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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

名古屋陸軍造兵廠 千種製造所

名古屋城東方、千種(ちくさ)区に名古屋陸軍造兵廠 千種製造所がありました。
名古屋陸軍造兵廠 千種製造所 ク 塀東端 南から(愛知名古屋千種)
▲公務員住宅に遺る試射場の塀

【探索日時】
平成26(2014)年12月26日





名古屋陸軍造兵廠 千種製造所と製造品
大正9(1920)年11月20日、官設の航空機用発動機専用工場として東京砲兵工廠 名古屋機器製造所が発足、大正12(1923)年4月1日、陸軍造兵廠 名古屋工廠 千種機器製造所、昭和7(1932)年8月8日、同千種兵器製造所、昭和15(1940)年4月1日、名古屋陸軍造兵廠 千種製造所に改称します。
昭和15(1940)年4月1日、立川航空工廠の発足に伴い発動機製造部門を立川に移管、拳銃、小銃、機関銃などの小火器、車載・航空機用機関銃、同機関砲を製造します。

-発動機- ()内は生産数
サルムソン230馬力発動機(567)、BMW500馬力Ⅰ型発動機、BMW700馬力発動機、ハ-八(九四式550馬力発動機)(110)、ハ-九Ⅱ甲(九五式)800馬力発動機

-小火器-
十四年式拳銃、九四式拳銃、三八式歩兵銃、三八式騎銃、四四式騎銃、潜望小銃(九九式狙撃銃)
十一年式軽機関銃(9,871)、九六式軽機関銃、九九式軽機関銃
九二式重機関銃

-車載機関銃・機関砲-
九一式車載軽機関銃(1,009)、九二式車載機関砲、九七式車載重機関銃

-航空機用機関銃・機関砲-
八九式固定機関銃(2,821)、八九式旋回機関銃「特」(1,359)、ホ五(二式二十粍固定機関砲)、ホ一〇三(一式十二・七粍固定機関砲)、ホ五五Ⅰ型(30㎜固定機関砲)

-他-
八糎打上筒(対空用の阻塞弾)、十年式擲弾筒、八九式重擲弾筒(43,535 民間含)、三十年式銃剣、十年式擲弾筒、タテ器(二式擲弾器)、㋘油圧機器、風船爆弾

-試製-
航空機用テ3Ⅱ型機関銃、九八式旋回機関銃(ラインメタル機関銃:未完のまま停戦)、九九式小銃、九九式短小銃


遺構について
名古屋陸軍造兵廠 千種製造所
後述の様に敷地全域が学校、病院、住宅地、公園として開発されてしまい、遺構は殆ど遺されていません。
名古屋陸軍造兵廠 千種製造所 名古屋陸軍兵器補給廠・名古屋陸軍造兵廠千種製造所2(愛知名古屋千種)
▲遺構の配置

カ コンクリート塀
有名な遺構で昭和62(1987)年1月、公園内に機銃掃射痕の遺るコンクリート塀が移設されます。
説明板には「第二次大戦末期、再度の名古屋空襲」としか書かれていませんが、千種製造所が甚大な被害を受けた昭和20(1945)年4月7日の空襲に際しB-29に随伴して来襲した敵戦闘機による機銃掃射痕と思われます。
名古屋陸軍造兵廠 千種製造所 カ 塀(移設) (2)(愛知名古屋千種)
▲元々どこにあった塀か不明です

名古屋陸軍造兵廠 千種製造所 カ 塀(移設)(愛知名古屋千種)
▲裏側


キ 記念碑
昭和43(1968)年6月、元名古屋陸軍造兵廠千種製造所関係有志により建立されます。
碑文を読むと跡碑というより慰霊碑の意味合いが強い様です。
名古屋陸軍造兵廠 千種製造所 キ 千種製造所 慰霊碑(愛知名古屋千種)

