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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

海軍兵學校

広島湾に浮かぶ江田島と言えば海軍兵學校の代名詞であり、世界三大兵学校の一つ、海軍兵學校がありました。
なお読みは「え“た”じま」、男塾塾長は「え“だ”じま」平八です。
海軍兵学校 イ 第二生徒館(東生徒館) 南東から(広島江田島)
▲海上自衛隊 第一術科学校で現在も使用されている第二生徒館

【探索日時】
平成17年10月26日、平成19年11月24日、平成29年4月2日・8日、令和1年7月27日

【改訂情報】
令和1年8月4日・・・遺構(止水栓蓋)追加





海軍兵學校 概略
明治2(1869)年9月18日、兵部省(明治5年2月28日、海軍省に改編)は東京築地に海軍操練所を創設、明治3(1870)年11月4日、海軍兵學寮、明治9(1876)年9月1日、海軍兵學校に改称します。

明治19(1886)年1月、海軍省は海軍兵學校次長・伊地知弘一中佐の「東京の繁華街近傍は教育上適さず、僻地において教育するのが最適」との提言を受け、兵學校を一時は鎭守府造船所用地として候補に挙がった江田島へ移転を決定します。

6月1日、現地視察、地質調査、測量、建物配置の設計を開始、7月20日、用地買収、8月15日、用地受領、10月1日、土木工事を開始、明治20(1887)年4月15日、建物建設を着工、明治21(1888)年5月31日、海軍兵學校が竣工し、8月1日、海軍兵學校が築地から江田島に移転します。

昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。

8月28日、海軍兵學校は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、9月26日、米軍が呉に進駐を開始、10月10日、兵學校を接収します。
昭和21(1946)年3月7日、広島県の占領業務は米軍から英連邦軍に移譲され、5月16日、英連邦軍司令部が兵學校に設置されます。
昭和23(1948)年6月1日、英連邦軍司令部は旧呉鎭守府に移転、昭和24(1949)年2月1日、兵學校は再び米軍に移管され、昭和25(1950)年8月10日、警察予備隊の発足に伴い、23日、警察予備隊 江田島学校(昭和26年4月、閉鎖)が併設されます。

昭和31(1956)年1月10日、兵學校は返還され、15日、防衛庁が供用開始、16日、海上自衛隊 術科学校(昭和33年4月1日、第一術科学校に改称)が横須賀から移転開校、昭和32(1957)年5月10日、術科学校に幹部候補生学校が併設され、現在に至ります。

※海軍兵學校の詳細は後述


遺構について
① 海軍兵學校
海上自衛隊 第一術科学校内に海軍兵學校から引き継がれた建物が多数遺ります。
見学は常時行われていますが、コースは平日と土日、花見時期の一般開放、特別見学で異なるので、公式サイトでご確認ください。
海軍兵学校 兵学校 のみ(広島江田島)
▲遺構配置(黄緑は特別公開時のみ)

ア 海軍兵學校庁舎
鉄筋コンクリート製で昭和16(1941)年11月22日に竣工します。
現在も第一術科学校本部として使用されています。
海軍兵学校 ア 庁舎 南西から(広島江田島)
▲正面側
  植栽が茂り開放区域からは見えにくいです

海軍兵学校 ア 庁舎 西から(広島江田島)
▲正面側別角度から

海軍兵学校 ア 庁舎 南から(広島江田島)
▲南から

海軍兵学校 ア 庁舎 北から(広島江田島)
▲裏側

庁舎周辺にはコンクリート製の退避壕が遺ります。
残念ながら殆どが埋まり、水没しています。
1 退避壕
入口付近に爆風避けの土堤を盛っています。
殆ど埋まっており、僅かに壕口が確認できる程度です。
海軍兵学校 1 退避壕 南から(広島江田島)

2 退避壕
1と2は同型で、こちらは東西の壕口が遺ります。
庁舎退避壕はコンクリート製扉が付く珍しい型です。
海軍兵学校 2 退避壕 東側壕口(広島江田島)
▲東側壕口

海軍兵学校 2 退避壕 西側壕口(広島江田島)
▲退避壕本体と西側壕口

3 退避壕
完全に埋まっていますが、不自然な盛り上がりから退避壕と思われます。
海軍兵学校 3 退避壕? 北から(広島江田島)

4 退避壕
完全に埋まっていますが、不自然な盛り上がりから退避壕と思われます。
海軍兵学校 4 退避壕? 北西から(広島江田島)

庁舎南側には古い建物数棟が遺りますが、全て連合軍接収時の建物の様です。


-教場-
イ 第二生徒館
英人技師ジョン・ダイアック(明治3年、明治政府に招聘)の設計により明治26(1893)年3月に竣工、6月15日、生徒が起居、教室としていた将校生徒練習艦より移転します。
明治38(1905)年6月2日の芸予地震で大破しますが、その後修復され、現在も使用されています。
海軍兵學校を象徴する建物として余りにも有名です。
海軍兵学校 イ 第二生徒館(東生徒館) 南東から(広島江田島)
▲正面側全景

