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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

宇和島海軍航空隊

現存12天守の1ッ宇和島城が聳える愛媛県宇和島市に宇和島海軍航空隊がありました。
 宇和島海軍航空隊ア 弾火薬庫 (2)(愛媛宇和島)
▲保手公園北麓に遺る弾火薬庫

【探索日時】
平成21年1月5日





宇和島海軍航空隊 概要
急増する豫科練習生の採用に対応すべく海軍省は各地に豫科練航空隊を急速整備、昭和19(1944)年3月15日、呉鎭守府は廃止された敷島紡績㈱宇和島工場を貸借、松山海軍航空隊 宇和島分遣隊が開隊し豫科練教育を開始、7月、呉海軍経理部との間に正式に買収契約が成立します。

昭和20(1945)年3月1日、宇和島分遣隊は宇和島海軍航空隊に改編されます。
8月8日10:30、200kg爆弾(模擬原子爆弾?)が投弾され航空隊員13名、練習生5名が散華してしまいます。
6月1日、豫科練教育は停止され、7月15日、隊は復帰、特攻要員として転隊者以外は松山空隊員とともに、呉鎭守府 第二陸戰隊(20日、第十二特別陸戰隊に改編)に改編されます。
8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

停戦に伴い保安隊(356名)が編成され施設の警備を担当、8月28日、宇和島空は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。
10月21日、米第6軍第24歩兵師団が三津浜港に入港、司令部を愛媛県立図書館に設置、11月30日、J.G.マーケード中尉以下200名が宇和島空を接収、数日滞在し兵器、軍需品の調査ののち松山に戻り、旧宇和島空は大蔵省に返還されます。

昭和21(1946)年10月19日、GHQの指導により『戦時補償特別措置法』が公布され、旧宇和島空は敷島紡績㈱に返還され、紡機30,280台の復元計画が立案されますが、立地、電力供給難から紡績工場としての再生は断念され、パルプまたはカーバイト工場への転換計画案も中止、戦災学校の臨時校舎などとして使用の後、昭和42(1967)年12月22日、旧宇和島空は産業団地造成を計画した宇和島市に売却されます。

昭和43(1968)年、市により造成が開始、昭和47(1972)年8月29日、分譲開始、住宅地にあった工場を中心に移転集約が行われ坂下津工業団地が形成され現在に至ります。

遺構について
宇和島海軍航空隊(敷島紡績㈱宇和島工場)の遺構は戦後の造成によりほぼ滅失しています。
 宇和島海軍航空隊宇和島海軍航空隊 現在(愛媛宇和島)
▲遺構配置

ア 弾火薬庫
温泉の自動販売機の奥にあります。
コンクリート製で山の斜面に沿って造られています。
『引渡目録』によると12㎡ある様です。
 宇和島海軍航空隊ア 弾火薬庫(愛媛宇和島)
▲入口は閉鎖されていますが、奥側が崩壊しつつあり割れています

 宇和島海軍航空隊ア 弾火薬庫 内部(愛媛宇和島)
▲内部


イ 弾火薬庫
上記と並んで遺りますが、造成により壁を遺し大破しています。
『引渡目録』によると30㎡となっており、かなり大きかった様です。
 宇和島海軍航空隊イ 弾火薬庫 壁(愛媛宇和島)
▲壁部分

 宇和島海軍航空隊イ 弾火薬庫 奥の残骸(愛媛宇和島)
▲奥にある残骸

宇和島海軍航空隊には建物の他に敷地内に戦闘指揮所1個、人員用退避壕96個、自動車用掩体6個、機銃砲台11個、南側の斜面に隧道10本がありましたが何れも滅失しています。


ウ 板島橋 親柱
隊門前にありました。
「昭和十四年三月」の刻字があります。
 宇和島海軍航空隊ウ 隊門前の板島橋の残存親橋(昭和十四年三月)(愛媛宇和島)

 宇和島海軍航空隊ウ 隊門前の板島橋の残存親橋付近の橋脚残骸1(愛媛宇和島)
▲来村川に遺る橋台


エ 宇和島海軍航空隊跡
昭和54(1979)年3月、元宇和島海軍航空隊甲飛十四期生、豫科練習生有志一同により建立されました。
 宇和島海軍航空隊エ 宇和島海軍航空隊跡(愛媛宇和島)