名古屋陸軍造兵廠 千種製造所 キ 千種製造所 慰霊碑 (3)(愛知名古屋千種)
▲碑文


ク コンクリート塀
民有地との境に試射場のコンクリート塀が遺ります。
万が一を考慮しこの部分のみコンクリート塀になっている様です。
巷間では千種製造所の北側に隣接した「名古屋陸軍兵器補給廠の遺構」と誤分類されている事が多い遺構です。
大正14(1925)年7月22日、該地は名古屋陸軍兵器支廠、第三師團兵器部倉庫から千種兵器製造所が小火器を製造するにあたり試射場用地として移管されます。
移管当初は土塁だったため、コンクリート塀は移管後に建てられた事が分かります。
名古屋陸軍造兵廠 千種製造所 ク 塀東端 南から(愛知名古屋千種)
▲試射場から見た全景

名古屋陸軍造兵廠 千種製造所 ク 塀東端 北から(愛知名古屋千種)
▲裏側
 惜しくも白色で塗装されてしまっています

名古屋陸軍造兵廠 千種製造所 ク 塀西端 北西から(愛知名古屋千種)
▲西端


名古屋陸軍造兵廠 千種製造所 沿革
大正3(1914)年7月24日、第一次大戦が勃発、8月23日、我が国は日英同盟に則り、大正三四年戰役(第一次世界大戦)に参戦、10月31日、青島要塞攻略戦に参加、有川青島派遣航空隊(有川鷹一工兵大佐、モーリス・ファルマン4、ニューポール1、気球1機)が偵察、要地爆撃を実施しますが、ドイツ軍ルンブラーと比較し能力不足が露呈します。

陸軍省は航空戦力を充実させるべく航空先進国のフランスなどより飛行機、発動機の製造権を獲得するとともに砲兵工廠での飛行機製造を企図、名古屋を飛行機製造の拠点と位置付け、大正6(1917)年6月16日、各務原陸軍演習場(岐阜)を飛行場に転用し各務原陸軍飛行場を開場、機体製造を広大な敷地を要する東京砲兵工廠 熱田兵器製造所で、発動機を新設製造所で行う事を計画、新設製造所用地として鉄道の便が良く、熱田近傍で既に名古屋陸軍兵器支廠の所在する愛知郡千種町茂左西、茂左裏一帯の農地に選定します。

大正7(1918)年5月、測量を開始、茂左西(田9,330坪、畑10,146坪、宅地1,763:計21,239坪)、茂左裏(田6,277坪、畑27,766、宅地1,259坪、溜池35坪、原野31:計35,368坪)、高見(田83坪、畑1,296坪:計1,379坪)、池下(田300坪、畑719坪:計1,022坪)の合計59,008坪を構内299,393円(54,435坪、平均5.5円、最高7.2円、最低3円)、構外30,584円(4,573坪、平均6.7円)で買収、また用地内の家屋26軒に移転料28,600円(最高2,300円、最低200円)を支払い、10月、用地取得が完了します。

大正7年7月、飛行機・器材を輸入していたフランスから我が国政府に技術指導団派遣の提案がされ、12月、陸軍省は技術指導団の受け入れのため、臨時航空術練習委員(井上幾太郎少将)を編成、委員には操縦班(高橋勝馬工兵少佐)、射撃班(赤羽祐之工兵少佐)、偵察観測班(淺田礼三砲兵少佐)、爆撃班(赤羽祐之工兵少佐兼務)、發動機製作班(笹本菊太郎砲兵中佐)、検査班(笹本菊太郎砲兵中佐)、機体製作班(益田済工兵中佐)・気球班(益田済工兵中佐兼務)、海軍飛行艇班の8班が編成されます。

大正8(1919)年1月12日、ジャック・P・フォール砲兵大佐以下63名(57名とも)の遣日軍事航空使節団が来日、20日、所沢に来着し、8ヶ月に渡る教育指導を開始します。
当初講習は所澤陸軍飛行場と各務原陸軍演習場で受ける予定でしたが、使節団の勧告によりそれぞれ敵地に移転、千種の発動機用製造所は未完成のため、熱田兵器製造所が發動機製作班の講習地に指定されます。

