第三師團 火藥庫
名城・名古屋城の御深井丸に第三師團 火藥庫がありました。

▲名古屋城御深井丸に遺る第二弾薬庫(通称「乃木倉庫」)
【探索日時】
平成27年12月2日

<第三師團 火藥庫について>
明治6(1873)年1月9日、本丸御殿に名古屋鎭臺本営が開設、天守に第六番大隊(明治6年2月、第六大隊に改称)、御深井丸に弾薬庫が設置、14日、名古屋城全域が軍用地に指定されます。
明治7(1874)年3月20日、第六大隊は歩兵第六聯隊に改編され天守から二之丸に移転、10月28日、三之丸の旧藩士所有地のうち練兵場用地を買収したのを始め、明治8(1875)年3月9日までに全域を買収、鎭臺関係施設を整備して行きます。
明治20(1887)年11月18日、三之丸の東照宮、天王社跡に鎭臺本営庁舎が竣工、29日、落成式が挙行され本丸御殿より移転、明治21(1888)年5月14日、名古屋鎭臺は第三師團に改称します。
明治26年(1893)6月2日、本丸、西之丸東部が陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮となります。
明治29(1896)年8月28日、宮内省は陸軍省に火薬庫(弾薬庫)が離宮に近接していることから移転を打診します。
この後の経緯は不明ですが、火薬庫は名古屋東陸軍練兵場の東端に移設されます。
明治42(1909)年、御深井丸、西之丸全域が陸軍省から宮内省に移管され離宮に追加されます。
昭和5(1930)年12月11日、名古屋離宮は廃止され本丸、西之丸、御深井丸は名古屋市に下賜(宮内省から名古屋市に移管)されます。
<遺構について>
第二弾薬庫
御深井丸に第三師團 火藥庫(名古屋鎭臺 彈藥庫)時代の第二弾薬庫が遺り、平成9(1997)年、登録有形文化財に指定されます。
正確な建設年は不明ですが、明治11(1878)年頃、建設されたと言われ、乃木希典大将が少佐時代に東京鎭臺第三分營第弐心得(明治5~6年)、少将時代に歩兵第五旅團長(明治23年7月25日~明治25年2月2日)として赴任したことから、閣下にちなみ「乃木倉庫」と呼ばれています。
平屋建、切妻屋根の瓦葺きで躯体は煉瓦造漆喰塗り、屋根は木造、寸法は幅12.28×奥行8.6×高7.68mです。
昭和20(1945)年5月14日、天守、本丸御殿を焼かれた空襲に際し御殿の障壁画、天井絵などがここに収納され被災を逃れた事で知られています。

▲正面側

▲こちらは樹木が邪魔です

▲入口
庇取付用の木材が遺ります

▲西側
劣化しています

▲裏側
こちらも余り状態は良くありません

▲隅の石組み

▲床下には弾薬庫特有の換気口があります

▲床下
煉瓦積みなのが分かります

▲西側の窓
状態は良くありません

▲銅製の樋が一部遺ります

▲床側にある樋受け
<主要参考文献>
名古屋城内の展示
「弾薬庫建築に付伺」(明治11年7月)
「火薬庫等移転の件」(明治29年8月28日)
『学芸員と歩く愛知・名古屋の戦争遺跡』(平成28年4月 伊藤厚史 名古屋市教育委員会)
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▲名古屋城御深井丸に遺る第二弾薬庫(通称「乃木倉庫」)
【探索日時】
平成27年12月2日


<第三師團 火藥庫について>
明治6(1873)年1月9日、本丸御殿に名古屋鎭臺本営が開設、天守に第六番大隊(明治6年2月、第六大隊に改称)、御深井丸に弾薬庫が設置、14日、名古屋城全域が軍用地に指定されます。
明治7(1874)年3月20日、第六大隊は歩兵第六聯隊に改編され天守から二之丸に移転、10月28日、三之丸の旧藩士所有地のうち練兵場用地を買収したのを始め、明治8(1875)年3月9日までに全域を買収、鎭臺関係施設を整備して行きます。
明治20(1887)年11月18日、三之丸の東照宮、天王社跡に鎭臺本営庁舎が竣工、29日、落成式が挙行され本丸御殿より移転、明治21(1888)年5月14日、名古屋鎭臺は第三師團に改称します。
明治26年(1893)6月2日、本丸、西之丸東部が陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮となります。
明治29(1896)年8月28日、宮内省は陸軍省に火薬庫(弾薬庫)が離宮に近接していることから移転を打診します。
この後の経緯は不明ですが、火薬庫は名古屋東陸軍練兵場の東端に移設されます。
明治42(1909)年、御深井丸、西之丸全域が陸軍省から宮内省に移管され離宮に追加されます。
昭和5(1930)年12月11日、名古屋離宮は廃止され本丸、西之丸、御深井丸は名古屋市に下賜(宮内省から名古屋市に移管)されます。
<遺構について>
第二弾薬庫
御深井丸に第三師團 火藥庫(名古屋鎭臺 彈藥庫)時代の第二弾薬庫が遺り、平成9(1997)年、登録有形文化財に指定されます。
正確な建設年は不明ですが、明治11(1878)年頃、建設されたと言われ、乃木希典大将が少佐時代に東京鎭臺第三分營第弐心得(明治5~6年)、少将時代に歩兵第五旅團長(明治23年7月25日~明治25年2月2日)として赴任したことから、閣下にちなみ「乃木倉庫」と呼ばれています。
平屋建、切妻屋根の瓦葺きで躯体は煉瓦造漆喰塗り、屋根は木造、寸法は幅12.28×奥行8.6×高7.68mです。
昭和20(1945)年5月14日、天守、本丸御殿を焼かれた空襲に際し御殿の障壁画、天井絵などがここに収納され被災を逃れた事で知られています。

▲正面側

▲こちらは樹木が邪魔です

▲入口
庇取付用の木材が遺ります

▲西側
劣化しています

▲裏側
こちらも余り状態は良くありません

▲隅の石組み

▲床下には弾薬庫特有の換気口があります

▲床下
煉瓦積みなのが分かります

▲西側の窓
状態は良くありません

▲銅製の樋が一部遺ります

▲床側にある樋受け
<主要参考文献>
名古屋城内の展示
「弾薬庫建築に付伺」(明治11年7月)
「火薬庫等移転の件」(明治29年8月28日)
『学芸員と歩く愛知・名古屋の戦争遺跡』(平成28年4月 伊藤厚史 名古屋市教育委員会)
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