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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所

妖怪伝説で知られる福崎町に大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所がありました。
B 北から 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲農道沿いに遺る裏門門柱

【探索日時】
平成27(2015)年3月11日





大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所について
昭和16(1941)年8月1日、大正陸軍飛行場大阪陸軍航空支廠が新設され、航空に関する器材、燃料等の購買、貯蔵、保存及び補給並びに航空に関する器材の廃品処分、及び修理を管掌する陸軍航空本廠隷下に編入されます。

大阪陸軍航空支廠は各務原陸軍航空支廠より航空弾薬、貯蔵及び補給を管掌する神野出張所(現、加古川市)が移管されますが、同出張所は平野にあり爆発事故、空襲に惰弱な事から、昭和16(1941)年、陸軍航空本部は留守第四師團司令部に近傍で交通の便が良く、且つ山林に囲まれ秘匿性が高く、谷地が天然の防爆土堤を形成する用地選定を示達、留守第四師團司令部は神崎郡福崎町高橋に出張所設置を決定します。
用地選定とともに留守第四師團経理部(大阪)は郡長、町長に通達ののち用地買収を実施、同部の監督のもと建設工事を着工、昭和17(1942)年中旬、地元で従業員募集が開始され、大阪陸軍航空支廠 姫路出張所が開所、航空弾薬の貯蔵、補給業務を開始します。
昭和17(1942)年10月15日、大阪陸軍航空支廠は大阪陸軍航空廠に改編、昭和18(1943)年初旬、播但線溝口駅から側線が開通(開通以前は日本通運㈱が運送)します。

昭和19(1944)年10月10日、陸軍航空廠が掌っていた航空に関する爆弾、燃料の購買、貯蔵、保存及び補給及び廃品処分を分掌し陸軍航空補給廠(東京及び大阪)が発足、姫路出張所は同廠に移管され大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所に改称します。

7月7日、我が国はサイパン島、8月3日、テニアン島、11日、大宮島(グアム)を相次いで失陥、11月24日、中島飛行機㈱武蔵製作所がマリアナ諸島からのB29により空襲されるなど本格的な本土空襲が予測されるなか陸軍航空本部は各航空補給廠に貯蔵品の疎開計画の立案を示達します。
昭和20(1945)年2月、姫路出張所は神子畑鉱山(朝来町)、生野鉱山の廃坑、三枝草(夢前町)の山中に弾薬を疎開させるとともに、留守第五十四師團(姫路)隷下部隊1,000名(2,000名とも)を主力として出張所隣接地の西谷、西治に横穴式格納壕の掘削を開始、20ヶ所ほど掘削しますが岩盤が多く進捗状況が悪かったため、桜、田口地区に変更し掘削を開始、3月下旬、20ヶ所ほどの壕が竣工とともに航空弾薬の疎開を実施、補給を続けるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、姫路出張所は空襲を受ける事無く無傷で停戦を迎えました。

28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により姫路出張所は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は我が政府に対し全陸海軍用地、施設の接収を示達して来ます。

9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、同日、隷下の第33歩兵師団が三宮駅に到着し神戸市内の神港ビルに司令部を設置、10月1日から兵庫県各地に進駐を開始、姫路出張所も接収され弾薬類の処理が行われますが、昭和21(1946)年4月26日、弾薬処理中に爆発事故が発生し米軍3名、日本人7名が爆死してしまいます。
軍需品の処理ののち姫路出張所は大蔵省に返還(接収、返還時期ともに不明)、昭和22(1947)年10月、福崎町に払い下げられ、平坦地はさらに元地権者に払い下げられ開墾されます。

昭和28(1953)年4月16日、福崎町は観光開発による雇用及び税収増大を狙い、出張所跡地に新姫バス㈱、㈱播磨造船所、富士鉄重構㈱、龍田紡績㈱、姫路合同貨物自動車㈱が推すゴルフ場誘致を議決しますが財政上の問題(当時、福崎町は新制中学3校、公営住宅建設、災害復旧などの支出が続き財政難)で断念、さらなる税収増大を狙い工場誘致を模索します。

昭和35(1960)年11月、丸紅飯田㈱の進出(養鶏場と鶏肉缶詰工場)が決定、町有地に加え民有地400,000坪を町が準備(丸紅飯田が2,000万、町税13年分を前払いで1,500万、町支出500万円)する契約を締結、昭和36(1961)年1月21日、着工しますが地価の高騰、地権者の売却拒否、悪徳業者の介在などで土地買収が難航、準備用地を320,000坪に減らし(実際246,000坪)、漸く昭和38(1963)年5月13日、丸紅飼料畜産㈱姫路畜産センターが竣工します。

昭和41(1966)年6月、センターの鶏糞不法投棄、ハエ、蚊の大量発生、悪臭など不十分な公害対策が表面化、町の杜撰な工場誘致、センターへの批判が高まる中、昭和44(1969)年12月、町は新たに工業団地計画を策定、景気の変動から当初の缶詰工場計画を放棄した丸紅飯田㈱に遊休地250,000坪の分譲を依頼、昭和45(1970)年4月28日、工業団地の造成が開始されるなか、姫路畜産センターは撤退、昭和46(1971)年2月、福崎町公害対策審議会が発足、工場誘致に公害対策が加えられ全域が新設工業団地として開発され現在に至ります。


遺構について
大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所
姫路出張所は事務所、工員休憩所、荷捌場、材料庫3、汽罐場1、火工作業場3、火薬取扱所1、弾丸手入庫1、未填薬弾丸庫4、填薬弾丸庫3、乾燥火薬庫11、官舎5棟がありました。
▲姫路出張所見取図