笹本中佐は熱田兵器製造所長・北川正太郎中佐の協力のもと、構内南西隅、鉄道門北側の1棟を仮事務所とし教官・ベルニック中尉の指導により製造所設備を使用、3月、サルムソン230馬力発動機2基を試製します。

8月13日、新製造所は地鎮祭ののち着工、発動機工場を大倉商事㈱(現、大成建設ハウジング㈱)、変圧所を森川彌三郎、事務所・医務室・鍛工場・調質工場ほか15棟を㈱松村組、下水を東京鉄筋コンクリート㈱が担当、6月1日、所長・笹本菊太郎砲兵中佐以下職員29名が発令され、大正9(1920)年11月20日、東京砲兵工廠 名古屋機器製造所が開所、熱田より発動機製造設備一式が移設、また最新鋭の試験、測定、検査機器が備えられサルムソン発動機の製造を開始します。

大正12(1923)年4月1日、『陸軍造兵廠令』が制定され、東京・大阪の両砲兵工廠が合併し、陸軍造兵廠が発足、愛知県下の熱田兵器製造所、名古屋兵器製造所、名古屋機器製造所は統合され陸軍造兵廠 名古屋工廠に、名古屋機器製造所は陸軍造兵廠 名古屋工廠 千種機器製造所(高橋佐太郎中佐。以下「千種」と略)に改編されます。

9月1日、関東大震災が発災、陸軍造兵廠 東京工廠は甚大な被害を受け、陸軍省は復旧に多大な予算が必要なことから、製造設備を主に小倉兵器製造所へ、銃器製造は名古屋工廠と小倉兵器製造所に分散移転させます。

大正13(1924)年夏、震災復旧費により千種に各種銃器関連工場を建設、大正14(1925)年5月28日、発動機と並行し十年式擲弾筒の試製(大正11年11月、制式、製造)、6月、十四年式拳銃、7月、八糎打上筒(対空用の阻塞弾)製造を開始します。

大正14(1925)年7月22日、北側に隣接する名古屋陸軍兵器支廠、第三師團兵器部倉庫の一部を試射場用地として移管されます。

大正15(1926)年3月5日、千種で工廠W型500馬力発動機が完成(大正12年より試製)、昭和3(1928)年8月5日、製造を開始します。

昭和2(1927)年4月12日、千種機器製造所は十一年式軽機関銃の試製、陸軍航空本部計画の1,000馬力特殊発動機(スチーベル樽型発動機。昭和8年8月、中止)の試製を開始します。

昭和3(1928)年8月5日、千種は㈱川崎造船所飛行機部の協力によりBMW450馬力発動機の試製を開始、昭和4(1929)年11月、耐久試験を実施します。

昭和5(1930)年7月11日、千種で試製中の十一年式軽機関銃が完成、製造を開始します。

昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(満洲事変)が勃発、兵器の需要が増大するなか、千種に三八式歩兵銃の製造が下令されます。

昭和7(1932)年7月9日、千種は八九式重擲弾筒、九一式車載軽機関銃、8月5日、BMW500馬力Ⅰ型発動機の製造を開始します。

8月8日、千種機器製造所は千種兵器製造所に改称します。

昭和8(1933)年4月10日、千種は英ビッカース社の協力により航空機搭載用八九式固定機関銃、8月、三八式歩兵銃、11月8日、九二式車載機関砲の製造を開始します。

昭和9(1934)年1月6日、BMW700馬力発動機、2月2日、八九式旋回機関銃「特」の製造を開始します。

昭和10(1935)年1月15日、千種はハ-八(九四式550馬力発動機)の製造を開始、三八式騎銃、四四式騎銃三十年式銃剣(新着色方法の考案により防錆加工を一新し大量産化に成功)、九四式拳銃の製造、九二式重機関銃の試製に着手します(昭和14年8月28日、制式、製造)。

