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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

南風原八五・六高地 沖繩陸軍病院 横穴式洞窟病院

南風原の黄金森一帯に沖繩陸軍病院横穴式洞窟内病院がありました。
現在、一般的に南風原陸軍病院壕と呼ばれています。
沖繩陸軍病院 イ→ウ(南風原沖縄)
▲公開されている第二外科壕の一つ

【探索日時】
平成19(2007)年11月12日、令和元(2019)年11月19日





南風原八五・六高地 沖繩陸軍病院 横穴式洞窟内病院施設について
昭和19(1944)年6月5日、沖繩陸軍病院の編成完結、真和志村私立開南中学を借り上げ病院を開院します。
9月、第二野戰築城隊第一中隊により南風原村喜屋武の八五・六高地横穴式洞窟内病院施設の設定を開始、昭和20(1945)年3月24日、横穴式洞窟に移転しますが、進捗率30%のため衛生下士官以下病院主力も設定作業にあたります。

5月25日、第三十二軍は隷下各部隊に南部への転進を下令、侵攻して来た米軍により火炎投射機攻撃を受けます。

停戦後、近隣住民により支保工が盗難され次第に荒廃、崩落、昭和45(1970)年頃から厚生省により遺骨収集が行われます。
平成2(1990)年、町文化財に指定、平成6(1994)年、発掘調査により壕口16ヶ所が確認され、平成18(2006)年、状態の良い二十号壕の調査・整備開始、平成19(2007)年6月、公開開始されますが、他の壕は経年劣化によりほぼ壕口が崩落している様です。


遺構について
沖繩陸軍病院 第二外科 二十号壕
第二外科使用の二十号壕が保存整備されています。
見学には事前予約(南風原観光協会公式サイト)が必要で、現地では引率者の指示に従う必要があります。
本来なら斜面を探索し崩落した壕口も確認したいところなのですが、同行者がおり不可能でした・・・。
沖繩陸軍病院 沖縄陸軍病院壕 見取図(南風原沖縄)
▲二十号壕 見取図

ア 壕口
受付を済ませ引率者の話を聞きながら石碑類を見学ののち入壕します。
見学の際の入口になります。
沖繩陸軍病院 ア 壕口(南風原沖縄)
▲外観

ケ 十字鍬
壕掘削に使われた物です。
沖繩陸軍病院 ケ 壕口にあるツルハシ(南風原沖縄)

沖繩陸軍病院 ア→イ(南風原沖縄)
▲内部
 最初の数m、壁面は崩落防止のため発泡素材が吹き付けられているため実際より狭くなっています

沖繩陸軍病院 イ 支保工跡 (2)(南風原沖縄)
▲素掘り部分
 この辺りに勤務者室があった様です

支保工
イ部分には火炎投射機で焼かれた支保工が遺ります。
沖繩陸軍病院 イ 支保工跡(南風原沖縄)

天井に遺る釘
碍子を固定していた物と思われます。
沖繩陸軍病院 イ 天井にある釘(南風原沖縄)

ウ 手術室
中央の広くなっている辺りで手術が行われていた様です。
第二外科は元内科のため内科医の外科長・目医大尉や附の高橋清医中尉は手術を行わず、第一外科から高山守見習士官(整形外科)が診療・執刀、のちに平川智見習士官(眼科)、中村見習士官も加わります。
沖繩陸軍病院 キ→イ(南風原沖縄)

エ 二十一号壕へ
二十一号壕は通称「下の壕」と呼称された様で病室だった様です。
この辺りに見習看護婦(ひめゆり学徒)の休憩室があった様で、患者激増に伴い手術助手も務めた様です。
途中で崩落しており通り抜けできません。
沖繩陸軍病院 ウ→エ(南風原沖縄)

オ 十九号壕へ
十九号壕は通称「上の壕」と呼称された様で病室だった様です。
途中で崩落しており通り抜けできません。
沖繩陸軍病院 ウ→オ(南風原沖縄)

カ 掘り込み
沖繩陸軍病院 ウ→カ(南風原沖縄)

キ 病室
ウ手術室からサ壕口までは両側に2段の寝台が並んでおり、上段が重傷者、下段が軽傷者を収容していました。
沖繩陸軍病院 イ→キ(南風原沖縄)

コ 「姜」の文字
上段に寝ていた朝鮮出身の兵が書いた文字と言われます。
枠の右下辺りに線が見えます。
沖繩陸軍病院 コ 姜の文字(南風原沖縄)

コの文字を過ぎた辺りから再び発泡素材が吹き付けられています。
沖繩陸軍病院 コ→キ(南風原沖縄)

ク 掘り込み
用途不明です。
沖繩陸軍病院 キ→ク(南風原沖縄)

クを過ぎると崩落防止のため鉄骨で保護されています。
沖繩陸軍病院 キ鉄骨→ウ方向(南風原沖縄)