海軍兵学校 イ 第二生徒館(東生徒館) 南西から (2)(広島江田島)
▲反対側から

海軍兵学校 イ 第二生徒館(東生徒館) 南西から(広島江田島)
▲右翼側の張り出し

海軍兵学校 イ 第二生徒館(東生徒館)南側 南東から(広島江田島)
▲正面壁面
  煉瓦はイギリスから直接輸入した物と伝わります

海軍兵学校 イ 第二生徒館(東生徒館) 南から(広島江田島)
▲正面入口

海軍兵学校 イ 第二生徒館(東生徒館)中央入口 (2)(広島江田島)
▲正面入口内部

海軍兵学校 イ 第二生徒館(東生徒館)正面入口から(広島江田島)
▲柱の装飾

海軍兵学校 イ 第二生徒館(東生徒館)中央入口(広島江田島)
▲階段の裏

海軍兵学校 イ 第二生徒館(東生徒館) 東側入口から(広島江田島)
▲中央入口から外廊下

海軍兵学校 イ 第二生徒館(東生徒館) 中庭側廊下(広島江田島)
▲外廊下

海軍兵学校 イ 第二生徒館(東生徒館) 中庭から(広島江田島)
▲外廊下外観

海軍兵学校 イ 第二生徒館(東生徒館) 中庭から (2)(広島江田島)
▲正面入口 中庭から


ウ 第三生徒館
鉄筋コンクリート製3階建で、昭和17(1942)年7月31日、第二生徒館を増築するかたちで竣工します。
海軍兵学校 ウ 第三生徒館(東生徒館) 北東から(広島江田島)
▲裏側から見た全景

海軍兵学校 ウ 第三生徒館(東生徒館) 北西から パノラマ写真(広島江田島)
▲近影

海軍兵学校 ウ 第三生徒館(東生徒館) 中庭から(広島江田島)
▲中庭から見た第三生徒館

海軍兵学校 ウ 第三生徒館(東生徒館)中央入口 中庭から(広島江田島)
▲入口

海軍兵学校 ウ 第三生徒館(東生徒館)中央入口 中庭から (2)(広島江田島)
▲階段

海軍兵学校 イ・ウ 北西から(広島江田島)
▲イ第二生徒館の裏に並んでいます

海軍兵学校 イ-ウ間西側の渡り廊下(広島江田島)
▲イ第二生徒館とウ第三生徒館は渡り廊下で連結

海軍兵学校 ウ・イ(奥)・ス(手前) 北西から(広島江田島)
▲御殿山から見た全景

28・29 海軍水道止水栓
ウ第三生徒館1階の西側にある手洗い前に並んで設置されています。
海軍兵学校 29(左)・28(右) 海軍水道止水栓(広島江田島)

海軍兵学校 28 海軍水道止水栓(広島江田島)
▲右側の28

海軍兵学校 29 海軍水道止水栓(広島江田島)
▲左側の29

5 同期の桜
中庭に軍歌『同期の櫻』の元となったと言われる桜があります。
海軍兵学校 5 同期の桜(広島江田島)

エ 小屋
木造の小屋ですが詳細不明です。
海軍兵学校 エ 建物 北東から(広島江田島)

なお第二・第三生徒館の西側には昭和13(1938)年7月22日に第一生徒館が竣工しますが、平成10(1998)年、惜しくも破壊されてしまいました。
公式サイトを含め「改築」とも取れる記載が散見されますが、完全に破壊されています。
第一生徒館(土産袋から)(広島江田島)
▲在りし日の第一生徒館(土産袋から)


6 八方園
昭和3(1928)年11月23日、昭和天皇の御大典記念として在校生徒全員の奉仕により伊勢神宮式年遷宮の神殿材を拝受し、天照大神を分霊賜い八方園神社が創建されます。
海軍兵学校 八方園神社(広島江田島)
▲海軍兵學校時代の八方園と八方園神社

海軍兵学校 6 八方園(広島江田島)
▲現在の全景

7 海軍兵学校之碑
戦後、八方園神社は撤去(詳細不明)され、跡地に昭和42(1967)年8月、海軍兵學校生徒学生関係職員一同により建立されます。
海軍兵学校 7 海軍兵学校之碑(広島江田島)

8 方位盤
昭和16(1941)年、生徒が出身地の方角に向かい思いを馳せたり、外国各地に向かい広い視野に立つことを目的に設置されます。
戦後、方位盤は撤去(詳細不明)され、跡地に昭和43(1968)年5月27日海軍記念日に、幹部候補生学校卒業生有志により再建されました。
海軍兵学校 8 方位盤(広島江田島)
▲全景
  周辺の石は全国各地の石

海軍兵学校 8 方位盤 (2)(広島江田島)
▲方位盤

9 退避壕跡
八方園のある小山の側面に閉鎖された跡が遺ります。
海軍兵学校 9 退避壕(広島江田島)

海軍兵学校 セ北側の退避壕跡?(広島江田島)
▲大講堂北側の斜面に遺る崩落跡?


