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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

第二海軍燃料廠

三重県塩浜町に所在する昭和四日市石油㈱は海軍最大の燃料製造所であった第二海軍燃料廠の跡地にあります。
第二海軍燃料廠 ウ 電氣員詰所 南西から(三重四日市)
▲昭和四日市石油㈱に遺る電氣員詰所

【探索日時】
平成31(2019)年1月15日





第二海軍燃料廠 概略
海軍省軍需局は「第四次海軍軍備充實計畫」(「マル四計畫」)の実行に伴い、昭和20年度の海軍兵力を基準とした燃料需要、及び海軍燃料廠(徳山)の空襲被爆による燃料製造途絶、士気低下を避けるべく計画、昭和16(1941)年4月21日、第二海軍燃料廠が開庁します。

巷間では「二燃廠は航空燃料の専用工廠」と言われますが、同廠は海燃最大の能力(日産で第三海軍燃廠(海軍燃料廠から改称)10,000に対し、二燃廠は25,000バレル)、最新鋭の燃料精製設備を備え重油、航空揮発油、自動車揮発油、航空潤滑油、灯油、大戦末期には局地戦闘機「秋水」の燃料(濃縮過酸化水素(甲液))を生産しました。
※詳細は後述


遺構について
第二海軍燃料廠
現在、二燃廠の跡地は全域が昭和四日市石油㈱などになり建物、装置は随時更新されているうえ、構内は立ち入り及び写真撮影禁止のため、外周からの見学になります。
残念ながら生け垣、建込み、塀などで殆ど見通せません・・・。
第二海軍燃料廠 第二海軍燃料廠 本廠(三重四日市)
▲遺構の配置

ア 電氣室喞筒室及計路室
二燃廠は区画ごとに精製工場が独立して配置されていました。
この区画は九八式分解水添工場があり、航空揮発油を精製していました。
外周からでは殆ど見えませんが、特徴的な北側のコンクリート壁が見えます。
第二海軍燃料廠 ア 電氣室喞筒室及計路室(灰色屋根) 西から(三重四日市)
▲奥に見える灰色屋根が該当建屋

第二海軍燃料廠 ア 電氣室喞筒室及計路室(灰色屋根) 西から (2)(三重四日市)
▲北側にある用途不明の巨大なコンクリート

第二海軍燃料廠 ア(三重四日市)
▲googleの3D地図より


イ 電氣修理工場
この区画には水電解水素製造工場があり、上記の水添装置に要する水素ガスを製造していました。
第二海軍燃料廠 イ ◯◯修理工場 西から(三重四日市)


ウ 電氣員詰所
同上です。
第二海軍燃料廠 ウ 電氣員詰所 南西から(三重四日市)
▲正面側

第二海軍燃料廠 ウ 電氣員詰所 西から(三重四日市)
▲側面

第二海軍燃料廠 イウ(三重四日市)
▲googleの3D地図より
上がイ電氣修理工場、下がウ電氣員詰所


エ 第一変電所
同上です。
鉄柱等は戦後の物の様ですが、コンクリート壁は当時の物の様です。
第二海軍燃料廠 エ 第一変電所 北西から(三重四日市)


オ 水素発生装置
この区画には一酸化炭素変性、及び水素精製装置があり、水素ガスを変性し炭酸ガス、炭化水素、窒素、一酸化炭素を除去・分離させ水素を製造していました。
二燃廠最大の遺構ですが、屋根しか見えません・・・。
第二海軍燃料廠 オ 水素発生装置(ノコギリ屋根) 西から(三重四日市)
▲ノコギリ屋根が該当建物

第二海軍燃料廠 オ(三重四日市)
▲googleの3D地図より


カ 過酸化水素製造装置喞筒室
外周から全く見えません。
カ (三重四日市)
▲googleの3D地図より


キ 第一作業部現場員詰所
この区画には修理工場があり、廠内の各種装置の修理にあたりました。
第二海軍燃料廠 キ 第一作業部現場員詰所 南から(三重四日市)

