和庄町葬儀場 (呉海軍墓地)
広島県呉市上長迫町に呉鎭守府管下の和庄町葬儀場があります。
名称は通称の呉海軍墓地で知られます。

▲現在の和庄町葬儀場 全景
【参拝日時】
平成19年11月26日、平成29年10月9日

<名称について>
海軍発刊の『海軍制度沿革』、『呉鎭守府埋葬地弔祭内規』、各公式文章ともに一つの項目、文章内に「海軍埋葬地」、「海軍墓地」、「葬儀場」、「鎭守府埋葬地」が混在して記載されており、陸軍の『陸軍墓地規則』の様な明文化した規定は無い様ですが、『沿革』では全体を指して「海軍埋葬地」、「海軍墓地」、各鎭守府埋葬地の正式名称は「●●葬儀場」の様です。
呉に関しては開設前の公文章では「海軍埋葬地」の表記ですが、『沿革』では「和庄町葬儀場」の項目があり、これが正式名称と思われます。
<和庄町葬儀場(呉海軍墓地) 概要>
明治19(1886)年5月4日、第二海軍區鎭守府を安芸国安芸郡呉港(現、広島県呉市)への設置が決定、10月30日、鎭守府建設が開始され、明治22(1889)年7月1日、呉鎭守府が開庁、明治23(1890)年4月21日、開庁式が挙行されます。
明治23年3月22日、内務省は広島県に対し安芸郡和庄村内に海軍埋葬地用地の準備を示達、25日、広島県は官有地1反3畝7歩を囲い込み、民有地2町12歩を買収し用地を確保、4月5日、呉鎭守府は民有地(合計10,408坪)買収代1,645円を支払い用地を受領、和庄葬儀場(明治25年9月1日、町制施行により「和庄“町”葬儀場」に改称?)を開設します。
和庄町葬儀場は呉鎭守府監督部(明治30年10月8日、呉海軍経理部、大正9年10月1日、呉海軍建築部、昭和18年8月18日、呉海軍施設部)が管理しました。
明治24(1891)年1月28日、民有地508坪を買収、4月4日、官有地33坪を移管され拡張します。
大正5(1916)年2月19日、『呉鎭守府埋葬地弔祭内規』が定められ、祭祀の詳細が規程されます。
大正12(1923)年5月9日、呉鎭守府は新設長迫尋常小学校用地として葬儀場のうち2,446坪を呉市に移管、吉浦(呉海軍工廠火薬試験場隣接地)の呉市有地17,126坪を受領し交換します。
大正13(1924)年8月28日、小学校用地として195坪を呉市に無償貸与します。
明治、大正期の個人墓標は55柱でした。
昭和7(1932)年5月、呉市に133坪を移管、総面積は8,503坪となります。
昭和20(1945)年8月16日、大東亜戦争停戦に伴い28日、和庄町葬儀場は呉海軍施設部から内務省を通じ大蔵省に移管されます。
しかし、管理者不在の葬儀場は近隣住民が農耕地として不法耕作し荒廃してしまいます。
昭和21(1946)年6月5日、大蔵省から呉市に無償譲渡され、市有地200坪と併せ長迫公園として整備を実施、昭和22(1947)年2月6日、呉地方復員局(旧呉鎭守府)と呉市の間に『旧呉海軍墓地移管に関する協定覚書』が交換され、遺族の希望により海陸軍戦没者及び公務殉職者及び功労者の墓地として使用するとともに農耕の禁止が決定されます。
爾後、有志、団体、近隣住民により管理維持されます。
昭和25(1950)年6月28日、『旧軍港市転換法』が成立、昭和31(1956)年7月31日、184坪が長迫小学校に無償譲渡が決定します。
昭和26(1951)年12月9日、海友会はサンフランシスコ講和条約の調印を受け、和庄町葬儀場において戦後初の海軍戦没者合同慰霊祭を斎行します。
昭和46(1971)年、呉海軍墓地保存協力会(昭和63年7月、呉海軍墓地保存会に改称)が発足、管理維持とともに毎年9月23日秋分の日に祭礼を斎行、平成7(1995)年10月、(財)呉海軍墓地顕彰保存会が発足し祭礼を継承、現在に至ります。
※現地説明板と参考資料では経緯が異なりますが、前者は開設当初の規模も公式記録と異なる事から後者を優先しました。
<遺構について>
明治23(1890)年4月5日、最大の海軍埋葬地(10,408坪、のち8,503坪)として5番目に開設されます。
広大な敷地に呉鎭守府籍艦船関連の慰霊碑が多数建立されている事で知られる和庄町葬儀場(呉海軍墓地)ですが、当時の顕彰、慰霊碑、及び海軍は水葬が基本のため個人墓標もかなり少数です。
157基ある個人墓標もコロンバンガラ島沖海戦で散華した二水戦司令官・伊崎俊二少将をはじめ呉地方復員局と呉市の協定により大東亜戦争停戦後の建立も含まれていると思われますが、建立年の記載がなく判別できません。