キ 普通學講堂(物理)
鉄筋コンクリート製3階建ての建物で、同じく建設年は不明、感じから昭和10年以降と思われます。
現在は使われていない様で、老朽化のため解体予定との事です。
海軍兵学校 キ 普通學講堂(物理) 西から(広島江田島)
▲表側
  植栽が邪魔で見通せません

海軍兵学校 キ(手前)・カ(奥) 普通學講堂(物理) 北西から(広島江田島)
▲裏側
  外廊下があります


ク 普通學講堂
同じく建設年は不明、こちらも老朽化のため解体予定との事です。
海軍兵学校 ク 普通學講堂(普通) 西から(広島江田島)
▲表側
  造りは上記キと同じです

海軍兵学校 ク 普通學講堂(普通) 北西から(広島江田島)
▲裏側
  見通せませんが、裏側が教室になります

海軍兵学校 ク(右)・キ(左) 東から(広島江田島)
▲東側
  停戦時、切妻屋根の教室が連結していました

海軍兵学校 ク(左)・キ(右) 北から(広島江田島)
▲御殿山から見た普通學講堂


23 排水溝
退避壕かと思ったら排水溝でした。
海軍兵学校 23 排水溝(広島江田島)


27 貯水槽
海軍兵学校 27 貯水槽(広島江田島)


21 従道小学校記念碑
昭和59(1984)年5月、従道小学校同窓会により建立されました。
従道小学校は海軍兵學校教官として赴任した武官・文官の子弟のための尋常小学校でした。
大東亜戦争停戦に伴い10月31日閉校、校舎は連合軍の接収を経て、海上自衛隊隊舎、昭和33(1958)年4月1日、海自江田島地区病院として転用されますが、昭和47(1972)年3月、解体されてしまいました。
海軍兵学校 21 従道小学校記念碑(広島江田島)


20 貯水槽
海軍兵学校 20 貯水槽(広島江田島)


22 應谷山教法寺跡
延宝年間(1680)頃、矢ノ浦からこの場所に移転して来ます。
海軍兵學校建設用地に含まれ、明治19(1886)年8月15日、地代、移転料、樹木代等3,076円を受け取り現在地に移転します。
海軍兵学校 22 應谷山教法寺跡(広島江田島)


ケ  第一兵學講堂
建設年は不明、感じから昭和10年以降と思われます。
海軍兵学校 ケ 第一兵学講堂 東から(広島江田島)
▲東から

海軍兵学校 ケ 第一兵学講堂 南東から(広島江田島)
▲正面側

海軍兵学校 ケ 第一兵学講堂 北から(広島江田島)
▲裏側


へ 第二兵學講堂
東側は撤去され西側のみ遺ります。
第一兵學講堂の背後(北側)にありますが、周囲を建物で囲まれており、また開放区域にも無く、裏山からも屋根しか見えません。
海軍兵学校 ヘ 第二兵學講堂 北東から(広島江田島)


コ 砲術講堂
こちらも建設年は不明です。
老朽化のため使用されていない様です。
海軍兵学校 コ 砲術講堂 南から(広島江田島)
▲表側

海軍兵学校 コ 砲術講堂 北東から(広島江田島)
▲裏側

海軍兵学校 コ 砲術講堂 南東から(広島江田島)
▲側面

海軍兵学校 コ 砲術講堂東側入口(広島江田島)
▲入口
  近くで見ると痛みが目立ちます

コ砲術講堂の正面側には砲座が並んでいますが、詳細不明です。
11 砲座
5基あります。
海軍兵学校 11 銃座1・2・3(広島江田島)

12 砲座
上記11よりやや大きめの物が2基あります。
海軍兵学校 12 砲座1・2(広島江田島)


サ 化学講堂
明治37(1904)年に建設されます。
植栽が茂り過ぎており、殆ど見えません。
海軍兵学校 サ 化学講堂 南東から(広島江田島)
▲東から辛うじて見えます

海軍兵学校 サ 化学講堂 南西から(広島江田島)
▲一般開放区域からはこの状態


シ 柔道場
昭和19(1944)年に新設柔道場が失火により全焼している様で、こちらはそれより古くからある様です。
海軍兵学校 シ 柔道場 南東から(広島江田島)
▲正面側