昭和12(1937)年4月1日、各製造所は機密保持のため工場名を従来の生産品目から番号表記(鋳工・鍛工は第一、刀工検は第二、発動機は第三、小銃・機関銃・機関砲は第四、仕上組立・研磨・着色は第五工場)に、また職工を工員、職工長を工員長、職工副長を工員副長に改称します。
7月7日、北支事変(9月2日、支那事変と改称)が発生、千種は臨時軍事費が適用され銃器工場を増設、昭和12年度の従業員3,630名が昭和15年度には12,917名に増加します。
7月、九七式車載重機関銃の試製に着手します(昭和13年2月17日、制式、製造)。

9月1日、事変拡大による兵器弾薬の需要増加に対応すべく昼夜二交代制に移行するとともに、11月、千種はハ-九Ⅱ甲(九五式)800馬力発動機、九六式軽機関銃(昭和14年1月、小倉に移管)の製造を開始します。

昭和13年度の民間協力会社は製造が中央工業、高野精密工業、神戸製鋼、大隈鉄工、島津工業、南部工業、豊和工業など、部品加工のみが34社でした。

昭和13(1938)年2月22日、千種編成の兵器修理班(石塚武雄大尉)が在満洲各部隊を視察、昭和14(1939)年8月、児井大尉(満洲)、成田大尉(第一方面軍:駐蒙)、10月、市井大尉(第十二軍:北支)、昭和15(1940)年4月、木村中尉(第一方面軍)、飯塚中尉各兵器修理班(第十二軍)を派遣します。

昭和13年4月13日、支那事変の長期化に伴う銃器の大量生産を研究すべく、陸軍造兵廠長官・永持源次中将は名古屋工廠長・木造己之蔵少将に対し『銃器多量生産ニ關スル訓令』(陸造秘第六百二號)を発令、28日、木造少将は銃器類の製造を行っていた名古屋、小倉に技術本部、造兵廠本部を加え、さらに東京帝國大学、東京工業大学、理化学研究所、㈱池貝鉄工所など大学、民間企業などから広く識者を招聘し銃器多量生産研究委員会を編成、5月29日、7月4日、27日、研究会を開催します。

昭和13年5月末、銃器多量生産研究委員会にて討議された九九式小銃・九九式短小銃(昭和14年7月15日、仮制式)、九九式軽機関銃(昭和14年7月、仮制式、製造)、陸軍航空技術研究所依頼の航空機用テ3Ⅱ型機関銃の試製を開始します。

昭和13年4月28日、銃器多量生産研究委員会は製造所の新設を決定、7月27日、第三回委員会において敷地面積、工場配置、設備などが議決され、4ヶ所の候補地を永持中将に上申、9月、愛知県春日井郡鳥居松村に選定されます。
10月15日、用地買収を公表、10月30日、用地買収を完了し、昭和14(1939)年2月12日、着工、5月1日、工具工場が竣工し千種兵器製造所鳥居松工場として発足、7月24日、鳥居松製造所に改称し開所、昭和15(1940)年6月26日、九九式小銃の生産を開始します。

11月、兵器修理班を編成し内地各師團を巡回し兵器修理を実施します。

昭和13年8月、陸軍航空本部は陸軍の航空機製造を効率化するべく集約、陸航本直轄の工廠新設を決定、11月、陸軍省軍務課の了承を得て東京都北多摩郡福島町の陸軍航空技術研究所隣接地の桑畑303,500坪を選定、予算算定とともに用地買収、工場建設を開始、昭和14(1939)年9月1日、熱田第二工場、及び千種の発動機部門により立川兵器製造所が発足し、熱田、千種の両部門は移転を開始します。
昭和15(1940)年4月1日、立川兵器製造所は立川航空工廠として開所、6月、熱田より飛行機機体、9月、千種より発動機製造部門の移転が完了、10月9日、開廠式が挙行され、九九式司令部偵察機、ハ-一三(九五式)350馬力発動機の製造を開始するとともに、ハ-一〇二1,050馬力発動機の製造準備を開始します。

