FC2ブログ

当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

舞鶴重砲兵聯隊

軍港都市として知られる舞鶴市に舞鶴重砲兵聯隊がありました。
隣接して舞鶴要塞司令部舞鶴陸軍射撃場舞鶴陸軍病院舞鶴陸軍練兵場がありました。
舞鶴重砲兵大隊聯隊 イ 第一倉庫 南から(京都舞鶴)
▲学校内に遺る舞鶴重砲兵聯隊 第一倉庫

【探索日時】
平成26(2014)年7月21日、平成31(2019)年4月12日





舞鶴重砲兵聯隊について
明治19(1886)年4月22日、我が国は軍備、特に海軍拡張を進める清国に備えるべく国内を5分し海軍区を決定、明治22(1889)年5月28日、海軍区は4区画に改められ第四海軍區鎭守府として舞鶴鎭守府設置を決定します。
舞鶴に軍港開設が決定した事で、明治24(1891)年9月、参謀本部は舞鶴湾の防御兵備(要塞)計画を立案、明治30(1897)年11月、大丹生村西方228.1高地閉鎖堡(後の葦谷砲台)を着工します。

明治29(1896)年3月14日、陸軍省は3個要塞砲兵聯隊、4個要塞砲兵大隊の増設を決定します。

明治30(1897)年7月31日、臨時陸軍建築部は餘内(あまうち)村の上安久(かみあぐ)、上安(うえやす)一帯の湿田地、官有地を要塞砲兵大隊兵営(3町9反4畝)、要塞司令部ほか(1町2反15歩)、衛戍病院(3反3畝)、射的場(1町2反5畝)、練兵場(4町3畝)用地として選定、明治31(1898)年4月、官有地を移管、民有地は内務省が坪1円20~30銭で買収し陸軍省に移管、臨時陸軍建築部の指揮のもと地元土建業者が造成、及び営舎建設を開始します。

明治30(1897)年11月、餘内村字倉谷の東山寺において舞鶴要塞砲兵大隊 第一中隊が事務を開始、明治31(1898)年11月28日、おおよそ竣工した新兵営に転営、明治33(1900)年11月24日、大隊編成が完結します。
舞鶴重砲兵大隊聯隊 舞鶴重砲兵聯隊(京都舞鶴)
▲舞鶴重砲兵大隊(聯隊時代)営門

舞鶴重砲兵大隊聯隊 オ 営門 南から(京都舞鶴)
▲現在も遺る営門と周辺

明治37(1904)年7月14日、明治三十七八年戰役(日露戦争)に際し徒歩歩兵第四聯隊 第二大隊を編成します。

明治40(1907)年10月9日、舞鶴重砲兵大隊に改称、大正9(1920)年10月28日、舞鶴重砲兵聯隊に改編、大正11(1922)年8月5日、再び舞鶴重砲兵大隊に改編、昭和11(1936)年5月30日、再び舞鶴重砲兵聯隊に改編されます。

昭和20(1945)年3月16日、獨立混成第百八旅團司令部、及び隷下の獨立歩兵第六百四十二~第六百四十七大隊同旅團工兵隊同通信隊、5月23日、獨立重砲兵第四十三大隊を編成します。

聯隊は葦谷、新井崎両砲台の配置に就き舞鶴軍港防備、及び冠島、成生両砲台、和歌山の塩津砲台の設定にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』により、舞鶴要塞司令部、舞鶴重砲兵聯隊兵営、舞鶴要塞は大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。

9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、同日、隷下の第33歩兵師団が三宮駅に到着し神戸市内の神港ビルに司令部を設置、10月1日より京都府の陸海軍施設の接収を開始、当地も接収され兵器、軍需品、砲台の処理ののち、11月、大蔵省に返還されます。
※詳細は後述


遺構について
現在、全域が学校、府営住宅、農地になっています。
舞鶴重砲兵大隊聯隊 舞鶴重砲兵大隊聯隊現在(京都舞鶴)
▲遺構の配置

① 舞鶴要塞司令部
明治33(1900)年4月21日、『要塞司令部条令』(明治28(1895)年3月30日公布)に基づき舞鶴要塞司令部の新設が下令され、6月1日、舞鶴要塞砲兵大隊に隣接して開庁します。
舞鶴重砲兵大隊聯隊 舞鶴要塞司令部(京都舞鶴)
▲舞鶴要塞司令部庁舎

舞要司令部の等級は二等(司令官:少将(大佐)1、参謀:少佐(大尉)1、副官:大(中)尉1、下士官2、軍吏1計6名)と定められ、平時は要塞の防御計画を立案、要塞備付兵器及び砲台、堡塁、軍需品の管理、戦時は立案された防御計画に基づき隷下の要塞砲兵隊及び配属部隊を指揮、海軍と共同して敵の攻撃より軍港を援護しました。
また、日常業務として軍事思想の普及、要塞地帯内の土地の変更、建造物の監視、写真撮影、地図作成の検閲を行います。