戦後、福崎町の工場誘致、工業団地化に伴い施設の大半が破壊されてしまいますが、僅かながら下記の遺構が遺ります。
▲遺構の配置

A 正門門柱
コンクリート製で物置の裏に北側のみ遺ります。
A 正門門柱(北側) 南東から 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲門柱全景

A 正門門柱(北側) 門札跡 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲門札跡

A 正門門柱(北側) 国旗掲揚金具 蝶番 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲国旗掲揚金具と蝶番跡


B 裏門
道路脇に両側が遺ります。
B 北から 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲全景(構外側)

B 裏門 南から 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲全景(構内側)
 蝶番が根こそぎ盗まれています

B 裏門説明 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲説明板が建てられています


C コンクリート構造物
畑の中に遺ります。
焼却炉の様に思いますが大破しており詳細不明です。
C 構造物 北西から 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲全景

C 構造物 南から 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲裏側


D 乾燥火薬庫
a 入口の踏石
コンクリート製で両側に階段があります。
Da 入口 北西から 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲苔や土、樹木に覆われ不鮮明です

Da 入口(階段側) 南から 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲階段

b 火薬庫基礎
資料では「火薬庫は強固なコンクリート製の壁」となっていますが、現状を見ると基礎のみコンクリート製で壁は木造モルタルと思われ、経年劣化で崩壊しています。
埋まっていますがコンクリート製の基礎が5列遺ります。
Db 基礎 西から (2) 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲基礎の一つ

Db 基礎 西から 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲基礎の一つ

Db 基礎 南から 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲基礎の一つ

c 石垣擁壁
外周の石垣が遺ります。
Dc 防爆石垣 北西から 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲石垣

Dc 防爆石垣 外側を巡る排水溝 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲石垣に沿って外周を廻る排水溝

d 防火水槽
Dd 貯水槽 南から 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)

e コンクリート基礎
便所でしょうか?
De 便所? 南から 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)


E 乾燥火薬庫
ガス業者のガスボンベ置場に転用されており、破損箇所をブロックで補修した跡があります。
f 基礎
Ef 北から 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲全景

Eg 近影 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲床下のガラリ

g コンクリート壁
上記 f 基礎の外周に遺ります。
Eg 南西から 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)


F 側線跡
側線は戦後直ぐに撤去されてしまい路盤も区画整理され滅失しましたが、一部が道路、空地として遺ります。
A 正門門柱(北側)南側の側線跡 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
正門付近

F 側線跡 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲路盤が農道として遺ります


G 土堤
境界土堤が遺ります。
G 土堤 南東から 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)


横穴式格納壕 (ア~ト)
昭和20(1945)年2月、留守第五十四師團隷下部隊1,000名(2,000名とも)を主力として出張所隣接地の西谷、西治に横穴式格納壕の掘削を開始、20ヶ所ほど掘削しますが岩盤が多く進捗状況が悪かったため、桜、田口地区に変更されます。
昭和26(1951)年5月、GHQ参謀部第2部の指示で復員局が調査したところ「地下壕は42ヶ所。停戦後、支保工は全て持ち去られ崩落が進み使用できる物は無い」との調査報告を行います。
西谷、西治地区で探索した17ヶ所中(上記カタカナ表記)、16ヶ所が崩落していました。
エ 格納壕
探索した中で唯一遺っていた壕です。
奥行は5mほどと短く、周辺状況から前方が崩落している様です。
エ 壕口 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲壕口

エ 内部 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)
▲内部

カ 格納壕
後端が僅かに遺ります。
カ 残存部 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)

ケ 格納壕
後端が僅かに遺ります。
ケ 壕口 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)

コ 格納壕
後端が僅かに遺ります。
コ 壕口 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)

ツ 格納壕
後端が僅かに遺ります。
ツ 内部 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)

ト 格納壕
後端が僅かに遺ります。
ト 内部 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)

ア 格納壕 崩落跡
ア 崩落跡 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)

ウ 格納壕 崩落跡
ウ 崩落跡 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)

キ 格納壕 崩落跡
キ 崩落跡 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)

サ 格納壕 崩落跡
サ 崩落跡 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)


H ポール中尉慰霊碑
昭和21(1946)年4月26日11:00頃、弾薬処理中に爆発事故が発生、指揮官コルプリー・ポール中尉ほか米兵2名、日本人労務者7名が爆死してしまいます。
昭和33(1958)年4月26日、有志、ポール中尉の遺族からの醵金により建立、昭和36(1961)年、丸紅飼料畜産㈱姫路畜産センター建設に伴い現在地に移設されます。
H ポール中尉殉職慰霊碑 大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所(大阪河内長野)

大阪陸軍航空補給廠 姫路出張所の遺構に関しては姫路市を中心にディープな場所を探索されている穴場の姫路様に御教示、及び再探索に同行させて頂きました。


主要参考文献
『福崎町史 第二巻 本文編2』(平成7年3月 福崎町史編集専門委員会)

『福崎町史 第四巻 資料編2』(平成3年8月 福崎町史編集専門委員会)

『かたりべ 第十五集』(福崎ふるさとを語りつぐ会)
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住の探索者。

明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達の足跡に触れ感じるため各地(西日本が多いです)を探索しています。
軍跡(軍事関連遺構)は当時を知る生きた教科書です。

精強帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、及び祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介しています。

戦後極端に盛られ歪められた歴史を公平に記述し、英霊の名誉回復、真の姿を知る一助になる事を目指し記述しています。


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