第二海軍燃料廠 キ(三重四日市)
▲googleの3D地図より


ク 側線
近鉄塩浜駅から廠内に輸送用の側線が敷かれていました。
大東亜戦争停戦後も昭和四日市石油㈱で運用され、現在は用途廃止されています。
路盤や区画は当時のままの様ですが、平和緑地附近に遺る線路は引き込み方が違うので戦後に敷き直された物です。
第二海軍燃料廠 ク 側線跡に遺る線路(戦後?)(三重四日市)


ケ 橋台
側線のコンクリート橋台が遺ります。
第二海軍燃料廠 ケ コンクリート橋(三重四日市)


コ 海軍道路
本廠と官舎、住宅、山手工場を接続する道路で、現在も使用されています。
第二海軍燃料廠 コ 海軍道路(三重四日市)


第二海軍燃料廠 略歴
明治4(1871)年10月5日、唐津、大瀬炭鉱が鹿児島藩より兵部省に献納され、明治5年(1872)年4月5日、両炭鉱は兵部省の廃止により海軍省会計局に移管、長崎海軍出張所に付属します。
明治19(1886)年11月、海軍省鑑政局は石炭調査委員を設置、全国各地の炭質を調査し福岡県下38ヶ村に海軍豫備炭山を指定します。

明治二十七八年戰役(日清戦争:明治27(1894)年8月1日~明治28(1895)年4月17日)の戦訓により和炭(当時我が海軍は年使用1/4を英国より輸入)は軍用炭としての威力不足が指摘されますが、練炭に加工する事で軍用に耐えうる威力を得られる事から、練炭の研究が行われ、明治32(1899)年、軍用炭の品種を規定、明治38(1905)年4月25日、徳山に臨時海軍煉炭製造所(12月28日、海軍煉炭製造所に改称)を開設します。
しかし、当時、列強の海軍における燃料は炭から重油へ変遷しつつあり、我が海軍も明治31(1898)年以来、研究を重ねていた炭油混焼法を採用、横須賀、次いで佐世保、徳山に重油槽を設営し重油供給を開始、大正年間には逐次重油専焼に転換していきます。

大正9(1920)年7月28日、第四十三回帝國議會(7月1日~)において可決された『八八艦隊計畫』に対応すべく、大正10(1921)年4月1日、重油の製造を主目的とし山口県都濃郡徳山村(現、周南市)に海軍燃料廠が開庁(呉鎭守府司令長官管下)しますが、大正11(1922)年2月6日、ワシントン海軍軍縮条約が締結、わが国は艦船の保有量を制限されたため、発足直後から同廠の活動は低調となります。

大正三四年戦役(第一次大戦:大正3・4年)において航空機が兵器として登場して以来、我が国の航空戦力の整備に伴い大正末期より航空揮発油の需要が増加、昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(満洲事変)の勃発により需要が激増した事に伴い、海軍燃料廠は品質、性能、貯蔵方法など技術的に遅れていた航空揮発油の生産・研究に着手します。
また、満洲事変の教訓から毎年立案される出師準備計画を“計画”だけでは無く、具体的に準備する事に転換し、海軍燃料廠も生産設備の近代化を図るとともに増設を実施します。

昭和11(1936)年以降、海軍省は従来の貯油方針を重油から航空揮発油を含有する原油に転換、また民間に依頼していた潤滑油が低品質だった事から、軍艦の罐(高速ギヤードタービン)用、航空機用の高品質潤滑油生産に着手します。

昭和12(1937)年、海軍省は神奈川県大船に用地を買収、昭和13(1938)年3月31日、航空燃料製造技術を確率すべく海軍燃料廠研究部、航空技術廠発動機部 航空燃料實驗課を同地に移転し海軍燃料廠實驗部を開設します。

昭和12(1937)年4月5日、海軍燃料廠は製油部施設増強のため需要の低下していた練炭部を平壌鉱業部へ移管(昭和13年実施)、敷地・設備を拡張しますが、同廠の設備はいずれも小規模で軍令部の戦備計画における需要に対応できませんでした。

昭和12(1937)年7月7日、北支事変(9月2日、支那事変と改称)が発生、海軍における燃料需要が急激に増大します。

昭和13(1938)年10月、海軍省は「第三次海軍軍備補充計畫」(通称「マル三計畫」)の完成とともに航空戦備の大幅増強(現在生産数の2倍強強化)、追加を含め大小92隻の艦艇建造を盛り込んだ「第四次海軍軍備充實計畫」(「マル四計畫」)に着手します。

