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名古屋陸軍兵器補給廠 關ヶ原分廠(管理・試験設備編)

古戦場で知られる関ヶ原の西側に名古屋陸軍兵器補給廠 關ヶ原分廠がありました。
名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 ア 営門門柱 南東から (2)(滋賀関ヶ原)
▲道路沿いに遺る営門

※遺構が多いので、今回は關ヶ原分廠の管理・試験設備のみを紹介します。

【探索日時】
平成26年2月4・12日





名古屋陸軍兵器補給廠 關ヶ原分廠 概略
明治45(1912)年初旬、陸軍省は日露戦役後の軍備増強に対応すべく用地選定、土地買収を開始、大正2(1913)年、着工、大正5(1916)年12月、名古屋陸軍兵器支廠 關ヶ原兵器庫(昭和15年4月1日、名古屋陸軍兵器補給廠 關ヶ原分廠に改称)が竣工します。

昭和20(1945)年8月16日、大東亜戦争停戦時、建築物27、木造甲種倉庫(清涼火薬庫)23、同乾燥庫4、半洞窟の乙種倉庫15、洞窟倉庫5棟がありました。

停戦後、米軍の接収を経て元地権者、開拓者、玉村に払い下げられ、近年まで遊園地があった事でも知られます。
地元では地名から「玉の火薬庫」、「関ヶ原火薬庫」、「関ヶ原弾薬庫」などと呼ばれています。
※詳細はこちら


貯蔵品目昭和4(1929)年頃
無煙薬 53.4屯
実包 20,000,000個
野砲榴弾炸薬 3,000個
中口径砲弾炸薬 37,474個
海軍補填砲塔砲炸薬 2,650個
障害物破壊筒薬包 147,000個
黄色粉薬167.7屯


遺構について
名古屋陸軍兵器補給廠 關ヶ原分廠
現在、一部の洞窟火薬庫、歩哨舎は関ヶ原町により整備、案内板が建てられていますが、殆どが放置されています。
特に旧関ヶ原メナードランドの私有地?(『朝日新聞』(平成8年8月21日)には“開発業者が借りて”とある)に放置されている半洞窟火薬庫15棟は何とかしてもらいたいものです。

▲遺構の配置

ア 営門
門柱は3本ありましたが、道路拡張の際に南側の1本が撤去され、片側の門柱2本が遺ります。
名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 ア 営門と関ヶ原分廠入口 東から(滋賀関ヶ原)
▲営門跡

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 ア 営門門柱 南東から(滋賀関ヶ原)
▲門柱近影
 

イ 土堤
残存門柱の対面にあり、石積で補強され門側の中央が狭まります。
名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 イ 土堤 北東から(滋賀関ヶ原)
▲土堤全景

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 イ 土堤 北から(滋賀関ヶ原)
▲門側の狭まり


ウ~キの一帯には衛兵詰所、憲兵詰所、食堂・風呂・炊事場、洗濯場、貯水槽、井戸がありました。
ウ ゴミ捨場
煉瓦の囲いで竹藪の中にあり、位置的に衛兵詰所の裏側にある事、形状からゴミ捨場と思われます。
名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 ウ 南西から(滋賀関ヶ原)
▲全景

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 ウ 南東から(滋賀関ヶ原)
▲内部


エ 食堂・風呂・炊事場 基礎
東側が低く西側が高くなった煉瓦基礎、奥にコンクリート製の風呂?が遺ります。
名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 エ 北西から(滋賀関ヶ原)
▲全景

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 エ 西側壁 北西から(滋賀関ヶ原)
▲塀近影

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 エ 北側の構造物 北から(滋賀関ヶ原)
▲下の開口部が炊き出し口で風呂でしょうか?