実習用魚雷機関部
宇和島海軍航空隊で使用された実習用教材で、宇和島市立歴史資料館に展示されています。
 宇和島海軍航空隊宇和島海軍航空隊 甲種飛行予科練習生実習用魚雷 側面 (2)(愛媛宇和島)
▲全体
  柵があり見通せません

 宇和島海軍航空隊宇和島海軍航空隊 甲種飛行予科練習生実習用魚雷 俯瞰(愛媛宇和島)
▲上から

 宇和島海軍航空隊宇和島海軍航空隊 甲種飛行予科練習生実習用魚雷 機関部(愛媛宇和島)
▲機関部


所在部隊
宇和島海軍航空隊
昭和17(1942)年6月7日、ミッドウェー海戦の結果を受けた軍令部は従前の軍備計画、及び実行中の第五次軍備充實計畫(マル五計畫)を改定、航空兵力を急速かつ画期的に増勢(実用航空隊132隊から347隊へ増加(1隊=常用4・補用2))する事を骨子とし、6月30日、海軍大臣と商議、9月、「改マル五計畫」を策定し随時実行します。

昭和17(1942)年10月1日、第十一期 甲種飛行豫科練習生1,192名が土浦空、三重空に入隊、昭和18(1943)年4月1・5日、6月1日、8月1日、甲飛十二期(以下同様に略)3,215名が3次に別れ土浦空、三重空、鹿兒島空に入隊します。

昭和18(1943)年8月、海軍省人事局は甲飛十三期は前期の10倍近い27,988名を採用します。

10月1日、松山海軍航空基地に隣接し松山海軍航空隊(中村忍大佐)が開隊、呉鎭守府所管、第十九聯合航空隊(練習聯合航空總隊所属)に編入、練習航空隊に指定され、呉鎭守府部隊直卒部隊に部署、飛行豫科練習生教育を担当します。
同日、甲種飛行豫科練習生3,275名が入隊します。

昭和19(1944)年3月15日、松山海軍航空隊宇和島分遣隊(糸永冬生中佐)が開隊、松山空在隊の甲飛十三期から偵察専修者が転隊します(5月、7月、卒業し飛練教程へ)。

4月1日、甲飛十四期生が松山空に入隊し基礎教育を開始、6月、宇和島空に転隊し豫科練教程を履修します(昭和20年4月、終業)。

9月15日、甲飛十五期生が松山空に入隊し基礎教育を開始、11月、宇和島空に転隊し豫科練教程を履修します。

昭和20(1945)年3月1日、宇和島分遣隊は宇和島海軍航空隊に改編(糸永冬生中佐)、第二十一聯合航空隊(呉鎭守府所属)に編入、呉鎭守府部隊第十一聯合航空隊に部署、飛行豫科練習生教育を担当します。

20日、空襲激化に伴い練習生の安全を確保すべく隊内警備隊(定員分隊)を除き、全練習生は呉鎭守府管下の水中・水上特攻基地の設営、航空基地での飛行作業補助・艤装、松根油精製、軍需物資用地下壕建設作業に派遣(疎開)されます。

4月1日、甲飛十六期生が松山空に入隊し基礎教育を開始、6月、宇和島空に転隊し豫科練教程を履修します。

6月1日、官房機密『飛行専修豫備學生、同豫備生徒及飛行豫科練習生教育ニ対スル非常措置』が通達され豫科練教育は停止、在隊中の甲飛十四期生、十五期生、十六期生から水上特攻要員が募集され転隊、残留者は引続き決號作戰(本土決戦)に備え四国各地の特攻基地設営、航空基地防護、軍需品防護作業、陸戦訓練にあたります。

7月15日、宇和島海軍航空隊は復帰、練習生は松山空とともに呉鎭守府第二陸戰隊に改編(20日、第十二特別陸戰隊に改編)、本土決戦に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


