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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第二十一聯隊

伝統芸能「石見神楽」で知られる浜田市に歩兵第二十一聯隊がありました。

兵営では後に歩兵第四百十八聯隊歩兵第四百六十二聯隊歩兵第三百四十七聯隊が編成されます。
歩兵第二十一聯隊 A覆練兵場 北東から (表紙)(島根浜田)
▲浜田市立第一中学校に遺る第一覆練兵場

【探索日時】
平成25年12月4日





歩兵第二十一聯隊 概要
明治28(1895)年4月17日、日清間に講和条約が締結され、明治二十七八年戰役(日清戦争)が終結します。
講和条約により我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月14日、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、特にロシアの軍備は脅威的な事から我が国は安全保障の観点から軍備増強を決定します。
参謀次長・川上操六中将の発案のもと、陸軍省は第九回帝國議會(明治28年12月28日~明治29年3月28日)において6個師團、2個騎兵・砲兵旅團の増設を上程し、議決されます。

明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し、第七から第十二師團の編成、歩兵第二十一聯隊の広島から島根県那賀郡石見村黒川(現、浜田市)への転営を決定します。
8月、臨時陸軍建築部は施設配置を決定、秋頃より測量を開始します。
明治30(1897)年4月、官有地を陸軍省に移管、第五師團監督部が用地買収ののち、9月15日、夕べヶ岡麓において出雲大社教・男爵千家尊統管長を祭主として地鎮祭を斎行し臨時陸軍建築部廣島支部の指揮のもと建設を開始、明治31(1898)年7月、兵営ほか施設が竣工、7月24日、広島から歩兵第二十一聯隊が近隣住民50,000人の観衆に迎えられ転営して来ます。
歩兵第二十一聯隊 兵営南から(島根浜田)
▲南側の山上から見た兵営全景

歩兵第二十一聯隊 営門(島根浜田)
▲歩兵第二十一聯隊 営門

歩兵第二十一聯隊 営門付近(ア南側)(島根浜田)
▲現在の営門跡

明治27(1894)年5月5日、東学党の乱(朝鮮)、明治33(1900)年7月3日、北清事変、明治37(1904)年4月25日、明治三十七八年戰役(日露戦争)に伴う聯隊の出征に際し、歩兵第二十一聯隊補充大隊、大正4(1915)年3月11日、満洲駐箚に際し留守隊、昭和12(1937)年7月27日、支那事変出征に際し歩兵第二十一聯隊留守隊が編成、昭和15(1940)年7月1日、留守隊は補充隊に改称、昭和20(1945)年2月28日、歩兵第四百十八聯隊歩兵第四百六十二聯隊を編成、4月1日、補充隊は廣島師管區 歩兵第二補充隊に改称、6月8日、歩兵第三百四十七聯隊を編成、20日、廣島師管區は中國軍管區に改称、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

28日、兵営は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、9月26日、米第6軍第10軍団先遣隊が呉に進駐を開始、11月6日、米第41歩兵師団第162歩兵連隊のウィルビー少佐以下1,000名が松江に到着、うち200名により兵営は接収され、兵器、軍需品の処理が行われます(昭和21年5月15日、印マハラッタ軽歩兵連隊第1大隊、昭和22年4月1日、第268インド歩兵旅団、8月18日、第2ニュージーランド海外遠征軍に交代)。

昭和22(1947)年8月31日、第2NZ軍は撤退し施設は大蔵省に返還、昭和23(1948)年4月1日、兵営北半分に市立浜田市中学校(昭和25年4月1日、市立第一中学校に改称)が、昭和25(1950)年4月18日、南側半分に県立浜田高校がそれぞれ殿町から移転し、西側一帯は浜田市、農協等に払い下げられ市営住宅、JAいわみ、一般住宅等に造成され現在に至ります。
歩兵第二十一聯隊 浜田現在(島根浜田)
▲歩兵第二十一聯隊関連施設の配置
① 歩兵第二十一聯隊 兵営
② 濱田陸軍病院
③ 濱田陸軍練兵場
④ 濱田陸軍射撃場
⑤ 濱田歩兵作業場
⑥ 濱田憲兵分隊
⑦ 濱田聯隊區司令部
⑧ 歩兵第二十一聯隊長 舎宅
⑨ 松原将校舎宅
⑩ 天滿 〃
⑪ 杉戸 〃
⑫ 清水 〃
※緑文字が当記事の紹介施設


遺構について
① 歩兵第二十一聯隊 兵営
現在、市立第一中学校、県立浜田高校、住宅地になっており、下記の遺構が遺ります。
歩兵第二十一聯隊 浜田現在1(島根浜田)
▲遺構の配置

A 第一覆練兵場
『島根県の近代遺産』によると“明治31(1898)年築”と記載されていますが、アジ歴の史料を見ると、明治45(1912)年、第十七師團経理部から陸軍省に山陰の風雪の多い天候に対応すべく浜田に2棟、松江に1棟の覆練兵場を建設する伺いが出され、大正元(1912)年8月22日、陸軍省より経費が認可、大正2(1913)年6月18日、建設が許可された様です。
平成9(1997)年5月、両者ともに国の登録有形文化財に登録されます。

現在、浜田第一中学校体操部の練習場として使用されていますが、驚異的な保存度です。
ただ、建物が建て込んでおり見にくいです。
歩兵第二十一聯隊 A覆練兵場 北東から(島根浜田)
▲北東側から見た全景
  最も見通せる角度です

歩兵第二十一聯隊 A覆練兵場 南東から(島根浜田)
▲南東側から見た全景
  物置が邪魔です・・・

歩兵第二十一聯隊 A覆練兵場 北西から(島根浜田)
▲外周から見た全景

歩兵第二十一聯隊 A覆練兵場 北西から (2)(島根浜田)
▲北側の壁面

歩兵第二十一聯隊 A覆練兵場 小屋根 北から(島根浜田)
▲明り取りの小屋根も当時のままと思われます

歩兵第二十一聯隊 A覆練兵場 東側入口(島根浜田)
▲東側の閉鎖されている入口
 入口周囲の孔は庇の取り付け穴です

歩兵第二十一聯隊 A覆練兵場 東側大窓(島根浜田)
▲西側の切妻は当時のままの様です

歩兵第二十一聯隊 A覆練兵場 西から(島根浜田)
▲西側の壁面

歩兵第二十一聯隊 A覆練兵場 内部 西側入口(島根浜田)
▲西側の入口
  当時のまま遺ります

歩兵第二十一聯隊 A覆練兵場 内部 西から(島根浜田)
▲内部

歩兵第二十一聯隊 A覆練兵場 内部 南側壁面(島根浜田)
▲壁面
  近日中に耐震補強工事が施工されるとの事で、
  下記B第二覆練兵場の様になると思われます

歩兵第二十一聯隊 A覆練兵場 内部 天井(小屋根)(島根浜田)
▲小屋組は鉄骨でできています

歩兵第二十一聯隊 A覆練兵場 西側にある営門笠石等残骸(島根浜田)
▲覆練兵場西側にある門柱の笠石
  覆練兵場北側にあった通用口の物と思われます


B 第二覆練兵場
建設経緯は第一練兵場と同じです。
現在、浜田高校野球部の屋内練習場として使用され、平成24(2013)年、耐震補強が行われました。
こちらもかなり見通しが悪いです。
歩兵第二十一聯隊 B覆練兵場 南西から(島根浜田)
▲南側外周から見た全景

歩兵第二十一聯隊 B覆練兵場 北東から(島根浜田)
▲北側から見た全景
  かなり改修されています

歩兵第二十一聯隊 B覆練兵場 東から(島根浜田)
▲東側から見た全景

歩兵第二十一聯隊 B覆練兵場 小屋根(島根浜田)
▲小屋根も改修されています

歩兵第二十一聯隊 B覆練兵場 南西から (2)(島根浜田)
▲西側入口は大きく改修されています

歩兵第二十一聯隊 B覆練兵場 南東から(島根浜田)
▲東側入口も大きく改修されています

歩兵第二十一聯隊 B覆練兵場 内部 東から(島根浜田)
▲内部

歩兵第二十一聯隊 B覆練兵場 内部 北東から(島根浜田)
▲壁面は耐震工事によりコンクリート補強されてしまいました

歩兵第二十一聯隊 B覆練兵場 西側のコンクリート構造物(島根浜田)
▲第二覆練兵場西側にある井戸
  この辺りには厩舎があったため、馬の飲料用井戸と思われます

歩兵第二十一聯隊 B覆練兵場 西側の煉瓦基礎 南東から(島根浜田)
▲第二覆練兵場西側にある基礎
  輓馬用具庫の基礎と思われます

※第一、第二覆練兵場の見学に関しては夫々の学校の許可を得て敷地内から見学させて頂いています。

ア 歩兵第二十一聯隊跡 碑 ・ 歩哨舎
歩兵第二十一聯隊 ア「歩兵第二十一聯隊跡」碑・歩哨舎(移設)(島根浜田)
▲全景

跡碑は昭和45(1970)年8月25日、軍旗拝受日に建立されました。
歩兵第二十一聯隊 ア「歩兵第二十一聯隊跡」碑(島根浜田)

歩兵第二十一聯隊 ア「歩兵第二十一聯隊跡」碑 副碑(島根浜田)
▲横にある副碑には聯隊の戦歴が刻字されています

跡碑の両側には歩哨舎が2基移設されています。
位置から1基はこの南側にあった営門の物、もう1基は不明です。
歩兵第二十一聯隊 ア歩哨舎(移設・南側)(島根浜田)
▲南側の歩哨舎

歩兵第二十一聯隊 ア歩哨舎(移設・南側) (2)(島根浜田)
▲何かを外した跡があります

歩兵第二十一聯隊 ア歩哨舎(移設・北側) (2)(島根浜田)
▲北側の歩哨舎

歩兵第二十一聯隊 ア歩哨舎(移設・北側)(島根浜田)
▲外したのは星章の様です

歩兵第二十一聯隊 ア門柱 西から(島根浜田)
▲近くにある門柱
  歩兵営とは無関係の濱田高等女學校の移設門柱です


木口小平之像
歩兵第二十一聯隊の代名詞とも言える責任の権化・木口小平一等卒の像です。※後述
昭和7(1932)年4月、将校集会所前に建立されるも大東亜戦争中に像は出征、台座は昭和36(1961)年11月、日本郷友連盟島根支部により像が再建され濱田護國神社に移設されます。
濱田護國神社 木口小平之像(島根浜田)
▲台座のみが陸軍時代の物です


