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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

廣海軍工廠 ・ 第十一海軍航空廠

呉市中央部に位置する呉市広に廣海軍工廠、及び第十一海軍航空廠がありました。
廣海軍工廠は当初、呉海軍工廠 廣支廠として発足、廣海軍工廠として独立、第十一海軍航空廠が併設され、最終的に第十一海軍航空廠に併合されます。
廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 オ 北東から(広島呉広)
▲現在も稼働する第十一海軍航空廠の機械及器具場(手前)・機械場(奥)

【探索日時】
平成29年4月6日、7日、7月30日





廣海軍工廠 ・ 第十一海軍航空廠 概要
大正6(1917)年7月14日、『八八艦隊計畫』に繋がる『八四艦隊計畫』の予算が可決され、海軍省は大規模な艦船建造計画に対応すべく、艦船用諸機関を専門に研究・製造する海軍造機廠設立を立案します。

大正7(1918)年、海軍造機廠設立準備委員會が発足、造機廠用地として海軍最大の建艦能力を持つ呉海軍工廠の能力を利用でき、埋め立てによる用地確保が容易な事から広島県賀茂郡廣村津久茂(現、呉市広)を選定します。
7月2日、委員会は「造機廠建築物配置計畫」を完成させますが、海軍省は新設工廠に発展著しい航空機製造部門の併設を決定、造機廠新設を中止し呉海軍工廠 廣支廠の新設に計画を変更します。

大正8(1919)年7月19日、おおよその用地買収が完了し建設工事を起工、大正10(1921)年1月15日、呉海軍工廠 廣支廠が開廠します。
廣海軍工廠第十一海軍航空廠 廣海軍工廠(広島呉広)
▲呉海軍工廠 廣支廠
  門柱は後年造り替えられたようです

大正12(1923)年3月24日、航空機生産体制の拡充を計るべく廣支廠は廣海軍工廠として独立、海軍最大の航空機試作工廠に位置付けられ、主に飛行艇、及び発動機の開発、製造を行います。

昭和16(1941)10月1日、廣海軍工廠 航空機部を改編し第十一海軍航空廠が併設されます。

昭和20(1945)年3月19日、5月5日、7月2日、米軍による空襲により甚大な被害を受け、6月1日、急迫する戦局に航空機増産を最優先とすべく廣海軍工廠は第十一海軍航空廠に吸収合併され閉廠、疎開工場、地下工場で生産を続行するなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

8月28日、第十一海軍航空廠の全施設は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達、9月26日、米第6軍第10軍団先遣隊が呉海軍水上機基地に到着、広に進駐し第十一海軍航空廠、及び付帯施設の大半を接収します(10月7日、米第41歩兵師団が進駐し本格的に占領開始、昭和21年3月7日、英連邦軍に交代)。

10月31日、第十一海軍航空廠は閉廠します。

第十一海軍航空廠の生産設備は川南工業㈱(のち広造機㈱)、東洋パルプ㈱、中国工業㈱、広重工業㈱(のち寿工業㈱)等が進出、昭和31(1956)年11月22日、英連邦軍の撤退に伴い一部を除き、『旧軍港市転換法』(昭和25年6月28日、公布)に基づき払い下げられ、現在に至ります。
詳細は後述します。

廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 十一空廠 現在(広島呉広)
▲廣海軍工廠 ・ 第十一海軍航空廠周辺の海軍施設
① 廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 Ⅰ 第一區 ・ Ⅱ 第二區 ・ Ⅲ 第三區
② 長濱假倉庫(利材工場)・長濱解體作業場(製材場)
③ 第十一海軍航空廠 紫工場
④ 西大川倉庫

⑤ 官舎(旧廣海軍工廠官舎)
⑥ 宿舎(旧十一空廠官舎)
⑦ 第十一海軍航空廠 工員養成所 ・ 彌生工員寄宿舎
⑧ 廣海軍工廠 工員養成所
⑨ 白岳工員寄宿舎
⑩ 東谷 〃
⑪ 南山 〃
⑫ 長濱 〃(海濱寮)
⑬ 中新開 〃
⑭ 安永 〃
⑮ 横路 〃
⑯ 福浦工員宿舎
⑰ 東谷寄宿舎(増設)
⑱ 兩谷工員宿舎
⑲ 大廣工員住宅
⑳ 中新開 〃
㉑ 廣海軍共済病院 旧
㉒ 廣海軍共済病院 新
㉓ 呉海軍施設部 兩谷宿舎
㉔ 呉海軍設營隊 ・ 同訓練所
㉕ 呉海軍施設部 彌生倉庫 ・ 十一空廠 彌生材料假置場
㉖ 呉海軍軍需部 廣燃料置場
㉗  〃 廣軍需品置場
㉘ 呉海軍工廠 廣艦材圍場
㉙ 呉海軍水上機基地
㉚ 廣憲兵分隊
施設は昭和20(1945)年頃
※緑文字が当記事で紹介の施設