昭和20(1945)年8月16日、大東亜戦争停戦に伴い大蔵省に移管、昭和22(1947)年7月、跡地に舞鶴税務署が開庁し、昭和54(1979)年、庁舎は破壊されてしまいます。
資料によると敷地南西隅に境界石標が遺っていた様ですが、残念ながら改修工事の際に撤去され、遺構は何も遺っていないようです。
ア 「舞鶴要塞司令部跡」碑
平成4(1992)年11月に建立されます。
舞鶴重砲兵大隊聯隊 ①ア 舞鶴要塞司令部跡(京都舞鶴)


② 舞鶴重砲兵聯隊
③ 馬場
設置の経緯は上記の通りです。
停戦後、昭和20(1945)年10月21日、外征部隊の帰還に伴う日本海側の諸業務を行う山陰上陸支局が敦賀から舞鶴要塞重砲兵聯隊跡に移転し舞鶴陸地支局に改称、昭和21(1946)年3月、厚生省舞鶴引揚援護局(舞鶴海軍工廠第二造兵部跡地)に吸収され閉鎖されます。

昭和21(1946)年4月、跡地はカトリック修道女日本訪問童貞会に払い下げられ(聯隊本部、将校集会所、医務室は京都府に移管され戦災者住宅に転用)、日星高等女学校(現、日星高等学校)が開校し現在に至ります。

校内に下記の遺構が遺ります。
※施設名は『舞鶴重砲兵聯隊史』所収の配置図より
ア 第一兵器庫
レンガ基礎、木造の大型倉庫です。
当時は北側にも建屋が接していましたが撤去され、コンクリート基礎のみが遺ります。
舞鶴重砲兵大隊聯隊 ア 第一兵器庫 北東から(京都舞鶴)
▲外観全景

舞鶴重砲兵大隊聯隊 ア 第一兵器庫 内部 (2)(京都舞鶴)
▲室内

舞鶴重砲兵大隊聯隊 ア 第一兵器庫 小屋組(京都舞鶴)
▲天井の洋小屋組

舞鶴重砲兵大隊聯隊 ア 第一兵器庫 内部(京都舞鶴)
▲基礎はレンガ製

舞鶴重砲兵大隊聯隊 ア 第一兵器庫北側に延びる基礎(京都舞鶴)
▲北側に遺るコンクリート基礎

イ 第一倉庫
コンクリート基礎の木造建物です。
部屋が2室あり、東側は高床式になっています。
舞鶴重砲兵大隊聯隊 イ 第一倉庫 南から(京都舞鶴)
▲全景

舞鶴重砲兵大隊聯隊 イ 第一倉庫 南西から(京都舞鶴)
▲西側入口

舞鶴重砲兵大隊聯隊 イ 第一倉庫 南東から(京都舞鶴)
▲東側

舞鶴重砲兵大隊聯隊 イ 第一倉庫 北西から(京都舞鶴)
▲裏側

舞鶴重砲兵大隊聯隊 イ 第一倉庫裏の基礎 (2)(京都舞鶴)
▲第一倉庫裏にある基礎

舞鶴重砲兵大隊聯隊 イ 第一倉庫裏の基礎(京都舞鶴)
▲同じく別の基礎

ウ 物置
巷間では弾薬庫と言われています。
総レンガ造の建物で表に1、裏に2ヶ所扉があり、室内は個室(合計3室)になっています。
舞鶴重砲兵大隊聯隊 ウ 物置 南東から(京都舞鶴)
▲正面側

舞鶴重砲兵大隊聯隊 ウ 物置 北東から(京都舞鶴)
▲裏側

舞鶴重砲兵大隊聯隊 ウ 物置南側内部(内部は南北に仕切られる)(京都舞鶴)
▲裏側の1室

エ 便所 基礎
資料によると近年まで建物が遺っていた様です。
舞鶴重砲兵大隊聯隊 エ 便所基礎(京都舞鶴)

ク 車廠 基礎?
詳細不明です。
舞鶴重砲兵大隊聯隊 ク 車廠基礎?(京都舞鶴)

ケ 鍛工場基礎?
同じく詳細不明です。
舞鶴重砲兵大隊聯隊 ケ 鍛工場基礎?(京都舞鶴)

※上記遺構は全て高校内に遺り、見学には許可が必要です。


オ 営門
営門の門柱、両側の塀が遺ります。
当時の写真を見ると元々はレンガ造だった様ですが戦後、モルタルを塗られ白く塗装されてしまった様です。
舞鶴重砲兵大隊聯隊 オ 営門と両側の塀(京都舞鶴)
▲門柱と塀の全景

