沖繩陸軍病院 本部壕
観光地にもなっているひめゆりの塔(第三外科壕)のほど近くに沖繩陸軍病院 本部壕が遺ります。
同壕は一般的に山城本部壕と呼ばれています。

▲本部壕付近に建つ沖縄陸軍病院之塔
【参拝日時】
平成19(2007)年11月14日、令和元(2019)年11月20日

<沖繩陸軍病院 本部壕について>
昭和20(1945)年4月1日、米軍が沖縄に上陸を開始、沖繩陸軍病院は後送されてくる負傷兵を南風原村喜屋武の八五・六高地 横穴式洞窟内病院において治療にあたっていましたが、5月21日、甚大な被害を受けていた第三十二軍は防御に適した南部への転進を決定、沖繩陸軍病院に伝達します。
21日、沖繩陸軍病院は転進準備を開始、24日、各科、分院ごとに転進を開始、降りしきる豪雨のなか本部は南風原を出発、東風平、志多伯、与座、真栄平、真壁を経由し、26日、山城(やまぐすく)の地元でサキアブと呼ばれる自然洞に入ります。
敵の急速な浸透、人員不足、医療機器、医薬品、糧食の欠乏、患者の激増により病院としての機能は殆ど停止するなか、6月15日1900頃、本部壕口付近に敵迫撃砲弾(艦砲弾とも)が着弾、病院長・廣池文吉大佐が重傷、佐々木脩一医大尉、見習看護婦2名など多数が散華、廣池大佐は佐藤悌二郎医少佐、西平守正医中尉により大腿部の切断手術を受けますが、16日、ガス壊疽を発症し散華、庶務科長・佐藤医少佐が病院長代理として指揮を継承します。
敵の急迫により本部壕の見習看護婦は第三外科壕と太田壕へ移動させます。
19日0000、敵の急速な浸透、軍司令部の玉砕方針の情報に病院長代理・佐藤医少佐はこれ以上の継戦、治療続行は困難と判断、集合していては危険なこと、また最後の斬込みを行うにあたり雇員・傭人・学徒を軍から切り離し逃がすべく陸軍病院の解散を下令、各壕から彼女らを送り出します。
未明、佐藤医少佐は各科長に斬込み、及び国頭方面に突破し遊撃戦移行を下令、生存者を率いて斬込みを敢行し散華、沖繩陸軍病院は玉砕します。
※沖繩陸軍病院については『南風原八五・六高地 沖繩陸軍病院 横穴式洞窟病院』参照
今回から4回に渡り沖繩陸軍病院終焉の地を紹介しますが、全て自然洞で軍事遺構では無いかも知れませんが、ひめゆりの塔(第三外科壕)のみが取り上げられる現状を残念に思うとともに、同じ境遇にあった他の壕も知って頂きたい思いから紹介させて頂きます。
どうか、ひめゆりの塔だけで無く、1時間ほど時間を取って付近に遺る病院壕も訪ねて下さい。
レンタカーがあれば30分程度で回れます。
<遺構について>
沖繩陸軍病院 本部壕
洞窟と言うより大きな窪地の様になっています。
壕口は倒木があり斜面を降った辺りに10×15m程の削平地、先に進んだ場所に10×20m程の削平地があります。

▲本部壕 見取図

▲壕口
倒木で偽装されています

▲斜面を降ります
斜面を降った辺りに衛生材料置場、左側の降り切った辺りで病院長・廣池大佐が爆傷を負われます

▲奥に入る壕口

▲手前の広い場所が休憩室、突き当り付近が病院長室

▲病院長室から休憩室方向

▲奥は水が溜まっています
なお、6月16日、敵の急迫により見習看護婦が本部壕から移動した「大田壕」は滅失しているそうです。
沖繩陸軍病院本部壕跡碑
壕口付近に建てられており、横には説明板があります。
お花を供え傾頭、御霊安らかならん。


▲説明板
病院長・廣池文吉大佐は壕口付近におられたところ敵弾の炸裂により下肢に受傷、切断手術を受けるも翌日、散華されます。
大佐が受傷した日について元見習看護婦(ひめゆり学徒)の本村つる氏(元ひめゆり平和祈念資料館館長)の証言では“6月14日”(15日散華)とされ、ひめゆり関係はこの日を採用している様です。
一方、元沖縄陸軍病院第三外科・軍医見習士官の長田紀春氏は『閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言』では“6月18日”(19日散華)と記載され、遺構関連の報告書ではこちらを採用している様です。
ただ『沖縄作戰ニ於ケル沖縄陸軍病院史實資料』(第三十二軍残務整理部)、『日本陸軍将官辞典』などでは“6月16日”散華、すなわち受傷日は“15日”とされています。
沖繩陸軍病院之塔
沖縄戦において斃れられた沖繩陸軍病院職員、学徒、傷病将兵を慰霊すべく昭和39(1964)年1月26日に建立、平成4(1992)年6月23日に再建されました。

<主要参考文献>
『沖縄作戰ニ於ケル沖縄陸軍病院史實資料』(昭和22年3月 第三十二軍残務整理部)
『ひめゆりたちの祈り 沖縄のメッセージ』(平成5年8月 香川京子 朝日文庫)
『閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言』(平成4年6月 長田紀春 ニライ社)
沖縄の酔雲庵
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同壕は一般的に山城本部壕と呼ばれています。