遺構について
① 廣海軍工廠 ・ 第十一海軍航空廠
廣海軍工廠、第十一海軍航空廠の跡地は現在、分割され民間企業になり、巷間では建物は皆無として門柱と地下壕のみが紹介される事が多い様ですが、当時の工場建屋も複数遺ります。
今回は地上物件を紹介します。
見学については全ての企業が見学不可のため、外周からになります(特に第二區のある企業は非常に横柄で不愉快でした)。
廣海軍工廠 第十一海軍航空廠(広島呉広)
▲遺構の配置

第一區
県道279号線の西側、廣海軍工廠、第十一海軍航空廠の中核、本部、航空機部、造機部などがありました。
現在は王子マテリア㈱呉工場、在日米陸軍広弾薬庫になっています。
1 正門
王子マテリア㈱呉工場内に遺りますが、塀の内側にあるうえ見学不可のため非常に見難いです。
見学不可ならせめて塀を屈曲させ見学自由にして欲しいものです。
廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 1 正門 (1)(広島呉広)
▲正攻法で見た正門門柱

廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 1 正門 (2)(広島呉広)
▲フェンスに登って撮影
 正面のみ化粧石が貼られ、裏はコンクリートのままです

廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 1 正門 (4)(広島呉広)
▲正門門柱の近影
 正四角柱では無く、厚さはありません

廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 1 正門 (3)(広島呉広)
▲袖門門柱の近影
  裏には機銃掃射の跡が・・・?


ア 造機第二機械場
周りに建物が建て込んでおり螺山中腹からしか見えません。
廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 ア 造機第二機械場 西から(広島呉広)
▲横長のノコギリ屋根が造機第二機械場


イ 組立場
ア造機第二機械場の左奥にありますが、上記写真の様に運悪く蒸気が放出され見えません・・・。
と言う事で先に探索された偉大な先輩にお借りしました。
廣海軍工廠 第十一海軍航空廠 イ 組立場 西から(K氏提供)(広島呉広)
▲写真中央の黒いノコギリ屋根がイ組立場


ウ 物品納入場
生垣の穴から撮影しました。
廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 ウ 物品納入場 北西から(広島呉広)
▲2連屋根が物品納入場、手前の電柱も当時の物?

廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 ウ 物品納入場 基礎(広島呉広)
▲煉瓦積みの基礎


エ 第三材料倉庫
道路沿いに遺るので最も見学しやすいです。
廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 エ 北西から(広島呉広)
▲北西から

廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 エ 北東から(広島呉広)
▲北東から

廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 エ 煉瓦基礎(広島呉広)
▲煉瓦積みの基礎


2 門柱
道路際に片方だけ遺り、雰囲気からして遺構と思うのですが詳細不明です。
廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 2 門柱(広島呉広)
▲非常に凝った意匠です


3 側線橋台
昭和11(1936)年12月に竣工します。
戦後、線路は撤去され、現在は側線の半分の幅の道路橋になっています。
廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 3 側線橋台 東から(広島呉広)
▲東側から

廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 3 側線橋台 北から(広島呉広)
▲上から見るとよく見えます


以下は米軍施設内に遺りますが、海側からしか見えません。
サ 第八材料倉庫
石造の様です。
廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 サ 第八材料倉庫 北西から(広島呉広)


シ 飛行機格納庫
非常に変わった形をしています。
廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 シ 飛行機格納庫 北西から (2)(広島呉広)

廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 シ 飛行機格納庫 北西から(広島呉広)
▲反対側


ス 飛行艇倉庫
廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 ス 飛行艇倉庫 北西から (2)(広島呉広)

廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 ス 飛行艇倉庫 北西から(広島呉広)
▲反対側


セ 航空揮発油槽庫
正面の壁は無く、屋根と柱だけの構造ですが、元々この形状だったか不明です。
廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 セ 航空揮発油槽庫 北西から(広島呉広)


6 滑走台
廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 6 滑走台 北西から(広島呉広)


7 桟橋
この岸壁は厳密には廣海軍工廠、及び第十一海軍航空廠の物では無く、第一區南端にあった呉海軍軍需部 廣重油荷役場の遺構です。
対岸から撮ったはずですが・・・写真が無い(゜Д゜;)