海軍省軍需局は昭和20年度の海軍兵力を基準として検討の結果、昭和12(1937)年6月10日に発足した商工省燃料局が推進中の人造石油工業を予備として保留、空襲被爆による燃料製造途絶、士気低下を避けるべく新燃料廠の設立を計画します。
積年の研究よりイソオクタンの量産が可能になった事から、新策源地等施設計画委員(海軍次官・山本五十六中将)は軍需局の「假称四日市海軍燃料廠施設計畫」を採決、軍需局は用地として三重県四日市市を第一候補、和歌山県有田郡椒村を第二候補、鹿児島県姶良郡国分町を第三候補として選定し、審議の結果、第一候補の四日市市に決定します。

昭和13(1938)年11月3日、近衛文麿首相は『第二次近衛声明』を発表し東亜新秩序を提唱しますが、支那での権益拡張を目論む米国は反発、重慶政府(蒋介石)への支援を公然と開始、昭和14(1939)年7月26日、日米通商航海条約廃棄を通告し反日強行政策を強めて行きます。

昭和14(1939)年1月、軍需局第二課長・福地英夫機大佐、課員・矢次中佐は四日市築港㈱が工業用地として所有する塩浜地区の土地20万坪を調査、軍需局は三重県土木部、吉田勝太郎・四日市市長、四日市築港㈱榎並赳夫・専務取締役と交渉し坪5円5銭で買収します。
1月24日、海軍省軍務局(氏家長明中将)は県、市関係者に用地買収について協力を依頼、27日、軍務局局員・篠田勝清中佐、軍需局第二課長・福地機大佐、建築局・島津惣次主計中佐、同・成田利夫技師、経理局・大須賀貞材主計中佐が四日市市役所において県、市関係者と会合し、同日、県、市関係者から地権者に用地買収について説明が行われます。

29日、海軍燃料廠用地交渉委員会(海軍、県、市)は各地区代表者と会合を開催し、地元の要求を最大限受け入れ交渉は円満に進み閉会、2月1日、買収事務が開始され学校、墓地、住宅80戸を含む40万坪を田圃1,800円、畑2,700円、宅地3,600円で買収、家屋移転料40~80円、小作人170名に離作補償料70円を支払い、また製品貯蔵、住宅、福利施設として日永村の山手一帯の山林24万坪、田圃13万5千坪、畑7万8千坪ほか合計45万坪を山林360~750、田圃・畑1,500円で買収、小作人90名に離作補償料45円(全て1反あたり)を支払い、6月、土地の収容が完了します。

同地には新興工業都市計画事業に基づく土地区画整理ののち、9月、海軍はもとより学界、石油業界の協力を得て当時最高の技術を結集、初年度8,000万(停戦までに4億)円の予算により、臨時建設委員(別府良三機関大佐(11月15日~少将))、横須賀海軍建築部の指揮のもと新燃料廠が起工され、土地造成、建物、油槽、官舎、工員住宅など一般工事は㈱北側組、大倉土木㈱(現、大成建設㈱)、㈱錢高組が、精製装置は藤永田造船所㈱、㈱新潟鐵工所、三井造船㈱、保土ヶ谷化学工業㈱、第一産業㈱、日本理化学工業㈱、㈱神戸製鋼所、㈱日立製作所、日本合成化学工業㈱、三菱化工機㈱、宇部興産㈱が担当します。

昭和16(1941)年1月、常圧原油蒸留装置第一装置が完成し、2月16日、試運転ののち操業を開始、4月21日、内令第四百十號により各燃料廠名称が定められ、同日、第二海軍燃料廠(別府良三少将)が開庁します。
同廠は總務部、精製部、合成部、化成部、整合部、會計部、醫務部で構成、海軍需要の液体燃料、潤滑油の大部分を生産します。
6月、常圧原油蒸留装置第二装置、10月、精密蒸留装置、製品精製装置が竣工、爾後逐次生産装置が竣工稼働します。