衛戍・補充部隊
歩兵第二十一聯隊(西部第三部隊→中國第百六部隊、鯉五一七四)
明治17(1884)年6月25日、歩兵第十一聯隊(広島城東側)において第一大隊が編成され広島城北側の兵営に入り、独立大隊として廣島鎭臺本営(明治21年5月14日、第五師團に改編)隷下に編入、明治19(1886)年6月16日、聯隊本部(友田美喬中佐)、第二大隊が編成、8月17日、宮中において軍旗を拝受、明治20(1887)年11月19日、第三大隊が編成され歩兵第二十一聯隊の編成が完結し、歩兵第二十二聯隊(松山)とともに歩兵第九旅團司令部(大沼渡少将、広島)に配属されます。

歩兵第二十一聯隊軍旗(島根浜田)
▲歩兵第二十一聯隊 軍旗

明治27(1894)年5月、朝鮮國において東学党の乱が発生、朝鮮国は独力での鎮圧が不可能なため、6月2日、清国に出兵を要請します。
5日、我が国は大本營を設置、天津条約に基づき居留民保護のため、混成歩兵第九旅團(大島義昌少将、歩十一、歩二十一、砲兵1個大隊、騎兵、工兵各1個中隊、輜重兵1/2中隊7,000名)の編成下令、9日、歩十一第一大隊が先遣隊として宇品を出港、12日、仁川に上陸、13日、京城の警備にあたります。
10日、旅團の編成完結、11日、第一次輸送部隊(旅團主力)は宇品を出港、12日、仁川に上陸します。
12日、外交交渉は限界に達したと認識した我が国は第五師團に動員下令、14日、第二次輸送部隊(歩二十一)の第八中隊が先発隊として宇品を出港、17日、釜山に上陸し警備にあたります。
15日、第二大隊が出港、18日、仁川上陸、24日、聯隊(武田秀山中佐)主力が出港、27日、仁川に上陸、第三大隊を仁川警備に残置し京城市外に集結し暴動を鎮圧します。

我が国は清国に対し朝鮮内政共同改革案を提案しますが、朝鮮を属国とみなす清国は拒否し、7月中旬、さらに兵力を増強、朝鮮国もそれに同調し態度を硬化、我が国の申し入れた行政改革を拒否し反日姿勢を強めて行くなか、19日、大本營は大島少将に清国軍増強の際は独断での対処を認可します。
22日、大鳥圭介・朝鮮公使は旅團に王宮守護のため兵力派遣を要請、23日、第二大隊は奇襲して来た朝鮮兵を王宮外に撃退し王宮守備にあたります。

25日、牙山・盛歓、平壌に集結した清国軍により、旅團は挟撃を受けるおそれがあった事から龍山に集結(困難な行軍に雇用した朝鮮人人夫が逃亡、第三大隊は輜重の輸送ができず停止、大隊長・古志正綱少佐は責任を感じ自決)、29日0200、聯隊は旅團右翼隊(第一大隊は旅團予備隊)に部署され素沙場を出発、0320、聯隊先頭の第十二中隊(松崎直臣大尉)は佳龍里(安城渡)において敵の奇襲を受け、豪雨による泥濘、増水した水濠に遮られ、松崎大尉が散華するなど苦戦ののち敵を撃退します。
この戦闘において中隊喇叭手・木口小平一等卒は突撃喇叭を吹奏中、咽頭部に被弾するも屈せず吹奏を続け、中隊を鼓舞、遂に敵を撃退しますが木口一等卒は倒れてもなお喇叭と小銃を離さず壮烈な最期を遂げます。

0630、左翼隊の第一大隊は歩十一、野戦砲兵五とともに新井里西南高地、罌粟坊主山を攻略、0700、第一大隊長・森祇敬少佐は第一中隊を率い右翼隊援助のため牛歇里に進撃、左翼隊が盛歓を攻略ののち旅團は集結し、30日、牙山を攻略、清国軍(葉志超以下4,000)は平壌に潰走、8月5日、旅團は龍山に帰還します。

7月25日、豐島沖海戦が発生、8月1日、我が国は清国に対し宣戦を布告、明治二十七八年戰役(日清戦争)が開戦します。

8月1日、歩十二(丸亀)、歩二十二(松山)が兵営を出発、22~29日にかけ第五師團(野津道貫中将)は龍山に集結、旅團は師團に復帰し、9月1日、第五師團は第三師團(桂太郎中将、名古屋)、歩兵第十二旅團(長谷川好道少将、熊本)とともに第一軍(山縣有朋大将)戦闘序列に編入されます。

野津中将は清国軍の増強、及び清国の動向に左右される朝鮮官民の状況に鑑み、8月31日、聯隊は師團とともに龍山を出発、義州街道を北進、第二大隊は朔寧支隊(歩兵第十旅團長・立見尚文少将)に編入され新渓-遂安-江東を経て、14日、聯隊主力は歩九旅團とともに平壌(葉志超以下15,000守備)南東に、師團主力は北西に、朔寧支隊は北東に進撃します。

15日0500、歩九旅團は攻撃を開始しますが敵の銃砲火、堅固な角面堡に苦戦するなか、第十一・十二中隊は羊角島から敵前渡河を敢行、朔寧支隊は巧妙に隠蔽された堡塁に苦戦しながらも第二・第三堡塁を攻略、牡丹台陣地に進撃、0600、師團主力は鼎山に前進、安山堡塁を攻撃しますが敵の激烈な銃撃を受け各方面の攻撃は遅滞、野津中将は戦線整理ののち16日の払暁攻撃を決心したところ、1645、敵は突如潰走(葉志超の士気の低さが原因)したため、16日0330、師團主力が平壌に突入、攻略します。

23・24日、師團は歩第十旅團を前衛に進撃を開始、10月14日、聯隊は平壌を出発、24日、第一軍、第五師團は義州に集結します。
24日、第三師團(桂太郎中将、名古屋)が鴨緑江を渡河、25日、聯隊は師團とともに渡河、26日、歩十一が九連城、歩二十一第三大隊が安東県を無血攻略、第一軍は国境要害を全て確保し清國を朝鮮より駆逐します。
師團は西北進し、29日、守将・宋慶が撤退した鳳凰城を攻略、周辺の警備にあたります。

明治28(1895)年2月19日、師團は5梯団に別れ鳳凰城を出発、3月2日、鞍山站を無血攻略、4日、聯隊は師團先頭として三道崗を出発し、第三師團とともに牛荘城で敵5,000を撃破し、5日、牛荘城を攻略、9日、田庄台で火砲を伴う優勢な敵を撃破し攻略し、直隷平野での決戦準備のため海城付近に移駐します。

3月30日、休戦条約が調印され、4月17日、講和条約が調印(5月8日、批准交換)されたため師團は鳳凰城に集結、6月4日、聯隊は海城を出発、22日、宇品に上陸し広島に凱旋します。

講和条約により我が国は清國より遼東半島の領有を認められますが、5月14日、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、特にロシアの軍備は脅威的な事から我が国はこれらの外圧を排除し、自国の安全保障のため軍備増強を決定します。

明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し、第七から第十二師團の新設を決定します。

明治30(1897)年11月1日、歩兵第二十一聯隊は新編された歩兵第二十一旅團司令部(塚本勝嘉少将、山口)に配属され、明治31(1898)年7月20日、聯隊は広島を出発、24日、近隣住民50,000人の観衆に迎えられ島根県那賀郡石見村黒川(現、浜田市)に転営します。

明治33(1900)年5月20日、北京列国公使会議は清国各地において蜂起し暴徒化した義和団鎮圧のため協同派兵を決定、各国軍艦から陸戦隊2,000名を派遣しますが、廊坊において団匪に阻止され北京は孤立、6月13日、各国公使館は包囲攻撃を受けます。

6月12日、我が国は佐世保海兵團(服部雄吉中佐、328名)を塘沽に急派、21日、清国が義和団を支援し欧米列国に宣戦布告、北清事変が勃発します。
21日、第五師團より第一次清國臨時派遣隊(福島安正少将、歩十一第二大隊、野戰砲五第二大隊、騎五第二中隊、工五第一中隊、臨時輜重隊。計1,343名)が編成され 、19日、宇品港を出航し塘沽に上陸、25日、第二次派遣隊(第十一師團歩十二第三大隊(杉浦幸治少佐)1,825名)と連絡し、列国軍(米英露仏墺伊軍)とともに塘沽砲台を攻撃しますが、清軍の砲撃により攻撃は頓挫、協議中に佐世保海兵團の白石葭江大尉以下が砲台を攻略します。
7月13日、派遣隊は清軍・団匪20,000を撃破し天津城を攻略します。

6月26日、第五師團(山口素臣中将)に動員下令、7月3日、聯隊(竹中安太郎中佐)、5日、師團の動員完結、17日、聯隊は3梯団に分かれ宇品を出港、25日、太沽に上陸、29日、師團は天津付近に集結します。

8月3日、我が国以外の列国軍は消極無方針で歩調が合わず(特にロシアの態度は反日的)、我が国主導で北京急進が決します。
5日、聯隊は師團左翼隊前衛として丁字沽西南を出発、韓家樹において敵を撃破し同地を攻略、歩四十二第三大隊、野戰砲五が要所・北倉を攻略、6日、歩四十一第二大隊は湯村を攻略、8日、師團は列国軍先頭として湯村を出発、列国軍の緩慢な行軍に貴重な時間を浪費しつつ、12日、天津-北京間の要所・通州を攻略し集結します。

13日、眞鍋支隊(歩兵第九旅團長・眞鍋斌少将、歩四十一基幹)は通州を出発(同日、露軍が抜け駆けし東便門を突破するも苦戦)、14日、北京城朝陽門に進撃しますが頑強な城門、敵の銃砲火に阻まれ突破できず、同日、師團主力が通州を出発、聯隊は朝陽門、次いで北進し東直門に進撃、2100、工五において編成された爆破班によって城門破壊に成功、聯隊は城内に一番乗りし敵を撃破しつつ北進し安定門、15日、西進し徳勝門を攻略、歩第九旅團長・眞鍋少将は北京駐在日本公使館に達し公使・西徳ニ郎男爵以下在留邦人を救出、歩四十二が紫禁城東安門を突破、同日、米軍が正陽門を突破し紫禁城天安門、午門を攻略します。
清国朝廷は14日、徳勝門から脱出、略奪を行いながら、10日、太原城に逃走します。