ソ 繋船岸壁
同じく呉海軍軍需部 廣重油荷役場の遺構です。
廣海軍工廠 第十一海軍航空廠ソ 係船岸壁 北西から(広島呉広)
▲分かり難いですが黒色の防舷材が付いている場所が岸壁

廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 7 繋船岸壁(小林氏提供)(広島呉広)
▲南側の部分のみ山頂から見えます


第二區
同じく県道279号線の西側、第一區の北側、各種実験場がありました。
現在は新日本造機㈱呉製作所になっています。
ク ・ ケ 實験場
廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 ケ(左)・ク(右) 実験場 南西から(広島呉広)
▲左側の切妻屋根がク、右側のノコギリ屋根がケ

廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 ケ(右)・ク(左) 実験場 北東から(広島呉広)
▲反対側から右側がケ、左側がク


コ 機關實驗部 第一實驗場
廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 コ 機關實驗部第一実験場 北東から(広島呉広)
▲緑建屋の後ろにあるのがコ機關實驗部 第一實驗場

廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 コ 機關實驗部第一実験場 基礎(広島呉広)
▲白く塗られ分かり難いですが煉瓦積みの基礎です


4 コンクリート塀
廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 4 コンクリート塀 北側(広島呉広)
▲北側

廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 4 コンクリート塀(広島呉広)
▲東側


5 コンクリート構造物
詳細不明ですが、昭和20年4月の空撮にも写っています。
工業用水の取水施設の様です。
廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 5 コンクリート構造物 南西から(広島呉広)
▲上の小屋も当時の建屋で喞筒室と思われます。

廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 5対岸のコンクリート構造物(広島呉広)
▲対岸にある何か(クレーン?)の基礎


第三區
JR呉線「広駅」の南側、廣海軍工廠、第十一海軍航空廠にのみ設置された鑄物實驗部、發動機部の補機工場などがありました。
現在は㈱広島メタル&マシナリー、中国工業㈱、富田肥料㈱などになっています。
オ 補機工場 ・ 機械及器具場 ・ 機械場
コ型の巨大な建屋で、発動機の部品を造っていました。
廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 オ 北東から(広島呉広)
▲北東から見た機械及器具場(手前) ・ 機械場(奥)

廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 オ 基礎(広島呉広)
▲2棟とも基礎は煉瓦積み

廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 オ 北西から (2)(広島呉広)
▲北西から見た全景

廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 オ 北西から(広島呉広)
▲機械場

廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 オ 機械及器具場 南から(広島呉広)
▲機械及器具場

廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 オ 補機工場 南から(広島呉広)
▲補機工場


カ 材料倉庫
近年、耐震工事と外壁改修がされてしまいました。
廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 カ 材料倉庫 北西から(広島呉広)


キ 利財工場並倉庫
外周が増築されどの位置からも見えません。
中国工業㈱の話では「当時の建屋では無いと思う」との事ですが、位置、形状から当たりと思います。


殉職者之碑
呉市総合体育館(オークアリーナ)西側に建立されています。
廣海軍工廠の殉職者慰霊碑で、元々は津久茂地区にあった様ですが、工廠拡張に伴い現在地に移転されたそうです。
裏面に由来を記していたと思われる銘板の跡がありますが、剥がされており詳細は不明です。
殉職者之碑(広島呉広)


移設格納庫
第十一海軍航空廠の水上機格納庫と言われる建物が呉市築地町に移設されています。
元々どこにあった物か不明で、常識的に考えて広では無く、呉に2ヶ所あった空廠施設の可能性が高いです。
昭和32(1957)年、広島電鉄㈱のバス車庫として移設、その後、西側は破壊されてしまいますが、ダイクレ㈱の所有だった東側が遺ります。
呉海軍軍需部 第二・三區 9 水上機格納庫(廣から移設) 南西から(広島呉)
▲正面側

呉海軍軍需部 第二・三區 9 水上機格納庫(廣から移設) 西から(広島呉)
▲側面は切断されています

呉海軍軍需部 第二・三區 9 水上機格納庫(廣から移設) 南から(広島呉)
▲反対側から

呉海軍軍需部 第二・三區 9 水上機格納庫(廣から移設) 南東から(広島呉)
▲側面から見ると大きさが分かります


② 長濱假倉庫(利材工場) ・ 長濱解體作業場(製材場)
昭和26(1951)年9月5日、『旧軍港市転換法』に基づき長浜小学校、長浜中学校として呉市に無償譲渡されます。
遺構は何も遺されていない様です。


③ 第十一海軍航空廠 紫工場
昭和26(1951)年9月5日、『旧軍港市転換法』に基づき広中央中学校として呉市に無償譲渡されます。
遺構は何も遺されていない様です。


④ 西大川倉庫
昭和31(1956)年10月16日、職業共同斡旋作業場として呉市に払い下げられた?様で、現在は住宅地として再開発され、遺構は何も遺されていない様です。


廣海軍工廠 ・ 第十一海軍航空廠 略歴
明治40(1907)年4月4日、元帥府會議において『帝國國防方針』が決議され、所謂「八八艦隊計画」構想が提起されます。

大正6(1917)年7月14日、第三十九回帝國議會(6月23日~)においてまず『八四艦隊計畫』の予算が可決され、海軍省は大規模な艦船建造計画に対応すべく、艦船用諸機関を専門に研究・製造する海軍造機廠設立を立案します。

大正7(1918)年、海軍造機廠設立準備委員會が発足、造機廠用地として海軍最大の建艦能力を持つ呉海軍工廠の能力を利用でき、埋め立てによる用地確保が容易、水力発電の利便があり、従業員獲得に便がある広島県賀茂郡廣村津久茂を選定します。

5月8日、呉鎭守府は廣村に呉海軍経理部建築科廣出張所を開設、岩西建造・廣村長の協力のもと用地買収、漁業権保証交渉を開始します。

7月2日、委員会は「造機廠建築物配置計畫」を完成させますが、海軍省は新設工廠に発展著しい航空機製造部門の併設を決定、造機廠新設を中止し呉海軍工廠 廣支廠の新設に計画を変更、委員會は呉海軍工廠 廣支廠設立準備委員會に改組します。
11月、廣支廠の職工1,000名を募集、呉海軍工廠で養成を開始するとともに一部は航空機先進国のフランスに留学し技術習得にあたります。

大正8(1919)年7月19日、おおよその用地買収が完了(用地203,600坪、買収額458,000円、漁業権保証額7,000円)、116戸が立退き、廣支廠を起工します。

大正9(1920)年7月19日、勅令第二百十六號『海軍工廠条例』が改正され、8月1日、廣支廠の設置が規程され、大正10(1921)年1月15日、未完成ながら呉海軍工廠 廣支廠が開廠、航空機部、造機部、機關研究部、會計部が設置されます。
3月30日、呉鎭守府司令長官・村上格一中将以下幕僚、若林来蔵・広島県知事、天野健太郎・呉市長、澤原精一・市会議長、岡林豐之助・廣村長ら臨席のもと開廠式を挙行、村民挙げての祝賀行事が開催されます。
開廠時の状況は70,000坪は埋め立て中、鋳物工場が竣工、飛行機工場が半分、造機工場が一部、官舎6棟(40棟予定)が完成したのみでした。

大正11(1922)年2月6日、『ワシントン海軍軍縮条約』が締結され我が国の艦船建造は制限を受けたため艦船建造は縮小、大正12(1923)年3月24日、勅令第五十一號『海軍工廠令』により舞鶴海軍工廠が工作部に格下げになるなか、海軍省は条約対象外の航空機生産体制の拡充を計るべく廣支廠は廣海軍工廠(以下「廣廠」)として独立、總務部、會計部、醫務部、航空機部、造機部、機關研究部が設置されます。
航空兵器及びその属具の造修を管掌する航空機部、機関及びその属具、航空機用材料の研究を管掌する機關研究部は廣廠のみに設置され、廣廠は海軍最大の航空機試作工廠に位置付けられます。

大正11年から昭和3年にかけローレン400馬力発動機を90基製造します。

大正12年1月16日、廣廠製のアプロ陸上練習機一号機が完成、量産に入ります。
7月26日、F五號飛行艇を起工、12月、試験飛行の後、10機を製造します(大正13年8月、ローレン400馬力搭載のF一號、同450馬力搭載のF二號を試作)。

大正12年から昭和5年にかけベンツ130馬力発動機を60基製造します。

大正14(1925)年、横須賀海軍工廠(横廠)製の実験機R一號、三菱重工業㈱製の試作機R二號に継ぎ、昭和2(1927)年、廣廠はR三號飛行艇を試作しますが重量の増大、外鈑の歪み、凌波性の不足などから不採用になります。

大正15(1926)年、海軍一五式飛行艇の試作に着手、昭和2(1927)年、試作機が完成、昭和4(1929)年2月、制式採用され、昭和2年から7年まで廣廠、横廠合わせて20機を製造します。