海軍兵学校 シ 柔道場 北西から(広島江田島)
▲裏側


タ 水泳訓練所
L型をした特徴的なプールで、現在も改修され使用されています。
海軍兵学校 タ 水泳訓練所 東から(広島江田島)


ス 教育参考館
大正14(1925)年、時の校長・谷口尚眞中将が空き教室に収集していた海軍先達の資料を展示、先輩の遺徳を偲び、自己研鑽と学術探求に資するべく教育参考館を開館します。
昭和9(1934)年1月、木造では火災の不安がある事から新築が決定、昭和10(1935)年2月11日、新教育参考館を着工、昭和11(1936)年3月19日、竣工、爾後約40,000点の資料が収集、寄贈されます。
大東亜戦争停戦に伴い連合軍により汚されるのを防ぐべく皇室関連、御下賜品は奉焼、寄贈者判明の資料は帰省する生徒に託し返却、特に貴重なものは神社などの奉納されます。
遺された資料も昭和20(1945)年9月17日の枕崎台風により地下室に土砂が流入、米軍により排出されますが、相当数の資料が一緒に廃棄されたと言われます。
現在は返却された資料を含む16,000点中、1,000点が常時展示されています。
海軍兵学校 ス 教育参考館 南西から(広島江田島)
▲正面
  平成19(2007)年に改修されきれいになりました

海軍兵学校 ス 教育参考館(改修前) 南西から(広島江田島)
▲改修前の正面入口

海軍兵学校 ス 教育参考館 北から(広島江田島)
▲北側

海軍兵学校 ス 教育参考館 東から(広島江田島)
▲裏側
  曲線を用いモダンに仕上げられています


-付帯施設-
セ 大講堂
大正6(1917)年4月21日に竣工します。
海軍兵学校 セ 大講堂 南から(広島江田島)
▲生徒入口側

海軍兵学校 セ 大講堂 南東から(広島江田島)
▲職員入口

海軍兵学校 セ 大講堂東側車寄せ 南東から(広島江田島)
▲職員入口近影

海軍兵学校 セ 大講堂 1階 (2)(広島江田島)
▲1階全景
  マイクがなくても音が響く構造になっています

海軍兵学校 セ 大講堂 1階 (3)(広島江田島)
▲演壇

海軍兵学校 セ 大講堂 1階(広島江田島)
▲柱の装飾

海軍兵学校 セ 大講堂 2階から(広島江田島)
▲天井の模様

海軍兵学校 セ 大講堂北西階段 2階へ(広島江田島)
▲2階へ上がる階段

海軍兵学校 セ 大講堂 2階から (2)(広島江田島)
▲2階来賓席

海軍兵学校 セ 大講堂 2階から (3)(広島江田島)
▲2階から見た全景
  正面2階両側が貴賓席

海軍兵学校 セ 大講堂南西側にある「大正五年七月二十八日」の石版(広島江田島)
▲大講堂南西隅にある「大正五年七月二十八日」のコンクリート版


オ 大講堂便所
海軍兵学校 オ 第二生徒館便所 南西から(広島江田島)
▲表側

海軍兵学校 オ 第二生徒館便所 南東から(広島江田島)
▲裏側


ソ 大講堂皇族用便所
コンクリート製で、よく見ると側面の窓が閉鎖されています。
海軍兵学校 ソ 大講堂便所 北西から(広島江田島)


イ 水路表示?(場所はこの辺だったような・・・?)
金属製の銘板で便所付近にあります。
海軍兵学校 イ 第二生徒館(東生徒館)西側にある水路?標示(広島江田島)


10 貯水槽
海軍兵学校 10 貯水槽 南から(広島江田島)


14 池
確か大八洲池(わが国の美称)と言われていたような・・・?撮影に夢中でほぼ話はきいていませんでした(-_-;)
内部には当時のわが国の領土を示す島があり、富士山も再現されています。
海軍兵学校 14 日本列島が浮かぶ池 (2)(広島江田島)
▲全景

海軍兵学校 14 日本列島が浮かぶ池(広島江田島)
▲日本列島


チ 避病舎 ・ 生徒及兵員病舎消毒所
外周から見えます。
海軍兵学校 チ 避病舎 北東から(広島江田島)
▲左側の鉄筋コンクリート2階建が避病舎、右側の木造平屋が生徒及兵員病舎消毒所


ツ 煉瓦建物
用途不明(この辺りにあった生徒病舎関連?)の煉瓦建物です。
海軍兵学校 ツ 煉瓦建物 南から(広島江田島)


テ 會議所
明治21(1888)年4月、海軍兵學校移転に合わせ集會所として建設されます。
爾後、文庫館、圖書館、将校集会所などに使用され、最終的に會議所として停戦を迎えます。
海上自衛隊移管後、「水交館」と命名され、現在は来賓の接遇等に使用されています。
先だって放送されたドラマ「この世界の片隅に」では、呉鎭守府 軍法會議として登場しました。
海軍兵学校 テ 会議所 西から (2)(広島江田島)
▲正面

