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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

呉海軍軍需部 廣燃料置場

廣海軍工廠、及び第十一海軍航空廠が所在した呉市広に呉海軍軍需部 廣燃料置場がありました。

また隣接して呉海軍軍需部 廣軍需品置場呉海軍施設部 彌生倉庫第十一海軍航空廠 彌生材料假置場呉海軍工廠 廣艦材圍場呉海軍水上機基地廣憲兵分隊、少し離れて呉海軍設營隊・同訓練所呉海軍施設部 兩谷宿舎がありました。
呉海軍軍需部 廣燃料置場 ウ 三十八番油槽 東から(広島呉広)
▲企業敷地に遺る土中式井筒型重油槽

【探索日時】
平成29年4月6日





廣海軍工廠・第十一海軍航空廠 十一空廠 現在(広島呉広)
▲今回紹介の施設配置

㉖ 呉海軍軍需部 廣燃料置場
大正14(1925)年、海軍省は関東大震災(大正12年9月1日)に際し、横須賀海軍軍需部 箱崎島燃料置場の燃料槽が破損し重油が流出、引火炎上し数十万トンの燃料を喪失した教訓を受け、地震による被害が無く、耐火構造で且つ重油の保存、軍機保護に優れた土中式井筒型重油槽の建設を計画、用地を呉鎭守府管下の広島県賀茂郡広村字多賀谷新開の地先に選定します。

8月、広村漁業組合の陳情を受け、広島県内務部の調査に基づき漁業権補償料(32,502円?)を支払い、地先の埋め立てを開始、昭和6(1931)年5月、重油槽12基が完成し呉海軍軍需部 廣燃料置場が開場(呉海軍軍需部 第三課 重油班管下)します。
呉海軍軍需部 廣燃料置場 廣燃料置場 重油槽(昭和37年11月6日)(広島呉広)
▲戦後の土中式井筒型重油槽

土中式井筒型重油槽は油の比重が水よりも軽い事を利用し、竪穴に筒型のコンクリート槽のみを土中に埋設、上部にコンクリート製の蓋をし(湯呑を逆さにした感じ)、重油抽出の際はバルブを緩める事により油槽底から湧出する地下水の上圧力により自然と押し出され、また重油を注入する際は油槽底の送油口に油送管を接続する事で自然と重油が溜まり上水は押し出されて排出される仕組みで重油の出入りが簡易で漏油の心配が無い画期的な構造でした。

海軍省は廣に海軍最大の重油槽建設を計画、その後も重油槽の建設は続き、大東亜戦争停戦までに95基(10,000t 87基、6,000t 8基)が竣工します。

8月16日、大東亜戦争停戦に伴い、28日、呉海軍軍需部 廣燃料置場は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。

9月26日、米第6軍第10軍団先遣隊が呉海軍水上機基地に到着、呉海軍軍需部 廣燃料置場を接収、10月7日、米第41歩兵師団が広に進駐し廣燃料置場の一角に米軍慰安所が設置されます。

昭和21(1946)年3月7日、米軍は英連邦軍に交代し廣燃料置場の西側2/3は英連邦軍無線マスト地域に指定、東側1/3は大蔵省に返還、昭和31(1956)年10月16日、英連邦軍の撤退に伴い全域が大蔵省に返還されます。

昭和29(1954)年4月20日、呉市の誘致を受け先に返還された東側1/3に中国労災病院が進出、昭和32(1957)年3月28日、『旧軍港市転換法』(昭和25年6月28日、公布)に基づき隣接する第十一海軍航空廠 彌生材料假置場とともに北側が芸南プレス㈱(軽便かみそりの製造)に払い下げられます。
昭和39(1964)年3月27日、第43回旧軍用地国有財産処理審議会において廣燃料置場、呉海軍水上機基地202,500坪の工業用地転換が認可され、既に進出していた国興産業、呉鉄工、山岡鋳造、8月18日、㈱呉鉄工(増地)、8月24日、松本重工業㈱、9月6日、中国化工㈱等に随時払い下げられ、工業地帯となりますが、南側の重油槽地帯は放置され、不燃物投棄場として使用されます。
昭和50(1975)年代から重油槽の埋め立てが始まり、昭和60(1985)年代には虹村公園が造成され、現在に至ります。

※呉海軍軍需部については『呉海軍軍需部 第一區』を参照


遺構について
建物は全て滅失、95基あった土中式井筒型重油槽も殆どが破壊、埋設されていますが、下記の遺構が僅かに遺ります。
呉海軍軍需部 廣燃料置場 廣燃料置場(広島呉広)
▲呉海軍軍需部 廣燃料置場 遺構の配置

