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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第六十三聯隊

国宝「松江城」で知られる島根県松江市に歩兵第六十三聯隊がありました。

兵営では後に歩兵第百六十三聯隊歩兵第百四十二聯隊迫撃第一聯隊南洋第四支隊が編成され、歩兵部隊の出征後は第九教育飛行隊が入ります。
歩兵第六十三聯隊 ウ 営門門柱(移設)南西から(島根松江)
▲松江工業高校内に移設されている歩兵第六十三聯隊の営門門柱

【探索日時】
平成25年12月1日、2日、平成30年12月20日





歩兵第六十三聯隊兵営 概略
明治三十七八年戰役(日露戦争)勝利後、陸軍省は安全保障の観点から戦役中に動員された4個師團の常設化、及び2個師團の新設を決定します。

明治40(1907)年、陸軍省は島根、鳥取、岡山の中間にあり交通の便が良く、演習に適した大山、夜見ヶ浜を擁する島根県會見郡米子町(現、米子市)に歩兵第六十三聯隊の設置を内定しますが、それを知った松江市は急遽誘致運動を開始、資産家・森脇甚右衛門、実業家・三島佐次右衛門を上京させますが米子案を覆す事は能わず、岡崎運兵衛代議士に依頼します。
岡崎は松永武吉・島根県知事を伴い上京すると知己の山縣有朋大将、桂太郎大将と面会し松江誘致を懇請した結果、山縣大将は参謀本部に松江案への変更を指示、陸軍省に送達され、9月19日、『陸軍平時編成』・『常備團體表』の改正により歩兵第六十三聯隊は島根県八束郡津田村古志原への設置が決定します。

福岡世徳・松江市長は松江市兵営献納委員会(会長=市長)を組織、年内に田畑、宅地(37件移転)など29町2反4畝19歩を100,000円で買収し陸軍省に献納、明治41(1908)年、臨時陸軍建築部廣島支部の指揮により聯隊施設の造成、建設が開始されます。
10月22日、歩兵第六十三聯隊先発隊が大阪から中国地方での演習を経て到着、11月16日、聯隊本隊が住民の歓呼に迎えられ松江の新兵営に移駐して来ます。
歩兵第六十三聯隊 歩兵第六十三聯隊兵営(島根松江)
▲兵営全景

歩兵第六十三聯隊 歩兵第六十三聯隊営門(最初期)(島根松江)
▲歩兵第六十三聯隊の営門

歩兵第六十三聯隊 ①営門跡付近(交差点内)(島根松江)
▲現在の営門跡(最早、入口でもありません)

大正4(1915)年3月18日、大正14(1925)年5月1日、満洲駐箚、昭和8(1933)年2月1日、満洲事変、昭和12(1937)年8月8日、支那事変に際し歩兵第六十三聯隊留守隊が編成、昭和13(1938)年6月16日、留守隊において歩兵第百六十三聯隊が編成(7月3日、北支へ)されます。

昭和15(1940)年8月7日、歩六十三の満洲移駐(補充は歩四十に)に伴い、歩兵第百四十二聯隊迫撃第一聯隊(昭和16年11月30日、群馬へ)が新編され、11月14日、歩百四十二の比島出征に伴い、同聯隊補充隊が編成、昭和18(1943)年12月13日、補充隊は南洋第四支隊に改編され、15日、モートロックに出征します。
17日、兵営は歩兵第二十一聯隊補充隊(浜田)に移管、昭和19(1944)年2月21日、新田原から第九航空教育隊が移駐、飛行兵の初年兵教育にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

8月28日、兵営は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、9月26日、米第6軍第10軍団先遣隊が呉に進駐を開始、11月6日、米第41歩兵師団第162歩兵連隊のウィルビー少佐以下1,000名が松江に到着、うち600名により兵営は接収され、兵器、軍需品の処理が行われます(昭和21年5月15日、第268英印旅団、昭和22年4月1日、第268インド歩兵旅団、8月18日、第2ニュージーランド海外遠征軍に交代)。

昭和23(1948)年4月、豪軍の縮小に伴い兵営は大蔵省に返還され、島根県、松江市に払い下げられ、8月、県立松江工業高校が移転、及び市営住宅が建設、昭和51(1976)年8月、(財)島根県県境保健公社が開設され、現在に至ります。
歩兵第六十三聯隊 松江(施設のみ)(島根松江)
▲歩兵第六十三聯隊兵営周辺の陸軍施設位置
① 歩兵第六十三聯隊兵営
② 旧松江聯隊區司令部(古志原)・新松江聯隊區司令部(東朝日町)
   歩兵第三十四旅團司令部
③ 松江陸軍病院
④ 松江陸軍練兵場
⑤ 松江陸軍射撃場
⑥ 松江憲兵分隊
⑦ 松江陸軍墓地
名称、位置は昭和15年頃
※緑文字が当記事の紹介施設


遺構について
① 歩兵第六十三聯隊兵営
バレテ峠の死闘で知られる歩兵第六十三聯隊ですが、残念ながら殆ど遺構は遺されていません。
数年前まで松江工業高校内に第一覆練兵場が遺されていましたが校舎新築に伴い破壊、建物は全て滅失してしまいました。
歩兵第六十三聯隊 松江兵営(現在)(島根松江)
▲遺構の配置

ア 至誠碑
昭和12(1937)年2月、営門を入ってすぐの築山に建立されます。
揮毫は第十師團長・松浦淳六中将です。
下記遺構とともに松江工業高校内にまとめて移設されています。
歩兵第六十三聯隊 ア 至誠碑(島根松江)

歩兵第六十三聯隊 ア 至誠碑と当時の石敷き(島根松江)
▲下に敷かれた敷石は兵舎の廊下に敷かれていた石材です

ア 第一覆練兵場入口
同じく移設されています。
第一覆練兵場は最後まで遺る遺構でしたが、校舎新築に伴い破壊され、入口だけが移設され遺されています。
歩兵第六十三聯隊 ア 覆練兵場入口 表側(島根松江)
▲外側部分

歩兵第六十三聯隊 ア 覆練兵場入口 内部側(島根松江)
▲内側部分

歩兵第六十三聯隊 ア 覆練兵場入口 内部側 (2)(島根松江)
▲近影

こちらの『ぶらり重兵衛の歴史探訪』様に在りし日の第一覆練兵場が掲載されています。

ア 歩兵第六十三聯隊跡碑
昭和39(1964)年11月23日、聯隊本部庁舎跡前に建立されました。
当初は聯隊の歴史、偉勲、偉業を刻字する予定で碑文も準備されますが、島根県の圧力により碑文を刻字する事ができず、簡単な略歴にされました。
歩兵第六十三聯隊 ア 歩兵第六十三聯隊跡碑(島根松江)

歩兵第六十三聯隊 ア 歩兵第六十三聯隊跡碑と当時の石敷き(島根松江)
▲こちらの敷石も兵舎の廊下に敷かれていた石材

歩兵第六十三聯隊 ア 覆練兵場入口・歩兵第六十三聯隊跡碑・至誠碑(島根松江)
▲集められた遺構


イ 皇太子御手植松
大正6(1917)年7月6日、皇太子殿下(昭和帝)が行啓の際、聯隊本部庁舎前に御手植されました。
歩兵第六十三聯隊兵営の唯一当時のまま遺る遺構でしたが、残念ながら平成30年に再訪すると枯れて切り倒されてしまいました。
歩兵第六十三聯隊 イ 皇太子御手植松(島根松江)
▲平成25年時点

歩兵第六十三聯隊 イ 皇太子御手植松 碑(松切られる)(島根松江)
▲平成30年時点

歩兵第六十三聯隊 イ 皇太子御手植松 碑(島根松江)
▲根本にある石碑


ウ 営門門柱
将校集会所跡前に移設されています。
吊金具から中央の正門部分の様です。
歩兵第六十三聯隊 歩兵第六十三聯隊営門(昭和11年)(島根松江)
▲昭和11(1936)年頃の営門

歩兵第六十三聯隊 ウ 営門門柱(移設) 南から(島根松江)
▲移設された営門

歩兵第六十三聯隊 ウ 営門門柱(移設)東側 南西から(島根松江)
▲右側の門柱

歩兵第六十三聯隊 ウ 営門門柱(移設)西側 北東から(島根松江)
▲左側の門柱(内側)
  国旗掲揚用の金具が遺ります

歩兵第六十三聯隊 ウ 営門門柱(移設)東側 外側の剥がれ部分(島根松江)
▲門柱は煉瓦躯体にモルタル仕上

歩兵第六十三聯隊 ウ 営門門柱(移設)東側 門札跡(島根松江)
▲門札跡

歩兵第六十三聯隊 ウ 営門門柱(移設)西側 頂部(島根松江)
▲頂部には照明器具の跡が遺ります

歩兵第六十三聯隊 ウ 営門門柱(移設)のある将校集会所跡の土堤 南西から(島根松江)
▲将校集会所周囲に遺る土堤

歩兵第六十三聯隊 エ 将校集会所庭園跡 南端の側溝(島根松江)
▲土堤内側にある石積の側溝

歩兵第六十三聯隊 ウ奥の車回し跡(島根松江)
将校集会所の車回し?

歩兵第六十三聯隊 ウ奥の建物煉瓦(覆練兵場?)(島根松江)
▲営門奥にある建物の壁
  材質からして上記の覆練兵場の煉瓦を転用か?

歩兵第六十三聯隊 ウ 営門門柱(移設)のある将校集会所跡裏にある出入口(島根松江)
将校集会所跡の裏に土留めが遺りますが、躯体がブロックでできており、戦後の物の様です


エ 将校集会所庭園跡
池や築山跡と思われる起伏が遺ります。
歩兵第六十三聯隊 エ 将校集会所庭園跡 南から(島根松江)

歩兵第六十三聯隊 エ 将校集会所庭園跡北端の灯籠残骸(島根松江)
▲築山あたりにある灯籠の竿部分?


オ 階段
歩兵第六十三聯隊 オ 階段(島根松江)
▲石製の階段で半分崩れています


カ 敷石
校内最奥の高台に遺ります。
位置的に酒保の廊下では無いでしょうか?
歩兵第六十三聯隊 カ 石敷き 南西から(島根松江)

歩兵第六十三聯隊 カにある謎石標(島根松江)
▲カ敷石に立つ水準点?


キ 排水施設?
コンクリート枡に金属枠を付けた詳細不明の遺構です。
歩兵第六十三聯隊 キ 配水施設?(島根松江)


ク 階段
右側は比較的新しい物、左側は古い材質ですが陸軍時代の物か不明です。
歩兵第六十三聯隊 ク 階段(島根松江)

※事前に見学予約を入れ見学しています。


③ 松江陸軍病院
明治40(1907)年9月19日、陸軍省は歩兵第六十三聯隊の古志原への設置を決定し、松江市兵営献納委員会は乃木村大字乃木の田畑4,563坪を買収し陸軍省に献納、明治41(1908)年、臨時陸軍建築部廣島支部の指揮により造成、病舎の建設が開始されます。

明治41(1908)年10月16日、松江衛戍病院が開院(佐伯隆資三等軍医正)、10月22日、歩兵第六十三聯隊先発隊に続き、11月16日、聯隊本隊が中国地方での演習を経て移駐して来ます。
明治42(1909)年、病舎がおおよそ完成、明治43(1910)年3月、全設備(事務所、兵舎、倉庫、病棟2)が竣工します。
歩兵第六十三聯隊 松江陸軍病院(島根松江)
▲松江衛戍病院

歩兵第六十三聯隊 松江陸軍病院 正門(島根松江)
▲正門から

昭和11(1936)年11月10日、勅令第三百八十七號『陸軍病院令』公布に伴い、松江衛戍病院は松江陸軍病院に改称します。

昭和12(1937)年7月16日、歩兵第六十三聯隊の支那事変出征に伴い還送患者が激増、12月、日本赤十字社 松江支部病院を管下に編入し、松江陸軍病院 赤十字病院として患者の収容を開始します(昭和14年10月、解除)。

昭和14(1939)年12月10日、北東に隣接して軍事保護院 傷痍軍人松江療養所(結核患者除役後の療養施設)が開院、昭和20(1945)年、松江療養所は松江陸軍病院 松江分院になります。

昭和19(1944)年2月21日、歩兵第百四十二聯隊(旧第六十三聯隊)兵営は第九航空教育隊に転用、松江陸軍病院は航空總軍隷下に編入され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時の院長は有光正美医中佐、病床数258床、分類は三等甲病院でした。

8月28日、陸軍施設は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。
11月19日、我が国は連合国軍最高司令官総司令部から『陸海軍病院の返還に関する覚書(GHQ AG632)』を受領、12月1日、全国の陸海軍病院は厚生省に移管され松江陸軍病院は国立松江病院に改組されます。

昭和28(1953)年4月1日、国立療養所松江病院に改組、昭和46(1971)年、国立島根療養所(旧傷痍軍人松江療養所)と統合し上乃木に移転、跡地は島根県に払い下げられ、昭和51(1946)年2月4日、島根県立厚生センター晴雲寮が建設され、現在に至ります。

外周を周ってみましたが遺構は遺されていない様です。


衛戍・編成部隊
歩兵第六十三聯隊
(鐵五四四七、滿洲第六七九部隊)
明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)勃発、戦役の進展により内地の全常設師團が出征してしまったため、大本營はロシア軍の戦力増強に対応すべく4個野戦師團、後備部隊(歩兵48個大隊、騎兵12個中隊、砲兵24個中隊、工兵12個中隊、輜重兵12個中隊)の編成を企図します。
明治38(1905)年1月13日、後備歩兵第十三・十四旅團、3月31日、第十三師團、4月17日、第十四師團、7月17日、第十五師團、18日、第十六師團の臨時動員が下令されます。

留守第五師團(広島)、留守第十二師團(小倉)に歩兵第六十三聯隊の編成が下令され、7月24日、歩兵第十四、第四十七聯隊補充大隊において第三大隊(藤本知良少佐)、27日、歩十一、歩四十一補充大隊において聯隊本部(石黒千久之助中佐)、第一大隊(岩曽根禮三少佐)、歩二十一、歩四十一補充大隊において第二大隊(岡吉長少佐)が編成され、聯隊の編成完結、第十六師團(山中信儀中将)隷下の歩兵第三十二旅團に配属、8月8日、宮中において軍旗を拝受します。
歩兵第六十三聯隊 歩兵第六十三聯隊 軍旗(島根松江)
▲歩兵第六十三聯隊 軍旗

8月10日、第十六師團は第四軍(野津道貫大将)戦闘序列に編入され、16日、聯隊は広島、小倉をそれぞれ出発、22日、大連に上陸、鉄嶺に集結、25日、遼海屯付近に屯営し師團は軍総予備隊に部署されますが、戦役はほぼ終結していたため戦闘に加わることなく、9月5日、講和条約が締結され戦役は我が国の勝利で終結します。

10月8日、聯隊は鉄嶺を出発、18日、師團は關東總督府(大島義昌大将)隷下に編入され、聯隊本部は旅團司令部とともに営口に位置し営口-大連間の守備にあたります。

明治39(1906)年2月、聯隊は大連に集結、兵站業務、及び南関嶺、旅順口北方の営城子付近の守備にあたるなか、3月、師團に復員下令、4月12日、復員完結します。

明治40(1906)年3月、師團に内地帰還が下令され、3月4日、聯隊は大連を出発、9・10日、大阪港に上陸、浜寺仮兵舎に帰還します。

明治40(1907)年9月17日、日露戦役後、ロシアが着々と極東の兵備強化を推進するなか、陸軍省は安全保障の観点から『陸軍管區表』・『陸軍常備團隊配備表』を改正、戦役中に臨時動員した第十三、第十四、第十五、第十六師團を常設師團に改編するとともに、第十七・第十八師團の新設、及び編合を定めます。
この改正により歩兵第六十三聯隊は第十七師團(一戸兵衛中将、岡山)への編入が決定、明治41(1908)年10月22日、隷属転移(浜田から松江に移駐する歩兵第三十四旅團司令部に配属)し岡山、広島県下で行われた秋季機動演習(11月9日まで)に参加の後、10日、岡山を出発、11月16日、松江市の新兵営に移駐します。

明治41年6月8日、第二中隊(園田元助大尉)は松江を出発、北支那駐屯軍に指揮下に編入され天津に屯営し警備にあたります(明治42年6月27日、帰還)。

明治44(1911)年4月3日、第六中隊(外山榮大尉)は松江を出発、臨時朝鮮派遣歩兵第二聯隊要員として忠清南道公州に屯営し警備にあたります(大正2年5月、帰還)。

大正2(1913)年4月22日、第十二中隊(笹井充大尉)は松江を出発、天津守備隊として29日、天津に屯営し警備にあたります(大正3年7月31日、帰還)。

大正4(1915)年3月11日、師團に第十三師團と交替して滿洲駐箚が下令され、18~24日、聯隊は松江を出発し境港を出航、23~29日、旅順に上陸し訓練にあたります。

我が政府は清国政府と相互協調を図るべく多年に渡る諸懸案の交渉を進めていましたが、清国政府の遅延策により交渉は難航、5月6日、交渉を進展にさせるべく満洲の第十七、内地の第五師團に応急準備を下令、9日、日清間の交渉が妥結したため、11日、応急準備は解除されます。

6月1日、旅順において第十三師團隷下の歩兵第三十聯隊から任務を継承、同地の警備にあたります。

大正5(1916)年3月11日、第一中隊(梅村敏雄大尉以下156名)は新設歩兵第七十九聯隊の基幹要員として抽出、4月1日、朝鮮大田に到着、第二十師團に隷属転移します。

大正6(1917)年5月5日、聯隊は第七師團隷下の歩兵第二十八聯隊に任務を移譲、旅順港を出港、9日、境港に上陸、10日、松江に帰還します。

大正7(1918)年9月4日、第九中隊(長宗我部宮城大尉)は松江を出発、青島守備歩兵第四大隊第四中隊として北支山東省張店に屯営し警備にあたります(大正8年9月30日、帰還)。

大正9(1920)年9月2日、第三中隊(藤井太郎大尉)は松江を出発、10日、済南に到着、同地に屯営し警備にあたります(大正10年9月13日、帰還)。

大正14(1925)年3月27日、第三次軍備整理(所謂、宇垣軍縮)により第十七師團の復帰が公布され、5月1日、第十七師團司令部、歩兵第三十四旅團は復帰、歩兵第六十三聯隊は第十師團(姫路)に隷属転移、歩兵第三十三旅團司令部(郷田兼安少将、岡山)に配属されます。

5月1日、師團は満洲駐箚を下令され、聯隊は第三大隊を留守隊として残置、3日、宇品を出港、7日、旅順に上陸、第六師團隷下の歩兵第二十三聯隊から任務を継承、同地の警備にあたります。

11月下旬、奉郭戦乱(奉天軍閥の郭松齢が首領の張作霖に対し起こした謀反)が勃発、12月9日、聯隊は居留民保護のため歩三十三旅團司令部とともに奉天の警備にあたり、24日、郭軍の惨敗、郭の処刑により戦乱は収束したため、29日、旅順に帰還します(24日、第一大隊は北支那駐屯軍指揮下に編入、大正15年5月26日、聯隊復帰)。

昭和2(1927)年4月15日、第十師團は駐箚任務終了のところ、蒋介石の北伐により中支方面の情勢が悪化したため内地帰還は中止され、聯隊は第十四師團隷下の歩十五に任務を移譲、5月28日、旅團に居留民保護のため青島派遣が下令され、30日、旅順を出発、大連を出港、6月1日、青島の警備にあたります。
7月6日、蒋軍は山東鉄道を破壊し済南に迫ったため、7月6日、旅團に済南進出が下令、7日、聯隊は第三中隊を張店に残置し、旅團とともに済南に進出、8日、師團は山東臨時派遣第十師團を編成、10日、大連を出航、12日、青島大港に上陸、青島、四方、滄口に分駐し警備にあたります。
8月30日、蒋軍の撤退に伴い、師團に内地帰還が下令され、聯隊は済南、張店を徹し、9月8日、青島を出航、12日、広島似島に碇泊、13日、検疫ののち、15日、松江に帰還します。