二燃廠建設中の昭和15(1940)年6月15日、米国は『国防強化促進法』、7月25日、『石油輸出許可制措置』、8月1日、『特定石油輸出許可制』を施行し対日石油輸出の一部禁輸を決定、8月、米国による対日石油輸出の全面禁止が時間の問題となるなか、政府は燃料局の提案によりオランダと交渉すべく小林一三・商工相を全権(10月29日、芹澤健吉・元外相に交替)として派遣、9月13日、蘭印バンドンにおいて交渉を開始しますが、米・英の圧力により、昭和16(1941)年6月14日、決裂、7月29日、オランダは蘭印の日本資産凍結を強行します。
昭和16(1941)年7月2日、我が政府は御前会議において『情勢ノ推移ニ伴フ帝國國策要綱』を決定、南方資源地帯への進出、油田地帯獲得への体制強化を図ります。

8月1日、米国は対日石油輸出を全面禁止、資源の供給を完全に絶たれた我が国は尚も米国との関係改善を模索し外交交渉を継続しますが、11月26日、『アメリカ合衆國と日本國の間の協定で提案された基礎の概要(ハル・ノート)』の提示により米国に戦争回避の意思が無い事を認識、12月1日、御前会議において米・英国との開戦を決定、12月8日、大東亜戦争が開戦します。

昭和17(1942)年4月18日、米陸軍B-25爆撃機16機が空母ホーネットより発艦、うち1機が二燃廠に来襲、機銃掃射を受けます(ドゥリットル空襲)。

昭和18(1943)年7月、二燃廠に熱分解装置、12月、接触分解装置、潤滑油工場、昭和19(1944)年5月、合成潤滑油工場が完成しますが、戦局の悪化とともに海上輸送は困難化し南方からの原油の還送が極度に減少する状況に鑑み、軍需局は航空揮発油の規格緩和を行う一方、液体燃料、潤滑油生産のため台湾から砂糖、満洲から雑穀を移入しアルコール、大豆油、魚油などから潤滑油、松根油から航空揮発油、亜炭、ボタ、燃料槽底の油泥から重油を抽出処理し燃料獲得を図り、二燃廠も松根油受け入れ設備を建設します。

-二燃廠の生産高-(単位:バレル)
      原油処理量  航空ガソリン 自動車〃  灯油     重油    航空潤滑油
昭和15年  126,000   18,900    6,300  4,410   94,600     -
昭和16年 1,637,500   245,850   81,910  57,285  1,230,000   -
昭和17年 2,076,000   315,700   115,340 76,260  1,529,900    -
昭和18年  768,600   158,790   98,850  69,740   460,050   -
昭和19年    -     36,270     -  16,364    21,240   6,300
昭和20年    -     17,325     -   6,300    35,460   2900


開戦前より陸軍が情報を得ていた米B29爆撃機の配備が迫るなか、昭和19年7月19日、伊号第二十九潜水艦によりドイツから譲渡されたロケット戦闘機Me163Bの図面が到着、陸海軍航空本部、民間共同で対B29用局地戦闘機(12月26日、「秋水」と命名)の開発が開始されます。
24日、軍需局内に特藥部が新設され、研究の結果、ロケット戦闘機の液体推進剤「呂號乙藥」のうち濃縮過酸化水素(甲液)を二燃廠、及び一燃廠(㈱江戸川工業所で製造された稀薄過酸化水素を濃縮)、ヒドラジン(乙液)を朝鮮窒素肥料㈱で製造が決定します(稀薄過酸化水素製造はのち12社指定)。
※本来過酸化水素(魚雷用)は兵器に分類され海軍艦政本部の所管ですが、航空燃料である事、技術者の関係で軍需局が担当

29日、特藥部は伊那製陶、日本碍子、東洋陶器など9社に呂號乙藥製造用の吸収塔、貯蔵槽、真空瓶、配管、電気分解用隔膜などを発注しますが、熟練工の出征などで納期の遅れが予測された事から、さらに日本陶業連盟を通じ大型陶器の製造が可能な陶器会社数社に発注されます。
※当時のステンレス製品は不純物が多く、品質にばらつきがあり、過酸化水素精製過程で錆が発生したため、陶器への置き換えが計画されます。