海軍兵学校 テ 会議所 西から(広島江田島)
▲正面の飾り

海軍兵学校 テ 会議所 西側正面玄関(広島江田島)
▲正面玄関

海軍兵学校 テ 会議所 南東から(広島江田島)
▲南側面

海軍兵学校 テ 会議所 北から(広島江田島)
▲北側面

海軍兵学校 テ 会議所 東から(広島江田島)
▲裏側


15 會議所裏門
海軍兵学校 15 裏門門柱 西から(広島江田島)
▲植栽に隠れています

海軍兵学校 15 裏門門柱南側(広島江田島)
▲南側近影


16 會議所庭園
海軍兵学校 16 庭園(広島江田島)


17 貯水槽
海軍兵学校 17 貯水槽 (2)(広島江田島)


ト 行幸記念館
昭和11(1936)年10月27日、昭和天皇が海軍兵學校に行幸された際、陛下の私費により御座所として建設されました。
海軍兵学校 昭和11年10月27日、教育参考館を御出になる昭和天皇(広島江田島)
▲昭和11年10月27日、教育参考館を御出になる昭和天皇

その後、兵學校に下賜され行幸記念館とし保存されます。
現在は海上自衛隊に受け継がれ、賜餐(しさん:陛下から賜るの意)館として保存されています。
海軍兵学校 ト 行幸記念館 西から(広島江田島)
▲入口側

海軍兵学校 ト 行幸記念館 南東から(広島江田島)
▲側面

海軍兵学校 ト 行幸記念館南側 南西から(広島江田島)
▲外壁近影

海軍兵学校 ト内部(広島江田島)
▲内部

海軍兵学校 ト内部 織り上げる(広島江田島)
▲天井縁の装飾

海軍兵学校 ト内部 天井 (2)(広島江田島)
▲天井は折り上げ天井になっています

海軍兵学校 ト内部 天井(広島江田島)
▲本来電灯があったと思しき位置

海軍兵学校 ト内部 北側の装飾(広島江田島)
▲玉座位置


18 門柱
門扉の蝶番が遺りますが、扉は滅失しています。
海軍兵学校 18 門柱 南西から(広島江田島)


ハ 各科倉庫
外周から見えます。
海軍兵学校 ハ 各科倉庫 北から(広島江田島)


ヒ 倉庫
外周から見えます。
海軍兵学校 ヒ 倉庫 北東から(広島江田島)


24 ポンド
繋船堀、小型船の係留地です。
海軍兵学校 24 ポンド 南東から(広島江田島)


25 飛行機発着辷
連絡用水偵の発着場です。
海軍兵学校 25 飛行機発着辷 北東から(広島江田島)


26 修船辷
艦載艇程度の小型船の引き揚げ用斜面です。
奥に見えるのは試験艦「あすか」
海軍兵学校 26 修船辷 北東から(広島江田島)


-出入口-
13 表桟橋
海軍なので海に向かったこちらが表になります。
兵校卒業生はここから迎えに来た練習艦に乗艦し海軍将校としての第一歩を歩みだします。
海軍兵学校 13 表桟橋 東から(広島江田島)
▲石積みは当時のままの様です

海軍兵学校 13 表桟橋 北東から(広島江田島)
▲表面は改修されています

海軍兵学校 13 両側の端船吊場(関係無い)(広島江田島)
▲当時も表桟橋両側にはボートダビットがありダビット及び基礎は戦後、改修されていますが、護岸は当時の物です

海軍兵学校 砲術講堂と短艇吊(広島江田島)
▲海軍兵學校時代の同一場所


甲 表門跡
昭和21(1946)年5月16日、英連邦軍司令部が呉から旧兵校に移転、大型車の出入りがし安い様に正門は北側(現在地)に移設されてしまいます。
現在は閉鎖され、戦後造られた塀により痕跡もありません。
海軍兵学校 明治27年頃の校門(広島江田島)
▲創設時の正門

海軍兵学校 最終時の校門(広島江田島)
▲最終時の正門

海軍兵学校 甲 表門跡(広島江田島)
▲現在の正門跡

現在の第一術科学校正門周辺には古い建物数棟が遺りますが、全て連合軍接収時の建物です。


乙 第三門跡
こちらも何も遺されていません。


丙 裏門
片方の門柱が遺ります。
海軍兵学校 丙 裏門門柱(片方だけ)(広島江田島)


丁 第五門
こちらも何も遺されていません。


戊 東門
こちらも何も遺されていません。
東門の痕跡は何もありませんが、東側に神田橋の欄干が埋まっています。
海軍兵学校 戊北東にある神田橋欄干(広島江田島)


己 南門
こちらも何も遺されていません。

上記の他にも第一術科学校内には軍艦赤城戰死者之碑、留魂碑がありますが、僕の参加したコースでは見れませんでした。

※写真については第一術科学校の許可を得て掲載しています。


海軍兵學校 略史
明治2(1869)年9月18日、兵部省は東京築地に海軍操練所を創設、鹿児島など16藩に貢進生の差遣を命じ、明治3(1870)年1月11日、教育を開始し、11月4日、海軍兵學寮に改称、8日、幼年生徒15名、壮年生徒29名以外を退寮させます。

明治4(1871)年8月2日、幼年生徒147名、壮年生徒54名を採用(採用年齢15~25歳、明治6年1月28日、13~15歳に改正)、明治5(1872)年8月4日、幼年生徒を豫科生徒、壮年生徒を本科生徒に改称します。

明治6(1873)7月27日、英人雇教師・ドーグラス以下34名が来着、教育改革が行われ(明治8年7月23日、離日)、10月21日、本科生徒の専攻科(測量、運用砲術、機関、造船)を定めます。

明治7(1874)年5月5日、横須賀分校を設置し機関科生徒を移転、明治9(1876)年9月1日、海軍兵學校に改称、10月10日、海兵士官學校を兵學校に付属させ兵學校分校(明治14年7月、廃校)に改称します。

明治9(1876)年6月26日、東海、西海両鎭守府の開設が決定、9月14日、東海鎭守府を横浜、明治11(1878)年3月30日、西海鎭守府を三原に夫々仮設します。

明治11(1878)年9月16日、豫科を廃止、明治12(1879)年1月4日、生徒の修業年限を兵科5年、機関科6年とし、明治13(1880)年3月17日、採用年齢を14~18歳に変更します。

明治16(1883)年8月中旬、海上測量により第二海軍區鎭守府を呉湾、第三海軍區鎭守府を佐世保に選定し、明治18(1885)年3月17日、呉鎭守府建築委員會(眞木長義少将)が開設され、眞木少将一行12名は呉湾の実地、地質調査を実施、鎭守府施設の配置を立案、また渡邉忻三大匠司は江田島に渡り造船所候補地を調査します。

18日、川村純義海軍卿は太政大臣・三條實美卿に対し地形、自然環境、防御面、交通の利便性から呉湾が造船所を含む鎭守府用地として最適とし、江田島もまた造船所候補地として推挙します。
4月6日、三條卿は海軍省に造船所候補地の検討を指示、9日、樺山海軍次官は仏人の海軍省顧問ルイ=エミール・ベルタンを伴い呉、江田島を調査、離島のため交通に難がある江田島に対し、呉が造船所適地と結論づけますが、江田島を補助軍港とする意見も付けます。

明治14(1881)年7月28日、海軍機關學校が独立します。

明治15(1882)年9月11日、生徒の学期を4期4年(最終の1期練習艦実習。明治18年1月22日、1年短縮し卒業後に練習艦実習と改定)に、明治16(1883)年3月1日、生徒の席次は准士官の次席と定めます。

明治19(1886)年2月17日、生徒を分隊に編成、5月21日、採用年齢を16~20歳に変更します。

明治19年1月、海軍省は海軍兵學校次長・伊地知弘一大佐の「思想堅固なる海軍士官を養成する兵學校の所在地として東京の繁華街近傍は教育上適さず、親族との交わり、外聞を遮断した僻地において教育するのが最適」との提言を受け、海軍施設として優れた地形を擁し、学術的環境条件を勘案し移転先として江田島を選定します。

5月22日、兵學校移転方取調委員が発足、6月1日、原田敬主計監、荒井久要大尉、朝倉清一五等技師、西郷時貞三等技手、梅若利幸属が現地視察、地質調査、測量、建物配置の設計を開始、及び久岡才十・戸長、鷹谷一来・教法寺院主に学校移転の協力を依頼します。
7月、『海軍兵學校御所用地略図』を作成、20日、用地買収、及び移転補償料、地上物件補償料を支払い、8月15日、用地受領、9月、海軍省は取調委員の土工案を承認し、10月1日、土木工事を開始、10月、建物の建築案を承認します。
兵學校用地は江戸時代に新田開発された低地のため、小用北側の農地を切り下げた際に出た土砂により地上げを実施します。
明治20(1887)年4月15日、藤田組が建物建設を着工、明治21(1888)年4月、物理、水雷各講堂、重砲台、官舎、文庫倉庫、活版所、製図講堂、雛型陳列場、集会所、道場が落成(工費268,000円)、5月31日、海軍兵學校が竣工します。

