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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

米子飛行場 (米子陸軍飛行場) ・ 逓信省航空局 米子乗員養成所 ・ 第八十三飛行場中隊

鳥取県米子市両三柳に所在する陸上自衛隊・米子駐屯地、米子ゴルフ場は米子飛行場(米子陸軍飛行場)逓信省航空局 米子乗員養成所(のち米子地方航空機乗員養成所)の跡地にあります。

同飛行場はのちに第八練習飛行隊の一部、第八十三飛行場中隊第十四対空無線隊が配置されます。
米子飛行場 B 格納庫 北東から(鳥取米子)
▲陸上自衛隊・米子駐屯地に遺る第一格納庫

【探索日時】
平成25年12月3日





米子陸軍飛行場 概略
大正8(1919)年頃、米子町は隣接する加茂村の弓ヶ浜海岸に陸軍軍用機の着陸場として米子飛行場を開設、昭和12(1937)年7月、同飛行場を拡張し米子飛行場を開設します。
昭和13(1938)年6月11日、逓信省航空局は米子飛行場南側に隣接して米子乗員養成所(のち米子地方航空機乗員養成所)を開設、昭和15(1940)年11月、陸軍省が飛行場を拡張(陸軍呼称:米子陸軍飛行場)、同飛行場は民間操縦士の養成、貨物・旅客輸送、陸海軍機の中継地として使用されます。

乗員養成所は所長に現役士官、助教に退役下士官が任命、生徒は卒業後、軍籍に編入され講習を受けるなど陸軍と密接な関係にありました。
米子飛行場 米子乗員養成所の絵(鳥取米子)
▲米子乗員養成所の様子

昭和20(1945)年8月16日、大東亜戦争停戦に伴い米子飛行場、米子地方航空機乗員養成所は米軍に接収されますが返還後、飛行場は米子市によってゴルフ場、乗員養成所は陸上自衛隊・米子駐屯地になり現在に至ります。
※詳細は後述

地元では地名から「両三柳(りょうみつやなぎ)飛行場」とも呼称されています。


遺構について
現在、陸上自衛隊・米子駐屯地内に以下の遺構が遺ります。
米子飛行場 米子 現在(鳥取米子)
▲米子陸軍飛行場の範囲と遺構の配置

① 滑走面
現在は全域が市営米子ゴルフ場、鳥取県立武道館になり、飛行場の面影はありません。
米子飛行場 ①滑走路地区 南東端から北西(鳥取米子)
▲現在の滑走面(米子ゴルフ場)

② 逓信省航空局 米子乗員養成所(米子地方航空機乗員養成所)
敷地内に陸軍特務航空輸送部米子分遣隊、航空局大阪支所米子出張所、中央気象台米子航空観測所が設置され、外周に第八十三飛行場中隊、第六勤務隊、第八練習飛行隊が設置されました。

A 指揮所・待機所
建物全周に窓があります。
残念ながら滅失しました。
米子飛行場 A 南西から(鳥取米子)
▲入口側から

米子飛行場 A 北東から(鳥取米子)
▲飛行場側

米子飛行場 A 内部廊下(鳥取米子)
▲内部
  入口に受付の様な小窓があります


B 第一格納庫
外壁が改修されていますが、軍用では無い小型の珍しい遺構です。
当時は東側に同型2棟があり、西側には陸軍特務航空輸送部米子分遣隊、航空局大阪支所米子出張所の格納庫がありました。
米子飛行場 B 格納庫 南から(鳥取米子)
▲飛行場側
  扉も塞がれ改修されているため格納庫と分かりません

米子飛行場 B 格納庫 北西から(鳥取米子)
▲裏側

米子飛行場 B 格納庫 東から(鳥取米子)
▲側面

米子飛行場 駐機場 東から(鳥取米子)
▲駐機場跡
  現在も広い構内道路になっています


C 食堂
大きな窓を採った建物でしたが、残念ながら滅失しました。
米子飛行場 C 兵舎 南西から(鳥取米子)

米子飛行場 C 兵舎 東側 南西から(鳥取米子)
▲外壁の近影

米子飛行場 C 兵舎 廊下(鳥取米子)
▲内部の廊下


D 第四生徒舎
外壁がかなり改修されています。
当時は同型の生徒舎が6棟ありました。
米子飛行場 D 兵舎 北西から(鳥取米子)
▲全景

米子飛行場 D 兵舎 南東から(鳥取米子)
▲裏側
  かなり改修されています

第四生徒舎の一部は資料館になっています。
米子飛行場 展示品 (1)(鳥取米子)
▲展示室

米子飛行場 展示品 (2)(鳥取米子)
▲展示室

米子飛行場 展示品 (3)(鳥取米子)
▲停戦時、米子陸軍飛行場で待命中の特別攻撃隊「渡辺隊」の方の寄贈品
  隊長が「渡辺」氏の待機特攻隊は第三百十五(渡辺彦治少尉)、第三百二十部隊(渡辺清少尉)がありますが、詳細不明