16日、聯隊は城内の残敵を掃討ののち、28日、混成中隊が紫禁城通過式に出席、事後北京の警備にあたります。
10月上旬、師團の半数(歩九旅團司令部、歩十一、歩四十二、歩十二第三大隊、他部隊の半数)が復員したため、聯隊は北京-通州間の警備にあたり、6月21日、師團に復員下令、7月2~5日、聯隊は北京を出発、太沽を出港、宇品に上陸、10日、浜田に凱旋します。

明治36(1903)年11月12~15日、加古川付近において挙行された特別大演習に第五師團とともに西軍として参加します。

明治28(1895)年5月14日の三国干渉以降、ロシアは露骨に満洲の領有を進め、安全保障上の驚異を感じた我が国は解決を図るべく、明治36(1903)年7月以降、ロシアと外交交渉を重ねますがロシアに交譲の誠意無く、さらに軍備を増強し武力により我が国を威嚇するに至ります。
明治37(1904)年2月5日、我が国はロシアに対し最後通牒を公布、9日、ロシアが宣戦を布告、10日、我が国が宣戦を布告、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発します。

4月19日、第五師團(上田有澤中将)に動員下令、25日、聯隊(小泉策郎大佐)の動員完結、5月10日、師團隷下部隊は広島に集結、13日、師團は第二軍(奥保鞏大将)戦闘序列に編入され、15日、聯隊は宇品港より出港、19・20日、張家屯に上陸します。
22日、第二軍は旅順要塞と満洲方面の露軍の連絡分断、及び我軍の根拠地となりうる大連攻略を任務として東進、師團は軍の後背援護を下命され、聯隊は馬家屯から崔家屯の線を確保、次いで6月3日、台山寺付近に移駐し北方の警戒にあたります。

13日、第二軍は旅順救援を企図し得利寺に集結中のシベリア第1軍団を殲滅すべく北上を開始、聯隊は歩二十一旅團長・塚本勝嘉少将指揮下、孩桃房を出発、14日、復州河右岸に達し、15日、旅團は師團左翼隊として土房身、芦家屯に前進、聯隊は歩四十二に続いて劉家炉、董家屯と進撃、禿房身西南高地を攻略し敵騎兵300を撃破、第一大隊は蔡家屯、第三大隊は孫家屯付近で敵を撃破、鼠樹溝北方高地に前進しますが、敵は豪雨に紛れ撤退、露軍南侵の企図を放棄させます。
聯隊は小泉支隊として第三師團の指揮下に編入され敗走する敵を追撃し、24日、太平嶺付近で敵を撃破ののち、25日、第五師團に復帰、第一大隊が万福庄付近、7月4日、沙河嶺付近を攻略します。
9日、軍は蓋平付近に停止した敵を殲滅すべく、師團は軍最右翼に位置し進撃、0500、聯隊が正面の敵左翼に迂回攻撃した事で師團の攻撃は進展、0605、師團正面の敵は次第に銃砲火が衰えたため、突撃に転移し蓋平を攻略します。

23日、軍は太平嶺・大石橋に北上を開始、24日0400、聯隊は師團右翼隊(塚本少将)として、左翼隊(歩九旅團長・山田保永少将、歩十一、歩四十一第三大隊基幹)に続き太平嶺に進撃しますが敵の激烈な銃砲火に攻撃が遅滞するなか、聯隊は望山口南端から侵攻してきた敵2個大隊を撃退します。
1840、聯隊は第一・第二大隊を第一線として望山口東北高地、同北方堡塁に進撃、前衛の第八中隊(樋口千万太中尉)は甚大な損害を受けますが、2000、遂に両地を攻略、2040、夜襲のため進撃を開始、2120、第一中隊(中村恒太大尉)が断崖を登坂し敵第一堡塁に突入し司令塔を攻略(奥大将より感状授与)、次いで第三、第七、第八中隊、左翼隊が突入し堡塁主要部を攻略、2320、敵は敗走したため、24日0115、左翼隊が第二、第三堡塁及び太平嶺一帯を攻略します。

6月20日、戦局の拡大に伴い滿洲軍總司令部(大山巌大将)が創設(23日、統帥発令)、24日、第四軍(野津道貫大将)が新設され、30日、第五師團は第十師團、後備歩兵第十旅團とともに同軍戦闘序列に隷属転移します。

6月29日、第二軍戦闘序列にあった第五師團は第十師團とともに柝木城付近に拠る敵1個師団を挟撃すべく揚厨溝南方高地に進撃、30日、聯隊は師團中央隊として前鶯落山を出撃、英落山西南の2高地を攻略、31日、40度を超える猛暑のなか揚厨溝南方高地の敵陣を攻撃、1日、第四軍は柝木城一帯を攻略しますが、敵は既に退却しており、師團は揚厨溝北方高地に進撃します。

10日、師團は羅字堡子付近に集結、26日、聯隊は師團本隊として羅字堡子を出発、海上-遼陽道東方を北上し、27日、狐山子西南高地に進出、28日、師團右翼隊に部署され敵銃砲火のなか第二大隊は遼陽前進陣地の上汪家峪南方を、第一大隊は下房身北方高地を攻略し敵は退却を開始、滿洲軍は遼陽を包囲します。

30日0530、聯隊は師團左翼隊(塚本少将)として桜桃園を出発、第二大隊が黒牛庄、第七中隊が向陽寺に進撃、0620、聯隊主力も到着し北大山の敵堡塁を攻撃しますが、頑強な胸檣、鉄条網に阻まれ損害が増加したため一時攻撃を中止します。

31日、第三師團歩六が北大山の攻撃に参加、聯隊は連携して攻撃を再開しますが戦線膠着が続くなか、友軍砲兵の砲撃効果大なるを確信した小泉大佐は突撃前進を下令、第一・第二大隊は敵の激烈な銃砲火に第八中隊長・樋口千萬太大尉散華する激戦ののち敵前400mの断崖を攻略、続いて磯島特務曹長以下決死隊27名は鉄条網の破壊に当たるも総員散華、第二回決死隊の進撃直前に聯隊命令により待機、9月1日0130、敵の退却に乗じ第三大隊は工兵作業班を先頭に向陽寺北方堡塁を攻略し敗敵を追撃します。

2日、聯隊主力は師團予備隊に部署され四里庄南側に集結、3日0500、師團は遼陽城の攻撃を開始、2230、敵は退却を開始、歩四十二第一・第三大隊がそれぞれ西、南城門に突入し遼陽城を攻略します。
3日、聯隊は遼陽城に進撃、小泉大佐は敵弾を右脚に被弾したため後退、第一大隊長・白川義則少佐が聯隊長代理として指揮を継承、同日、第一・第二大隊は千仏寺西方堡塁を攻略し遼陽城南門に達し、4日、第三大隊は角面堡を攻略します。

10日、師團は五里台子・北大山付近の敵駆逐を下令され、聯隊は遼陽城を出発、周官屯の敵を撃破、11日、北大山に進撃し歩十一、歩四十二に協力し小氾家屯北方高地を攻略します。
12日、第五師團は滿洲軍直轄となり(15日、第四軍に復帰)、第四軍の左側背援護を下命され五里台子・北大山付近を守備、16日、敵は我軍右翼から突破を企図、代家浴東北高地付近から侵攻してきた敵を第一大隊が撃退します。

明治38(1905)年1月26日、滿洲軍は黒溝台付近に集結中の露第2軍の左翼攻撃を第八師團(立見尚文中将、弘前)に、第二・第五師團に増援(臨時立見軍を編成)を下命します。
27日、聯隊は村山支隊(歩二十一旅團長・村山邦彦少将)先頭として十里河を出発、降雪のなか野砲14門を擁する敵騎兵12個中隊を激戦ののち撃破し徐家窩棚を攻略、第四・第十一中隊は敗敵を追撃し江家窩棚を、28日、修二堡を攻略、29日、第八師團の攻撃により敵は敗走します。

2月20日、師團は第二軍の軍隊区分となり、3月1日、聯隊は師團中央隊として柳条口を出発、李家窩棚東南方の砂山を攻撃しますが、敵の重砲、機関銃掃射に聯隊長・稲葉瀧三郎中佐以下233名が散華(3月4日、聯隊長・太田米丸中佐着任)する甚大な損害を受けるなか、歩四十一の来援により砂山を攻略、2日、李家窩棚、次いで張庄子を攻略します。
師團は敗敵を追撃し周官堡、3日、大韓台、大庄河、4日、人仁堡、及び蘇湖堡を攻略ののち、渾川右岸に進撃、第二大隊は重砲隊の援護、聯隊主力は師團予備として西土台子に集結、師團は第八師團とともに奉天南西の沙陀子を攻撃しますが、敵の頑強な抵抗に攻撃は遅滞、7日、聯隊は種田支隊(種田大佐)に配属され攻撃に参加、10日、敵が退却を開始し、歩四十一が下、上沙陀子を攻略します。
同日、第四師團により奉天城が攻略され、第五師團は追撃に移行、聯隊は奉天西塔に前進し、戦力の回復にあたり、4月28日、師團は北上を開始、5月10日、聯隊は昌図、八家子に移駐し同地の警備にあたります。

9月1日、講和条約が締結され、6日、大本營より全軍に休戦が布告、16日、休戦協定が締結、10月16日、平和克服が令達され、12月19・20日、聯隊は鉄嶺を出発、27日、第五師團に復員下令、26~30日、宇品に上陸し浜田に凱旋します。

明治40(1907)年9月17日、『陸軍管區表』・『陸軍常備團隊配備表』が改正され、聯隊は新設の第十七師團(一戸兵衛中将、岡山)隷下の歩兵第三十四旅團への転属が決定します。
10月9日、歩兵第三十四旅團司令部の編成下令、11月13日、渡邉祺十郎少将が旅團長に補任され、12月4日、歩兵第二十一聯隊内において事務を開始、歩兵第二十一聯隊は第五師團から隷属転移します。