7月18日、8月10日、28日・29日、生徒は夏期休暇を利用し3組に分かれ築地から江田島に移転、8月1日、海軍兵學校(有地品之允少将)が江田島に移転、小野浜造船所(神戸)において汽船「東京丸」から改装された将校生徒学習船が回航され、13日、開庁、生徒は将校生徒学習船で起居し学習を開始、20日、「高砂丸」により関係者300名が来島し海軍兵學校(以下「兵校」と略)の移転が完了します。

明治20年7月28日、海軍機關學校を廃校、兵學校過程に機関学を増加(明治23年10月18日、機關科を再設)し、機關學校生徒95名は兵學校に転入します。

明治23(1890)年2月1日、江田島は義務教育が普及していなかったため、校内に兵學校教官の子弟教育のため従道小學校が開校(明治27年5月1日、幼稚科併設、大正9年、江田島村に移管され、江田島村立従道小學校に改称、昭和16年4月1日、従道國民學校に改称)します。

明治23年秋、生徒倶樂部(外出時に寛げる民間委託の休憩場)が許可され、中郷、向側、矢ノ浦、鷲部の一般住宅に依頼されます。

明治26(1893)年3月、生徒館が竣工、6月15日、生徒が将校生徒練習艦より移転、11月29日、海軍機關學校(採用年齢16~19歳)が再度独立します。

明治27(1894)年3月、奥小路配水池が竣工します。

明治28(1895)年6月19日、生徒採用年齢を16~20歳に変更、明治29(1896)年3月6日、生徒採用数は120名となります。

明治30(1897)年4月23日、学期呼称を学年に改定、当時の一號生徒を二十四期とし、創立依頼順序に従い第◯期と呼称し、9月21日、生徒の修業年限を3年に改定します。

明治33(1900)年5月19日、海軍教育本部が新設され、海軍兵學校は同本部に属します。

明治38(1905)年6月2日1440、藝豫地震が発災、生徒館が大破してしまいます。

明治45(1912)年8月28日、生徒修業年限を3年4月に改定します。

大正6(1917)年4月21日、大講堂が竣工します。

大正9(1920)年7月7日、選修學生制度が設けられ、海軍兵曹長より採用し士官候補生教育を開始(修業期間1年、学生数30名程)、また11月6日、『海軍兵學校令』を改正し20歳を引き上げ23歳以下の下士官兵から生徒を志願できる様にします。

大正11(1922)年2月6日、ワシントン海軍軍縮条約の締結により採用生徒数を80名に減員します。

大正12(1923)年3月31日、海軍教育本部は廃止され、海軍兵學校は海軍大臣直轄となります。
4月1日、学年開始を4月1日に改定します。

9月28日、関東大震災(3月19日、発災)により校舎が全焼した海軍機關學校(横須賀)が、生徒数が減員され施設に余裕があった兵校の第二生徒館に移転して来ます。

大正14(1925)年3月4日、海軍機關學校は舞鶴に新築移転、校長・谷口尚眞中将は海軍大臣・財部彪大将の許可を得て空き教室に以前から収集していた海軍先達の資料を展示、教育参考館を開館します。

大正15(1926)年7月12日、生徒採用年齢を16~19歳に改定します。

昭和3(1928)年9月12日、選修學生の修業期間を1年6月に延長、11月23日、八方園神社を創建します。

昭和7(1932)年4月24日、勅諭下賜50周年を記念し生徒自習室に元帥東郷平八郎大将謹書の勅諭を掲示、五省を始めます。
一 至誠に悖(もと)るなかりしか
二 言行に恥づるなかりしか
三 気力に欠くるなかりしか
四 努力に憾(うら)みなかりしか
五 不精に亘(わた)るなかりしか


昭和9(1934)年1月、海軍省教育局第一課長・佐藤市郎大佐は木造の教育参考館は火災の不安がある事から局内に新築を提案、卒業生、部内外有志、在郷海軍士官、篤志家・本間俊平氏の懇請により三菱、三井、住友各財閥からの寄付金により新築が決定、昭和10(1935)年2月11日、大倉土木㈱により新教育参考館を着工、昭和11(1936)年3月19日、竣工します。

昭和9年6月29日、生徒の修業期間を4年に改定、選修學生選抜に一等下士を加えます。

昭和10年9月23日、選修科學生の修業期間を1年8月に延長します。

昭和13(1938)年4月19日、生徒の修業期間を3年8月に改定、6月21日、生徒採用年齢を15~19歳に改定します。
7月22日、新生徒館(第一生徒館、昭和10年着工。旧生徒館は第二生徒館に改称)が竣工し、生徒自習室、寝室を全て移転します。