米子飛行場 展示品 (4)(鳥取米子)
▲飛行機の部品など

米子飛行場 展示品 (5)(鳥取米子)
▲郷土の方が入営した歩兵第六十三聯隊の様子
  なぜか岐阜の歩兵第六十八聯隊(右側)の軍旗写真があります


E 建物
用途不明の建物です。
戦後の空撮を見ると、元々は倍ほどの長さがあった様です。
米子飛行場 E 北西から(鳥取米子)


ア 米子航空機乗員養成所之碑
昭和51(1976)年10月11日、米子航空機乗員養成所記念碑建設委員会により建立されました。
米子飛行場 ア 米子航空機乗員養成所之碑(鳥取米子)


米子陸軍飛行場 略歴
大正8(1919)年頃、米子町(昭和2年4月1日、米子市に)は西伯郡加茂村の弓ヶ浜海岸に陸軍軍用機の着陸場として東西700m×南北250mの町営米子飛行場を設置します。

昭和9(1934)年、政府が日本海側における日本-朝鮮-台湾を結ぶ国際空路開発を計画中との情報を得た米子町は、隣接する加茂村と協力し飛行場誘致期成同盟会を結成、政府に陳情を繰り返した結果、第六十八回帝國議會において同じく誘致を行っていた松江市、新潟市を抑え米子町に飛行場設置が決定します。

用地は旧米子飛行場を拡張する形で727,220㎡(219,984坪)が選定され、総工費220,000円のうち半額は国庫、30,000円は県費補助で賄われ、市の負担80,000円も有力者を含め多数の寄付金が集まります。

昭和11(1936)年7月1日(5月1日説あり)、起工式ののち、北側海岸に防風林を植樹、整地には7kmの軽便鉄道が敷かれ機関車4両、土運搬車210台が用いられ多数の勤労奉仕も加わり、昭和12(1937)年7月、東西910m×南北700mの米子飛行場が竣工します。

昭和13(1938)年6月11日、南側に隣接して逓信省航空局 米子乗員養成所が開設(用地買収・建設経緯は不明)、飛行場完工式が挙行され、13日、逓信省告示第千八百八十八號により設置の目的は公共用、経営者、所有者は米子市、種別は陸上飛行場と設置許可が告示されます。

昭和12(1937)年12月2日、陸軍航空本部は米子集中飛行場(陸軍分類のハブ空港の意)を拡張すべく加茂村の隣接民有地(東側と南側か?)の用地買収を決定、第十師團経理部は昭和13(1938)年3月25日、63,448坪を55,951円、昭和14(1939)年2月10日、30,114坪を28,880円で買収(補償費含む)、官有地を移管し、昭和15(1940)年、拡張工事を実施します。
陸軍が拡張した理由は資料が無く不明ですが、昭和12(1937)年7月7日、支那事変が勃発、臨時航空兵團は北支に進出するも、天候不良による遅延、事故が多発した事から、当時裏日本唯一の米子飛行場を従来通り利用すべく、軍用機用の標準規格である1,200m滑走路に拡張したと思われます。

昭和15(1940)年11月、第十師團経理部は飛行場拡張部を陸軍航空本部に引き継ぎ、米子陸軍飛行場が発足します。
※米子飛行場は正式には市営ですが、陸軍省の扱いは陸軍飛行場

昭和14(1939)年10月10日、大阪-米子間の航路(郵便、貨物)、昭和15(1940)年4月1日、大日本航空輸送㈱により東京-米子-京城間の航路(旅客)が開設されます。

昭和15(1940)年3月2日、米子乗員養成所は米子地方航空機乗員養成所に改称します。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争が開戦、戦局の推移に伴い南方に前進する陸軍飛行部隊の中継地として運用されます。

昭和18(1943)年11月1日、海陸輸送体制の強化を図るため逓信省は鐵道省と統合され、運輸通信省が発足します。

昭和19(1944)年1月15日、近隣の美保海軍航空基地に第二美保海軍航空隊が開隊、中練教程を開始しますが、山陰特有の天気急変の際の退避飛行場として利用されます。

