳ 呉海軍共済組合 呉會館
大正10(1921)年7月17日、蔵本通6丁目角に共済組合員のクラブ、廠友館が開館します。
利用者は工廠職工制服の着用者、配給物品請求帳簿の所持者、そのほか従業員またはその家族で、設備は日用品配給配給の売店、図書館、娯楽場、理髪店、簡易食堂、屋外運動場がありました。

大正12(1923)年4月1日、海軍共済組合 呉會館に改称、大講堂を着工、10月25日、鉄筋コンクリート造2階建て316坪、収容定員2,000名の大講堂が竣工します。
昭和2(1927)年7月18日、海軍共済組合は各地名を冠し、呉海軍共済組合が発足します。
昭和5(1930)年8月、大講堂は改築され、昭和6(1931)年4月、新装開店、1階に呉海工會事務所に貸与され、同会が経営を行います。
また同時に呉市より貸与された隣接地に会館設備を拡張します。

昭和7(1932)年4月、世界的な不況から物価は市価よりも高騰、大講堂は売店傭人の給料不払も発生するなど経営不振に陥り負債が増加、食堂、売店の経営を民間に委託するも失敗し休業、経営は呉海軍共済組合に返還され、昭和9(1934)年11月、改築ののち呉海軍共済組合 呉會館配給所として再会します。

昭和20(1945)年7月1日夜半から2日未明の空襲において呉會館は焼失、呉會館配給所は無傷で停戦を迎えますが、その後の経緯は不明です。
現在は呉會館跡は呉税務署、呉會館配給所は岩方公園になり遺構は何も遺されていない様です。


㊴ 呉海工會館
大正13(1924)年3月15日、呉海軍工廠工員により官業労働組合 呉海工會が発足します。
11月1日、山陽商事㈱より本通7丁目の山下呉服店跡を賃借し日用品を販売する呉海工會売店を開設します。

昭和15(1940)年、「起源二千六百年記念事業」として堺川通り2丁目に青少年職工の福利厚生施設として呉海工會館の建設を計画、昭和16(1941)年、着工、昭和17(1942)年1月、竣工し、1月18日に落成式を挙行します。
会館は敷地290坪、工員、及びその家族の修養訓練道場、工員及び地方からの工員来訪者の簡易宿泊施設、授産補導部、儀式用貸室、理髪店、簡易食堂、娯楽場、売店を備えていました。

昭和17(1942)年1月31日、呉海工會は解散、2月11日、呉海軍工廠報國團に再編され、会館は呉海軍工廠報國團 海工會館に改称します。

昭和20(1945)年8月16日、海工會館は無傷で停戦を迎えますが、その後の経緯は不明です。
現在はホテルになり遺構は何も遺されていない様です。


㊿ 呉憲兵分隊
明治23(1890)年6月29日、和庄村に廣島憲兵隊第三分隊(古賀要三郎憲兵少尉以下9名)が開設されます。
明治29(1896)年8月、和庄町1793番地(のちの本通8丁目)に移転します。
明治31(1898)年12月1日、呉憲兵分隊に改編されます。
昭和17(1942)年5月27日、憲兵司令官直轄の呉憲兵隊に改編され、昭和18(1943)年1月、公園通3丁目のカトリック教会跡地に移転します。

昭和20(1945)年3月30日、決號作戰(本土決戦)に向け『憲兵令』が改正され、憲兵司令部(東京)の隷下に各軍管區を管掌する憲兵隊司令部が設置、各憲兵隊司令部の管区内に憲兵隊地区が設けられ、各憲兵隊地区毎に地區憲兵隊が設置されます。
この改編に伴い呉憲兵隊は呉地區憲兵隊 呉憲兵隊に改編され、廣島憲兵隊を改編した中國憲兵司令部隷下に編入、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時、管下に廣島分隊、江田島分隊がありました。

停戦に伴い、28日、呉地區憲兵隊 呉憲兵隊は内務省を通じ大蔵省に移管され、中国財務局呉出張所の管理下に置かれます。

昭和25(1950)年6月28日、『旧軍港市転換法』(軍転法)が公布され、昭和29(1954)年2月17日、呉地區憲兵隊は警察庁舎として払い下げられ、現在は広島県呉警察署になっています。


主要参考文献
『呉の歴史』 (平成14年10月 呉市史編纂委員会 呉市役所)

『呉市史 第3、5、6、7、8巻』 (昭和39年~平成5年  呉市史編纂委員会 呉市役所)

『呉湾周辺における旧呉海軍工廠関連施設の調査研究事業』

『国土地理院空撮』 呉鎮守府 艦隊これくしょん 艦これ この世界の片隅に
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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