▲和庄町葬儀場(呉海軍墓地)配置(案内冊子を改編)
-個人墓標-
陸軍の様に階級で埋葬場所が決まっていた訳では無い様で、大まかに上段から将校、下士官、兵・生徒の様です。
門柱

A 中級将校

B 下級将校・同相当官

C 下士官 西側

C 下士官 東側

D 将校相当官

E 下士官・同相当官

F 下士官

G 下士官

H 兵

I 兵

J 兵

K 兵

L 生徒

M 下士官

N 呉海軍建築部裏から出土の墓標
昭和10(1935)年4月23日、和庄町葬儀場に移設、平成10(1998)年8月、現在地に再移設されました。

O 皇太子殿下御降誕記念樹標
昭和8(1933)年12月23日、今上陛下の御降誕を祝した植樹の石標の様ですが、近くに樹がありません。

P 英国水兵ジョージ・ティビンズ二等水兵墓
明治40(1907)年4月13日、戦艦「安芸」進水式に向かっていた英艦「アラクリチー」が広島湾航行中、転落溺死した英国人の墓標です。

-合祀碑-
35 軍艦高砂戰死下士卒墓
明治38(1905)年1月15日、建立されました。
合祀者249柱。

37 軍艦吉野戰死者之碑
昭和13(1938)年5月15日、建立されました。
合祀者303柱。

39 驅逐艦早蕨殉職者之碑
昭和8(1933)年10月16日、建立されました。
合祀者110柱。

41 驅逐艦深雪殉難者之碑
昭和10(1935)年6月2日、建立されました。

49 軍艦矢矧殉職者之碑
大正9(1920)年1月19日、建立されました。
合祀者48柱。

50 第四艦隊遭難殉職者之碑
昭和11(1936)年11月14日、建立されました。
合祀者209柱。

88 上海満洲事變戰歿者之碑
昭和8(1933)年10月23日、建立されました。
合祀者49柱。

【移設】
9 軍艦廣丙遭難哀悼碑
明治29(1896)年5月、亀山神社境内に建立されたものを移設(時期不明)しました。
合祀者37柱。

10 軍艦天龍遭難死者紀念碑
明治31(1898)年7月23日、亀山神社境内に建立されたものを移設(時期不明)しました。
合祀者3柱。

62 軍艦嚴島乗組員之碑
明治28(1895)年9月、眼鏡橋畔(呉鎭守府第一門付近)に建立されたものを昭和37(1962)年4月、呉地方総監部警防隊(現、呉警備隊)入口、昭和56(1981)年、現在地に移設しました。
合祀者13柱。

63 軍艦比叡戰没者之碑
明治28(1895)年9月、眼鏡橋畔(呉鎭守府第一門付近)に建立されたものを昭和37(1962)年4月、呉地方総監部警防隊(現、呉警備隊)入口、昭和56(1981)年、現在地に移設しました。