昭和14(1939)年6月14日、生徒の修業期間を3月6月に改定します。

昭和15(1940)年11月、呉海軍経理部は矢ノ浦地区の用地を買収、兵校南側を拡張します。

昭和16(1941)年11月22日、新庁舎が竣工、同年の生徒採用数は900名に増加します。

昭和17(1942)年7月31日、第二生徒館裏側に第三生徒館が竣工、同年の生徒採用数は1,000名になります。

昭和18(1943)年、生徒採用数は3,500名に激増、10月1日、岩國分校(昭和20年6月26日、屋代島の久賀國民學校に移転)、昭和19(1944)年10月1日、大原分校舞鶴分校(海軍機關學校を廃校)、昭和20(1945)年3月1日、針尾分校(11月14日、防府の海軍通信學校に移転)が開校します。

昭和19年4月30日、第七十四期生徒を航空班(12月10日、一部を霞ヶ浦海軍航空隊に派遣)、艦船班に区分、選修科學生の教育を停止、生徒採用年齢を特例として14歳に引き下げます。

昭和20年3月19日0710、米艦上機350機が呉湾に停泊中の艦船を主目標に一部は兵校に来襲、生徒3名が散華、7月28日0610、米艦上機950機が呉市街、呉港内の艦船に来襲、第一生徒館、浴場が大破してしまいます。
8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦に伴い、18日、在校生徒(第七十五~七十八期生)を休暇帰省として逐次帰郷(10月1日、生徒差免)させ、残務整理員により残務整理を開始します。

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により海軍施設は内務省を通じ大蔵省に移管(中国財務局呉出張所が管理)されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。

9月26日、米第6軍第10軍団先遣隊F・R・マスター大佐以下6名が呉海軍水上機基地に到着、呉に進駐し呉潜水艦基地隊(9月27日、司令長官官舎に移転)に入り海軍施設14ヶ所(のち3ヶ所追加)を接収、10月10日、第10軍団憲兵隊9名が兵校を接収、残務整理員は海友社に移転、10月末、第41歩兵師団砲兵隊のブレストン中佐以下本隊が到着し日本人労務者を使役し兵器、軍需品の処理を開始します。

11月30日、海軍省の廃止に伴い海軍兵學校は閉校します。

昭和21(1946)年2月1日、英連邦軍(豪主力、英、ニュージーランド)先遣隊J・M・マックゴアン大佐以下7名、13日、第34豪歩兵旅団1,122名が呉港に入港、中国、四国地方に進駐を開始、2月20日、英連邦軍司令部(J・ノースコット中将)が呉鎭守府軍法會議、(財)海仁會 呉集會所に開設され、3月7日、広島県の占領業務は米軍から英軍に移譲、14日、旧兵校は英軍に移管され米軍が江田島より撤退します。

5月16日、英連邦軍司令部が旧兵校に移転、正門が北側に移設され、付近にあった官舎は南側に移築、第二・第三生徒館は司令部、第一生徒館は病院、各学講堂は兵舎、大講堂、行幸記念館は教会、教育参考館は映画館に転用されます。

昭和23(1948)年6月1日、英連邦軍司令部は旧呉鎭守府に移転、昭和24(1949)年2月1日、旧兵校は米軍に移管され、教育司令部、江田島キャンプが設置され、各地に点在した米軍教育部隊が集約されます。

昭和25(1950)年6月25日、朝鮮戦争が勃発、8月10日、警察予備隊が発足し、23日、米式の幹部教育施設として旧兵校に警察予備隊 江田島学校が開校、12月、米呉弾薬部隊本部が第二・第三生徒館に移駐して来ます。

昭和26(1951)年4月、警察予備隊 江田島学校は閉校、米軍特科学校が開校(昭和30年8月15日、閉校)、昭和28(1953)年4月、米呉弾薬部隊本部は旧第十一海軍航空廠に移転します。

昭和30(1930)年7月9日、江田島町は江田島町現況処理特別委員会を発足、連合軍撤退による経済損失と爾後の経済的善処を請願、海上自衛隊施設の移転情報を得て現在の連合軍雇用者の再雇用、不要地域、建物の町への譲渡を要望します。

8月25日、防衛庁が旧兵學校を視察、12月1日、米軍江田島キャンプは広に移転、6日、旧兵學校の返還が決定します。

昭和31(1956)年1月10日、江田島キャンプは閉鎖、返還式が挙行され、15日、防衛庁が供用開始(昭和32年5月、大蔵省から移管)、16日、海上自衛隊 術科学校(昭和33年4月1日、第一術科学校に改称)が横須賀から移転開校し呉練習隊が開設、5月16日、開庁式が挙行されます。
昭和32(1957)年3月20日、呉練習隊は旧呉海兵團に移転、5月10日、術科学校に幹部候補生学校が併設され、現在に至ります。


主要参考文献
『別冊1億人の昭和史 江田島』 (昭和56年5月 毎日新聞社)

『改訂 江田島町史』 (昭和57年3月 江田島町)

『江田島町史』(平成13年10月 江田島町)

『自衛隊施設内の歴史的建造物 昭和編』 (平成18年3月 防衛施設技術協会) 海軍兵学校
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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