ア 貯水槽
巨大な堀の様な遺構で、東側の約半分が遺ります。
呉海軍軍需部 廣燃料置場 ア 貯水槽 西から(広島呉広)
▲全景


イ 二十八番油槽
松本重工業㈱内に遺り、重油槽の形状を留めており機械の台として転用されています。
呉海軍軍需部 廣燃料置場 イ 二十八番油槽 北西から(広島呉広)
▲裏門から僅かに見える重油槽の蓋


ウ 三十八番油槽
㈱コッコー所有地に遺り、放置されています。
重油槽が完存しています。
撮影にあたり㈱コッコーに撮影の許可、及び隣接する㈱松田技研に階段の使用許可を取り撮影しました。
呉海軍軍需部 廣燃料置場 ウ 三十八番油槽 東から(広島呉広)
▲全景

呉海軍軍需部 廣燃料置場 ウ 三十八番油槽上部 南東から(広島呉広)
▲上面

呉海軍軍需部 廣燃料置場 ウ 三十八番油槽東端部 南東から(広島呉広)
▲塀から飛び出している蓋の縁

呉海軍軍需部 廣燃料置場 ウ 三十八番油槽北端部 西から(広島呉広)
▲蓋の縁


エ 三十六番油槽
㈱中国重機内に痕跡が遺ります。
高さが無い事から、蓋部分は破壊され本体のみが埋められている様です。
㈱中国重機の許可を得て立ち入り撮影しています。
呉海軍軍需部 廣燃料置場 エ 三十六番油槽北端部 西から(広島呉広)
▲敷地内に薄っすら遺る縁の跡

呉海軍軍需部 廣燃料置場 エ 三十六番油槽北端部 東から(広島呉広)
▲反対側からの方がよく見える?


オ 二番油槽
松本重工業㈱内に遺ります。
高さが無い事から、蓋部分は破壊され埋められ花壇にされています。
呉海軍軍需部 廣燃料置場 オ 二番油槽 (広島呉広)
▲花壇内の不自然に盛り上がった場所が縁

呉海軍軍需部 廣燃料置場 オ 二番油槽 北東から(広島呉広)
▲奥の石垣手前が盛り上がっています

上記のほか、ジャパン マリン ユナイテッド㈱内にも痕跡(埋められた跡)が遺りますが、外周からは全く見えません。

また重油槽を埋設して造成した虹村公園にはグーグルマップで見ると薄っすらと痕跡が見えます。
公園は地上げして重油槽を埋めているだけの様です。

カ 二十五番油槽
殆ど埋まっていますが、公園外周から東側の縁が露出しています。
呉海軍軍需部 廣燃料置場 カ 二十五番油槽 南から(広島呉広)

呉海軍軍需部 廣燃料置場 カ 二十五番油槽 蓋部分(広島呉広)
▲蓋の部分


キ 四十二番油槽
雑草が円形に生えています。
呉海軍軍需部 廣燃料置場 キ 四十二番油槽(広島呉広)


ク 五十八番油槽
同上。
呉海軍軍需部 廣燃料置場 ケ 五十八番油槽(広島呉広)


ケ 百六番油槽
こちらは逆に円形に剥げています。
呉海軍軍需部 廣燃料置場 コ 百六番油槽(広島呉広)


コ 二十七番油槽
ただの広場に見えますが、肉眼で見ると薄っすらと円形が見えてきます。
呉海軍軍需部 廣燃料置場 カ 二十二番油槽(広島呉広)


サ 五十九番油槽
雑草が円形に生えています。
呉海軍軍需部 廣燃料置場 ク 五十九番油槽(広島呉広)


シ 百二十三番油槽
円形に草が枯れています。
呉海軍軍需部 廣燃料置場 シ 百二十三番油槽 北から(広島呉広)


ス 百二十二番油槽
円形に草が枯れています。
呉海軍軍需部 廣燃料置場 ス 百二十二番油槽 北から(広島呉広)


セ 三十一番油槽
円形に窪んでいます。
上蓋を破壊しただけの様で縁にコンクリートが露出しています。
呉海軍軍需部 廣燃料置場 セ 三十一番油槽 西から(広島呉広)

呉海軍軍需部 廣燃料置場 セ 三十一番油槽 コンクリート部分(広島呉広)
▲コンクリート部分


ソ 四十七番油槽
こちらも円形に窪んでいます。
呉海軍軍需部 廣燃料置場 ソ 四十七番油槽 北から(広島呉広)


タ 四番油槽
道路の縁に遺り、長年の車の通過により硬い燃料槽の縁以外の部分がへこんでいます。
この道路沿いには同様の痕跡が遺り日中は殆ど分かりませんが、雨が降る夜間にヘッドライトをを付けて車を走らせると燃料槽の縁が浮かび上がります。
呉海軍軍需部 廣燃料置場 タ 四番油槽 東から(広島呉広)