大正4(1915)年3月11日、師團に第十三師團と交替して満洲駐箚が下令、聯隊は留守隊(岡田誌道中佐、2個中隊)を編成、19日、第一中隊長・小池俊彦大尉以下19名を先発隊として派遣、13日、第二大隊(佐久間五郎少佐、31日、旅順上陸)、25日、聯隊主力(大澤月峰大佐)が兵営を出発、4月1日、大連に上陸、5月21日、柳樹屯に移駐、歩兵第十六聯隊から任務を継承します。
6月7日、第一大隊(鶴島無難太少佐)は中華民国大総督・袁世凱死去に伴う治安維持のため機関銃6丁を交付され、12日、天津海光寺兵営に入り、北支那駐屯軍司令官の指揮下に編入されます。

大正6(1917)年3月8日、歩兵第二十七聯隊に任務を継承、23日、柳樹屯を出発、27日、浜田に帰還します(第一大隊は24日、天津を出発、28日、帰還)。

大正7(1918)年7月11日、富山県において米騒動が発生、全国に波及し島根県内各地でも暴動が発生、浜田では20日、漁民600名が暴徒化し商店、資産家、金貸業、遊郭を襲撃、鎮圧のため1個小隊を衛戍地巡察名目、町内警戒のため1個中隊計51名を派遣します(23日、帰還)。

大正9(1920)年9月1日、第十二中隊は青島警備のため兵営を出発します(大正10年9月13日、帰還)。

大正11(1922)年8月15日、『大正十一年軍備整備要領』により第四・第八・第十二中隊は復帰します。

大正14(1925)年3月27日、第三次軍備整理(所謂、宇垣軍縮)により第十七師團の復帰が公布され、5月1日、第十七師團司令部、歩兵第三十四旅團司令部は復帰、聯隊は第五師團隷下の歩兵第二十一旅團司令部(原田敬一少将、山口)に隷属転移します。

大正15(1926)年9月15日、第九中隊は天津警備のため兵営を出発します(昭和2年10月11日、帰還)。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、10日、停戦協定が成立しますが、郎坊事件、広安門事件、通州事件など度重なる支那第二九軍(宋哲元)の違法不法行為により、7月28日、支那駐屯軍(田代皖一郎中将)は支那軍に攻撃を開始、北京・天津を平定します。

7月、国府軍(蒋介石)の北上に伴い、7月27日、第五師團(板垣征四郎中将)隷下部隊に第五動員一號(応急動員)下令、31日、聯隊(栗飯原秀大佐)の動員完結、8月1日、聯隊は浜田を出発、列車にて広島に集結し宇品に移動、3日、宇品を出港、釜山に上陸、5日、列車にて出発、9日、安東、11日、山海関を通過、12日、沙河鎮に集結、聯隊は師團予備隊に部署されます。

18日(先着の歩四十一、歩四十二は13日から)、師團は長城戦(宋指揮の4個師、2個旅守備)に進撃、聯隊は歩兵第二十一旅團司令部とともに昌平より東進、20日、第三大隊(平岩釚彦少佐)は歩四十一左翼援護のため北上し長峪城に、21日、聯隊主力は料子台に前進し、23日、歩九旅團(國崎登少将、歩十一基幹)が攻撃中の鎮辺城に進撃し攻撃に参加、1750、第三中隊長・中島賢一少尉が将校斥候として敵背後に迂回、万里の長城に一番乗りを果たします。
24日、背後に迂回された敵は敗走を開始、聯隊は敗敵を追撃しつつ長城を突破、満洲國察哈爾省に入り井子溝、25日、達子営、27日、本多利博少尉が懐米県城に無血一番乗りを果たし、28日、沙城堡を攻略、同地付近の守備にあたります。

8月31日、第五師團は新設の北支那方面軍(寺内壽一大将)戦闘序列に編入され、9月7日、支那山西軍(閻錫山)の根拠地・太原を攻略すべく聯隊は師團右縦隊として進撃、9日、化梢営の敵を撃破、10日、陽原に進撃、12日、陽原南方の桑乾河を敵前渡河し南条堡に進撃、急峻を活かした敵堅陣に苦戦しながらも、14日、攻略、敗敵を追撃し、16日、渾源に入城します。

13日、第三大隊は歩四十二第二大隊とともに三浦支隊(歩二十一旅團長・三浦少将)に編入され、18日、広霊を出発、20日、霊邱を攻略、22日、東河南鎮で敵を撃破、長城平荊関に進撃し左方三角山を攻撃しますが急峻な地形と敵の頑強な抵抗に損害が増加、23日、第十中隊が三角山を攻略しますが、敵の後続部隊到着により次第に包囲されてしまいます。

21日、聯隊主力は渾源を出発、長城沿いに南下、26日、王庄堡に到着、28日、三浦支隊と連絡、同日、歩四十二も東河南鎮に到着し支隊指揮下に入り、総攻撃を決行するも頑強な敵の抵抗に攻撃は遅滞、30日、突如敵は後方連絡線遮断の危機を感じ撤退、聯隊は平荊関を突破し大営鎮に進出します。

10月2日、軍は師團に山西軍(閻錫山、3個師、直系系9個師、八路軍3万)の拠点・太原攻略を下令、6日、代県、10日、平地泉、12日、原平に進撃、聯隊は第三大隊を師團予備隊として主力は左翼隊に部署され、翌日の忻口鎮攻撃に備え攻撃準備位置に前進しますが、陣地化された下王庄部落に拠る敵2,000に第一大隊(山口巌少佐)の前進は阻止されます。

12日、大隊は攻撃前進しますが激烈な銃砲火、迫撃砲に損害が増加、14日、大隊の離脱援護に歩四十二第七中隊が来援するも敵の銃砲火に阻まれ離脱は頓挫してしまいます。
15日払暁、敵迫撃砲射撃の間隙を突いて大隊は前進しますが、またも激烈な銃砲火に第一大隊長・山口少佐が散華、16日、第三大隊が到着、野砲五、及び臨時航空兵團による直協攻撃が行われ、17日、漸く敵は退却、第一大隊は大隊長以下299名が散華(戦力は223名に)する大損害を受け、18日、聯隊主力を追求します。

13日、聯隊主力(第二大隊のみ)は雲中河を渡河し南懐化に進撃するも激烈な銃砲火に苦戦、15日、中島山攻略中に第二大隊長・中島徳夫少佐が散華するなど甚大な損害を受けながらも俗村望楼高地を攻略、18日、第一・第三大隊、師團右翼に歩十一主力が到着し、11月1日、廟高地を攻略、2日、敵が退却を開始、3日、師團は遂に忻口鎮陣地を攻略、聯隊は敗走する敵を追撃し新店村に達します。

8日、師團は第二十師團とともに砲兵、直協機によるよる砲爆撃ののち、太原城に総攻撃を決行、聯隊は城壁北西を担当、第一大隊が砲撃による破壊孔より大北門付近から城内に突入し、9日、城内を掃討、10日、入城式を挙行、守備にあたるとともに住民を雇用し街の復興を行います。

11月18日、聯隊は太原を出発、雪中行軍で寿用-平定-獲鹿を経由、12月1日、石家荘に到着、列車により、2日、保定に到着、警備にあたります。

昭和13(1938)年1月4日、第五師團は第二軍戦闘序列に隷属転移、7日、師團は青島警備を下令され、8日、聯隊は保定を出発、列車にて北京-天津を経由し、18日、青島に到着、聯隊本部を濰県に置き、膠県-済南間の警備にあたります。

2月17日、度々現れる匪賊を撃退すべく師團は沂州攻撃を下令され、聯隊は片野支隊(聯隊長・片野定見大佐)を編成、19日、第一大隊を先遣隊として濰県を出発、20日、招賢鎮を攻略(第二大隊長・竹之内少佐散華)、23日、莒県を攻略、27日、夏庄で敵を撃破、3月5日、湯頭鎮を攻略、さらに西進しますが、支那第五九軍(張自忠、第三八師、第一八〇師20,000)は逐次増強され拠点部落に拠り頑強に抵抗、敵の浸透に各部隊は建制が崩れ分散し平地に孤立したため湯頭鎮に反転集結します。

20日、支隊は攻勢転移、師團左翼隊として右翼隊の歩十一、中央隊の歩四十二とともに拠点部落を攻略しつつ前進、26日、沂州攻撃の要所・義堂、艾山に進出、27日、攻撃開始直前(4月19日、國崎支隊(歩九旅團長・國崎少将)が攻略)、軍は師團に沂州南西の台児荘で苦戦中の第十師團瀬谷支隊(歩三十三旅團)救援を下令、坂本支隊(歩二十一旅團長・坂本少将、歩十一第三大隊、歩二十一、歩四十二第二大隊)が編成され(歩二十一第一大隊は中間の向城の守備に残置)、4月2日、台児荘に進撃しますが、5日、通信混乱により師團命令を誤認し坂本支隊は戦線を離脱、9日、郭里集に集結、独力での継戦は不可能と判断し瀬谷支隊も離脱北上してしまいます。

4月7日、大本營は中支那派遣軍(畑俊六大将)、北支那方面軍(寺内壽一大将)に徐州に集結中の支那第五戦区軍、第二〇軍を包囲殲滅すべく徐州会戦を下令、18日、坂本支隊は師團右翼として郭里集を出発し、19日、向城から南下、聯隊は支隊右翼隊として進撃、21日、桃園の敵陣を攻略、25日、激戦ののち連防山一帯の敵陣を攻略します。
5月18日、敵銃砲により工兵が次々に斃れるなか、大運河を渡河、徐州城に進撃、19日、第十三師團(萩州立兵中将、仙台)が徐州城を攻略しますが、支那軍は15日、徐州放棄を決し我軍の間隙をついて漢口方面に撤退、25日、聯隊は敗敵を追撃し、6月4日、棠梨張に進撃し戦力回復にあたり、7月18日、列車により碭山に移駐し付近の警備にあたり、次期広東作戦(敵軍需物資の補給路遮断を企図)に備え上陸演習を実施します。

9月19日、第五師團は第十八(久納誠一中将、久留米)、第百四師團(三宅俊雄中将、大阪)とともに新設された第二十一軍(古荘幹郎中将)戦闘序列に隷属転移し、21日、聯隊は徐州-済南を経由し青島郊外の滄口に移駐します。