舞鶴重砲兵大隊聯隊 オ 営門 南東から(京都舞鶴)
▲門柱近影

舞鶴重砲兵大隊聯隊 オ 営門 北から(京都舞鶴)
▲校内から

舞鶴重砲兵大隊聯隊 オ 営門西側の塀(京都舞鶴)
▲塀の裏

コ 「舞鶴重砲兵連隊跡」碑
平成3(1991)年、舞重会により建立されました。
舞鶴重砲兵大隊聯隊 コ 舞鶴重砲兵大隊跡(京都舞鶴)

カ 西門
レンガ造の門柱が遺ります。
舞鶴重砲兵大隊聯隊 カ 西門 西から(京都舞鶴)
▲外から

舞鶴重砲兵大隊聯隊 カ 西門 東から(京都舞鶴)
▲校内から

サ 地下壕跡?
斜面に3ヶ所ほど窪みが見えるのですが、夏場で雑草が繁茂。及び幅の広い側溝があるため確認できませんでした。
舞鶴重砲兵大隊聯隊 サ 地下壕跡?①(京都舞鶴)

④ 舞鶴陸軍射撃場
後日紹介します。


⑤ 舞鶴陸軍練兵場
⑥ 火薬庫

通称、吉井練兵場。
新兵の基礎訓練、火砲の操砲、四五式十五糎加農砲の展開、観測通信の基礎訓練が行われます。

昭和20(1945)年11月9日、『緊急開拓事業実施要領』の閣議決定、昭和21(1946)年10月21日、『自作農特別措置法』など一連の戦後開墾法により舞鶴陸軍射撃場跡とともに農地として元地権者などに払下げられ開墾、現在はさらに京都職業能力開発短期大学校、公務員住宅、一般住宅地に転換されます。


衛戍・編成部隊
舞鶴要塞砲兵大隊
舞鶴重砲兵大隊
舞鶴重砲兵聯隊
(中部第七十一)
舞鶴要塞司令部(中部第百四十五)
明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)、東京湾、由良、下關に加え3個要塞砲兵聯隊(呉、藝豫、佐世保)、4個要塞砲兵大隊(舞鶴、函館、基隆、澎湖島)の増設を決定します。

明治30(1897)年11月、餘内村字倉谷の東山寺において舞鶴要塞砲兵大隊 第一中隊が事務を開始、第四師團隷下に編入、明治31(1898)年10月1日、第十師團に隷属転移、11月28日、おおよそ竣工した新兵営に転営します。
明治32(1899)年11月8日、大隊本部(山路通信大尉)、第一中隊、明治33(1900)年11月24日、第二中隊が編成され、大隊編成が完結、明治32、33年、二十四糎加農砲、二十八糎榴弾砲各2~4門、青銅15糎臼砲2門、明治34(1901)年、24糎速射加農砲2門が配備され訓練を開始します。

10月より明治36(1903)年10月まで、大隊は藝豫、呉、下關、佐世保各要塞砲兵聯隊とともに澎湖島要塞砲兵大隊臺灣守備隊第三混成旅團第三砲兵大隊臼砲中隊に人員を派遣します。

明治33(1900)年6月1日、大隊に隣接して舞鶴要塞司令部が開庁します。

明治28(1895)年5月14日の三国干渉以降、ロシアは露骨に満洲の領有を進め、安全保障上の驚異を感じた我が国は解決を図るべく、明治36(1903)年7月以降、ロシアと外交交渉を重ねますがロシアに交譲の誠意無く、さらに軍備を増強し武力により我が国を威嚇するに至ります。
明治37(1904)年2月2日、我が国は御前会議においてロシアとの開戦を決定、5日、舞鶴要塞に緊急戦備が下令され(明治38年10月18日、解除)、10日、我が国は宣戦布告し明治三十七八年戰役(日露戦争)が開戦します。

7月5日、舞鶴要塞砲兵大隊に徒歩歩兵第四聯隊第二大隊の動員、及び舞鶴要塞砲兵大隊の動員下令、要塞配備に就いていた第二中隊を徒歩歩兵第四聯隊に抽出した事により大隊は予備役、後備役により欠員を充足、16日、動員完結(2個中隊)し堡塁の守備を中止し砲台に戦力を集中し守備にあたります。
12月10日、新兵教育のため第三中隊を編成します(明治38年5月3日、復帰)。

明治39(1906)年3月3日、復員下令、11日、第二大隊の凱旋に伴い復員完結、平時編制に復帰します。

明治40(1907)年2月5日、鎭海湾要塞砲兵大隊が編成(大隊本部、2個中隊)され、編制の2個中隊は内地の要塞砲兵隊が1年毎に交代で派遣する事となり、初年度は藝豫、舞鶴が担当となったため、第三中隊(白井尚一大尉)134名を派遣します(明治41年5月27日、帰還)。