入船山記念館(呉鎭守府司令長官官舎)に土中式井筒型重油槽の蓋が2枚(1基分)が移設されています。
呉鎭守府司令長官官舎 モ 水蓄式油槽鉄蓋(移設)1(広島呉)

呉鎭守府司令長官官舎 モ 水蓄式油槽鉄蓋(移設)2(広島呉)


㉓ 呉海軍施設部 兩谷宿舎
㉔ 呉海軍設營隊・同訓練所
㉕ 呉海軍施設部 彌生倉庫・空廠 彌生材料假置場
呉海軍設營隊は昭和20(1945)年6月15日、呉海軍施設部において編成(隊長は呉海軍施設部長・田中秀康技大佐兼務)、呉鎭守府に所属、呉鎭守府部隊に部署され、呉地区における各種特命任務の設営にあたるなか、8月16日、停戦を迎えます。

9月26日、呉海軍設營隊・同訓練所は米軍に接収されたのち、昭和21(1946)年3月7日、米軍は英連邦軍に交代、設營隊・同訓練所は英派遣軍のアカンサス・キャンプに、新たに呉海軍施設部 彌生倉庫の一部が英連邦軍通信隊として接収されます。

昭和31(1956)年10月16日、英連邦軍の撤退に伴い接収地域は大蔵省に返還され、『旧軍港市転換法』(昭和25年6月28日、公布)に基づき設營隊訓練所は白岳小学校用地として呉市に無償譲渡(昭和31年7月31日)、その他は住宅地、農地として随時払い下げられ現在に至ります。

遺構は何も遺されていない様です。


㉗ 呉海軍軍需部 廣軍需品置場
㉘ 呉海軍工廠 廣艦材圍場
両施設は米軍の接収からは外れたものの、廣軍需品置場の東側は英連邦軍により接収されコモンウェルズ・クラブ(娯楽場)として接収されます。

昭和31(1956)年10月16日、英連邦軍の撤退に伴い接収地域は大蔵省に返還され、『旧軍港市転換法』(昭和25年6月28日、公布)に基づき廣艦材圍場は職業共同斡旋作業場(昭和31年12月20日)、廣軍需品置場は呉公民館広分館(昭和33年8月27日)ほか、住宅地、農地として随時払い下げられ現在に至ります。

遺構は何も遺されていない様です。


㉙ 呉海軍水上機基地
大正4(1916)年7月8日、海軍軍令部は海軍省との防備計画改正の商議において飛行隊を横須賀4隊、呉2隊、佐世保2隊配備を要求、海軍省は大正5年度予算編成に際し「飛行隊三隊充實計畫」(横須賀・呉・佐世保。大正9年まで継続)を成立させます。

大正8(1920)年、呉鎭守府は新設航空基地の用地調査を開始、広村字多賀谷新開の地先、広島市江波町、山口県玖珂郡岩国町を候補地に挙げ、江波村を敵地としますが漁業権補償に問題があり見送られ、「水上機基地には適するも陸上基地とするには費用がかさみ、また周囲を高山に囲まれており他に敵地を求める方が良い」と判定した広村を選定し、水上機基地の設営を開始します。

大正7(1919)年、海軍省は「飛行隊八隊充實計畫」(横須賀4・呉2・佐世保2隊)、大正9(1921)年8月1日、さらに「飛行隊十七隊充實計畫」(横須賀5・呉4・佐世保5隊・舞鶴1隊)に拡張します。

大正14(1926)年4月1日、工事が進む呉海軍水上機基地において佐世保海軍航空隊 廣分遣隊が開隊し「呉軍港方面における航空に関する諸般の研究調査」を任務とし水上機半隊(1隊は6機)が配備されます。

海軍省は軍備計画に基づき廣分遣隊の拡張・独立を予定し、先述の理由から移転(山口県新港、大分県佐伯、宮崎県富高が候補地)も含め基地拡張を計画します。
基地移転の可能性を知った広村(森岡多吉村長)は最大の懸念事項となる漁業権補償は必要無いとし残置を陳情、海軍省は航空隊の残置を決定し、昭和6(1931)年6月1日、廣分遣隊は呉海軍航空隊として独立します。
しかし、広村に一任した広村漁業組合との漁業権補償交渉は難航、補償料を増額し、呉鎭守府により軍港境域内での定期的な入漁が認可され漸く妥結、昭和7(1932)年1月25日、拡張工事を着工し地先100,000坪の埋め立てを開始、10月1日、隊に水上機に加え艦戦、艦攻各半隊が加えられ、11月3日、陸上、水上機基地の機能を備えた呉海軍水上機基地の竣工式が挙行されます。
呉海軍軍需部 廣燃料置場 呉海軍航空隊本部庁舎(広島呉広)
▲呉海軍航空隊本部庁舎(昭和10年頃)
  本部庁舎はココにありました