昭和20(1945)年5月19日、運輸通信省から通信院が分離し運輸省に改称します。

昭和20(1945)年4月、第八練習飛行隊の一部(本隊は鳥取陸軍飛行場)、4月15日、第八十三飛行場中隊、20日、第十四対空無線隊が進出、7月1日、『米子飛行場規定』が定められ、運用方針が規定されます。
26日、第八練習飛行隊において特別攻撃隊第三百八十九、三百九十、三百九十一、三百九十二部隊を編成、教育、錬成にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

10月21日、米第6軍第10軍団第24歩兵師団が香川県三津浜港に入港、26日、愛媛県立図書館を接収し司令部を開設、11月2日、米陸軍航空軍コート代将以下が美保海軍航空基地を接収、19日、米子陸軍飛行場・米子地方航空機乗員養成所も接収され兵器・軍需品の処分ののち乗員養成所は運輸省に返還、飛行場滑走面は実弾射撃場に転用されます。

昭和25(1950)年6月25日、朝鮮戦争が勃発、8月10日、『警察予備隊令』が公布されると、18日、米子市議会は日本海側への朝鮮人密航、戦乱便乗者による騒擾を防ぐべく警察予備隊の誘致を開始、11月2日、米子航空機乗員養成所跡への駐屯が決定します。
25日、海田市駐屯地より設営隊36名が到着、12月22日、普通科第8連隊第3大隊の編成が完結します。

昭和27(1952)年10月15日、警察予備隊は保安隊、次いで昭和29(1954)年7月1日、自衛隊に改編され陸上自衛隊・米子駐屯地(第7普通科連隊第2大隊、昭和30年10月1日、8普連第3大隊、平成11年3月29日、8普連に改編)が発足し、日夜我が国の平和を守っています。

また、飛行場跡は昭和33(1958)年、大蔵省に返還ののち、陸軍省用地は防衛庁に移管され自衛隊訓練場に、昭和35(1960)年、市有地は大蔵省から米子市に返還され、昭和38(1963)年8月26日、市営米子ゴルフ場が開場し現在に至ります。

記事執筆にあたり何時もお世話になっているブログ『空港探索』管理人・とり様より多数の資料紹介、御助言を頂きました。
この場を借りて御礼申し上げます。
ありがとうございました!


所在部隊
逓信省航空局 米子航空機乗員養成所
明治36(1903)年12月17日、米国ノース・カロライナ州キティーホーク海岸においてライト兄弟が発動機付き複葉機による人類初の有人動力飛行に成功します。
事後、飛行機の発展とともに陸海軍を中心に操縦士教育も発展して行きます。
当初、民間操縦士は民間飛行学校(阪神飛行學校、天虎飛行研究所など)において養成されていました。
大正9(1920)年7月29日、『航空局官制』(勅令第二百二十四號)が公布され、8月1日、陸軍省外局として航空局が開設、10月19日、『航空機操縦生採用規則』(陸軍省令第三十四號)が公布、大正10(1921)年1月より第一期操縦生10名が陸軍飛行學校(所沢)に委託(第三期から海軍委託生が霞ヶ浦海軍航空隊において、大正13年10月15日から航空機関士が東京府立工芸學校において)され養成が開始されます。

大正12(1923)年4月1日、航空局は逓信省の外局に移管(勅令第百二十三號)されます。

昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(満洲事変)、昭和12(1937)年7月7日、北支事変(9月2日、支那事変と改称)が発生、陸海軍の航空部署は繁忙化し教育に専念するのが困難になるなか、逓信局は自前の養成所設置を決定、昭和14(1939)年11月、最終期の卒業を待ち陸軍18期99名、海軍16期64名、合計163名で委託を終了、昭和16(1941)年3月、機関士も11期160名で終了します。

昭和13(1938)年6月11日、逓信省航空局は米子乗員養成所、仙臺乗員養成所の2箇所を開設、それぞれ20名づつ第一期操縦生が入所(昭和14年1月、卒業)します。
※閉鎖まで民間の名古屋、阪神、日本、亜細亜、堺水上機各飛行學校、天虎飛行研究所に合計78名を委託します。
乗員養成所の所長は現役陸軍士官(中佐・大佐)、助教は退役下士官が充当されました。

操縦生の受験資格は中学3年修了ないし卒業者で衣食住は全て国が支出、全員が生徒舎に起居し、教育は軍に準じ入所後8ヶ月(のち1年)で卒業しました。
生徒には卒業とともに二等航空機操縦士・同航空士の免許が公布され、軍籍に編入、続いて6ヶ月軍用機による教習を受講、卒業とともに陸軍伍長、海軍一等飛行兵曹に任官し除隊、中央航空機乗員養成所に進む、民間航空会社に就職、乗員養成所の助教に就任など進路が用意されます。