10月15日、輸送船に分乗し青島を出港、23日、漁船に移乗し潭州水道を遡航、触雷により損害が出るも、25日、石湾の敵を撃破、26日、仏山を攻略し、同地の警備にあたります。
12月3日、聯隊は東攻撃隊として北攻撃隊(歩四十一)とともに敵300を撃破し龍江、次いで九江を攻略し、5日、仏山に帰還します。

12月1日、第五師團は第十二軍(尾高龜造中将)戦闘序列に隷属転移、第四十八師團に守備を移譲、12日、聯隊は仏山を出発、15~17日、広東に集結、輸送船に乗船し広東を出航、23日、青島に上陸、警備にあたります。

昭和14(1939)年2月16日、第一大隊は青島南西地区の匪賊を討伐します。

2月25日、軍は蘇北作戦を発動、27日、聯隊は作戦の一環である海州作戦に参加すべく青島を出港、海州を南方より包囲すべく黄海沿岸を南下、灌河を遡航し、3月1日、响水口鎮に上陸、2日、新安鎮、4日、灌雲、5日、新浦鎮を進撃、6日、海州城入城式に参加ののち、7日、海州南方の阜寧に分散配備し警備にあたります。

10日、第二・第三大隊は海州西南の房山鎮に拠る支那五七軍の残党を撃破、13日、湯澗において敵の逆襲に苦戦するも包囲殲滅、14日、海州を出発し灌雲に移駐し警備にあたります。

5月11日、ソ連の意を受けた外蒙軍がノモンハン付近で満洲國に越境して来た事からノモンハン事件が発生、9月4日、師團のノモンハン事件への応急派兵が決定、連雲、青島への集結が下令され、5日、第五師團は關東軍司令官指揮下に編入され、11日、聯隊は師團先遣隊として連雲を出港、13日、大連に上陸、歩四十二とともに聯京線で、15日、斉斉哈爾に到着しますが、9月15日、停戦協定が成立したため斉斉哈爾に駐留します。
9月24日、斉斉哈爾を出発、26日、旅順に集結、山岳戦の演習を実施、10月16日、第五師團は臺灣混成旅團(塩澤定市少将)とともに第二十一軍(安藤利吉中将)戦闘序列に隷属転移し、南寧作戦(援蒋ルート遮断)を下令されます。

29日、聯隊は大連を出航、30日、宇品に寄港し物資を積載し、31日、出航、11月8日、海南島三亜に入港、上陸訓練を実施、13日、第五艦隊の護衛のもと三亜を出航、16日、聯隊は中村支隊(歩二十一旅團長・中村正雄少将)主力として欽県金鶏塘に上陸、17日、先遣の第六中隊が貴台圩東北の敵100を撃破、19日、大唐城付近の仏子溢南側に集結し周辺の敵を撃破します。

21日、師團は北上を開始、23日、航空機の援護のもと南寧河を渡河し支那軍を撃破、24日1030、第四中隊(新田寛一中尉)が支那軍4,000の守備する南寧城一番乗りを果たし、続いて歩四十二が突入し敵軍司令部などを攻略、第二十一軍は第五師團と臺灣混成旅團により欽寧兵團(兵團長は第五師團長・今村均中将が兼務)を編成し、兵團は南寧一帯の警備(周辺に支那第一三一・一三五・一七〇・一八八師、新編第三師等が布陣)、道路補修にあたります。

26日まで残敵の掃討を実施、師團は歩二十一第三大隊、騎五を八塘北側地区、歩四十二第二大隊を四塘付近、歩四十一第二大隊を城北大高峰隘正面に配置し北方の支那軍に備え、東側地区警備隊(歩二十一旅團)、西側地区警備隊(歩九旅團)、海岸地区(及び欽寧公路補修)に臺灣混成旅團を配置、29日、入城式を挙行します。

12月2日、戦車、砲兵を擁した支那軍が八塘南方から侵攻、聯隊(4個中隊)は歩二十一旅團左翼隊として騎兵五、歩四十二とともに敵を撃破しつつ賓寧公路を北上、4日、九塘北方高地に進撃、5日、歩四十二第三大隊が七塘で支那軍を撃破します。

17日、南寧に支那軍29万(陳誠、第二六集団軍9個師、三八同8個師、一五同4個師、3個師)が南寧北側の崑崙関-九塘方面から侵攻、城外北側八塘北側地区(歩四十二第二大隊)は敵大部隊に浸透され包囲孤立、18日、聯隊(聯隊長・三木吉之助大佐直卒の混成1個大隊半、野砲五第三中隊)は大隊を救援すべく崑崙関に進撃しますが、九塘西北において我の10数倍の敵に捕捉包囲され、21日、隷下部隊救援に出撃した歩二十一旅團(歩四十二基幹)も包囲され、戦闘指揮中の旅團長・中村正雄少将が重傷を負い後送ののち散華(臨時歩四十二聯隊長・坂田元一大佐指揮)、17日・20日、臺灣混成旅團の救援も敵に阻まれてしまいます。

29日、及川支隊(歩九旅團長・及川源七少将、歩十一、歩四十一第一大隊)が龍州作戦(龍州-鎮南関(南寧西南190km)の要所を急襲攻略し、敵軍需物資の獲得と補給路の破壊)を終え支那軍を撃破しつつ南寧に帰着、昭和15(1940)年1月1日、九塘に出撃、3日、戦線整理・防御陣地構築のため八塘付近の山地稜線に全部隊の集結を下命、4日0430、歩四十二第二大隊、0600、歩二十一主力、1200、歩四十二主力は敵の妨害を受ける事なく転進集結、敵は相撃を開始、聯隊は七塘を堅守し持久態勢を採ります。

13日、第二十一軍主力(安藤利吉中将直卒、第十八師團・近衛混成旅團30,000)が欽州湾に上陸、25日、南寧に前進し、28日、欽寧兵團は攻勢に転移、敗走する支那軍を追撃し賓陽作戦を発動します。

29日、聯隊は歩二十一旅團司令部とともに公路沿道左側を進撃し、2月4日、賓陽城に入城(3日、近衛混成旅團が攻略)、6日、南寧に帰還し守備にあたります。
13日、第二十一軍は南支那方面軍(安藤利吉中将)に改編され、第五師團は同方面軍戦闘序列の第二十二軍(久納誠一中将)戦闘序列に編入されます。

2月24日、南寧南方に蟠踞する支那第一九・三二・四六・四六軍(10個師)を殲滅すべく軍は江北作戦(第五師團の一部担当)、3月13日、東路作戦(霊山作戦、及川支隊担当)を発動、3月26日、第二次西路作戦を発動、聯隊は三木支隊(騎兵五、輜重五1個中隊配属)として近衛混成旅團の明江左岸地区進撃に呼応、南寧-扶南(南寧南西50km)-西長墟-思楽(同100km)を進撃、右旋北上し左県(同80km)の敵策源地を急襲壊滅させ、4月9日、南寧に帰還します。

6月19日、聯隊は歩二十一旅團(岡本少将)とともに南寧を出発、聯隊主力は憑祥に、第三大隊(森本宅二少佐)は鎮南関を攻略、ハノイ-ランソン-ドンダン-鎮南関-龍州または南寧-賓陽に通じる援蒋ルートを遮断します。

7月23日、大本營は南支那方面軍に「情勢ノ變化ニ應ズル第三國作戰準備」(北部フランス領インドシナの武力進駐準備)を下令、7月下旬、第五師團(中村明人中将)は南寧守備を近衞師團に移譲し、仏印国境付近に前進します。

8月30日、東京において進駐に関する日仏両国の原則協定が成立、9月4日、現地の細目協定が妥結しますが、6日、5日の鎮南関における歩二十一第三大隊の越境を理由として仏は協定無効を主張するも、西原一策少将(大本營派遣援蒋禁絶監視團)の交渉により22日1600の平和進駐協定が成立します。

9月5日に発生した第二大隊の越境について、『広島師団史』では大隊が地形偵察中、国境境界石標を見落とし越境してしまい仏軍警備隊の警告を受ける(米英支の外圧を受けた仏側の進駐阻止を狙った口実)としていますが、『濱田聯隊史』では大本營派遣援蒋禁絶監視團が仏側に懐柔され援蒋物資監視が緩慢かつ、仏印進駐の交渉が遅々として進まない事に焦燥した森本少佐が仏軍からの発砲を狙い越境するも、仏印駐在武官・岡中佐が急行し越境を指摘したため引き返しすとあります。
その後、森本少佐は聯隊本部に出頭、師團司令部、師團配属憲兵隊の取り調べを受け、軍医に躁鬱病と診断され内地に帰還後、陸相・東條英機大将の指示で軍法会議にて裁判(後任、佐々木勝五少佐)、大隊は龍州に移駐させられます。

18日、聯隊は三木挺進隊として龍州を出発、22日、主力(本隊、ドンダン進入部隊(第三大隊)、歩兵重火器部隊)は鎮南関に、先遣隊(戰車十四)は幕班村、作業隊(工兵五)は隘口に集結ののち、北部仏印のドンダンに向け国境線の南部鳳秠村まで前進します。

第五師團は大本營より「23日0000以降の進駐」を下命されていましたが、平和進駐協定成立の電報が届かなかったため、武力進駐と判断、23日0000、三木挺進隊は国境を突破、ドンダン兵営に進撃しますが、仏印軍の銃撃、手榴弾投擲を受けたため先遣隊、歩兵重火器部隊の支援射撃のもと0830、兵営を攻略、24日、南進しソンタン橋梁付近の敵200を撃破、25日、デムヘ兵営の敵2個中隊を殲滅、26日、カンハンに進撃し敵退路(ランソン-ハノイ道、同鉄道)を遮断ののち北上しランソン(25日、第五師團主力が攻囲し仏軍は降伏)に入城します。

29日、聯隊はドンダンに移駐、10月12日、第五師團は大本營直轄となり、11月29日、聯隊はランソンに移駐、12月2日、キールア駅より列車により、3日、ハイフォンに到着、4日、同地を出港、5日~12日、江蘇省呉淞に上陸、宝山に屯営します。