-戦後建立の碑-
※建立年月日は上掲図参照
1 重巡最上戰没者慰霊碑

2 第八十二号海防艦戦没者慰霊碑

3 戦艦扶桑戦歿者慰霊碑


▲移設されている呉海軍工廠繋船堀の繋船柱
4 第五三一海軍航空隊慰霊碑

5 軍艦伊勢慰霊碑

6 軍艦鈴谷戦没者慰霊碑


▲鈴谷とともに祭祀されている沖波の慰霊桜
7 特務艦間宮戦没者慰霊碑

8 軍艦鹿島有終之碑

11 第三十二特別根拠地隊戦没者慰霊碑

12 第十戰隊旗艦 巡洋艦阿賀野慰霊碑

13 驅逐艦 陽炎之碑

14 ショートランド島戦没者慰霊碑

15 戦艦大和戦死者之碑

16 昭和十五年徴募主計科戦歿者慰霊碑
17 特設駆潜艇 第十八日東丸戦没者慰霊碑

17・2 大東亜戦争戦没者名碑

18 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑

19 第六三四海軍航空隊慰霊碑

20 駆逐艦初風慰霊碑

21 駆逐艦白雲慰霊碑

22 第十六防空隊戰没者慰靈碑

23 駆逐艦浦波慰霊碑

24 軍艦衣笠慰霊碑

25 第百十三號輸送艦慰霊碑

26 駆逐艦磯波戦没者慰霊碑

27 駆逐艦呉竹慰霊碑

28 駆逐艦敷波戦沒者慰霊碑

29 第参号輸送艦戦没者慰霊之碑

30 軍艦信濃戦歿者之墓

31 軍艦雲鷹戰歿者之碑

32 軍艦日向慰霊碑

33 駆逐艦綾波戦歿者之碑

34 第十一掃海隊慰霊碑

36 第十一駆逐隊慰霊碑

38 呉所管海軍 看護長 看護婦 看護手 看護之墓

38・2 駆逐艦 東雲慰霊碑

40 第十五駆逐隊 夏潮 早潮 親潮 黒潮 陽炎 慰霊碑

42 軍艦青葉戦没者慰霊碑

43 呉鎭守府第六特別陸戦隊 歩兵第二二九連隊第七中隊 レンドバ島派遣隊戰没者慰霊碑

44 伊三六三潜殉職者之碑

45 伊二九潜戦没者慰霊碑 不朽

46 駆逐艦椿戦没者慰霊碑

47 軍艦神通戦没者慰霊碑 伊崎俊二中将墓所

48 第三十四號驅潜艇戰歿者慰霊碑

51 駆逐艦島風戦没者之碑

52 伊號第八潜水艦之碑

53 伊号第122潜水艦戦没者慰霊碑

54 第三十三警備隊戰没者慰靈碑

55 呉鎮守府第十七防空隊慰霊碑

56 軍艦加古戦没者慰霊碑

57 駆逐艦浜風戦没者慰霊碑

58 第十七駆逐隊之碑 谷風 浦風 浜風 磯風 雪風 初霜

58・2 航空母艦 飛鷹の碑

59 軍艦鬼怒慰霊碑

60 軍艦古鷹戦没者慰靈碑

61 呉海軍設営隊 顕彰慰霊碑

64 駆逐艦秋風慰霊碑

65 軍艦隼鷹慰霊碑

66 軍艦熊野慰霊碑

67 呂号第百四潜水艦之碑

68 伊号第十一潜水艦之碑

69 善本野戦高射砲中隊戦歿者慰霊碑

70 海防艦稲木戦歿者慰霊碑

71 工作艦明石慰霊碑

72 第三十一潜水艦基地隊戦没者慰霊碑

73 駆逐艦天津風之碑

74 駆逐艦叢雲慰霊碑

75 ソロモン方面第十二防空隊慰靈碑

76 工作艦朝日 山彦丸 山霜丸 合同慰霊碑

77 第一〇三海軍工作部戦没者之碑

78 軍艦初鷹慰靈碑

79 軍艦三隈戦歿者慰霊碑

80 軍艦球磨慰霊碑

81 大東亜戦争戰歿者之碑

82 潜水母艦長鯨戰歿者慰靈碑

83 呉六特バラレ島戦没者慰霊碑

84 驅逐艦桑戰没者之碑

85 第六三四海軍航空隊 第九三四海軍航空隊慰霊碑

86 軍艦大井戦没者慰霊碑

87 大東亜戦争海軍戦歿者柔道部員之碑

昨今はとあるゲームの一部非常識なファンにより各地の艦船顕彰碑・慰霊碑が穢されている様な話を聞いているので懸念していましたが、和庄町葬儀場はその様な事も無く厳粛な雰囲気の中、英霊に感謝の誠を捧げる事ができました。
<主要参考文献>
『海軍制度沿革 巻7』 (昭和15年6月 海軍大臣官房)
『呉市史 第8巻』 (平成5年 呉市史編纂委員会 呉市役所) 呉鎮守府 艦隊これくしょん 艦これ この世界の片隅に
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名称は通称の呉海軍墓地で知られます。