10月9日、軍令陸乙第三号『陸軍平時編制』改正により「要塞砲兵」は「重砲兵」に改称、舞鶴要塞砲兵大隊は舞鶴重砲兵大隊に改称します。
同改正は重砲兵旅團司令部、重砲兵6個聯隊の新設に重点が置かれたため、要塞重砲兵の戦力は削減され、舞鶴重砲兵大隊は3個中隊から2個中隊編制に改編(1個中隊152名から145名に減員)されます。

明治42(1909)年10月21日~11月3日、由良要塞において行われた特別重砲兵演習に参加します。

大正7(1918)年5月29日、『大正七年軍備充實要領』、同『細則』により重砲兵旅團司令部、重砲兵聯隊は「野戰」を冠称する事になります。
8月、野戰、要塞重砲兵は隊内を甲(要塞攻城)、乙(野戦)両隊に分離、独立させたため重砲兵の兵力は減少、2個聯隊(東京湾、由良)、9個大隊(下關、函館、舞鶴、佐世保、対馬、鎭海湾、澎湖島、旅順)になります。

11月1~8日(11月1日~6日、前段、11月2~8日、後段)、高師原陸軍演習場(豊橋)において行われた後段の砲兵特別演習に参加します。

大正9(1920)年10月28日、軍令陸乙第二十六号により下關、函館、舞鶴各重砲兵大隊は聯隊に改編、また要塞重砲兵隊は従来の要塞名から地名を冠称(東京湾要塞重砲兵聯隊→横須賀重砲兵聯隊など)することになり、舞鶴重砲兵大隊は舞鶴重砲兵聯隊に改編されます。

大正11(1922)年8月5日、第一次軍備整理が行われ要塞重砲兵は5個聯隊から3個聯隊(横須賀、下關、深山)、6個大隊から8個大隊(舞鶴、佐世保、馬山、鶏知、函館、旅順、馬公、基隆)に縮小(41個から34個中隊)され、舞鶴重砲兵聯隊は再び舞鶴重砲兵大隊に改編されます。
舞鶴重砲兵大隊は大隊本部、2個中隊(313名)編制になります。

8月9日、軍令陸第五号により舞鶴重砲兵大隊は第十六師團に隷属転移します。

昭和2(1927)年3月8日18:27、北丹後地震が発災、十二糎榴弾砲の人力輓曳行軍、及び野営準備中の大隊は大隊長以下舞鶴に帰還、救援物資を積載し出動、警備、救援活動を実施します。

昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(満洲事変)が勃発、大隊の動員は無く高射砲、照空灯により要地防空隊を編成、大阪に展開し要地防空にあたります。

昭和11(1936)年5月30日、軍令乙第十八号『陸軍平時編制』改正、同第十九号『軍備改編要領』により舞鶴重砲兵大隊は再び舞鶴重砲兵聯隊に改編されます。

昭和12(1937)年6月、聯隊所有の四五式十五糎加農砲1門を羅津要塞に差し出します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事変(9月2日、支那事変と改称)が発生しますが、舞鶴要塞に戦備は下令されませんでした。

8月、聯隊は臨時防空隊(1個中隊)を編成、阪神地区に展開、12月、高射砲第三聯隊(加古川)に任務を移譲し舞鶴に帰還します。

昭和13(1938)年7月12日、張鼓峰事件(ソ連軍による国境侵犯事件)が発生、8月2日、羅津要塞に緊急戦備が下令されます。
8月3日、留守第十六師團は年度計画に基づき聯隊より第二中隊(村中頼雄大尉)142名(八八式七糎野戰高射砲4門)を抽出し羅津に派遣、中隊は朝鮮軍司令官(中村孝太郎大将)の指揮下に編入され防空にあたり、8月20日、停戦協定成立により、10月24日、帰還します。

昭和15(1940)年7月10日、『陸軍平時編制』改正、『軍備改編要領』により聯隊の各中隊は173名から192名に増員、第一中隊は要塞重砲中隊、第二中隊は八九式十五糎加農砲中隊に改編されます。
同日、聯隊は中部軍司令部に隷属転移します。

当時、我が国は外交交渉による対米戦争回避を図りますが、11月26日、『アメリカ合衆國と日本國の間の協定で提案された基礎の概要(ハル・ノート)』の提示により米国に戦争回避の意思が無い事を認識、12月1日、御前会議において米・英国との開戦を決定、8日0130、大東亜戦争が開戦しますが、舞鶴要塞に戦備は下令されませんでした。

昭和17(1942)年3月、聯隊主力(松尾能雄大佐以下300名)は編成されたばかりで練度の低い由良要塞重砲兵聯隊(昭和16(1941)年12月20日、編成)に替わり戦備にあたるべく、由良要塞司令官・山本重應大佐の指揮下に編入され、友ヶ島、一部は加太に進出、友ヶ島各砲台の運用及び防備工事にあたり、7月、舞鶴に帰還します。