大正15年から昭和9年にかけローレン450馬力発動機を220基、大正15年から昭和8年にかけ一四式600馬力発動機を25基製造します。

昭和3(1928)年から昭和10年にかけ九四式900馬力発動機を33基製造します。

昭和4(1929)年4月6日、横廠に航空機及びその属具、材料の実験研究を管掌する航空機實驗部が、昭和5(1930)年11月27日、横廠に航空發動機實驗部が設置されますが、昭和7(1932)年4月1日、両部は廃止され、横須賀鎭守府管下に航空兵器の設計、実験、材料及びその属具の研究、調査、審査を管掌する海軍航空廠が発足し、廣廠 機關研究部は海軍航空廠の附属機関となります。
海軍航空廠発足後も廣廠は生産、修理面では海軍最大の能力を有しました。

昭和4年、海軍八九式飛行艇の試作に着手、昭和6(1931)年1月、試作一号機が完成、27日、試験飛行の後、制式採用され、廣廠、川西航空機㈱で合計17機(廣廠12機※)を製造します。

昭和5(1930)年春、海軍九〇式飛行艇の試作に着手、秋頃、試作機が完成、昭和7(1932)年3月1日、試験飛行が行われますが方向安定性の不足、操舵力に難点があり不採用になります。

昭和5年、三式一號艦上戦闘機(中島製)を80機製造します。※

昭和5年から昭和8年にかけ九一式500馬力発動機38基を製造します。

昭和6(1931)年、九一式飛行艇の設計に着手、昭和7(1932)年、試作一号機(水冷)、次いで二号機(空冷)が完成、制式採用され、30機製造します。

昭和7(1932)年、廣廠に海軍航空本部技術部長・山本五十六少将の発案により搭載爆弾2t、航続距離3,700kmの陸上攻撃機試作が示達、昭和8(1933)年3月、試作一号機が完成、横須賀海軍航空基地において試験飛行の後、九五式陸上攻撃機として制式採用され、廣廠で8機を製造します。

昭和7年、八九式艦上攻撃機(三菱重工業㈱製)を12機製造※、一三式艦上攻撃機(三菱製)の製造を開始します(40機)(7年35機、8年32機※)。

昭和8(1933)年、九三式中間練習機(海軍航空廠製)の製造を開始します(昭和13年までに238機)。※

昭和8年から昭和10年にかけ九一式600馬力発動機50基、東京瓦斯「天風」300馬力発動機5基を製造します。

昭和9(1934)年、一四式水上偵察機(横廠)の製造を開始します(9年30機、10年30機)。※

昭和10(1935)年4月5日、廣廠 機關研究部は廃止され、横廠 機關實驗部が発足しますが、昭和14(1939)年8月1日、廣廠に蒸気機関(罐を除く)及びその材料の実験を管掌する機關實驗部が発足します。

昭和11(1936)年6月、広駅から廣廠構内への側線(引込線)敷設を起工、12月、竣工します。

昭和11年、九二式艦上攻撃機(愛知製)の後期型32機※を製造します。

昭和11年から昭和14年にかけ中島「光」一、二、三型発動機を月産20~30基、製造します。

昭和11年7月1日、廣廠 造機部に一般工作用機械の製造が追加され、昭和14年8月1日、最新鋭の測定器具を備えていた廣廠に工作機械實驗部が発足し、兵器生産に欠かせない精密工作機械の研究を開始します。

昭和12(1937)年、海軍省は廣廠に鑄物實驗部を開設すべく広駅南側の埋め立てを開始、昭和15年3月、鑄物實驗部設立準備委員が発足、昭和17(1942)年4月1日、廣廠 鑄物實驗部が発足、鋳物鋳造におけるブローホールを無くす実験研究を開始します。

昭和12年、九四式艦上爆撃機(愛知時計電氣㈱製)を30機製造します。※

昭和13(1938)年、九六式陸上攻撃機(三菱製)、九六式艦上攻撃機(空廠)を製造します(機数不明)、(どちらか不明28機※)。

昭和14(1939)年、九七式二號艦上攻撃機(三菱製)を50機※製造します。

昭和15(1940)年2月、九九式飛行艇(航空技術廠製)を10機※製造します。

12月、『國民徴用令』(昭和十四年七月八日勅令第四百五十一號)に基き近畿、中国、四国地方からの応徴士が生産に加わります(入廠後、1ヶ月の特別教育を受講)。

12月、零式水上偵察機一一型(愛知製)の製造を開始(15年18機、16年30機※)、零式観測機を製造します(機数不明)。

昭和15年から昭和16年にかけ三菱「金星」四三型発動機を371基、製造します。

昭和16(1941)年1月10日、対米関係が悪化するなか、陸海軍両省は航空戦力の強化を図るべく軍政のみでは無く、軍令を加味した強調を実現するため陸海軍航空委員會を設置、5月、海軍省は航空兵器製造施設建設委員會を設置し航空兵器造修体制を強化します。