昭和15(1940)年2月12日、潜望小銃(九九式狙撃銃:昭和17年5月、仮制式、製造)、九八式旋回機関銃(ラインメタル機関銃:未完のまま停戦)、試製ホ一〇三(航空機用一式十二・七粍固定機関砲)の試製を開始します(昭和17年、製造開始)。

4月1日、『陸軍兵器廠令』が公布、陸軍兵器本部、陸軍造兵廠が新設、名古屋工廠は名古屋陸軍造兵廠に改称(本部:熱田、以下「名造」と略)、千種兵器製造所は千種製造所に改称します。

昭和18(1943)年1月、ホ五(航空機用二式二十粍固定機関砲)の試製、製造を開始します。
4月、陸軍は米国が我が本土に達する長距離重爆撃機(B29爆撃機)を生産中との情報を入手、陸航本は同爆撃機を邀撃するべく三菱重工業㈱で開発中のキ八三、中島飛行機㈱で製造中の四式戦闘機に航空機用三十粍機関砲(ホ五五)の搭載を示達、同機関砲の開発をキ八三用のホ五五Ⅰ型を熱田、四式戦用の同Ⅱ型を千種に下令します。

4月、鳥居松はタテ器(二式擲弾器:対戦車擲弾「タ弾」の小銃取り付け器具)の試製ののち鳥居松、千種で製造を開始します。

昭和19(1944)年1月、今後の空襲激化が予測されるなか名古屋陸軍造兵廠は重要製造品目、小型工作機械を優先として工場疎開の計画を推進します。
4月、千種製造所はホ一〇三の製造設備を岐阜県羽島郡柳津村の呉羽紡績㈱柳津工場を借上げ疎開させます。

2月、ホ一五五Ⅰ・Ⅱ型の試製が完成し高蔵において試射を実施しますが欠陥が見つかり、対策ののちⅠ型を発動機製造により中島飛行機㈱と関係の深い千種、同Ⅱ型を機体製造で三菱重工業㈱と関係の深い熱田が製造する事に決定します。

4月、長野県編成の女子勤労挺身隊、愛知一中、市立第二高女、椙山第一高女の学徒報国隊が生産に加わります。

6月1日、千種より疎開した柳津製造所(千種所長・岩下賢蔵大佐兼務)が開所しホ一〇三の製造を開始、熱田で試製が進む㋘(空対艦熱感知式の滑空追尾弾)の油圧機器(針弁、弁筐)を製造します(昭和20年1月、一号機が完成、浜名湖上空で飛行試験を行うも電気系統が不調で良好な結果が得られず改良中に停戦)。

8月、全国各造兵廠の工務掛、工員は陸軍兵器行政本部により東京日劇ホールに招集され、2週間に渡り㋫(風船爆弾)の製造設備、製造方法、検査に関し講習を受講ののち、各造兵廠は製造設備の整備を開始、9月、製造担当者が京都歌舞練場に招集され、1月に渡り製造手順、耐圧試験、製造期間(㋫を有効的に飛ばす気象条件から11月~20年3月まで)に関した講習を受講、10月、各製造所(柳津は20年1月から)は養成工、女子傭人、同工員、同挺進隊、学校報国隊女子生徒が担当、月50個を目標に製造を開始します。

昭和19年7月7日、我が国はサイパン島、8月3日、テニアン島、11日、大宮島(グアム)を相次いで失陥、11月24日、中島飛行機㈱武蔵製作所が初めてマリアナ諸島からのB29による空襲を受け、12月18日には名古屋市東区大幸町の三菱重工業㈱發動機製作所にB29爆撃機63機が来襲、昭和20(1945)年1月3日、名古屋市街地にB29爆撃機57機が来襲、甚大な被害が発生します。