呉海軍水上機基地は呉海軍航空隊のみならず、隣接の廣海軍工廠で生産される陸上機、水上機の試験飛行にも運用されました。

昭和12(1937)年7月11日、基地において第二十一航空隊が編成され給油艦「鳴戸」に搭載され北支に出撃します。
10月1日、隊から艦戦が削除されます。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争開戦に伴い呉鎭守府部隊直率部隊に区分され呉軍港、徳山要港、艦隊泊地の対空警戒、豊後水道方面の哨戒にあたります。
爾後、同方面海面の哨戒、船団護衛にあたります(昭和18年4月15日から豊後水道-パラオ間の一貫護衛実施、7月9日から島根沖-下関の対潜掃討)。

昭和19(1944)年5月20日、隊の定数は艦戦48機(零戦)、水偵16機(零観14、九四式水偵2)に改編され、防空専任となりますが、8月1日、艦戦隊は第三三二海軍航空隊に改編されます。
昭和20(1945)年5月15日、呉海軍航空隊は復帰、水偵は第九〇三海軍航空隊に編入されます。

8月16日、大東亜戦争停戦に伴い、28日、呉海軍水上機基地は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。

9月26日、米第6軍第10軍団先遣隊が呉海軍水上機基地に到着、同基地を接収、10月7日、米第41歩兵師団が広に進駐し基地の一角に米軍慰安所が設置されます。

昭和21(1946)年3月7日、米軍は英連邦軍に交代し基地居住区を英連邦軍車両及び銃砲置場、滑走路地区を英連邦軍住宅に指定し、我が政府に対し住宅建設を下命して来ます。
滑走路地区はレインボービレッジとして、昭和22(1947)年9月までに235戸が建設されます。

昭和31(1956)年10月16日、英連邦軍の撤退に伴い全域が大蔵省に返還されます。

昭和32(1957)年8月23日、基地居住区は『旧軍港市転換法』(昭和25年6月28日、公布)に基づき中国木材㈱を始め自動車整備工場、駐車場、中央卸売市場として払い下げられます。

昭和39(1964)年3月27日、第43回旧軍用地国有財産処理審議会において廣燃料置場、呉海軍水上機基地202,500坪の工業用地転換が認可され、中国木材㈱の工場拡張用地を始め各種企業に払い下げられ現在に至ります。

ご丁寧に滑走台も埋められてしまい、残念ながら遺構は何も遺されていない様です。


㉚ 廣憲兵分隊
大正9(1920)年3月、呉海軍工廠 廣支廠の建設が進捗するとともに呉鎭守府の要請により、呉憲兵分隊より下士官1、上等兵2名を広村に派遣、呉海軍建築部 仮建物(場所不明)に呉憲兵分隊 廣憲兵分駐所を設置します。

大正12(1923)年1月8日、廣支廠の規模拡大に伴い呉鎭守府は呉憲兵分隊を通じ、憲兵分駐所の分遣所または分隊昇格を要請しますが予算の関係で実現せず、昭和4(1929)年4月1日、再度、海軍省軍務局長を通じ憲兵隊の拡張要請を行いますが、再び却下されてしまいます。

昭和15(1940)年8月1日、古新開の新庁舎において呉鎭守府待望の呉憲兵分隊 廣憲兵分遣隊が開設します。

昭和20(1945)年3月30日、決號作戰(本土決戦)に向け呉憲兵分隊は呉地區憲兵隊 呉憲兵隊に、廣憲兵分遣隊は廣憲兵分隊に改編され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

停戦に伴い、28日、廣憲兵分隊は内務省を通じ大蔵省に移管され、中国財務局呉出張所の管理下に置かれます。
昭和25(1950)年6月28日、『旧軍港市転換法』(軍転法)が公布され、昭和30(1955)年6月24日、廣憲兵分隊庁舎、同官舎は広島県に無償譲渡され県東保健所に転用されます。
同保健所の現在地への移転(年代不明)に伴い、官舎は公園として造成、庁舎は払い下げられ現在に至ります。

残念ながら遺構は何も遺されていない様です。


主要参考文献
『呉の歴史』 (平成14年10月 呉市史編纂委員会 呉市役所)

『呉市史 第6、8巻』 (昭和39年~平成5年  呉市史編纂委員会 呉市役所)

『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧一』 (平成21年3月 渡辺博史 楽學庵)

『国土地理院空撮』 この世界の片隅に
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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