10月、第二期生25名、熊谷陸軍飛行學校委託生1名が米子、2名が阪神に入所します。

昭和14(1939)年4月10日、阪神飛行學校(大阪)、天虎飛行研究所(滋賀)に米子、亜細亜飛行學校(東京)に仙臺の分教所(5月31日、閉鎖)が設置されます。

昭和15(1940)年8月28日、阪神飛行學校の閉鎖に伴い阪神分教所が閉鎖されます。

昭和15(1940)年3月2日、米子乗員養成所は米子地方航空機乗員養成所に改称、新たに本科生制度が発足、昭和16(1941)年4月、米子に60名が入所(時局柄、中学2年生、高等小学校卒業生以上を本科三年生として採用)します。

本科生の受験資格は尋常小学校初等科卒業者で衣食住は全て国が支出、月額4円の手当が支払われ、全員が生徒舎に起居し、入所後5年で卒業しました。

就業中に甲種工業学校制度により一般中学校程度の普通学科(入所3年)、航空関係の工業教育(航空機製作の概要、修理、整備技術)、飛行機・滑空機の操縦技術を習得(4年生進級前に適正検査により選別)、卒業とともに二等航空機操縦士・同航空士・同滑空士の免許が公布されました。

昭和19(1944)年7月、最後の第十四期操縦生(昭和18年10月、入所)が繰り上げ卒業します。
十四期712名(ほか阪神、天虎分教所約40名)が米子乗員養成所、米子地方航空機乗員養成所を卒業します。

昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』が煥発され、16日、停戦に伴い米子以下全国の航空機乗員養成所は閉鎖されます。
教育中の本科三期生60名は昭和21年3月の卒業を繰り上げ9月、本科四期生60名は12月に繰り上げ卒業、本科五期生60名、七期生90名(米子は六期生の入所無し)は帰郷後、地元の中学に転入しました。

米子乗員養成所卒業者712名中76名が散華、125名が殉職、米子地方航空機乗員養成所卒業者120名中2名が散華、3名が殉職、うち24名が特別攻撃隊として征かれました。


第八練習飛行隊(空五四二)
昭和15(1940)年10月1日、大刀洗陸軍飛行場において大刀洗陸軍飛行學校が開校、少年飛行兵(戦闘分科)を担当、菊池、隈庄、大邱、郡山に分教所を設置します。
のち筑後、知覧、目達原、高鍋、新田原、木脇、岡山、京都、太田、京城に教育隊を設置、幹部候補生、特別操縦見習士官、特別幹部候補生の教育も担当します。
昭和20(1945)年2月20日、戦局の悪化に伴い大刀洗陸軍飛行學校は閉校、第八練習飛行隊に改編、大刀洗において四式高等練習機、九五式練習機により操縦準備教育、基本初歩操縦教育を実施しま。
4月、空襲の激化により鳥取陸軍飛行場、一部は米子陸軍飛行場に移駐、7月26日、特別攻撃隊第三百八十九、三百九十、三百九十一、三百九十二部隊(部隊名未定)を編成し教育にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


第八十三飛行場中隊(燕→靖一九五四六)
昭和20(1945)年4月15日、編成(岩本幸策中尉、定員262名)、米子陸軍飛行場に本部、第六勤務隊(隊長は飛行場長を兼務)を展開、6月1日、隊長は飛行場司令を兼務、飛行場の管理、通過する陸軍機に対し整備を担当するなか、停戦を迎えます。


第十四対空無線隊(靖二一二〇六)
昭和19(1944)年7月30日、第十九飛行團通信隊の人員、資材、器材を増強し編成(重村清大尉)、主力は小月(本部)、蘆屋、大刀洗、築城、防府、広島、米子の各陸軍飛行場、海軍航空基地、民間飛行場に展開、昭和20(1945)年4月20日、一部が門司港を出港、済州島に上陸、済州島、大邱に展開し飛行部隊との通信を担当するなか、停戦を迎えます。

ほか米子陸軍飛行場には陸軍特務航空輸送部米子分遣隊、航空局大阪支所米子出張所、中央気象台米子航空観測所、航空局羅針所が置かれました。


主要参考文献
『新修米子市史 第3巻 通史編 近代』 (平成17年2月 米子市史編さん協議会)

『新修米子市史 第4巻 通史編 現代』 (平成20年2月 米子市史編さん協議会)

『陸軍航空の鎮魂 総集編』 (平成5年4月 陸軍航空碑奉賛会)

『日本民間航空史』 (平成15年2月 佐藤一一 国書刊行会)

アジ歴資料(米子飛行場、米子陸軍飛行場、米子集中飛行場関連)

『空港探索・3』「米子陸軍(米子両三柳)飛行場跡地」
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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