1月、刀工検を八事の三井物産㈱テニスコート跡地に疎開するとともに、ホ五の生産設備の疎開先として寒天、製材工場の点在する中央線恵那沿線、大井地区に選定し疎開計画を推進、蟹井松正大尉が疎開先の実地調査を行います。

3月24日2225、警戒警報、2252、空襲警報発令、2356、名発一帯にB-29爆撃機223機が名古屋全域に来襲(4機撃墜)、爆弾1,533tが投下され、死者1,617名、負傷者770名、被害戸数8,968戸の被害を受け、千種の試射場、呉竹寮(女子寄宿舎)が被弾し女子挺身隊員ほか29名が散華してしまいます。

4月4日、工務掛長・沖野泰司少佐、施設担当・平井剰中尉、工程担当・林要中尉は疎開先の郡長、町長、村長と会談、疎開計画を詰めます。

7日0829、警戒警報、0914、空襲警報発令、1100、B-29爆撃機151機が三菱重工業㈱名古屋發動機製作所、第三・四波は千種製造所に来襲、爆弾611tが投下され、死者302名、負傷者133名の被害を受け、千種は本館、第二工場、第三工場等が被弾、鍛工場長・濱島貫中尉以下20名が散華してしまいます。

同日、沖野少佐以下が帰名、即刻疎開に決し、10日、先遣隊(蟹井大尉以下40名)が岩村町の和泉屋旅館に疎開本部を開設、計画通り各地区の寒天工場、製材工場、映画館、公会堂、国民学校を作業場として借上げ、職員は付近の寺院、民家に分宿、大井駅付近に本部を設置し第二工場(刀工検)、第三・第四工場(機械)、第五工場(組立、試射)は逐次移転、鍛工場の重量機械移設のための基礎工事、道路整備を開始します。

各工場配置、作業場は北から
大井・・・本部、庶務課、工務課、検査課 50名
蛭川・・・刀工検 400名
長島・・・鍛造 30名(7月上旬疎開)
三郷・・・刀工検 500名
阿木・・・部品製造 500名
鶴岡・・・〃 1,500名
岩村・・・〃 500名
遠山・・・熱処理、砲身製造 900名
明智・・・付属部品製造、組立、試射 1,000名
疎開人員5,000名、工作機械5,000台

千種隊(残置)・・・工務掛員・大型鍛造設備 100名

5月1日、疎開先は恵那工場とされ、本部及び蛭川・三郷・阿木・岩村・遠山・鶴岡・明智各地區隊に編成、12日、各地區隊は第一~第七地區隊に改編、8月1日、恵那工場を「と部隊」、千種残置の研究所を「け部隊」と改称します。

6月下旬、明智隊においてホ五200門の試射が行われ、7月中旬、ホ一五五Ⅱ型10門の組立、及び試射が行われます。
千種製造所は疎開先で製造にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

停戦に伴い名古屋陸軍造兵廠は操業、復旧を停止、応徴士、学徒報國隊、女子挺身隊に賃金、退職金を支給し勤務解除します。

8月28日、大東亜戦争停戦に伴い名古屋陸軍造兵廠は大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。
9月26日、京都から米第25師団先遣隊20名が名古屋に進駐を開始、10月26日、師団主力(C.L.モラン少将)が名古屋港に入港し大和生命ビルに司令部を開設、愛知県各地に本格的な進駐を開始、名古屋陸軍造兵廠は工員宿舎・萩山寮に移転、千種製造所は米軍に接収されます。
兵器弾薬は高蔵に集積され、金属製品は大同製鋼㈱熱田工場において溶解、一部の砲弾は海中投棄、火薬類は海岸等で焼却処分されたのち、大蔵省に返還されます。