9月24日、勅令第八百七十五號『海軍航空廠令』が公布され、26日、内令第千百二十一號により第一(茨城)、第二(千葉)、第十一(呉)、第二十一(大村)、第六十一(台湾)海軍航空廠の開設場所が示達、10月1日、廣廠 航空機部を改編し廣廠に第十一海軍航空廠が併設(呉鎭守府所属)、總務部、會計部、醫務部、器材部、飛行機部、發動機部、兵器部が発足、舞鶴支廠(舞鶴鎭守府所属)を設置します。

昭和17(1942)年4月1日、大分支廠を設置、舞鶴支廠は第三十一海軍航空廠に改編されます。

昭和17年、九七式三號艦上攻撃機(中島飛行機㈱製)の製造を開始します(17年100機、18年150機※)。

昭和16年から昭和18年にかけ三菱「火星」一五型発動機を823基、製造します。

昭和18(1943)年4月1日、器材部を補給部に改称、工員養成所を開設します。

昭和18年以降、中島「譽」一一型発動機を製造、停戦までに1251基完成させます。

昭和19(1944)年、艦上爆撃機「彗星」一一、一二、一三型(空技廠)の製造を開始します(19年94機、20年121機※)。

1月8日、『緊急學徒勤勞動員方策要項』が、3月7日、『決戰非常措置要項ニ基ク學徒動員實施要項』が閣議決定され、學校報國隊が生産に加わります。

3月、敵の本土空襲が迫る中、廣廠、第十一空廠は分散疎開計画を立案、12月頃から生産工場の分散疎開を開始します。

4月1日、大分支廠は第十二海軍航空廠に改編されます。

昭和20(1945)年、局地戦闘機「紫電」一一型(川西製)を1機製造します。

3月1日、『女子勤労挺身隊員取扱内規』が制定され、女子挺身隊(昭和18年9月13日、次官会議における「女子勤勞動員ノ促進ニ關スル件」による)が生産に加わります。

19日0710、米艦上機350機が呉湾に停泊中の艦船を目標に、呉鎭守府、廣海軍工廠、第十一海軍航空廠に来襲、防空砲台、在泊艦艇は対空戦闘を実施しますが、廣海軍工廠 造機部事務所、同機關實驗部重油槽、材料置場、十一空廠 飛行機部第二十工場、工員養成所が全・半焼してしまいます。

4月1日、自動車部が発足します。

4月、岩国に第十一海軍航空廠 岩國分工場を開設(6月1日、岩國支廠に改編)します。

5月5日1031、B29爆撃機148機が廣廠、十一空廠に来襲、爆弾722発587tを投弾、呉海軍警備隊の各防空砲台は対空戦闘を実施し1,140発を発砲しますが、爆煙に妨げられたうえ敵編隊の蛇行運行により有効な射撃ができず3機撃破に留まり、112名散華、134名負傷、工廠は32棟、空廠は23棟が破壊(ほか呉海軍施設部彌生倉庫が半焼)され甚大な被害を受けてしまいます(近隣住民30名爆死、40名負傷、全焼全壊54戸)。
廣海軍工廠第十一海軍航空廠 第十一海軍航空廠空襲(5月5日)(広島呉広)
▲5月5日、空襲に晒される廣海軍工廠・第十一海軍航空廠

6月1日、急迫する戦局に航空機増産を最優先とすべく廣海軍工廠は第十一海軍航空廠に吸収合併され閉廠(6月26日、勅令第三百八十七號『海軍工廠令』改正により削除)、十一空廠 總務部、會計部、醫務部、補給部、飛行機部、發動機部、兵器部、素材部、自動車部に廣廠から造機部、機關實驗部、工作機械實驗部、鑄物實驗部が移管され、①飛行機、発動機及び原動機等の製造、修理、②艦船主機、補助機械の製造、修理、③工作機械及び機関、鋳物等の実験、研究を管掌します。

7月1日夜半から2日未明、B29爆撃機152機が呉市街地に来襲、各防空砲台は悪天候により敵機を捕捉できず(音戸高角砲台のみ14発射撃)、焼夷爆撃により市街地の大半が焼失(23,589戸焼失、1,939名焼死)、0018、十一空廠も焼夷爆撃を受け火災が発生、生産設備数棟(4棟?)が焼失してしまいます。