昭和19(1944)年6月、舞鶴要塞司令部は冠島砲台、成生砲台を着工、聯隊より1個小隊、舞鶴要塞司令部より軍属30名が両地に進出、設定にあたります(停戦時未完)。

10月、急迫する戦局に中部軍司令部は三重県志摩半島一帯の敵上陸に備え陣地築城を開始、聯隊は沓掛(磯部町)、国崎町、甲賀(阿児町)において八九式十五糎加農砲の火砲陣地、観測所築城を開始、昭和20(1945)年3月下旬、陣地が完成したため舞鶴に帰還します。

昭和20(1945)年1月20日、大本營は『帝國陸海軍作戰計畫大綱』を策定、決號作戰(本土決戦)に向けた作戦準備が推進され、22日、内地、臺灣、朝鮮を8軍管區に分割、それぞれに地上作戦及び防空に専念する方面軍司令部、警備や軍政に専念する軍管區司令部の設置を決定します。
1月22日、中部軍司令部は地上作戦及び防空に専念する第十五方面軍司令部(河邉正三中将)、警備や軍政に専念する中部軍管區司令部(第十五方面軍司令官が兼任)に改編され、舞鶴要塞司令部、舞鶴重砲兵聯隊は中部軍管區司令部隷下に編入されます。

5月7日、聯隊は第百四十四師團の区処下(敵上陸に際し指揮下)に編入され、23日、和歌山県海草郡塩津村に塩津陣地作業隊を派遣、十五糎加農砲4門の砲台築城を開始します。

聯隊は葦谷、新井崎両砲台の配置に就き舞鶴軍港防備、及び冠島、成生、塩津各砲台の設定にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』により、舞鶴要塞司令部、舞鶴重砲兵聯隊兵営、舞鶴要塞は大蔵省に移管されます。

停戦に伴い舞鶴要塞司令部は防備工事を中止、中部軍管區司令部の指示に従い聯隊配備の八九式十五糎加農砲は砲身を切断、野砲、高角砲とともに砲廠に格納、9月14日、司令部は司令官・米倉雄吉中佐(舞鶴要塞司令部、舞鶴重砲兵聯隊長兼務)、副官、兵器委員、聯隊は将兵の一部を残務整理、及び警備に残し司令部、聯隊は復員完結します。

9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、同日、隷下の第33歩兵師団が三宮駅に到着し神戸市内の神港ビルに司令部を設置、10月1日より京都府、兵庫県、滋賀県、福井県、石川県、富山県の陸海軍施設を接収します。

舞鶴要塞司令部、舞鶴重砲兵聯隊、舞鶴要塞も接収され軍需品、兵器を引き渡し、各砲台の備砲は米軍の指揮のもと民間労務者により爆破処分、弾薬類は海中投棄され、11月、兵器、軍需品の処理が終了したため大蔵省に返還され、24日、聯隊の残留人員が復員します。

昭和21(1946)年3月、全ての残務処理が終了し米倉中佐以下残務整理員は復員します。


徒歩歩兵第四聯隊
明治28(1895)年5月14日の三国干渉以降、ロシアは露骨に満洲の領有を進め、安全保障上の驚異を感じた我が国は解決を図るべく、明治36(1903)年7月以降、ロシアと外交交渉を重ねますがロシアに交譲の誠意無く、さらに軍備を増強し武力により我が国を威嚇するに至ります。
明治37(1904)年2月2日、我が国は御前会議においてロシアとの開戦を決定、5日、舞鶴要塞に緊急戦備が下令され、10日、我が国は宣戦布告し明治三十七八年戰役(日露戦争)が開戦します。

7月5日、大隊、廣島湾要塞砲兵聯隊に徒歩歩兵第四聯隊の動員下令、14日、聯隊本部(河井瓢大佐)、第一大隊は廣島、第二大隊(村松精少佐)は舞鶴において編成完結します。
大隊は大隊本部、3個中隊編制(769名、馬匹17頭)で各中隊は九糎臼砲6門、計18門でした。

21日、大隊は舞鶴を出発し広島に集結、27日、聯隊は第二軍(奥保鞏大将)戦闘序列に編入され、8月上旬、宇品を出航します。
露満洲軍司令官・A.クロパトキン中将は我軍の北進を拒止すべく海城を放棄、遼陽を中心に20万(火砲600門)を集結、鞍山站、首山堡一帯に陣地を築城、8月3日、我軍は海城を無血攻略します。

7日、聯隊は柳樹屯に上陸、8日、悪天候のなか海城に前進、24日、滿洲軍總司令部(大山巌大将)は遼陽攻撃を下令、聯隊は戦利加農中隊(十・五糎加農砲4)、戦利臼砲中隊(15糎臼砲4)を配属され、遼陽への前進を受領、27日、東柳河子を出発、営城子に到着します。

露満洲軍は増援集結を待ち遼陽での決戦を企図しますが、東方からの第一軍(黒木為楨大将)の急進に左翼側の危機を感じ遼陽南側に後退、大山大将は第二、第四軍(野津道貫大将)を並列し東清鉄道沿いに攻撃させ、敵右翼に戦力を集中し突破を決します。
28日、聯隊は螞蟻屯に前進、31日、第三師團に協力し首山堡南側の北大山陣地周辺の敵陣地を砲撃、9月1日0200、激戦ののち師團は北大山を攻略します。

2日、聯隊は第三師團の指揮下に編入され、西八里庄南方に前進し敵砲兵の制圧射撃を実施、3日、第二軍隷下に復帰、海城-遼陽道西側の敵堡塁、次いで王家雙子東北鉄道路東側の敵散兵、西関西南堡塁の敵機関銃陣地を砲撃、2200、敵の退却により、第三、第五、第六師團が遼陽城を攻略します。

露満洲軍は10月5日、南下を開始、遼陽付近で我軍の包囲を企図したため、大山大将は機先を制し先制攻撃に決し、10日、第二、第四軍は北上を開始します。

9月18日、聯隊は第四軍の指揮下に編入され丁家屯東南地区に陣地占領し、10月10日、第五師團の鳳凰山攻撃、15日、野砲兵第十三聯隊、戦利砲3個中隊とともに第六師團の拉木屯付近の敵陣攻撃を支援したのち、敵が退却したため聯隊は第二軍に復帰します。

19日、聯隊は第十師團に配属され前黄花甸に陣地占領し、20日、各軍は冬営に備え防御陣地を築城、沙河を挟んで露軍と対陣します。

明治38(1905)年2月24日、聯隊は第四軍戦闘序列に編入され、第一大隊は第十師團、聯隊主力(第二大隊、第一中隊)は大久保支隊(後備歩兵第三、同第十一旅團、野戰砲兵第一旅團基幹:後備歩兵第三旅團長・大久保利貞少将)に配属され魏家楼子西側高地に前進します。
27日、支隊は支隊砲兵群を編成(野戰砲兵第一旅團、聯隊主力:野戰砲兵第一旅團長・福永宗之助少将)、聯隊は後長嶺子西南陣地を占領し魏家楼子西方丘地、桑欄子付近の敵砲兵陣地(野砲90、重砲20)、敵第一線陣地を砲撃、3月6日、聯隊は第六師團に配属、7日、さらに軍直轄砲兵隊(御影池大佐)に配属され師團の韓城堡攻撃を支援、8日、師團は潰走する敵を追撃し、聯隊は飽家窪子に前進、9日、第一大隊が聯隊に復帰します。

10日、聯隊は火砲は残置し小銃編成となり第六師團左縦隊に部署され奉天東方に進撃、途中敗走する敵と遭遇戦となり師團主力とともに激戦ののち撃退(3月25日、野津中将より感状授与)、10日、第四師團が奉天に入城します。

聯隊は獨立重砲兵旅團(豊島陽蔵少将)指揮下に編入され、聯隊主力は梅家塞、第六中隊は趙家溝において戦力を快復、6月24日、送丙第百三十『野戰重砲兵第三聯隊編成要領』、第百四十号『同細則』により、7月16日、徒歩歩兵第四聯隊は現地復員完結、野戰重砲兵第三聯隊に改編されます。
聯隊編制は聯隊本部、2個大隊、弾薬大隊で、大隊は3個中隊(十二糎榴弾砲6門)でした。

5月27日、日本海海戦で聯合艦隊(東郷平八郎大将)がバルチック艦隊(ロジェストヴェンスキー中将)を撃滅、7月12日、第十三師團が樺太南部、30日、全島を攻略、8月末、韓國駐箚軍(長谷川好道大将)が元山付近まで侵攻していた露軍を撃破し朝鮮半島を勢力圏下に収めます。
9月1日、講和条約が締結され、16日、両軍は停戦、明治39(1906)年3月3日、聯隊に復員下令、聯隊は大連を出航し、宇品に入港、11日、第二大隊は舞鶴に凱旋し復員完結します。


獨立混成第百八旅團(琴一二四一一)
昭和20(1945)年3月16日、軍令陸甲第四十二号『獨立混成第百七、第百八旅團臨時動員要領』に基づき、舞鶴重砲兵聯隊に獨立混成第百八旅團司令部、及び隷下の獨立歩兵第六百四十二、第六百四十三、第六百四十四、第六百四十五、第六百四十六、第六百四十七大隊、獨立混成第百八旅團工兵隊、同通信隊の臨時編成下令(砲兵隊は大阪師管區砲兵補充隊が担当)、同日、編成完結し舞鶴港を出航、済州島に上陸し、同島の防衛にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
11月11日、済州島において復員完結します。


獨立重砲兵第四十三大隊(鉾二八三八八)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により、5月23日、軍令陸甲第八十四號『師團、獨立混成旅團等臨時動員(編制改正・称號變更)第三四七次復員(復帰)要領』に基づき、舞鶴重砲兵聯隊に獨立重砲兵第四十三大隊の編成下令、6月上旬、編成完結、大隊は第十六方面軍(岩切秀中将)戦闘序列に編入され、作戦地の宮崎県都城市の山中に前進します。

隊の編制は大隊本部、2個中隊で、第一中隊は七年式三十糎榴弾砲(長)2門、第二中隊は同砲(短)2門、人員451名で運搬手段は無く、要塞砲的な運用を予定し陣地築城(火砲は未受領)にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
10月15日、宮崎において復員完結します。


舞鶴要塞概要
明治19(1886)年4月22日、我が国は軍備、特に海軍拡張を進める清国に備えるべく勅令第二百十四号により国内を5分し海軍区を決定、明治22(1889)年5月28日、勅令第七十二号により第四海軍区鎭守府を丹後国加佐郡舞鶴(後の舞鶴鎭守府)に設置する事を決定します。
舞鶴に軍港開設が決定した事で、明治24(1891)年9月、参謀本部は舞鶴湾の防御兵備(要塞)計画を立案しますが、陸海軍省は軍戦備として要塞整備より水上戦力の拡張を優先すべく舞鶴防御兵備の着工は見送られます。

明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が勃発、戦局の進展に伴い戦後、ロシアとの対立が予測されるなか、明治28(1895)年7月、参謀本部と陸軍省は商議により従前の防御計画を改訂し、8月、御裁可を受け、9月、砲兵、工兵方面本署に下達されます。

砲、工兵方面本署は実地調査により計画の一部を修正、参謀本部は計画を改訂し陸軍省と商議、明治30(1897)年3月1日、加佐郡舞鶴町大字舞鶴北田辺に工兵第二方面舞鶴支署(大谷深造少佐)が開設され、4月、防御計画が修正、4月7日、工事着手順序、建築費、年割り額が砲、工兵方面本署に下達され、11月、大丹生村西方228.1高地閉鎖堡(後の葦谷砲台)が着工されます。
※明治30(1897)年9月15日、『工兵方面條例』は廃止、『築城部條例』(勅令第三百六号)施行に伴い、工兵方面本署の業務は築城本部に、工兵方面支署の業務は築城支部に移管(工兵第二方面舞鶴支署は築城部舞鶴支部に改編)。

明治30(1897)年11月、葦谷砲台を起工、明治31(1898)年6月、浦入(うらにゅう)砲台を起工、7月、金岬(かながみさき)砲台を起工、11月、槇山砲台を起工、明治32(1899)年2月、浦入砲台が竣工、9月、建部(たてべ)山堡塁を起工、明治33(1900)年2月、金岬砲台が竣工、7月、吉坂(きっさか)堡塁を起工、11月、槇山砲台が竣工、明治34(1901)年8月、建部山堡塁が竣工、明治35(1902)年11月、吉坂堡塁が竣工します。

竣工した砲台、堡塁から備砲を開始、明治31(1898)年11月9日、金岬に克式21加×4の備砲開始(明治33年10月10日、完工)、明治32(1899)年5月12日、葦谷に28瑠×6の備砲開始(明治33年3月30日、完工)、明治33(1900)年7月7日、槇山に15臼×4の備砲開始(9月15日、完工)、11月21日、金岬に克式25加×4の備砲開始(明治34年5月22日、完工)、明治34(1901)年4月28日、浦入に12加×4の備砲開始(9月20日、完工)、5月16日、槇山に28榴×5の備砲開始(未完)、10月18日、建部山に12加×4の備砲開始(12月7日、完工)、12月21日、吉坂に克式12加×2の備砲開始(明治35年7月31日、完工)し、明治36(1903)年11月、全砲台、堡塁の備砲が完了します。

明治32(1899)年7月14日、『要塞地帯法』(法律第百五号)が公布され、舞鶴要塞地帯が決定します。
※大正4(1915)年6月21日(法律第十七号)、昭和15(1940)年4月4日(法律第九十号)により改正、要塞地帯は大幅に拡張します。

大正元(1912)年8月1日、参謀本部は陸軍省に『要塞審査報告書』(明治42年、日露戦役における戦訓、戦術技術の進歩に鑑み、要塞の新設、改廃を研究)を提出、旧式化した要塞兵備の改訂を3期15年の計画で策定、舞鶴要塞では計画中の成生砲台の建設が中止され新井崎砲台の計画が変更されます。

大正2(1913)年4月24日、陸密第四十五号により全要塞所属の砲台、堡塁の一部廃止が下令され、舞鶴要塞では設置位置が高く、且つ後退した位置にある槇山砲台の廃止が決定します。

大正3(1914)年8月23日、大正三四年戰役(第一次世界大戦)が勃発、要塞整理は一次中断され、また戦役の戦訓により従来の戦術、戦略が大幅に変化した事から、大正6(1917)年8月、参謀本部は要塞再整理案を起案、大正8(1919)年5月15日、『要塞整理要領』を策定し、舞鶴要塞は艦載砲の長射程化に対応すべく葦谷砲台、金ヶ岬砲台の克式21加、建部山堡塁、吉坂堡塁を廃止、新たに成生(30榴長×4)、新井崎(30榴短×4)両砲台の新設が計画されます。

昭和3(1928)年4月、槇山砲台、建部山堡塁が除籍されます。

昭和8(1933)年3月11日、参謀本部は防御施設の重視、即ち敵潜水艦の侵入及び夜間における防御力の強化を図るとともに、従来想定していた敵主力艦隊との交戦は今後、発生の可能性が極めて低いことから大口径砲の備砲は不要と結論し、『要塞再整理及東京湾要塞施設復旧修正計畫要領』を策定、舞鶴要塞は成生、新井崎の両砲台計画の中止、金岬砲台の廃止が決定します。

昭和9(1934)年2月10日、ソ連極東艦隊の増強に対応すべく、機密第十五号により新井崎砲台(金岬の克式21加×4を転用)の建設が下令され、7月5日、着工、昭和11(1936)年5月20日、竣工します。

同時に機密第十五号により吉坂堡塁は廃止されます。

昭和11(1936)年12月5日の舞鶴要塞の配備は葦谷砲台(克式28榴×6)、浦入砲台(斯加式十二速加×4)、新井崎砲台(克式21加×4)でした。

昭和12(1937)年7月7日、北支事変(9月2日、支那事変と改称)が発生、昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争が開戦しますが、舞鶴要塞は立地から戦備下令を受ける事無く停戦を迎えます。

昭和19(1944)年初旬、中部軍司令官・後宮淳大将の巡視に際し、舞鶴要塞司令官・米倉雄吉中佐は射程の短い28榴を成生と冠島に配備し、舞鶴湾口を制圧する事を意見具申、大将の認可を得て、6月、舞鶴重砲兵聯隊より1個小隊、舞鶴要塞司令部より軍属30名が進出、冠島砲台、成生砲台を着工、昭和20(1945)年4月、砲台築城と並行し葦谷砲台の28榴2門づつの移設を開始します(停戦時未完)。

7月29日、大命第一〇九一号に基づき浦入砲台の速射加農砲4門は東部軍に差出しが下令され、10月13日、弘前、宇都宮両師管區に発送されます。

停戦時の舞鶴要塞司令部管下の砲台、堡塁は葦谷砲台(二十八糎榴弾砲2門)、新井崎砲台(二十一糎加農砲4門)、冠島砲台(葦谷より二十八糎榴弾砲2門を移設中)、成生砲台(〃)、浦入砲台(昭和19年10月、十二糎加農砲4門を東部軍に差出しのため備砲なし)、槇山砲台(除籍、備砲なし)、金岬砲台(除籍、備砲なし)、吉坂堡塁(備砲なし)、建部山堡塁(除籍、備砲なし)でした。


主要参考文献
『舞鶴重砲兵聯隊史』(平成7年4月 舞鶴重砲兵聯隊史編纂委員会)

『舞鶴市史 通史編 中』(昭和53年10月 舞鶴市史編さん委員会)

『新舞鶴案内』(大正12年4月 新舞鶴町役場)

「舞鶴要塞砲兵営其他敷地決定ノ件」(アジア歴史資料センター)

「舞鶴要塞砲兵営其他敷地買収ノ件」( 〃 )
関連記事



最後までお読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
↓↓↓
宜しかったらクリックお願いします


人気ブログランキングへ

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ
検索フォーム
正定事件の真実
戦史検定を受けよう!
当ブログは
「戦史検定」を応援します
戦史検定
カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ジャンルランキング
[ジャンルランキング]
地域情報
47位
ジャンルランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
2位
サブジャンルランキングを見る>>
月別アーカイブ
御英霊の鎮まる処
殉国の御英霊に
感謝の誠を捧げましょう
靖國神社
兵庫縣神戸護國神社
大阪護国神社
プロフィール

盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住の探索者。

明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達の足跡に触れ感じるため各地(西日本が多いです)を探索しています。
軍跡(軍事関連遺構)は当時を知る生きた教科書です。

精強帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、及び祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介しています。

戦後極端に盛られ歪められた歴史を公平に記述し、英霊の名誉回復、真の姿を知る一助になる事を目指し記述しています。


探索、記載内容など拙ブログを参照した際は参照明記のうえリンクを張って頂けたら幸甚です。
--------------
※掲載写真・資料・文章の
無断転載は禁止します。

リンク
Twitter @yuukyuunotaigi
最新コメント
埼玉西武ライオンズ
埼玉西武ライオンズ
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる