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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

中舞鶴憲兵分隊

軍港都市として知られる舞鶴市に中舞鶴憲兵分隊がありました。
中舞鶴憲兵分隊(分駐所) ア 門柱 南西から(舞鶴)
▲交番に遺る門柱と言われる石積

【探索日時】
平成27(2015)年7月21日





中舞鶴憲兵分隊について
憲兵は陸軍の兵科の一つで巡按、検察を管掌、軍人の違法行為を視察し行政警察、及び司法警察を兼ね内務、海軍、司法各省に兼隷し地域の治安を維持しました。
憲兵の職掌、軍紀の検察に係ることは陸海軍省に、行政警察に係ることは内務省に、司法警察に係ることは司法省に隷属しました。

明治26(1893)年4月26日、佐世保鎭守府司令長官・井上良馨中将は海軍大臣に海軍兵員を軍事警察に充当する事は海軍の養兵上得策ではなく、麾下艦隊、団隊の欠員が出ている現状に鑑み鎭守府衛兵を憲兵に変える事を上申、5月20日、6月24日、海軍大臣は陸軍大臣と協議し、8月15日、横須賀、次いで25日、佐世保に憲兵首部、同屯所が開設されます。
明治32(1899)年1月10日、『憲兵服務規程』が定められ海軍に対する憲兵の服務が規定されます。

明治29(1896)年9月、第四憲兵隊(大阪)舞鶴憲兵屯所が舞鶴町紺屋に開設、舞鶴憲兵首部(本部の意)が事務を開始(用地取得、施設建設など詳細不明)、9月27日、『憲兵隊編制表』が改正され第十憲兵隊(姫路)に隷属転移します。

明治31(1898)年6月、北田辺町に移転が決定しますが、位置的に要塞、鎭守府より遠く不適当な事から臨時陸軍建築部大阪支部は再度用地を餘内(あまうち)村餘部上(あまるべかみ)に選定、民有地を買収のうえ庁舎を建設、明治33(1900)年8月8日、舞鶴憲兵屯所は新築庁舎に移転します。

明治36(1903)年4月1日、「憲兵屯所」の名称は廃止され、舞鶴憲兵分隊に改称します。

明治40(1907)年10月7日、第十憲兵隊は姫路憲兵隊に改称、9日、『憲兵隊配置及憲兵分隊管区表』が改正され、舞鶴憲兵分隊管下に西舞鶴分遣所(加佐郡舞鶴町北田辺)が設置され、大正2(1913)年12月18日、西舞鶴分遣所は田邉分遣所に改称します。

大正7(1918)年6月1日、舞鶴憲兵分隊は新舞鶴憲兵分隊に、田邉分遣所は舞鶴分遣所に改称します。

大正15(1926)年10月1日、『憲兵隊配置及憲兵分隊管区表』が改正され、新舞鶴憲兵分隊は中舞鶴憲兵分隊に復称、京都憲兵隊に隷属転移します。

昭和4(1929)年4月17日、「分遣所」は「分遣隊」に改称します。

昭和11(1936)年8月1日、与謝郡粟田村に粟田分遣隊が新設されます(昭和12年8月2日、宮津分遣隊に改称)。

昭和12(1937)年11月1日、新舞鶴町に新舞鶴憲兵分駐所が開設、12月1日、中舞鶴憲兵分隊は新舞鶴分駐所に移転し再び新舞鶴憲兵分隊に改称、中舞鶴憲兵分隊跡地は中舞鶴憲兵分駐所に改編されます。

昭和13(1938)年8月1日、新舞鶴町、中舞鶴町、倉梯村、与保呂村、志楽村が合併、東舞鶴市が発足したことに伴い、12月1日、新舞鶴分遣隊は東舞鶴憲兵分隊に改称、管下に宮津分遣隊が新設されます。

昭和15(1940)年8月1日、『憲兵隊配置及憲兵分隊管区表』が改正され、舞鶴分遣隊は復帰します。

昭和18(1943)年11月19日、勅令第八百七十五号『憲兵令』改正により東舞鶴憲兵分隊は舞鶴憲兵隊に改編、宮津分遣隊は宮津憲兵分隊に昇格します。

昭和20(1945)年3月30日、「決號作戰」(本土決戦)に向け『憲兵令』が改正され、憲兵司令部(東京)の隷下に各軍管區を管掌する憲兵隊司令部が設置、各憲兵隊司令部の管区内に憲兵隊地区が設けられ、各憲兵隊地区毎に地區憲兵隊が設置されます。
この改編に伴い中部憲兵司令部隷下の舞鶴地區憲兵隊が編成(管下に舞鶴憲兵隊、宮津憲兵分隊)され、決號作戰に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

中舞鶴憲兵分駐所は昭和14(1939)年8月1日の『昭和十四年軍備改変要領』所収「憲兵隊配置定員表」から削除されている事から、この頃廃止され、第五十三師團経理部(京都)に移管されたと思われます。


遺構について
中舞鶴憲兵分隊
分駐所廃止後の経緯は不明ですが、他の陸軍施設同様、昭和20(1945)年8月16日、大東亜戦争停戦に伴い、28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』閣議決定により内務省を通じ大蔵省に移管された後、京都府に払い下げられ分駐所は京都府警察中舞鶴交番に、隊長官舎、厩舎は市営住宅に転用された様です。

国遷アーカイブの空撮を追うと、昭和38年まで全ての建物が遺っていますが、昭和44年には全て建て替えられており、この間に憲兵隊時代の建物は破壊された様です。
中舞鶴憲兵分隊(分駐所) 建物配置変更の件(舞鶴)
▲中舞鶴憲兵分隊 見取図

中舞鶴憲兵分隊(分駐所) 380720(舞鶴)
▲国土地理院 国土変遷アーカイブより昭和38(1963)年の空撮

中舞鶴憲兵分隊(分駐所) 現在(舞鶴)
▲遺構の配置

西側の実線部分が本来の中舞鶴憲兵分隊の敷地ですが、大正8(1919)年2月26日、第十師團経理部より陸軍省に官舎増築工事の伺いが出されており、前掲の見取図から敷地内に増築の余地が無い事から東側の点線部分を買収し官舎が建てられたと推測されます。

ア 門柱
門柱と言われていますが間隔が開き過ぎている事、BESAN様のサイト掲載の当時の写真(明治36~大正7年)に写っていない事、また間口もここまで広く無い事から門柱では無く、塀の装飾用の柱では無いでしょうか?
中舞鶴憲兵分隊(分駐所) ア 門柱 西から(舞鶴)
▲正面側全景
 写真両端の石積構造物が門柱と言われる物

中舞鶴憲兵分隊(分駐所) ア 門柱 南西から(舞鶴)
▲近影

中舞鶴憲兵分隊(分駐所) ア 門柱南側(舞鶴)
▲南側の物(裏側)
 形状も門柱にしては疑問です

中舞鶴憲兵分隊(分駐所) ア 門柱北側(舞鶴)
▲北側の物(正面側)

※交番の許可を得て撮影させて頂いています。

中舞鶴憲兵分隊(分駐所) 憲兵隊石組 南東から(舞鶴)
▲敷地南側の石組


イ 官舎基礎
増築された官舎の基礎と思われます。
現在、公園になっています。
中舞鶴憲兵分隊(分駐所) イ 官舎基礎・塀西側 北西から(舞鶴)
▲正面側は飾り柱が建てられて装飾性が高められています

中舞鶴憲兵分隊(分駐所) イ 官舎基礎 南東から(舞鶴)
▲南側の入口側
 ガラリが遺されています

中舞鶴憲兵分隊(分駐所) イ 官舎東側塀 南から(舞鶴)
▲東側のコンクリート柵柱
 北側、東側の民有地界に遺ります


主要参考文献
『舞鶴市史 通史編(中)』(昭和53年10月 舞鶴市史編さん委員会)

『日本憲兵昭和史』 (昭和44年12月 極東研究所出版会)

「舞鶴憲兵分隊建物配置変更ノ件」(アジア歴史資料センター)

「官報」

-WEBサイト-
BESANの歴史探訪
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住の探索者。

明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達の足跡に触れ感じるため各地(西日本が多いです)を探索しています。
軍跡(軍事関連遺構)は当時を知る生きた教科書です。

精強帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、及び祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介しています。

戦後極端に盛られ歪められた歴史を公平に記述し、英霊の名誉回復、真の姿を知る一助になる事を目指し記述しています。


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