昭和11(1936)年5月9日、第六中隊は支那駐屯歩兵第一聯隊の基幹要員として乃美五六大尉以下155名は松江を出発、15日、北京に至り支那駐屯司令官の隷下に転属します。

昭和6(1931)年9月18日、張学良による反日侮日政策、及び南滿洲鐡道㈱の権益収奪政策が実施されるなか柳条湖事件(滿洲事變)が発生、關東軍は自衛と在留邦人保護のため鳳凰城、安東、営口など南満洲の要地を攻略しますが、全満洲に渡り東北軍(張学良)に従っていた軍閥が蜂起し割拠、我が軍民を排撃してきます。

12月17日、第十師團に臨時派遣部隊(ほか第二十師團、第八師團歩兵第四旅團)として混成第八旅團(村井清規少将)の編成下令、18日、第三大隊(船津萬六少佐)が混成旅團に編入され、20日、旅團の編成完結、22日、松江を出発し、24日、宇品を出航、28日、大連に到着し、先行し張学良軍を撃破した第二十師團の指揮下に入り、大隊は旅團命令により、29日、奉天、31日、打虎山に進出し通遼までの鉄道警備にあたります。

昭和7(1932)年1月8~18日、八台子に来襲した兵匪、25・26日、旅團とともに打通線西方地区の兵匪を撃破します。
2月6日、遼陽に移駐、23日、旅團は反吉林軍(反日反滿の張学良系兵匪)の丁超、李杜を撃破した第二師團の増援として哈爾濱に移駐し第二師團指揮下に編入され警備にあたり、4月2日、同賓の兵匪討伐に向かいますが兵匪は撤退していたため、13日、一面坡の警備にあたります。

昭和7(1932)年4月5日、關東軍増強のため師團の滿洲派遣が決定し、7日、臨時編成下令、聯隊(中村音吉大佐)は第二大隊を留守隊として残置し、11日、松江を出発、12日、宇品を出港、16日、大連に上陸、18日、哈爾濱に到着、23日、臨時編成第三大隊を掌握、24日、編成改正します。
25日、第三大隊は一面坡西北の兵匪拠点・烏吉密河を急襲し兵匪200を殲滅します。

4月24日、關東軍は丁超、李杜討伐のため松花江作戦を発動、29日、聯隊は歩三十三旅團司令部(歩十・歩六十三)とともに第一大隊を第一梯団として一面坡を出発、哈爾濱を経由し、30日、第一梯団、5月2日、第二師団の旅團主力は舟艇起動により松花江を下航、5月1日、第一梯団は新甸付近で兵匪100、次いで3日、南天門で兵匪200を撃破、追及してきた聯隊に復帰、5月6日、旅團は蟠蟻河左岸の馮占海軍を撃破し、7日、渡河、聯隊は旅團左翼隊として右翼隊の歩十とともに方正の刑占清軍を撃破、第一大隊が通化を無血攻略します。
12日、聯隊は旅團左翼隊として激戦ののち馮莫立を攻撃し丁超軍を撃破、17日、丁、李軍は撤退したため、第十師團は依蘭に入城19日、小濱支隊(聯隊附小濱氏善中佐)は富錦を攻略、26日、哈爾浜に帰還します(8月15日、佳木斯に移駐)。

7月21日、第三大隊は鶴立鎮で反吉林軍50を撃破、31日、北境警備隊(小濱支隊を改称)は富錦に来襲した信志山軍を撃破、9月26日、聯隊は佳木斯を出発、反吉林軍を撃破しつつ勃利県城に入城、敵は県城を略奪し撤退していたため、佳木斯に帰還します。

10月30日、第一大隊は歩十第二大隊とともに哈爾浜北方の巴彦城付近の才鴻猷軍を撃破、11月16日、聯隊主力は陸家崗で信志山、王勇軍3,000を撃破、30日、北境警備隊と連絡し宝清県城を掃討、12月29日、第三大隊は鶴立鎮において劉斌軍を撃破、31日、興山鎮を攻略します。

12月31日、師團は反吉林軍壊滅を企図し吉林省東部国境作戦を下令します。
昭和8(1933)年1月4日、聯隊は師團に策応し佳木斯を出発、5日、狭信子において丁超軍500を撃破、9日、宝清県城に進撃、11日、疲弊した丁超は降伏、24日、師團は吉林省東部の反吉林軍を壊滅させ作戦は終了、聯隊は哈爾濱に集結します。

25日、松江の第二大隊に聯隊追及が下令され、2月1日、松江を出発、4日、哈爾濱に到着し聯隊に復帰、28日、第二大隊は奉天に移駐し混成歩兵第三十三旅團(中村馨少将)の指揮下に編入、張学良に寝返った湯玉麟を討伐し熱河地方の治安回復のため關東軍の熱河作戦に参加、3月11日、界嶺口に集結、歩十指揮下に編入され、16日、界嶺口付近第一回、24日、第二回、4月10~13日、第三回総攻撃を実施し湯軍を長城線外に撃退、16日、抬頭営に入城、20日、哈爾濱に帰還し聯隊に復帰します。

10月11日、師團の第一期、26日、第二期、11月9日、第三期吉林省秋季討伐作戦、昭和9(1934)年1月、冬季討伐に参加し満洲国内の治安を推進します。

師團は内地帰還を前に将来の開拓移民の満洲国入植に備え、民衆宣撫、及び土地買収を開始しますが、3月10日、佳木斯から依蘭に向かっていた聯隊長・飯塚朝吉大佐以下13名が土龍山(大平鎮)付近で謝文東軍の襲撃を受け、遮蔽物の無い地形で応戦、飯塚大佐以下全員が散華してしまいます(3月25日、後任・人見與一大佐着任)。
12日、勃利にあった第六中隊は土龍山に向かい聯隊長以下の遺体を収容、12日、佳木斯の第三大隊、哈爾濱の第一大隊が到着し、付近の謝軍を掃討します。
5月8日、聯隊は哈爾濱を出発、16・17日、松江に凱旋します。
歩兵第六十三聯隊 飯塚朝吉大佐(島根松江)
▲飯塚朝吉大佐

昭和12(1937)年7月7日、北京郊外の盧溝橋北演習場において演習中の支那駐屯歩兵第一聯隊第三大隊に対し、支那第二九軍(宋哲元)が発砲し北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、10日、停戦協定が成立しますが、25日、郎坊事件、26日、広安門事件、通州事件など度重なる支那第二九軍の違法不法行為により、28日、支那駐屯軍(田代皖一郎中将)は自衛、及び抗日勢力を一掃し事件解決を促進すべく攻撃を開始、北京、天津を平定します。
7月、蒋介石軍の北上、介入に伴い、7月27日、第五、第六、第十師團に第五動員一號が下令、同日、聯隊(中井重義大佐)に動員下令、8月7日、動員完結、8日、松江を出発、11日、神戸を出航、16日、大沽に上陸後、豪雨の中を行軍し、18日、天津に集結、27日、第三大隊は子牙河沿いを北上してきた支那軍を撃破します。

28日、聯隊は第一大隊を歩兵第三十三旅團直轄とし聯隊主力により中井支隊(騎兵十、野砲十第三大隊、工兵十一個小隊配属)を編成し子牙河沿いを南下し、29日、二堡付近で支那二九軍第一三二師の兵200、31日、王口鎮で同500、9月6日、東・西子牙鎮で第三機關銃中隊長・高木三郎大尉が散華するなど激戦ののち敵1,000を撃破します。

8月13日、蒋軍の違法行為、挑発により第二次上海事變が勃発、我が軍と蒋軍の全面戦闘に発展、31日、師團は北支那方面軍(寺内壽一大将)隷下の第二軍(西尾壽造中将)戦闘序列に編入されます。

9月12日、東辛荘付近、14日、第十六師團先遣隊の歩三十三第二大隊と連絡、16日、南趙扶鎮で支那第一〇八師の一部2,000を撃破、18日、聯隊は子牙河河畔の作戦地域を第十六師團に移譲し独流鎮へ反転、21日、興済鎮において師團に復帰、師團予備隊に部署されます。
24日、歩四十に続き列車で前進、人合荘で来襲した支那第二〇師第五九旅第一七団の一部を撃破、26日、滄県城に到着、27日、師團第二梯団中央縦隊として滄県城を出発、10月2日、許官荘に集結、歩三十三旅團長指揮下に編入され、4日、第八旅團が徳州を攻略したため、聯隊は黄河停車場に侵攻してきた敵装甲列車の撃退、歩十とともに徳県城周辺の残敵掃討にあたります。

13日、聯隊は師團先頭として平原城南西の劉荘、次いで正荘において支那第一七団を撃破し城内を掃討、第三大隊を挺進隊として南下、11月14日、安仁街、15日、晏城東方において敵を撃破、12月8日、聯隊は師團の黄河渡河を偽装すべく禹城東北に移動し治安工作を実施、12月23日、曲隄東方付近で黄河を敵前渡河に成功、南部延安鎮を確保し師團左翼の歩十と連絡、不意を突かれた敵は敗走、張馬屯で敵を撃破、27日、歩十とともに第一大隊は済南城に突入、支那山東軍は略奪ののち退却したため各城門、省政府施設を確保、28日、聯隊主力は済南に入城、第二大隊はさらに黄山店を攻略します。

27日、聯隊は師團左追撃隊(歩三十三旅團)の主力に部署され、30日、津浦線に沿って南下追撃を開始、昭和13(1938)年1月1日、奉安、4日、曲阜、5日、雛県(第六中隊を両下店に配置)に進撃し警備、及び付近の掃討にあたります。

