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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

南西諸島海軍航空隊 戦闘指揮所

ゆいレール小禄駅の近傍、田原公園は南西諸島海軍航空隊 戦闘指揮所の跡地にあります。
南西諸島海軍航空隊 戦闘指揮所 ア 壕口 (2)(田原公園沖縄)
▲南西諸島海軍航空隊 戦闘指揮所 壕内

【探索日時】
令和元(2019)年11月21日





南西諸島海軍航空隊 戦闘指揮所について
昭和19(1944)年8月24日、南西諸島海軍航空隊が小禄海軍航空基地に進出、喜界島、南大東島、宮古島、石垣島各海軍航空基地、30日、沖縄本島北陸軍飛行場に派遣隊を展開し航空基地の管理にあたります。
隊は沖縄進出時、小禄海軍航空基地に本部を置きましたが、8月、航空隊員、及び雇用した住民により地元でカテーラムイと呼ばれる小山に戦闘指揮所の設営を開始、12月、竣工した戦闘指揮所に移駐したと言われます。
個人的には沖繩方面根拠地隊と同様、十・十空襲以降に設営開始、20年2月頃に移駐と考えています。

昭和20(1945)年3月17日、敵の沖縄上陸が明確になるに及び沖繩方面根拠地隊司令部は所在沖縄海軍部隊を再編し沖繩聯合陸戰隊(沖聯陸)を編成、南西諸島空は巌部隊に部署され小禄半島北側「A」地区に配備され、陸戦準備を開始します。

4月1日0800、米軍4個師団が波平から平安山にかけ上陸を開始(のち2個師団加入)、第三十二軍(牛島滿中将)が迎撃し2ヶ月に渡り善戦しますが甚大な被害を受けたため、防御に適した南部に転進を決定、5月26日、沖聯陸も真栄平へ転進しますが、29日、過早後退とされ再び小禄半島に復帰します。

6月4日0500、敵は垣花(小禄半島北部)に上陸を開始、巌部隊は護部隊(九五一空小禄派遣隊)とともに迎撃しますが、5日、敵が大嶺-当間-安次嶺-垣花に侵攻したため巌部隊は敵中に孤立、7日、南西諸島空 戦闘指揮所も馬乗り攻撃を受けます。
13日、沖聯陸司令官・大田實少将ほか幕僚6名が豊見城・七四高地において自決、同日、隊司令・川村匡中佐も散華、南西諸島空本部は玉砕、生存者は遊撃戦に移行します。
8月16日、大東亜戦争は停戦を迎え、南西諸島空 戦闘指揮所で敢闘を続けていた50名程が生還します。

9月7日、公式に沖縄戦が終結しますが寿山一帯は米軍住宅として接収が続き、昭和48(1973)年、一帯が県に返還、平成6(1994)年、田原公園として整備され現在に至ります。

なお戦闘指揮所のある小山は上空から見ると「寿」の字に見える事から通称「寿山」とも言われていました。
南西諸島海軍航空隊 戦闘指揮所 寿山(田原公園沖縄)
▲昭和20(1945)年1月13日の空撮
 矢印が戦闘指揮所のある寿山


遺構について
南西諸島海軍航空隊 戦闘指揮所
全長350mの地下戦闘指揮所が大半の壕口は崩落しているものの壕内は大きな崩落も無くほぼ完存しています。
現存する壕口は施錠されており未公開ですが、事前予約で見学可能との情報もあります。
現存の壕口は全てコンクリート製ですが、整備保存の際に打設された物で、本来は素掘りのままでした。
南西諸島海軍航空隊 戦闘指揮所 南西諸島海軍航空隊本部壕(田原公園沖縄)
▲戦闘指揮所 見取図(現地案内板より)

ア 壕口
案内板が建てられています。
南西諸島海軍航空隊 戦闘指揮所 ア 壕口(田原公園沖縄)

南西諸島海軍航空隊 戦闘指揮所 ア 壕口 (2)(田原公園沖縄)
▲壕内
 地下壕でたまに見る棚状の掘り込みがあります

南西諸島海軍航空隊 戦闘指揮所 ア 説明板(田原公園沖縄)
▲案内板


イ 壕口
山の中腹にあります。
南西諸島海軍航空隊 戦闘指揮所 イ 壕口(田原公園沖縄)