11月9日、『臨時陸軍殘務整理部令』(勅令第六百三十一號)が公布、15日、『陸軍兵器行政本部令』、『陸軍造兵廠令』は廃止され、名古屋陸軍造兵廠は陸軍造兵廠殘務整理部名古屋出張所に改称、残務整理ののち復員します。

20日、と部隊(恵那工場)は米軍に接収され、2日間かけ軍需品の処理が行われたのち、昭和21(1946)年3月、工作機械は千種製造所に再移設され、各施設は旧所有者に返還されます。

昭和21(1946)年1月20日、「ポーレー中間報告」(昭和20年11月16日、連合国賠償委員会エドウィン・ポーレーにより公表された報復的な意味合いが極めて強く、我が国の生活水準を東南アジア諸国と同一程度に抑え込む提案)により、名古屋陸軍造兵廠は賠償指定工場に指定され、生産設備は大蔵省名古屋財務局の管理下に置かれます。

昭和22(1947)年4月、GHQは中間賠償計画の3割即時取立を指令、6月、賠償実施要領を発表、7月22日、撤去準備を指令、10月、賠償対象の工作機器の梱包が行われ、逐次中華民国、東南アジアなどに出荷されます。
※賠償指定及び海外搬出は昭和23(1948)年2月26日、「第二次ストライク報告書」(海外調査団長クリフォード・ストライク)により我が国の復興に必要な設備の撤去を否定、昭和24(1949)年5月12日、「マッコイ声明」(極東委員会米国代表フランク・マッコイ少将)により中止

千種製造所は昭和20年9月29日、陸軍兵器行政本部が策定した『造兵廠施設ノ平和産業ヘノ可及的轉換計畫』に基づきミシン、医療器具製造工場への転換が計画されますが、昭和21(1946)年3月、名古屋市は『名古屋市復興計画の基本』を発表、昭和22(1947)年5月、千種製造所及び北側に隣接した名古屋陸軍兵器補給廠を合わせた千種地区全域を千種公園として整備を決定します。

一方、昭和24(1949)年5月24日、『国家公務員宿舎法』が公布され、宿舎の設置は大蔵大臣が行うものと規定されたため、各地の遊休軍用地が充当、千種製造所内の北東の一角が公務員宿舎に転用されます。

周辺の住宅地化に伴い学校、病院の需要が高まり、昭和29(1954)年、公園計画は17,500坪に縮小され、削除された土地は住宅地として払い下げられるとともに、昭和31(1956)年、南側の一角が愛知県に払い下げられ昭和33(1958)年、県立名古屋聾学校(現、県立千種聾学校)、昭和36(1961)年、南東の一角が名古屋市に払い下げられ名古屋市立振甫中学校分校(現、若水中学校)が開校、昭和32(1957)年6月、南西の一角が名古屋市に払い下げられ、市立東市民病院が開院し、現在に至ります。


主要参考文献
『名古屋陸軍造兵廠史・陸軍航空工廠史』(昭和61年12月 名古屋陸軍造兵廠史編集委員 名古屋陸軍造兵廠記念碑建立委員会)

『新修名古屋市史 第六巻』(名古屋市)

『都市計画論文集№42-1』(平成19(2007)年4月 今村洋一、西村幸夫 (社)日本都市計画学会)

「土地管轄換ノ件」(陸軍造兵廠 大正14年8月8日)
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Author:盡忠報國
大阪在住の探索者。

明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達の足跡に触れ感じるため各地(西日本が多いです)を探索しています。
軍跡(軍事関連遺構)は当時を知る生きた教科書です。

精強帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、及び祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介しています。

戦後極端に盛られ歪められた歴史を公平に記述し、英霊の名誉回復、真の姿を知る一助になる事を目指し記述しています。


探索、記載内容など拙ブログを参照した際は参照明記のうえリンクを張って頂けたら幸甚です。
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