サ 壕口から内部
厳重に防護されています。
沖繩陸軍病院 サ→キ(南風原沖縄)

沖繩陸軍病院 サ→キ (2)(南風原沖縄)

シ 薬瓶の埋められていた場所
看板奥の囲いの場所から未使用の薬瓶が出土しました。
参考資料によると南部への転進後も衛生兵や看護婦が決死で医薬品を取りに戻る記載があるので、一時的に隠してあったものと思われます。
沖繩陸軍病院 シ 薬瓶出土場所(南風原沖縄)

沖繩陸軍病院 ケ シから出土した薬瓶(南風原沖縄)
▲ア壕口を入ってすぐのケに展示してある出土した薬瓶

爆弾片
受付に展示してあります。
沖繩陸軍病院 爆弾片(南風原沖縄)


第一外科 ロ五壕
「南風原陸軍病院壕阯」の碑の裏にあります。
単線壕だったようで病棟と思われますが崩落しています。
石碑には「重傷患者二千余命自決之地」と刻字されていますが根拠は無く、資料によると独歩不可能な重傷者は多く見積もっても700名くらいと言われます。
沖繩陸軍病院 陸軍病院第一外科壕の慰霊碑(南風原沖縄)
▲ロ五壕の壕口

沖繩陸軍病院 陸軍病院第一外科壕入り口(南風原沖縄)
▲崩落した壕口

南風原文化センターの展示
沖繩陸軍病院 陸軍病院再現(南風原文化センター)(南風原沖縄)
▲壕内の再現

沖繩陸軍病院 陸軍病院備品(南風原文化センター)(南風原沖縄)
▲薬瓶

沖繩陸軍病院 不発弾(南風原沖縄)
▲砲弾類


供用部隊
沖繩陸軍病院(球一八八〇三)
昭和19(1944)年5月3日、熊本陸軍病院に沖繩陸軍病院(以下「沖病」)の編成下令、6月5日、病院長・廣池文吉軍医中佐以下先遣隊が島尻郡真和志村私立開南中学校に到着、現地復帰した中城湾要塞病院(目源逸医大尉)の人員を編入し同校内において編成完結、第三十二軍司令部隷下に編入されます。
病床1,000、分類は二等病院でした。
編成完結とともに那覇において定員充足するとともに、陸軍看護婦、筆生、雑仕婦、炊事夫・婦、雑役夫などを募集します。

7月3日、仲本将英軍医大尉以下200名が到着、本部、内科、伝染病科を開南中学、外科を済生会那覇診療所(泉崎)、宿舎を県立第二中学に開設し軍患者の収容、診療を開始します。
沖繩陸軍病院の院内業務区分
病院長 廣池文吉 軍医中佐
 庶務科 佐藤悌二郎 軍医少佐
 衛生材料 柳澤猛 薬剤中尉
 経理科 佐藤千年男 主計中尉
 診療科 佐々木脩一 軍医大尉
 内科 目源逸 軍医大尉
 外科 比嘉監昌 軍医中尉
 伝染病院 嘉手川重達 軍医中尉(3月、鶴田基行 軍医中尉)
 教育科 仲本将英 軍医大尉 (以下「医階級」)
各科は科長1名のほか科附将校若干名を、診療科、内科、外科、伝染病院は衛生下士官、看護婦長、看護婦を置き、戦闘加入とともに防衛隊(教育科長兼務)を編成、患者の転送、護送、担送、病院の直接警戒にあたりました。

9月、第二野戰築城隊第一中隊により南風原村喜屋武の八五・六高地に横穴式洞窟内病院施設の設定を開始します。

10月初旬、島尻郡南風原国民学校に南風原分院(佐々木医大尉)を開院します。

10月、米機動部隊がフィリピン侵攻準備として我が航空戦力を減殺すべく沖縄、台湾、南西諸島に来寇、10日0700~1545、5次に渡り艦上機1,300機が南西諸島に来襲(十・十空襲)、船舶、兵器、弾薬、糧食、被服に甚大な損害を受け、沖病の借上げていた開南中学、済生会那覇診療所、県立第二中学も破壊され患者収容が困難になった事から沖病の全機能、及び全入院患者500名は南風原分院に移転し、重軽傷者の治療にあたります。

12月、軍は県と中等学校生徒の戦力化について協議、敵の来寇に備え中学下級生に対し通信、女学校上級生に対し看護教育を実施、身分は軍人軍属とされます。

昭和20(1945)年2月、沖繩陸軍病院において女学校上級生に対し看護教育を開始します。

3月1日、米艦上機670機が南西諸島一帯に来襲、23日0715、米艦上機355機が来襲、24日0650、艦上機の空襲に加え、0900、戦艦8ほか27隻が接近、本島南部、中城湾に艦砲射撃を開始します。