▲本部壕付近に建つ沖縄陸軍病院之塔
【参拝日時】
平成19(2007)年11月14日、令和元(2019)年11月20日


<沖繩陸軍病院 本部壕について>
昭和20(1945)年4月1日、米軍が沖縄に上陸を開始、沖繩陸軍病院は後送されてくる負傷兵を南風原村喜屋武の八五・六高地 横穴式洞窟内病院において治療にあたっていましたが、5月21日、甚大な被害を受けていた第三十二軍は防御に適した南部への転進を決定、沖繩陸軍病院に伝達します。
21日、沖繩陸軍病院は転進準備を開始、24日、各科、分院ごとに転進を開始、降りしきる豪雨のなか本部は南風原を出発、東風平、志多伯、与座、真栄平、真壁を経由し、26日、山城(やまぐすく)の地元でサキアブと呼ばれる自然洞に入ります。
敵の急速な浸透、人員不足、医療機器、医薬品、糧食の欠乏、患者の激増により病院としての機能は殆ど停止するなか、6月15日1900頃、本部壕口付近に敵迫撃砲弾(艦砲弾とも)が着弾、病院長・廣池文吉大佐が重傷、佐々木脩一医大尉、見習看護婦2名など多数が散華、廣池大佐は佐藤悌二郎医少佐、西平守正医中尉により大腿部の切断手術を受けますが、16日、ガス壊疽を発症し散華、庶務科長・佐藤医少佐が病院長代理として指揮を継承します。
敵の急迫により本部壕の見習看護婦は第三外科壕と太田壕へ移動させます。
19日0000、敵の急速な浸透、軍司令部の玉砕方針の情報に病院長代理・佐藤医少佐はこれ以上の継戦、治療続行は困難と判断、集合していては危険なこと、また最後の斬込みを行うにあたり雇員・傭人・学徒を軍から切り離し逃がすべく陸軍病院の解散を下令、各壕から彼女らを送り出します。
未明、佐藤医少佐は各科長に斬込み、及び国頭方面に突破し遊撃戦移行を下令、生存者を率いて斬込みを敢行し散華、沖繩陸軍病院は玉砕します。
※沖繩陸軍病院については『南風原八五・六高地 沖繩陸軍病院 横穴式洞窟病院』参照
今回から4回に渡り沖繩陸軍病院終焉の地を紹介しますが、全て自然洞で軍事遺構では無いかも知れませんが、ひめゆりの塔(第三外科壕)のみが取り上げられる現状を残念に思うとともに、同じ境遇にあった他の壕も知って頂きたい思いから紹介させて頂きます。
どうか、ひめゆりの塔だけで無く、1時間ほど時間を取って付近に遺る病院壕も訪ねて下さい。
レンタカーがあれば30分程度で回れます。
<遺構について>
沖繩陸軍病院 本部壕
洞窟と言うより大きな窪地の様になっています。
壕口は倒木があり斜面を降った辺りに10×15m程の削平地、先に進んだ場所に10×20m程の削平地があります。

▲本部壕 見取図

▲壕口
倒木で偽装されています

▲斜面を降ります
斜面を降った辺りに衛生材料置場、左側の降り切った辺りで病院長・廣池大佐が爆傷を負われます

▲奥に入る壕口

▲手前の広い場所が休憩室、突き当り付近が病院長室

▲病院長室から休憩室方向

▲奥は水が溜まっています
なお、6月16日、敵の急迫により見習看護婦が本部壕から移動した「大田壕」は滅失しているそうです。
沖繩陸軍病院本部壕跡碑
壕口付近に建てられており、横には説明板があります。
お花を供え傾頭、御霊安らかならん。


▲説明板
病院長・廣池文吉大佐は壕口付近におられたところ敵弾の炸裂により下肢に受傷、切断手術を受けるも翌日、散華されます。
大佐が受傷した日について元見習看護婦(ひめゆり学徒)の本村つる氏(元ひめゆり平和祈念資料館館長)の証言では“6月14日”(15日散華)とされ、ひめゆり関係はこの日を採用している様です。
一方、元沖縄陸軍病院第三外科・軍医見習士官の長田紀春氏は『閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言』では“6月18日”(19日散華)と記載され、遺構関連の報告書ではこちらを採用している様です。
ただ『沖縄作戰ニ於ケル沖縄陸軍病院史實資料』(第三十二軍残務整理部)、『日本陸軍将官辞典』などでは“6月16日”散華、すなわち受傷日は“15日”とされています。
沖繩陸軍病院之塔
沖縄戦において斃れられた沖繩陸軍病院職員、学徒、傷病将兵を慰霊すべく昭和39(1964)年1月26日に建立、平成4(1992)年6月23日に再建されました。

<主要参考文献>
『沖縄作戰ニ於ケル沖縄陸軍病院史實資料』(昭和22年3月 第三十二軍残務整理部)
『ひめゆりたちの祈り 沖縄のメッセージ』(平成5年8月 香川京子 朝日文庫)
『閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言』(平成4年6月 長田紀春 ニライ社)
沖縄の酔雲庵
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