8月、二燃廠は第一・第二・第三工場(原料製造装置C1・B2・C6、電解装置A1・A2・A3・A4・A6、蒸留装置B1・B3・B5・B6により濃縮率35%の過酸化水素を製造:目標3,000t/月)、9月1日、第四工場(濃縮装置Z1により濃縮率83%の甲液製造)、10月末、前者が竣工し生産を開始しますが、12月7日、東南海地震が発災し第二工場が大破、特藥部は甲液月産2,670tに下方修正するとともに、二燃廠は復旧に着手(昭和20年4月、復旧中止)します。

昭和19年7月7日、我が国はサイパン島、8月3日、テニアン島、11日、大宮島(グアム)を相次いで失陥、本格的なB29による本土空襲が迫るなか、10月5日、海軍次官・井上成美中将より各鎭守府・警備府司令長官に生産施設の疎開、防護、偽装を促進する『工作廳・作業廳ノ防護強化方針』が示達されます。
二燃廠は製品貯蔵、住宅、福利施設として買収した日永村の山手に加え隣接した山林を貸借し山手工場とし、10月、㈱北側組、㈱西松組(現、西松建設㈱)伊藤組により山手電解蒸留工場(過酸化水素製造)、山手濃縮工場第一装置Z2・Z3、第二装置Z4・Z5、第三装置Z6・Z7、労務者、学校報国隊により製品貯蔵用隧道を着工、海兵團、航空隊ほか横鎭からの応援を得て製品、原料のドラム缶詰め、及び山手への疎開、廠内の偽装を実施、退避壕230ヶ所(163ヶ所4,600名分とも)を築造します。

昭和20(1945)年1月10日、廠内の第四工場Z1が操業を開始します。

4月29日、天長の佳日に山手工場の第一装置Z2・Z3の落成式が挙行され、5月22日、甲液出荷、27日、海軍記念日に続いて第二装置Z5の落成式が挙行され、6月7日、甲液が出荷されます。

6月、海軍省は経営陣と従業員の関係が悪化、空襲の影響もあり欠勤率が65%を超え業績の悪化していた東邦化学工業㈱名古屋支店に『工場事業場使用収用令』に基づき供用令書(従業員の引き継ぎ)、使用令書(工場設備の移管)を公布、二燃廠 名古屋分工場とします。

6月18日0146、米第313航空団のB29爆撃機89機が二燃廠、四日市市街に来襲、焼夷弾567tが市街地を中心に投弾され808名が焼死、1,733名が負傷する甚大な被害を受けるも、二燃廠は南端の原動罐、東端の岸壁、北西端に着弾するも被害は軽微でした。

22日0916、同団B29爆撃機6機が来襲、4,000听爆弾17発34tが廠内中央のイソオクタン工場附近に投下され火災が発生、喞筒室被弾により消火剤が噴射されず人力消火となり建物34%、貯蔵設備1.6%が破壊されてしまいます。

26日2235、米第315航空団のB29爆撃機33機が来襲、500听爆弾891発223tが投下され、建物15.4%、貯蔵設備2.4%が破壊されてしまいます。

7月9日2240、同団B29爆撃機61機が来襲、500听爆弾1,875発469tが投下され、4度の空襲により原油還送の途絶、原料・製品の疎開促進により焼失油類は800klに留まるも、幸田義矩技術少佐(6月18日)、高木進技術少佐(7月9日)など18名が散華、原油蒸留装置、アセトンベンゾール抽出装置、電弧分解装置、イソオクタン工場、重合水素装置、過酸化水素工場などが大破、その他の装置も疎開させていた精密蒸留装置、製品精製装置、熱分解第二装置、接触分解第二装置以外は尽く損傷し、二燃廠は操業を停止、山手工場の建設を急ぐなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

17日、二燃廠は製造、工事を停止、海軍大臣より18日、嘱託、応徴士、20日、雇員、傭人、工員、学校報国隊、女子工員、同挺身隊、21日、軍人の解員(9月1日付)が示達され賃金、退職金、旅費、配給物資を支給し即日勤務解除します。
また、製品、原料類を集積し分類整理、目録作成等の残務整理を開始します。

-第二海軍燃料廠長-
別府良三 少将 16年4月21日~17年5月20日
小畑愛喜 少将 17年5月21日~18年10月24日
榎本隆一郎 少将 18年10月25日~19年6月30日
山口真澄 中将 19年7月1日~9月14日
並河孝 少将 19年9月15日~20年10月30日

