FC2ブログ

当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

三菱重工業株式會社 京都機器製作所(第十四製作所)

右京区に所在する三菱自動車工業㈱京都製作所三菱重工業株式會社 京都機器製作所の後身になります。
同製作所は後に疎開地下工場として清瀧隧道を転用します。
三菱重工業㈱ 京都機器製作所 ア第三工場(右奥)、イ第四工場(手前) 南東から(京都太秦)
▲現在も使用されている第三工場(右奥)、第四工場(手前) 

【探索日時】
平成30(2018)年6月30日





三菱重工業㈱ 京都機器製作所について
昭和19(1944)年1月1日、航空機用発動機に欠かせない冷却式中空排気弁、同吸気弁の我が国唯一の専用製作所として設立されます。


遺構について
三菱重工業㈱ 京都機器製作所
当製作所は殆ど空襲を受けなかった事もあり、現在も三菱自動車工業㈱京都製作所に当時の巨大な工場建屋が引き継がれ使用されています。
残念ながら敷地内は一般の立入禁止、撮影禁止なので外周からの見学になります。
三菱重工業㈱ 京都機器製作所 京都機器(京都太秦)
▲遺構の配置

ア 第三工場
三菱重工業㈱ 京都機器製作所 ア第三工場 南東から(京都太秦)
▲明るく抜いた建屋が第三工場

イ 第四工場
三菱重工業㈱ 京都機器製作所 ア第三工場(右奥)、イ第四工場(手前) 南東から (2)(京都太秦)
▲明るく抜いた建屋が第四工場

三菱重工業㈱ 京都機器製作所 イ第四工場 南西から(京都太秦)
▲第四工場近影
 これが限界です・・・

ウ 第一工場
三菱重工業㈱ 京都機器製作所 ウ第一工場(鍛造) 南東から(京都太秦)
▲矢印のあたり一帯が第一工場なのですが・・・

エ 変電所
本来は3倍程の長さがありましたが、減築されています。
三菱重工業㈱ 京都機器製作所 エ 変電所 東から(京都太秦)

オ 空気圧搾室
完存していますが、外周からは全く見えません。


-疎開工場-
清瀧隧道
昭和4(1929)年、愛宕山鉄道の鳥居本-清滝間に開通、昭和19(1944)年、廃止されます。
昭和20(1945)年4月16日、京都機器製作所は空襲を受け、5月、急遽疎開を開始、廃線隧道を地下工場に転用し、120台の工作機械を設置、同月より排気弁の生産を開始します。
三菱重工業㈱ 京都機器製作所 清滝隧道 疎開工場 (2)(京都太秦)
▲北側の入口

三菱重工業㈱ 京都機器製作所 清滝隧道 疎開工場 (3)(京都太秦)
▲内部

三菱重工業㈱ 京都機器製作所 清滝隧道 疎開工場 (4)(京都太秦)
▲退避所?

三菱重工業㈱ 京都機器製作所 清滝隧道 疎開工場(京都太秦)
▲南側の入口


三菱重工業㈱ 京都機器製作所 略歴
昭和10(1935)年、三菱重工業㈱ 名古屋航空機製作所は航空機用発動機に不可欠の冷却式中空排気弁を開発、量産に入ります。

昭和12(1937)年7月7日、北支事変(9月2日、支那事変と改称)が勃発、事変の長期化、さらなる航空機需要増大が予測されるなか、名古屋航空機製作所は陸海の航空機需要に対応し、また運営合理化のため発動機部を分離独立させ航空機生産に特化すべく組織、工場の整理を計画します。

昭和13(1938)年7月1日、名古屋航空機製作所から名古屋發動機製作所(深尾淳二所長)が分離独立、後者に一貫作業の弁工場を開設し増産体制を確立します。

昭和13(1938)年9月、名古屋發動機製作所は陸軍、海軍各管理工場に指定され、11月、海軍航空本部より、次いで昭和14(1939)年6月、陸軍大臣より第一次生産能力拡充が示達されたため工場用地、生産設備を拡張し対応します。

昭和15(1940)年7月1日、発動機の品質を左右する素材の材質、供給を安定させるため、素材関連、及び冷却式中空排気弁の製作部門を分離独立、名古屋金属工業所(深尾所長兼任)を新設します(所在地は名発内)。

昭和17(1942)年、陸軍省、海軍航空本部より冷却式中空排気弁の我が国唯一の製造元として月産120,000個(14気筒発動機8,570基分)の生産能力維持が示達されます。

名古屋金属工業所は昭和16(1941)年3月、海軍航空本部より、6月、陸軍大臣より第二次生産能力拡充を示達されており、拡張の余地が無いことから、新たに京都府葛野郡太秦村の農地に新設工場用地を選定、126,000坪を買収し、昭和18(1943)年、工場建設を着工、昭和19(1944)年1月1日、未完成ながら京都機器製作所(磯崎憲二所長)が開設します。
開所時の規模は工場36,508坪、工作機械2,120台でした。

その後も工場建設を進めつつ生産に入り、昭和19(1944)年12月には排気弁80,000個/月、同吸入弁30,000個/月を量産します。

昭和20(1945)年1月15日、軍需省は三菱重工業㈱を含む重要軍需工場に対し、地下疎開工場の建設と機械設備の疎開を指示、23日、『工場緊急疎開要綱』が閣議決定され、航空機及同部品工場を最優先に分散疎開、地下施設への移転を示達、『生産強化企業再整備及工場緊急疎開ノ一体的実施機構ニ関スル件』、『臨時生産防衞対策中央本部設置ニ關スル件』を同じく閣議決定し、重要軍需工場の疎開に関して政府機構を整備し、急速且つ計画的に実行する事、そのため軍需省に臨時生産防衞対策中央本部(吉田茂軍需相が兼務)を設置します。