3月14日、聯隊は旅團左縦隊、第一大隊は同中央縦隊として両下店を出発、香城、三十里舗、16日、南沙河で敵を撃破、17日、臨城を攻略します(南部山東省剿滅作戦第一期)。
20日、嶧県を攻略、22日、第二大隊は台児庄に進撃、24日、攻撃を開始し城内に突入するも激烈な抵抗に苦戦、26日、聯隊主力が加わるも敵の頑強な抵抗に加え集結する支那第三〇軍の増援に攻撃は遅滞、4月5日、師團命令により台児庄東方にあった第五師團坂本支隊(歩二十一基幹)の右側背を援護すべく転進を開始、7日、潘墜に集結し柿樹園を出発、底閣で支那第三〇軍の一部を撃破、坂本支隊と連絡し敵の全面攻勢に備え嶧県に集結、支那第三〇軍8個師の侵攻を連日撃退します。

21日、聯隊は歩三十三旅團左追撃隊として攻勢転移、27日、蘭城店付近で敵2,000、姚家庄で750を撃破、師團は支那第三〇軍を逐次南方に駆逐、5月7日、徐州会戦が発動、14日、第百十四師團と戦線を交代し、黄溝泉に転進集結します。

4月7日、集結した蒋軍50個師(李宗仁)を包囲殲滅すべく大本營は徐州會戰を下令(大陸命第八十四號)、5月7日、北支那方面軍、中支那派遣軍(畑俊六大将)は作戦を発動します。

5月15日、聯隊は臨城を経由し大運河の微山湖を渡渉し徐州西方に進撃しますが、17日、蒋軍は我軍の間隙をついて撤退、師團は敗敵を追撃すべく魯西作戰を発動、聯隊は永城、次いで毫県城、柘城に進撃し、8月17日、第二軍とともに盧州(合肥)に集結します。

7月4日、中支那派遣軍、北支那方面軍、第一軍、第二軍の戦闘序列が更改され、第二軍(東久邇宮稔彦王中将)は中支那派遣軍(畑俊六大将)戦闘序列に編入されます。

8月22日、大本營は漢口作戰(6月15日、御前会議において決定)を下令、9月6日、聯隊は瀬谷支隊(歩三十三旅團)の主力として大別山系以南を進撃中の第十三師團に連携し西進、8日、山地北部の老岳家、陳営子、老賀家の支那第三〇師、第五戦区政治練隊第一大隊1,500を撃破、16日、曲河北岸高地を攻略、20日、光山、次いで28日、羅山に集結します。
30日、支隊左縦隊として羅山を出発、10月2日、芥張を攻略、3日、鄷家店南側の敵3,000を撃破、6日、京漢線沿いの敵1,500を撃破し鉄道を遮断確保、12日、聯隊は師團直轄となり、26日、花山に集結します。
26日、第六師團が漢口を攻略、29日、第十師團は北支那方面軍の戦闘序列に編入され北支移駐が決定、聯隊は湖北省徳安に移駐し警備にあたります。

11月26日、漢口に移駐し、12月5日、南京に到着、浦口から徐州を経由し、19日、石家荘に移駐し福榮地區隊として同地東方の警備にあたります。

昭和14(1939)年1月31日、北支那方面軍は共産第八路軍、鹿鍾麟軍、石友三軍を包囲殲滅すべく南號作戦を発動、2月8日、福榮地區隊は西北の山北地區隊(第一大隊)、西方の毛利地區隊(歩十基幹)とともに担当地区東半分を重点に粛清作戦を実施します(15日、終了)。

8月11日、大陸命第三百二十九號により師團に復員下令、8月下旬、聯隊主力は石家荘に、第一大隊は天津に集結、9月23日、聯隊主力、10月6日、第一大隊は青島を出航、9月30日、10月13日、それぞれ松江に凱旋します。

昭和15(1940)年4月16日、第十師團に軍備改変に関する指示が下達(3単位師團への改変、及び満洲移駐)され、7月10日、『軍備改編要領 其二』により、8月1日、第十師團は關東軍(梅津美治郎大将)直轄として滿洲移駐が発令、同日、聯隊に編成下令、7日、編成完結し、14日、松江を出発し、宇品を出航、18日、羅津に上陸、20日、佳木斯に移駐、聯隊本部を鶴立、第一大隊を羅北、第二大隊を湯原、第三大隊を風翔に配置し、対ソ連戦車戦闘訓練(關東軍佳木斯演習)、架橋訓練、匪賊討伐、警備にあたります。

昭和16(1941)年4月、興山鎮に新兵営が竣工し聯隊は逐次移駐します。

7月16日、特臨編第三號(第百二次動員)により第十師團に臨時動員下令(關東軍特種演習第二次動員)、24日、『關東軍特別演習令』に基づく臨時編成令第二編成二號が下令され、28日、編成着手、企図を秘匿しつつ逐次応急派兵の態勢に移行するとともに、国境付近の要所確保の準備を開始、8月3日、準備を完了、8月1~15日、編成完結、独ソ戦の推移から対ソ連戦を見越した防空、渡河、湿地通過、対戦車攻撃演習を実施します(關東軍特種演習)。
対ソ連開戦に際して第十師團は他の13個師團とともに、東正面(沿海州)に進撃しウオロシーロフ北方を制圧する計画でしたが、8月9日、ソ連軍の西部移駐は予測以下な事から対ソ連開戦は中止され、『帝國陸軍作戰要綱 別冊第二章』に基づき情勢の推移を見つつ、引き続き三江省の警備、対ソ連戦に備えた訓練、演習、研究にあたります。

12月8日、大東亜戦争が開戦します。

昭和19(1944)年7月26日、第十師團の臺灣軍(安藤利吉大将)編入が決定し、聯隊に編成下令(秘匿名「ウ號演習」)、陣地構築を中止し興山鎮に帰還、30日、編成完結(林葭一大佐以下2,300名)、8月13・14日、興山鎮を出発、鶴立より列車に乗車、19日、釜山に到着、9月2日、聯隊は第二梯団として松浦丸に乗船し出港、3日、門司に寄港、9日、玉三七船団として出港、9日、油槽船「千早丸」が敵潜に雷撃され轟沈するも、17日、聯隊は無傷で台湾基隆に上陸します。

20日、聯隊本部を苗栗、第一大隊を後龍、第二大隊を彰化に配置、第三大隊は歩兵第十聯隊指揮下に編入され台南鳳山に配置し、陣地築城、作戦準備、挺進攻撃訓練を開始します。
10月24日、第二大隊は澎湖島守備隊として澎湖島に移駐します。

11月10日、第十師團は第十四方面軍(山下奉文大将、マニラ)への隷属転移、及びルソン島への転進が決定、11日、『十號演習』(比島転進)を始動、聯隊主力は苗栗地区、第三大隊は高雄に集結、夜間斬込みを主体に錬成にあたり、12月4日、高雄に集結、10日、師團長・岡本保之中将は参謀長・土屋榮大佐を伴って飛行機でマニラに先行、16日、師團はマニラ北方のサンホセに配置が決定します。

14日、聯隊主力は野砲兵第十聯隊主力と「大成丸」、第三大隊、第七中隊は「乾瑞丸」に乗船し高雄を出航、21日、「江の島丸」(歩十主力)は船団を離れルソン島北端のアパリに向かい、23日、「大成丸」は北サンフェルナンドに入港、上陸しましたが、第三大隊、第七中隊、輜重十主力、歩十第二大隊、歩三十九第一大隊、野砲十第三中隊、獨立速射砲第二十一大隊の一部が乗船した「乾瑞丸」は上陸地点の北サンフェルナンド目前で敵潜水艦の雷撃を受け轟沈、船員37名・兵員1,502名、兵器、馬匹、資材の大部分を失ってしまいます(歩六十三の損害は大隊副官・宮西中尉以下290名散華)。

27日、聯隊は北サンフェルナンドを出発、30日、師團より作戦命令を受領、31日、第二中隊(前田大尉)にバルンガオ三角山を師團前線拠点として陣地占領させるとともに、第六中隊(足立中尉)を捜索第十聯隊の指揮下に編入しカバリアンに派遣、昭和20(1945)年1月3日、方面軍司令部のあるバギオ南東のサンホセに集結します。

昭和20(1945)年1月4日、米軍機による爆撃、6日からは艦砲射撃が開始され、9日、米軍175,000名がリンガエン湾に上陸、南部のマニラ、北部山岳地帯に侵攻を開始します。

6日、聯隊は方面軍の食糧補給源地帯であるカガヤン渓谷、及び第百五師團の転進路防衛のためプンカン付近に布陣しますが、8日、空襲により師團の燃料、弾薬、工兵爆薬が焼失してしまい、縦深無き同地は作戦遂行上不利なため、9日、師團命令によりマニラからアパリに通じる国道5号道路とマニラ-カガヤン両平地の分水嶺にあたり、南北8kmに渡り急峻な地形が続く天然の要害・バレテ峠に北上、移駐します。

聯隊は師團主陣地左地区隊として縦深40kmにわたり地の利を活かし、プンカンの師團前進陣地(第五中隊配備)後方・デグデグに遊撃隊拠点(2月5日、急遽配置。第一中隊長・松岡昌晴中尉指揮)、その後方プトランに聯隊前進陣地(第九中隊)、さらに後方15kmに縦深10kmの主抵抗陣地(右第一線に第二大隊(根本直少佐)、集成第二中隊、作業小隊、聯隊砲中隊、獨立速射砲中隊、左第一線に第一大隊(板垣肇大尉)、獨立速射砲第五大隊、作業中隊、臨時機關銃中隊)、聯隊本部、予備隊の第三大隊(宮崎三雄少佐)を東北の金剛山に配置、陣地築城を開始します。