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により二燃廠は大蔵省に移管されますが、9月28日、米第6軍第1軍団第98師団が和歌山に上陸、29日により三重県に進駐を開始、31日、GHQは占領政策の一環として我が陸海軍の全財産を接収し、管理・処分を厳重に規制する事を示達してきます。

10月16日、二燃廠は第98歩兵師団J.J.ヴァンヴォリス中尉に接収され兵器類の処分ののち、26日、用地、施設、兵器、軍需品の管理は三重県・清水重夫知事に移管されます。

昭和21(1946)年1月20日、GHQは『日本の航空機工場、工廠及び研究所の管理、統制、保守に関する覚書』(SCAPIN629)により旧二燃廠を含む389工廠・工場の生産設備を賠償指定したため、大蔵省名古屋財務局の管理下に置かれます。

6月、食料増産を急務とする農林省の請願(昭和20年9月28日)により、GHQは旧二燃廠の一部を硫安(化学肥料)工場への転換を認可、昭和21(1946)年4月、日本肥料㈱により生産が開始されますが、昭和22(1947)年7月、同社は財閥解体の対象となり、昭和23(1948)年11月16日、現物出資により東海硫安工業㈱が創設され、引き続き硫安生産にあたります。

昭和24(1949)年5月12日、極東委員会において米代表マッコイは「これ以上の生産設備撤去は日本の自立を阻害する」として中間賠償の取立て中止を発表、旧二燃廠は解体される事無く賠償指定が解除されます。
7月13日、GHQは太平洋側の製油所の復旧を解禁した事から、大協石油㈱、東亜石油㈱が燃料槽を借用、11月、政府はGHQに対し「賠償指定施設の平和産業への転用について」を提出、肥料工場として使用されている旧二燃廠は旧三燃廠、旧岩國陸燃とともに石油精製所として利用価値が高いとし、返還と設備転換の許可権を要請します。

昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効により二燃廠の賠償指定が全面解除されます。
昭和28(1953)年、空襲により破壊されたとは言え旧二燃廠は国内最大最新鋭の設備を有し、また好立地から日本鉱業㈱、次いで借用中の大協石油㈱、東亜石油㈱、東海硫安工業㈱、昭和30(1955)年より帝国石油㈱、三菱石油㈱が通産省に払い下げを申請します。

有事の際の国有化を想定する日本政府、日本市場に参入を企図する外国資本(カルテックス、シェル)、政府案に添い外資排除を掲げた官民合同の特殊会社案、同案に賛成する日本石油㈱、昭和石油㈱、丸善石油㈱、興亜石油㈱など7社、また反対する野党、日米相互防衛援助(米からの防衛用燃料の輸入時期に重なる)問題、9社合同企業案などの各種思惑が絡みあい、政局不安定も相まって旧二燃廠の払い下げは複雑かつ混迷を極めます。

昭和29(1954)年12月、石橋湛山・通産相は旧四日市海軍燃料廠施設活用技術調査会を発足、昭和30(1955)年2月、四日市市に派遣された調査団の報告から、8月26日、昭和石油㈱、三菱グループ(シェルグループとの技術・資本提携が条件)への設備払い下げと土地の貸与(有事の際に国が使用するため)が決定します。

昭和31(1956)年1月、旧二燃廠を使用中の大協石油㈱、東亜石油㈱、東海硫安工業㈱との区画が確定、昭和石油㈱、三菱グループ、シェルグループが「四日市燃料廠活用計画書」に調印、5月、製油所の起工式が挙行され、11月1日、昭和石油75%、三菱グループ25%の出資により昭和四日市石油㈱が発足、昭和28(1953)年5月、竣工、昭和39(1964)年3月、同社に用地が払い下げられ現在に至ります。


主要参考文献
『海軍燃料史 上・下』(昭和47年10月 燃料懇話会 原書房)

『四日市市史 第12・14・18・19巻 』(平成8・10・12・13年 四日市市)

『わが道ひとすじに』(昭和51年 榎並赳夫)

『歴史群像 152』(平成28年12月 学習研究社)
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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