▲現在の和庄町葬儀場 全景
【参拝日時】
平成19年11月26日、平成29年10月9日


<名称について>
海軍発刊の『海軍制度沿革』、『呉鎭守府埋葬地弔祭内規』、各公式文章ともに一つの項目、文章内に「海軍埋葬地」、「海軍墓地」、「葬儀場」、「鎭守府埋葬地」が混在して記載されており、陸軍の『陸軍墓地規則』の様な明文化した規定は無い様ですが、『沿革』では全体を指して「海軍埋葬地」、「海軍墓地」、各鎭守府埋葬地の正式名称は「●●葬儀場」の様です。
呉に関しては開設前の公文章では「海軍埋葬地」の表記ですが、『沿革』では「和庄町葬儀場」の項目があり、これが正式名称と思われます。
<和庄町葬儀場(呉海軍墓地) 概要>
明治19(1886)年5月4日、第二海軍區鎭守府を安芸国安芸郡呉港(現、広島県呉市)への設置が決定、10月30日、鎭守府建設が開始され、明治22(1889)年7月1日、呉鎭守府が開庁、明治23(1890)年4月21日、開庁式が挙行されます。
明治23年3月22日、内務省は広島県に対し安芸郡和庄村内に海軍埋葬地用地の準備を示達、25日、広島県は官有地1反3畝7歩を囲い込み、民有地2町12歩を買収し用地を確保、4月5日、呉鎭守府は民有地(合計10,408坪)買収代1,645円を支払い用地を受領、和庄葬儀場(明治25年9月1日、町制施行により「和庄“町”葬儀場」に改称?)を開設します。
和庄町葬儀場は呉鎭守府監督部(明治30年10月8日、呉海軍経理部、大正9年10月1日、呉海軍建築部、昭和18年8月18日、呉海軍施設部)が管理しました。
明治24(1891)年1月28日、民有地508坪を買収、4月4日、官有地33坪を移管され拡張します。
大正5(1916)年2月19日、『呉鎭守府埋葬地弔祭内規』が定められ、祭祀の詳細が規程されます。
大正12(1923)年5月9日、呉鎭守府は新設長迫尋常小学校用地として葬儀場のうち2,446坪を呉市に移管、吉浦(呉海軍工廠火薬試験場隣接地)の呉市有地17,126坪を受領し交換します。
大正13(1924)年8月28日、小学校用地として195坪を呉市に無償貸与します。
明治、大正期の個人墓標は55柱でした。
昭和7(1932)年5月、呉市に133坪を移管、総面積は8,503坪となります。
昭和20(1945)年8月16日、大東亜戦争停戦に伴い28日、和庄町葬儀場は呉海軍施設部から内務省を通じ大蔵省に移管されます。
しかし、管理者不在の葬儀場は近隣住民が農耕地として不法耕作し荒廃してしまいます。
昭和21(1946)年6月5日、大蔵省から呉市に無償譲渡され、市有地200坪と併せ長迫公園として整備を実施、昭和22(1947)年2月6日、呉地方復員局(旧呉鎭守府)と呉市の間に『旧呉海軍墓地移管に関する協定覚書』が交換され、遺族の希望により海陸軍戦没者及び公務殉職者及び功労者の墓地として使用するとともに農耕の禁止が決定されます。
爾後、有志、団体、近隣住民により管理維持されます。
昭和25(1950)年6月28日、『旧軍港市転換法』が成立、昭和31(1956)年7月31日、184坪が長迫小学校に無償譲渡が決定します。
昭和26(1951)年12月9日、海友会はサンフランシスコ講和条約の調印を受け、和庄町葬儀場において戦後初の海軍戦没者合同慰霊祭を斎行します。
昭和46(1971)年、呉海軍墓地保存協力会(昭和63年7月、呉海軍墓地保存会に改称)が発足、管理維持とともに毎年9月23日秋分の日に祭礼を斎行、平成7(1995)年10月、(財)呉海軍墓地顕彰保存会が発足し祭礼を継承、現在に至ります。
※現地説明板と参考資料では経緯が異なりますが、前者は開設当初の規模も公式記録と異なる事から後者を優先しました。
<遺構について>
明治23(1890)年4月5日、最大の海軍埋葬地(10,408坪、のち8,503坪)として5番目に開設されます。
広大な敷地に呉鎭守府籍艦船関連の慰霊碑が多数建立されている事で知られる和庄町葬儀場(呉海軍墓地)ですが、当時の顕彰、慰霊碑、及び海軍は水葬が基本のため個人墓標もかなり少数です。
157基ある個人墓標もコロンバンガラ島沖海戦で散華した二水戦司令官・伊崎俊二少将をはじめ呉地方復員局と呉市の協定により大東亜戦争停戦後の建立も含まれていると思われますが、建立年の記載がなく判別できません。

