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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

第十一海軍航空廠 能美工場

広島県江田島市大柿町に所在した㈱ユウホウ 能美工場は大東亜戦争中、第十一海軍航空廠 能美工場でした。
第十一海軍航空廠 能美工場 17・16・12・15・14・13 南東から(広島呉広)
▲今は無き第十一海軍航空廠 能美工場の全景

【探索日時】
平成29年4月3日





第十一海軍航空廠 能美工場 概略
明治22(1889)年8月15日、大阪府西成郡今宮村(現、大阪市西成区)に難波紡績會社が設立され、今宮工場を開設します。
明治23(1890)年4月、難波紡績會社は今宮紡績會社、明治25(1892)年10月18日、朝日紡績會社に改称、明治30(1897)年、広島県佐伯郡大柿村大字大君に能美分工場を設立し業績は良好に推移しますが、明治二十七八年戰役(日清戦役)後の不況により経営状況は次第に悪化、能美分工場の管理は三井物産會社に移管されます。

明治33(1900)1月8日、三井物産會社関西代表・山本条太郎らの勧奨、斡旋により明治紡績㈱の谷口房藏・常務取締役は大阪合同紡績㈱を設立、2月26日、朝日紡績㈱を買収し、工場を今宮支店、能美支店と改称します。
谷口専任取締役は持論である「紡績合同論」(外国企業と対抗のため企業合同を推進)を実行、6月26日、天滿紡績㈱を(天滿支店に)、明治35(1902)年8月20日、中國紡績㈱を(廣島支店)、明治36(1903)年2月19日、明治紡績㈱をそれぞれ合併(住吉支店)、その後も工場新設を続け業績は順調に伸長します。
しかし、折からの昭和恐慌のなか昭和4(1929)年4月8日、谷口社長が死去、さらに後任社長、重役が相次いで倒れる不運が続くなどし業績が悪化、昭和6(1931)年3月10日、東洋紡績㈱(現、東洋紡㈱)と合併します。

大正10(1921)年1月15日、呉市広村に呉海軍工廠 廣支廠が開廠します。
当初、廣支廠は『八八艦隊計畫』に向けた海軍造機廠(機関の研究・製造)として計画されるも、発展著しい航空機製造部門の併設に計画変更されます。
大正12(1923)年3月24日、航空機生産体制の拡充を計るべく廣支廠は廣海軍工廠として独立、海軍最大の航空機試作工廠に位置付けられ、主に飛行艇、及び発動機の開発、製造を行い、昭和16(1941)10月1日、廣海軍工廠 航空機部を改編し第十一海軍航空廠が併設されます。

昭和12(1937)年7月7日、北支事変(9月2日、支那事変と改称)が発生、戦時統制の一貫として9月8日、『輸出入品等臨時措置法』が交付され繊維産業は縮小、昭和16(1941)年3月12日、『蠶絲業統制法』が交付され経営合理化が促進されます。

昭和17(1942)年7月31日、能美工場は航空機増産のため近隣で工場用地を探索していた呉海軍経理部に売却され、呉海軍建築部により発動機部の分工場に改装、官舎、宿舎が建設され、第十一海軍航空廠 能美工場が発足します。

昭和20(1945)年6月1日、急迫する戦局に航空機増産を最優先とすべく廣海軍工廠は第十一海軍航空廠に吸収合併され閉廠、決號作戰(本土決戦)に向け航空機増産にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、能美工場は無傷で停戦を迎えました。

28日、能美工場は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は全海軍用地の接収、9月2日、十一空廠の生産設備の現状保管を示達して来ます。

26日、米軍が呉鎭守府に進駐しますが、能見工場は接収を逃れ、昭和24(1949)年6月、元所有者の東洋紡績㈱に払い下げられます。
昭和28(1953)年10月1日、能美工場は東洋紡績㈱の関係会社、能美紡績㈱として独立、昭和42(1967)年4月26日、同じく関係会社の福山紡績㈱と合併し裕豊紡績㈱を設立、平成3(1991)年、㈱ユウホウに改称、平成25(2013)年9月、操業を停止、機能は福山工場に集約され、平成29(2017)年12月、工場建屋、寮など全ての建物が破壊されました。


遺構について
第十一海軍航空廠 能美工場
停戦時、事務所2、守衛所、医務所、酒保、購買所、炊事場、食堂、機械工場、熱処理場、鍍金場、砂落場、実験室、鋳造場、煙解場、機械場、釿場、配合場、金型場、修理場、倉庫3、器具庫2、汽缶場、変圧器室、配電所、海軍官舎5(工場長官舎1、2戸1棟4)、海軍住宅10(2戸1棟4、長屋6)、職工寮6(職工寮5、母寮1)、浴場があり、近年までほぼ全ての建物が完存、最終的に海軍官舎、住宅以外全てが遺っていました。
第十一海軍航空廠 能美工場 第十一海軍航空廠 能美工場(広島呉広)
▲『第十一海軍航空廠 能美工場位置圖』

訪問時、すでに閉鎖され水質検査?が行われていたため、見学を申し込みましたがキレ気味に追い返されたため、全て外周からの撮影です。
破壊されるのが決まっていたなら見せてくれても良いものを・・・。
第十一海軍航空廠 能美工場 空廠能美(広島呉広)
▲写真の位置

ア 正門
第十一海軍航空廠 能美工場 ア 門柱(広島呉広)


1 酒保
第十一海軍航空廠 能美工場 1 北から(広島呉広)


2 職工寄宿舎(母寮)
名称からして女工用か?
第十一海軍航空廠 能美工場 2 北東から(広島呉広)


2・3・4・5・6 職工寄宿舎(母寮、一~四寮)
第十一海軍航空廠 能美工場 2・3・4・5・6 北から(広島呉広)


5・6・7 職工寄宿舎(三~五寮)
第十一海軍航空廠 能美工場 5・6・7 北東から(広島呉広)


7 職工寄宿舎(五寮)
第十一海軍航空廠 能美工場 7 東から(広島呉広)


9 事務所 ・ 守衛所
奥の切妻部分が事務所、手前の白い建屋が守衛所
第十一海軍航空廠 能美工場 9 北西から(広島呉広)

第十一海軍航空廠 能美工場 9 北から(広島呉広)
▲全景


11 炊事場 ・ 食堂
渡り廊下の後ろに見え、3連の建物です。
第十一海軍航空廠 能美工場 11 北東から (2)(広島呉広)


12 鋳造場、煙解場、機械場、釿場
巨大な建屋でノコギリ屋根が特徴的な建屋です。
第十一海軍航空廠 能美工場 12 西から(広島呉広)

第十一海軍航空廠 能美工場 12 東側突出部(高い) 南から(広島呉広)
▲東端は一部高くなっています

第十一海軍航空廠 能美工場 13 煙突 東から(広島呉広)
▲東端にある煙突


13 金型場、修理場
煙突手前の入母屋建物4棟です。
第十一海軍航空廠 能美工場 14・13 南東から パノラマ写真(広島呉広)


14 建屋
用途不明ですが、上記と一体のため南側にあった金型場の一部と思われます。
第十一海軍航空廠 能美工場 14 南東から(広島呉広)


15 器具庫 ・ 汽缶場
第十一海軍航空廠 能美工場 15 西から(広島呉広)
▲手前が汽缶場

第十一海軍航空廠 能美工場 15(奥)・14(右) 南東から(広島呉広)
▲器具庫


16 変圧器室
モダンな意匠の窓があります。
第十一海軍航空廠 能美工場 16 窓(広島呉広)


17 配合場
第十一海軍航空廠 能美工場 17 南東から(広島呉広)


21 機械工場
23 器具庫

21機械工場は巨大な建屋ですが、外周からは殆ど見えません。
第十一海軍航空廠 能美工場 21 北から(広島呉広)
▲左側が21機械工場、右側の小屋が23器具庫


24 倉庫
第十一海軍航空廠 能美工場 24 北東から(広島呉広)


26 配電所
第十一海軍航空廠 能美工場 26(広島呉広)


主要参考文献
『東洋紡百年史 上・下』 (昭和61年5月 東洋紡績株式会社社史編集室)

『アジア歴史資料センター史料各種』
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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