3月24日、敵の沖繩上陸の公算大になったことから病院の機能、勤務者(軍医、衛生兵、看護婦、筆生、雑仕婦、炊事夫・婦、342名)は八五・六高地の横穴式洞窟内病院に移転しますが、工事の進捗率は30%以下のため衛生下士官主力を配置換えし完成を急ぎます。
また同日、志願した沖繩師範学校女子部、県立第一高等女学校の生徒222名が見習看護婦として引率教師18名とともに配置(通称、ひめゆり学徒)され、本部指揮班、炊事班、看護班、作業班に編成され、入院患者の接遇はもとより衛生材料の運搬、炊事、洗濯、医療機器の消毒、屎尿処理、壕設定作業にあたります。

最終的に横穴式洞窟内病院は第一外科22本(病室19本、800名収容/転進時、独歩不可能な重傷者400名)、第二外科7本(280名収容/同150名弱)、第三外科2本(80名収容/同30名ほど)がありました。

4月1日未明、嘉手納湾に集結した米軍は波平から平安山にかけ艦砲射撃、空襲に続き、0800、第10軍(サイモン.バックナー中将、北から第6、第1海兵、第7、第96歩兵師団)が一斉に上陸を開始(のち第27、第77歩兵師団加入)、特設第一聯隊が迎撃しますが甚大な被害を受け国頭地区に転進、敵は橋頭堡を構築しつつ、賀谷支隊(賀谷與吉中佐)の遅滞戦闘に誘引され、5日、第六十二師團(藤岡武雄中将)の主陣地・牧港-我如古-南上原-和宇慶の線に侵攻して来ます。

1日、軍の戦闘加入と同時に沖病は内科を第二外科、伝染病院を第三外科に改編(外科看護婦長2名に増員)し戦傷患者収容態勢を採ります。
第一外科 比嘉 医中尉(上原貴美子 看護婦長、長田ノリ 同)
第二外科 目 医大尉(真玉橋ノブ 同、桐原ツイ 同)
第三外科 鶴田 医中尉(宮崎久江 同、具志八重 同)

8日、第三十二軍は夜襲を決行しますが、敵の防御に阻まれ頓挫、敵は嘉数-西原の線に浸透、9日、要所・嘉数高地に侵攻してくるも獨歩十三大隊(原宗辰大佐)が撃退、13日、軍は戦略的持久策に転移します。

19日、敵は陸海の砲撃支援とともに総攻撃を開始、第六十二師團は敵の上陸以来3個師団を迎撃し善戦、敵の侵攻を拒止していましたが戦力は半減、陣地崩壊の危機が生じたため、軍は第二十四師團(雨宮巽中将)を右翼、獨立混成第四十四旅團(鈴木繁二少将)を第六十二師團後方に部署します。

前線の激戦に伴い還送患者は激増、八五・六高地南西の第三十二軍野戰兵器廠の坑道2本(第一外科に)、一日橋、識名、玉城各分院(全て横穴式洞窟内病院)を開院し患者を収容、見習看護婦を各外科に配員します。

5月1日、糸数の自然洞(旧獨立歩兵第十五聯隊戦闘指揮所)に糸数分室(西平守正医中尉)を開院、軍医3、看護婦3、衛生兵7、見習看護婦16、引率教師1を配置、患者600名を転院させます。

4日、軍は攻勢転移、当初戦局は有利に進展しますが、各所で敵の逆襲を受け損害が増加、遂に進撃は頓挫し、5日、攻撃は中止、第二十四師團は戦力の2/3を失い、敵の包囲環は首里2kmに迫ります。

4日、第十四号壕が敵弾の直撃を受け患者20名が散華してしまいます。

11日、敵の攻勢は激しさを増し、12日、首里西方の天久台、14日、澤祇高地、18日、要地・安里五二高地を失陥、21日、軍は防御に適した喜屋武半島への転進を決します。

22日、敵は安里川を渡河し那覇市街に侵攻、軍は『新作戰計畫』(南部における隷下部隊の配置、作戦)、『退却作戰指導要領』(転進方法、23日以降戦局に応じ修正)を策定、25日、各部隊に下令します。

21日、沖病に軍より南部転進が伝達され準備を開始、24日、独歩不可能な重傷患者はやむを得ず処置、または迎えに来る事を約し残置し各科、分院ごとに降りしきる豪雨のなか転進を開始、25日、後発の第二外科・宮城普吉医中尉ほかは衛生資材を積載し主力を追及、26日、本部は山城、第一外科は伊原と波平、第二外科は糸洲、第三外科は伊原の自然洞に入ります。
各科・分院の転進経路
沖病 本部 南風原-東風平-志多伯-与座-真栄平-真壁-山城
第一外科 同上 真壁-伊原・波平(第一外科壕)
第二外科 同上 与座-大里-真壁-糸洲
第三外科 同上 東風平-富盛-与座-大里-真壁-伊原(第三外科壕)
識名分院 識名-一日橋分院(合流)-南風原-東風平-志多伯-与座-真栄平-真壁-伊原(第三外科壕)
糸数分室 糸数-前川-富盛-真栄平-真壁-伊原(第一外科壕)

5日、敵は具志頭に侵攻、7日、激烈な砲爆撃とともに戦車16両を伴い獨混四十四旅團正面、また第二十四師團左翼の照屋、残波、世名城を抜き、9日、獨混四十四旅團、11日、第二十四師團の主陣地帯にそれぞれ侵攻、12日、東側の要地・八重瀬嶽に侵攻、16日、第二十四師團は与座岳を失陥、西側の敵は国吉、真栄平に侵攻して来ます。

15日1900頃、本部壕口付近に敵迫撃砲弾(艦砲弾とも)が着弾、廣池大佐(6月1日、進級)が重傷、佐々木医大尉、見習看護婦2名など多数が散華、16日、廣池大佐は佐藤医少佐、西平医中尉(糸数分室は16日、解散、佐々木医大尉散華により診療科長)により大腿部の切断手術を受けますが、ガス壊疽を発症し散華(廣池医大佐の戦没日は15日、19日と諸説あり)、庶務科長・佐藤医少佐が病院長代理として指揮を継承します。
敵の急迫により本部壕の見習看護婦は第三外科壕と太田壕へ、第一外科壕(波平)の見習看護婦の一部は伊原へ移動させます。
この頃には陸軍病院は衛生下士官・兵の他隊配属による人員不足、医療機器、医薬品、糧食の欠乏、患者の激増により病院としての機能は殆ど停止してしまいます。

17日、獨混四十四旅團の主陣地が突破され、また第二十四師團も損害続出、第一外科壕(伊原)も至近弾により多数の負傷者が発生します。
同日、前線視察中の敵将・第10軍司令官・サイモン.B.バックナー中将が我が砲兵の射撃により破砕された珊瑚石が直撃し戦死、爾後、敵の攻撃は報復要素が加わり病院、避難民にも及びます。

18日、敵は新垣北側高地、真栄平北東高地、一五八高地に侵攻、各部隊は分断され敵中に孤立、第二外科壕は馬乗り攻撃を受けたため、夜間、見習看護婦を第一外科壕(伊原)へ移動させたのち、第二外科長・目医大尉は自決。

敵の急速な浸透、軍司令部の玉砕方針の情報を得た西平医中尉の進言もあり病院長代理・佐藤医少佐はこれ以上の継戦、治療続行は困難と判断、集合していては危険なこと、また最後の斬込みを行うにあたり雇員・傭人・学徒を軍から切り離し逃がすべく、19日0000、沖病の解散を下令、各壕から彼女らを送り出します。
第三外科長・鶴田医中尉は本部壕に合流すべく福原ツル看護婦らとともに第三外科壕を出発しますが、途中敵の包囲を受け避難した壕内で福原看護婦とともに自決。

未明、佐藤医少佐は各科長に斬込み、及び国頭方面に突破し遊撃戦移行を下令、生存者を率いて斬込みを敢行し散華、沖繩陸軍病院は玉砕します。

19日、第三外科壕は黄燐弾攻撃を受け宮崎看護婦長ほか看護婦、雑仕婦多数、教師4名、見習看護婦38名、患者多数が散華、20日、第一外科長・比嘉医中尉、上原看護婦長ほかは本部壕へ合流すべく第一外科壕(伊原)を出発、第三外科壕を経由し山城に向かう途中敵弾を受け散華してしまいます。

沖病解散後、軍属、見習看護婦・引率教師はそれぞれ戦場から離脱を図り一旦壕を出るも再び戻った際に敵の攻撃により、また壕に留まり敵の攻撃を受ける等し散華、また追い詰められ自決するなどして多くが斃れました。


主要参考文献
『沖縄作戰ニ於ケル沖縄陸軍病院史實資料』(昭和22年3月 第三十二軍残務整理部)

『ひめゆりたちの祈り 沖縄のメッセージ』(平成5年8月 香川京子 朝日文庫)

『閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言』(平成4年6月 長田紀春 ニライ社)

沖縄の酔雲庵

糸数壕アブチラガマ 公式サイト
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プロフィール

盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住の探索者。

明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達の足跡に触れ感じるため各地(西日本が多いです)を探索しています。
軍跡(軍事関連遺構)は当時を知る生きた教科書です。

精強帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、及び祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介しています。

戦後極端に盛られ歪められた歴史を公平に記述し、英霊の名誉回復、真の姿を知る一助になる事を目指し記述しています。


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