10日、師團はカガヤン渓谷、及びバンバン平地への敵侵攻を阻止すべく、サンホセ-プンカンに前進陣地、サラクサク峠道に主陣地右地区隊(捜索第十聯隊基幹)、バレテ峠道に主陣地左地区隊(歩兵第六十三聯隊基幹)、バレテ峠最左翼の妙高山に輜重兵第十聯隊、バレテ峠北のサンタフェに野砲兵第十聯隊、工兵第十聯隊、鈴鹿峠道に津田支隊(第二十六師團獨立歩兵第十一聯隊)を配置します。
※マニラからカガヤン渓谷に通じる路は・・・西側のサンニコラスから北上しサンタフェへ抜けるバイパス道路(サラクサク峠)、中央のサンホセからサンタフェへ抜ける5号道路(バレテ峠)、東側の旧スペイン道(鈴鹿峠)の3本がありました。

15日、バルンガオ三角山の第二中隊は1個小隊を残置、ミヌリの第一大隊に復帰しますが、19日、戰車第二師團の要請を受け、同師團の転進援護のため、22日、ウミンガンに前進します。

16日、サンホセ市街が空襲により焼失、19日、カガヤン渓谷に転進中の第百五師團(津田美武中将)から井上集成第二大隊(井上恵少佐)が第十師團の指揮下に編入され、歩十第二大隊、歩三十九第一中隊、歩六十三第五中隊、野砲第十第一大隊等を配属し米軍の北侵を拒止するためプンカン守備隊としてプンカンに配置します。

1月20日、バルンガオ三角山に戦車を伴う米第6、25師団が侵攻、25日、小隊は第二中隊陣地に転進、中隊は連日、斬込み、肉迫攻撃により敵の侵攻を拒止しますが、2月2日、敵の航空機を伴う3方からの包囲攻撃により中隊長・前田公夫大尉が散華し玉砕、生存者は第二大隊に転進します。

2月1日、サラクサク峠の捜索第十聯隊前進陣地に米第32師団第127歩兵連隊が侵攻、5日、第六中隊(足立安長中尉)は捜索十主力とともに敵の背後に迂回し斬込みを敢行、続いて高地に築城した坑道陣地に拠り敵の意表を突く奇襲により戦車を伴う敵の侵攻を長期に渡り阻止しますが、23日、中隊長・足立中尉が散華、3月1日、遂に玉砕してしまいます。

2月4日、米第6師団の攻撃にサンホセ守備の歩三十九第一大隊第一中隊(吉田勇中尉)が、13日、米第25師団(第27、第161歩兵連隊)の攻撃に歩十第二大隊(内藤正治大尉)が相次いで玉砕しサンホセを失陥、10日、米第25師団がプンカンに侵攻、第五中隊(三橋賢二中尉)はクマ陣地に拠り、サル、トラ、シシ、タカ、スズメ陣地に拠る井上集成大隊とともに夜間斬込みにより敵の侵攻拒止にあたりますが、27日、戦車、迫撃砲を伴う敵の攻撃に第五中隊が玉砕、29日、井上少佐が散華、大隊全陣地が突破されプンカンを失陥してしまいます。

2月5日、第一中隊は聯隊直轄となり、遅滞戦闘により敵情判断(バレテ峠か鈴鹿峠か)しつつ、敵侵攻を拒止すべくデグデグ西方のホン高地に前進、21日、鈴鹿峠防衛のためカラングランに移駐しますが、23日、敵がプンカンより北侵の気配を見せたため再度、デグデグ(第一小隊)・ホン高地(中隊主力)に布陣します。
27日、米第25師団はブンカン、カラングランの2方向からデグデグに侵攻、両翼に敵を受けた中隊は次第に圧迫され、3月2日、松岡中尉が散華、8日、8組4班の斬込み隊を編成、斬込みを敢行しますが、敵の激烈な銃砲火に攻撃は頓挫、中隊は玉砕し生存者52名は第一大隊に転進します。

2月10日、作業中隊長・長谷川中尉以下30名は師團命令によりナチビダットの敵砲兵陣地を奇襲、火砲2門を爆破し生還(2名散華)、敵の火砲援護を一時中断させます。

2月19日、聯隊主力(第一、第二大隊基幹)は方面軍命令によりプンカン奪還を下令され、3月2日、三三〇高地に集結しますが、サラクサク峠の戦局急迫に伴い、作戦は中止され現陣地に復帰します。

2月25日、方面軍はマニラを失陥、3月2日、聯隊予備隊の第三大隊第十(片岡正見中尉)、同第十一中隊(岡野正登中尉)はドバックで歩兵部隊に改編中の戰車第二師團に配属され、3月10日、バレテ峠を出発、12日、インガムに到着、第十中隊はサラクサク峠とバレテ峠を結ぶ要地・マレコ山を占領します。
15日、第十一中隊は斬込みにより米第127歩兵連隊の一部を撃破しサラクサク峠金剛山を奪還しますが、17日、敵の迫撃砲、空襲を受け岡野中尉以下玉砕してしまいます。

3月8日、敵が聯隊前進陣地、プトランに侵攻、射撃の名手が揃った第九中隊は敵歩兵を次々に狙撃し一時、侵攻を阻止します。
敵は歩兵を後退させるとともに戦車、火砲を伴い再び侵攻、激烈な砲撃により、13日、中隊陣地は殆ど破壊され損害が増加するなか、夜間斬込みにより敵資材物資を破壊し多大な戦果を挙げますが、中隊主陣地も次第に圧迫、18日、中隊長・林原修一中尉は「七生報國」を合言葉に生存者6名を率い斬込みを敢行し玉砕してしまいます。

3月18日、前進陣地を突破した敵(第161歩兵連隊)は聯隊主陣地帯に浸透、左第一線陣地では第三中隊(大濱久助中尉)が敵の拒止にあたり、第一大隊の逆襲により敵を一時撃退します。

右第一線陣地では連日の激烈な空襲、銃砲撃を受け第七中隊(米田貴治中尉)は大損害を受け要所・カシ高地を失陥、21日、高地奪還を目指し斬込みを敢行するも敵の銃砲撃に遮られ米田中尉が散華してしまいます。
22日、第二大隊はカシ高地を奪還すべく聯隊砲、迫撃砲の支援のもと2方向(本隊・揺動部隊)から進撃しますが、険峻な地形に揺動部隊の進撃が遅れ、先行した本隊は敵の集注砲火のなか、カシ高地の一角を奪還しますが、敵の逆襲を受け攻撃は頓挫、甚大な被害を受け攻撃は中止されます(歩十第三大隊が秋風山より敵の退路遮断任務を負いますが、敵の主陣地浸透状況に鑑み待機)。

25日、第二大隊は砲迫支援のもと2方向から第二回カシ高地奪還攻撃を実施、歩十第三大隊が秋風山より敵退路遮断を企図し背後に迂回しますが、またも敵の激烈な銃砲火に阻まれ攻撃は頓挫、第二大隊は大損害を受け玉砕寸前まで戦力低下、後方のヤナギ陣地にあった聯隊砲中隊も包囲されたため、敵中を突破し建武台に転進します。

27日、第二大隊は集成中隊を編成、第三回カシ高地奪還攻撃を実施、断崖を登坂し敵の側背に進撃しますが、強化されたカシ高地からの銃砲撃に損害が増加、28日、聯隊命令により遂に建武台陣地に転進します。

4月21日、建武台は連日の砲爆撃により負傷者が続出、5月、榛名山、赤城山に敵が侵攻、第二大隊は敵中に孤立してしまいます。
5月5日、聯隊長は第二大隊に転進を下令、7日、大隊は負傷者を伴い敵中を突破、金剛山に転進します。

4月、第一大隊の逆襲により後退した敵(第27歩兵連隊、第65技術大隊)は道路を開削し、戦車、航空支援を伴い左地區隊(第一大隊基幹)守備の東側・妙高山(輜重十第二大隊守備)、南側・妙義山(第三中隊)に再度侵攻して来ます。
聯隊は予備隊の第三大隊を増派しますが、随所で戦車を伴う敵が浸透、夜間斬込み、肉迫攻撃により拒止にあたるも損害が増加、方面軍から派遣された鐡道第八聯隊(柳中佐)がバレテ峠に到着するも、4月12日、戦闘指導中の板垣大尉が妙義山において散華(後任、中条次作少佐)、第三中隊が玉砕し妙義山を失陥してしまいます。

20日、敵が大隊本部所在の雄健台に侵攻したため、大隊は斬込みを敢行しつつ笠置山に転進、29日、妙高山の輜重十第二大隊が玉砕し、敵は笠置山に侵攻、5月8日、聯隊本部所在の金剛山が包囲され、9日、遂に敵にバレテ峠侵入を許してしまい、11日、敵は北上を開始します。

11日、聯隊と師團司令部との連絡が途絶、12日、師團命令により旗手・小川清龍少尉の捧持する軍旗は敵の包囲を突破し師團戦闘司令所(要山)に奉移、1700、聯隊長・林少将(3月1日進級)は各部隊に転進命令を下達します。

15日、敵の重囲を突破した聯隊は第二大隊を先頭に夜間斬込みを実施しつつ大和川第三合流点に集結(聯隊長以下492名)、18日、四王山に陣地を築城、聯隊は師團主力として師團命令により火砲全損の野砲十とともに敵の北侵を阻止すべく天王山、朝日山に、次いで30日、宝満山への移駐を下令され、6月3日、同地に移駐し連日夜間斬込みを敢行しますが、迫撃砲の砲撃により損害が増加するとともに糧食の補給も途絶して来ます。

5月下旬、米軍がサンタフェに東西から、6月4日、アリタオ、バンバンにも侵攻してきた事により師團の後方連絡線が遮断され、方面軍との連絡も途絶したため、6月10日、師團は歩十第一大隊を先遣隊としてキャジガン方面の米軍を牽制しつつ、バンバン付近の方面軍主力を支援すべくカシブに転進を開始、14日、聯隊は宝満山を出発、23日、ピルクにおいて糧食を収集、27日、ピノンに集結しますが、糧食の欠乏、疲労、マラリアの蔓延により多くの落伍者が発生してしまいます。