オ 井戸
名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 オ 井戸 南東から(滋賀関ヶ原)
▲外観

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 オ 井戸 内部(滋賀関ヶ原)
▲内部


カ 洗濯場
コンクリート製で兵営などで良く見る遺構です。
名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 カ 洗い場 北西から(滋賀関ヶ原)


キ 削平地
洗濯場の背後の斜面上に石垣で補強した削平地がありますが、用途不明です。
名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 キ 削平地 南から(滋賀関ヶ原)
▲石垣の補強

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 キ 削平地 南西から(滋賀関ヶ原)
▲削平地


ク 玉清水橋 欄干
大正2(1913)年6月に構内に架橋された石造橋の欄干が1対だけ遺ります。
名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 ク 玉清水橋 欄干(滋賀関ヶ原)
▲「玉清水橋」と「大正二年六月」の刻字


衛兵詰所北側の林に、雇員として勤務した方の回想(詰所裏に一人が入れる防空壕があった)に出て来る防空壕跡と思われる壕や崩落跡が遺ります。
ケ 防空壕跡
南東隅に入口のある土塁で囲った区画の長辺に崩落跡2、短辺に殆ど埋まった壕1ヶ所が遺ります。
名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 ケ 南東から(滋賀関ヶ原)
▲土塁で囲まれた区画

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 ケ 土塁 切込み 北から(滋賀関ヶ原)
▲土塁入口

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 ケ 中央地下壕?(滋賀関ヶ原)
▲南側崩落跡

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 ケ 南側地下壕?(滋賀関ヶ原)
▲中央崩落跡

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 ケ 北側地下壕(滋賀関ヶ原)
▲北側の壕


サ 防空壕跡?
斜面が陥没していますが、感覚が麻痺した時に見る錯覚かも知れません。
名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 サ 地下壕?(滋賀関ヶ原)


ノ 試験場
この一帯に火薬の燃焼試験を行う施設がありました。
a 基礎
かなり大きな建物があった様で中央は滅失していますが、西側の煉瓦、東側のコンクリート基礎が遺ります。
名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 ノa西側 北西から (2)(滋賀関ヶ原)
▲西側基礎

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 ノa東側 南東から(滋賀関ヶ原)
▲東側基礎

b コンクリート基礎
立ち上がりが低く余り目立ちません。
名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 ノb 南西から(滋賀関ヶ原)

c コンクリート基礎
こちらも立ち上がりが低く余り目立ちません。
名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 ノc 東から(滋賀関ヶ原)

d コンクリート水槽
c基礎に隣接して遺ります。
名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 ノc・d 北西から(滋賀関ヶ原)
▲左側がc基礎

e 便所
大便器と小便器が1個づつ遺ります。
名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 ノe 南から (2)(滋賀関ヶ原)

f コンクリート基礎
戦後に建てられた物置?の基礎の転用されており、立ち上がりが低いため目立ちません。
名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 ノf 南西から(滋賀関ヶ原)


-境界石標-
営門の南北から關ヶ原分廠を囲む様に短い間隔で設置されています。
当地の境界石標は正面に「陸軍境」、頂部に方向表示が刻字されています。
営門南側1本、北側16本を追いかけましたが、これ以上追うと時間が無くなると判断し途中で諦めましたが、我こそは!と思われる方はぜひ踏査してみて下さい!
因みに登山系のサイトを見ると岩倉山西側まで続くそうです(^_^;)
以下に抜粋して紹介します。
名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 あ「陸軍境」?(欠損?)(滋賀関ヶ原)
▲あ
 刻字が何も無く、欠損している様です

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 い「陸軍境」(滋賀関ヶ原)
▲い

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 う「陸軍境」(滋賀関ヶ原)
▲う頂部

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 え「陸軍境」と有刺鉄線支柱(滋賀関ヶ原)
▲え・有刺鉄線支柱
 境界石標に沿って分廠東側(村側)に張られていたコ有刺鉄線柵のコンクリート支柱が遺ります

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 い~う間の有刺鉄線支柱(滋賀関ヶ原)
▲支柱に遺る有刺鉄線

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 お「陸軍境」と有刺鉄線支柱(滋賀関ヶ原)
▲お
 奥に有刺鉄線支柱が見えます

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 き「陸軍境」とコ有刺鉄線支柱(滋賀関ヶ原)
▲き・有刺鉄線支柱

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 け「陸軍境」(滋賀関ヶ原)
▲け

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 し「陸軍境」(滋賀関ヶ原)
▲し
 墨入れが遺ります

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 せ「陸軍境」(滋賀関ヶ原)
▲せ

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 な「陸軍境」(滋賀関ヶ原)
▲な
 南側で1本だけ見つけました

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 は「陸軍境」(滋賀関ヶ原)
▲は
 一箇所だけ離れた場所にあり、関ヶ原駅から敷かれた軍道の物の様です


-移設-
関ヶ原町歴史民俗資料館の裏に境界石標1本と欄干2本が移設されています。
ともに何も説明板が無く、詳細は不明ですが、欄干は藤古川橋の物だったような???
名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 橋脚・「陸軍境」(移設:歴史民俗資料館)(滋賀関ヶ原)

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 橋脚Ⅰ(移設:歴史民俗資料館)(滋賀関ヶ原)
▲欄干親柱近影
 星章が輝きます!