12月1日、軍令陸甲第五十七號『第五師團改編要領及び細則』により、18日、第五師團は改編に着手、各歩兵聯隊3,700名から1,000名を抽出し獨立混成第二十旅團を編成(歩二十一は獨歩百四大隊編成)、26日、軍馬が全廃され自動車100両、自転車1,000台に改編され、30日、改編完結します。

昭和16(1941)年2月中旬、第五師團は北九州地区を仮想敵地とした上陸演習(呂號特別演習)を実施、3月23日、聯隊は呉淞から輸送船に乗船し、30日、出港、舟山群島付近に集結、4月3日深夜、長崎県千々石海岸に上陸、佐世保要塞に進撃、4月4日、演習を終了し、伊万里町の民家に分宿、8日、唐津に集結します。
11日、聯隊は師團を離れ善洋丸、台東丸、かもい丸に分乗し唐津を出港、12日、朝鮮八口浦沖に碇泊し上陸準備訓練を実施、16日、抜錨、17日、飛雲江河口春島泊地に集結、18日、投錨し大発に移乗、飛雲江を遡航し、19日、第二大隊は瑞安、聯隊主力は半浦に奇襲上陸、20日、敵を撃破しつつ西山、温州城を攻略し周辺の警備にあたり、30日、来襲した敵300を第一大隊が撃退します。

5月1日、温州を出発、瑞安から大発に移乗、7日、呉淞に上陸、諸曁作戦(第二十二師團援助)参加のため、8日、杭州に集結、10日、第二十二師團(太田勝海中将)に呼応し銭塘江を遡航、馬匹を廃した聯隊は豪雨による泥濘、急峻な地形に苦戦、12日、第三大隊は歩二十一旅團直轄となり、旅團司令部・歩四十二の前進を援護、13日、聯隊主力は敵を撃破しつつ五指山西方高地、15日、歩四十二とともに外将、白路口で敵を撃破し大荘に進撃、16日、諸曁に集結北上、21日、杭州に到着ののち、上海に帰還します。

6月1日、聯隊は興善湖地区の掃討を実施、18日、帰還します。

6月30日、国府軍(汪兆銘軍)とともに蘇州梅里鎮、除市鎮付近に展開、地区の宣撫、便衣兵の逮捕、敵匪の殲滅を実施(清郷工作)、10月18日、呉淞に帰還し、自動車、自転車による機動訓練を開始します。

甲十五號作戰(浙東作戰)により寧波城周辺にあった第五師團(松井太久郎中将)は24日、獨立混成第二十旅團に警備を移譲、上海に集結し上陸演習を実施、11月6日、南方軍(寺内壽一大将)戦闘序列が発令(11月15日、指揮転移)、E作戦(馬来作戦:マレー攻略戦)実施部隊として第十八、近衞師團とともに第二十五軍(山下奉文中将)戦闘序列に隷属転移します。

11月13日、乗船区分が発表され聯隊(原田憲義大佐)は歩兵第二十一旅團司令部(杉浦英吉少将)、野砲兵第五聯隊第二大隊とともに後発に指定、15日、先発の師團隷下部隊は逐次輸送船にて呉淞を出港、11月30日、第二十五軍は三亜に上陸集結します。

12月4日、第二十五軍先遣隊は三亜を出航、5日、歩四十一は關西丸に乗船し三亜を出航、7日2240、泊地進入用意が下令され、8日0035、泊地に進入、0333、師團長乗船の香椎丸から出発信号が発信され、0412、歩四十一主力は河村部隊(歩九旅團長・河村參郎少将)先頭として泰國シンゴラ新飛行場東側に上陸、各地で英軍を撃破、現地マレー人の歓迎を受けつつ師團は南下します。
荊棘に挑む(川端龍子)
▲マレー攻略戦を描いた荊棘に挑む(川端龍子画伯)

23日、師團はタイピンに集結、26日、ペラク河を渡河、昭和17(1942)年1月2日、カンパルの縦深陣地(英印第2連隊第5大隊)を攻略、11日、歩十一がクアラルンプールを攻略します。

12月8日、大東亜戦争開戦の速報を呉淞で聞いた歩兵第二十一聯隊は17日、歩兵第二十一旅團司令部、野砲兵第五聯隊第二大隊とともに輸送船57隻(聯隊は11隻)に分乗し呉淞を出港、26日、馬公に入港、31日、出港、昭和17(1942)年1月8日、シンゴラ沖に到着、12日、敵の微弱な空襲下、上陸を開始、14日、旅團は3梯団となりシンゴラを出発、自動車、自転車で南下、15日、スンゲイパタニー、16日、イボー、スリムリバーを経て、17日、クアラルンプールに到着し師團司令部と連絡、18日、カンボンケドック、19日、タンカクを進み、20日、歩四十二と第一線を交替します。
トロラク、スリムの戦(栗原信)
▲トロラク、スリムの戦(栗原信画伯)

21日、第一大隊がセガマットにおいて英軍を撃破、24日、第三大隊が第一線を交替、26日、火砲を伴うアエルヒタム北方の堅陣(豪第8師団)に進撃、侵攻して来た敵戦車3両を聯隊砲で撃退し、26日、第九・第十一中隊の夜襲により攻略、27日、第二大隊が第一線を交替、29日、(ジョホールバルから)30哩道標北側の敵陣に進撃しますが、敵火砲により攻撃は遅滞、野砲五(九〇式野砲)の制圧射撃を受け、30日、敵陣を攻略、第三大隊は敵を追撃、31日1630、大隊はジョホールバルに無血一番乗りを果たし、遂に対岸にシンガポールを望みます。

1月31日、クルアンの第二十五軍は各師團に住民を北部に避難させるとともに、シンガポール攻略準備命令(近衞師團はテプロー、マサイ付近にて敵を牽制、第五師團はスクダイ東側地区、第十八師團は水源地高地東側地区に集結、砲爆撃ののち第五・第十八師團はジョホール水道を渡航上陸)を下達、2月4日、戦闘司令所をスクダイに前進、6日、攻撃命令を下令します。

2月8日1500、各砲兵部隊の効力射準備射撃、1800、攻撃準備射撃により敵砲兵を制圧し、2330、支援射撃、2350、突撃支援射撃の支援のもと、9日0025、ペルパ河-マラアユ河間より師團右翼隊(歩二十一旅團:杉浦部隊)の第一次渡航部隊として歩四十二がシンガポール六〇高地付近に敵前上陸を敢行、続いて第二次渡航部隊の歩二十一(第三大隊は右翼陽動として師團直轄)も上陸、歩四十二、歩二十一はナマジエスラートの英軍を撃破、潰走する英軍を追撃しますが、英軍は退却に際し本道両側の排水溝に流した油に点火したため道路上は炎上、聯隊長・原田大佐が大火傷を負ってしまいます。

同日、第五師團はテンガー飛行場付近に集結、10日、聯隊は周辺の敵陣地を攻略しつつブキバンジャンを攻略、11日、歩四十二は追撃に移行しブキテマ高地を攻略、第十八師團に追撃され敗走する戦車、装甲車、自動車等を伴う英軍3,000を捕捉殲滅するも、英軍はブキテマ周辺陣地救援のため増援を投入、激烈な砲撃ののち戦車が高地に侵攻して来ます。

聯隊は旅團命令によりブキテマ高地に進撃、歩四十二の右翼に展開し損害を受けながらも激戦ののち競馬場西側高地、その南方本道南側高地付近まで進撃、11日、競馬場北側三〇〇高地に河村部隊(歩九旅團長・河村參郎少将)歩十一が進出しますが、敵の激烈な砲撃に戦線は膠着します。
12日、師團は予備の歩四十一を河村部隊に復帰させ、第三戰車團(戰車六)の配属を受け、攻撃重点を左翼河村部隊方面に変更、歩四十一は八五高地東北400kmの閉鎖湾曲線高地を攻略、13日、河村部隊は九五高地、杉浦部隊は一一五高地を攻略、熾烈を極める英軍の砲撃に進撃は遅滞しますが、14日、河村部隊が師團砲兵の支援射撃のもと一三〇高地、一六〇高地を攻略した事で英軍防御線は崩壊し始め、15日、一〇五高地、八五高地、一二五高地、一三八高地を攻略、同日、杉浦部隊が八〇高地西側を攻略、師團はピアース、マクリッチ両水源地を確保し、カラン飛行場、チャンギー要塞との連接を遮断したため、15日1400、杉浦部隊歩四十二第一大隊(丸谷少佐)正面に白旗を掲げたC.A.ワイルド少佐ら3名が現れ降伏して来ます。

2月15日1830、ブキテマ三叉路北方のフォード自動車工場において第二十五軍司令官・山下中将と英マレー軍司令官・A.パーシバル中将の会談が開催され、1950、英軍は我軍に降伏、2000、師團は戦闘行動を中止、聯隊は市内外周(山下中将は憲兵以外の入市を許可しなかった)の警備にあたります。
山下、パーシバル両司令官會見図(宮本三郎)
▲山下、パーシバル両司令官會見図(宮本三郎画伯)

19日、第五師團はマレー半島の抗日華僑の粛清を下命され、21日、F機關(藤原岩市少佐)所属のマレー人、現地人の協力を得て抗日華僑を摘発、2月23日、選別者を第二十五軍憲兵隊(大石正幸中佐)管下の各憲兵分隊に引渡し、さらに3回の検問を経て敵性華僑を選別、該当者は補助憲兵に引き渡され軍命に基づき処断したため、治安は急速に回復します。

欧米はアジア各地で植民地政策の一貫として現地人の不満が直接英国に向かない様、準支配層として経済を支配していた華僑を利用したため、華僑は利害関係から英軍に協力、また出自から支那事変勃発以降、各地で排日援蒋運動を展開し支那重慶政府に通じ我軍の妨害・テロ工作を組織的に行います。
ことマレーにおいては陳嘉庚が華僑壽賑祖国難民総会を結成し重慶政府を金銭面で大々的に支援、大東亜戦争開戦に伴い在マレーの共産党員、及び抗日華僑各種団体を糾合し英軍協力を決定、12月15日、さらに英政府の了解を得て投獄中の共産党政治犯を釈放し、華僑抗敵総同員会を結成(本部:シンガポール)、昭和17年1月15日、英マレー軍の命で共産党員155名を4個班に編成し英軍貸与の兵器で武装、各地の華僑(非協力、中立的立場の者が多数)を指揮し我軍の後方擾乱、及び英軍作戦への協力、通敵行為を行い(民間反日組織の匪賊の他に義勇軍2個旅団がありシンガポール陥落後、市井に潜伏)、南方戦線では最も我軍の脅威となります(巷間で言われる様な、無辜の華僑を大量に殺害したとされる所謂「シンガポール華僑粛清事件」は南京事件と同種の反日プロパガンダの一種です)。
攻略直後の「シンガポール軍港」(矢沢弦月)
▲攻略直後の「シンガポール軍港」(矢沢弦月画伯)