▲和庄町葬儀場(呉海軍墓地)配置(案内冊子を改編)
-個人墓標-
陸軍の様に階級で埋葬場所が決まっていた訳では無い様で、大まかに上段から将校、下士官、兵・生徒の様です。
門柱

A 中級将校

B 下級将校・同相当官

C 下士官 西側

C 下士官 東側

D 将校相当官

E 下士官・同相当官

F 下士官

G 下士官

H 兵

I 兵

J 兵

K 兵

L 生徒

M 下士官

N 呉海軍建築部裏から出土の墓標
昭和10(1935)年4月23日、和庄町葬儀場に移設、平成10(1998)年8月、現在地に再移設されました。

O 皇太子殿下御降誕記念樹標
昭和8(1933)年12月23日、今上陛下の御降誕を祝した植樹の石標の様ですが、近くに樹がありません。

P 英国水兵ジョージ・ティビンズ二等水兵墓
明治40(1907)年4月13日、戦艦「安芸」進水式に向かっていた英艦「アラクリチー」が広島湾航行中、転落溺死した英国人の墓標です。

-合祀碑-
35 軍艦高砂戰死下士卒墓
明治38(1905)年1月15日、建立されました。
合祀者249柱。

37 軍艦吉野戰死者之碑
昭和13(1938)年5月15日、建立されました。
合祀者303柱。

39 驅逐艦早蕨殉職者之碑
昭和8(1933)年10月16日、建立されました。
合祀者110柱。

41 驅逐艦深雪殉難者之碑
昭和10(1935)年6月2日、建立されました。

49 軍艦矢矧殉職者之碑
大正9(1920)年1月19日、建立されました。
合祀者48柱。

50 第四艦隊遭難殉職者之碑
昭和11(1936)年11月14日、建立されました。
合祀者209柱。

88 上海満洲事變戰歿者之碑
昭和8(1933)年10月23日、建立されました。
合祀者49柱。

【移設】
9 軍艦廣丙遭難哀悼碑
明治29(1896)年5月、亀山神社境内に建立されたものを移設(時期不明)しました。
合祀者37柱。

10 軍艦天龍遭難死者紀念碑
明治31(1898)年7月23日、亀山神社境内に建立されたものを移設(時期不明)しました。
合祀者3柱。

62 軍艦嚴島乗組員之碑
明治28(1895)年9月、眼鏡橋畔(呉鎭守府第一門付近)に建立されたものを昭和37(1962)年4月、呉地方総監部警防隊(現、呉警備隊)入口、昭和56(1981)年、現在地に移設しました。
合祀者13柱。

63 軍艦比叡戰没者之碑
明治28(1895)年9月、眼鏡橋畔(呉鎭守府第一門付近)に建立されたものを昭和37(1962)年4月、呉地方総監部警防隊(現、呉警備隊)入口、昭和56(1981)年、現在地に移設しました。