南西諸島海軍航空隊 戦闘指揮所 イ 壕口 (2)(田原公園沖縄)
▲壕内


ウ 壕口
公園に向いています。
南西諸島海軍航空隊 戦闘指揮所 ウ 壕口 (2)(田原公園沖縄)

南西諸島海軍航空隊 戦闘指揮所 ウ 壕口(田原公園沖縄)
▲壕内


エ 壕口
公園に向いています。
壕前に「いわお戦友会」と書かれた木柱があります。
いわお=巌は南西諸島海軍航空隊の通称です。
慰霊碑でしょうか?
南西諸島海軍航空隊 戦闘指揮所 エ 壕口 (3)(田原公園沖縄)

南西諸島海軍航空隊 戦闘指揮所 エ 壕口 (2)(田原公園沖縄)
▲壕内

南西諸島海軍航空隊 戦闘指揮所 エ 壕口(田原公園沖縄)
▲「いわお戦友会」の木柱


供用部隊
南西諸島海軍航空隊
昭和19(1944)年7月10日、佐世保鎭守府所管の乙航空隊(航空機を持たず基地管理を行う)として佐世保において幹部、要員を編成(棚町整中佐)、第二十五航空戰隊(第二航空艦隊所属)に編入、第六基地航空部隊(二航艦司令長官指揮)西二空襲部隊(二十五航戰司令官指揮)に部署されます。
第三百二十一海軍設營隊(喜界島海軍航空基地設営中)が麾下に編入されます。

18日、鹿屋海軍航空基地に移駐、当地において編成作業を進め(下旬時点の人員、2,360名)、8月1日、副長・姫野一郎中佐以下先発隊37名は空路、小禄海軍航空基地に進出、主力は軽巡「長良」などに分乗し逐次小禄に進出します(24日完了)。

8月上旬、第三百二十二海軍設營隊が石垣島に進出、9日、第二百二十六海軍設營隊が小禄に進出、ともに隊の麾下に編入されます。
24日、喜界島、南大東島、宮古島、石垣島に派遣隊を展開します。
27日、第三百三十二海軍設營隊が南大東島に進出、隊の麾下に編入されます。
30日、副長・姫野中佐(11月15日から川村匡中佐)以下90名は沖縄本島北陸軍飛行場に移駐します(隊の人員、2,570名)。
9月14日、第三百十三海軍設營隊が宮古島に進出、隊の麾下に編入されます。

昭和20(1945)年2月10日、二十五航戰は復帰、隊は第五航空艦隊に編入され、第一機動基地航空部隊(五航艦司令長官指揮)西二部隊(南西諸島空司令官指揮)に部署され、南西諸島の航空基地管理、補給休養にあたります。
3月1日、第一機動基地航空部隊南西諸島空部隊に部署され、前任務を継承します。

2月19日、硫黄島に米軍が上陸、3月1日、米艦上機670機が南西諸島一帯に来襲、17日、敵の沖縄上陸が明確になるに及び沖繩方面根拠地隊司令部(大田實少将)は所在海軍部隊を再編し沖繩聯合陸戰隊(沖聯陸)を編成、小禄半島に主力8,300名を配置、南西諸島空は沖繩聯合陸戰隊(沖繩方面根拠地隊司令官指揮)小禄地區巌部隊(南西諸島空司令官指揮)に部署され小禄半島北側「A」地区に配備され、陣地築城を開始します。
隊の戦力は将兵3,000名、砲台9(15.5cm3門、12cm6門)、機銃45門(25㎜10門、13㎜15門、7.7㎜20門)※機銃は下旬の時点で135門、噴進砲6門、迫撃砲若干。

26日0900、米第77歩兵師団が慶良間列島に上陸を開始、1100、聯合艦隊司令部は天一号作戦(沖縄周辺の敵艦船に対する特攻を主体とした航空攻撃)を発動します。

31日、小禄半島は神山島の敵砲兵陣地、敵艦船より砲撃を受けます(以降連日)。

4月1日0800、米軍4個師団が波平から平安山にかけ上陸を開始(のち2個師団加入)します。

5日、司令の棚町整大佐(10月15日、進級)は聯合艦隊・沖方根参謀に転出、副長・川村中佐が新司令に就任、隊は弾薬の損耗を抑えるべく反撃の応射を制約します。

21日、敵上陸以来、敵3個師団を迎撃し2ヶ月に渡り善戦するも甚大な被害を受けた第三十二軍(牛島滿中将)は防御に適した南部への転進を決定、22日、敵は安里川を渡河し那覇市街に侵攻、軍は『新作戰計畫』(南部における隷下部隊の配置、作戦)、『退却作戰指導要領』(転進方法、23日以降戦局に応じ修正)を策定、25日、各部隊に下令します。

沖聯陸は『新作戰計畫』において「軍中央地区に位置し総予備」とされ、『退却作戰指導要領』により「長堂西方高地を占領し軍主力の転進援護」を指示されます。

26日、沖聯陸は重砲火器、敵を利する設備を破壊、糧食、衣服を付近の壕に避難している民間人に配布し転進を開始、司令部を真栄平(与座岳南2km)に移転、27日、麾下部隊の転進が完了します。
しかし、第三十二軍は海軍部隊の転進は陸軍部隊の転進援護にあたった後、6月2日以降、追って下令する予定でしたが、早々に転進してしまった事に過早後退として小禄復帰を下令、28日、沖聯陸司令部は再び七四高地に移転、29日、隷下部隊の復帰が完了します。
激戦のなか沖聯陸には『新作戰計畫』しか伝わっていなかったと思われます。

4日0500、第6海兵師団の敵水陸両用戦車100、兵600が垣花(小禄半島北部)に上陸を開始、巌部隊は残存機銃、迫撃砲、噴進砲など全火力を集中、護部隊(九五一空小禄派遣隊)とともに夜間斬込により迎撃しますが、敵は小禄海軍航空基地-当間-安次嶺-気象台、糸満街道以西に侵攻、沖陸聯は腹背に敵を受けるに至り大田少将は南部転進を断念、小禄半島の死守を決します。

6日1732、大田少将は切迫する戦況に決別電を打電します。

7日、前南西諸島空司令・棚町大佐、現司令・川村中佐に第五航空艦隊司令長官・宇垣纏中将より激励電が発信されます。
川村中佐の返電
「敵上陸以來部下一同克ク結束下ニ勇戰敢鬭中ニシテ特ニ小禄地域戰鬭状態ニ入ルヤ聯日聯夜文字通リノ肉攻斬込ニ徹シ各員殊死奮鬭中ノ所御懇篤ナル激励ニ接シ隊員一同更ニ奮起皇國護持ノ任ニ邁進以テ御期待ニ沿ハントス」

同日、南西諸島空 戦闘指揮所も馬乗り攻撃を受けます。

11日、遂に豊見城七四高地が包囲されるに至り大田少将は麾下部隊に包囲された陣地を脱し遊撃戦への移行を下令、牛島中将に対し決別電を打電、司令部が馬乗り攻撃を受けるに至り、13日、沖聯陸司令官・大田實少将ほか幕僚6名が豊見城・七四高地において自決、同日、隊司令・川村匡中佐も散華、南西諸島空本部は玉砕、生存者は遊撃戦に移行します。


主要参考文献
『沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(平成6年3月 田村洋三 講談社)

『戦史叢書17 沖縄方面海軍作戦』(昭和43年7月 朝雲新聞社)

『戦史叢書11 沖縄方面陸軍作戦』(昭和43年1月 朝雲新聞社)

『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧 Ⅲ』 (平成21年5月 渡辺博史 楽學庵)
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住の探索者。

明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達の足跡に触れ感じるため各地(西日本が多いです)を探索しています。
軍跡(軍事関連遺構)は当時を知る生きた教科書です。

精強帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、及び祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介しています。

戦後極端に盛られ歪められた歴史を公平に記述し、英霊の名誉回復、真の姿を知る一助になる事を目指し記述しています。


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