25日、聯隊は昭南島(2月14日、シンガポールから改称)を列車で出発、28日、北部馬来ケダー州アロールスターに到着、聯隊本部、第一大隊は同地、第二大隊は東海岸のコタバル、第三大隊はスンゲイパタニからペナン島の警備、及び抗日華僑、共匪の戡定にあたります。

3月27日、河村支隊(歩兵第九旅團司令部、歩四十一基幹、捜索十六1個小隊、野砲二十二1個中隊、獨山砲二十大隊、獨工二十三1個中隊)は昭南港を出港しフィリピンのパナイ島に向かいます。

8月6日、第五師團に復員下令、各聯隊の先発隊は昭南島に集結しますが、11月20日、復員中止と工兵聯隊、歩兵2個大隊の南東方面派遣が下令され、27日、さらに派遣戦力に歩兵1個大隊が追加、12月2日、師團主力の爪哇方面移駐が下令されます。

12月2日、歩十一第三大隊(小西秀雄中佐)、歩二十一第三大隊(高橋真雄少佐)、歩四十二第二大隊(花輪逸市中佐)、工兵五(田村安治大佐)、第五野戰飛行場設定隊は護國丸、清澄丸、愛國丸、山彦丸、駆逐艦「朝風」に分乗し昭南港を出港(歩兵は当初はガダルカナル島増援、のち東部ニューギニア・マダン、ウェワクの攻略(ム號作戦)に変更、工兵はソロモン方面の飛行場設定任務)、12日、ラバウルに上陸します。

-第三大隊-
12月15日、大隊は歩四十二第二大隊長・花輪中佐の指揮下に編入され護國丸(歩二十一)、愛國丸(歩四十二)に分乗、第十八戰隊(松山光治少将)の軽巡「天龍」、「涼風」、「磯波」、「荒潮」、「電」の護衛の下ラバウルを出港、18日、敵B17爆撃機の空襲により護國丸が被弾(負傷者はそのままラバウルに返還)、敵潜の雷撃に天龍が沈没するなか、マダンに敵前上陸を敢行、高橋大隊先陣の第十二中隊は湾口の北島、大隊主力は港内桟橋を攻略、花輪大隊はマダン東方海岸に無血上陸を果たします。

30日、第十八軍(安達二十三中将)は花輪少佐にマダン-ラエ間の補給路開設の可否偵察を下令、花輪少佐は高橋少佐に偵察を下達、昭和18(1943)年1月4日、高橋大隊は第十中隊を残置(同地において飛行場、道路構築の後、6月26日、花輪大隊とともにアンボンに帰還)、第三十一野戰道路隊第三中隊を編入しアメレーを出発、人跡未踏の密林、大草原を踏破し、2月6日、ラエ(第七根拠地隊の陸戦隊分哨)に到着(途中幅2kmのマーカム河渡河中に5名が水没散華)し、11日、軍司令部に「道路建設は困難」と報告(10月20日、偵察隊に賞詞授与)、8日、郊外のカンコーモンに駐留、糧食輸送の低下するなか、潜水艦により輸送される糧食の揚陸支援を実施します。
3月3日、ラエ・サラモア地区増援の第五十一師團(中野英光中将)の強硬上陸を支援すべく、各中隊より1個小隊を派遣しますが船団はダンピール海峡において敵機に捕捉され全船沈没してしまい、各小隊は無傷で復帰します(ダンピールの悲劇)。

5月12日、第五十一師團の要請に応じ苦戦する岡部支隊(第五十一歩兵團長・岡部通少将、歩百二基幹)支援のためサラモアに前進、糧秣、弾薬の搬送にあたり(中野中将より賞詞授与)、16日、カンコーモンに復帰、第十二中隊(沖利雄中尉)は飛行場付近の警備にあたり、5月末、原隊復帰と7月1日出発命令を受領、6月25日、第十一中隊(佐伯正大尉)はフィンショハーフェンの警備にあたります。

6月30日、岡部支隊守備のサラモア南方30kmのナッソウ湾に米第162連隊戦闘団が上陸を開始、大隊は原隊復帰を中止され第八方面軍(今村均中将)指揮下に編入され、第五十一師團(サラモア)に配属(師團長区処)、7月30日、大隊(大隊本部15、第九中隊30、第十二中隊30名)は戦線加入を下令されます。
8月1日、大隊は岡部少将の指揮下に編入、第十二中隊は歩兵團予備に部署され輸送任務にあたり、大隊主力はムボに前進、歩六十六聯隊指揮下に入り中央隊に部署、右翼隊(歩六十六第六中隊)、左翼隊(同第三中隊)と連携、敵の激烈な銃砲火に耐え斬込みなどで敵の侵攻を阻止した後、聯隊命令によりカミアタム、次いでボブダビに転進、第十二中隊(12日、第十二中隊高橋小隊はボブダビの歩六十六第一中隊の増援に前進)を掌握、歩六十六第一中隊を指揮下に編入し、第九中隊をボブダビ後方の高山、第十二中隊を橋山に配置し敵の侵攻阻止にあたります。

9月10日、連日の敵の銃迫攻撃に大隊両翼は次第に圧迫され後退し大隊は敵中に突出、12日1200、師團長・中野中将は急迫する戦局にサラモアにおいて玉砕を決心、隷下、指揮下部隊に現在線の死守を下令しますが、13日、安達中将より転進が下令されます。
14日0000、大隊は戦線を離脱、フランシスコ河を渡河、アラモアを通過しマロロで糧秣を補給、15日、ラエに集結、野戰病院より原隊復帰者を加え大隊は高橋少佐以下50名に回復、行軍序列の第二梯団に属し出発、ブス河を渡河し人跡未踏の4,000m級の山々が連なるサラワケット山系を踏破(サラワケット越え)し、10月17日、キアリに到着ますが、19日、赤痢に罹患し落伍していた第九中隊長代理・岡中尉が“自分に付き従う当番兵を死の巻き添えにしたくない”と山頂付近で自決してしまいます。
24日、キアリを出発、27日、シオに到着、28日、機帆船に乗船し出港、30日、第十八軍司令部所在のマダンに到着(高橋少佐は高熱のため入院、後任は第十一中隊長・佐伯大尉、当面の指揮は第十二中隊長・沖中尉、11月24日付)、11月8日、機帆船に乗船して出港、14日、ウエワクに上陸、15日、出港、19日、パラオに上陸します。

-第十一中隊-
9月23日、フィンショハーフェンに敵が上陸、中隊は歩八十(三宅貞彦大佐)に協力、敵の侵攻拒止にあたるも次第に圧迫され、10月2日、同地を失陥、26日、転進を開始、11月3日、キアリに到着、6日、シオ、7日、大発にて出港、10日、マダンに上陸、14日、出港、19日、ウエワクに上陸、25日、出港、29日、パラオに上陸し大隊に復帰します(佐伯大尉後任は豊原勝朗大尉)。

昭和19(1944)年1月9日、第三大隊先発隊12名がパラオを出港、13日、マノクワリに上陸、14日、出港、22日、アンボンに上陸、26日、出港、29日、カイ諸島ヅラに上陸、30日、出港、31日、アル諸島ドボに上陸し聯隊に復帰、2月5日、ドカバラに到着、2月上旬、大隊主力も逐次追求し聯隊に復帰します。

-第五師團-
昭和17年12月16日、師團先発の杉浦支隊(旅團司令部、歩四十二、歩十一第一大隊、野砲五第三大隊)が輸送船4隻に分乗し昭南港を出港、25日、スラバヤを経由し、昭和18(1943)年1月1日、アンボンに上陸し、バンダ海方面の防衛強化のため第十六軍(原田熊吉中将、ジャカルタ)の指揮下に編入され、バンダ海のカイ諸島、アル諸島、タンニンバル諸島に進出します。

12月25日、第五師團は3単位師團に改編され、歩四十一は第三十師團(昭和18年5月14日編成)へ隷属転移、比島にあった歩九旅團司令部は馬来に招致され復帰、歩二十一旅團司令部は第五歩兵團司令部に改編されます。

1月7日、第五師團はアロール海峡-サウ諸島東端(同島含まず)以東、蘭領ニューギニアと英領ニューギニアの境界までの防衛を担当する第十九軍(冨永信政中将、アンボン、第二方面軍隷下、1月18日統帥発動)戦闘序列に隷属転移、9日、聯隊(佐々木慶雄大佐)は昭南港を出港、13日、ジャワ島ジャカルタに上陸、17日、スラバヤに移駐、師團は逐次マラン付近に集結します。

2月9日、軍は師團にバンダ海方面への転進を下令しますが、師團長・山本務中将は補充兵の教育未了な事に加え、海上輸送能力の低下による軍需品輸送の集積遅れから2月下旬への延期を具申、富永中将の賛同も得るも、大本營は我軍のガダルカナル島転進(2月7日)により作戦の自由を得た敵が、次期目的地に自在に侵攻して来ると判断、軍に師團の急速展開を要請して来ます。

2月16日、師團長・山本中将は隷下部隊に教育訓練を下令しますが、17日、軍参謀長・佐々真之助少将が来隊し師團の移駐を伝達します(山本中将は3月3日、空路にてマランからバボに進出)。

19日、歩十一に続き、20日、聯隊は第十六戰隊の軽巡「鬼怒」、「球磨」に分乗しスラバヤを出港、27日、ニューギニア島カイマナに上陸、3月13日、先発隊の第一大隊(中瀬幸雄少佐)は海上トラック第二十二(中瀬少佐以下230名)・二十七良友丸(第四中隊長・加藤光雄中尉以下220名)に分乗、第二十四特別根據地隊の第五拓南丸(駆潜艇長・進藤寛治予中尉以下30名)の護衛のもと、14日、同地を出港しますが、アラフラ海を南下中、5度に渡り16機(敵双発4、四発2機、うち2機撃墜)の重爆撃により第一歩兵砲小隊長・西本中尉以下16名散華、90名が負傷してしまい、15日、アル諸島北端のワマル島ドボに上陸、6月17日、聯隊の転進が完了し、トラウガン島ドカに聯隊本部を設置します。