30日、師團の背後援護のため、再びピルクにおいて糧食を収集、7月4日、同地を出発し、7月10日、トオン、20日、ブコに到着し休養します(聯隊戦力200名)。
26日、衰弱のため行動不能となった聯隊長・林少将及び救護の16名を残置、第一大隊長・中条少佐の指揮により出発、8月5日、師團集結地・ピナバガンに到着(聯隊戦力90名)します。
10日、第三大隊長・宮崎少佐(8日、聯隊追及)指揮のもと、第四十回軍旗奉拝式を挙行、20日、聯隊長・林少将が追及、9月1日、自活のためウルトウガンに移駐、10日、第十四方面軍より大命による戦闘停止が伝達され、停戦を迎えます。

12日、聯隊長以下将校参列のもと軍旗が奉焼されます。
同日、聯隊はウルトウガンを出発、ピナバガンに収容されますが、同地において第一大隊長・中条少佐が病没、また米軍収容途次、9月16日、サンホセにおいて聯隊長・林少将が病没してしまいます。


歩兵第百六十三聯隊(鷺三九一二)
昭和13(1938)年6月16日、歩兵第六十三聯隊留守隊に第六動員下令、23日、宮中において軍旗を拝受、同日、動員完結(新美二郎大佐)、25日、第百十師團(桑木崇明中将)は北支那方面軍戦闘序列に編入、7月3日、聯隊は同師團隷下の歩兵第百三十三旅團(小野賢三郎少将)に配属されます。
歩兵第六十三聯隊 歩兵第百六十三聯隊 軍旗(島根松江)
▲歩兵第百六十三聯隊 軍旗

聯隊は民家に分宿し、7月4・6日、松江を列車で出発、6・7日、神戸港を出航、10・11日、河北省塘沽に上陸し、12日、聯隊主力は保定、第二大隊は定県に集結、15日、支那駐屯軍より京漢線徐水-新楽間の警備を継承します。
20日、第一大隊(吉澤正太郎中佐)は廊坊に移駐、歩兵第百八旅團長・南雲親一郎少将指揮下に編入され、師團の冀東作戰(夏期討伐)に参加、安次、通州の八路軍を討伐、9月19日、保定に帰還します。

21日、方面軍の五號作戰に参加、第三大隊を警備に残置し、聯隊主力により新美支隊を編成、曲陽に集結、晋察冀辺軍を撃破、10月5日、敵拠点・阜平県城を攻略、周辺を掃討し、27日、保定に帰還します。

12月1日、第一大隊は師團の中號作戰に参加、定興、新城、容城、雄県の八路軍を討伐します。

昭和14(1939)年1月29日、漢口作戰終了による第二十七師團の北支那方面軍復帰に伴い、聯隊は定県に移駐します。
2月2日、方面軍の南號作戰に参加、聯隊主力(第一・第三大隊)により新美支隊を編成、定県を出発、安国に進撃し、安平、10日、深県において冀中軍区・呂正操集団3,000を撃破し衡水に進撃し、20日、第一大隊は安平、饒陽の警備に残置し、定県に帰還します。
9月10日、第一大隊は獨立混成第八旅團配属となり、警備地区に武強、深県が加わります。

10月12日、師團の昭和十四年度第三期粛正作戰に参加、第二大隊は定県を出発、京漢線を列車にて北上し高碑店で下車し、新城県毛公を急襲し激戦ののち八路軍を撃破、24日、第三大隊は大隊討伐を実施し、11月1日、望都県王牛薛において八路軍を撃破します。
10月31日、師團は第三期大行山地粛正討伐を実施、聯隊は歩百十とともに唐県、完県北方山地の八路軍根拠地を覆滅します。
11月7日、黄土鎮付近の討伐中、獨立混成第二旅團長・阿部親秀中将が戦闘指揮所への迫撃砲弾により散華した事を受けた方面軍は大規模粛正を立案、11日、ラ號作戰を発動します。
師團は方面軍直轄として部署、9日、聯隊は新美支隊として獨立混成第二旅團救援に進撃、10日、旅團司令部と連絡、玉皇安-城下台-銀坊-神南鎮-葛公-西唐梅-北鎮-霊山鎮-燕山-東白叉店-阜平に進撃し粛正討伐を実施、12月21日、定県に帰還します。

昭和15(1940)年3月16日、獨立混成第八旅團(第一大隊配属)は冀中地区の水路啓開を企図、ろ號討伐を開始、聯隊は第二・第三大隊を基幹として新美支隊を編成、滹沱河北岸地区を討伐、第一大隊は多量の兵器を鹵獲します。

4月11日、方面軍は冀中平原の主要河川の水路啓開と八路軍の破砕を企図し三號作戰(冀中作戰)を発動、16日、第三大隊は長江討伐隊として大李各庄、4月25日、博野県白塔村、5月25日、東西里揚村において八路軍を撃破します。

8月20日、9月22日、八路軍は百団大戦を発動、方面軍警備地区内の石太線、同浦線、京漢線、鉱山を主目標に交通網破壊を企図し400,000万の兵力で来襲、聯隊警備地区の井陘炭鉱、石太線が甚大な被害を受けてしまします。

方面軍は9月1日、第一期晋中作戰(第一次反撃)、9月23日、察南々境反撃作戰(第二次反撃)、10月11日、第二期晋中作戰を発動、13日、晋察冀邉區粛正作戰を発動、八路軍を随時補足、撃滅します。

11月16日、聯隊は保定に移駐、周辺の討伐、警備にあたります。

昭和16(1941)年4月1日、旅團の前期粛正作戰を発動、18日、聯隊は第二・第三大隊より混成大隊(第三大隊長・長江少佐指揮)を編成、旅團討伐に参加します。

5月7日、第一大隊は聯隊警備地区、及び新號作戰(北部冀中作戰)に参加します。

7月7日、關東軍特種演習が開始され、方面軍は京漢線に沿った500kmの遮断濠の構築(囚籠作戦)を発令、対八路軍の山地封鎖作戦を下令します。
7月1日、方面軍は晋察冀邉區作戰を発動、師團は第二十一師團に警備を移譲、定県、安国、望都に集結し戦闘訓練を実施、7月17日、平山県温蕩鎮に前進し粛正討伐にあたり、8月2日、定県に移駐、10月15日、作戦終了します。

11月27日、聯隊は大李各庄村付近の討伐において第一〇軍分区司令・朱占魁を捕縛します。

12月8日、大東亜戦争が開戦します。

昭和17(1942)年4月7日、軍令陸甲第三十四號により第百十師團に編成改正が下令、5月7日、師團は3単位に改編され、歩兵第百三十三旅團司令部は第百十歩兵團司令部に改編されます。

4月24日、方面軍は河北省中央部の八路軍の物資策源地を覆滅すべく三號作戰(冀中作戰)を発動、作戦地は聯隊の警備区域にあたる事から直接参加はせず、警備態勢のまま県境に沿って囚籠作戦、特火点の構築を促進、5月24日、定県白家庄に来襲した優勢な八路軍(呂正操軍)の一部を撃破、27日、第一大隊は定県南方北担村の共産拠点を包囲、八路軍1個営を殲滅、28日、第二大隊は彝県南方県境において囚籠作戦を推進中、来襲した八路軍460と交戦、饒陽県西張崗において殲滅します。

8月2日、第一大隊は大江混成大隊(第一大隊長・大江芳若少佐)を編成、冀東作戦に参加、加豊潤県、道化県の粛正討伐を実施します。

昭和18(1943)年1月11日、第三大隊は山地封鎖大隊を編成、唐県温家庄の第八中隊とともに西大洋、西赤の八路軍を急襲撃破、封鎖作業を完遂します。

6月1日、聯隊は保定県を出発、4日、石徳線沿線の束鹿県辛集鎮に移駐します。

9月16日、方面軍のオ號作戰(昭和十八年秋季冀西作戦)を発動、第二大隊(阿部直六少佐)を基幹として阿部討伐隊を編成、平山、阜平一帯の山地に構築された八路軍施設を破壊、多量の兵器、物資を鹵獲します。

昭和19(1944)年1月24日、大本營陸軍部は大陸命第九百二十一號により一號作戰(大陸打通作戦)を発動します。
3月3日、北支那方面軍(岡村寧次大将)は一號作戰(大陸打通作戦)前段、南部京漢線打通のため京漢作戰(コ號作戰)を発動、第三大隊は安平を出発、8日、聯隊本部・第一大隊、第三大隊、14日、第二大隊が石門に集結、20日、第三大隊は歩百十指揮下に編入(4月13日、聯隊に復帰)され覇王城に先発、4月8日、聯隊主力が出発、河南省修武県亢村に集結、10日、第一大隊は師團予備に部署されます。
12日、師團は第十二軍(内山英太郎中将)により第一線兵団・軍右翼隊として部署され、15日、聯隊は師團右翼として黄河を渡河、19日、漢王城台地を攻略、20日、第八中隊が摩旗頂高地を攻略、21日、塔山(四八〇高地)に進撃、22日、同高地を攻略、米家鎮西方高地を確保し洛陽方面からの敵反撃に備えつつ、軍主力の迂回包囲作戦態勢確立を待機します。

5月12日、聯隊は密県桃山に集結、湯温伯軍殲滅を企図し第一大隊は師團右挺進隊として出発、2日、聯隊主力は師團左翼として西進、5日、第一大隊は敵を撃破しつつ石橋に進撃し敵の退路を遮断、9日、聯隊主力は湯軍を包囲し殲滅(7,040、俘虜965、火砲7破壊)、付近の掃討を実施、11日、第一大隊は洛陽城攻撃に向かい、聯隊主力は支那第一戦区軍を洛河河峪方面に追撃、17日、史村集付近で3,000を撃破します。

20日、聯隊は馬店を出発、洛陽に反転し、23日、七里河に到着、24日、洛陽城の総攻撃を開始、第一大隊は西関南側外濠を突破し城内に一番乗りを果たします。
25日、第一大隊に続き第二大隊も城内に突入し、城内を掃討します。

28日、聯隊主力は師團予備隊として洛陽、第二大隊は師團直轄として嵩県、第三大隊は孝義鎮に屯営し警備にあたるとともに、北支那方面軍が布告した「三悪(焼くな、殺すな、犯すな)追放指令」を徹底し民心を掌握し、鎮村自衛組織を育成強化し治安維持、民心の安定に努めます。