度重なる空襲により生産設備に甚大な被害を受けながらも十一空廠は疎開工場、地下工場において生産を継続するなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時、十一空廠の管下には岩國支廠、徳島分工場、大阪(鳴尾出張所含む)、姫路、徳島、小松島、詫間、觀音寺、松山、水島補給工場があり、停戦時の従業員数は空廠長・赤坂功中将以下53,200名でした。
(※印は『米戦略爆撃調査団報告 会社報告』を元にした機種(文末に※)、生産数(数字後ろに※)ですが、同書は不明な機種名が多く、間違っている可能性があります)

17日、十一空廠は航空機の製造・造修を停止、海軍大臣より18日、嘱託、応徴士、20日、雇員、傭人、工員、学校報国隊、女子工員、同挺身隊、21日、軍人の解員(9月1日付)が示達され賃金、退職金、旅費、配給物資を支給し即日勤務解除します。
また、兵器類、仕掛り品、部品類を集積し分類整理、機体の集積、目録作成等の残務整理を開始します。

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により海軍施設は内務省を通じ大蔵省に移管(中国財務局呉出張所が管理)されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収、9月2日、十一空廠の生産設備の現状保管を示達して来ます。

26日、米第6軍第10軍団先遣隊F・R・マスター大佐以下6名が呉海軍水上機基地に到着、呉鎭守府に進駐し呉潜水艦基地隊(9月27日、司令長官官舎に移転)に入り海軍施設14ヶ所(のち3ヶ所追加)を接収、10月6日、米輸送船団30隻が広湾に入港、7日、第41歩兵師団(J・A・ドウ少将)8,000名が広に進駐、安永工員寄宿舎、彌生工員寄宿舎、工員養成所に司令部を設置、十一空廠官舎、同宿舎、呉海軍施設部 豊榮倉庫、同彌生倉庫、呉海軍軍需部 廣燃料置場、呉海軍水上機基地、廣海軍共済病院、呉海軍設營隊、同訓練所、東谷工員寄宿舎、福浦工員宿舎が接収されます。

10月31日、第十一海軍航空廠は閉廠します。

昭和21(1946)年2月1日、英連邦軍(豪主力、英、ニュージーランド)が呉港に入港、中国、四国地方に進駐を開始、2月20日、英連邦軍司令部(J・ノースコット中将)が呉鎭守府軍法會議、(財)海仁會 呉集會所に開設(5月16日、海軍兵學校に移転、昭和23年6月1日、呉鎭守府に移転)され、3月7日、広島県の占領業務は米軍から英軍に移譲されます。

英連邦軍進駐に伴い第十一海軍航空廠第三區(広駅南側)、工員養成所、彌生工員寄宿舎、十一空廠宿舎、呉海軍軍需部 廣軍需品置場、同彌生倉庫、呉海軍航空基地、呉海軍航空隊、呉海軍設營隊、同訓練所、東谷工員寄宿舎、福浦工員宿舎が接収され、それ以外は国有地のまま学校、市営住宅、戦災者住宅、市場、倉庫、農耕地などに転用されます。

2月14日、政府(幣原喜重郎内閣)は連合軍の了解のもと呉海軍工廠、十一空廠の転用を許可、4月1日、GHQにより十一空廠の生産設備は賠償指定を受け、大蔵省中国財務局の管理下に置かれます(昭和23年3月13日から生産設備の海外搬送開始)。

11月、陸海軍と密接な関係があり、空廠技術者の獲得を図った川南工業㈱が、呉市から生産設備の修理、保全の要請を受け、十一空廠を転用、川南工業㈱ 広製作所が発足、空気ポンプ、除草機、冷凍機部品、錠などの生産を開始します(のちに焼玉機関、発電機、製材機、農機具、空調機器、工作機械の修理、販売など)。

昭和24(1949)年12月1日、横須賀、呉、佐世保、舞鶴各市により旧軍港市転換促進委員会が結成され、昭和25(1950)年4月7日、参議院本会議、11日、衆議院本会議において『旧軍港市転換法』が可決、6月4日、住民投票により支持を得、28日、『旧軍港市転換法』(軍転法)が公布、大蔵大臣の諮問機関として旧軍港市国有財産処理審議会(旧軍港市市長4名、大蔵、通産、運輸、建設各省、経済安定本部職員各1名、学識経験者5名)が発足、『軍転法』に基づき随時、接収区域外の海軍施設(主に工員宿舎、港湾施設、空襲空地)を学校など公共施設には無償譲渡、利用申請のあった企業には有償譲渡を開始します。