名古屋陸軍兵器補給廠 関ヶ原町分廠 「陸軍境」(移設:歴史民俗資料館)(滋賀関ヶ原)
▲陸軍境の境界石標

關ヶ原分廠の核心部、『名古屋陸軍兵器補給廠 關ヶ原分廠(火薬庫)』へ続きます。


名古屋陸軍兵器補給廠 關ヶ原分廠 略史
明治6(1873)年1月9日、『六管鎭臺表』が改訂され名古屋に名古屋鎭臺(明治21年5月14日、第三師團に改編)が設置されます。

明治8(1875)年2月8日、『砲兵方面同本廠職司軍属職名同本支廠職制条例』(達第四十五號)が制定、名古屋鎭臺は砲兵第一方面内砲兵本廠(東京)から銃砲弾薬、兵器武具の分配支給、及び製造修理が行われ、また鎭臺の兵器を管理する名古屋衛戍武庫が設置されます。

明治6(1873)年1月9日、『六管鎭臺表』が改訂され名古屋に名古屋鎭臺(明治21年5月14日、第三師團に改編)が設置されます。

明治8(1875)年2月8日、『砲兵方面同本廠職司軍属職名同本支廠職制条例』(達第四十五號)が制定、名古屋鎭臺は砲兵第一方面内砲兵本廠(東京)から銃砲弾薬、兵器武具の分配支給、及び製造修理が行われます。

明治12(1879)年10月10日、『砲兵方面條例』(達乙第七十八號)、『砲兵工廠條例』(達乙七十九號)が制定され砲兵第一方面内砲兵本廠は砲兵第一方面本署、砲兵本廠は東京砲兵工廠に改編され、前者は兵器の補給・貯蔵(第一・第二・第三軍管、北海道を管轄)、後者は兵器の製造・修理に職務分掌、また各鎭臺、要塞所在地に武庫の設置が規定され名古屋には砲兵第一方面 名古屋衛戍武庫が開設されます。

明治23(1890)年8月14日、『砲兵方面條例』(勅令第百七十一號)が制定され、砲兵方面は「要塞の備砲、陸軍所要兵器・弾薬の購買、貯蔵、保存、修理及び支給、分配」を管掌し、砲兵第二方面本署が第三・第四(大阪)師管を管轄する事が定められ、各師團司令部、要塞司令部所在地に砲兵方面支署の設置が規定されますが名古屋支廠の移管は遅れ、名古屋衛戍武庫は明治30(1897)年4月14日、砲兵第二方面 名古屋支署に改編されます。

明治30(1897)年9月9日、『兵器廠條例』が公布され、兵器廠本廠長は陸軍大臣に隷し兵器、弾薬、器具、材料の購買、貯蓄、保存、修理、支給、交換及び要塞の備砲工事を管掌し、大阪陸軍兵器本廠は第三・第四・第九(金沢)・第十師管(姫路)を管轄する事が定められ、15日、砲兵第一方面本署(東京)、砲兵第二方面本署(大阪)、砲兵第三方面本署(門司)及び支署(各師團司令部、要塞司令部所在地)は廃止され、東京、大阪、門司、臺北各陸軍兵器本廠及び師團司令部、要塞司令部所在地に支廠が開設、名古屋城三ノ丸名古屋陸軍兵器支廠が設置されます。

明治36(1903)年4月14日、『陸軍兵器廠條例』が公布され、大阪、門司、臺北各陸軍兵器本廠は東京陸軍兵器本廠に統合され、大阪陸軍兵器本廠は大阪陸軍兵器支廠に統合・改称します。

明治41(1908)年2月15日、名古屋陸軍兵器支廠は名古屋城三ノ丸から鍋屋に移転します。

明治40(1907)年9月17日、日露戦役後、ロシアが着々と極東の兵備強化を推進するなか、陸軍省は安全保障の観点から『陸軍管區表』・『陸軍常備團隊配備表』を改正、戦役中に臨時動員した第十三、第十四、第十五、第十六師團を常設師團に改編するとともに、第十七・第十八師團を新設します。

軍備増強に伴う兵器増産、及び火薬の需要増加に対応すべく、陸軍省は本州の中央に位置し気候が清涼で構内は広潤、人家と隔離し、周囲が山に囲まれており警戒が容易で、土塁築造に適した小山が点在し、将来人家が増加しても危害が外に及ぶ危険性が低く、且つ鉄道駅が近く交通の便の良い岐阜県不破郡玉村の耕地120,000坪、山林297,000坪ほかを火薬庫用地として選定します。

明治45(1912)年初旬、東京陸軍兵器本廠員・林専一郎砲大尉、第三師團経理部・奥田徳三郎二等主計は吉成岐阜県土木課長、窪田不破郡長を介し奥田小太郎村長に用地買収の協力を依頼、地権者との折衝は難航しますが、5月、1坪約9銭6厘(総額920円とも)で妥結、7月、第三師團経理部は火薬庫用地として玉村内の424,875坪を買収します。

大正2(1913)年、臨時陸軍建築部(3月31日以降、第三師團経理部)の指揮のもと、地元住民を雇用(1日42銭)し工事を着工、大正5(1916)年12月、名古屋陸軍兵器支廠 關ヶ原兵器庫が竣工(兵器庫長・西岡進砲少尉)、開庫式が挙行されます。
竣工時の施設は事務所、甲種火薬庫(清涼火薬庫)12、乙種火薬庫(清涼洞窟火薬庫)15棟などで、関ヶ原駅から關ヶ原兵器庫まではコンクリート道路(通称「弾丸道路」)が敷かれ当初は馬車、昭和18(1943)年から不破貨物に委託し自動貨車で火薬の搬入出が行われます。
※各資料には建設指揮に“歩兵聯隊(十九、六十八)があたった”とありますが考えにくく、竣工後の警備と混同している様で、通常の陸軍施設建設と同様、臨時陸軍建築部(師團経理部)があたったと思われます。

關ヶ原兵器庫は地元では地名から「玉の火薬庫」と呼ばれ、分廠長(尉官)1、下士官1、工員4名他現地採用の傭人が勤務、第九師管内にあった事から第九師團経理部が管理、歩兵第十九(敦賀)・第三十六聯隊(鯖江)から關ヶ原派遣隊(中少尉を長とした1個小隊(42名))が警備にあたり、昭和16(1941)年4月1日から不破郡は第三師管に移管されたため第三師團経理部が管理、歩兵第六十八聯隊(岐阜)が警備にあたりました。
買収用地には玉村住民の田畑60,000坪がありましたがそのまま残置され、奥田村長が一括して陸軍から借用し元所有者に耕作権を付与、元所有者は公布された耕作用門鑑を提示して耕作を行いました。

昭和15(1940)年4月1日、『陸軍兵器廠令』が公布、陸軍兵器本部が新設され、管下に陸軍兵器廠(本廠)と陸軍造兵廠が統合され陸軍兵器廠が発足(陸軍兵器本部、陸軍兵器廠、陸軍造兵廠で陸軍兵器廠)、各兵器支廠は兵器補給廠に改称し陸軍兵器本部長の隷下に編入、名古屋陸軍兵器支廠は名古屋陸軍兵器補給廠に改称します。
名古屋陸軍兵器支廠 關ヶ原兵器庫は名古屋陸軍兵器補給廠 關ヶ原分廠に改称します。

昭和18(1943)年、陸軍省は空襲に備え貯蔵火薬の疎開を検討、留守第三師團経理部の指揮?のもと近隣町村役場を通じ不破郡、安八郡、養老郡住民、学生の協力を得て作業を開始、近隣の谷地に130箇所の横穴壕を掘削し火薬を疎開させます。

昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』の煥発を受け、16日、關ヶ原分廠は無傷で停戦を迎え、28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により大蔵省に移管されます。
停戦時、關ヶ原分廠の規模は建築物27、木造甲種倉庫(清涼火薬庫)23、同乾燥庫4、半洞窟の乙種倉庫15、洞窟倉庫5棟でした。
※空襲を受けなかったのは米軍が発見できなかった(先遣隊・スターキ中尉談)、認識していたが山中の施設を攻撃しても意味がなかったと2説ありますが、空撮を見ると一目瞭然なので後者の説が有力と思います。

11月9日、『臨時陸軍殘務整理部令』(勅令第六百三十一號)が公布、15日、『陸軍兵器行政本部令』、『陸軍兵器補給廠令』は廃止され、名古屋陸軍兵器補給廠は陸軍兵器行政本部殘務整理部名古屋出張所に改称、残務整理を実施します。

10月8日、米第6軍第25歩兵師団第27歩兵連隊4,132名が名古屋港に上陸し各務原陸軍飛行場を接収、11月12・13日、關ヶ原分廠は先遣隊・スターキ中尉以下に接収(分駐隊指揮官・ハリー中尉)され、内務省により雇用された地元住民が火薬の処理を開始、茶褐薬は構内の寒谷で焼却、爆発性火薬は貨車で四日市港まで搬送し海没処分されます。

昭和21(1946)年3月(昭和22年とも)、接収解除により分廠跡は大蔵省に返還され、随時火薬庫を含む建築物は解体され村立玉村国民学校の部材、または戦災復興資材として大津、名古屋、大阪へ搬出、耕作敵地(開拓用地210,000坪、水田用地60,000坪)は昭和20(1945)年11月9日に制定された『緊急開拓事業実施要領』に基づき元地権者140戸に増反分として、また入植者4戸に払い下げられます。
昭和24(1949)年、玉村は20棟の半洞窟、洞窟火薬庫、及び付属地1,100坪を借り受けマッシュルームの試作を開始、昭和27(1952)年10月、火薬庫が80万円で払い下げられますが、付属地は300坪程度を利用しているに過ぎず、昭和28(1953)年9月、遊休地は桑畑への利用が図られます。

昭和40(1965)年頃、関ヶ原鍾乳洞が発見され、昭和43(1968)年、公開が開始されます。
昭和47(1972)年11月27日、関ヶ原の冬季の気候に着目した日本メナード化粧品㈱が、半洞窟火薬庫15棟一帯55,000坪を買収しスケートリンクを主体とした関ヶ原メナードランドを開園します。
昭和63(1988)年、㈱真誠インダストリアル・パークが進出します。
平成13(2001)年1月31日、関ヶ原メナードランドは業績悪化により閉園します。
平成20(2008)年2月、㈱本陣 関ヶ原営業所が進出し、現在に至ります。

※最後に記事執筆にあたり多数の資料を調査、紹介して下さった岐阜県図書館にこの場を借りて御礼申し上げます。
ありがとうございました。



主要参考文献
『関ヶ原町史 通史編下巻』(平成5年1月 関ヶ原町)

『関ヶ原の歴史 第3号』(平成5年8月 関ヶ原歴史を語る会)

『関ヶ原の歴史 NO.60』(平成8年6月 関ヶ原歴史を語る会)

『 〃  NO.119』(平成13年5月 関ヶ原歴史を語る会)

『ふるさと見て歩き』(昭和60年12月 ふるさと見て歩き編集委員会)

『街も村も「戦場」だった』(平成7年7月 岐阜県歴史教育者協議会)

『岐阜新聞』(昭和21年1月16日、1月17日、昭和27年8月5日、9月25日、平成7年8月15日)

『朝日新聞』(昭和25年4月22日、平成8年8月21日、平成11年8月12・13・15・17・18・19・20日

『毎日新聞』(昭和27年8月5日)

『中日新聞』(平成7年8月13日、平成8年8月15日)
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盡忠報國

Author:盡忠報國
明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった精強帝國陸海軍、命をかけて国や家族を護ろうとした先人達に思いを馳せるとともに、祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の遺徳に触れ感謝すべく探索・訪問した軍事遺構、護國神社、資料館を紹介、併せて遺構の歴史、地域との関わり、関連部隊などの調査、研究成果を発表しています。

遺構は飽くまで「物」であり、そこに関わった「人」の存在、歴史を理解してこそ遺構の調査、研究は成立すると考えます。
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