6月16日、師團命令により聯隊は敵の失地回復の企図を破砕すべく、橋頭村の支那八五軍第一一〇師陣地を急襲攻略します。

9月20日、師團は秋季予西作戦を実施、第一大隊は師團警備区域内に黄河北方より侵攻してきた八路軍冀魯予辺区第三団第五縦隊を討伐します。

昭和20(1945)年1月29日、方面軍は米軍機による我が警備区域の鉄道、自動車道空襲の拠点である老河口飛行場覆滅を企図し、第十二軍に老河口作戦を下令します。
3月10日、軍は老河口作戦を発動、16日、聯隊は第二大隊を残置し師團とともに洛陽周辺を出発、20日、下湯鎮に集結、22日、師團左翼隊として嗤河を渡河し南下、交界付近で敵警戒部隊を撃破、23日、南召県城を攻略、29日、内郷に進撃、29日、内郷-趙川-下集-大石橋道を進撃、4月1日、磨峪湾を攻略、3日、浙川県城に進出、5日、第二大隊が門楼を急襲し攻略し、8日、朱家山に進出、20日、聯隊は大石橋に集結します。
28日、大石橋を出発、蒋介石軍を撃破しつつ白廟-跨子凹-上蒲塘道を進撃、5月6日、4度に渡る激戦ののち一一八〇高地を攻略、10日、聯隊主力は赤水沟に移駐し戦力を回復、25日、第二大隊が西峡口に侵攻してきた蒋軍を撃破します。

6月21日、聯隊は陳平、内郷地区の残敵掃討を実施、7月21日、聯隊は洛陽に帰還する師團を離れ第百十五師團の指揮下に編入され、歩百三十九より西峡口の守備を継承、同地の守備にあたるなか、8月21日、停戦を迎えます。

8月22日、西峡口において軍旗奉拝式を挙行、23日、同地を出発、28日、南陽県城において軍旗を奉焼、9月5日、許昌に到着、8日、許昌を出発、14日、開封において蒋介石軍により武装解除され、収容所に入ります。

昭和21(1946)年3月21日、上海に移駐、31日、上海を出航、4月3日、博多に上陸、部隊解散式を挙行し逐次復員、27日、上海において復員業務にあたっていた第三大隊が上海を出航、5月3日、博多に上陸し復員完結します。


歩兵第百四十二聯隊(夏九八五四、西部第六十四部隊)
昭和15(1940)年7月10日、陸軍省は『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』を発令(其ノ一は航空軍備増強)し常備部隊の編制を改編、既存師團を3単位に改編するとともに獨立歩兵團の新設を決定、後に師團化を想定した占領地治安部隊として第六十一、第六十二、第六十三、第六十四、第六十六、第六十七獨立歩兵團とともに、歩兵第四十一聯隊補充隊(福山)において第六十五獨立歩兵團司令部(奈良晃中将)が編成されます。

8月1日、歩兵第六十三聯隊に歩兵第百四十二聯隊の編成下令、4日、宮中において軍旗を拝受し、7日、松江聯隊區、福山聯隊區の臨時応招者により歩兵第百四十二聯隊の編成完結(吉澤正太郎大佐)し、14日、編成完結した第六十五獨立歩兵團司令部隷下に編入されます。
歩兵第六十三聯隊 歩兵第百四十二聯隊 軍旗(島根松江)
▲歩兵第百四十二聯隊 軍旗

第六十五獨立歩兵團司令部
歩兵第百二十二聯隊(松山)
歩兵第百四十一聯隊(福山)
歩兵第百四十二聯隊(松江)
第六十五旅團 工兵隊
  〃       通信隊
  〃       野戰病院

第六十五獨立歩兵團隷下の歩兵聯隊は本部及び2個大隊(3個中隊編制)、野砲中隊、通信中隊、聯隊砲小隊の変則編制で、定員は2,000名でした。

昭和16(1941)年3月1日、第六十五獨立歩兵團司令部は第六十五旅團司令部に改編され、10月10日、聯隊に動員下令、11月8日、動員完結します。

11月6日、旅團は西部軍より第十四軍(本間雅晴中将)戦闘序列に隷属転移、14日、聯隊は松江を出発、列車にて宇品に移動、16日、聯隊主力、18日、第二大隊は宇品港を出航、22・24日、台湾基隆に上陸し新竹郊外の湖口陸軍演習廠舎に入り、訓練にあたり、12月7日、嘉義市西方の白河陸軍演習廠舎に移駐します。

12月8日、大東亜戦争が開戦します。
10日、第十四軍先遣隊がルソン島北端のアパリとコンサガ、ビガンに上陸し北部の飛行場を攻略、12日、レガスピーに上陸し、18日、ナガ、21日、ダキトを攻略、22日、第十四軍主力(第四十八師團基幹)がリンガエン湾に上陸、24日、第十六師團がラモン湾アチモナン付近に上陸、米比軍の反撃を排除しつつマニラに進撃、昭和17(1942)年1月1日、マニラに突入、2日、マニラを攻略します。

しかし、マニラ、タルラックの米比軍は作戦通りバターン半島に撤退、大本營、南方軍はマニラ陥落を受け今後は残敵掃討と判断、第十四軍隷下にあった第四十八師團(土橋勇逸中将)を蘭印攻略、第五飛行集團をビルマ攻略に転用します。

12月28日から30日、旅團は輸送船14隻に分乗し高雄港を出航、31日から昭和17(1942)年1月1日、リンガエン湾に上陸し旅團はサンファビアンに集結しロザレスを経由し、3日、タルラックに到着します。
5日、聯隊はタルラックを出発、8日、ヘルモサ付近に前進し旅團はH作戰(ジャワ島攻略)に転出する第四十八師團(土橋勇逸中将、熊本。3月8日、マニラ出発)より戦線を移譲されます。

9日、第十四軍は第六十五旅團(半島東側)にバターン半島の攻撃を下命、旅團は歩百四十一を左翼、指揮下の第十六師團歩九を右翼隊としクリース-ヘルモサの線よりナチブ山東麓へ進撃、10日、オロンガポを攻略しますが、敵の迫撃砲を伴う激烈な逆襲を受け進撃は遅滞します。
11日、第二線にあった聯隊は左第一線への進撃を下令され、第一大隊(田邉侃二少佐)を第一線として、12日、カラギナン川北方に進撃、敵の哨戒線を突破、第三中隊(國谷博中尉)はラバンガ河を渡河し米軍陣地を急襲突入しますが、態勢を立て直した敵の銃砲火を受け損害が増加します。
14日、第二大隊(鎌田伴作少佐)がカラギナン河南岸に進出、野戰重砲兵第一大隊の支援射撃のもと敵陣地の一角に突入しますが、激烈な銃砲火に阻まれ損害が増加、大隊は西側(敵左側背)に迂回し、火砲支援のもと突撃、敵第二線まで進撃、続いて第一大隊も攻勢転移しラバンガ河を渡河し鉄条網を啓開、敵陣の一角に突入しますが、またも激烈な銃砲火に阻まれてしまいます。
第一大隊はなおも大隊砲、機関銃を集注し突撃、第二中隊長・山根清中尉、第一機關銃中隊長・鎌形健二中尉が相次いで散華するも、敵第一線陣地を破壊します。
17日、遅滞していた第二大隊正面も野戰重砲兵第一大隊、獨立速射砲第九中隊、野砲兵第二十一聯隊第二大隊の支援射撃を受け、18日、敵第一線陣地の破壊に成功しますが、敵は増援を得て陣地を補強、戦線は膠着状態に陥ります。

13日、第十四軍は第十六師團に2個大隊の増援を下令、19日、木村支隊(第十六歩兵團長・木村直樹少将、歩二十基幹)が歩兵第百二十二聯隊(松山)が攻撃中のモロン南方の敵前進陣地に攻撃を開始するも、頑強な抵抗を受けたため、ナチブ山を迂回しバガックと東海岸との連絡を遮断し、21日、敵前進陣地を攻略しバガック付近に進撃しますが、またも強力な敵の反撃により攻撃は遅滞します。

20日、旅團は山地に攻撃重点を変更、第二大隊は第一大隊後方に転進、第一大隊は対濠作業(塹壕構築)を推進、22日、旅團は攻撃を再興、聯隊は第一大隊第一中隊正面の敵陣に攻撃前進、聯隊砲、機關銃の支援のもと第一中隊は敵鉄条網を啓開、突撃路を開削し突撃しますが、敵の激烈な銃砲火に第一中隊長・角田榮少尉が散華、攻撃は頓挫してしまいます。

23日、サリアン川北側地区の旅團正面の攻撃が進展、旅團命令により聯隊は第一大隊を当面の敵に対峙させ、主力をハト陣地に転進させ、24日、第二大隊を第一線としてナチブ山系の敵陣に夜襲を敢行、遂に敵第一線陣地を撃破、敗走する米軍を本道沿いに追撃しアブカイを突破、第一大隊も攻勢転移し敗敵を撃破しつつバランガに進撃します。

26日、第一大隊はオリオン付近の威力偵察にあたるとともに敵揺動にあたり(29日、タルサイ河屈曲点に集結、旅團予備隊に)、27日、聯隊主力は迂回隊として進撃、28日、オヨンて敵を撃破しパンダム河上流に進撃、右翼隊(歩百四十一基幹)とともにサマット山の敵陣を攻撃しますが、頑強な敵陣に進撃は遅滞します。

31日、旅團は右翼に兵力を増強、第一大隊は歩百四十一(今井武夫大佐)指揮下に編入され、サマット山の敵陣地に攻撃を開始、3日間に渡り攻撃を続行しますが、敵砲撃により聯隊戦力は半分に低下する大損害を受けてしまいます。