18日、聯隊長・佐々木大佐はアル諸島防衛隊長に任じられ、豪北北方地区の防衛作戦準備にあたります。
-アル諸島防衛隊-
・歩兵第二十一聯隊(第三大隊欠)
・野砲兵第五聯隊 第三大隊
・工兵第五聯隊
・獨立工兵第三聯隊
・南方軍築城部
・建築勤務第三十六中隊(1個分隊)
・第百九野戰飛行場設定隊
・第五師團 第三野戰病院(第二半部)
・第五師團 衛生隊
・第二防疫給水部(第二部)
・捜索第五聯隊 第四中隊
・第三十一飛行場中隊
・電信第二十六聯隊(1個分隊)
・第五師團 通信隊(1個分隊)
・兵站自動車第百九十中隊(1個小隊)
・特設水上勤務第二十四中隊(1個小隊)
・第七揚陸隊(1個小隊)

師團はバボに司令部、野砲五をイナワタン、捜索五をカイマナ、歩十一をミミカに、離島防衛團(杉浦少将指揮)として第五歩兵團司令部をカイ諸島、歩二十一をアル諸島、歩四十一をタンニンバル諸島に配置し部隊の移駐、軍需品の輸送を開始しますが、海上護衛力、船舶の不足、敵機、敵潜水艦の出現により著しく遅滞している現状に鑑み、7月、師團はアンボン連絡所を強化するとともに友軍機の援護のもと海上トラックによる強行突入輸送を開始、9月、隷下部隊に糧秣1年分、弾薬1会戦分の展開集積に成功します。

アル諸島に進出後の昭和18年3月末から聯隊は陣地築城、トラウガン島のシア2ヶ所、ドカバラ2ヶ所に飛行場設定を開始します。
昭和18年末頃から糧秣の輸送が途絶、昭和19(1944)年3月、聯隊は自活体制に移行、聯隊長・佐々木大佐は「我軍は何世紀にも渡り白人に搾取弑逆されてきた人々を解放しに遠征して来た解放軍である。その我々が現地人の食料を奪い彼らを飢えさせては遠征の意義が無意味となる」とし現地人の食料事情を圧迫するこ事を厳禁、率先して農耕を行い、また狩猟、漁労班を編成し糧食確保にあたります。

昭和19(1944)年1月31日、第三大隊が聯隊に復帰、2月、第二方面軍(沼田多稼蔵中将)のニューギニア進出に伴い師團司令部はカイ島トアルに、離島防衛團司令部(五歩兵團司令官:柏徳少将)はアル島に前進しますが、9月、ニューギニア方面の態勢整理に伴い、師團司令部(山田清一中将)はセラム島ビル、離島防衛團司令部はカイ諸島に移駐します。

-第三大隊-
昭和19年11月13日、南方軍は師團に泰緬国境付近の馬来方面の防衛強化のため1個大隊400名、1個中隊170名の抽出を下令、第三大隊(佐伯正少佐)はドカバラを出発しスラバヤに集結、昭和20(1945)年1月25日、大隊を基幹として臨時混成第二大隊の編成完結、28日、ジャカルタに移駐、第九十四師團(四手井綱正中将)隷下の輜重兵第四十九聯隊(松田正松大佐)配属を下令されます。
6月5日、大隊は第五戰隊の重巡「足柄」に乗艦、7日、出港しますが、8日1215、バンカ海峡北側において敵潜の雷撃を受け足柄は魚雷5本を被雷し沈没(佐伯少佐散華)、駆逐艦「神風」に乗員853名、便乗者400名が救助されます。
6月下旬、昭南島に上陸しテンガー地区に集結、同地区の守備にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

-聯隊主力-
昭和20(1945)年1月26日、第一大隊は大発に分乗、ドカバラを出港、カイ諸島ヅラに上陸、2月26日、出港、19日、アンボン島アンボン上陸、3月4日、同島トレク出港、5日、セラム島エルパプラーに、6月23日、聯隊本部がドカバラを出港、カイ諸島を経由し、8月1日、セラム島ビルに上陸、8月3日、聯隊本部・第一大隊をホニテトに配置し作戦準備にかかりますが、輸送力不足により第二大隊(坂井利博大尉)はアル島に停滞します。

15日、佐々木大佐は師團司令部より出頭命令を受領、ウィセラムを小発で出発、17日、師團司令部において『大東亞戰爭終結ノ詔書』の煥発と師團長・山田中将の自決(橘丸事件の責任を負い)を伝えられ、18日、帰隊します。

8月25日、ホニテトにおいて最後の軍旗祭を挙行、31日、師團命令に従い軍旗奉還式執行ののち、全将校参列のもと山上の草原内に造った孔に旗竿、菊の御紋など金属部分を破甲爆雷にて爆砕後、軍旗を安置しガソリンをかけ奉焼、佐々木大佐の抜身の軍刀を守り刀としてともに埋設します。

9月22日、豪軍がアンボンに進駐、在セラム、アル、ケイ、タニンバル諸島の陸海軍部隊は第二十五根拠地隊司令官・一瀬信一海軍少将の指揮のもと、豪軍指揮下に入り、兵器、弾薬類を引き渡し、聯隊主力は11月14日からセラム島西端ホアマル半島に、第二大隊はカイ諸島ケイズラ島ウゴールに集結し自活を開始します。
昭和21(1946)年5月20日、聯隊主力はリバティー船に乗船しマリアテを出港、27日、和歌山県田辺市に上陸、29日、復員、第二大隊は5月20日、ドアールを出港、30日、田辺に上陸、6月1日、復員、第三大隊は5月12日、レンバン島を出港、19日、名古屋に上陸、20日、復員します。


歩兵第三百四十七聯隊(大國二八三四五)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により、5月23日、軍令陸甲第八十四號『師團、獨立混成旅團等臨時動員(編成改正、称號變更)、第三四七次復員(復歸)要領』に基づき、6月8日、廣島師管區歩兵第二補充隊に臨時動員が下令され、20日、歩兵第三百四十七聯隊(朝倉啓中佐)の動員が完結、7月12日、宮中において軍旗を拝受します。

5月23日、軍令陸甲第八十四號に基づき、廣島師管區司令部により臨時動員された機動打撃師團である第二百三十一師團(村田孝生中将/第五十九軍(藤井洋治予備役中将)戦闘序列)隷下に編入されます。

聯隊は本部、聯隊砲中隊、作業中隊、通信班は歩兵第二十一聯隊兵営、第一大隊は県立濱田中学校と松原国民学校、第二大隊は原井国民学校、真光寺、観音寺、顕正寺、第三大隊は川波陸軍演習廠舎に分散駐留ののち、本部を日原国民学校に移駐、聯隊砲中隊、通信班は日原町、第一大隊は安田町、第二大隊は小野村に移駐します。

7月28日、『大國朝作命第四號』を発令、8月1日、作戦準備及び訓練の詳細を下達、『大國朝作命第五號』により聯隊は松江地區司令部より浜田地区の水際既設陣地を継承、「石見守備隊」として『聯隊決五號作戰』の緊急準備要項に基づき9月末までに作戦準備完了を目指すなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

31日、師團命令により日原町青年学校西北2kmの山林の渓谷底で軍旗を奉焼、9月18日、復員下令、11月9日、進駐して来た米軍に軍需品を引き渡し、11月15日、復員完結します。


歩兵第四百十八聯隊(護州二二三五四)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により、2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號變更並第三二八次復員要領』に基づき、歩兵第二十一聯隊補充隊により臨時動員(黄葉収大佐)され、5月5日、宮中において軍旗を拝受します。

2月28日、軍令陸甲第三十四號に基づき、廣島師管區司令部により臨時動員された沿岸配備師團である第百四十五師團(小原一明中将/第五十六軍(七田一郎中将)戦闘序列)隷下に編入されます。

聯隊は師團の作戦地である福岡県の若松地区において沿岸防御準備にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
9月24日、福岡県芦屋において復員完結します。


歩兵第四百六十二聯隊(護鮮二二九〇四)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により、2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號變更並第三二八次復員要領』に基づき、歩兵第二十一聯隊補充隊により臨時動員(村川正一大佐)され、5月9日、宮中において軍旗を拝受します。

2月28日、軍令陸甲第三十四號に基づき、廣島師管區司令部により臨時動員された沿岸配備師團である第百六十師團(宮下文夫中将/第十七方面軍(上月良夫中将)戦闘序列)隷下に編入されます。

聯隊は師團の作戦地である朝鮮の郡山地区において沿岸防御準備にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
10月16日、朝鮮裡里において復員完結します。


編成(大隊以下)、補充を担当した部隊
歩兵第二百三十二聯隊 (昭和14年8月10日、編成)

獨立混成第二十七旅團司令部 (昭和18年11月16日)

獨立歩兵第百五十大隊 ( 〃 )

獨立歩兵第百五十一大隊 ( 〃 )

獨立歩兵第百五十二大隊 ( 〃 )

獨立歩兵第百五十三大隊 ( 〃 )

獨立歩兵第二百三十七大隊 (昭和19年2月15日)

獨立歩兵第二百三十八大隊 ( 〃 )

獨立歩兵第五百六十六大隊 (昭和20年1月4日)

歩兵第二百七十五聯隊 (昭和20年1月16日)

警備歩兵第十四大隊 (昭和20年2月6日)

第五十九兵站地區司令部 (昭和20年5月5日)

迫撃砲第二十大隊 (昭和20年6月20日)


主要参考文献
『濵田聯隊史』 (昭和48年4月 歩二一會 ㈱双葉社)

『広島師団史』 (昭和44年12月 陸上自衛隊第13師団 広島師団史研究委員会)

『浜田市誌 上巻』 (昭和48年11月 浜田市総務部企画広報課)

『広報はまだ』 (平成17年9月30日号)

『歴像』 (島根県立浜田高等学校歴史部)

『濱田』 (昭和25年 浜田市)

『呉市史 第8巻』 (平成7年 呉市史編纂委員会)

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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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