また、呉市は英連邦軍に接収地域の返還を求めつつ、12月25日、『呉市転換事業計画』を策定し海軍施設に企業誘致を開始します。

昭和25(1950)年2月、東洋パルプ㈱(平成元年4月1日、王子製紙㈱と合併、現、王子マテリア㈱呉工場)が呉海軍工廠 製鋼部の進出を計画し現地を調査しますが、呉市の誘致計画(製鋼部跡は製鋼会社を誘致)との齟齬から十一空廠第一區への進出に計画変更します。
6月25、朝鮮戦争が勃発、11月15日、米軍が十一空廠第一區の大半を臨時弾薬補給基地とし期限付き接収(東洋パルプ創業までには返却を予定)を要求、昭和26(1951)年2月22日、工場建設が開始され、12月、創業を開始(昭和33年3月20日、『軍転法』に基づき払い下げ)しますが、米軍の接収は続き、昭和32(1957)年6月5日、正式に返還拒否を示達して来ます(現在も接収中)。

昭和25(1950)年10月10日、川南工業㈱、国鉄が借用していた十一空廠 第三區に中国工業㈱が設備を又借りし発足、鉄道車両の修理、一般鉄工工事を開始、昭和26(1951)年12月18日、正式に使用が許可されます。

昭和26(1951)年7月23日、川南工業㈱・川南豐作社長の公職追放に伴う内紛により川南工業㈱ 広製作所は分離独立し、㈱広製作所が発足、12月、東洋製罐㈱に経営権を移譲、昭和27(1952)年9月1日、広造機㈱が発足します(昭和34年1月22日、『軍転法』に基づき土地、設備が払い下げられ、昭和48年11月1日、日本水力工業㈱と合併し新日本造機㈱呉製作所に改称)。

昭和27(1952)年4月25日、十一空廠 第三區に鞆製鉄㈱(11月29日、広重工業㈱に改称)が進出し鋳造陸舶用エンジンの製造を開始しますが、昭和31(1956)年5月、経営悪化により寿工業㈱に移管され、寿工業㈱ 広製作所(平成28年2月1日、㈱広島メタル&マシナリーに改称)になります。

昭和31(1956)年2月16日、呉市に英連邦軍の年内全面撤退が告知され、4月5日、中国財務局呉出張所において国有財産利用協議会が開かれ海軍用地の配分が決定、5月4日、呉市議会において承認され、11月22日、英連邦軍は撤退、接収されていた海軍施設は大蔵省に返還され、『旧軍港市転換法』に基づき随時、払い下げられ現在に至ります。


歴代 廣海軍工廠長
大橋省 機関中将  大正10年2月23日~ ・・・ 廣支廠長
斎藤真 造機少将 大正12年4月1日~ ・・・ 廣海軍工廠長 
宮崎虎吉 機関少将 大正12年8月13日~
河合俊太郎 機関少将 大正14年4月1日~
小倉嘉明 少将 大正15年12月1日~
上田良武 少将 昭和2年3月25日~
黒田琢磨 少将 昭和2年12月1日~
伊藤孝次 造機中将 昭和4年11月30日~
臼井國 少将 昭和5年12月1日~
小野徳三郎 少将 昭和6年12月1日~
豐田貞次郎 少将 昭和7年11月15日~
山下兼滿 少将 昭和9年5月10日~
福町忠戩 造機少将 昭和10年11月15日~
荒木彦弼 少将 昭和11年12月1日~
都築伊七 少将 昭和13年11月15日~
廣瀬政経 中将 昭和14年11月15日~
澁谷隆太郎 少将・中将 昭和15年10月1日~
鉾立金矢 少将・中将 昭和16年11月20日~ 第十一海軍航空廠長兼務
小林義治 少将 昭和16年12月15日~
藤井芳郎 少将 昭和18年8月20日~
時津三郎 少将 昭和19年9月16日~
赤坂功 中将 昭和20年4月20日~6月1日 第十一海軍航空廠長兼務

歴代 第十一海軍航空廠長
鉾立金矢 少将・中将 昭和16年10月1日~ 廣海軍工廠長兼務
岩元鼎 中将 昭和19年8月1日~
赤坂功 中将 昭和20年4月20日~ 廣海軍工廠長兼務


主要参考文献
『呉市史 第5、6、7、8巻』 (昭和39年~平成5年  呉市史編纂委員会 呉市役所)

『米戦略爆撃調査団報告 会社報告第十九号 陸軍航空廠および海軍航空廠(機体・発動機)』

『アジア歴史資料センター史料各種』

『国土地理院空撮』 この世界の片隅に



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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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