-戦後建立の碑-
※建立年月日は上掲図参照
1 重巡最上戰没者慰霊碑

2 第八十二号海防艦戦没者慰霊碑

3 戦艦扶桑戦歿者慰霊碑


▲移設されている呉海軍工廠繋船堀の繋船柱
4 第五三一海軍航空隊慰霊碑

5 軍艦伊勢慰霊碑

6 軍艦鈴谷戦没者慰霊碑


▲鈴谷とともに祭祀されている沖波の慰霊桜
7 特務艦間宮戦没者慰霊碑

8 軍艦鹿島有終之碑

11 第三十二特別根拠地隊戦没者慰霊碑

12 第十戰隊旗艦 巡洋艦阿賀野慰霊碑

13 驅逐艦 陽炎之碑

14 ショートランド島戦没者慰霊碑

15 戦艦大和戦死者之碑

16 昭和十五年徴募主計科戦歿者慰霊碑
17 特設駆潜艇 第十八日東丸戦没者慰霊碑

17・2 大東亜戦争戦没者名碑

18 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑

19 第六三四海軍航空隊慰霊碑

20 駆逐艦初風慰霊碑

21 駆逐艦白雲慰霊碑

22 第十六防空隊戰没者慰靈碑

23 駆逐艦浦波慰霊碑

24 軍艦衣笠慰霊碑

25 第百十三號輸送艦慰霊碑

26 駆逐艦磯波戦没者慰霊碑

27 駆逐艦呉竹慰霊碑

28 駆逐艦敷波戦沒者慰霊碑

29 第参号輸送艦戦没者慰霊之碑

30 軍艦信濃戦歿者之墓

31 軍艦雲鷹戰歿者之碑

32 軍艦日向慰霊碑

33 駆逐艦綾波戦歿者之碑

34 第十一掃海隊慰霊碑

36 第十一駆逐隊慰霊碑

38 呉所管海軍 看護長 看護婦 看護手 看護之墓

38・2 駆逐艦 東雲慰霊碑

40 第十五駆逐隊 夏潮 早潮 親潮 黒潮 陽炎 慰霊碑

42 軍艦青葉戦没者慰霊碑

43 呉鎭守府第六特別陸戦隊 歩兵第二二九連隊第七中隊 レンドバ島派遣隊戰没者慰霊碑

44 伊三六三潜殉職者之碑

45 伊二九潜戦没者慰霊碑 不朽

46 駆逐艦椿戦没者慰霊碑

47 軍艦神通戦没者慰霊碑 伊崎俊二中将墓所

48 第三十四號驅潜艇戰歿者慰霊碑

51 駆逐艦島風戦没者之碑

52 伊號第八潜水艦之碑

53 伊号第122潜水艦戦没者慰霊碑

54 第三十三警備隊戰没者慰靈碑

55 呉鎮守府第十七防空隊慰霊碑

56 軍艦加古戦没者慰霊碑

57 駆逐艦浜風戦没者慰霊碑

58 第十七駆逐隊之碑 谷風 浦風 浜風 磯風 雪風 初霜

58・2 航空母艦 飛鷹の碑

59 軍艦鬼怒慰霊碑

60 軍艦古鷹戦没者慰靈碑

61 呉海軍設営隊 顕彰慰霊碑

64 駆逐艦秋風慰霊碑

65 軍艦隼鷹慰霊碑

66 軍艦熊野慰霊碑

67 呂号第百四潜水艦之碑

68 伊号第十一潜水艦之碑

69 善本野戦高射砲中隊戦歿者慰霊碑

70 海防艦稲木戦歿者慰霊碑

71 工作艦明石慰霊碑

72 第三十一潜水艦基地隊戦没者慰霊碑

73 駆逐艦天津風之碑

74 駆逐艦叢雲慰霊碑

75 ソロモン方面第十二防空隊慰靈碑

76 工作艦朝日 山彦丸 山霜丸 合同慰霊碑

77 第一〇三海軍工作部戦没者之碑

78 軍艦初鷹慰靈碑

79 軍艦三隈戦歿者慰霊碑

80 軍艦球磨慰霊碑

81 大東亜戦争戰歿者之碑

82 潜水母艦長鯨戰歿者慰靈碑

83 呉六特バラレ島戦没者慰霊碑

84 驅逐艦桑戰没者之碑

85 第六三四海軍航空隊 第九三四海軍航空隊慰霊碑

86 軍艦大井戦没者慰霊碑

87 大東亜戦争海軍戦歿者柔道部員之碑

昨今はとあるゲームの一部非常識なファンにより各地の艦船顕彰碑・慰霊碑が穢されている様な話を聞いているので懸念していましたが、和庄町葬儀場はその様な事も無く厳粛な雰囲気の中、英霊に感謝の誠を捧げる事ができました。
<主要参考文献>
『海軍制度沿革 巻7』 (昭和15年6月 海軍大臣官房)
『呉市史 第8巻』 (平成5年 呉市史編纂委員会 呉市役所) 呉鎮守府 艦隊これくしょん 艦これ この世界の片隅に
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