2月3日、旅團はリアング西方地区に攻撃重点を変更、第一大隊は聯隊に復帰、聯隊は左援護隊として部署され、攻勢準備を進めますが、8日、全般の状況から本間中将は攻撃の中止を下令、同日、大本營は比島攻略の増援として古豪・第四師團(北野憲造中将、大阪)を第十一軍戦闘序列から第十四軍戦闘序列に隷属転移、第二十一師團より永野支隊(第二十一歩兵團長・永野龜一郎少将、歩六十二基幹)を配属させます。
聯隊は旅團司令部付近に集結、陣地築城を開始、12日、第一大隊は旅團直轄(23日、聯隊に復帰)となりアボアボ河付近の揺動作戦を実施しつつ敵の自動車道建設を妨害、28日、松江より補充兵が到着し戦力を回復します。

3月22日、バターン半島攻撃計画が立案され、旅團は軍総予備に部署されます。

4月2日、旅團命令により第二大隊はレナチン河の陣地を出発、タクパオ河を敵前渡河、激烈な銃砲火を突破しマルジック河合流点西南方台上(軍攻撃重点の西方3km)を攻略します。

3日、効力射準備射撃に続き攻撃射撃の後、軍は総攻撃を開始、第四師團、永野支隊、第十六師團はパンチンガン河右岸-タリサイ河左岸の線に進撃、4日、聯隊は追撃隊として第一大隊を先頭にサマット山西方に進撃、5日、旅團司令部に転進し連絡、6日、旅團先遣隊としてレナチン河において敗敵を撃破、第一大隊はサインサインを攻略します。
9日、0900、バターン半島の米司令官E.キング少将が降伏、聯隊担当地区の敵将第3歩兵師団軍使・ウィリアム大佐が聯隊本部に出頭、降伏してきたため俘虜後送の処置を行い、12日、ヘルモーサーを経由、15日、南サンフェルナンドに集結します。

17日、旅團はタルラックに集結、聯隊は旅團工兵隊を編入され吉澤支隊として、29日、同地を出発、サンホセ-バレテ峠-アリタオを経由し、5月7日、パヨンボンに到着、北部ルソン3州(ヌエバビスカヤ、イサベラ、カガヤン)、第一大隊は田邉支隊として西部ルソン(リンガエン-バレテ峠)の戡定(匪賊討伐)を実施します。
15日、聯隊主力はエチアゲに移駐、20日、パヨンボン東方山中の討伐において小火器多数を押収します。
8月15日、米諜報機関(ナカール中佐)討伐作戦を開始、ピナバガン東南方山地において大型無線機を押収、29日、同東北山地においてナカール中佐を逮捕します。
9月18日、エンリキス討伐作戦を実施します。

11月20日、第六十五旅團は第八方面軍(今村均大将)戦闘序列に隷属転移、23日、旅團司令部、歩兵第百四十一聯隊は西南太平洋への転進を下令され、27日、歩百二十二、歩百四十二を比島防衛に残置しマニラ港を出航、12月3日、ラバウルに上陸します。

昭和18(1943)年2月1日、聯隊はルソン島北端のアパリに進出し宣撫工作、7月1日、ルソン島東海岸の大規模偵察を実施します。

11月16日、比島警備のため獨立混成第三十、第三十一、第三十二、第三十三旅團の編成下令、12月31日、歩兵第百四十二聯隊は復帰、軍旗は聯隊副官・岡田房次郎大尉に捧持され宮中に奉還されます。

聯隊将兵は獨立歩兵第百八十二聯隊(猪狩勝治大尉)の基幹要員、一部は獨立歩兵第百八十一大隊
黒宮隆文少佐)の要員として転属します。
両大隊は獨立混成第三十三旅團(見城五八郎少将)に編入され、比島南部の警備、戡定を実施、昭和19(1944)年6月15日、軍令陸甲第六十三號により旅團は第百五師團に改編されます。


迫撃第一聯隊(西部→東部第四十一部隊)
昭和15(1940)年4月1日、『昭和十四年軍備改變要領、同細則』により、第十師團(師團の満洲移駐に伴い第五十四師團の担当)の担当で迫撃第一聯隊の編成着手、10日、迫撃第一聯隊編成準備のため黒瀬平一大佐以下基幹要員が歩兵第六十三聯隊兵営に来営、聯隊本部庁舎の一部に事務所を開設します。
6月1日、第二次編成着手、10日、完了(聯隊本部、第一中隊、第四中隊、材料廠)します。

8月1日、歩兵第六十三聯隊の満洲移駐が発令され、同聯隊において歩兵第百四十二聯隊、迫撃第一聯隊の編成下令、7日、松江聯隊區の臨時応招者を充足し迫撃第一聯隊の編成完結、第六十五獨立歩兵團司令部隷下に編入されます。
聯隊編制(人員1,055名、馬匹131頭)
聯隊本部
第一大隊 3個中隊 (迫撃)
第二大隊 2個中隊 (瓦斯)
材料廠

聯隊は自動車編成を予定しますが、編成の遅れから自動車定数の半分を馬匹・輜重車で代用します。

聯隊は本部を歩百四十二本部庁舎2階北隅、歩兵砲中隊兵舎の一部を使用、昭和16(1941)年5月、第十、第十二中隊兵舎の一部、第二覆練兵場、酒保・下士官集会所を移管され、覆練兵場南東に専用の営門を設置します。

聯隊将兵は歩兵聯隊と区別のため桜の徽章を付けていたため、地元の方には「桜の兵隊さん」と親しまれました。

昭和16(1941)年3月1日、第六十五獨立歩兵團司令部は第六十五旅團司令部に改編されます。

11月30日、群馬県利根郡沼田町(現、沼田市)の新兵営に移駐、留守第五十一師團司令部隷下に編入されますが、兵営は聯隊本部庁舎しか完成していなかったため、赤城陸軍演習廠舎に入ります。

昭和20(1945)年2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正』により迫撃第一聯隊は復帰、要員をもって迫撃第一聯隊補充隊が臨時編成され東部軍管區司令部隷下に編入されます。

補充隊は編成完結後、決號作戰(本土決戦)に向け各師團建制の迫撃部隊の編成、迫撃兵の教育・訓練、及び補充にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


南洋第四支隊(備→柏一二五〇一)
昭和18(1943)年12月5日、軍令陸甲第百六號により歩兵第百四十二聯隊補充隊は南洋第四支隊に改編のため臨時編成下令、13日、編成完結(飛田正武大佐)し東部軍隷下に編入されます。
支隊編制
支隊本部
第一中隊(藤原獲次中尉)
第二中隊(田中松三中尉)
第三中隊(黒川敏弘中尉)
機關銃中隊(神原帍次郎大尉)
歩兵砲中隊(本多達茂大尉)
軽装甲車中隊(堤卓三大尉)

15日、松江を出発、16日、門司到着、佐伯に集結、24日、佐伯港を出航、昭和19(1944)年1月7日、トラック島に上陸、第四根拠地隊司令官(若林清作海軍中将)の指揮下に編入され、モートロック諸島の警備を下令されます。
12日、トラック島を出航、13日、支隊主力はサトウワン島、第二中隊・機關銃1個小隊はルクノール島に上陸、14日、ター島西端、モーツ島へ歩兵各1個小隊を派遣しサトウワン環礁南北水道封鎖のため機雷を敷設します。

2月7日、B17爆撃機1機が来襲、支隊は対空戦闘を実施しますが、撃墜は能わず本部附金山中尉以下7名が散華してしまいます。

爾後連日の空襲に晒されモートロック航空基地、軽装甲車数量、陣地が破壊されてしまいます。
2月下旬、第四十一警備隊の機銃2個小隊、電波探信儀2基が配備されます。

3月10日、第五十二師團隷下に編入されます。

4月18日、獨立歩兵第三百四十一大隊、野砲1個大隊、工兵1個中隊が増派され、ルクノール島に配置、第二中隊はサトウワン島に移駐します。

4月、2月17・18日の空襲でトラック島は甚大な被害を受け、補給が途絶します。

5月1日、英艦隊17隻(戦艦3、巡洋艦3、駆逐艦6、他5)により艦砲射撃を受けますが、飛田大佐は敵の上陸まで応戦を禁じ陣地堅守を下命、20名散華、無線機1台、電探1基が破壊されてしまいます(陣地損傷は軽微)。

10月30日、獨立歩兵第三百四十一大隊はトラック島に移駐します。

支隊は補給途絶のため自活態勢をとるなか、昭和20(1945)年8月16日、停戦を迎えました。

10月23日、支隊の一部、11月1日、サトウワン島を出航、8日、浦賀に上陸し、11日、解隊式を挙行し復員完結します。


第九航空教育隊(空五七七、西部第百十部隊)
昭和12(1937)年12月10日、満洲国龍江省斉斉哈爾において第九飛行教育隊が編成(田坂國三大佐)、第九飛行團司令部隷下に編入され初年兵に対し半年間の並行(一般教育・教練)、特業教育(電気・機関など専門教育)を行い、地上勤務者の養成を実施ます。

昭和13(1938)年7月5日、第九航空教育隊に改称、引き続き航空兵の初年兵に対し一般教育、特業教育を実施、及び同地の警備にあたります。

昭和16(1941)年2月6日、新田原陸軍飛行場(宮崎)に転営、昭和19(1944)年2月21日、歩兵第百四十二聯隊兵営(旧歩兵第六十三聯隊)に転営、教育にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

17日、教育中の初年兵は逐次復員、教育隊長・坂口正中佐は残務整理を開始、11月6日、米第41歩兵師団第162歩兵連隊に兵営、兵器、軍需品を引き渡します。


主要参考文献
『歩兵第六十三聯隊史』 (昭和49年7月 歩兵第六十三聯隊史編纂委員会)

『歩兵第百六十三聯隊史』 (昭和63年6月 歩兵第百六十三聯隊史編集委員会)

『鳥取綜合聯隊史』 (昭和58年4月 鳥取綜合聯隊史編纂委員会)

『陸軍航空の鎮魂 総集編』 (平成5年4月 陸軍航空碑奉賛会)

『まち歩きマップ 古志原』 (平成25年3月 古志原地区まち歩きプロジェクト委員会)

『津田・古志原郷土史』

『呉市史 第8巻』 (平成7年 呉市史編纂委員会)
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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