敷島紡績㈱宇和島工場 略歴
昭和9(1934)年8月、軍需用の増加に伴う帆布部門の拡張を計画、適地を求めていた近江帆布㈱(明治30年4月12日、設立)は南予地方の消費都市から商工都市への脱却を目指す宇和島市、山川豊次郎・元市長の誘致により、愛媛県宇和島市日振新田(藩政期の干拓地)の52,000坪に工場新設を決定します。

8月10日、宇和島市は工場設置契約を承認、9月、市は旧藩主伊達家より工場用地を購入し、近江帆布㈱に無償提供(埋立に際し1坪に付き1円を市に支払い)します。
昭和11(1936)年6月、工場建設を開始、年末より一部操業を開始、昭和12(1937)年5月、近江帆布㈱宇和島工場が竣工(建坪10,080坪、紡機57,960台※宇和島市誌では60,480台、従業員950名)します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事変(9月2日、支那事変と改称)が発生、事変の長期化に伴い昭和16(1941)年7月4日、紡績聯合協議會における紡績業整備統合の議決(第一次:昭和15年11月8日)により近江帆布㈱は天満織物㈱(明治20年3月17日、設立)と合併、朝日紡績㈱が発足します。

昭和16(1941)年8月15日、原料である綿の輸入が途絶した朝日紡績㈱は宇和島工場の操業を停止、9月26日、休業に入り、全紡機を搬出します。

12月8日、大東亜戦争が開戦、商工省は昭和16年8月28日の休廃止工場の設備供出に次いで、昭和18(1943)年8月、休止工場の転用を示達、昭和19(1944)年2月、朝日紡績㈱は宇和島工場の廃止を決定します。

3月1日、第三次整備統合の議決(昭和18年7月22日)により朝日紡績㈱は福島紡績(明治25年8月5日、傳法紡績㈱として設立)と合併、敷島紡績㈱が発足します。

昭和19(1944)年3月15日、呉鎭守府は敷島紡績㈱から廃止された宇和島工場を豫科練航空隊施設として賃借(7月、買収)、松山海軍航空隊 宇和島分遣隊が開隊(昭和20年3月1日、宇和島海軍航空隊に改編)します。

昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

10月21日、米第6軍第24歩兵師団が三津浜港に入港、司令部を愛媛県立図書館に設置、11月30日、J.G.マーケード中尉以下200名が宇和島空を接収、数日滞在し兵器、軍需品の調査ののち松山に戻り、施設は大蔵省に返還されます。

10月22日、GHQにより教育制度の管理政策が指示、学校教育が再開、戦災により校舎を焼失した学校は市内の寺院に分散し授業を開始します。
宇和島市は大蔵省と交渉、旧宇和島空を借用し鶴島、中央両国民学校の臨時校舎として転用します。

昭和21(1946)年10月19日、GHQの指導により『戦時補償特別措置法』が公布され、旧宇和島空は敷島紡績㈱に返還され、紡機30,280台の復元計画が立案されますが、立地、電力供給難から紡績工場としての再生は断念され、パルプまたはカーバイト工場への転換計画案も中止されます。
旧宇和島空は工業用地として存続しますが、昭和22(1947)年4月1日、6・3制の新学制が実施されるに際し宇和島市の要望により引き続き鶴島小学校、中央国民学校を二分した城北、城南両中学、宇和島商業高校の校舎として使用されます。

昭和23(1948)年9月、鶴島小学校、12月、城北中学校の新校舎が竣工、昭和24(1949)年9月1日、宇和島商業は県立宇和島一高と統合、昭和27(1952)年5月、城南中学校の新校舎が竣工し、それぞれ移転します。

昭和42(1967)年9月9日、山本友一・宇和島市長は臨時市議会において将来の産業団地造成を計画し「坂下津敷紡跡買収の件」を提案、12月22日、旧宇和島空は宇和島市に売却されます。


主要参考文献
『敷島紡績七十五年史』 (昭和43年12月 社史編集委員会)

『宇和島市誌 上巻』 (平成17年1月 宇和島市誌編纂委員会)

『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧 (四)』 (平成21年6月 渡辺博史 楽學庵)

データベース『えひめの記憶』



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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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