2月1日、防諜上の見地から三菱重工業㈱ 京都機器製作所は三菱重工業㈱ 第十四製作所に改称します。

4月16日、米B-29爆撃機少数が第十四製作所に来襲、工員2名が爆死、製作所は第二工場、倉庫、工員寄宿舎などが焼損してしまったため急遽工場疎開を計画、5月、近隣の京都御所、二条城、清凉寺(釈迦堂)、西方寺、嵯峨駅、梅小路駅、京都駅、花園駅、高雄国民学校、大将軍国民学校、山城中学校、清瀧隧道を貸借し随時疎開、周山に林間工場を計画し生産を続けるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

22日、三菱重工業㈱本店より各部所に軍需生産停止命令が示達され、應徴士・學校報國隊・女子挺身隊の勤労が解除・解散、自発退職者の対応するとともに、疎開工場より工作機械を製作所に引揚げます。

9月2日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により『一般命令 第一号』が公布、我が国の軍需生産は禁止され、生産禁止品目が発表、10月10日、我が国の航空機生産・加工が禁止され、11月18日、『航空禁止令』が公布されます。

11月15日、三菱重工業㈱本店は14ヶ所の製作所・工場を閉鎖、 3製作所・工場の合併を進めますが、京都機器製作所は航空機に直接関わる製作所では無かった事から、京都發動機製作所(第八製作所)、名古屋發動機研究所(第二製作所)と合併し新たに京都機器製作所(櫻井俊記所長)を設立、旧製作所は同製作所太秦工場となります。
同製作所は本部を桂工場(旧京都發動機製作所)に置き、同工場で貨物自動車、太秦工場で治具、一般発動機用弁の生産を開始します。

昭和21(1946)年1月20日、GHQは航空機関係15社を賠償工場に指定、2月、京都機器製作所も対象となり生産に支障が出ます。

3月20日、米第1軍団司令部は京都機器製作所の民需工場への転換と存続を許可します。

昭和24(1949)年2月、京都機器製作所の両工場は貨物自動車の製造に適しておらず、また業績の悪化から貨物自動車製造の打ち切り、及び桂工場の閉鎖、6月、太秦工場への機能集約と他社自動車用機関(エンジン)、農耕用小型発動機、排吸気弁、治具工具類の生産に縮小転換します。

昭和25(1950)年1月11日、GHQは『過度経済力集中排除法』を制定、三菱重工業㈱は東日本重工業㈱、中日本重工業㈱、西日本重工業㈱の3社に分割され、京都機器製作所は中日本重工業㈱に編入され、同社京都製作所に改組します。

昭和27(1952)年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効に伴い我が国は独立を回復、5月29日、「三菱」の商号・商標の使用を復活し、中日本重工業㈱は新三菱重工業㈱に改称、12月26日、倍賞指定が解除されます。

昭和39(1964)年6月1日、3社に分割された三菱日本重工㈱(昭和27年6月1日、東日本重工業㈱から)、新三菱重工業㈱、三菱造船㈱(昭和27年5月27日、西日本重工業㈱から)は再び合併し三菱重工業㈱となります。

昭和45(1970)年4月22日、三菱重工業㈱は米クライスラー社と合弁し、6月1日、京都製作所は東京製作所(特殊車両、建設機械、各種汎用発動機、トラック製造)、名古屋自動車製作所(乗用車(含ジープ)、小型バス、大型バスボディー、農業機械製造)、川崎自動車製作所(トラック、バス、自動車用エンジン、同部品、各種汎用発動機製造)、水島自動車製作所(乗用車、中・小型トラック、軽自動車用エンジン、同部品製造)と合併、三菱自動車工業㈱を設立し、現在に至ります。


主要参考文献
『三菱重工業株式会社史』(昭和31年 三菱重工業株式会社史編纂室 三菱重工業㈱)

『戦略爆撃調査団報告書 報告第一号 三菱重工業株式会社(機体・発動機)』

三菱自動車工業㈱に見る企業文化の形成・進化〈 前編 〉
関連記事



最後までお読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
↓↓↓
宜しかったらクリックお願いします


人気ブログランキングへ

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ
検索フォーム
正定事件の真実
戦史検定を受けよう!
当ブログは
「戦史検定」を応援します
戦史検定
カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ジャンルランキング
[ジャンルランキング]
地域情報
47位
ジャンルランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
2位
サブジャンルランキングを見る>>
月別アーカイブ
御英霊の鎮まる処
殉国の御英霊に
感謝の誠を捧げましょう
靖國神社
兵庫縣神戸護國神社
大阪護国神社
プロフィール

盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住の探索者。

明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達の足跡に触れ感じるため各地(西日本が多いです)を探索しています。
軍跡(軍事関連遺構)は当時を知る生きた教科書です。

精強帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、及び祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介しています。

戦後極端に盛られ歪められた歴史を公平に記述し、英霊の名誉回復、真の姿を知る一助になる事を目指し記述しています。


探索、記載内容など拙ブログを参照した際は参照明記のうえリンクを張って頂けたら幸甚です。
--------------
※掲載写真・資料・文章の
無断転載は禁止します。

リンク
Twitter @yuukyuunotaigi
最新コメント
埼玉西武ライオンズ
埼玉西武ライオンズ
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる