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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所

花札の絵柄に登場する小野道風の生誕地で知られる春日井市に名古屋陸軍造兵廠 鷹来(たかき)製造所がありました。
名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ア 本館 北東から(愛知春日井)
▲名城大学農学部付属農場内に遺る鷹来製造所 本館

【探索日時】
平成28(2016)年12月3日





名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所と製造品
昭和16(1941)年5月16日、名古屋陸軍造兵廠 高蔵製造所 鷹来分工場として発足、12月1日、名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所として独立します。

鷹来製造所は九九式普通実包(7.7㎜)を製造、大戦末期には風船爆弾も製造します。


遺構について
名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所
戦後、全域が区画ごとに払い下げられ学校、工場、浄水場として開発され遺構は滅失しますが、名城大学に払い下げられた南側の一画は農学部の附属農場として転用された事もあり建物を含む下記の遺構が遺ります。
なお、農学部内は開校日に事務所で所定の手続きを行えば予約無しで見学可能です。
名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 鷹来 現在(愛知春日井)
▲遺構の配置

ア 本館
鷹来製造所の事務所、及び名古屋陸軍造兵廠会計課(熱田)分室がありました。
大東亜戦争停戦後は名城大学に貸与(のち払い下げ)され、昭和22(1947)年4月から名城大学農学部本部として使用、令和3(2021)年、内部の改修が行われました。
名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ア 本館 北西から(愛知春日井)
▲正面側全景
 植栽が邪魔で見通せません

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ア 本館 中央部(愛知春日井)
▲正面塔屋

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ア 本館 中央部 (2)(愛知春日井)
▲塔屋正面に遺る時計と陸軍の星章跡

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ア 北西から(愛知春日井)
▲正面玄関周り

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ア 本館 東から(愛知春日井)
▲東側

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ア 本館 南西から(愛知春日井)
▲裏側

-屋内-
名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ア 玄関(愛知春日井)
▲玄関

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ア 1階 (2)(愛知春日井)
▲1階廊下

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ア 1階(愛知春日井)
▲1階部屋

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ア 電灯跡(愛知春日井)
▲電灯の跡

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ア 1-2階段(愛知春日井)
▲2階への階段

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ア 2階 (2)(愛知春日井)
▲2階廊下

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ア 2階(愛知春日井)
▲2階部屋

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ア 2-3階段(愛知春日井)
▲3階への階段

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ア 3階(愛知春日井)
▲3階

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ア 屋上の偽装草地(愛知春日井)
▲屋上
 屋上は偽装のため緑地になっており、高射機関砲を据え付ける予定でした

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ア 地階部(愛知春日井)
▲地階


イ 車庫
鉄筋コンクリート製で自動車2台を収容していました。
現在は倉庫として使用されています。
名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 イ 南東から(愛知春日井)
▲正面側

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 イ 北西から(愛知春日井)
▲裏側

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 イ 内部(愛知春日井)
▲車庫部分

鷹来製造所の正門は現在の名城大学正門より50m北側にありました。


ウ 木造建物
用途不明の建物(位置的に自転車置場か?)で本来は3倍程の長さがありましたが、南側が撤去され減築されています。
名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ウ 北東から(愛知春日井)
▲正面側

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ウ 南東から(愛知春日井)
▲反対側
 側面の波板は波の幅から当時の物と思われます


エ コンクリート建物
配置図(昭和16年)には無いものの、昭和23(1948)年の空撮に写っており室内の様子から当時の建物と思われます。
この建物を紹介しているものは見たことが無いです。
名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 エ 南西から パノラマ写真(愛知春日井)

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 エ 東から(愛知春日井)
▲入口

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 エ 内部(愛知春日井)
▲室内


オ 防火水槽
車回しを兼ねた防火水槽です。
名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 オ 貯水槽(愛知春日井)


カ 換気塔
鷹来製造所は建設時に防空壕を兼ね本館と主要な施設を結ぶ地下道が設けられていました。
その地下道の換気塔かと思ったのですが、地下道と位置が違うので別物の様です。
名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 カ 換気塔?(愛知春日井)
▲全景
 高さ80㎝程度です

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 カ 換気塔? (3)(愛知春日井)
▲頂部に丸い窪みがあります

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 カ 換気塔? (2)(愛知春日井)
▲内部は竪穴になっています


キ 灯籠
この灯籠の南側に将校集会所があったので、その関連と思われます。
「昭和十七年四月」の刻字がありますが、モルタルで埋められており、竿下段にも何か刻字があった様ですが、判読できませんでした。
名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 キ 灯籠(昭和17年4月)(愛知春日井)

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 キ 灯籠(昭和17年4月) (3)(愛知春日井)


ク 建物基礎
配置図(昭和16年)には無いものの、昭和23(1948)年の空撮に建物が写っています。
名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ク 基礎(愛知春日井)


ケ 境界石標?
塀に埋まっており詳細不明です。
名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 ケ 境界石標?詳細不明(愛知春日井)


コ 「名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所跡」碑
昭和61(1986)年5月、記念碑建設委員会により建立されました。
裏面には鷹来製造所の略歴が刻字されています。
名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 コ 名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所跡(愛知春日井)


サ 側線跨道橋
鷹来製造所と東北850mの位置にあった第六工場(現、陸上自衛隊 春日井駐屯地)を結ぶ側線の跨道橋が遺ります。
側線は停戦後の「ポーレー中間報告」に基づく賠償指定、続く3割即時取立(後述)に際し撤去されフィリピンに送られました。
なお、第六工場に関し「西山分廠」や「西山分工場」、「第六分工場」などと言った記載が見られますが、正式には単に「第六工場」です。
名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 側線跨道橋(愛知春日井)
▲全景

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 側線跨道橋 (2)(愛知春日井)
▲下から

名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 側線跨道橋 (3)(愛知春日井)
▲上から


なお春日井浄水場南側の水道公園に古い門柱が2ヶ所遺りますが、この位置に鷹来製造所の門は無く、昭和44(1969)年4月、浄水場建設時に造られたものです。
因みに鷹来製造所の門は正門田楽(たらが)門北門共栄門南鉄道門八田門大手門の7ヶ所でした。


名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所 沿革
昭和13(1938)年4月13日、支那事変の長期化に伴う銃器の大量生産を研究すべく、陸軍造兵廠長官・永持源次中将は名古屋工廠長・木造己之蔵少将に対し『銃器多量生産ニ關スル訓令』(陸造秘第六百二號)を発令、28日、木造少将は銃器類の製造を行っていた名古屋、小倉に技術本部、造兵廠本部を加え、さらに東京帝國大学、東京工業大学、理化学研究所、㈱池貝鉄工所など大学、民間企業などから広く識者を招聘し銃器多量生産研究委員会を編成、5月29日、7月4日、27日、研究会を開催します。

昭和13年5月末、銃器多量生産研究委員会で討議された九九式小銃、九九式短小銃(昭和14年7月15日、仮制式)、九九式軽機関銃(昭和14年7月、仮制式、製造)、陸軍航空技術研究所依頼の航空機用テ3Ⅱ型機関銃の試製を開始します。

昭和13年4月28日、銃器多量生産研究委員会は製造所の新設を決定、7月27日、第三回委員会において敷地面積、工場配置、設備などが議決され、4ヶ所の候補地を永持中将に上申、9月、愛知県春日井郡鳥居松村に選定されます。
10月15日、用地買収を公表、10月30日、用地買収を完了し、昭和14(1939)年2月12日、着工、5月1日、工具工場が竣工し千種兵器製造所 鳥居松工場として発足、7月24日、鳥居松製造所に改称し開所、昭和15(1940)年6月26日、九九式小銃の生産を開始します。

名古屋工廠は九九式小銃(九九式短小銃、九九式軽機関銃含む)専用の製造所新設準備が進むなか、同小銃に対応する実包の製造所新設を決定、安城、蟹江、鷹来の候補から東春日井郡鷹来村の果樹園、水田、桑畑、松林260,000坪(実包工場200,000、雷管工場60,000坪)を選定します。

昭和15年1月15日、留守第三師團経理部は鷹来村村長の協力を得て新設製造所用地の地権者、小作人を長昌寺に招集、時局の推移から製造所設置の必要性を説明し所有地の売却を懇請、地権者は同日中に売却承諾書に調印し買収(宅地600~840円、田圃300~740円、畑地225~450円、山林50~60円、原野50円、池沼24円、溝渠40円、道路40円)が完了します。

工場建設は㈱大林組に発注され、同社は名古屋刑務所に収監中の囚人も加え造成工事を開始、及び鳥居松駅(現、春日井駅)から側線の敷設も並行して行われます。

昭和14(1939)年、陸軍航空本部は航空機の武装として従来の7.7粍機関銃を12.7粍機関砲への強化を決定、陸軍造兵廠は同航空機関砲、同弾薬を陸軍造兵廠火工廠 十条兵器製造所において製造を決定、同製造所が担当していた三八年式実包(6.5㎜)の製造を中止、製造設備一式を鷹来の新設製造所に移設し九九式普通実包(7.7㎜)製造に転用を決します。

昭和15年2月15日、名古屋工廠は鷹来村において土地を売却してくれた元地権者、小作人を含め工員の採用を開始するとともに、高蔵兵器製造所 第二工場(薬莢製造工程)において新製造所の幹部工員15名(長・酒井寅士郎工員)を選抜、新規採用者を加えた100名は実包製造のため1年の予定で十条において講習を受講します。

昭和15(1940)年4月1日、『陸軍兵器廠令』が公布、陸軍兵器本部、陸軍造兵廠が新設、名古屋工廠は名古屋陸軍造兵廠に改称(本部:熱田)、管下の高蔵兵器製造所は高蔵製造所に改称します。

10月1日、高蔵製造所構内の西北隅に実包製造工場(第三工場)が新設され、工場長・植村光治中尉以下職員が発令、第一工場から樋口芳太郎班長以下工員20名が転属し工作機械の据付を開始します。

16日、十条より実包製造設備が搬入され、20日、十条での受講者の一部が帰還し実包製造準備が開始されます。

昭和16(1941)年2月1日、受講者第一陣が帰還、九九式普通実包の試験製造が開始、5月下旬、受講者第二陣が帰還、5月16日、鷹来に工具工場が竣工し、高蔵製造所 鷹来分工場(新田佐五兵衛中尉)が発足します。

6月16日、高蔵第三工場、熱田、千種両製造所から40名が転属、職員及び工員の増加に伴い新製造所周辺に民間経営の下宿、食堂が建設されるとともに、定野山、北山に工員住宅の建設が開始され、12月1日、名古屋陸軍造兵廠 鷹来製造所(野村容道大佐)として独立し、九九式普通実包(7.7㎜)の本格製造(目標月産2千万発)を開始ます。

昭和17(1942)年4月1日、技能養成所養成工員第一期生(昭和15年4月入所)、8月1日、同二期生(昭和17年4月入所)が入所します。

昭和18(1943)年1月、工員増員に対応すべく住宅営団により黒福に工員住宅43棟(2戸連棟)が建設されます。

3月25日、石川、富山、岐阜、愛知、三重より国民学校高等科卒業の女子年少工員、4月1日、養成工四期生(昭和18年4月入所)が入所します。

9月、静岡県二俣高等女学校、石川県金沢同、七尾同、輪島同卒業の女子挺身隊、12月7日、応徴士(徴用工)寄宿舎「励志寮」が竣工(5月より北山に建設)、石川、富山、三重県の応徴士が入所します。

昭和19(1944)年6月、長野、新潟県の応徴士、8月3日、長野県野沢高等女学校、岩村田同、静岡県磐田同の学校報国隊、小牧中学校4、5年生、早稲田大学、明治学院大学の学校報国隊、9月、応徴士(中村区方面の花柳街の樓主)が入所します。

昭和19年8月、全国各造兵廠の工務掛、工員は陸軍兵器行政本部により東京日劇ホールに招集され、2週間に渡り㋫(風船爆弾)の製造設備、製造方法、検査に関し講習を受講ののち、各造兵廠は製造設備の整備を開始、9月、製造担当者が京都歌舞練場に招集され、1月に渡り製造手順、耐圧試験、製造期間(㋫を有効的に飛ばす気象条件から11月~20年3月まで)に関した講習を受講します。
11月、鷹来では野沢高女、岩田高女の学校報国隊から手先の器用な学徒を選抜、第二工場の2階で㋫製造を開始、昭和20(1945)年3月、製造は終了し230球を製造します。

昭和19年7月7日、我が国はサイパン島、8月3日、テニアン島、11日、大宮島(グアム)を相次いで失陥、本格的な本土空襲が予測される中、11月、鷹来製造所は疎開を計画、薬莢工場の一部を東春日井郡小牧町の塚原紡績を借上げ疎開、第三工場分工場とします。

昭和20(1945)年4月、弾丸工場の一部を岐阜県恵那郡福岡村苗木に疎開、波第八工場と呼称するとともに、構内地下道に各種工作機械を搬入し地下工場を開設します。

8月14日1230、B29爆撃機1機が鷹来に来襲、模擬原子爆弾が投下され第三工場が破壊され火災が発生しますが、本館屋上で敵機の動向を監視していた工務掛長・杉山宏少佐の機転で全員構外退避を下令したため人的被害は皆無でした。
15日、火災の消火、破壊された建屋の整理を行うなか、正午、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時の鷹来製造所従業員は所長・野村大佐以下4,151名でした。

停戦に伴い操業、復旧を停止、応徴士、学校報国隊、女子挺身隊に賃金、退職金を支給し勤務解除、20日、残務整理を開始します。

28日、名古屋陸軍造兵廠は大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。
9月26日、京都から米第25師団先遣隊20名が名古屋に進駐を開始、10月26日、師団主力(C.L.モラン少将)が名古屋港に入港し大和生命ビルに司令部を開設、愛知県各地に本格的な進駐を開始、名古屋陸軍造兵廠本部、各製造所幹部は萩山寮に移転、鷹来製造所は米軍に接収され1,300名が進駐して来ます。
※接収時期は『造兵廠史』では「昭和21年春」とあるも『新修名古屋市史』の11月1日時点での表に「鷹来1,300名」)。

兵器弾薬は高蔵製造所に集積され、金属製品は大同製鋼㈱熱田工場において溶解、一部の砲弾は海中投棄、火薬類は海岸等で焼却処分されたのち、大蔵省に返還され、疎開工場は各所有者に返還されます。

11月9日、『臨時陸軍殘務整理部令』(勅令第六百三十一號)が公布、15日、『陸軍兵器行政本部令』、『陸軍造兵廠令』は廃止され、名古屋陸軍造兵廠は陸軍造兵廠殘務整理部名古屋出張所に改称、30日、残務整理ののち復員完結します。

11月16日、連合国賠償委員会のエドウィン・ポーレーによる「ポーレー中間報告」(報復的な意味合いが極めて強く、我が国の生活水準を東南アジア諸国と同一程度に抑え込む提案)により昭和21(1946)年1月20日、名古屋陸軍造兵廠は賠償指定工場に指定され、生産設備は大蔵省名古屋財務局の管理下に置かれます。

昭和22(1947)年4月、GHQは中間賠償計画の3割即時取立を指令、6月、賠償実施要領を発表、7月22日、撤去準備を指令、10月、賠償対象の工作機器の梱包が行われ、逐次中華民国、東南アジアなどに出荷されます。
※賠償指定及び海外搬出は昭和23(1948)年2月26日、「第二次ストライク報告書」(海外調査団長クリフォード・ストライク)により我が国の復興に必要な設備の撤去を否定、昭和24(1949)年5月12日、「マッコイ声明」(極東委員会米国代表フランク・マッコイ少将)により中止

昭和25(1950)年4月、名城大学に農学部が新設、昭和26(1951)年4月、鷹来製造所南側の工場地区、北側の厚生地区計80,000坪を借用(昭和35年以降、買収)し名城大学農学部鷹来校舎が設立されます。

昭和25(1950)年9月、春日井市は市内に所在する鷹来製造所、鳥居松製造所跡地を有効活用すべく『工場設置条例』を施行、鷹来製造所跡地は名城大学(拡張用地)、林紡績㈱、東洋プライウッド㈱が競願となり、昭和38(1963)年5月10日、製造所中央の127,000坪を東洋プライウッド株式会社に売却、15日、85,000坪が東洋プライウッドから松栄商事に売却、22日、松栄商事㈱から松下電器産業㈱に売却されます。

北東一帯は名古屋市に払い下げられ、昭和42年(1967年)、名古屋市水道局第7期拡張事業として春日井浄水場が着工します(昭和44年4月、竣工)。

北西の一画は春日井市に払い下げられ、昭和50(1975)年4月1日、市立鷹来中学校が開校します。

平成15(2003)年、東洋プライウッドが撤退、平成17(2005)年、跡地東側に㈱スギ薬局ロジスティクスセンターが開設(平成28年閉鎖しPALTACに売却)、平成24(2012)年12月、東洋プライウッド跡地西側に㈱PALTAC物流センターが開設されます。

一方、第六工場跡は防衛庁に移管され、昭和30(1955)年5月14日、陸上自衛隊武器補給処西山弾薬支処が開設、昭和35(1960)年12月9日、西山弾薬支処は廃止され、昭和37(1962)年1月18日、守山駐屯地から第10偵察隊が進出し守山駐屯地分屯地が開設、昭和42(1967)年3月10日、豊川駐屯地から第10施設大隊が移駐し春日井駐屯地が開設され現在に至ります。


主要参考文献
『名古屋陸軍造兵廠史・陸軍航空工廠史』(昭和61年12月 名古屋陸軍造兵廠史編集委員 名古屋陸軍造兵廠記念碑建立委員会)

『新修名古屋市史 第六巻』(名古屋市)

『第48回国会 衆議院 大蔵委員会 第8号』(昭和40年2月)
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エ コンクリート建物!

エ コンクリート建物は知りませんでした、何度も通ったはずなのに…
参考に再訪したいと思います!
屋上も上がれたのですね、Googlemap以外で初めて見ることができました、ありがとうございます。
浄水場の門柱は戦後の通用門でしたか、訂正せねば💦
※間違えてメールホームに送ってました。

Re: エ コンクリート建物!

>空母欲奈 様
お疲れさまです!

ご参考になり何よりです!

屋上は塔屋の最上階の窓から覗いただけです(^_^;)

今の時期、構内は入れないかも知れませんが、コンクリート建物は外周からしか見通せないので大丈夫と思います!
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住の探索者。

明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達の足跡に触れ感じるため各地(西日本が多いです)を探索しています。
軍跡(軍事関連遺構)は当時を知る生きた教科書です。

精強帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、及び祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介しています。

戦後極端に盛られ歪められた歴史を公平に記述し、英霊の名誉回復、真の姿を知る一助になる事を目指し記述しています。


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